更訂 H29.4.16
八聖道について 『比丘たちよ、八聖道を修習し、多修せば、”七種三十七修習(法)”〔三十七菩提分法〕を修習円満する』 八正道 このようにわたくしは聞きました。 ある時、世尊は、サーヴァッテー(舎衛城)の、ジェータ(祗陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。 その時、世尊は、もろもろの比丘たちに告げていった、 「比丘たちよ、いま私は汝らのために清浄なる八支の道を説こうと思う。ひとつ、それを汝らのために分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。そして、それを聞いてよく善思しなさい。では、私は説こう」 「大徳よ、かしこまりました」と、彼ら比丘たちは世尊にこたえた。 世尊はこのように仰せられた、 「比丘たちよ、いかなるをか清浄なる八支の道というのであろうか。 いわく、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。 比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、 苦なるものを知ること、 苦の生起を知ること、 苦を滅することを知ること、 苦の滅尽にいたる道を知ること、 比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正思というのであろうか。比丘たちよ、 迷いの世間を離れたい[出離]と思うこと、([在家者は、]出家者の八聖者(預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅伽向・阿羅伽果)の境地(解脱・涅槃)を志し、(貪)欲〔渇愛・貪り・妄執〕を捨て去ろうと思うこと、) 悪意(瞋恚〔怒り・憎しみ・怨み〕)を抱くことから免れたいと思うこと、 他者を害することなからんと思うこと、 比丘たちよ、これを名づけて正思というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正語というのであろうか。比丘たちよ、 〔嘘言(妄語)の捨離〕 偽りの言葉を離れること、 〔離間語(中傷語・両舌)の捨離〕 中傷する言葉(陰口、相互の和合を破る二枚舌)を離れること、 〔粗悪語(粗暴語)の捨離〕 粗悪な言葉(荒々しい言葉、罵って人を悩ます言葉)を離れること、 〔綺語(雑穢語)の捨離〕 真実(道理)に背く、巧みに飾った言葉(卑猥な冗談、悪い意味の冗談、汚れた心から発せられた言葉、不要の無駄話に耽ること)を離れること、 比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正業というのであろうか。比丘たちよ、 殺生を離れること、 与えられざるを取らざること、 清浄ならぬ行為〔欲邪行〕を離れること、 比丘たちよ、これをなづけて正業というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正命というのであろうか。比丘たちよ、 ここに一人の清浄なる弟子があり、よこしま〔邪〕の生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる、([在家者は、]四邪語〔嘘言・離間語・粗悪語・綺語〕と、三邪業〔殺生・盗み・邪淫〕の、身・語の邪行を離れて、正道に依りて(生活・生)命を清浄ならしむこと、) 比丘たちよ、その時、これを名づけて正命というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正精進というのであろう。比丘たちよ、 ここに一人の比丘があり、いまだ生ぜざる悪しきこと・不善は生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。 あるいは、すでに生じた悪しきこと・不善を断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。 また、いまだ生ぜざる善きことを生ぜしめんがために志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。 あるいはまた、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。 比丘たちよ、その時、これを名づけて正精進というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正念というのであろうか。比丘たちよ、 〔身念処〕 ここに一人の比丘があって、わが身において身体というものをこまかく観察する。 熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。 〔受念処〕 また、わが感覚(感受)において感覚(感受)というものをこまかく観察する。 熱心によく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。 〔心念処〕 あるいはわが心において心というものをこまかく観察する。 熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。 〔法念処〕 あるいはまた、この存在におけるの諸々の事象・(法)において、存在におけるの諸々の事象・(法)というものをこまかく観察する。 熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。 比丘たちよ、この時これを名づけて正念というのである。 比丘たちよ、では、いかなるをか正定というのであろうか。比丘たちよ、 〔初禅〕 ここに一人の比丘があって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。 これを初禅を具足して住するという。 〔二禅〕 だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向きとなり、もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。 〔三禅〕 さらに彼は、その喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執著なくただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これをもろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足して住するというのである。 〔四禅〕 さらにまた彼は、楽をも苦をも断ずる。さきに、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。 これを第四禅を具足して住するという。 もろもろの比丘たちよ、これを名づけて正定というのである」 八聖道の修習について(善友) 『比丘たちよ、八聖道を多修せば、(順に)”七種三十七修習(法)”〔三十七菩提分法〕を修習円満する』 『比丘たちよ、日輪の上るとき、先驅たり、前相たるは、即ち、明相出づることなり。 比丘たちよ、そのように、比丘が八支聖道を起すとき、先驅たり、前相たるは、善友あることなり』 『比丘たちよ、他に一法として、いまだ生じていない八支聖道を生じて、すでに生じている八支聖道をして修習円満ならしむるものあるを見ず。 比丘たちよ、それは、即ち、善友のあることである。 比丘たちよ、善友ある比丘においては、八支聖道を修習し、多修せんと期すべきなり』 『比丘たちよ、一法あり、八支聖道を起すに利益多し。何をか一法と為すや。いわく、善友のあることなり』 『比丘たちよ、龍は、雪山王に依りて身を増大ならしめ、力を獲得す。そこにて身を増大ならしめ、力を獲得しおわりて、小池に入る、小池に入りおわりて、大池に入る、大池に入りおわりて、小河に入る、小河に入りおわりて、大河に入る、大河に入りおわりて、海に入る、そこにおいて身の広大なる得る。 比丘たちよ、そのように、比丘が、戒により、戒に立ちて、八支聖道を修習し、多修せば、諸法において広大なるを得る』 『比丘たちよ、八支聖道を修習し、多修せば、生ずるにしたがいて、たちまちに、悪不善法を隠没せしめ、寂滅せしめる』 『比丘たちよ、八支聖道を修習し、多修せば、生ずるにしたがいて、しばらくしてのち、悪不善法を隠没せしめ、寂滅せしめる』 『比丘たちよ、八支聖道を修習し、多修せば、定んで、悪不善法を吐き、還て呑むことなし』 『比丘たちよ、譬えば、樹がありて、東に向い、東に傾き、東に臨まんに、もしその根を断たば、何れの方向に傾きて倒れるだろうか 「大徳よ、その向かう方へ、その傾きた方へ、その臨む方へです」 比丘たちよ、そのように、比丘が、八支聖道を修習し、多修せば、涅槃に向い、涅槃に傾き、涅槃に臨む』 無明 このようにわたくしは聞きました。 ある時、世尊はサーヴァッティーの、ジャータ林なるアナータピンディカの園に住しておられました。 そこで、世尊は、比丘たちに仰せられた、 「比丘たちよ」 「世尊よ」と、比丘たちは、世尊に応えました。 そして、世尊はこのように説かれました、 「比丘たちよ、無明が前となりて、(不善法が生じる。) 不善法が生じるにしたがいて、無慚無愧が生じる。 比丘たちよ、 無明にしたがう無智者において、邪見が生じる。 邪見があれば、邪思が生じる。 邪思があれば、邪語が生じる。 邪語があれば、邪業が生じる。 邪業があれば、邪命が生じる。 邪命があれば、邪精進が生じる。 邪精進があれば、邪念が生じる。 邪念があれば、邪定が生じる。 比丘たちよ、明が前相となりて、(善法が生じる、) 善法の生じるにしたがいて、慚愧が生じる。 比丘たちよ、 明にしたがう有智者において、正見が生じる。 正見があれば、正思が生じる。 正思があれば、正語が生じる。 正語があれば、正業が生じる。 正業があれば、正命が生じる。 正命があれば、正精進が生じる。 正精進があれば、正念が生じる。 正念があれば、正定が生じる」 道 このようにわたくしは聞きました。 ある時、世尊はサーヴァッティーのジャータ林なるアナータピンディカの園に住しておられました。 そこで、世尊は、比丘たちに、このように仰せられた、 「比丘たちよ、在家者・出家者にして、邪道〔邪行〕を起すということは、私の説かない事柄である。 それは何故であるのか。 在家者・出家者にして、邪道を起こせば、(邪行のために、) 善法を楽[ねが]はない故である。 では、何を邪道と為すのか、 いわゆる、邪見・邪思・邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定、である。 比丘たちよ、在家者・出家者にして、正道〔善行〕を起すということは、私の説きて讃嘆する事柄である。 それは何故であるのか。 在家者・出家者にして、正道を起こせば、(善行のために、) 善法を楽[ねが]い、善法〔正法〕を善しとする故である。 では、何を正道と為すのか、 いわゆる、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、である」と。 その時、世尊は偈を説いて言われた、 「在家者・出家者にして、邪道を起こせば、彼は終いに、無上の正法を楽はず。 在家者・出家者にして、正道を起こせば、彼は常に心に、無上の正法を楽う。」 邪 このようにわたくしは聞きました。 ある時、世尊はサーヴァッティーの、ジャータ林なるアナータピンディカの園に住しておられました。 そこで、世尊は、比丘たちに仰せられた、 「比丘たちよ、まさに、邪見を離れ、邪見を断ぜよ。 もし邪見を断ずることができなければ、私は終いに、邪見を離断せよ、とは説かない。 邪見を断ずべきを以ての故に、私は、比丘に、まさに邪見を離れよ、と説く。 そして、比丘たちよ、邪見を離れおわりて、正見を修習せよ。 もし邪見を離れなければ、邪見はまさに、非法〔邪道〕の義をもちて、不利益を増大し、苦を行作する。 この故に、私は、まさに邪見を離れよ、と説く。 このように、邪思・邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定もまた、これと同様に説く。 比丘たちよ、邪見を離れおわりて、まさに正見を修習せよ。 もし正見を修習することを得なければ、私は終いに、正見を修習せよ、とは説かない。 正見を修習することを得たならば、私は比丘に、まさに正見を修習せよ、と説く。 もし正見を修習しなければ、非法〔邪道〕の義をもちて、不利益を増大し、苦を行作する。 この故に、私は、まさに正見を修習せよ、と説く。 正法〔正道〕の義をもちて、利益を増大したならば、常に安穏・安楽となることを得る。 この故に、比丘は、まさに正見を修習せよ。 このように、正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、もまた、これと同様に説く」と。 このように世尊は説かれた。かの比丘たちは歓喜して、世尊の説かれたことを敬い受けた。 雑・相応 聖道相応
八支からなる聖道 このようにわたくしは聞きました。 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)の、ジェータ林にあるアナータピンィディカの園(祇樹給孤独園)に滞在しておられた。 時に、世尊は比丘たちに呼びかけられた、 「比丘たちよ」 「はい、尊師よ」と、かの比丘たちは、世尊に申し上げた。 世尊はこのように仰せられた、 「比丘たちよ、そなたたちに、清浄なる正しい精神統一〔心一境性〕の、修習の資助と、その要件の具えとを説く。 それを聞いてよく善思しなさい。では、説こう」 「かしこまりました、尊師よ」と、かの比丘たちは世尊に申し上げた。 世尊はこのように仰せられた、 「比丘たちよ、それでは、修習の資助となり、要件を備えた、心一境性〔禅定(聖正定)〕とは何か。 比丘たちよ、すなわち、 [正見] 正しい見方、 [正思] 正しい思惟、 [正語] 正しい言葉、 [正業] 正しい行い、 [正命] 正しい生活、 [正精進] 正しい努力、 [正念] 正しい念住、 これらの七支によりて、心が一向きを得るならば、それを、修習の資助となり要件を備えた心一境性〔禅定(聖正定)〕と言う。 比丘たちよ、(この七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、どうして[正見]は先行するものであるのか、 邪見を邪見であると了知し、正見を正見であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。 比丘たちよ、誤った見方・邪な見方[邪見]とは何か。 【邪見】 布施、祭祀、供物(供養)は無意味であり、善行・悪行の業の報いはない。 この世は存在せず、かの世も存在しない。母もなく、父もない。また、諸々の化生の生きものも存在しない。 そして、最高の境地に到達し、正しく実践しており、この世とかの世とを、自ら明らかに知り、覚とりを得て、それを説き示すような沙門や婆羅門達はこの世間に存在しない。 比丘たちよ、これが[邪見]である。 比丘たちよ、では、正しい見方[正見]とは何か。 【正見】 比丘たちよ、私は、[正見]を二種として説く、 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]と、 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]とである。 比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]とは何か。 【正見・世間】 布施、祭祀、供物(供養)は意味があり、善行・悪行の業の報いはある。 この世は存在し、かの世も存在する。母もあり、父もある。また、自然に発生する化生の生きものも存在する。 そして、最高の境地に到達し、正しく実践しており、この世とかの世とをみずから明らかに知り、覚とりを得て、それを説き示すような沙門や婆羅門達はこの世間に存在する。 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]である。 比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]とは何か。比丘たちよ、 【正見・出世間】 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、 すなわち、智慧〔智慧〕、智慧の能力〔慧根〕、智慧の力〔慧力〕、覚りの要件である法を正しく弁別判断する智慧〔択法覚支〕、道の支分としての正しい見方[正見]、 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]である。 (このように、邪見を邪見であると了知し、正見を正見であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。 彼はこのように知りて、修学し、邪見を断じて、正見を成就しようと欲する。)そして、邪見を断じて、正見を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。 また、正しい念ありて、邪見を断じ、念ありて正見を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正見]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。 この故に、[正見]が先行するのである。 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 邪思を邪思であると了知し、正思を正思であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。 比丘たちよ、誤った思惟・邪な思惟[邪思]とは何か。 【邪思】 〔欲思惟〕 欲の思惟、(渇愛・貪り・妄執の思惟) 〔瞋思惟〕 怒りの思惟、(悪意〔怒り・憎しみ・怨み〕の思惟) 〔害思惟〕 傷害の思惟、 比丘たちよ、これが[邪思]である。 比丘たちよ、では、正しい思惟[正思]とは何か。 【正見】 比丘たちよ、私は、[正思]を二種として説く、 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]と、 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]とである。 比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]とは何か。 【正思・世間】 〔出離思惟〕 出離の思惟、(出離心に於いて、欲〔渇愛・貪り・妄執〕を捨て去ろうと思うこと。貪欲に応えるものを探し求めたり、貪欲に執著するような思惟をしない) 〔無瞋思惟〕 怒らない思惟、(悪意〔怒り・憎しみ・怨み〕を持たない。慈心を持って思惟し、”一切の衆生に憎しみ、悩み、苦しみがなく幸せでありますように”と望む) 〔無害思惟〕 傷害しない思惟、(苦しめる思惟から離れ、非心を持って思惟し、害を与えることを思惟しない) 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]である。 比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]とは何か。比丘たちよ、 【正思・出世間】 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、 すなわち、思索、推究、思惟、心の専注・凝集、心の確立、言葉を形成する思惟、 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]である。 (このように、邪思を邪思であると了知し、正思を正思であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。 彼はこのように知りて、修学し、邪思を断じて、正思を成就しようと欲する。)そして、邪思を断じて、正思を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。 また、正しい念ありて、邪思を断じ、念ありて正思を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正思]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。 この故に、[正見]が先行するのである。 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 邪語を邪語であると了知し、正語を正語であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。 比丘たちよ、誤った言葉・邪な言葉[邪語]とは何か。 【邪語】 〔虚妄語 (嘘言)〕 虚偽の言葉、 〔離間語 (両舌・二枚舌)〕 両舌・中傷の言葉、 〔粗悪語 (悪口・粗暴語)〕 粗悪な言葉、 〔綺語 (雑穢語)〕 真実に背く巧みに飾った言葉、 比丘たちよ、これが[邪語]である。 比丘たちよ、では、正しい言葉[正語]とは何か。 【正語】 比丘たちよ、私は、[正語]を二種として説く、 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]と、 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]とである。 比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]とは何か。 【正語・世間】 〔不妄語〕 虚偽の言葉を離れること、(妄言を捨てて、自他のため、自他の利益のために、嘘は言わない) 〔不離間語 (不両舌)〕 両舌・中傷の言葉を離れること、(邪悪・悪意・悪念の悪い告げ口をしない。離間語を捨てて、仲違いの人を(善く)仲直りさせ、仲良くさせ(善く)団結させる言葉を使う) 〔不粗悪語 (不悪口)〕 粗悪・粗暴な言葉を離れること、(粗暴な言葉を捨てて、上品で優しい言葉を話し、心善い言葉を話し、好ましく快い言葉を話す) 〔不綺語〕 真実に背く巧みに飾った言葉を離れること、(ざれごと・くだらない話は捨てて、真実を話し、道理の通った内容のある話をし、時と場所に適したことを話す) 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]である。 比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]とは何か。比丘たちよ、 【正語・出世間】 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、 すなわち、言葉に関するこれらの四種の語悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]である。 (このように、邪語を邪語であると了知し、正語を正語であると了知して見る、その彼に正しい見方[正語]がある。 彼はこのように知りて、修学し、邪語を断じて、正語を成就しようと欲する。)そして、邪語を断じて、正語を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。 また、正しい念ありて、邪語を断じ、念ありて正語を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正語]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。 この故に、[正見]が先行するのである。 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 邪業を邪業であると了知し、正業を正業であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。 比丘たちよ、誤った行い・邪な行い[邪業]とは何か。 【邪業】 〔殺生〕 殺生、 〔偸盗 (不与取)〕 盗み、 〔邪淫〕 愛欲にまかせた淫らな行い・姦通(不倫)、 比丘たちよ、これが[邪業]である。 比丘たちよ、では、正しい行い[正業]とは何か。 【正業】 比丘たちよ、私は、[正業]を二種として説く、 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]と、 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]とである。 比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]とは何か。 【正業・世間】 〔不殺生〕 殺生を離れること、(殺すこと、苦しめることを捨てて、すべての衆生・存在にたいして、あわれみある者となる、慈悲心を持つ) 〔不偸盗〕 盗みを離れること、(盗みを離れて、他人の財の権利を尊重すること) 〔不邪淫〕 愛欲にまかせた淫らな行いを離れること、(邪淫を捨てて、性道徳を犯さない) 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]である。 比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]とは何か。比丘たちよ、 【正業・出世間】 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、 すなわち、身体に関するこれら三種の悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]である。 (このように、邪業を邪業であると了知し、正業を正業であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。 彼はこのように知りて、修学し、邪業を断じて、正業を成就しようと欲する。)そして、 邪業を断じて、正業を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。 また、正しい念ありて、邪業を断じ、念ありて正業を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正業]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。 この故に、[正見]が先行するのである。 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 邪命を邪命であると了知し、正命を正命であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。 比丘たちよ、誤った生活・邪な生活[邪命]とは何か。 【邪命】 詐欺、騙すこと、おしゃべり、相を占う等の生計、若干種の畜生の呪を用いて意を満たすこと、利益の上にも利益を貪ること、不如理にして何らかを求めるのに邪行法を以てすること、 四邪語〔嘘言・離間語・粗悪語・綺語〕や三邪業〔殺生・盗み・邪淫〕の身・語の邪行の、これらによる生活・職業をする、 比丘たちよ、これが誤まった生活・邪な生活[邪命]である。 比丘たちよ、では、正しい生活[正命]とは何か。 【正命】 比丘たちよ、私は、[正命]を二種として説く、 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]と、 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]とである。 比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]とは何か。 【正命・世間】 ここに聖者の弟子が、(四邪語〔嘘言・離間語・粗悪語・綺語〕と、三邪業〔殺生・盗み・邪淫〕の、身・語の邪行を離れて、正道に依りて、(生活・生)命を清浄にし、)誤った生活・邪な生活法を捨てて、正しい生活法によって生活を営む。 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]である。 比丘たちよ、では、清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]とは何か。比丘たちよ、 【正命・出世間】 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、 すなわち、誤った生活・邪な生活(邪命)に関するこれらの悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]である。 (このように、邪命を邪命であると了知し、正命を正命であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。 彼はこのように知りて、修学し、邪命を断じて、正命を成就しようと欲する。)そして、邪命を断じて、正命を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。 また、正しい念ありて、邪命を断じ、念ありて正命を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正命]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。 この故に、[正見]が先行するのである。 [[比丘たちよ、では、正しい精進〔正精進・正勤(四正勤)〕とは何か。 【正精進】 〔律儀勤〕 邪悪・不善に注意して防ぐ。(未だ生じていない邪悪・不善法を生じさせないために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める) 〔断勤〕 邪悪・不善を捨てる。(すでに生じてしまった邪悪・不善法を断じ捨てるために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める) 〔修勤〕 善を生じさせる。(未だ生じていない善法を生じさせるために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める) 〔随護勤〕 善を維持する。(すでに生じている善法は住せしめて忘失せず、多く修習し、廣く修習し、円満成就するために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める) 比丘たちよ、これが、正しい精進[正精進]である。 比丘たちよ、では、正しい念住[正念(四念住)]とは何か。 【正念】 〔身(随観)念処〕 身体は浄らかではない。(種々の修習法によりて、身体というものをこまかく観察し、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する) 〔受(随観)念処〕 感受は苦である。(感覚(感受)というものをこまかく観察し、心身の苦・楽・不苦不楽の受を、はっきりと知り、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する) 〔心(随観)念処〕 心は無常である。(心というものをこまかく観察し、貪りの心がある、貪りの心がない、瞋の心がある、瞋の心がない、癡の心がある、癡の心がない、等の自らの心をはっきりと知り、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する) 〔法(随観)念処〕 法は無我である。(自己・他・自他の法において、法を随観し、生・滅・生滅の法において、法を随観し、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住し、世の何ものにも執著しない) 比丘たちよ、これが、正しい念住[正念]である。 比丘たちよ、では、正しい禅定[正定]とは何か。 【正定】 〔初禅〕 もろもろの欲望を離れ、もろもろの邪悪・不善を離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅を具足して住するという。 〔二禅〕 対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向きとなり、もはや何ものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。 〔三禅〕 喜びをもまた離れるがゆえに、内心平等にして執著なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これをもろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足して住するというのである。 〔四禅〕 楽をも苦をも断ずる。さきに、喜びをも憂いをも滅したので、不苦・不楽にして、捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するという。 比丘たちよ、これが、正しい禅定[正定]である。 比丘たちよ、正しく知る[正智]とは何か。 【正智】 十九種の観察智と、果智を知る、 比丘たちよ、これが、正しく知る[正智]である。 比丘たちよ、正しい解脱[正解脱]とは何か。 【正解脱】 無漏の心解脱・慧解脱、すなわち、阿羅伽果の解脱、 比丘たちよ、これが、正しい解脱[正解脱]である。]] また、比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 【正道の縁起】 比丘たちよ、 [正見] 正しい見方の人に、正しい思惟が起こる。 [正思] 正しい思惟の人に、正しい言葉が起こる。 [正語] 正しい言葉の人に、正しい行いが起こる。 [正業] 正しい行いの人に、正しい生活が起こる。 [正命] 正しい生活の人に、正しい努力が起こる。 [正精進] 正しい努力の人に、正しい念住が起こる。 [正念] 正しい念住の人に、正しい精神統一(禅定)が起こる。 [正定] 正しい精神統一(禅定)の人に、正しい智慧が起こる。 [正智] 正しい智慧の人に、[正解脱] 正しい解脱が起こる。 比丘たちよ、このようにして、八支具足の有学(者)があり、十支具足の(無学の)阿羅伽がある。 [[彼らを、有学の八支成就といい、また、漏尽の阿羅伽の十支成就という。 比丘たちよ、では、有学の八支成就とは何か、 すなわち、正見を成就し、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、を修学し成就する。 これを、有学の八支成就という。 比丘たちよ、では、漏尽の阿羅伽の十支成就とは何か。 すなわち、(正見を成就し、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、正智、正解脱を成就し、)阿羅伽果を成就して、修学をする必要がない(無学の聖者)。 これを、阿羅伽の十支成就という。]] また、比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 比丘たちよ、[正見]は[邪見]を断じ、[邪見]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正見]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正思]は[邪思]を断じ、[邪思]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正思]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正語]は[邪語]を断じ、[邪語]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正語]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正業]は[邪業]を断じ、[邪業]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正業]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正命]は[邪命]を断じ、[邪命]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正命]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正精進]は[邪精進]を断じ、[邪命]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正精進]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正念]は[邪念]を断じ、[邪念]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正念]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正定]は[邪定]を断じ、[邪定]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正定]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正智]は[邪智]を断じ、[邪智]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正智]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正解脱]は[邪解脱]を断じ、[邪解脱]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正解脱]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、このようにして、二十の善品と、二十の不善品との、偉大なる四十品の真理の教えが転ぜられた。 これは、いかなる沙門・婆羅門・天・悪魔・梵天・あるいは、世間のいかなる者によりても逆転できないものである。 比丘たちよ、いかなる沙門、あるいは婆羅門でも、もし彼が、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとするならば、この現世において、真理に立脚した十の説によりて、彼の説は、問い詰められて責められるに至る。 もしも尊者が、正しい見方[正見]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った見方・邪な見方[邪見]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい思惟[正思]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った思惟・邪な思惟[邪思]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい言葉[正語]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った言葉・邪な言葉[邪語]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい行い[正業]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った行動・邪な行動[邪業]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい生活[正命]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った生活・邪な生活[邪命]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい努力[正精進]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った努力・邪な努力[邪精進]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい念住[正念]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った念住・邪な念住[邪念]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい精神統一[正定]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った精神統一・邪な精神統一[邪定]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい智慧[正智]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った智慧・邪な智慧[邪智]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい解脱[正解脱]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った解脱・邪な解脱[邪解脱]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 比丘たちよ、このように、いかなる沙門、あるいは婆羅門でも、もし彼が、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとするならば、この現世において、真理に立脚した十の説によりて、彼の説は、問い詰められて責められるに至る。 比丘たちよ、オッカラ地方のヴァッサとバンニャとは、無因論者、無作論者、虚無論者であったが、彼らでさえ、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとは考えないであろう。それはどうしてか。非難や怒り、また、問い詰められて責められるのを、恐れるからである」 このように世尊は説かれた。かの比丘たちは歓喜して、世尊の説かれたことを敬い受けた。
八支からなる聖道(説明)〔説明解説:對馬〕 このようにわたくしは聞きました。 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)の、ジェータ林にあるアナータピンィディカの園(祇樹給孤独園)に滞在しておられた。 時に、世尊は比丘たちに呼びかけられた、 「比丘たちよ」 「はい、尊師よ」と、かの比丘たちは、世尊に申し上げた。 世尊はこのように仰せられた、 「比丘たちよ、そなたたちに、清浄なる正しい精神統一〔心一境性〕(聖正定)の、修習の資助と、その要件の具えとを説く。 それを聞いてよく善思しなさい。では、説こう」 「かしこまりました、尊師よ」と、かの比丘たちは世尊に申し上げた。 世尊はこのように仰せられた、 「比丘たちよ、それでは、修習の資助となり、要件を備えた、心一境性〔禅定(聖正定)〕とは何か。 比丘たちよ、すなわち、 [正見] 正しい見方、 [正思] 正しい思惟、 [正語] 正しい言葉、 [正業] 正しい行い、 [正命] 正しい生活、 [正精進] 正しい努力、 [正念] 正しい念住、 これらの七支によりて、心が一向きを得るならば、それを、修習の資助となり要件を備えた心一境性〔禅定(聖正定)〕と言う。 比丘たちよ、(この七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、どうして[正見]は先行するものであるのか、 邪見を邪見であると了知し、正見を正見であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。 【邪見】 比丘たちよ、誤った見方・邪な見方[邪見]とは何か。 布施、祭祀、供物(供養)は無意味であり、善行・悪行の業の報いはない。 この世は存在せず、かの世も存在しない。母もなく、父もない。また、諸々の化生の生きものも存在しない。 そして、最高の境地に到達し、正しく実践しており、この世とかの世とを、自ら明らかに知り、覚とりを得て、それを説き示すような沙門や婆羅門達はこの世間に存在しない。 比丘たちよ、これが[邪見]である。〔邪見は、離善地(地獄、畜生界、餓鬼界、阿修羅衆)に行く邪道にあり、正見は、善趣地に行く正道にある。 【正見】 比丘たちよ、では、正しい見方[正見]とは何か。 比丘たちよ、私は、[正見]を二種として説く、 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]と、 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]とである。 【正見・世間】 比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]とは何か。 布施、祭祀、供物(供養)は意味があり、善行・悪行の業の報いはある。〔四聖諦を知ること この世は存在し、かの世も存在する。母もあり、父もある。また、自然に発生する化生の生きものも存在する。 そして、最高の境地に到達し、正しく実践しており、この世とかの世とをみずから明らかに知り、覚とりを得て、それを説き示すような沙門や婆羅門達はこの世間に存在する(と、正しい見方をすること。) 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正見]である。〔世間の正見は、業報を信じ、あらゆる有情にとりて、業こそは自らのものである、と知る智〔十善事業の見直業に同じ〕。(厳密に言えば、自分のものと思うのは我語取。) 【正見・出世間】 比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]とは何か。比丘たちよ、 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、 すなわち、智慧〔智慧〕、智慧の能力〔慧根〕、智慧の力〔慧力〕、覚りの要件である法を正しく弁別判断する智慧〔択法覚支〕、道の支分としての正しい見方[正見]、 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正見]である。 (このように、邪見を邪見であると了知し、正見を正見であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。 彼はこのように知りて、修学し、邪見を断じて、正見を成就しようと欲する。)そして、邪見を断じて、正見を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。 また、正しい念ありて、邪見を断じ、念ありて正見を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正見]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。 この故に、[正見]が先行するのである。 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 邪思を邪思であると了知し、正思を正思であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。 【邪思】 比丘たちよ、誤った思惟・邪な思惟[邪思]とは何か。 〔欲思惟〕 欲の思惟、(渇愛・貪り・妄執の思惟) 〔瞋思惟〕 怒りの思惟、(悪意〔怒り・憎しみ・怨み〕の思惟) 〔害思惟〕 傷害の思惟、 比丘たちよ、これが[邪思]である。〔【欲思惟】は、貪りと相応する欲尋であり、五欲を考えること。 【正思】 比丘たちよ、では、正しい思惟[正思]とは何か。 比丘たちよ、私は、[正思]を二種として説く、 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]と、 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]とである。 【正思・世間】 比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]とは何か。 〔出離思惟〕 出離の思惟、(出離心に於いて、欲〔渇愛・貪り・妄執〕を捨て去ろうと思うこと。貪欲に応えるものを探し求めたり、貪欲に執著するような思惟をしない) 〔無瞋思惟〕 怒らない思惟、(悪意〔怒り・憎しみ・怨み〕を持たない。慈心を持って思惟し、”一切の衆生に憎しみ、悩み、苦しみがなく幸せでありますように”と望む) 〔無害思惟〕 傷害しない思惟、(苦しめる思惟から離れ、悲心を持って思惟し、害を与えることを思惟しない) 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正思]である。〔【出離思惟】は、初禅と相応する尋、出家することを考える尋、涅槃を所縁とする尋、観智と相応する尋、等の、無瞋思惟と無害思惟とを除いたすべての正しい思惟をいう。(出世間心相応の尋〈【正命・世間】の説明に同じ〉) 【正思・出世間】 比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]とは何か。比丘たちよ、 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、 すなわち、思索、推究、思惟、心の専注・凝集、心の確立、言葉を形成する思惟、 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正思]である。 (このように、邪思を邪思であると了知し、正思を正思であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。 彼はこのように知りて、修学し、邪思を断じて、正思を成就しようと欲する。)そして、邪思を断じて、正思を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。 また、正しい念ありて、邪思を断じ、念ありて正思を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正思]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。 この故に、[正見]が先行するのである。 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 邪語を邪語であると了知し、正語を正語であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。 【邪語】 比丘たちよ、誤った言葉・邪な言葉[邪語]とは何か。 〔虚妄語 (嘘言)〕 虚偽の言葉、 〔離間語 (両舌・二枚舌)〕 両舌・中傷の言葉、 〔粗悪語 (悪口・粗暴語)〕 粗悪な言葉、 〔綺語 (雑穢語)〕 真実に背く巧みに飾った言葉、 比丘たちよ、これが[邪語]である。〔【虚妄語】は、間違っていることを身・語によりて言ったり書いたりさせる思である。 【正語】 比丘たちよ、では、正しい言葉[正語]とは何か。 比丘たちよ、私は、[正語]を二種として説く、 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]と、 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]とである。 【正語・世間】 比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]とは何か。 〔不妄語〕 虚偽の言葉を離れること、(妄言を捨てて、自他のため、自他の利益のために、嘘は言わない) 〔不離間語 (不両舌)〕 両舌・中傷の言葉を離れること、(邪悪・悪意・悪念の悪い告げ口をしない。離間語を捨てて、仲違いの人を(善にして)仲直りさせ、仲良くさせ(善にして)団結させる言葉を使う) 〔不粗悪語 (不悪口)〕 粗悪・粗暴な言葉を離れること、(粗暴な言葉を捨てて、上品で優しい言葉を話し、心善い言葉を話し、好ましく快い言葉を話す) 〔不綺語〕 真実に背く巧みに飾った言葉を離れること、(ざれごと・くだらない話は捨てて、真実を話し、道理の通った内容のある話をし、時と場所に適したことを話す) 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正語]である。 【正語・出世間】 比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]とは何か。比丘たちよ、 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、 すなわち、言葉に関するこれらの四種の語悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正語]である。 (このように、邪語を邪語であると了知し、正語を正語であると了知して見る、その彼に正しい見方[正語]がある。 彼はこのように知りて、修学し、邪語を断じて、正語を成就しようと欲する。)そして、邪語を断じて、正語を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。 また、正しい念ありて、邪語を断じ、念ありて正語を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正語]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。 この故に、[正見]が先行するのである。 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 邪業を邪業であると了知し、正業を正業であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。 【邪業】 比丘たちよ、誤った行い・邪な行い[邪業]とは何か。 〔殺生〕 殺生、 〔偸盗 (不与取)〕 盗み、 〔邪淫〕 愛欲にまかせた淫らな行い・姦通(不倫)、 比丘たちよ、これが[邪業]である。〔【殺生】は、他人を殺す時、自ら身体を用いて働きかける身加行と、他に命じること、即ち語を用いて働きかける語加行とを生じさせる殺生の思が、殺生の邪業である。 【正業】 比丘たちよ、では、正しい行い[正業]とは何か。 比丘たちよ、私は、[正業]を二種として説く、 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]と、 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]とである。 【正業・世間】 比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]とは何か。 〔不殺生〕 殺生を離れること、(殺すこと、苦しめることを捨てて、すべての衆生・存在にたいして、あわれみある者となる、慈悲心を持つ) 〔不偸盗〕 盗みを離れること、(盗みを離れて、他人の財の権利を尊重すること) 〔不邪淫〕 愛欲にまかせた淫らな行いを離れること、(邪淫を捨てて、性道徳を犯さない) 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正業]である。 【正業・出世間】 比丘たちよ、では清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]とは何か。比丘たちよ、 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、 すなわち、身体に関するこれら三種の悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正業]である。 (このように、邪業を邪業であると了知し、正業を正業であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。 彼はこのように知りて、修学し、邪業を断じて、正業を成就しようと欲する。)そして、邪業を断じて、正業を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。 また、正しい念ありて、邪業を断じ、念ありて正業を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正業]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。 この故に、[正見]が先行するのである。 比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 邪命を邪命であると了知し、正命を正命であると了知する、その彼に、かの[正見]がある。 【邪命】 比丘たちよ、誤った生活・邪な生活[邪命]とは何か。 詐欺、騙すこと、おしゃべり、相を占う等の生計、若干種の畜生の呪を用いて意を満たすこと、利益の上にも利益を貪ること、不如理にして何らかを求めるのに邪行法を以てすること、 四邪語〔嘘言・離間語・粗悪語・綺語〕や三邪業〔殺生・盗み・邪淫〕の身・語の邪行の、これらによる生活・職業をする、 比丘たちよ、これが誤まった生活・邪な生活[邪命]である。〔業道となる程ではない邪命は、その邪行・悪業を行作した段階・行作している段階で、悪処・地獄に堕ちるのが決定する、という程ではない邪業となり、また、その邪行によりて、他の邪道支が生ずる縁となる。 【正命】 比丘たちよ、では、正しい生活[正命]とは何か。 比丘たちよ、私は、[正命]を二種として説く、 煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]と、 清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]とである。 【正命・世間】 比丘たちよ、では、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]とは何か。 ここに聖者の弟子が、(四邪語〔嘘言・離間語・粗悪語・綺語〕と、三邪業〔殺生・盗み・邪淫〕の、身・語の邪行を離れて、正道に依りて、(生活・生)命を清浄にし、)誤った生活・邪な生活法を捨てて、正しい生活法によって生活を営む。 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがあり〔有漏〕、福徳分をもち、果報として、他者と差異ある報いをもたらす[正命]である。〔在家の人についての正命は、出世間心に相応した心を起こしていること。 【正命・出世間】 比丘たちよ、では、清浄〔聖〕にして、煩悩の穢れが無く〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]とは何か。比丘たちよ、 清浄なる心〔聖心〕・穢れのない心をもち〔無漏心〕・清浄なる道〔聖道〕を修習し身につけ、清浄なる道を成就している人に現れている行い、 すなわち、誤った生活・邪な生活(邪命)に関するこれらの悪行を、楽しまず、楽しむことを離れ、これらの悪行作を全く離れ去り、遠離すること、為さないこと、犯さないこと、これらに繋がる悪行作を切断すること、 比丘たちよ、これが、煩悩の穢れがなく〔無漏〕、(出世間にして)俗世間を超越した、道の支分としての[正命]である。 (このように、邪命を邪命であると了知し、正命を正命であると了知して見る、その彼に正しい見方[正見]がある。 彼はこのように知りて、修学し、邪命を断じて、正命を成就しようと欲する。)そして、邪命を断じて、正命を体得するために努力をする。その彼に、正しい努力[正精進]がある。 また、正しい念ありて、邪命を断じ、念ありて正命を具えて住する彼に、正しい念[正念]がある。 このように、彼に[正見]、[正精進]、[正念]の、これら三支の法が、[正命]に随い、[正見](の行作・修習)に従いて供に生じる。 この故に、[正見]が先行するのである。 [[【正精進】 比丘たちよ、では、正しい精進〔正精進・正勤(四正勤)〕とは何か。 〔律儀勤〕 邪悪・不善が生じるのを注意して防ぐ。(未だ生じていない〈・為していない〉邪悪・不善法を生じさせないために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める) 〔断勤〕 邪悪・不善を捨てる。(すでに生じてしまった〈・為してしまった〉邪悪・不善法を断じ捨てるために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める) 〔修勤〕 善を生じさせる。(未だ生じていない〈・成していない〉善法を生じさせるために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める) 〔随護勤〕 善を維持する。(すでに生じている〈・成した〉善法は住せしめて忘失せず、多く修習し、廣く修習し、円満成就するために、意欲を起こし、活動し、心がけて努力精進に勤める) 比丘たちよ、これが、正しい精進[正精進]である。〈生じた悪の捨断〉すでに生じた悪を、八聖道にある精進が捨断するのは明らかであるので、世間善が邪悪・不善を捨断する様子を述べる。 【正念】 比丘たちよ、では、正しい念住[正念(四念住)]とは何か。 〔身(随観)念処〕 身体は浄らかではない。(種々の修習法によりて、身体というものをこまかく観察し、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する) 〔受(随観)念処〕 感受は苦である。(感覚(感受)というものをこまかく観察し、心身の苦・楽・不苦不楽の受を、はっきりと知り、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する) 〔心(随観)念処〕 心は無常である。(心というものをこまかく観察し、貪りの心がある、貪りの心がない、瞋の心がある、瞋の心がない、癡の心がある、癡の心がない、等の自らの心をはっきりと知り、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住する) 〔法(随観)念処〕 法は無我である。(自己・他・自他の法において、法を随観し、生・滅・生滅の法において、法を随観し、熱心に、正しく観察し、正しく知り、世間の貪りと憂いとを調伏して住し、世の何ものにも執著しない) 比丘たちよ、これが、正しい念住[正念]である。【身(随観)念処】 【正定】 比丘たちよ、では、正しい禅定[正定]とは何か。 〔初禅〕 もろもろの欲望を離れ、もろもろの邪悪・不善を離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅を具足して住するという。 (尋、伺、喜、楽、一境性の五支がある) 〔二禅〕 対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向きとなり、もはや何ものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。 (喜、楽、一境性の三支がある) 〔三禅〕 喜びをもまた離れるがゆえに、内心平等にして執著なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これをもろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足して住するというのである。 (喜、一境性の二支がある) 〔四禅〕 楽をも苦をも断ずる。さきに、喜びをも憂いをも滅したので、不苦・不楽にして、捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するという。 (捨、一境性の二支がある)〔五種禅にすると、分け方に前後あり〕 比丘たちよ、これが、正しい禅定[正定]である。 【正智】 比丘たちよ、正しく知る[正智]とは何か。 十九種の観察智と、果智を知る、 比丘たちよ、これが、正しく知る[正智]である。 【正解脱】 比丘たちよ、正しい解脱[正解脱]とは何か。 無漏の心解脱・慧解脱、すなわち、阿羅伽果の解脱、 比丘たちよ、これが、正しい解脱[正解脱]である。]] また、比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 【正道の縁起】 比丘たちよ、 [正見] 正しい見方の人に、正しい思惟が起こる。 [正思] 正しい思惟の人に、正しい言葉が起こる。 [正語] 正しい言葉の人に、正しい行いが起こる。 [正業] 正しい行いの人に、正しい生活が起こる。 [正命] 正しい生活の人に、正しい努力が起こる。 [正精進] 正しい努力の人に、正しい念住が起こる。 [正念] 正しい念住の人に、正しい精神統一(禅定)が起こる。 [正定] 正しい精神統一(禅定)の人に、正しい智慧が起こる。 [正智] 正しい智慧の人に、[正解脱] 正しい解脱が起こる。 比丘たちよ、このようにして、八支具足の有学(者)があり、十支具足の(無学の)阿羅伽があり、〔ここは、巴梨の経によれば、『[正智] 正しい智慧の人に、[正解脱] 正しい解脱が起こる』となり、 [[彼らを、有学の八支成就といい、また、漏尽の阿羅伽の十支成就という。 比丘たちよ、では、有学の八支成就とは何か、 すなわち、正見を成就し、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、を修学し成就する。 これを、有学の八支成就という。 比丘たちよ、では、漏尽の阿羅伽の十支成就とは何か。 すなわち、(正見を成就し、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、正智、正解脱を成就し、)阿羅伽果を成就して、修学をする必要がない(無学の聖者)。 これを、阿羅伽の十支成就という。]] また、比丘たちよ、(七支の中で、)正しい見方[正見]は先行するものである。 比丘たちよ、では、どうして[正見]は先行するものであるのか、 比丘たちよ、[正見]は[邪見]を断じ、[邪見]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正見]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正思]は[邪思]を断じ、[邪思]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正思]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正語]は[邪語]を断じ、[邪語]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正語]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正業]は[邪業]を断じ、[邪業]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正業]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正命]は[邪命]を断じ、[邪命]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正命]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正精進]は[邪精進]を断じ、[邪命]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正精進]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正念]は[邪念]を断じ、[邪念]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正念]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正定]は[邪定]を断じ、[邪定]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正定]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正智]は[邪智]を断じ、[邪智]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正智]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、[正解脱]は[邪解脱]を断じ、[邪解脱]に縁りて生じた、無量の悪不善の法も断じて滅する。 そして、[正解脱]に縁りて無量の善法を生ぜば、彼は修習し、満たし、具足する。 比丘たちよ、このようにして、二十の善品と、二十の不善品との、偉大なる四十品の真理の教えが転ぜられた。 これは、いかなる沙門・婆羅門・天・悪魔・梵天・あるいは、世間のいかなる者によりても逆転できないものである。 比丘たちよ、いかなる沙門、あるいは婆羅門でも、もし彼が、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとするならば、この現世において、真理に立脚した十の説によりて、彼の説は、問い詰められて責められるに至る。 もしも尊者が、正しい見方[正見]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った見方・邪な見方[邪見]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい思惟[正思]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った思惟・邪な思惟[邪思]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい言葉[正語]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った言葉・邪な言葉[邪語]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい行い[正業]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った行動・邪な行動[邪業]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい生活[正命]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った生活・邪な生活[邪命]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい努力[正精進]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った努力・邪な努力[邪精進]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい念住[正念]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った念住・邪な念住[邪念]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい精神統一[正定]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った精神統一・邪な精神統一[邪定]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい智慧[正智]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った智慧・邪な智慧[邪智]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 もしも尊者が、正しい解脱[正解脱]を非難するならば、そのとき尊者は、誤った解脱・邪な解脱[邪解脱]をもつ沙門や婆羅門達を、尊敬し賞讃することとなる。 比丘たちよ、このように、いかなる沙門、あるいは婆羅門でも、もしも彼が、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとするならば、この現世において、真理に立脚した十の説によりて、彼の説は、問い詰められて責められるに至る。 比丘たちよ、オッカラ地方のヴァッサとバンニャとは、無因論者、無作論者、虚無論者であったが、彼らでさえ、この偉大な四十品の真理の教えを、非難すべきもの、咎めるべきものであるとは考えないであろう。それはどうしてか。非難や怒り、また、問い詰められて責められるのを、恐れるからである」 このように世尊は説かれた。かの比丘たちは歓喜して、世尊の説かれたことを敬い受けた。 中部経典 聖道経
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