幸福とは何か





 訪問者は妻と数人の子どもたちを連れてやってきた。それほど豊かそうではなかったが、かなりきちんと身づくろいしていて、健康そうであった。
子どもたちはしばらくの間静かに座っていたが、やがて外に出て遊んでいるようにと言われると、さっと嬉しそうに立ち上がって戸を開けて出ていった。
父親である訪問者は官吏をしていたが、それは必要にせまられてしているだけの勤務にすぎなかった。

訪問者は「幸福とは何でしょうか。またそれが一生続かないのはなぜなのでしょうか。
私は非常に幸福と感じたことは何度かありますが、そこには絶えず悲しみがつきまとっているのです。
絶えず幸福であることができるものでしょうか」と質問した。


 幸福とは何か。自分が幸福を知るのはその瞬間から少したってからではあるまいか。
幸福とは快楽のことであろうか。そして快楽は永続させうるものであろうか。

「私にとっては少なくとも自分が思ってきた幸福について見るならば、快楽はその一部だったと思います。
私には快楽を伴わないような幸福など想像もつきません。
快楽は人間の根源的な本能であって、それを取り去ってしまったら、幸福などありうるでしょうか」

 われわれが今ここでしようとしていることは、幸福という問題への理解を深めることであり、それゆえこの探求にあたって何かを想定し、特定の意見や判断をはさんでしまっては、あまり先へ進むことができない。
人間が抱えている複雑な諸問題を探求するためには、まず最初から自由であることが肝要である。
そうでなければ、あなたは柱につながれた犬のように、ひもが許す範囲内でしか動くことができない。
しかしそれがわれわれの偽らない常の姿なのである。
われわれは実際には自らの足かせになるような様々な概念や、公式、信念あるいは経験を蓄え、そうしたものを通して物事の検証や認識を行おうとする。
しかしそうしたやり方はかえって、真に深い洞察や理解を妨げてしまうものであることは明らかである。
それゆえ、仮説を立てたり信念に頼ったりせず、自分自身のかすみのない目で物事を見るようになさることである。
幸福と快楽を同一視すれば、苦痛もまた必定である。快と苦を切り離すことはできない。
このふたつのものは常に不可分の事柄ではあるまいか。

 では快楽とは何か、幸福とは何か。
たとえばひとひらの花を調べるために、もしもその花びらをひとつひとつ取り去ってしまえば、あとには何も生きた花は残らない。
あなたの手の中には花のかけらが残るだけで、かけらをいかに寄せ集めても元の美しさは戻らない。
そのように、今われわれの当面する問いに対するには、理知的な分析を加えて物事の全体を無味乾燥で、無意味で空疎なものにしてはならないのである。
われわれは深い思いやりと理解の目、対象にふれはしてもそれを壊したりすることのない目でもって対象を見つめることが必要である。
というわけで、問題をばらばらにして手中に何も残らないような破目に陥らないようにしたいものである。
分析的な精神などは放っておくことである。

 さて快楽を助長するものは思考ではないだろうか。
思考は快楽に持続性を与え、そのような見せかけの持続性をわれわれは幸福と呼んでいるのである。
それと同様、思考は悲しみにも持続性を与える。
思考は「私はこれは好きだが、それは嫌いだ。だから好きな方を持続させて、嫌いなものは捨ててしまいたい」と言う。
しかしどちらも思考がこねあげたものなのであり、幸福は思考によってこねあげられたものになってしまったのである。
「私は幸福にひたり続けたい」とあなたが言うとき、あなたは思考そのものであり、あなたを構成しているものは自分が快楽、幸福と呼んでいる以前の経験についての記憶にほかならない。
 そのように、昨日、あるいは数多くの昨日からなる過去すなわち思考が、「私が前に感じたような幸福な状態にいつまでもいたい」と言うわけである。
あなたは死んだ過去を現在によみがえらせ、それが明日なくなるのではないかと恐れているのである。
こうして連続性の鎖が作りあげられる。この連続性は昨日の死灰に根ざしており、それは何ら生きたものではない。
死灰からは何も花開くことはできない ── そして思考こそはその死灰にほかならない。
このようにあなたは幸福を思考の枠に閉じこめ、思考を通してしか幸福に思いいたらなくなってしまったのである。
 しかし、快楽や苦痛、思考がいう幸福あるいはほかには何もないのであろうか。
思考の手が届かない祝福、恍惚の境地はないのであろうか。思考というものはまことに陳腐なもので、独自なものは何ひとつ持っていない。
このように問いつめることによって、思考は自己(我)放棄に至ることであろう。
思考が自らを放棄するとき、そこには放棄におのずから伴う規律が現れ、それが節度ある優しさとなる。
そのとき禁欲は粗暴で冷酷なものではなくなる。粗野な禁欲は快楽や放縦に対する反発としての、思考の産物である。
 思考が自らの危険性にはっきりと気づき、それによって自ら行う深い自己放棄から、精神はその全構造もろとも静かになる。
それは純粋に注意力だけになった状態であり、そのような状態から言葉に表せない祝福、純粋な喜びが生れてくる。
しかしそれを言葉にしてしまえば、もはやそれは真実ではなくなる。
クリシュナムルティ































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