更訂 H28.12.4


  梵天の懇請



  仏陀の説く法を知らなければ、神々も輪廻の輪(苦しみ)から抜けることはできません。

  仏陀はさとりを得てまもないとき、法を説くことに心が傾きませんでした。

  それは何故か。





  梵天の懇請

 このようにわたくしは聞きました。
 あるとき世尊はウルヴェーラーのネーランジャラー河の岸辺、アジャパーラ榕樹のもとに留まっておられた。
正しいさとりを得られてまもないときのことであった。

そのとき、世尊は一人坐して静慮しておられたが、心のうちに次のような考えが起こった、
”わたくしの証り得たこの法(真理)は、深遠で、見難く、難解にして、静寂であり、卓越していて、思考の領域を超える。微妙であり、ただ賢者のみよくそれを知ることができる。

 ところがこの世間の人々は執着のこだわり(五つの感覚器官の対象、眼に色形、耳に音声、鼻に香、舌に味、身に触)を楽しみとし、執着のこだわりを悦び、それらの執着を嬉しがっている。

 それらの執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、それらの執着を嬉しがっている人には、〈これを条件としてそれがあるという(全てのものには原因があって、結果があるという)〉縁起という道理は見難い。

またすべての形成作用(存在)のしずまること、すべての執着を捨て去ること、渇愛(渇欲)の消滅すること、貪欲を離れること、煩悩の消滅すること、止滅、それは完全なやすらぎ(涅槃・ニッバーナ)であるというこの道理も理解しがたい。

 もしわたしがこの理法(教え)を説いたとしても、世の人々がわたしのいうことを理解できなければ、わたしに疲労があり、憂慮があるだけであろう”と。

そして、いまだかつて聞かれたことのないすばらしい詩句が世尊の心に顕れた、

”わたしが苦労してさとり得たものを、いま人に説いて何の得るところがあろう。
 貪欲と憎しみとにとり憑かれ、うち負かされた人々が、この法をさとるのは容易ではない。
 常識の流れに逆らい、精妙で、深遠で、理解しがたい、微妙、微細なこの法を、貪欲に汚され幾重にも無智の暗闇に覆われている人々は見ることができない”

 世尊はこのように考えられて、その心は進んで説法する方にではなく、退いて静観するほうに傾いた。


そのとき、この世界の主・梵天は世尊の心中の考えを知って、こう思った、
”ああ、この世は滅びる。ああ、この世は滅亡する。いまやまったく、如来(多陀阿伽陀)・應供(阿羅霸)・等正覚(讃摩讃佛陀)の心は、進んで説法する方にではなく、退いて静観するほうに傾いている”と。

 そこで世界の主・梵天は、たとえば力ある男が曲げた臂を伸ばし、伸ばした臂を曲げるのと同様な速さで、梵天界から姿を消して、世尊の前方に姿をあらわした。

世界の主・梵天は上衣を一方の肩にかけ、右の膝を地につけ、世尊のほうへ向かって合掌・敬礼して言った、
「尊い方よ、法(真理)をお説きください。善き人よ、法をお説きください。
 この世にはその目があまり塵に汚されていない人々もおります。
 彼らは法を聞かなければ衰退していきますが、〔聞けば〕やがて真理をさとるものとなるでしょう」

 世界の主・梵天はそのように言った。

そのように言って、さらに次のように述べた、
「かつてマガダの人々の間にあらわれたのは、心浄からぬ人々の思考した不浄の法でした。
 願わくは、いまあなたは不死(涅槃)を得るための門をお開きください。心浄き人によってさとられた法をお聞かせください。

 譬えば、山の頂きの岩の上に立って、周囲の人間を見わたすように、賢者よ、広く見わたす眼のあるお方よ、悲しみ・憂いをこえたあなたは、法より成る楼閣の上に立ち、悲しみ・憂いに沈み、生と老いとにおしひしがれた人々をご覧ください。

 立ち上がってください。英雄よ、戦の勝利者よ、隊商の主よ、負債なき人よ、世間を遊行してください。
 世尊よ、法をお説きください。法(真理)をさとる者もいるでしょう。」

 そのとき、世尊は世界の主・梵天の懇請を知るとともに、生きとし生けるものへのあわれみから、さとった人の眼をもって世界を観察された。

 世尊はさとった人の眼をもって世界を観察されると、世の中には、知恵の眼が煩悩の塵に汚れていない者もあり、酷く汚れている者もある。生まれつき資質のすぐれた者もあり、素質の劣った者もある。善い性質の者もあり、悪い性質の者もある。教えやすい者もあり、教えにくいものもある。
 また、来世に生まれて苦を受けねばならぬおのれの罪業についておそれを知りつつ暮らしている者たちもある、ということを見られた。

 譬えば、青蓮華の池や黄蓮華の池や白蓮華の池の中にあって、
ある青蓮華・黄(赤)蓮華・白蓮華は水中で生え、水中で伸び、水面に出ないで、水中に沈んだまま繁茂する。
ある青蓮華・黄蓮華・白蓮華は水中で生え、水中で伸び、水面と等しいところまで伸びてとどまっている。
ある青蓮華・黄蓮華・白蓮華は水中で生え、水中で伸び、水面より上に出て、水に濡れないで立っている。

 ちょうどそのように、世尊はさとった人の眼によって世界を観察されると、衆生の中には、知恵の眼が煩悩の塵に汚れていない者もあり、酷く汚れている者もある。生まれつき素質のすぐれた者もあり、素質の劣った者もある。善い性質の者もあり、悪い性質の者もある。教えやすい者もあり、教えにくいものもある。また、来世に生まれて苦を受けねばならぬおのれの罪業についておそれを知りつつ暮らしている者たちもある、ということを見られた。

このように見られてから世尊は、世界の主・梵天に次の詩をもって答えられた、

「不死(涅槃)を得るための門はひらかれた。耳をもつ者は、聞いておのれの盲信をすてよ。

 世界の主・梵天よ、わたしがこのすぐれた卓越した法を人々のために説かなかったのは、それが人々を害するであろうかと案じてであった」

 そのとき、世界の主・梵天は、世尊の説法のためのきっかけをつくることができたと考えて、世尊に敬礼し、その周りを右まわりにまわって、その場から姿を消した。





【〔 盲信 〕ヴェーダ(圍陀)以来の祭祀・教学に対する信仰のこと
  信仰を意味する原語はいろいろあるが、saddha-(信仰)というのは、仏陀の説いた理法の教えに対する信仰を意味するのであって、個人に対する狂熱的服従ではない。】



 ちなみに、仏陀が法を説くにあたってその行いは、譬えば、新興宗教の教祖のような、自らの教えを布教をするという欲ではないのか。という疑問が生じなくもないかもしれませんが、上記のように、梵天の懇請により、そして、生きとし生けるものへのあわれみから法を説きはじめられるのです。(諸々の衆生のためにも、諸々の仏陀が梵天の懇請を受けるというのは正しい流れという事柄にもよる。)
そのような欲ではないです

また、仏陀や阿羅伽の聖者方にそのような”我欲”はありません。
  































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