更訂 H29.4.16



  八聖道について



 『比丘たちよ、八聖道を修習し、多修せば、”七種三十七修習(法)”〔三十七菩提分法〕を修習円満する』





  八正道

 このようにわたくしは聞きました。
 ある時、世尊は、サーヴァッテー(舎衛城)の、ジェータ(祗陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は、もろもろの比丘たちに告げていった、
「比丘たちよ、いま私は汝らのために清浄なる八支の道を説こうと思う。ひとつ、それを汝らのために分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。そして、それを聞いてよく善思しなさい。では、私は説こう」

「大徳よ、かしこまりました」と、彼ら比丘たちは世尊にこたえた。

世尊はこのように仰せられた、
「比丘たちよ、いかなるをか清浄なる八支の道というのであろうか。
いわく、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
 
比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、

 苦なるものを知ること、
 苦の生起を知ること、
 苦を滅することを知ること、
 苦の滅尽にいたる道を知ること、

 比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。


比丘たちよ、いかなるをか正思というのであろうか。比丘たちよ、

 迷いの世間を離れたい[出離]と思うこと、([在家者は、]出家者の八聖者(預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅伽向・阿羅伽果)の境地(解脱・涅槃)を志し、(貪)欲〔渇愛・貪り・妄執〕を捨て去ろうと思うこと、)
 悪意(瞋恚〔怒り・憎しみ・怨み〕)を抱くことから免れたいと思うこと、
 他者を害することなからんと思うこと、

 比丘たちよ、これを名づけて正思というのである。


比丘たちよ、いかなるをか正語というのであろうか。比丘たちよ、

〔嘘言(妄語)の捨離〕 偽りの言葉を離れること、
〔離間語(中傷語・両舌)の捨離〕 中傷する言葉(陰口、相互の和合を破る二枚舌)を離れること、
〔粗悪語(粗暴語)の捨離〕 粗悪な言葉(荒々しい言葉、罵って人を悩ます言葉)を離れること、
〔綺語(雑穢語)の捨離〕 真実(道理)に背く、巧みに飾った言葉(卑猥な冗談、悪い意味の冗談、汚れた心から発せられた言葉、不要の無駄話に耽ること)を離れること、

 比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。


比丘たちよ、いかなるをか正業というのであろうか。比丘たちよ、

 殺生を離れること、
 与えられざるを取らざること、
 清浄ならぬ行為〔欲邪行〕を離れること、

 比丘たちよ、これをなづけて正業というのである。


比丘たちよ、いかなるをか正命というのであろうか。比丘たちよ、

 ここに一人の清浄なる弟子があり、よこしま〔邪〕の生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる、([在家者は、]四邪語〔嘘言・離間語・粗悪語・綺語〕と、三邪業〔殺生・盗み・邪淫〕の、身・語の邪行を離れて、正道に依りて(生活・生)命を清浄ならしむこと、)

 比丘たちよ、その時、これを名づけて正命というのである。


比丘たちよ、いかなるをか正精進というのであろう。比丘たちよ、

 ここに一人の比丘があり、いまだ生ぜざる悪しきこと・不善は生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。
 あるいは、すでに生じた悪しきこと・不善を断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。
 また、いまだ生ぜざる善きことを生ぜしめんがために志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。
 あるいはまた、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。

 比丘たちよ、その時、これを名づけて正精進というのである。


比丘たちよ、いかなるをか正念というのであろうか。比丘たちよ、

〔身念処〕 ここに一人の比丘があって、わが身において身体というものをこまかく観察する。
熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。
〔受念処〕 また、わが感覚(感受)において感覚(感受)というものをこまかく観察する。
熱心によく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。
〔心念処〕 あるいはわが心において心というものをこまかく観察する。
熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。
〔法念処〕 あるいはまた、この存在におけるの諸々の事象・(法)において、存在におけるの諸々の事象・(法)というものをこまかく観察する。
熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。

 比丘たちよ、この時これを名づけて正念というのである。


比丘たちよ、では、いかなるをか正定というのであろうか。比丘たちよ、

〔初禅〕 ここに一人の比丘があって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。
これを初禅を具足して住するという。
〔二禅〕 だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向きとなり、もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。
〔三禅〕 さらに彼は、その喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執著なくただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これをもろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足して住するというのである。
〔四禅〕 さらにまた彼は、楽をも苦をも断ずる。さきに、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。
これを第四禅を具足して住するという。

 もろもろの比丘たちよ、これを名づけて正定というのである」





  八聖道の修習について(善友)

『比丘たちよ、八聖道を多修せば、(順に)”七種三十七修習(法)”〔三十七菩提分法〕を修習円満する』


『比丘たちよ、日輪の上るとき、先驅たり、前相たるは、即ち、明相出づることなり。
 比丘たちよ、そのように、比丘が八支聖道を起すとき、先驅たり、前相たるは、善友あることなり』


『比丘たちよ、他に一法として、いまだ生じていない八支聖道を生じて、すでに生じている八支聖道をして修習円満ならしむるものあるを見ず。
 比丘たちよ、それは、即ち、善友のあることである。
 比丘たちよ、善友ある比丘においては、八支聖道を修習し、多修せんと期すべきなり』


『比丘たちよ、一法あり、八支聖道を起すに利益多し。何をか一法と為すや。いわく、善友のあることなり』


『比丘たちよ、龍は、雪山王に依りて身を増大ならしめ、力を獲得す。そこにて身を増大ならしめ、力を獲得しおわりて、小池に入る、小池に入りおわりて、大池に入る、大池に入りおわりて、小河に入る、小河に入りおわりて、大河に入る、大河に入りおわりて、海に入る、そこにおいて身の広大なる得る。
 比丘たちよ、そのように、比丘が、戒により、戒に立ちて、八支聖道を修習し、多修せば、諸法において広大なるを得る』


『比丘たちよ、八支聖道を修習し、多修せば、生ずるにしたがいて、たちまちに、悪不善法を隠没せしめ、寂滅せしめる』


『比丘たちよ、八支聖道を修習し、多修せば、生ずるにしたがいて、しばらくしてのち、悪不善法を隠没せしめ、寂滅せしめる』


『比丘たちよ、八支聖道を修習し、多修せば、定んで、悪不善法を吐き、還て呑むことなし』


『比丘たちよ、譬えば、樹がありて、東に向い、東に傾き、東に臨まんに、もしその根を断たば、何れの方向に傾きて倒れるだろうか

「大徳よ、その向かう方へ、その傾きた方へ、その臨む方へです」

 比丘たちよ、そのように、比丘が、八支聖道を修習し、多修せば、涅槃に向い、涅槃に傾き、涅槃に臨む』





  無明

 このようにわたくしは聞きました。
 ある時、世尊はサーヴァッティーの、ジャータ林なるアナータピンディカの園に住しておられました。

そこで、世尊は、比丘たちに仰せられた、
「比丘たちよ」

「世尊よ」と、比丘たちは、世尊に応えました。

そして、世尊はこのように説かれました、

「比丘たちよ、無明が前となりて、(不善法が生じる。)
不善法が生じるにしたがいて、無慚無愧が生じる。

比丘たちよ、

 無明にしたがう無智者において、邪見が生じる。

 邪見があれば、邪思が生じる。

 邪思があれば、邪語が生じる。

 邪語があれば、邪業が生じる。

 邪業があれば、邪命が生じる。

 邪命があれば、邪精進が生じる。

 邪精進があれば、邪念が生じる。

 邪念があれば、邪定が生じる。


比丘たちよ、明が前相となりて、(善法が生じる、)
善法の生じるにしたがいて、慚愧が生じる。

比丘たちよ、

 明にしたがう有智者において、正見が生じる。

 正見があれば、正思が生じる。

 正思があれば、正語が生じる。

 正語があれば、正業が生じる。

 正業があれば、正命が生じる。

 正命があれば、正精進が生じる。

 正精進があれば、正念が生じる。

 正念があれば、正定が生じる」





  道

 このようにわたくしは聞きました。
 ある時、世尊はサーヴァッティーのジャータ林なるアナータピンディカの園に住しておられました。

そこで、世尊は、比丘たちに、このように仰せられた、

「比丘たちよ、在家者・出家者にして、邪道〔邪行〕を起すということは、私の説かない事柄である。

 それは何故であるのか。

 在家者・出家者にして、邪道を起こせば、(邪行のために、) 善法を楽[ねが]はない故である。

 では、何を邪道と為すのか、
いわゆる、邪見・邪思・邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定、である。


 比丘たちよ、在家者・出家者にして、正道〔善行〕を起すということは、私の説きて讃嘆する事柄である。

 それは何故であるのか。

 在家者・出家者にして、正道を起こせば、(善行のために、) 善法を楽[ねが]い、善法〔正法〕を善しとする故である。

 では、何を正道と為すのか、
いわゆる、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、である」と。

その時、世尊は偈を説いて言われた、

「在家者・出家者にして、邪道を起こせば、彼は終いに、無上の正法を楽はず。

 在家者・出家者にして、正道を起こせば、彼は常に心に、無上の正法を楽う。」






  邪

 このようにわたくしは聞きました。
 ある時、世尊はサーヴァッティーの、ジャータ林なるアナータピンディカの園に住しておられました。

そこで、世尊は、比丘たちに仰せられた、

「比丘たちよ、まさに、邪見を離れ、邪見を断ぜよ。

 もし邪見を断ずることができなければ、私は終いに、邪見を離断せよ、とは説かない。

 邪見を断ずべきを以ての故に、私は、比丘に、まさに邪見を離れよ、と説く。

 そして、比丘たちよ、邪見を離れおわりて、正見を修習せよ。

 もし邪見を離れなければ、邪見はまさに、非法〔邪道〕の義をもちて、不利益を増大し、苦を行作する。
この故に、私は、まさに邪見を離れよ、と説く。

 このように、邪思・邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定もまた、これと同様に説く。


 比丘たちよ、邪見を離れおわりて、まさに正見を修習せよ。

 もし正見を修習することを得なければ、私は終いに、正見を修習せよ、とは説かない。

 正見を修習することを得たならば、私は比丘に、まさに正見を修習せよ、と説く。

 もし正見を修習しなければ、非法〔邪道〕の義をもちて、不利益を増大し、苦を行作する。
この故に、私は、まさに正見を修習せよ、と説く。

 正法〔正道〕の義をもちて、利益を増大したならば、常に安穏・安楽となることを得る。
この故に、比丘は、まさに正見を修習せよ。

 このように、正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、もまた、これと同様に説く」と。

 このように世尊は説かれた。かの比丘たちは歓喜して、世尊の説かれたことを敬い受けた。
雑・相応 聖道相応





  八支からなる聖道

 このようにわたくしは聞きました。
 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)の、ジェータ林にあるアナータピンィディカの園(祇樹給孤独園)に滞在しておられた。

時に、世尊は比丘たちに呼びかけられた、
「比丘たちよ」

「はい、尊師よ」と、かの比丘たちは、世尊に申し上げた。

世尊はこのように仰せられた、
「比丘たちよ、そなたたちに、清浄なる正しい精神統一〔心一境性〕の、修習の資助と、その要件の具えとを説く。
それを聞いてよく善思しなさい。では、説こう」

「かしこまりました、尊師よ」と、かの比丘たちは世尊に申し上げた。

世尊はこのように仰せられた、
「比丘たちよ、それでは、修習の資助となり、要件を備えた、心一境性〔禅定(聖正定)〕とは何か。

比丘たちよ、すなわち、

[正見] 正しい見方、
[正思] 正しい思惟、
[正語] 正しい言葉、
[正業] 正しい行い、
[正命] 正しい生活、
[正精進] 正しい努力、
[正念] 正しい念住、

 これらの七支によりて、心が一向きを得るならば、それを、修習の資助となり要件を備えた心一境性〔禅定(聖正定)〕と言う。


 比丘たちよ、(この七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
比丘たちよ、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 邪見を邪見であると了知し、正見を正見であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。

比丘たちよ、誤った見方・邪な見方[邪見]とは何か。

【邪見】

 布施、祭祀、供物(供養)は無意味であり、善行・悪行の業の報いはない。
 この世は存在せず、かの世も存在しない。母もなく、父もない。また、諸々の化生の生きものも存在しない。
 そして、最高の境地に到達し、正しく実践しており、この世とかの世とを、自ら明らかに知り、覚とりを得て、それを説き示すような沙門や婆羅門達はこの世間に存在しない。

 比丘たちよ、これが[邪見]である。


比丘たちよ、では、正しい見方[正見]とは何か。

【正見】

 比丘たちよ、私は、[正見]を二種として説く、
 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]と、
 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]とである。


比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]とは何か。

【正見・世間】

 布施、祭祀、供物(供養)は意味があり、善行・悪行の業の報いはある。
 この世は存在し、かの世も存在する。母もあり、父もある。また、自然に発生する化生の生きものも存在する。
 そして、最高の境地に到達し、正しく実践しており、この世とかの世とをみずから明らかに知り、覚とりを得て、それを説き示すような沙門や婆羅門達はこの世間に存在する。

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]である。


比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]とは何か。比丘たちよ、

【正見・出世間】

 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、
 すなわち、智慧〔智慧〕、智慧の能力〔慧根〕、智慧の力〔慧力〕、覚りの要件である法を正しく弁別判断する智慧〔択法覚支〕、道の支分としての正しい見方[正見]、

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]である。

(このように、邪見を邪見であると了知し、正見を正見であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。
 彼はこのように知りて、修学し、邪見を断じて、正見を成就しようと欲する。)そして、邪見を断じて、正見を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。
 また、正しい念ありて、邪見を断じ、念ありて正見を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。

 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正見]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。
この故に、[正見]が先行するのである。


 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 邪思を邪思であると了知し、正思を正思であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。

比丘たちよ、誤った思惟・邪な思惟[邪思]とは何か。

【邪思】

〔欲思惟〕 欲の思惟、(渇愛・貪り・妄執の思惟)
〔瞋思惟〕 怒りの思惟、(悪意〔怒り・憎しみ・怨み〕の思惟)
〔害思惟〕 傷害の思惟、 比丘たちよ、これが[邪思]である。


比丘たちよ、では、正しい思惟[正思]とは何か。

【正見】

 比丘たちよ、私は、[正思]を二種として説く、
 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]と、
 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]とである。


比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]とは何か。

【正思・世間】

〔出離思惟〕 出離の思惟、(出離心に於いて、欲〔渇愛・貪り・妄執〕を捨て去ろうと思うこと。貪欲に応えるものを探し求めたり、貪欲に執著するような思惟をしない)
〔無瞋思惟〕 怒らない思惟、(悪意〔怒り・憎しみ・怨み〕を持たない。慈心を持って思惟し、”一切の衆生に憎しみ、悩み、苦しみがなく幸せでありますように”と望む)
〔無害思惟〕 傷害しない思惟、(苦しめる思惟から離れ、非心を持って思惟し、害を与えることを思惟しない)

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]である。


比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]とは何か。比丘たちよ、

【正思・出世間】

 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、
 すなわち、思索、推究、思惟、心の専注・凝集、心の確立、言葉を形成する思惟、

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]である。

(このように、邪思を邪思であると了知し、正思を正思であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。
 彼はこのように知りて、修学し、邪思を断じて、正思を成就しようと欲する。)そして、邪思を断じて、正思を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。
 また、正しい念ありて、邪思を断じ、念ありて正思を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。

 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正思]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。
この故に、[正見]が先行するのである。


比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 邪語を邪語であると了知し、正語を正語であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。

比丘たちよ、誤った言葉・邪な言葉[邪語]とは何か。

【邪語】

〔虚妄語 (嘘言)〕 虚偽の言葉、
〔離間語 (両舌・二枚舌)〕 両舌・中傷の言葉、
〔粗悪語 (悪口・粗暴語)〕 粗悪な言葉、
〔綺語 (雑穢語)〕 真実に背く巧みに飾った言葉、

 比丘たちよ、これが[邪語]である。


比丘たちよ、では、正しい言葉[正語]とは何か。

【正語】

 比丘たちよ、私は、[正語]を二種として説く、
 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]と、
 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]とである。


比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]とは何か。

【正語・世間】

〔不妄語〕 虚偽の言葉を離れること、(妄言を捨てて、自他のため、自他の利益のために、嘘は言わない)
〔不離間語 (不両舌)〕 両舌・中傷の言葉を離れること、(邪悪・悪意・悪念の悪い告げ口をしない。離間語を捨てて、仲違いの人を(善く)仲直りさせ、仲良くさせ(善く)団結させる言葉を使う)
〔不粗悪語 (不悪口)〕 粗悪・粗暴な言葉を離れること、(粗暴な言葉を捨てて、上品で優しい言葉を話し、心善い言葉を話し、好ましく快い言葉を話す)
〔不綺語〕 真実に背く巧みに飾った言葉を離れること、(ざれごと・くだらない話は捨てて、真実を話し、道理の通った内容のある話をし、時と場所に適したことを話す)

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]である。


比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]とは何か。比丘たちよ、

【正語・出世間】

 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、
 すなわち、言葉に関するこれらの四種の語悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]である。

(このように、邪語を邪語であると了知し、正語を正語であると了知して見る、その彼に正しい見方[正語]がある。
 彼はこのように知りて、修学し、邪語を断じて、正語を成就しようと欲する。)そして、邪語を断じて、正語を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。
 また、正しい念ありて、邪語を断じ、念ありて正語を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。

 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正語]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。
 この故に、[正見]が先行するのである。

比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 邪業を邪業であると了知し、正業を正業であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。

比丘たちよ、誤った行い・邪な行い[邪業]とは何か。

【邪業】

〔殺生〕 殺生、
〔偸盗 (不与取)〕 盗み、
〔邪淫〕 愛欲にまかせた淫らな行い・姦通(不倫)、

 比丘たちよ、これが[邪業]である。


比丘たちよ、では、正しい行い[正業]とは何か。

【正業】

 比丘たちよ、私は、[正業]を二種として説く、
 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]と、
 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]とである。


比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]とは何か。

【正業・世間】

〔不殺生〕 殺生を離れること、(殺すこと、苦しめることを捨てて、すべての衆生・存在にたいして、あわれみある者となる、慈悲心を持つ)
〔不偸盗〕 盗みを離れること、(盗みを離れて、他人の財の権利を尊重すること)
〔不邪淫〕 愛欲にまかせた淫らな行いを離れること、(邪淫を捨てて、性道徳を犯さない)

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]である。


比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]とは何か。比丘たちよ、

【正業・出世間】

 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、
 すなわち、身体に関するこれら三種の悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]である。

(このように、邪業を邪業であると了知し、正業を正業であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。
 彼はこのように知りて、修学し、邪業を断じて、正業を成就しようと欲する。)そして、
 邪業を断じて、正業を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。
 また、正しい念ありて、邪業を断じ、念ありて正業を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。

 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正業]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。
この故に、[正見]が先行するのである。


 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 邪命を邪命であると了知し、正命を正命であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。

比丘たちよ、誤った生活・邪な生活[邪命]とは何か。

【邪命】

 詐欺、騙すこと、おしゃべり、相を占う等の生計、若干種の畜生の呪を用いて意を満たすこと、利益の上にも利益を貪ること、不如理にして何らかを求めるのに邪行法を以てすること、
四邪語〔嘘言・離間語・粗悪語・綺語〕や三邪業〔殺生・盗み・邪淫〕の身・語の邪行の、これらによる生活・職業をする、

 比丘たちよ、これが誤まった生活・邪な生活[邪命]である。


比丘たちよ、では、正しい生活[正命]とは何か。

【正命】

 比丘たちよ、私は、[正命]を二種として説く、
 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]と、
 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]とである。


比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]とは何か。

【正命・世間】

 ここに聖者の弟子が、(四邪語〔嘘言・離間語・粗悪語・綺語〕と、三邪業〔殺生・盗み・邪淫〕の、身・語の邪行を離れて、正道に依りて、(生活・生)命を清浄にし、)誤った生活・邪な生活法を捨てて、正しい生活法によって生活を営む。

比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]である。


比丘たちよ、では、清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]とは何か。比丘たちよ、

【正命・出世間】

 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、
 すなわち、誤った生活・邪な生活(邪命)に関するこれらの悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]である。

(このように、邪命を邪命であると了知し、正命を正命であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。
 彼はこのように知りて、修学し、邪命を断じて、正命を成就しようと欲する。)そして、邪命を断じて、正命を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。
 また、正しい念ありて、邪命を断じ、念ありて正命を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。

 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正命]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。
この故に、[正見]が先行するのである。


[[比丘たちよ、では、正しい精進〔正精進・正勤(四正勤)〕とは何か。

【正精進】

〔律儀勤〕 邪悪・不善に注意して防ぐ。(未だ生じていない邪悪・不善法を生じさせないために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める)
〔断勤〕 邪悪・不善を捨てる。(すでに生じてしまった邪悪・不善法を断じ捨てるために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める)
〔修勤〕 善を生じさせる。(未だ生じていない善法を生じさせるために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める)
〔随護勤〕 善を維持する。(すでに生じている善法は住せしめて忘失せず、多く修習し、廣く修習し、円満成就するために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める)

 比丘たちよ、これが、正しい精進[正精進]である。


比丘たちよ、では、正しい念住[正念(四念住)]とは何か。

【正念】

〔身(随観)念処〕 身体は浄らかではない。(種々の修習法によりて、身体というものをこまかく観察し、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する)
〔受(随観)念処〕 感受は苦である。(感覚(感受)というものをこまかく観察し、心身の苦・楽・不苦不楽の受を、はっきりと知り、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する)
〔心(随観)念処〕 心は無常である。(心というものをこまかく観察し、貪りの心がある、貪りの心がない、瞋の心がある、瞋の心がない、癡の心がある、癡の心がない、等の自らの心をはっきりと知り、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する)
〔法(随観)念処〕 法は無我である。(自己・他・自他の法において、法を随観し、生・滅・生滅の法において、法を随観し、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住し、世の何ものにも執著しない)

 比丘たちよ、これが、正しい念住[正念]である。


比丘たちよ、では、正しい禅定[正定]とは何か。

【正定】

〔初禅〕 もろもろの欲望を離れ、もろもろの邪悪・不善を離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅を具足して住するという。
〔二禅〕 対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向きとなり、もはや何ものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。
〔三禅〕 喜びをもまた離れるがゆえに、内心平等にして執著なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これをもろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足して住するというのである。
〔四禅〕 楽をも苦をも断ずる。さきに、喜びをも憂いをも滅したので、不苦・不楽にして、捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するという。

 比丘たちよ、これが、正しい禅定[正定]である。



比丘たちよ、正しく知る[正智]とは何か。

【正智】

 十九種の観察智と、果智を知る、

 比丘たちよ、これが、正しく知る[正智]である。



比丘たちよ、正しい解脱[正解脱]とは何か。

【正解脱】

 無漏の心解脱・慧解脱、すなわち、阿羅伽果の解脱、

 比丘たちよ、これが、正しい解脱[正解脱]である。]]


 また、比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。

比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

【正道の縁起】

 比丘たちよ、

 [正見] 正しい見方の人に、正しい思惟が起こる。

 [正思] 正しい思惟の人に、正しい言葉が起こる。

 [正語] 正しい言葉の人に、正しい行いが起こる。

 [正業] 正しい行いの人に、正しい生活が起こる。

 [正命] 正しい生活の人に、正しい努力が起こる。

 [正精進] 正しい努力の人に、正しい念住が起こる。

 [正念] 正しい念住の人に、正しい精神統一(禅定)が起こる。

 [正定] 正しい精神統一(禅定)の人に、正しい智慧が起こる。

 [正智] 正しい智慧の人に、[正解脱] 正しい解脱が起こる。

 比丘たちよ、このようにして、八支具足の有学(者)があり、十支具足の(無学の)阿羅伽がある。

[[彼らを、有学の八支成就といい、また、漏尽の阿羅伽の十支成就という。

比丘たちよ、では、有学の八支成就とは何か、

 すなわち、正見を成就し、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、を修学し成就する。
これを、有学の八支成就という。

比丘たちよ、では、漏尽の阿羅伽の十支成就とは何か。

 すなわち、(正見を成就し、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、正智、正解脱を成就し、)阿羅伽果を成就して、修学をする必要がない(無学の聖者)。
これを、阿羅伽の十支成就という。]]


 また、比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。

比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 比丘たちよ、[正見]は[邪見]を断じ、[邪見]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正見]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正思]は[邪思]を断じ、[邪思]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正思]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正語]は[邪語]を断じ、[邪語]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正語]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正業]は[邪業]を断じ、[邪業]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正業]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正命]は[邪命]を断じ、[邪命]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正命]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正精進]は[邪精進]を断じ、[邪命]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正精進]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正念]は[邪念]を断じ、[邪念]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正念]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正定]は[邪定]を断じ、[邪定]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正定]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正智]は[邪智]を断じ、[邪智]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正智]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正解脱]は[邪解脱]を断じ、[邪解脱]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正解脱]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、このようにして、二十の善品と、二十の不善品との、偉大なる四十品の真理の教えが転ぜられた。

これは、いかなる沙門・婆羅門・天・悪魔・梵天・あるいは、世間のいかなる者によりても逆転できないものである。


 比丘たちよ、いかなる沙門、あるいは婆羅門でも、もし彼が、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとするならば、この現世において、真理に立脚した十の説によりて、彼の説は、問い詰められて責められるに至る。

 もしも尊者が、正しい見方[正見]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った見方・邪な見方[邪見]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい思惟[正思]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った思惟・邪な思惟[邪思]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい言葉[正語]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った言葉・邪な言葉[邪語]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい行い[正業]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った行動・邪な行動[邪業]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい生活[正命]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った生活・邪な生活[邪命]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい努力[正精進]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った努力・邪な努力[邪精進]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい念住[正念]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った念住・邪な念住[邪念]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい精神統一[正定]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った精神統一・邪な精神統一[邪定]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい智慧[正智]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った智慧・邪な智慧[邪智]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい解脱[正解脱]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った解脱・邪な解脱[邪解脱]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。


 比丘たちよ、このように、いかなる沙門、あるいは婆羅門でも、もし彼が、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとするならば、この現世において、真理に立脚した十の説によりて、彼の説は、問い詰められて責められるに至る。

 比丘たちよ、オッカラ地方のヴァッサとバンニャとは、無因論者、無作論者、虚無論者であったが、彼らでさえ、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとは考えないであろう。それはどうしてか。非難や怒り、また、問い詰められて責められるのを、恐れるからである」

 このように世尊は説かれた。かの比丘たちは歓喜して、世尊の説かれたことを敬い受けた。
中部経典 聖道経







  八支からなる聖道(説明)〔説明解説:對馬〕

 このようにわたくしは聞きました。
 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)の、ジェータ林にあるアナータピンィディカの園(祇樹給孤独園)に滞在しておられた。

時に、世尊は比丘たちに呼びかけられた、
「比丘たちよ」

「はい、尊師よ」と、かの比丘たちは、世尊に申し上げた。

世尊はこのように仰せられた、
「比丘たちよ、そなたたちに、清浄なる正しい精神統一〔心一境性〕(聖正定)の、修習の資助と、その要件の具えとを説く。
それを聞いてよく善思しなさい。では、説こう」

「かしこまりました、尊師よ」と、かの比丘たちは世尊に申し上げた。

世尊はこのように仰せられた、
「比丘たちよ、それでは、修習の資助となり、要件を備えた、心一境性〔禅定(聖正定)〕とは何か。

比丘たちよ、すなわち、

[正見] 正しい見方、
[正思] 正しい思惟、
[正語] 正しい言葉、
[正業] 正しい行い、
[正命] 正しい生活、
[正精進] 正しい努力、
[正念] 正しい念住、

 これらの七支によりて、心が一向きを得るならば、それを、修習の資助となり要件を備えた心一境性〔禅定(聖正定)〕と言う。



 比丘たちよ、(この七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
比丘たちよ、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 邪見を邪見であると了知し、正見を正見であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。


【邪見】

比丘たちよ、誤った見方・邪な見方[邪見]とは何か。

 布施、祭祀、供物(供養)は無意味であり、善行・悪行の業の報いはない。
 この世は存在せず、かの世も存在しない。母もなく、父もない。また、諸々の化生の生きものも存在しない。
 そして、最高の境地に到達し、正しく実践しており、この世とかの世とを、自ら明らかに知り、覚とりを得て、それを説き示すような沙門や婆羅門達はこの世間に存在しない。
〔邪見は、離善地(地獄、畜生界、餓鬼界、阿修羅衆)に行く邪道にあり、正見は、善趣地に行く正道にある。

【欲界離善地・悪趣・悪処】 地獄、畜生界、餓鬼界、阿修羅衆の、善から離れている地。善行は、わずかしか為すことができないが、悪行は十分なすことができる所であるから離善地という。
[地獄] 楽が得られず、苦ばかり受ける世界をいう。八大地獄に分かれる。
[畜生界] 鳥・魚・虫・獣などのすべての動物をいう。
[餓鬼界] 悪臭を放ち、裸体で、色黒く痩せ衰え、血筋が現われ、唇が突き出た醜い姿をしていて、常に餓えと渇きに苦しめられ、吐き捨てられた汚物、唾、鼻汁、痰、流れ落ちた血などを食い、森・山・川・墓地などを住所とする迷っている死霊であり、その餓鬼の仲間・社会を餓鬼界という。
[阿修羅衆]
〈堕処の阿修羅〉 餓鬼の一種で、それよりも大きいものをいう。常に飢えと渇きに苦しみ、海辺や川辺に住んでいるが、喉が渇いても水を飲むことができない。水を飲もうとするとその水は消え去って熱砂と化すとされる。彼らの仲間を阿修羅衆という。
〈善趣地天衆の阿修羅〉 衣食住が十分でなく、あちこちに頼るところを求めてさ迷う天人が、この阿修羅である。地上にある山・森・樹・家などの守護神すべてを地神といい、堕処の阿修羅は、これらの守護神である地神を頼って生活する。二神とも四大王天の属する天衆である。
 地獄の有情、餓鬼、阿修羅の寿命は過去の業によって決まっているので、その業が尽きない限り、悪処から出ることはできない。

【欲界(善趣)地】天界は、五欲の楽しみが極まっている善地をいう。

[人界]   寿命現在八十年程。
[善趣地天衆の阿修羅] 寿命定まらない。
[四大王天] 寿命五百年  ・人界の九百万年、に相当するとされる。
[三十三天] 寿命千年   ・人界の三千六百万年、に相当するとされる。
[夜摩天]  寿命二千年  ・人界の一億四千四百万年、に相当するとされる。
[兜率天]  寿命四千年  ・人界の五億七千六百万年、に相当するとされる。
[楽変化天] 寿命八千年  ・人界の二十三億一千万六百万年、に相当するとされる。
[他化自在天]寿命一万六千年・人界の九十二億一千万六百万年、に相当するとされる。
 五欲を厭う阿那含向と阿羅伽向は、天界に長く留まらないで、阿那含果は色界の浄居天に往生し、阿羅伽果は涅槃するのである。

【色界(善趣)地】
[初禅地]  梵衆天:寿命阿僧祇劫の三分の一、梵輔天、大梵天衆:寿命一阿僧祇劫とされる。
[第二禅地] 少光天:寿命二大劫、無量光天、発光天:寿命八大劫とされる。
[第三禅地] 少浄光天、無量浄光天、遍浄光天:寿命六十四大劫とされる。
[第四禅地] 広果天、無想有情天、(浄居天:不捨天、無熱天、善現天、善見天、無劣天:寿命一万六千大劫とされる。)
[無色界地] 空無辺処地、識無辺所地、無所有処地、非想非非想処地。

 梵天等は、たとえば、この色界(善趣)地を、梵天になる以前に、遍浄光天で六十大劫生存して、その後、小光天で二大劫生存して、その後、少浄光天、その後、梵天としての生存を受けるする。そのように、長い期間、善趣を廻り、流転輪廻してすごした結果、昔のことを忘れてしまい、”常住である”というように思い込んでしまう、という梵天もいる。とされる。

 劫は、寿劫(人寿から阿僧祇劫の間)・中劫・阿僧祇劫(六十四中劫)・大劫(四阿僧祇劫)、がある。

〔外道の人は、仏陀・法・僧伽・仏塔などを見聞して、目を閉じて見ず、耳を塞いで聞かず、厭う人もいるが、仏陀・法・僧伽・仏塔の、これらを見聞することは、その人の前世の善業による善異熟心であるとされる。しかし、仏陀と、仏陀の教え(理法・道理・真理)と、僧伽(聖者)とを、知らないため等により、真理・道理について、[正見]の転倒中の人は、その人にとって最上の好所縁を、不好所縁と見なしてしまい、嫌悪・厭う心を生じる。〕


 邪見の中で、三種の邪見〔非有見(虚無論)、無因見(偶然論)、非作業見(無道徳論者)〕は、業道〔離善地に行く道(原因)となる業〕となり、その悪業の報いとして、必ず地獄に堕ちることが決定している。これを決定邪見という。

【三種の決定邪見】
 [非有見(虚無論)] 死後に異熟が無い、(輪廻による出生・生存が無い)と考える邪見で、死ねば終わりという断見も包含する。輪廻による来世の出生・生存を否定すると、同時にその因をも否定することになる、という邪見。
 [無因見(偶然論)] 因が無いと考える邪見。因が無いということによりて、非有見と同様に、因果を同時に打ち消すことになる、という邪見。
 [非作業見(無道徳論者)] 善業・不善業のそのものを認めない邪見。因である業を否定するので、結果の報いも認めないこととなり、業因と業の果報をともに否定することになる、という邪見。

【三種の決定邪見】が、業道〔離善地に行く道(原因)となる業〕となるのに二条件があり、
・邪見の、その考えが間違っていること。
・邪見の、その自分の主張が正しいという確信があること、
 この二つの条件により、業道となる。

 これらの、三種の決定邪見は、六師外道の、[非有見]はアジタ・ケーサカンバラ(快楽論・唯物論・虚無論者)、[無因見]はマッカリゴーサーラ(決定論・偶然論者)、[非作業見]はプーラナ・カッサパ(道徳否定論・無道徳論者)がそれぞれ主張したものであって、これらの論者は、仏陀も救済することができない程に、自己の説を確信し、頑固に執著しているから、必ず地獄に堕ちることが決定しているとされる。
 邪見のその決定邪見説に、執著していない人達は、決定邪見とは言えない。

(また、提婆達多も、「善悪の報いはなし、悪のための咎の善悪はなし、善を成しても福はなし」として、悪業の報いを知らない故に、五無間業の邪行を為して、無間地獄へと堕ちた。)

 業道〔離善地に行く道(原因)となる業〕となる程ではない邪見は、その邪行・悪業を行作した段階・行作している段階で、悪処・地獄に堕ちるのが決定する、という程ではない邪業となり、また、その邪行によりて、他の邪道支が生ずる縁となる。
 邪見があれば、邪思が生ずる。

 そして、そのような、繰り返し行い、習いとなってしまっているような善業[正見]や、邪業・不善業[邪見]を、久習業といい、
また、善業や不善業にも達しない、一般的な行いの業を、已作業といい、
これらの業は、来世に異熟を結ぶ機会を得る。このうちで久習行は優先してその機会を得る。〕
 比丘たちよ、これが[邪見]である。


【正見】

比丘たちよ、では、正しい見方[正見]とは何か。

 比丘たちよ、私は、[正見]を二種として説く、
 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]と、
 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]とである。


【正見・世間】

比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]とは何か。
〔四聖諦を知ること

 苦に対する智慧(苦なるものを知ること)、
 苦の集に対する智慧(苦の生じることと、その生じる原因とを知ること)、
 苦の滅に対する智慧(苦の滅することと、その滅する原因とを知ること)、
 苦の滅に到る道に対する智慧(苦の滅尽にいたる道と、その方法を知ること)、

〔【正念】の【受(随観)念処】の説明に同じ)
仏陀曰く、
『三受有り、苦受・楽受・不苦不楽受である。楽受を観じてはしかも苦想を作し、苦受を観じては剣に刺されるような苦の想を作し、不苦不楽受を観じては無常想を作しなさい。
 若しかの比丘、楽受を観じてしかも苦想を作し、苦受を観じて剣刺の想を作し、不苦不楽を観じて無常滅の想を作せば、是れを正見と名づく』〕

 そして
 布施、祭祀、供物(供養)は意味があり、善行・悪行の業の報いはある。
 この世は存在し、かの世も存在する。母もあり、父もある。また、自然に発生する化生の生きものも存在する。
 そして、最高の境地に到達し、正しく実践しており、この世とかの世とをみずから明らかに知り、覚とりを得て、それを説き示すような沙門や婆羅門達はこの世間に存在する(と、正しい見方をすること。)
〔世間の正見は、業を信じ、あらゆる有情にとりて、業こそは自らのものである、と知る智〔十善事業の見直業に同じ〕。(厳密に言えば、自分のものと思うのは我語取。)

『すでに死魔のとりことなってやがて生命を捨つべき人には、もはや何ものか彼のものたらん。何を持ちてか彼は行かんとする。
 ただ善業と悪業との二つは、人がこの世において作りしもの。人がこの世において作りしもの、それこそは彼自らのものにして、それを持ちて彼は行くのである。
 影のかたちにそうがごとく、この二つは彼に従うのである。されば、人はただ善業をなして未来のために積むがよろしい。
 功徳こそは後の世における、人々の渡場であるからである』
 

 また、名色法に対して、無常想、苦想、無我想を修習する智慧・観察の正見もこれに属する。〕
 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]である。


【正見・出世間】

比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]とは何か。比丘たちよ、

 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、
 すなわち、智慧〔智慧〕、智慧の能力〔慧根〕、智慧の力〔慧力〕、覚りの要件である法を正しく弁別判断する智慧〔択法覚支〕、道の支分としての正しい見方[正見]、
〔出世間の正見は、道・果に相応する慧をいう。〕
 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]である。


(このように、邪見を邪見であると了知し、正見を正見であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。
 彼はこのように知りて、修学し、邪見を断じて、正見を成就しようと欲する。)そして、邪見を断じて、正見を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。
 また、正しい念ありて、邪見を断じ、念ありて正見を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。

 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正見]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。
この故に、[正見]が先行するのである。



 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 邪思を邪思であると了知し、正思を正思であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。


【邪思】

比丘たちよ、誤った思惟・邪な思惟[邪思]とは何か。

〔欲思惟〕 欲の思惟、(渇愛・貪り・妄執の思惟)
〔瞋思惟〕 怒りの思惟、(悪意〔怒り・憎しみ・怨み〕の思惟)
〔害思惟〕 傷害の思惟、
〔【欲思惟】は、貪りと相応する欲尋であり、五欲を考えること。
  自分の物にしたいと強く執著するのが業道になる貪欲である。
  貪欲が業道〔離善地に行く道(原因)となる業〕となるのに、(基準の目安として)二条件があり、
  ・他人の財物であること。
  ・自分の物にしたいと意思すること。
  他人の財物を見ても、ただ欲しがるだけでは業道にならない。

 【瞋思惟】は、瞋と相応する瞋恚尋であり、他人の死を考えるほど瞋ること。
  相手が人でも、畜生でも、殺意が生じるほど瞋りが高まった状態で、このような瞋恚は業道となる。
  瞋恚が業道となるのに、(基準の目安として)二条件があり、
  ・相手の有情が居ること。
  ・その有情の死を望む程の瞋恚があること。

 【害思惟】は、瞋と相応する瞋恚尋であり、他人の傷害したいと考えるほど瞋ること。

 邪思惟の自性は、十二不善心と相応する尋。

 業道となる程ではない邪思〔貪欲・瞋恚・傷害〕は、その邪行・悪業を行作した段階・行作している段階で、悪処・地獄に堕ちるのが決定する、という程ではない邪業となり、また、その邪行によりて、他の邪道支が生ずる縁となる。
 邪思があれば、邪語が生ずる。

 そして、そのような、繰り返し行い、習いとなってしまっているような善業[正思]や、邪業・不善業[邪思]を、久習業といい、
また、善業や不善業にも達しない、一般的な行いの業を、已作業といい、
これらの業は、来世に異熟を結ぶ機会を得る。このうちで久習行は優先してその機会を得る。〕
 比丘たちよ、これが[邪思]である。


【正思】

比丘たちよ、では、正しい思惟[正思]とは何か。

 比丘たちよ、私は、[正思]を二種として説く、
 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]と、
 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]とである。


【正思・世間】

比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]とは何か。

〔出離思惟〕 出離の思惟、(出離心に於いて、欲〔渇愛・貪り・妄執〕を捨て去ろうと思うこと。貪欲に応えるものを探し求めたり、貪欲に執著するような思惟をしない)
〔無瞋思惟〕 怒らない思惟、(悪意〔怒り・憎しみ・怨み〕を持たない。慈心を持って思惟し、”一切の衆生に憎しみ、悩み、苦しみがなく幸せでありますように”と望む)
〔無害思惟〕 傷害しない思惟、(苦しめる思惟から離れ、悲心を持って思惟し、害を与えることを思惟しない)
〔【出離思惟】は、初禅と相応する尋、出家することを考える尋、涅槃を所縁とする尋、観智と相応する尋、等の、無瞋思惟と無害思惟とを除いたすべての正しい思惟をいう。(出世間心相応の尋〈【正命・世間】の説明に同じ〉)
 【無瞋思惟】は、慈と相応する尋で、瞋恚尋と反対である。
 【無害思惟】は、悲と相応する尋で、害尋と反対である。

 尋は、通常の思惟。(通常の)思惟をすること。粗大な思惟。概観する心の活動。
 そのような粗大な思惟。また、自分の中でリンゴを思考する等、そのリンゴを思考するという粗大な思惟。(尋・伺は語行)
 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]である。


【正思・出世間】

比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]とは何か。比丘たちよ、

 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、
 すなわち、思索、推究、思惟、心の専注・凝集、心の確立、言葉を形成する思惟、

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]である。


(このように、邪思を邪思であると了知し、正思を正思であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。
 彼はこのように知りて、修学し、邪思を断じて、正思を成就しようと欲する。)そして、邪思を断じて、正思を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。
 また、正しい念ありて、邪思を断じ、念ありて正思を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。

 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正思]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。
この故に、[正見]が先行するのである。



 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 邪語を邪語であると了知し、正語を正語であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。

【邪語】

比丘たちよ、誤った言葉・邪な言葉[邪語]とは何か。

〔虚妄語 (嘘言)〕 虚偽の言葉、
〔離間語 (両舌・二枚舌)〕 両舌・中傷の言葉、
〔粗悪語 (悪口・粗暴語)〕 粗悪な言葉、
〔綺語 (雑穢語)〕 真実に背く巧みに飾った言葉、
〔【虚妄語】は、間違っていることを身・語によりて言ったり書いたりさせる思である。
  妄語が業道〔離善地に行く道(原因)となる業〕となるのに、(基準の目安として)四条件があり、
  ・間違っていること。
  ・誤解させたい意志があること。
  ・身や語による加行があること。
  ・それによりて、人が誤まった認識をすること。

 【離間語】は、他人を扇動して仲を裂く言葉を生じさせる思をいう。
  離間語が業道となるのに、(基準の目安として)四条件があり、
  ・仲の良い二人がいること。
  ・二人の仲を裂いて自分に好意を向けようという意思があること。
  ・身や語による加行があること。
  ・それによりて、仲が実際に裂かれること。
  二人が離れれば業道となるが、離れないなら、業道とまではいたらない邪業である。

 【粗悪語】は、口汚く罵る言葉を生じさせる思をいう。
  粗悪語が業道となるのに、(基準の目安として)四条件があり、
  ・怒ること。
  ・言われる相手がいること。
  ・身や語による加行があること。
 他人に、死ぬような苦しみを与える言葉、による加行を生じさせる思が粗悪語であって、師や親が弟子・子供を叱る等の、その言葉は粗悪でも、慈しむ心から発するものであれば、業道とは言えない。

 【綺語】は、──(訂正削除)── 無益で、単に人の心を散じさせ、迷わせるだけの言葉を生じさせる思をいう。
  綺語が業道となるのに、(基準の目安として)三条件があり、
  ・無益な言葉。
  ・身や語による加行があること。
  ・その無益な話を人がまともに受け取ること。
  有益な話の中で、綺語である話を引用する時は、綺語とは言えない。

 言語を通して、(手段として)語業が成り立つところから、語門といい、身ぶり、手ぶり、書くこと等によりて為される場合は、身門業とすべきであるが、ほとんどの場合、語門に生じるので、これらを語門業という。

 業道となる程ではない邪語〔妄語・両舌・粗悪・綺語〕は、その邪行・悪業を行作した段階・行作している段階で、悪処・地獄に堕ちるのが決定する、という程ではない邪業となり、また、その邪行によりて、他の邪道支が生ずる縁となる。
 邪語があれば、邪業が生ずる。

 そして、そのような、繰り返し行い、習いとなってしまっているような善業[正語]や、邪業・不善業[邪語]を、久習業といい、
また、善業や不善業にも達しない、一般的な行いの業を、已作業といい、
これらの業は、来世に異熟を結ぶ機会を得る。このうちで久習行は優先してその機会を得る。〕
 比丘たちよ、これが[邪語]である。


【正語】

比丘たちよ、では、正しい言葉[正語]とは何か。

 比丘たちよ、私は、[正語]を二種として説く、
 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]と、
 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]とである。


【正語・世間】

比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]とは何か。

〔不妄語〕 虚偽の言葉を離れること、(妄言を捨てて、自他のため、自他の利益のために、嘘は言わない)
〔不離間語 (不両舌)〕 両舌・中傷の言葉を離れること、(邪悪・悪意・悪念の悪い告げ口をしない。離間語を捨てて、仲違いの人を(善にして)仲直りさせ、仲良くさせ(善にして)団結させる言葉を使う)
〔不粗悪語 (不悪口)〕 粗悪・粗暴な言葉を離れること、(粗暴な言葉を捨てて、上品で優しい言葉を話し、心善い言葉を話し、好ましく快い言葉を話す)
〔不綺語〕 真実に背く巧みに飾った言葉を離れること、(ざれごと・くだらない話は捨てて、真実を話し、道理の通った内容のある話をし、時と場所に適したことを話す)

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]である。


【正語・出世間】

比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]とは何か。比丘たちよ、

 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、
 すなわち、言葉に関するこれらの四種の語悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]である。


(このように、邪語を邪語であると了知し、正語を正語であると了知して見る、その彼に正しい見方[正語]がある。
 彼はこのように知りて、修学し、邪語を断じて、正語を成就しようと欲する。)そして、邪語を断じて、正語を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。
 また、正しい念ありて、邪語を断じ、念ありて正語を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。

 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正語]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。
 この故に、[正見]が先行するのである。



 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 邪業を邪業であると了知し、正業を正業であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。


【邪業】

比丘たちよ、誤った行い・邪な行い[邪業]とは何か。

〔殺生〕 殺生、
〔偸盗 (不与取)〕 盗み、
〔邪淫〕 愛欲にまかせた淫らな行い・姦通(不倫)、
〔【殺生】は、他人を殺す時、自ら身体を用いて働きかける身加行と、他に命じること、即ち語を用いて働きかける語加行とを生じさせる殺生の思が、殺生の邪業である。

 【殺生】は、業道〔離善地に行く道(原因)となる業〕になる場合と、業道とならない場合と二種ある。
  業道になれば、離善地・悪処に結生異熟を確実にもたらし、それは令生業である。しかし、業道にまで至らない業ならば、結生異熟をもたらすか、否かは確かではない。

 【殺生】が業道〔離善地に行く道(原因)となる業〕になるのに、(基準の目安として)五条件があり、この中の、どれが欠けても、殺生としての業道とはならないとされる。
  ・有情であること。
  ・有情と知ること。
  ・殺意があること。
  ・身や語による加行があること。
  ・その加行によりて死ぬこと。

〈殺生罪の軽重〉有情の大小によりて罪に軽重が生じる。つまり、その有情が大きければ、その有情の命聚〔細胞〕を多く殺すことになるから、その罪も重いのである。
 また、その人が戒めを守っているとか、有徳者であるならば、通常人の場合より殺生の罪は重い。
 また有情の大きさや、徳などが同じ程度であっても、殺生する際の働きかけが強ければ強い程、その罪は重い。

 例えば、父、母、阿羅伽、を殺生するのは、五無間業〔その行作をしたならば、無間地獄に堕ちる邪業〕であり、また、殺生でない五無間業として、仏陀の僧団を分裂させること、そして、仏陀の身体から出血させたならば、無間地獄へ赴くことが、その行作をした段階において決定する。

 また、五無間業は、重合といい不善業の中で最も重い邪悪業であり、他の業によりて防いだり、断滅することはできない。
また、重合の大禅業は、死後、必ず梵天に生まれるという異熟をもたらす。

 殺生としての業道〔離善地に行く道(原因)となる業〕とまではならなくても、他を害するという邪行をしたのであれば、その邪行は邪業となる。

 【不与取】は、持ち主が与えないものを盗み、強盗し、あるいは騙して取る身加行・語加行を生じさせる思をいう。
  不与取が業道となるのに、(基準の目安として)五条件があり、
  ・他人のものであること。
  ・他人のものと知ること。
  ・盗む意志があること。
  ・身や語による加行があること。
  ・その加行で実際に盗むこと。
  罪の軽重は、その盗品の値と、被害者が戒めを守っているか否か、徳があるか否か等によりて決まる。

 【邪淫】は、他から非難を受けるような淫事、つまり夫以外、あるいは妻以外の者との性交をいう。夫や妻以外の関係は非難されるべき邪欲行である。
  不与取が業道となるのに、(基準の目安として)四条件があり、
  ・行なうべきでない男か女であること。
  ・性交の意志があること。
  ・身加行があること。
  ・享受すること。
  この罪悪業の軽重も相手が戒めを守っているか否かによりて決まる。

〈身表と身門〉殺生等の三業は、語門にも生じるが、ほとんど身門に生じるから身門業という。この身門とは身表のことである。
 思は、身体(か語)で表現されるから、この現れている身体の動作を身表(語表)と称する。

 業道となる程ではない邪行〔殺生・不与取・邪淫〕は、その邪行・悪業を行作した段階・行作している段階で、悪処・地獄に堕ちるのが決定する、という程ではない邪業となり、また、その邪行によりて、他の邪道支が生ずる縁となる。
 邪業があれば、邪命が生ずる。

 そして、そのような、繰り返し行い、習いとなってしまっているような善業[正業]や、邪業・不善業[邪業]を、久習業といい、
また、善業や不善業にも達しない、一般的な行いの業を、已作業といい、
これらの業は、来世に異熟を結ぶ機会を得る。このうちで久習行は優先してその機会を得る。

 この邪淫という項目に関しては、邪淫という項目ではなく、邪欲行という項目として、ここに飲酒も邪欲行として入れるという説があり、不殺生から不飲酒までの五戒を破れば、離善地に生ずるとされ、飲酒は業道であって、どのような理由があっても飲むべきではない、とする説と、
 飲酒だけでは業道にならず、酒を飲んで、悪行をして始めて業道になる、という説がある、ということであるが、

(出家者ではなく、在家者について)、仏陀の教えにより、在家の人で、生前に飲酒の戒を守れずに亡くなった人でも、善処に生じているという教えもあり、在家の人が飲酒によりて、業道として悪趣行きが決定するということはない。要するに、生前に善業を多く行じた人は、飲酒の戒を破ったことにより悪趣に堕ちることは、決定ではない。〕
 比丘たちよ、これが[邪業]である。


【正業】

比丘たちよ、では、正しい行い[正業]とは何か。

 比丘たちよ、私は、[正業]を二種として説く、
 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]と、
 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]とである。


【正業・世間】

比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]とは何か。

〔不殺生〕 殺生を離れること、(殺すこと、苦しめることを捨てて、すべての衆生・存在にたいして、あわれみある者となる、慈悲心を持つ)
〔不偸盗〕 盗みを離れること、(盗みを離れて、他人の財の権利を尊重すること)
〔不邪淫〕 愛欲にまかせた淫らな行いを離れること、(邪淫を捨てて、性道徳を犯さない)

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]である。


【正業・出世間】

比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]とは何か。比丘たちよ、

 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、
 すなわち、身体に関するこれら三種の悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]である。


(このように、邪業を邪業であると了知し、正業を正業であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。
 彼はこのように知りて、修学し、邪業を断じて、正業を成就しようと欲する。)そして、邪業を断じて、正業を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。
 また、正しい念ありて、邪業を断じ、念ありて正業を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。

 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正業]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。
この故に、[正見]が先行するのである。



 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 邪命を邪命であると了知し、正命を正命であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。


【邪命】

比丘たちよ、誤った生活・邪な生活[邪命]とは何か。

 詐欺、騙すこと、おしゃべり、相を占う等の生計、若干種の畜生の呪を用いて意を満たすこと、利益の上にも利益を貪ること、不如理にして何らかを求めるのに邪行法を以てすること、
四邪語〔嘘言・離間語・粗悪語・綺語〕や三邪業〔殺生・盗み・邪淫〕の身・語の邪行の、これらによる生活・職業をする、
〔業道となる程ではない邪命は、その邪行・悪業を行作した段階・行作している段階で、悪処・地獄に堕ちるのが決定する、という程ではない邪業となり、また、その邪行によりて、他の邪道支が生ずる縁となる。

 邪命があれば、邪精進が生ずる。
 邪精進があれば、邪念が生ずる。
 邪念があれば、邪定が生ずる。
 邪定があれば、邪智が生ずる。
 邪智があれば、邪解脱が生ずる。

 そして、そのような、繰り返し行い、習いとなってしまっているような善業[正命]や、邪業・不善業[邪命]を、久習業といい、
また、善業や不善業にも達しない、一般的な行いの業を、已作業といい、
これらの業は、来世に異熟を結ぶ機会を得る。このうちで久習行は優先してその機会を得る。〕
 比丘たちよ、これが誤まった生活・邪な生活[邪命]である。


【正命】

比丘たちよ、では、正しい生活[正命]とは何か。

 比丘たちよ、私は、[正命]を二種として説く、
 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]と、
 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]とである。


【正命・世間】

比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]とは何か。

 ここに聖者の弟子が、(四邪語〔嘘言・離間語・粗悪語・綺語〕と、三邪業〔殺生・盗み・邪淫〕の、身・語の邪行を離れて、正道に依りて、(生活・生)命を清浄にし、)誤った生活・邪な生活法を捨てて、正しい生活法によって生活を営む。
〔在家の人についての正命は、出世間心に相応した心を起こしていること。
 要するに、欲界・色界・無色界・出世間の四種の地心のうち、八聖者(預流向・果、一来向・果、不還向・果、阿羅伽向・果)の心は出世間善心にあり、八聖道も出世間心にあるがゆえに。

 譬えば、仏陀の教えを知らない修行者がいるとして、世間で言えば、おおよそ、辟支伽仏陀〔独覚の聖者〕を除き、仏陀の説く真理を見聞きしていない修行者は、おおよそ梵天の境地を目指すものであるので、そのような修行者は、涅槃を知ることはない。
 しかし、ここで、仏陀の教えを学んだ人は、涅槃という最上の安穏・全き安楽を知っているので、そこを目指すことができる。その最上の安らぎである涅槃を目指すという心、がいわゆる、出世間心相応。ここで、仏陀の教えを学んでいない人は、または他でも同様にであるが、そのような人は、遊行者であっても、出世間心相応の志とは異なる。
 そのように、譬えば、解脱・涅槃を知らない人は、その人自身が無漏の慧心解脱・涅槃を知らないがために、望んで向かう先は、おのずと、欲界天、色界、無色界を目指すことになってしまう。というように、天部の善趣を目指さざるをえない、そのような彼を、譬えで、鬼神に取られる人、等、と言うのである、と。
 まぁ、帝釈天も鬼神だけれども、「目指すは、帝釈天のいる、三十三天だ」と、このように言う者もまた、同じように(善の)”鬼神に取られる”と譬えられる。

 帝釈天も仏教の守護神・善神で、多くの功徳を積んでいるけれども、そのように、涅槃ではない善処を目指すことを、譬えて”鬼神に取られる”等といい、
「涅槃を目指していたが、善処に来てしまった・・・」、ということであれば、鬼神に取られた、というのではなしに、「修行が足りなかった・・・」、となり、それはそれで、出世間心相応の志である、と。

 要するに、涅槃を知らない人は、全き安らぎである涅槃を知らないから、善趣の天を目指すほか(知ら)ない。
 しかし、仏陀の教えを学んだ人が、涅槃を知っているのに、「私は般涅槃はしたくないので、善趣の天を目指す」とか言ってるような人は、そもそも仏陀の教えを理解できてもいないのであるが、死後、その生存時の善業によりて、天の極楽にいったとしても、その後、再び流転輪廻して堕処に赴き、苦を受けることもあるだろう、というのをも理解できてはいない、となる。
(例えば、無所有処を説く仙人や、非想非非想処を説く仙人が、次の世においては、それぞれ、その境地への出生を得るが、その無所有処、非想非非想処からの、次の出生においては、片や王族となり、また、片や畜生となり、そして、更に、その次の出生においては、両者ともに地獄へと出生する、というように、無明の者の輪廻は止むことがない。)

 と、そのように、(他の教えを持っている人、外道の人でも、)ここで、仏陀の教えを学び、理解する人は、出世間心相応の志を持つことができる。善業、善縁。〕
 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]である。


【正命・出世間】

比丘たちよ、では、清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]とは何か。比丘たちよ、

 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、
 すなわち、誤った生活・邪な生活(邪命)に関するこれらの悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、

 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]である。


(このように、邪命を邪命であると了知し、正命を正命であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。
 彼はこのように知りて、修学し、邪命を断じて、正命を成就しようと欲する。)そして、邪命を断じて、正命を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。
 また、正しい念ありて、邪命を断じ、念ありて正命を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。

 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正命]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。
この故に、[正見]が先行するのである。


[[【正精進】

 比丘たちよ、では、正しい精進〔正精進・正勤(四正勤)〕とは何か。

〔律儀勤〕 邪悪・不善が生じるのを注意して防ぐ。(未だ生じていない〈・為していない〉邪悪・不善法を生じさせないために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める)
〔断勤〕 邪悪・不善を捨てる。(すでに生じてしまった〈・為してしまった〉邪悪・不善法を断じ捨てるために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める)
〔修勤〕 善を生じさせる。(未だ生じていない〈・成していない〉善法を生じさせるために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める)
〔随護勤〕 善を維持する。(すでに生じている〈・成した〉善法は住せしめて忘失せず、多く修習し、廣く修習し、円満成就するために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める)
〈生じた悪の捨断〉すでに生じた悪を、八聖道にある精進が捨断するのは明らかであるので、世間善が邪悪・不善を捨断する様子を述べる。
「私は、邪欲行を為してしまった。これは非常に悪い。しかし、このことを後悔してばかりいても、ただ、不善が増すだけである。また後悔しても為したことは元に戻らない」と、このように考えて、その為した邪欲行を反省し、謝罪・懺悔し、そして、後悔することをやめて、再び邪欲行を為さないように努めれば、邪欲行を捨断することができるのである。
 比丘たちよ、これが、正しい精進[正精進]である。


【正念】

比丘たちよ、では、正しい念住[正念(四念住)]とは何か。

〔身(随観)念処〕 身体は浄らかではない。(種々の修習法によりて、身体というものをこまかく観察し、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する)
〔受(随観)念処〕 感受は苦である。(感覚(感受)というものをこまかく観察し、心身の苦・楽・不苦不楽の受を、はっきりと知り、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する)
〔心(随観)念処〕 心は無常である。(心というものをこまかく観察し、貪りの心がある、貪りの心がない、瞋の心がある、瞋の心がない、癡の心がある、癡の心がない、等の自らの心をはっきりと知り、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する)
〔法(随観)念処〕 法は無我である。(自己・他・自他の法において、法を随観し、生・滅・生滅の法において、法を随観し、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住し、世の何ものにも執著しない)
【身(随観)念処】
 身体の各部を所縁として、〔大カッサパ尊者の言葉〕『人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち(花や香を以て)護られている。種々の汚物がが充満し、ここかしこから流れ出ている。このような身体を持ちながら自分を偉い者だと思い、また他人を軽蔑するならあば、彼は〈見る視力が無い〉という以外の何だろう』と、このように身体に関し正念・正知にして観じ、そのようにして、真実の不浄の行相を繰り返し観じ、世間の貪憂を調伏して住する念住を、身念処という。
 この念住によりて、生じていた浄想の転倒・身の欲を捨断することができる。

【受(随観)念処】
 受を所縁として観察する念住をいい、『苦受は苦として、楽受や不苦不楽受に関しては、無常であると観じ、無常であるものは苦である』として、一切の感受が苦であると、正念・正知にして観じ、そのようにして、真実の苦の行相を繰り返し観じ、世間の貪憂を調伏して住する念住を、受念処という。
 この念住によりて、受に関して生じている、楽想の転倒を捨断できる。
(楽想というのは、例えば、快楽等を楽であるとして、”無常であるものは苦である”として如実に見ずに、無常であり苦であるものを楽であるとする、真実・真理についての無知・無明であり、その無知・無明の楽想によりて、苦を厭い離ることに向かわずに、逆に貪欲・快楽受に執著してしまう。そのように、”感受は楽である”とする転倒した見方をいう。
 その楽想があることによりては、苦の原因である渇愛(喜び・貪り)を厭い離れることに向かわず、苦を楽であるとする、そのように、真実・真理に対しての無知・無明の転倒した見方に向い、また、貪欲・邪欲・不善に向かってしまう原因となる。これを楽想という。)

仏陀曰く、
『三受有り、苦受・楽受・不苦不楽受である。楽受を観じてはしかも苦想を作し、苦受を観じては剣に刺されるような苦の想を作し、不苦不楽受を観じては無常想を作しなさい。
 若しかの比丘、楽受を観じてしかも苦想を作し、苦受を観じて剣刺の想を作し、不苦不楽を観じて無常滅の想を作せば、是れを正見と名づく』

『楽受の感受される時、すなわち楽受を知らなければ、貪りの心によりて、出離の道を見ることはない。
 苦受の感受される時、すなわち苦受を知らなければ、瞋恚の心によりて、出離の道を見ることはない。
 不苦不楽受を、正覚の説いているように、善く観察しない者は、終に彼岸に渡ることはできない。
 比丘は勤めて精進し 正しく知りて動転せざれ このように一切の受を 慧ある者は能く覚知する。
 諸々の受を覚知すれば、現法に諸の漏を尽くす。明智ある者は命終して、衆の数に堕ちることはない。衆の数に堕ちず断ずれば、般涅槃に処する』

【心(随観)念処】
 心を所縁として、これは有貪心である、これは無貪心である、と、このようにして分別・判断する、そのように、常ではなく、無常であると、正念・正知にして観じ、そのようにして、真実の無常の行相を繰り返し観じ、世間の貪憂を調伏して住する念住を、心念処という。
 この念住によりて、心が変化している様相を如実に知ることができるようになり、心に関して生じている、常想の転倒を捨断することができる。

【法(随観)念処】
 法とは、想蘊・行蘊であって、これらの自性は無我であると、正念・正知にして観じ、そのようにして真実の無我の行相を繰り返し観じ、世間の貪憂を調伏して住する念住を法念処という。
 この念住によりて、法に対して生じている、我想の転倒を捨断することができる。


 要するに、相の転倒とは、”○:不浄・苦・無常・無我”である”身・受・心・法”に対して、”×:清浄・楽・常・我”として誤まって見ていること・誤まって受け取ること、真理・真実を転倒して見ていること・転倒して受け取ることである。


仏陀曰く、
『身・語(口)・意(心)の悪行を断じて、善行を修習せば、戒めに依り立ちて、四念処が修習される』

『これら四念住を(三重〔内・外・内外〕に)修習し、多修せば、離貪・滅尽・寂静・證智・等覚・涅槃に資する』

『四念処に善く心を繋いで住しなさい。不死を失ってはならない』

『親友・親戚・血族をこの四念処の修習に導き、習わしめて、住せしむべし』



 比丘たちよ、これが、正しい念住[正念]である。


【正定】

比丘たちよ、では、正しい禅定[正定]とは何か。

〔初禅〕 もろもろの欲望を離れ、もろもろの邪悪・不善を離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅を具足して住するという。
(尋、伺、喜、楽、一境性の五支がある)
〔二禅〕 対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向きとなり、もはや何ものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。
(喜、楽、一境性の三支がある)
〔三禅〕 喜びをもまた離れるがゆえに、内心平等にして執著なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これをもろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足して住するというのである。
(喜、一境性の二支がある)
〔四禅〕 楽をも苦をも断ずる。さきに、喜びをも憂いをも滅したので、不苦・不楽にして、捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するという。
(捨、一境性の二支がある)〔五種禅にすると、分け方に前後あり〕

 比丘たちよ、これが、正しい禅定[正定]である。


【正智】

比丘たちよ、正しく知る[正智]とは何か。

 十九種の観察智と、果智を知る、

 比丘たちよ、これが、正しく知る[正智]である。


【正解脱】

比丘たちよ、正しい解脱[正解脱]とは何か。

 無漏の心解脱・慧解脱、すなわち、阿羅伽果の解脱、

 比丘たちよ、これが、正しい解脱[正解脱]である。]]



 また、比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。
比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、


【正道の縁起】

 比丘たちよ、

 [正見] 正しい見方の人に、正しい思惟が起こる。

 [正思] 正しい思惟の人に、正しい言葉が起こる。

 [正語] 正しい言葉の人に、正しい行いが起こる。

 [正業] 正しい行いの人に、正しい生活が起こる。

 [正命] 正しい生活の人に、正しい努力が起こる。

 [正精進] 正しい努力の人に、正しい念住が起こる。

 [正念] 正しい念住の人に、正しい精神統一(禅定)が起こる。

 [正定] 正しい精神統一(禅定)の人に、正しい智慧が起こる。

 [正智] 正しい智慧の人に、[正解脱] 正しい解脱が起こる。
〔ここは、巴梨の経によれば、『[正智] 正しい智慧の人に、[正解脱] 正しい解脱が起こる』となり、
 この場合の[正智]は、八支聖道の修習によりて、三漏・五蓋・五蘊・五下分結・五上分結等、の諸々を、遍知・證知・遍尽・断じるための智慧、または、遍知・證知・遍尽・断じた智慧、と解される。

 漢訳によれば、[正智]と、[正解脱]とが入れ替わり、『[正解脱] 正しい解脱の人に、[正智] 正しい智慧が起こる』となる、
 この場合の、[正智]は、解脱智、と解される。

 何故このようになるのかというのは、例えば、五分法身で言えば、「定によりて智慧を得、智慧によりて解脱に到達し、解脱によりて解脱智見を得る」となり、どちらにも智が入ることとなる、そのゆえに、入れ替わりが生じたのだろう、と思われる。〕
 比丘たちよ、このようにして、八支具足の有学(者)があり、十支具足の(無学の)阿羅伽があり、

[[彼らを、有学の八支成就といい、また、漏尽の阿羅伽の十支成就という。

比丘たちよ、では、有学の八支成就とは何か、

  すなわち、正見を成就し、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、を修学し成就する。
これを、有学の八支成就という。

比丘たちよ、では、漏尽の阿羅伽の十支成就とは何か。

 すなわち、(正見を成就し、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、正智、正解脱を成就し、)阿羅伽果を成就して、修学をする必要がない(無学の聖者)。
これを、阿羅伽の十支成就という。]]

 また、比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。

比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、

 比丘たちよ、[正見]は[邪見]を断じ、[邪見]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正見]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正思]は[邪思]を断じ、[邪思]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正思]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正語]は[邪語]を断じ、[邪語]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正語]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正業]は[邪業]を断じ、[邪業]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正業]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正命]は[邪命]を断じ、[邪命]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正命]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正精進]は[邪精進]を断じ、[邪命]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正精進]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正念]は[邪念]を断じ、[邪念]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正念]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正定]は[邪定]を断じ、[邪定]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正定]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正智]は[邪智]を断じ、[邪智]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正智]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、[正解脱]は[邪解脱]を断じ、[邪解脱]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。
そして、[正解脱]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。

 比丘たちよ、このようにして、二十の善品と、二十の不善品との、偉大なる四十品の真理の教えが転ぜられた。

これは、いかなる沙門・婆羅門・天・悪魔・梵天・あるいは、世間のいかなる者によりても逆転できないものである。


 比丘たちよ、いかなる沙門、あるいは婆羅門でも、もし彼が、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとするならば、この現世において、真理に立脚した十の説によりて、彼の説は、問い詰められて責められるに至る。

 もしも尊者が、正しい見方[正見]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った見方・邪な見方[邪見]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい思惟[正思]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った思惟・邪な思惟[邪思]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい言葉[正語]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った言葉・邪な言葉[邪語]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい行い[正業]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った行動・邪な行動[邪業]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい生活[正命]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った生活・邪な生活[邪命]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい努力[正精進]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った努力・邪な努力[邪精進]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい念住[正念]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った念住・邪な念住[邪念]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい精神統一[正定]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った精神統一・邪な精神統一[邪定]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい智慧[正智]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った智慧・邪な智慧[邪智]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。

 もしも尊者が、正しい解脱[正解脱]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った解脱・邪な解脱[邪解脱]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。


 比丘たちよ、このように、いかなる沙門、あるいは婆羅門でも、もしも彼が、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとするならば、この現世において、真理に立脚した十の説によりて、彼の説は、問い詰められて責められるに至る。

 比丘たちよ、オッカラ地方のヴァッサとバンニャとは、無因論者、無作論者、虚無論者であったが、彼らでさえ、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとは考えないであろう。それはどうしてか。非難や怒り、また、問い詰められて責められるのを、恐れるからである」

 このように世尊は説かれた。かの比丘たちは歓喜して、世尊の説かれたことを敬い受けた。


中部経典 聖道経





















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