H28.12.4


  愛というものについて



 愛について(仏教でいう愛とはたいてい渇愛の方の意味の愛ですが、下記文章の愛は、渇愛の愛とは意味が異なります。
)の文章ですが、下記の場合の愛は、どこの宗教でも(善い行いをするという意味では)同じような感じであると思います。
〔ここで言う『渇愛の愛とは意味が異なる』というのは、無欲の愛という意味において、その愛が八正道から外れていれば渇愛となる。例えば、自らの欲念のためにする祈願等は、無欲の愛ということはありえず渇愛という。〕

 他人に善い事柄をすれば、回りまわって自らに善い事柄として返ってくるし、 悪い事柄も同じく。

 善業も悪業も長い劫期を経ても消えずに、いずれは自らのところにもどってくる。
という(仏教でいう道理)見解から見ると理解しやすいと思います。

 そうすると、全ての人が自己を愛する(正しい行いをする)と、他の人をもおのずと愛することになります。
なぜなら、他人に善い事をすれば、自分にも返ってくるし、
悪行をしても自分に返ってくるので、悪行をしないようになる。

 『(悪行をなして)悪の報いが実らない間は、愚者はそれを当然(その業が返ってくると思ってない)のことだと考える。
  しかし、悪の報いの実ったときに、愚者は苦悩を受ける。』


 仏教でいう業(行い)というものは、(私は)神道の大祓いのようにどこかへ
(持ち去る)消え去るようなものではないです。


 ちなみに、仏教にも善神霊の話は多数あります。

 例えば、欲を滅する道(苦しみを滅する方法)(解脱)を悟ったのが仏陀で、世界の主(仏典では)の梵天のような神霊にも死(苦しみ)があり、他にもたくさん道理(真理)を悟ってないで(解脱できずに)輪廻流転を繰り返している人々がいるので、仏陀に懇請するにいたっている次第です。


 『他の人々が快いと言うものを聖者たちは苦しみと語る。

  他の人々が苦しみ と言うものを聖者たちは安楽と知る。

  この理解しがたい(欲が苦しみであるという)道理に目をすえなさい。

  目の利かない者たちはこの点に迷う。』





  愛する者

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、コーサラ国の王のパセーナディは、世尊を訪れ、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 
傍らに坐したコーサラ国の王パセーナディは、世尊に申し上げた、
「世尊よ、わたしは独り静かに坐して思索している時、かようなことを考えました。
 ”いったい、いかなる者が本当に自己を愛するのであろうか。
  また、いかなる者は真に自己を愛してはいないのであろうか”と。

世尊よ、そして、わたしはこのように考えました、
”なに人であろうと、その身によりて悪行をなし、その口によりて悪語をいだし、その意において悪事を思わば、それらの人は真に自己を愛する者ではあるまい。

 たとい彼らが「自己はわが愛するところである」といったとしても、彼らは真に自己を愛する者ではないのである。

 なんとなれば、彼らは、愛せざるものが愛せざる者にたいしてなすことを、彼ら自らにたいしてなしているからである。
だから、彼らはけっして自己を愛する者ではないのである。

 また、何人であろうとも、その身によりて善行をなし、その口によりて善語をかたり、その意において善事を思わば、それらの人は本当に自己を愛する者であろう。

 たとい彼らが「自己はわが愛するところにあらず」といったとしても、彼らは本当に自己を愛する者なのである。

 なんとなれば、彼らは、愛する者が愛する者にたいしてなすことを、彼ら自らにたいしてなしているからである。

 だから、彼らは本当に自己を愛する者なのである」

「大王よ、そのとおりである。大王よ、そのとおりである。

 なに人であろうとも、その身・口・意によって悪業をなすものは、真に自己を愛する者ではない。

 なに人であろうとも、その身・口・意によって善業をなすものは、真に自己を 愛する者である」

世尊はそのように仰せられた。そして、かさねて偈を説いていった、
「自らを愛すべき者と知らば、自らを悪に結ぶなかれ、けだし、悪しき行ないをなす人には安楽は得がたきものなればである。

 すでに死魔のとりことなってやがて生命を捨つべき人には、もはや何物か彼のものたらん。

 何を持ちてか彼は行かんとする。

 ただ善業と悪業との二つは、人がこの世において作りしもの。

 人がこの世において作りしもの、それこそは彼自らのものにして、それを持ちて彼は行くのである。

 影のかたちにそうがごとく、この二つは彼に従うのである

 されば、人はただ善業をなして未来のために積むがよろしい。

 功徳こそは後の世における、人々の渡場であるからである」                   
    
相応部経典 三、四、愛者





世間的な見地からも同様に、

【「この自分が可愛いということは他の人々にとってもそれぞれ同様である。

 だから、自分を愛するものは他を傷つけてはならない」】



  王

 このように私は聞いた。
 あるとき、世尊はサーヴァッティ市外のジャータ林のアナータピンディカ長者の園におられた。
 さてそのとき、コーサラ国王パセーナディはマッリカー妃とともに王宮のテラスに登っていた。

コーサラ国王パセーナディはマッリカー妃に言った、
「マッリカーよ、そなたには自分よりも可愛いものが何か他にあるか」

「大王さま、私には自分より可愛いものは他にございません。それでは大王さまはいかがでございますか」

「マッリカーよ、私にも自分より可愛いものは他に何もない」

 そこで、コーサラ国王パセーナディはテラスから下りて世尊のもとへ行き、世尊に敬礼してかたわらに坐った。

かたわらに坐ったコーサラ国王パセーナディは世尊に申し上げた、
「師よ、私はマッリカー妃と王宮のテラスに登り、マッリカー妃に『マッリカーよ、そなたには自分よりも可愛いものが何か他にあるか』と言いました。

このように言うとマッリカー妃は、
『大王さま、私には自分より可愛いものは他に何もございません。それでは大王さまはいかがでございますか』と私に言いました。
師よ、こう言われて私はマッリカー妃にこう答えたのです、
『マッリカー妃よ、私にも自分より可愛いものは他に何もない』と」

 ときに、世尊はそのことを知って、そのときこのウダーナを唱えられた、

 心して至るところを遍歴したが、どこにも自分よりも可愛いものには出会わなかった。
 この自分が可愛いということは他の人々にとってもそれぞれ同様である。

 だから、自分を愛するものは他を傷つけてはならない、と。

ソーナ長老の章 ウダーナ































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