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さくら
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H29年7月29日(2017年)

 本日は、

 先見〔未来を見る〕の能力について


 蒲池幸子さんの能力もそうだけれども、

 例えば、イエズス・クリストの事柄が記されている聖書もそうだけれども、

 過去の聖者・聖人が先見の能力によりて、説かれたり記されたりした書物が聖書としてここにある。


 過去の聖者・聖人が「未来にこのようになるであろう」と、説かれたもの。

 そのとおりに歩くのであれば、多くの人々は、未来に善の道を歩いているであろう、と。


 聖書の成就。



 例えば、蒲池幸子さんの先見の能力で見つつ話をしている動画や、歌や雑誌の言葉、これらもまた、例えば、私が、この時このような状況の心にいるときに、”この動画を見るだろう”、または”この歌を聞くだろう”、または、”この雑誌の言葉を見るだろう”として、見つつするものもあるだろう、と。


 そのように、先の聖者や聖人方も、後世でその教えが説かれるその時その状況その對象の人たちを知りつつも、その教えを伝えている人もいる。

(聖人の集いに蒲池幸子さんの話はどうなのか、というのは、蒲池幸子さんは「法を見たい、お願い、いつも」とお願いするような人なので、善なる存在の聖者・聖人の側の人として入る。)


 そして、聖者・聖人方は、流れが’真理’に結びつくように、合流するように説いている。

 結びつくようにも説いているが、真理を説くと、自然な流れとして、善の道を行くことともなるので、結びつくように、というか、
 普通に説いていても、自然とでも同じ流れを取らさっている、というのが普通だろう。



 また、この聖者や聖人方や神や神々の先見の話は、例えば、邪悪行の能力者が、数年・数日・数時間後に「この人はこれこれをする」というのや、「これこれを私が操ってさせている」などと言う、低劣で愚かな次元の話とは、根本的に道が違う。



 このような先見においても、天の計画は、もう定まっているものであって、覆ることもないだろう。



 ゴータマ仏陀が、後世の人の事柄を案じてなさった事柄。

 マハーカッサパ尊者が、般涅槃されないで存在しているのも、仏陀の言葉により、これこれの人は「般涅槃してはならない」、般涅槃しないで残りなさい、と、仰せられたので、マハーカッサパ尊者は、ここにいてくださっている、と。


 この先見の能力。


 私を支持してくれている善なる人に、力の強い能力者が多いようで、私の現在の事柄を映像や歌や書物等でも説かれている、のもあるが、

 私を支持してくれている、というのは、’仏陀の弟子を支持している’ということで、その力の強い能力者もまた、過去に仏陀と縁があったことがあるのかもしれない。

 その故にも、能力も強いという可能性もある、と。


 自らが、現在、善行者の側にいるのか、邪悪行者の側にいるのかでも、その可能性はおおよそ知られるだろう。



 本物のゴータマ仏陀の弟子であった人は、そのように力も強く、また、善なる道を他の人を気にせずに、自らで真理を見て、他の悪しき者に洗脳されずに、’自らで善の理法を持ち突き進む’という人も多いだろう。


 それは、その善なる能力者からすると見えているので、当然の事柄でもあるが、邪悪行をしている愚かな者からしたら、当然ではなく、その邪悪行者の邪見からすれば、正見のその心と、また、真理は理解しがたい、と。


 正見の人からすれば、その邪見者のどの邪見によりて、”この愚かな者は、この事柄により正見しない”、または”この愚かな者は、正見できない”というのも理解されるもの。



 このような大きな違い。

 人である仏陀の弟子と、その守護神の集い。と、

 悪魔や餓鬼(悪鬼等)や畜生(動物・虫等)や地獄に結生する、邪悪行をする無知な者や、愚かな存在の集い。


 この、天に識の結生をする存在方と、地獄などの悪処に識の結生する存在達の大きな違い。


 先見すれば、このような大きな違いがある、と。





 また、先見できる人でも、先見しても、逃れられない苦もあり、逃れられる苦もある。

 そして、仏陀の弟子や聖者や聖人方等の智慧のある人は、業を見るので、業の消滅を思い、忍耐して、その逃れられる苦をあえて受ける人もいる。




 聖者方は、邪悪行の能力者の為すような、低劣で愚かな邪悪なる行を為すことなく、自らの過去(世)に為した、自らで造作した悪業を消滅をする。



 また、例えば、悪行者が自らに悪業を造作して、その悪業の報いを受けて、そこにおいて死んで、地獄に生ずる。
 というような時、その愚かな者が死ぬ時というのは、どこにいたとしても、
 例えば、海にいたとしても、山にいたとしても、川にいたとしても、海にいれば、高波にさらわれて死に至り、または、山にいたとしても山火事にあって死に至り、川にいたとしても川の水に流されて死に至る、というように、
 必ずその時、どこにいたとしても死に至る。
 そして、死んでその身体から捨てたのちに、悪処・地獄へと識が結生〔出生〕するに至る。






H29年7月30日

 本日の、

 ふ、と聞いた曲。

『LOVE SONG』♪  CHAGE and ASKA



 ASKAさんはちょっと、迷っているけれども、

 私個人としては、CHAGE and ASKAの歌はいい曲が多い。



 ASKAさんは、(覚せい剤)だったかな、そういう薬をやるというのは良いわけはなく、

 快楽を求めるという人間の弱い心だよね。


 いつの時代でも、そういう弱いところに悪魔が付け込んでくる、と。

 いや、真実の話で、悪魔や悪霊がそこに付け込む。



 仏陀や聖者方は、そこを見抜いているので、「貪欲を厭い離れなさい」と、真理の救いの教えを説いてくださっている。



 薬の場合は、ひどい場合は心にも身体にも後遺症が残る、という意味ででも、善いわけはない。

 まぁ、間違いをしてしまうことは誰にでもある、とは思う。

 心を正して、戻ってくるといいな、と思う。


 もし不倫をしていたならば、間違いであっても、非常に善ろしくない。

 間違いをしていたならば、懺悔して、心も改善するべし。

 悪業を造作してはならない。



 私は胃薬をやっているけれども、自分を見失うほどの幻覚はおこらない。

 まぁ、胃薬だから、そりゃそうだろうけれども、


 聖者方は、自分を見失うほどの快楽を求めてはならず、

 自分を見失わないように、自らを見なさい、と言われる。



 自分を見失うっているものが、どうして悪魔の手から逃れられるだろうか。

 貪欲や悪魔や悪霊の誘導に導かれているので、自分を見失っている、と。

 そういう事柄としても言われる。





『(修行(精進)する)能力あり、(身・口・意は)直く、言葉優しく、柔和で、思い上ることのない者であらねばならぬ。

 足ることを知り、〔養いやすく〕わずかの食物で暮し、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で(思慮があり)、(身・口・意において粗暴なく)高ぶることなく、諸々の人〔信者〕の家で貪欲を起こしてはならない。

 他の識者〔賢者〕の非難を受けるような下劣な行いを決してしてはならない。

 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ』






H29年7月31日

 本日の、

 ふ、と聞いた曲。

『PRIDE』♪  CHAGE and ASKA


 もう少し。



 ちなみに、ここでの真理の教えは、私は、自尊心・うぬぼれという”慢心”のために、理法を説いているわけではない。





『太陽と埃の中で』♪  CHAGE and ASKA

 途中で悪業を積んでいるところ、また、他に悪業を積ませるのは非常に善ろしくない。

 他の部分は、だいたい良い感じに受ける。


3、自らの心が愛欲に傾くところは、自らで見てはいる。



「近づくほど、見える」


 みんなが幸せになるのは善い。




 動画のメッセージの言葉に関して、


 ”何を求めているのかわからない。

  だけど、確かに誰もが欲しがっている”



”何を求めているのかわからない”


 何かを求めている自らの状態。

 ここでは、自らの安らぎの心はない。



”だけど、確かに誰もが欲しがっている”


 欲しがっている、という貪欲。

 この欲しがるという心。


 欲しい。

 何かがほしい。

 しかし、その何かすらもわからない。


 欲しい。

 私は何がほしいのか。

 心が満たされないゆえに、ほしい。

 心が満たされているのであれば、ほしがるものなのだろうか。



 私たちは、欲しがる。

 この虚しさ、虚無感、孤独感、恐怖から、逃れたいがために。


 しかし、心が満たされていく過程の心、または、心が満たされた状態においては、

 この虚しさ、虚無感、孤独感、恐怖は、そこにない、ように思える。


 そのゆえに私たちは、欲しがる。


 これは、道を知らない人の心を言っている。



 ここから、真理。

 その欲しがって満たされた心は、無常である。

 その満たされた心は、必ず、衰退、衰え、減滅、消滅する。

 もろもろの事物や事象は無常であるがゆえに。


『心が満たされていく過程の心、または、心が満たされた状態においては、

 この虚しさ、虚無感、孤独感、恐怖は、そこにない、ように思える』


 しかし、これは、凡夫が表面だけを見ている状態をいうのであり、

 真理は上記のように、

『その欲しがって満たされた心は、無常である。

 その満たされた心は、必ず、衰退、衰え、減滅、消滅する。

 もろもろの事物や事象は無常である』



 このように、あるがままに真理を見ることができるならば、

『心が満たされていく過程の心、または、心が満たされた状態においては、

 この虚しさ、虚無感、孤独感、恐怖は、一時の快楽の享受により、そこになくなったかのようにも思える。

 しかし、満たされた心も事物や事象も、あらゆるものは無常である。

 心が満たされていく過程の心も、または、その満たされた心も、いつかは必ず、衰退、衰え、減滅、消滅する。

 なぜならば、もろもろの事物や事象は無常であるがゆえに』



 このように、

 人の欲しがる心、この貪欲の心に、すでに、苦しみの原因は生起しているのである。





『欲しい。

 私は何がほしいのか。

 心が満たされないゆえに、ほしい。

 心が満たされているのであれば、ほしがるものなのだろうか』


 そして、

 このような心のように、

 仏陀や聖者方は、欲しがらない。



 ここに、覚者や真理を見ている方々と、真理を知らない凡夫との大きな隔たりがある。



 羽・翼は、私たちが求めるものではなく、そして、必要ではないもの。



 では、私たちの心は、どうすれば、満たされるのだろうか。

 または、その”満たされればいい”というのが適当な正しい答えなのかどうかすらもわからなくなった、と。



 ここで、私たちがするべきは、自らの心を見ること。


 そこに、答えとしての、真理が見える。




 これは、仏教でも当然そうであるが、他の聖者・聖人、イエズスも行じている事柄である。






H29年8月1日

 本日は、

 歌を聞いていると、


 CHAGE and ASKAの歌ではないけれども、

 ASKAさんの読みは、間違いが結構多い。

 おしい。もう少しという感じ。



 幸子さんの歌は、矛盾しているところがあるでしょ。

 私の悪口っぽいのと、好意を持っているのと、同じ歌でありつつ、矛盾をしている事柄を言っているという。そういうのは、その時にそういうのを入れないと、『ガンにされる』というような脅しがあったというような事柄を言っている。

 現在のテロの邪悪行者達の邪悪行を、そのまま受けていたということだろう。



 現在のテロの犯罪者達は、もう八正道から大きく外れて、自らの後の、また、死後の赴く先も見えていないが故に邪悪行をしているので、善なる者は、そのような盲目の邪悪行の者と親しんではならない。


 盲目の邪悪行の能力者に従い、邪悪行をする者は、その愚かな能力者と供に、悪趣・地獄に識が結生する。


 現在のテロ側の盲目な者のように、単に悪口を歌っているような者達や、単に悪口を言っているような者達も、愚かな邪悪行者として数えられる。


 普通に考えても、単に悪口を歌っているような者達や、単に悪口を言っているような、邪悪行をしている者が、
”善行者として数えられることはない。”というのは、常識としても理解が容易な事柄である。


 テロの盲目の邪悪行の能力者に従い、邪悪行をしつつ供に善処の夢を見ても、悪魔に幻想を見せられているのと、たいした変わりはしない。

 実際に、悪魔に幻想を抱かせれて、邪悪行の後に善趣に赴くという想像図を思い浮かばされている者もいるのだろう。


 テロ側のラジオの聞いていれば、どこかにそういう”自分達こそが善趣に赴く”という、幻想を抱いている様子も垣間見られる。


 そういうのを、見聞きしていると、”邪悪行者が善趣に赴くという道理はない”という真理を私はつねづね思う。






 しかし、幸子さんの歌を聞いていると、本当にうれしい。

 こういうのは、芸能人のファンになっている人というのは、その好きな芸能人が自分に話しかけている的な幻想をいだくこともあるんだろうか。


 どうなんだろうな。



 幻想ではなく、実際に自分と自分の周囲の事柄を言っているという場合は、また、どうなんだろうか、と。


 その答えは、

 うれしい、と。


 幸子さんと良縁があったのは、好かった。


 そして、単なる繋がりだけではなくて、霊的に繋がりがある、というのがとてもうれしい、と。



 そうだな、幸子さんの事柄を言えば、幸子さんの歌を聞いて、

『負けないで』♪など、の歌を聞いて、「勇気づけられた」というように、幸子さんの歌が転じて自らに良い念が生じた人の声も結構多く聞くが、

 要するに、そういう善い念が込められている、という、幸子さんという人の”善い心”が歌にも出ているということだね。

 善い念が出ているというか、幸子さんが実際に善い念を出している、というのもあるだろうけれども。


 以前に、日記でZARDの『負けないで』♪を誉めたこともあったが、その時は、幸子さんとこれほどに強く縁があるというのも全く知らず、普通に素で誉めている。


 要するに、幸子さんの善い念・善い思いはきちんと伝わる、と。






H29年8月2日

 本日も、

 謎だなー、明日以降に何かがあるから”好きだ”とか”結婚したい”とか、”独り占めしたい”というのがあるわけだろうけれども、その確信的なところがわからない。


 私の明日を見て言っているわけだろう。

 私は明日一体何になるのか、と。


 そこがポイントだな。


 とりあえず、仏陀の善の道からは外れておらず、その道の上にいるのだろう、と。


 とりあえず、現世は悪業の消滅を願い、どれほどに無実の罪で邪悪行を受け、お尻に筋肉を盗られ、罵詈雑言を受けたことか。

 本当に、ため息が出るほどに、願いが成就している今日この頃。

 いや、もう十年ほど前からか。



 悪業の垢を落として、明日からは、多くの楽を受ける、と。



 だから、幸子さんは、明日以降もきちんと見た上で、私に好意を持っていたのだろうか、と。


 そうなると、そういう面から見ても前途は明るい。

 また、仏陀の教えを説いているという善業によりても、前途は明るい。

 そしてまた、仏陀の教えを説いて、仏陀の許へ、善処へと多くの人々を導いている、という善業によりても、前途は明るい。


 明るい前途が多い、と。


 まさに、気楽にいこう、という感じだな。


 と、いうことで、『気楽にいこう』♪という曲がたしかあったから、聞いてみようか、と。

 内容はどんなのだったかな、と。




 言いたいことは、だいたい理解できる。


 というか、私にではなくて、幸子さんは他の人に伝えようとしている、という方が強いだろうとは思う。


 なぜならば、私に伝えたところで、ほとんど日記で記しているとおりなのだから。

 歌では、幸子さんが合わせてくれているという方が強いかな。



 歌は、他の歌手の人でも、”この歌の内容は今日現在か”というような、ここ数日において気付けた歌もあり、そして、一つや二つではなくて、結構たくさんある。

 みんな先を読んで、歌っていたのか、と。



 一人だけで、仏陀の道を歩いてきたが、影で応援もされていたという事柄にここ数日で気づいた。

 感動。

 応援してくれている人に、お礼を一言。

「どうもありがとう」



 というような事柄のとおりで、

 ゴータマ仏陀という私の師匠の最上の優しさに、感動して、涙したところ、その流す涙のその心に共感した人もいたようで、応援してくれていた人もいた。

 仏陀のやさしさを思うと、本当に泣けてくるんだよね。

 これほどに優しい人はいるだろうか、と。

 本当にすごい人だよ。


 自分の事柄ではなく、他人を思う優しい心。

 自らを犠牲にしてまで、他人を救う優しい心。


 自らを犠牲にしてまで、他人を救う優しい心というのは、キリスト教のイエズス自身も持っている心であるが、イエズスは実践として自らで行じた事柄でもある、と。


 聖者や聖人方というのは、そのように’自らを犠牲にしてまで、他人を救う優しい心を持つ’という、我欲なく、他を利益する心の人が多く存在している。


 優しい心。


 ゴータマ仏陀は、仏陀として覚者となられる以前の前世においても、とても優しい。

 仏陀のその前世の優しさを思っても泣けてくる。


 これほどに優しい人がいるんだよな~、と。


 すごい、暖かい方だよ。



 この思いだけで、

 その仏陀の優しさを思うだけでも、私もその仏陀の思念を観て、優しくなれる。

 その優しい方の導き手として加わっている自分が、うれしくてね。

 そこでも感動して涙があふれてくる。



 しかし、私のこの涙に共感する人がいるとはね。

 感動した。



 長いこと邪悪行者達に罵詈雑言され、邪悪行を受け続けつつ、たった一人で、仏陀と法と僧伽のために、そして他の聖者や聖人や善趣の天の衆生のためにも、行じてきたのでね。



 私の行じてきた善行は、まったく、無駄になってはいないで、

 確実に、人々を善なる心と善趣と、そして、仏陀方の聖者の許へと導いている。






H29年8月4日

 本日は、

 動画で『泉水展 仙台』という動画を見て、

 最後まできちんと見たのは初めてだが、異聞作用で毎回違うく聞こえる。

 何度も聞くと、きちんと聞こえるけれどもね。



「悔やんでいるわ♪」と、

 悔やむような悪い行いをしてはならない、と。





 そして、『Take me to your dream』♪、を初めて聞いた。


 どれどれと、では、今日は歌詞を読み解いてみよう。


 最初に、

 幸子さんは、親しい人にたいしては、呼び方が「あいつ」とかになるらしい、と。



「シャンパン抱きしめながら」か、

 私の家にシャンパンはないな。

『君に逢いたくなったら』♪の歌動画で、振っていたのがシャンパンかな。


(動画をあらためて見たところ、ゲームをしているところで、幸子さんは、私の記した’子供ができた事件’の事柄を言っている様子。
 その過ちは、とても反省をしています。

 と、何度も記しているように、反省をしているので、もうそのような過ちはしないのです。


 映像で、最初、その、ストーカー・子供が出きたという嘘事件で、幸子さんが、私も對馬を殺します、と言っているのかな、と思って、違うところででも、”いろいろと危険だったんだな”と思って見ていたが、

 プラス思考で、幸子さんが「子を産みたい」と、言っているようにも見えた。




 その後は、「犯人××」と、言っているのに対して、幸子さんが「私も殺します」と言っているように見えた。


 これもまた、天神が悪魔にたいする怒りのように、その気持ちは普通に知られる心であるが、



 仏陀の教え

「生きものを(自ら)殺してはならない。また(他人をして)殺さしめてはならない。
 また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。
 世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、全ての生きものに對する暴力を抑えて」




 仏陀の教えとして、

一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、ことごとく、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生れたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せ〔安楽〕であれ。

 何ぴとも他人を欺いてはならない。
 たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。

 悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)心を起すべし。

 また、一切の世界に対して無量の慈しみの意〔こころ〕を起すべし。
 上に、下に、横に、(また内・外に)障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

 立っていても、歩いていても、坐っていても、横臥していても、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)念を堅実〔堅固〕にたもて。

 この世では、この状態を崇高な境地〔梵住・最勝の生き方〕と呼ぶ



 覚者・聖者方は、このように行じる。 H29.8.7)





「二人は白いシーツの中を、泳ぐサカナになる」と、

 こういうのは、とりあえず、コメントは控えておこう。



「公園の噴水でキスを…、冷たい指先が震えたよ。

 幸せがすぐそばにあるのに、近くて見えない」


 恋人とのキス。

 一体、誰なのだろう、と思う。



「幸せがすぐそばにあるのに、近くて見えない」

 好きな人がいつも近くにいると、感じないが、

 好きな人、妻や夫や親など親しい人と離れてみると、あらためて気づくということもある。


’大切な人がいなくなったときに気付いてしまう’という、この注意力の無さ。


 近くて見えない。


 実際、大切な人がいなくなってから、”あのときこうしてあげれば良かったな”等の、後悔をする人もいる。


 病や死で、いつもあなたの近くにいる大切な人がいなくなったとき、

”あのときこうしてあげれば良かったな”等の、後悔をしないように、

 あなたの大切な人に、いつも恩返しをしてあげておくのが善いでしょう。



 仏陀の教えでは、本当の最上の恩返しとは、あなたのその大切な人・妻や夫や親や親しい人を善なる道へと導いて、

その大切な人自身が、自らで永く幸せになる善趣の道を歩くように、導いてあげることです。






 あなたのすぐそばに、いつもいるけれども、近くて見えない大切な人はいるだろうか。


 大切な人がいるのであれば、”あのときこうしてあげれば良かったな”等の、後悔をしないように、いつも恩返しをしてあげておくのが善いでしょう。


 最上を言うと、

 その大切な人を、あなたが、善なる道へと間違いのないように導いたならば、

 あなたは、その大切な人にたいして、”あのときこうしてあげれば良かったな”等の、後悔をすることもほとんどなくなることだろう。

 そして、

 さらに、そのようにして、善念を抱き、善行を行ったあなた自身もまた、善趣へと赴く。



 ここに、あなたと、あなたのその大切な人との、最上の幸せへの道がある。






H29年8月5日

 本日は、

 石について、

’フリーメーソン’という団体がいるのだけども、

 そういう’フリーメーソン’ではなくて、

 本当の能力者の集まりで言う、’メーソン・石’の事柄についてだけれども、

 善なる能力者の集まりとしての’メーソン’であれば、”ある”と思う。


 畜生が混じって畜生明を最上としているような者であれば、ここでいう’メーソン’としても、普通に”ない”。

 なぜならば、畜生は覚とりを得ることができないがゆえにも。



 ここでいう、’メーソン’でも、ゴターマ仏陀の許で一つになっていなければ、暗闇の中で迷っている。


 一般の能力者は、ほとんどが、暗闇の中で迷い、無明へと流される。


 覚者である仏陀方のみが、悪魔に打ち勝ち、無明へ流されることなく、明知を得られた。



 そして、

 その『ゴータマ仏陀の説かれた無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭うこと難し』


 そして、

 そのように覚者の教えにあうことができなかったがために、私たちは無明の流れから出られずに、苦しみを受け続けてきた。


 しかし、

『我れ今見聞し受持することを得たり』


 私たちは、ここにおいて、覚者の教え・真理を知ることができる。

 このゴータマ仏陀の許において、私たちは、悪魔に打ち勝ち、無明へ流されることなく、暗闇を抜けて、明知を得られる。



『願わくは、ゴータマ仏陀の説く真理の言葉を、(更に)理解することができますように』



 ここで、私たちは、

 仏陀(世尊)という、
『阿羅伽〔応供〕であり、正自覚者〔正等覚者〕であり、明行具足であり、善逝であり、世間解であり、無上士であり、調御丈夫であり、天人師であり、仏陀であり、世尊である』ゴータマの許において、一つになる。



『このように、仏陀の諸徳を隨念する修行者にとりて、その時、貪に関して執著する心なく、瞋(怒・憎等)に関して執著する心なく、癡(愚かさ)に関して執著する心なく、その時、彼の心は如来を所縁として端正となる。

 諸々の貪瞋癡に関する愚かな心がないことによりて五蓋を鎮伏し、業処に面することによりて心が端正となり、彼に仏陀の徳に傾ける尋と伺とが起きる。

 諸の仏陀の徳を隨尋し、隨伺せば喜が生じる。

 喜の意があれば、喜を原因とする軽安によりて身心の不安は安息する。

 不安が安息すれば身心の楽が生じる。

 楽となれば心が定まる。

 そのように、仏陀の徳を隨念することにより、次第に、また、一刹那(瞬時)に五禅支が生じ、心が定まる。

 このようにして、仏陀の隨念に精励する比丘は、仏陀を尊敬し、順敬し、信心・念・智慧・福の広大に至り、喜悦多く、怖畏恐怖を征服し、苦においても安住を得、師である仏陀と共住する想を獲得し、
 また、そのように、仏陀の(十徳の)隨念が身中に存せる彼の身体は、塔廟のように供養を受けるに値する。

 彼の心は、仏地へ向い、犯罪の起こるべき事物(対象)に接しては、面前に師をみるように彼に慚愧が現起する。

 また、上位に通達できない者も来世は善趣に至る。

「故に、実に善慧者は、このように大威力ある仏陀の隨念によりて、常に不放逸を行うが善い」』





 このように、三界(欲界、色界、無色界)の偉大な神・神々と、また、力の強い神通を持つ善なる存在者方は、

 仏陀(世尊)という『阿羅伽〔応供〕であり、正自覚者〔正等覚者〕であり、明行具足であり、善逝であり、世間解であり、無上士であり、調御丈夫であり、天人師であり、仏陀であり、世尊である』仏陀の許に集う。

 また、過去の仏陀の許においても、すでに集まっている。



 仏陀の許に集まっている偉大な方々のうちの一人として、現在の娑婆世界の主である大梵天もまた、そのうちの一人として数えられる。

 過去の仏陀の弟子として、真理を修習したのちに、娑婆世界の主である大梵天としての地位についた、とされる。



 そして、私たちも、このように、三界(欲界、色界、無色界)の偉大な神・神々と、また、力の強い神通を持つ善なる存在者方とともに、仏陀の許に集う。






H29年8月6日

 本日は、

 幸子さんの思いについて、

 ZARDの歌を聞いていて、歌詞カードを見ていたところ、

 そういえば、『来年の夏も』♪という曲で、

「同じ血液型同士ってうまくいかないというけど、私達は例外ね」

「来年の夏も となりにいるのがどうか、あなたでありますように」

というところを改めて見て、

 血液型が、彼女はA型で、私はB型なので、これは、100%で私の事柄ではない。


 そして、

「来年の夏も となりにいるのがどうか、あなたでありますように」という。

 これは、

 最初から、その誰か他の人の事柄を「好きだ」と、歌っているのであれば、別にどうしようと私は関係ないけれども、

 私の事柄を「好きだ」というように示して、好意を持たせておいて、

 そしてまた、好意を持ったふりをして、実は違う他の人の事柄を言っているのか、というので、

”これは一体どういうことなんだ”と、あらためて思い、

 その思わせぶりなところがとても腹が立ったので、もう、”ZARDの歌を聞くのを止めるか”、または、”CDを捨てようか”、とか、他の人のためにも、”知らないようにフェードアウトしていこうか、と、再び思ったが、

 とりあえず、”この事柄は他の人でも疑問に思うだろうから、記しておいた方が良いだろう”と思い、あえて記しているが、

 今日は、彼女のそういう思わせぶりなところにイラっとした。


 なんだったら、そういう思わせぶりなことを最初からしなければ、別にこっちだって腹立てなくていいのに、

 一体これはどういうことだ、と。



『Get U're Dream』を聞いているところで、改めて気づいて、多少腹立たしかった。

 彼女のその言い分は”どういうことなのか”と、いうので、

『Get U're Dream』では、その言い分も言っているらしい。

『Get U're Dream』♪
『Get U're Dream』♪(Version Two)
『Get U're Dream』♪(Version Three)
『Get U're Dream』♪(Original Karaoke)
『Get U're Dream』♪(Version four)
 も、今日のその私の心・思念をも観て歌っている様子。


 確実に私の事柄というのに気付けるのは、「ノバ」という言葉での知っている人の事柄の想起だが、

 そこである程度、彼女の気持ちは伝わったので、腹立たしさも多少静まったけれども、

 人を好きな心にさせておいて、ひどい話だよ。


 そもそも歌で”嘘を付く”という事柄を幸子さんはする、ということにより、幸子さんを信用もしずらくなっている、と。

 そういう事柄においても、

 善なる存在は、嘘をついてはならない。



 しかし、彼女の他の歌では、歌の半分は創作という事柄も言っているから、また、この歌もまたどうなのか微妙な話。

 彼女の創作というのは、先見の事柄を見ての、後になる事実の事柄をも言っている、と。

 その彼女の観る”後になる事実”というのは、後(未来)になるはずだった事実・現象・流れが変わる事もありえる、という話。



 好きでも何でもないなら、そういう思わせぶりな態度なり言葉なりを最初から言わなければいいんだ、と。

 これは、幸子さんが悪い。


 そもそもが、他の男性を好きな人を好きになりたくもないし、他の人から無理して取ろうともしたくないし、幸子さんがその人が好きならその人を好きで、別に私の事柄を絡めて、思わせぶりな表現をしなければいいんだよ。

 幸子さんのそういう思わせぶりな態度にイラっとする。

 今日は、幸子さんにたいして腹立っています。



 また、この歌の後に、幸子さんが病気になった、と。

 もう、そういうように、彼女の事が心配になる、という、彼女自身の心配をかけさせられるのもシンドイ。


『Get U're Dream』♪
『Get U're Dream』♪(Version Two)
『Get U're Dream』♪(Version Three)
『Get U're Dream』♪(Original Karaoke)
『Get U're Dream』♪(Version four)
 は、普通に聞いていたら、最初に聞いた時も、歌自体がおかしい感じを受けたので、

 この歌のせいで、彼女は病気にされたとか、変な目で見られた、とかなると、

 心配になるので、先見で、自分の事柄(身体)を気づかって歌うなら歌ってほしいと思う。

(ちなみに、何度も言っているけれども、私は、ゲイ等(男性と男性の性行為、または、女性と女性の性行為等)の、そのような悪趣や地獄に堕ちるような、また、神が激怒するような悪業を積むような行いはしていないし、これからもそのような悪趣や地獄に堕ちるような外道に行くこともない。)


 しかし、本日これを記しているの、彼女がすでに病気になってしまっている後なので、どう表現すればいいのか、これもまた微妙だけれども、

 歌を歌うならば、幸子さん自身の最善を選択して、歌にして歌ってほしい。

 しかし、そういうことであれば、これからは”邪悪行の能力者を目指して進む”というようなのは最善ではなく、邪道なので行ってはならないし、また、”怒るから”または、”怖いから”または、”離れようとするから”「すぐにしてもいい」というように、ほのめかすのも、最善ではなくて、愚行であり邪悪行となるので、してはならないし、そういう悪語自体も言ってはならない。


 私が怒るから怖い、また、離れて行くから怖い、とかいうのは、私が悪行をしているわけではなくて、幸子さん自身の行いによることで、私が怒ったりしているわけなので、そういうのも幸子さんが悪い。

 そうでしょ。


 そして、しかも、それでいて、”他の女性にところに行ったならば、怖いわよ”というような、若干ちょっと怖がらせるような表現のところは、”ちょっとズルい”と思った。



 幸子さんは、私のこの心を聞いて、どう思う。






H29年8月7日

 本日も、

『Get U're Dream』♪
『Get U're Dream』♪(Version Two)
『Get U're Dream』♪(Version Three)
『Get U're Dream』♪(Original Karaoke)
『Get U're Dream』♪(Version four)

 を聞いていて、


 昨日に記した、、

『好意を持ったふりをして、実は違う他の人の事柄を言っているのか、というので、

”これは一体どういうことなんだ”と、あらためて思い、

 その思わせぶりなところがとても腹が立ったので、もう、”ZARDの歌を聞くのを止めるか”、または、”CDを捨てようか”、とか、他の人のためにも、”知らないようにフェードアウトしていこうか、と、再び思ったが、


 なんだったら、そういう思わせぶりなことを最初からしなければ、別にこっちだって腹立てなくていいのに、

 一体これはどういうことだ、と。


 好きでも何でもないなら、そういう思わせぶりな態度なり言葉なりを最初から言わなければいいんだ、と。

 これは、幸子さんが悪い』と、


 昨日の気持ちの継続状態で聞いていて、歌の中で私がいろいろと言われているけれども、

 彼女たちのそういう拒否反応の「キモイ」とか、あ~だとかこ~だとか自由気ままに言っている、そういうどうでもいい部分を除いて聞くと、歌全体としては、やっぱり優しいわ。


 蒲池幸子さんが、優しい、と。



 動画で、昔の蒲池幸子さんの動画も見ているが、ZARDより以前の昔から、私の事柄を言っているようで、
 これは、やらせでやっていてもすごいけれども、やらせでやっていなかった本当にすごい、とも思った。


 やらせでなければ、相当に強い縁があるのだろう、と思う。

 であれば、前世からなのだろう、と。



 もし、この縁が、望ましくない縁であれば、彦星と織姫の感じだな。


 ちなみに、私は、このような悲しみの多い縁を望んでいない。



 前述

『本日は七夕です。

 日本の物語では、天の川でおりぼしだったかと、ひこぼしだったかが、
 一年に一回であえる日だったというお話があったと思う。


 ちょっと検索。


 おりひめと彦星だった。


 7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。
 星の逢引であることから、七夕は星あい(星合い、星合)という別名がある。
 また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。
 催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。


 函館の本日の天気は晴なので、おりひめと彦星は今日一年ぶりに再会できている。ということになる。


 泣いてないね。

 良かった良かった、と。』



 この話は、実際に本人たちにして見れば、地味に、”これほど悲しいことはない”というくらいに、悲しい話でもあり、

 その相手への思い・愛情・愛欲が強ければ強いほどに、”逢いたくても逢えない”という苦しみも生起する。



この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている』

 この二人の流す涙の、その気持ちも理解できる。



 相手のその人が優しければ優しいほどに、

 その相手への思い・愛情・愛欲が強ければ強いほどに、

”逢いたくても逢えない”という苦しみも生起する。




 ここに、儚く、切ない、苦しみが存する。





 そのように、

 人は、’愛する人と別れなければならない’という苦しみを受ける。


 人は、老いや病いや死によりて、必ず、’愛する人・大切な人とも別れなければならない’という苦しみを受ける。


 そのゆえにも、


『あなたのすぐそばに、いつもいるけれども、近くて見えない大切な人はいるだろうか』

 大切な人がいるのであれば、”あのときこうしてあげれば良かったな”等の、後悔をしないように、いつも恩返しをしてあげておくのが善いでしょう』


『仏陀の教えでは、本当の最上の恩返しとは、あなたのその大切な人・妻や夫や親や親しい人を善なる道へと導いて、

 その大切な人自身が、自らで永く幸せになる善趣の道を歩くように、導いてあげることです』と。






H29年8月8日

 本日も、

『Get U're Dream』♪
『Get U're Dream』♪(Version Two)
『Get U're Dream』♪(Version Three)
『Get U're Dream』♪(Original Karaoke)
『Get U're Dream』♪(Version four)

 を聞いていて、(Version four)で、「ジャマくさい」と言っているが、

 昨日記した、H29年8月4日の追記の部分で、


(その後は、「犯人××」と、言っているのに対して、幸子さんが「私も殺します」と言っているように見えた。


 これもまた、天神が悪魔にたいする怒りのように、その気持ちは普通に知られる心であるが、


 仏陀の教え

「生きものを(自ら)殺してはならない。また(他人をして)殺さしめてはならない。
 また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。
 世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、全ての生きものに對する暴力を抑えて」




 仏陀の教えとして、

一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも、強剛なものでも、ことごとく、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生れたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せ〔安楽〕であれ。

 何ぴとも他人を欺いてはならない。
 たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。

 悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)心を起すべし。

 また、一切の世界に対して無量の慈しみの意〔こころ〕を起すべし。
 上に、下に、横に、(また内・外に)障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

 立っていても、歩いていても、坐っていても、横臥していても、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)念を堅実〔堅固〕にたもて。

 この世では、この状態を崇高な境地〔梵住・最勝の生き方〕と呼ぶ



 覚者・聖者方は、このように行じる。 H29.8.7)



 の箇所で、この教えについての清浄行が「ジャマくさい」、または、他の事柄についても「ジャマだ」、とも言うのだろうが、

 これは、幸子さん自身のためにあげている教えであって、邪悪行者を守護するためにあげているのではない。


 ここの、幸子さんの’天神が悪魔にたいする怒り’のように、普通に世俗一般で知られる心は、世間では、どこの世界でもこのようにもして、争い事はなっているだろうが、仏陀や聖者方の教えは、そういう欲世間に至る境界の教えではない。



 幸子さんのそういう考えは、欲世間の天神の多くが、色界を知らず、色界の梵天の清浄な心をも知らずに、欲界をさ迷う無知・無明によるもの。


 私たち、仏陀の弟子や善なる者の行く道は、そのような餓鬼畜生地獄の存在者となる者も為すような行いではなくて、欲界善趣天、または、色界、無色界の清浄な衆生・神々が為す清浄な行いをするべきである、と。


 この娑婆世界という欲界、欲世間においては、仏陀の弟子方の、このような清浄な心の人を見ることも得難い、ほどに難しい行いでもあるが、覚者・聖者方は、そのように慈悲心を遍満させて行じる。 



 幸子さんの”ジャマくさい”というその心。

”どうして、これほどに邪悪行をしている者達を「殺してはならない」と言うのか”という心。


「どうして、おかしいでしょ」というような思いで、そのように言う気持ちも、十分に理解できるが、

 仏陀の教えは、現生存の事柄だけを見て、教えを説いているのではなくて、後世をも、永い永い輪廻流転の生存を見て教えを説かれているのであって、この現生存の事柄だけを見て、「どうして、おかしいでしょ」というような思いをぶつけるというのは、考え方も盲目に依っている。


 仏陀の教えは、その人が最上の安らぎに至る教えであって、苦をあらたに創作するための教えではない。

 ここで、幸子さんが、この清浄な教えを聞かずに、欲世間の無知な心に従うならば、幸子さんもまた、仏陀や仏陀の弟子の聖者方や清浄な神々からも遠くなる。


 そして、劫期の期間をも先見できる最上に眼の善い聖者方は、仏陀の教えを実際に行じる。

 また、欲界善趣天、または、色界、無色界の清浄な衆生・力のある神々もまた、仏陀の清浄な教えを実行して、永く安楽を受ける。

 清浄な方々は、娑婆世界に来ても、仏陀の清浄な教えを実行して、再び、清浄な境界へ識が結生して、永く安楽を受けるに至る。


 しかし、邪悪行者や、畜生・動物・虫や、地獄に赴く生存者達は、そうではなく、欲界天、または、色界、無色界の清浄な衆生・力のある神々が行じるような清浄行を行わずに、または、清浄行を行えずに、邪悪行を行い、悪趣に識が結生する。


 清浄な行と、悪行とに、このように大きな違いがある。



 であるから、幸子さんに’仏陀の教え’を説いているんだよ。


 要するに、

 ここでの’仏陀の教え’は、幸子さん自身が永い安楽を受けるために説いているもの。



 仏陀の教えでは”八正道にない”が、”邪悪行者だから、その殺生の報いはない”、そして、”邪悪行者だから殺す”、というのは、邪見・邪思であって、

 そうではなくて、

 仏陀の教えのとおりに、八正道を行じて、理法に守護されて、殺生という邪悪行をせずに、悪業を造作することがなかった。

 というのが正見。



 この正見によりて、正思があり、正思によりて、正語があり、正語によりて、正業がある。


 邪見によりて、邪思を起こし、”邪悪行者だから、殺そう”と思い、

 邪思によりて、邪語を起こし、悪業を造作させない教えを「ジャマくさい」と言い、私は邪悪行者を「殺します」と言い、

 邪語によりて、邪業を起こし、殺生を為そうとする。






『世尊は、諸々の比丘に告げられた、

「邪に向かえば、法に違背して法を楽〔ねが〕はざるなり。

 正に向かえば、法を楽ひ、法に違はざるなり。

 何等をか、邪に向かえば法に違ひて法を楽はずと為す。

 いわゆる、邪見の人は身業も所見の如く、口業も所見の如く、もしは思、欲、願、為、これら皆随順すれば、一切愛せざる果、念ぜず意す可からざる果を得る。


 それは何故であるか。

 見悪なるを以ての故に、いわゆる邪見なればなり。

 邪見は、邪志(邪思)・邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定を起こす。

 これ邪に向かえば、法に違ひて法を楽はざるなり。

 
 何等をか、正に向かえば法を楽い法に違はずと為す。

 いわゆる、正見の人は身業所見に随い、もしは口業、もしは思、もしは欲、願、為、ことごとく皆随順すれば、愛す可く念ず可く意す可き果を得る。

 それは何故であるか。

 見正なるを以ての故に、いわゆる正見なればなり。

 正見はよく正志・正語・正業・正命・正精進・正念・正定を起こす。

 これを正に向かえば、法を楽ひ法に違がはずと名づく」と。




 亦た偈を説いて言はく、

非法には近づくべからず 放逸は行ずべからず 邪見を習うべからず

 世間を増長せん たとひ世間に有らんも 正見増上せば 復た百千生ずといえども 終に悪趣に堕ちず
」と。



 慈しみについて (護呪 慈しみ)





 さきほどから、歌を聞いていると、異聞作用でひどく怒っているようで、「××がいい」とか、しきりに言って、さらに、怒っているところが強調されて聞こえるので、

 とりあえず…、説明をしようか、と。

 これは、幸子さんが、「邪悪だ」と言っているのではなくて、’天神が悪魔にたいする怒り’のように、天の衆生もまた、誤って不善行を為す、という事柄を言っているのであって、

 例えば、「極悪な邪悪行者だから、殺す」、というのは、良識ある天神であっても、”その行いは正当だろう”と納得できそうな事柄でもあるが、
 その行いは、欲界の天部のような者の心から出ているものであって、さらに上位の存在方、色界や無色界の清浄な存在方から見ると、正当とはされない。


’殺生という行いは、決して清浄な行いではない’ということ。
 
 そのゆえに、仏陀は、殺生をしてはならないと説かれる。
 
「生きものを(自ら)殺してはならない。また(他人をして)殺さしめてはならない。
 また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。
 世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、全ての生きものに對する暴力を抑えて」


 と説かれているのです。


 この仏陀の教えこそが、欲界の天部よりも、さらに上位の存在方、色界や無色界の清浄な神々からも清浄である、とされる教えなのです。

 仏陀の教えがどれほどに、清浄であるか、理解されるのが善いでしょう。


 と、いうことで、幸子さんの見解が、極めて邪悪というのではなくて、例えば、悪魔と天使との見分けが難しいというように、天部では正当とされるような行いであっても、仏陀や聖者方や、欲界よりも、さらに上位の色界や無色界の清浄な神々からは、清浄としては認められない、ということ。






H29年8月9日

 本日は、

 25TH ANNIVERSARYの『グロリアス マインド』♪を聞き、

 私への気持ちが良い方で伝わって聞こえて、うれしい。


 動画サイトのZARDの歌は、「××が好き」とか、いろいろ違う方面で聞こえるものが多数あり、

”これは、オリジナルを聞かないとやっぱりダメだな”と思い、DVDのオリジナル原曲を聞いたが、動画サイトの動画音声ではなくて、このオリジナルの場合は、私にも優しい様子で、そして、とてもうれしく聞こえる。


 動画サイトのZARDの動画音声では、オリジナルと違って、”一体どっちよ”となるわ。

 どっちなのか、わからないので、ラジオでも、この前は「坂井泉水は、對馬が好きです」と言っていたのに、後日に「坂井泉水は、對馬が嫌いです」と言ったり、そのまた後日にまた「坂井泉水は、對馬が好きです」と言ったりと、コロコロと変わる。

 要するに、他の人も、聞いているだけでは、どっちだかよくわからない、ということだな。

(邪悪行者達は、悪い方を信じて、邪悪行を重ねている。
 この場合も、邪悪行者達の心は、善い方を信じたくはない。

 信じたならば、自らの悪業が成立するがゆえにも。)


 とりあえず、オリジナルの幸子さんの本当の心は、私に好意を持ってくれているようなので、とてもうれしい。



 他は、CDを聞いていると、幸子さんが私に伝える事柄で、こうして、こうすれば、戦争になる、というような事柄も、伝えているようにも聞こえる。

 私の私生活で、こうして、こうすれば、本当に戦争になる、〔だから注意〕と言っているようにも聞こえる、と。

”あ~、では、そうしないようにしよう”と思ったり、

”とか、言いつつも、もしかすると、これは、私をそこから離そうとしている幸子さんの作戦なのか”とか思ったり、
(しかし、戦争になる、ということなので、自分からはもうしようとは思はない。)

 まぁ、基本は、幸子さん自身が戦争も善くない、と思っているようで、
『promised you』♪だけは、知りつつも言っていたら、幸子さんのその心は善いわけはない。とも思ったり、


 他は『今日はゆっくり話そう』♪では、映像を見て、結局は、となりが幸子さん自身であれば問題ない、というように伝わり、
 実際、幸子さんが運命のルーレットを除いて、そう見えているのであれば、そうなのだろう、とも思い。


 しかし、動画サイトの動画音声で『××がいい』とか、幸子さんがオカマを選んだりするとなると、本当にこちらまでテンションが下がるので、本当に勘弁してほしいと思う。

 というか、”少なくとも、せめて、オカマ等ではなくて、普通の人でいいだろ”と強く思う。


 というか、せめて普通の人にしておこうよ、と。

 というか、せめて普通の人を選びなさいよ。と、


 というか、邪悪行者を選択肢に入れるんではない、と思う。



 あとは、勝手に断定しているわけではないので、記すけれども、最近、幸子さんがレズなのではないか、という疑問が生じて、他の人の歌でも、「途中からレズになった」とかひどい歌を歌っているのもあったが、(その人にたいして、そういう歌はひどいよ。)
 ラジオでは、「坂井泉水はレズではない」と言っていたが、もしレズであったら、ゲイと同様に外道となるので、”ない”が、まぁ、幸子さんはそういうのでもないだろう。



 清浄に到る狭い道は、そのような、神が激怒するような行いの者・外道の者が通れる道ではない。

 ただですら、善趣天界に赴く存在は少ないというのに、どうして、普通の人ではなくて、外道の者が赴くことができるだろうか、と。






H29年8月10日

 本日は、

 テロ側の存在が、幸子さんがニワを選んでいる、と言って喜んでいるのが多く見られる。

 動画サイトの動画で、ZARDの歌を聞くと、まぁ、そうなるだろう。


 彼ら邪悪行者の希望か。

 そして、心の依りどころ。

「ニワがいい」と。



 幸子さんはこちら側にきているので、そちらの邪悪行者の側に行かないし、行かせるつもりもない。

 私がたまに怒れば、ひねくれてそっちに行くそぶりを見せるけど、幸子さんを邪悪行者の側に行かせるつもりはない。



 とりあえず、動画サイトの編集動画も、そういうのは悪業だ、と言う事なので、止めるのが善い。

 幸子さん本人が、こちらの側の善なる存在側として加勢しているのに、邪悪行者の側に行くわけがないのも理解できるだろう。



 テロ側の邪悪行者達は、そのように、幸子さんを利用してまでも偽って大勢を騙そうとしても、自らに悪業を積み重ねるだけで、その結果、善い報いが得られることはない。





 幸子さんが歌を直して歌っているのは、その歌の内容により、未来と、また、私の心をも見て選んで歌っているのだろう。

 一つずつ、歌詞を修正して、未来を観つつ、この歌詞では、この未来が見える、しかし、こうすると、この未来が見える、というように詩を選ぶ。

 例えば、現在、幸子さんの歌を聞いて、幸子さんが私の事をどのように思っているのだろうか、ということによりても、大勢の人々の心の向きが変わり得る。という、この現在の状況のように、幸子さんから見た現在の状況もまた変わるのが見える、と。



 言霊の力だね。

 霊力のある人の言霊は力がある。


 仏陀の弟子や仏陀に関わりある善なる存在の多くは、霊力を持つ。

 イエズスの言う言葉にもあるとおり、霊力がある人の言う言葉によりて、その言葉のようになる、と。


 私たちは、本当の仏陀の弟子としてここにいるので、言霊にも力がある。

 幸子さんも、自らその事柄をも理解して、言葉を選ぶ。






H29年8月11日

 本日は、

 すでに、’いい曲’のところで上げているが、

『愛してる』♪ 高鈴、 を聞いていて、


 この曲は、好きでたまに聞いていたが、

”この曲も、そういう感じだな”と、受けたので、

 また、”他でも、’優しさ’として受け取れるだろう”、と知りつつあげる。




「知りたくても、知りつくせないことばかりで、

 だから一つにならない二つの体を、精一杯 抱きしめた。


 あなたがいる。

 それだけでもう、世界が変わってしまう。

 モノトーンの景色がほら、鮮やかに映る。


 いつの間にか、離れていた手をつないで歩いていく。

 上手く愛せているかな、あの空に聞いてみるの。


 いつか離ればなれになる日がきても、あなたを想った日々があればそれでいい。

 いつか離れた意味を知る日が来るよ。


 約束するから、明日へ。


 愛している。


 愛している。

 世界が終るまで。

 馬鹿げてると笑いながら、口に出してみて。

 愛している」と。





「愛している」


 実際に、相手からこの詞のこの心そのままで、この「愛している」という言葉を受けるならば、とても安らぎ・安心を受けることだろう。

 その安らぎ・安心は、愛情と、愛。


 その愛情から生起する、愛情・渇愛の安らぎ・安心は、世間・世俗の人々が迷うのも、納得できるような感受。



 この心。



 この心を受けて、聖者方の寂静に触れたことがなければ、

 この心を失うところに暗闇があり、聖者方の寂静が、むしろ、暗闇に見える、または、暗闇にしか見えなくなるという、この愛情・渇愛。



 この怖ろしいほどに心地良い心は、愛欲・愛情から生じる。

 そして、ここから、”(私は、)あなたから離れたくはない”と。

 貪りの心が生起する。



 普通に心地良いからね。

 ここで、このように貪りの心が生起するのは、”そりゃ、そうだろう”とも思える。


 この怖ろしいほどに心地良い心に、苦しみが付随している。



 諸行は無常である。

 この世で永続する事象や事物はない。

 この怖ろしいほどに心地良い心は、永続してその楽を受けることはできない。

 諸行は無常であるので、愛する人とは、必ず別れなければならない。


 そして、ついに、離れ去る日が来て、あなたは、愛するその人と離れる。


”これほど苦しいことはない”。

 離れてから、あなたは、その愛する人を思い起こす。

 その度に、あえなくて苦しい。



 そして、”この苦しみはいつまで続くのだろうか”と。




 諸行が無常であるのは苦しみである。


 この苦しみというものは、私が望むものではない。

 私は、この苦しみを望んでいない。


 私が望んでいないこの苦しみは、私のものではない。

 しかし、私はこの苦しみを受けている。


 なぜだろうか。

 そこに自らの無明により生じた、苦しみがある。



 その苦しみの原因は、

 その怖ろしいほどに切ない苦しみは、愛欲・愛情を原因として生じている。



 そして、

 まさに、この怖ろしいほどの苦しみを根本から生起しないように、また、

 この強力な執着の心をきちんと見つめるために、

 苦しみを滅するために必要なのが、真理の智慧である、と。



 そして、ここに仏陀の教え・真理の智慧がなければ、あなたとあなたの愛する人は、それぞれ暗闇で苦しみ悩み続ける。
 そして、同じような輪廻流転の苦しみをも受けて、多くの涙も流すことだろう。


 しかし、ここに仏陀の教え・真理の智慧があれば、あなたとあなたの愛する人は、それぞれ暗闇ではなく、真理の光を見て、真理の光を進んで行き、そして、ともに善趣への流れへと入り、輪廻流転の苦しみを滅することができる。



 そこに愛する人がいるならば、愛情・愛欲が強くなるので、完全に苦しみを滅するのは、また難しいだろうけれども、在家として’ある’。

 すなわち、これは欲界からの話。




 聖者方の光・寂静の光明は、愛欲・愛情の含まれた’愛’という光が現れると、見えずらくなる。

 聖者方の寂静に触れたことのない世俗の多くの人々は、最初から、愛欲・愛情の含まれた’愛’という光しか見えていないが、
 その愛欲・愛情・渇愛の含まれた’愛’という光が現れたならば、さらに、聖者方の光、寂静の光明が見えずらくなる。



 聖者方の寂静に触れたことのない人は、ここにおいて、大いにさ迷うことに到る。



 仏陀の教えを知らなければ、あなたとあなたのその愛する人は、そのさ迷いから抜けることは難しい。

「難しい」、というか、「(通常の)世俗の人々が、そのさ迷いから抜けることは、ほぼ不可能」と言っても過言ではないだろう。



 そのようなゆえにも、覚者である方、

『ゴータマ仏陀の説かれた無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭うこと難し』と言われる。






H29年8月12日

 本日は、

 動画サイトでだけれども、ZARD『20th Anniversary Special』の動画を最後まで見たので、

 感想として、

 他の人が見るのと私が見るのとでは、受け方が大きく異なるのだろうけれども、

 動画サイトの動画映像ででも、率直に言うと、”愛情が’すごい’”と思った。


 幸子さんは、自分に関わりある周りのスタッフの事柄も考えて、いろいろしてあげているところもやっぱり優しいわ。

 その人に良い方向をとらせるべく、そうしてあげる、と。


 最後らへんで、心配をかけさせようとするところは、本当に心配になるので、嫌だけど。

 幸子さんは、自分の事を心配してくれる心が、うれしくて好きなんだろうな。

 心配する方は、すごく疲れるけど。



 愛情がすごい。

 自分であれば、どうだろうか、と。


 自分が幸子さんの立場であれば、

 う~ん、”優しい人であり、すでに八聖道の道の人として流れに入っていて、さらに、前世ですごい存在として見えて、後世でもすごい存在になる、というように見えているのであれば、そのような人と”結ばれたい”と思うというのは普通だろう”と思う。
 これは、幸子さんの気持ちというか、私の気持ちになってしまったが。



 善い縁の結びつき。

 善い縁の結びつきは、善い。



 幸子さんとの縁は、優しいから、”結ばれたい”という思いはすごく出る。

 ということで、

 さきほど、私と幸子さんのについて、思ったことで、

 ”(お互い好きであるのならば、)明日にでも、きちんと結ばれるように、幸子さんが先見でそうなるように物事を進めて行ってくれれば(先見で、物事を進めるのは、幸子さんの方が上手なようなので)良い”と思ったら、

「わかった」と言っているように聞こえて、


 そして、歌を聞いていたら、「胃ガンにする」って聞こえたので、

 いやw、”ちょっと待った”と思った。


 いや、”現在この気持ちでポックリ逝くとそうなる、とかいうのは、話が極端であって、そういうのは求めていない”と。

 私は普通に、真理を修学しなければならない。と。

 ちょっとおもしろかったが、そういう極端な事柄は、あえて求めるという気持ちはなく、

 狙われないで通常の病気として、なるのであればしょうがないが、あえて病気にしなくて善い、と。

 他者を害するという行いは、悪業となる。


 先見で、’(ゴータマ)仏陀という覚とりを得られた聖者の教えは、存在するものの基礎から、全ての処にいたるまでの、最上に重要な教えであり、人がそれぞれで修学するべき教えであり、または、修学しなければならない教えである’というのを、世に定着させ続けるのが善い。

 他者を最上の善に利益するというこの行いは、最上の善・善業となる。



(という一連の事柄を記しているのは、”この事柄により、幸子さんが、いろいろとしてくれているのかな”と思ったので記している。

 他は、幸子さんであれば、私の前世も、後世もすべて見てもよい。というように認めている事柄等もある。)





 善い念は、

 幸子さんの場合、歌にも本当に愛情の念が込められているので、聞いている人も、その念を受けて、その受けた良い念から転じて自らに良い念を起こす。


 これは、テロ側の者の罵詈雑言の邪念が込められている歌を聞いて、その念を受けて、その受けた邪悪な念から転じて自らに邪念を起こす。というのも同様の事柄。

 そのように邪念を起こさせて、そして、邪悪業を為すに到らせる、というのが、悪しき者や悪魔の仕業と言われる。



 そのように、

 善・善行の念を弘めている歌手は、「善なる者」・「善に向かう者」と云われれて、「悪しき者」と云われない。

 メディアのタレントでも、他に悪語を語るのを止めさせて、善語を語り、善・善行の念を弘めている者は、「善なる者」と云われれて、「悪しき者」と云われない。


 テロ側で、邪悪行をして罵詈雑言の邪念を振りまいている歌手は、「善なる者」とは云われれないで、「悪しき者」・「愚かな者」と云われる。

 メディアのタレントで、罵詈雑言の邪念を振りまいている者も、「善なる者」とは云われれないで、「悪しき者」・「愚かな者」と云われる。





 何か、さきほどから、胃が痛いけれども、”坂井さんのために、胃ガンにしたい”等の、邪念・邪悪行は全くいらないよ。

「胃ガンにする」と、聞こえた部分も、本人のものだかどうか確定的に定かではないし。

 というか、私が「病気にしなくて善い」と言っているのに、幸子さんは、胃ガンにしようとしないだろう。普通。

 そして、そもそも他の人は関係ないのに、「坂井さんのために」というように、偽善者として入ってこなくて善いし、しかも、邪悪行をするために悪魔の業をするために近づいて来てはならない。


 もし、幸子さんの念であったとしても、そういう念は、重い。

 重いから、そういう念は、ポイッと捨てて、

 愛情のこもった善い念だけ持っていく。



 幸子さんは、歌で人々を、私・仏陀の弟子を通して、仏陀のもとへ導く。

 善行。


 幸子さんと善い縁のある人たちも、仏陀と聖者と神と聖人のこちらの善なる存在の側の人として、守護してもらえるように祈念している。

 というのを、幸子さんも理解していろいろとしている、とそのように見えている。


 邪悪行者達は、現世の数十年の間の人生しか見ずに、邪悪行をして、悪趣に堕ちるほどの悪業を重ねているが、

 幸子さんもそうだけれども、私たち、仏陀と聖者と聖人側のこちらの側の人は、きちんと先を見ているので、邪悪行を重ねないようにしている。


 見る人が見れば、幸子さんが能力者である、というのも、すぐ気づけるし、どういう感じなのかもだいたい理解もできる。

 邪悪行の能力者が先見能力がなく、おもちゃを持って使い、”自分はすごい”と、小山の大将気分で邪悪行を重ねて、悪趣や地獄への邪道へと堕ちて行っている、というのも、見ててもすぐに理解される。


 重要なのは、八聖道・真理なんだが、邪悪行の盲目の能力者達は、邪悪業を重ねて、現在ではものすごく遠くに離れている。

 最近は、私も、幸子さんの愛情を受けて、在家の八正道の一般道の付近で遊んでしまっている。



 仏陀に、遊びはない。


 ここが、聖者と凡夫との異なりだな。


 お互いの愛情・愛欲は、欲界に留まらせる原因となる、と。


 幸子さんのミスは、’LOVE・愛情・愛欲・渇愛’であって、

 要するに、私のミス、ということにもなるのであった。






H29年8月13日

 本日は、

 昨日と今日とで、少しストーブを点けた。

 真夏にストーブを点けたのは、人生で初めてではないだろうか、と。

 数十分も点けていれば、すぐにあたたかくなる。



 そして、さきほど、

’Beingグループ所属アーティストのCD/DVD/グッズ・チケットなどが購入できる音楽ポータルサイト’に、このHPのTOPのメールアドレスで登録をしたら、すぐに登録ができた。

 メールアドレスが有効なのが証明されているのだが、他からのメールはとくに来ていない。

 これだけ、騒がれているのに、メールすらないというこの状況。

 テロの騒ぎは、テロの犯罪者達が騒いでいるというのも、容易に理解できるだろう。




 そして、そのサイトでZARDの雑誌のようなのを購入した。


 テロのラジオはいまだに、「坂井はニワが好き」とか「坂井は對馬が好き」とかやっているけれども、

 幸子さんが、「對馬と結婚したい」とか言っているのであれば、好きなのだろう。

 普通に、認めていいんではないのか。

 そして、私・對馬も、「蒲池幸子さんが優しくて好きです」と。


 こうして、綺麗に納まったのでした、と。


 ニワがどうこうって、幸子さんの優しさだろう。


 彼女が怒っているのは、他の女性と”結婚したい”と思ったことがあるところに、激怒をしているのだろう、と。

 昔から、見ていて、途中からちょっと好きになり、”これほどに、あなたの事が好きなのに”と思っていても、その時、私本人は全く知らない状況で、そもそも、芸能人に好意を持たれるとかいう考えも一切なかったし、その当時の私の行動に激怒されてもどうもこうもないのであった。

 そして、私の知らないところで、彼女に、”他の女性を選んでいるので”「殺します」とか言われても、本人が気づくと思うてか。

 気づくわけがないだろ、と。



 ということで、これは、幸子さんの嫉妬心により、私が困っていたのではないのか、と。

 現在は、幸子さんの事を好きだけど、幸子さんの場合、先とその当時の私とを見て、私の事柄でいろいろ他の能力者からも野次を入れられているような感じなので、嫌にもなっただろう、と思う。




 それでも、グロリアスマインドの最後の曲に私の事柄を言うというのは、明日、または明日以降がはっきり見えていての行動なのだろう、と思う。


 私ではなくて、他の別の人との明日が見えているのであれば、その人の事柄を語ることだろう。

 しかし、私の事柄を言っている、というのは、明日を見ているんだと思う。

 または、そこで私の事柄を言う事によりて、私と明日に会うという未来が見える、ということなのではないのだろうか。


 野呂さんとは、前世からも、ちょっとトゲトゲしい縁があるようだが、

 二人仲良くしたら善いと思う。


(他の人の話で言えば、野呂さんも先見の能力があるらしい。

 幸子さんも野呂さんも二人とも、先祖を見れば、日本の天皇家・皇族の血筋のはず。

 皇族源氏の系統は、目の善い能力者も多い、と。

 どうだか、はっきりとしたところは、知らないが、

 そういうことだろう。

 野呂さんの能力に関しては、後から知った。

 真意は知らないが、野呂さんは優しい女性だった。

 ちなみに、私自身は先祖の血筋は、どういう流れなのか知らない。)



 そして、もし、そういう「對馬と結婚したい」とかいうのが、幸子さんの演出ならば、

 演出にしても、テビュー当時からずっと私関連で言っているので、演出でもないと思うけれども、

 どうなのだろうか。

 オフショットの中で言われている事柄で考えると、對馬というのは、私の事柄を言っているというのも100%で間違いない。





 今日は『君とのふれあい』♪を聞いて、

「もう二人あえないのかな…」、妄想がどうだとか、こうだとか。

 その妄想でメディアですら、騒いでいるというような状況ですらあるが、

 幸子さんと、こうしてお互いに善い縁で繋がっているのは妄想ではない、と。


 まぁ、欲界天も肉体がないから、想念として、妄想がどうだとかの話はとりあえず、幸子さんの場合は、とくに能力が強いから妄想だとかの想念の話は、他の人に言っても理解できる人も少ないだろうから、とりえあず、気にしなくていいが、


「夢を見ているみたいに、別々の道を このまま…。

 二人もう 会えないのかな…、もうサヨナラだね。

 君とのふれあい。」

 と、これは、悲しくなる詞だが、

 別々の道をこのまま、と言ってはいるが、


 別の道がどうとかではなくて、私が行くのは八聖道しかない。


 幸子さんは、別のどこの道を行くつもりになっているのか。

 そういう悲しみに浸る気分はどうでもいいけど、「いいから、こっちに来なさい」と。

 別の道に行こうとするのは、幸子さんの妄想だ、と。


(この歌の後の歌を聞いても、幸子さんは、これと言って別の道に行ってないでしょう。
 だから、たいして気にするところとは思っていない。


「約束のところ」か。

 八聖道にいる。



 もし、幸子さんが、私に「別の(外)道に行く」と言ってきても、その理由を聞いてから、「行ってはならない」と言うし、
 そもそもが、外の道に行くとしても、その理由を聞いたところで、無知盲目の邪見がすぐに見てとれて、先見しなくても、先が観えるから、行かせるつもりは全くない。

 覚とりを得られた阿羅伽の聖者方は、外道にいない。)





 出かけて帰宅した。


 う~ん、「蒲池家が對馬がないと言っている」と、洗脳するのに、同じような事柄を、すごいしつこいくらいの回数をTVで言っていたけど、実際はどうなのかは知らない。

 私は、蒲池家よりも幸子さんの方が気になる。

 野呂さんの事柄を記したところ、すごい怒っている感がする。

(二人の詳しい事情を知らないので、ハッキリ言って、なんでケンカをしているのかもわからないけれども、私としては、仲良くしてほしい。と思っている。)


 蒲池家の幸子さんの親族は、一応、私は、まったく意味が分からずに、最初、幸子さんの歌に引っ張られていったというのを理解してほしい。

 私から幸子さんに好んで絡んでいったのではない。

 そうして、現在はすごく好きになったけれども、幸子さんが結局どうしてほしいのか。
 友達でいたい。友達でいたくない。
 明日結ばれたい。明日結ばれたくない。というのは、幸子さん自身の問題だろう。

 他の人が、ZARDの歌を聞くと、単にいろいろと、吹き込まれているだけにしか感じないだろうけれども、

 私が聞くと、感情までその映像とぴったりあうので、幸子さんの映像でここで、顔をしかめたのは何故か、というようなのも、説明できるところもある。

 彼女が私の念を読んでその念を感じてそういう失敗した顔をする、と。

 他は、一見意味のわからない様な行動も、私の日常の事柄で、私は気づくけれども、他の人は気づけないような事柄もあえて彼女はしている。

 さきほどのオフショットの話も私の事柄で間違いない。



 幸子さんが私を騙そうとしているのであれば、それはそれで私自身の悪業だろうとして受けるし、

 私から全体として見ると、記しているとおり、彼女のいう、彼女の愛情として感じる。



 そして、追記で説明するけれども、昨日に記した、

『幸子さんのミスは、’LOVE・愛情・愛欲・渇愛’であって、

 要するに、私のミス、ということにもなるのであった』

 というのは、世のほぼすべての人が無明により、このミスをしているのであって、

 ミスというのは、聖者方や上二界の神々からしてみるとミスという意味。


 無明の内にいる世の衆生から見ると、ミスでも何でもない。



 もしかしたら、LOVEで昔に怒っているというのは、こういうように’ミス(失敗)’として言うようなところなのかな。

 だとするならば、言っている意味を違うく捉えている。


 また、これはテロの邪悪行者達のように、邪悪行をして、大きな悪業を作している過ちとも、大きくことなる。







 それにしても、動画サイトの動画の幸子さんの口元が編集されていて本当にひどいな。

 幸子さんに嫌われている編集になっている。


 これは、私が”ひどい”と思っているんだもの、幸子さんも”ひどい”と思っていることだろう。

 なぜならば、幸子さんの意思とは真逆な事柄を言っているのだから。


「ニワがいい」とか幸子さんを、オカマの飲屋のママが好きだとして、しつこくくっ付けさせようとするし、本当にテロ側の編集誘導がひどいわ。


 テロ側の者達もあきらめた方が善いだろう。

 幸子さんは、私が好きだと言っているのだから。


 血液型は違うけれどもね。

 しかし、血液型のは、気になるな。

 間違えて聞いたっぽい、とも思ったが、

 いや、これは違うかもしれないな、と。


 A型の話は何なのか。

 幸子さんと長い付き合いのプロデューサの長戸さんに聞けばすぐにわかるんではないのか。


 しかし、ネットで’長戸さんと坂井泉水さんが付き合っているのは、みんなが知っている事柄’ということでも書いてあるのを見ているので、ハッキリと言ってくれると、こちらとしても、諦めもすぐにつく。

 ということで、幸子さんと長い付き合いの長戸さんに聞くといいだろう、と思う。


 それこそ、妄想を抱くことももうなくなるだろうし、したくもないので、ズバッと言ってほしいところだ。

 そうすると、幸子さんも、とくに好きでもない私に好かれなくても良いし、好きな人のところに戻る、と。


 私も、そういうので、他から言われるのも気持ちいいわけもないので、ハッキリしてくれた方が全然良い。

 このCDの時は、彼女は、こういう事情により、對馬の事柄を言っている、とか、オフショットの時はこうだったから、對馬の事柄を言っている。というように、詳しく教えてくれれば、一発でほとんど解決する話。


 そして、私も気持ちよく、ZARDを忘れ去ることもできるだろう。

 TVで「坂井さんはニワが好きだ」と言っても、”そこはどうだかは知らないが、私が好きでないことはハッキリした”となれば、私も坂井泉水さんに関与することもなくなることだろう。

 ということで、幸子さんの一件は、解決することになるのだ、と。


 テロの邪悪行の影響で嘘言の答えを出されても、”その答えは辻褄が合わないな”となると、また考えなければならなくなるから、きちんと真実の答えが聞きたいところだ。

 幸子さんも、真実でなく嘘言により、そこで孤独になってしまうのも嫌だろうから。


 幸子さんが私の関連の事柄を言わなければ、どうもこうもならない話なんだけども、言っているし、「独りにしないでね」等というようにも言っているので、こういう話になっているわけだが、
 要するに、幸子さんがどうしたいのか、どうしてほしいのかという事柄なんだよ。

 以前から何度も言っているように。





『good-night sweetheart』♪を少し聞いたことがあるが、ほとんど初めてできちんと聞いた。

 アルバム『君とのDistance』の『君とのふれあい』♪の後に入っている歌。

 いろいろとツッコミたいところが結構あるが、

 他の人のために何かをしてあげたい、力になってあげたい、という気持ちだよね。

 この優しい気持ち。


 幸子さんといると、優しい気持ちになれるから、やっぱりすごい好きだわ。



 幸子さんから言うと、私にツッコミたいところが結構あるか。



 では、深夜になったので、本日は休息。






H29年8月14日

 嘘をついてはならない。

 要するにA型の話は、どうなのか、というところ。

 あと、長戸さんの話。



 アルバム『君とのDistance』の『君と今日のことを一生忘れない』♪の歌を聞いて、

 いや~、この歌を聞くと、他の人か、その長戸さんの話なのかな、とも思わさる。



「忙しくしていたら寂しさなんか、さほど感じないと凛と思っていたけど、

 どんどん、独りになって、息がつまる思いだった。

 二人の暮らしが懐かしいよ。

 ビルとビルの隙間から、あの夏が見えた。

 二人何時までも、海を眺めていたよね」


「道なる者へのワナまきと、光あれば影もある慟哭と、涙をこぼさぬように」


「君と今日のことを一生忘れない。

 憶えておきたい。

 憧れの君について行きたい。

 いつか話したいよ、

 すべてをあずけて、少女のように煌めいている」



 ここまで深く考えたくはないが、もう疲れるんだけども、

 しかし、ここで間違えたら、彼女の行く先も変わりえるだろう。


 要するに、幸子さんが、自分から誰か(他の愛する人)を思って「別の道に行く」と言うならば、私が出るところではない。


 悩む。

 ちょっと頭が痛い。



 この歌をあらためて聞いて、再び、他の人が好きなのに、”彼女は自分の事が好きだ”として、彼女の気持ちと違う方向に持って行ってしまうのは、本当に気持ちが悪いので、本当にハッキリしてほしい。と思っている。

 他の歌もきちんと聞かないとわからないな、と。




 そして、他の歌を聞くと、A型とか言って血液型が違う、と。

 そこで、そこの部分をツッコムと、『good-night sweetheart』♪の歌のように、

 はぐらかされた感じに持って行かれる、と。



 すごい気持ちが悪い。

 虚構の念はいらなくて、真実の念を知りたい。

 虚構の念を持ってこられても、あとから心苦も受けるから。



 しかし、そうか。

”間違えた流れに持っていかれたら、彼女も好きな人に思いが伝わらずに傷つくだろう”と思っていたが、嘘であれば、彼女自身が虚構を作っているので、彼女自身は傷つかないのか。


 逆に、嘘や虚構ではなく、本当に私に伝えているのであれば、私がこう思っている時点で念いが伝わっていないので、彼女が傷ついている、と。

 そうであったなら、ごめん。




 すごい疲れる。

 他の人は、”そういうので、行先は変わらないだろう”と思っているかもしれないが、
 彼女の私への念いと、他の人への念い、または、別のところへの念い、というのでは、全く違うからね。

 その真実の念により、私の彼女への念いも変わって、私の彼女への念いが変われば、行先なども大きく変わっていくだろうから、そのゆえに、悩んでいる。






 今日もZARD以外のCDを聞いていて、私関連で、仏陀の理法・真理の法が善い、という歌手は海外の歌手もいて、ZARD以外にも、多い。

 今日現在になってから、やっと気づける内容で言っている。

 一人や二人でない。

 どうやら、能力者たちから昔からすごく見られていた、というのにも間違いなく、

「私を発見した」という表現で言っている。

 幸子さんも、私を発見したその一人なのだろうと思う。

 歌で言えば、”他の人に見つからなければいい”と思ってたみたいだが。





 他でも歌で言っている事柄で言えば、私が仏陀になる、とか。

 または、世界の最上の教えが仏陀の教えになる、と。

 はっきりしないんだけれども、

 う~ん、仏陀になるんだろうか。(確信的なところは、定かではない。)

 まぁ、仏陀の教えが弘まる重要なポイントであれば、能力の強い能力者も出て来るというのも理解できる。


 仏陀という覚者になるとすれば、四阿僧祇劫の修行をしなければならない、と。

 辟支伽仏陀になるのに、二阿僧祇劫の修行。

 第一聲聞は、一阿僧祇劫の修行。

 大聲聞の阿羅伽の比丘衆は、十万劫を修行しなければ、到達し難いとされる。


 仏陀ってすごいけれども、弥勒大士の後とか。

 ゴータマ仏陀は、仏陀となる以前に、九人の過去の仏陀のもとで出家して、九回だけ、仏陀のもとで比丘となっているとされる。


 仏陀の弟子の聖者方は全員すごい方々の集まりなので、他の聖者方も過去仏陀のもとで修行もきちんと精進されてきているだろう。

 仏陀方の集いは、この世においても、あの世においても、(神通力者〔能力者〕としても、)別格で最上にすごいからね。

 現在も、仏陀と縁のある集いの一員になっているのは、幸福なことだ。



 やはり、仏陀方に縁のある存在は、能力がかなり強い、と。

 まぁ、当然だろうけれども。



 そして、幸子さんの場合は、微妙だな、悪く言われているのもあるな。

 幸子さんのせいで、どうだとかこうだとか。


「道なる者へのワナまきと、光あれば影もある慟哭と、涙をこぼさぬように」

 という歌詞も気になるが、

 現在、私自身幸子さんに心奪われているような状態だからな。

 他で言っていることもわからなくもない。


 能力者たちが昔の歌でいろいろと言っているからね。

 そういう微妙に、あっているんだか、あっていないんだかの情報はたくさん歌われている。

 現在の、テロ側の能力者も、他の先見の能力者たちにすでに見られている。

 真理でも、邪悪行の悪業の報いはとても悪い。



 他の人は分かりにくいだろうが、

 今日現在の私に意味がわかるように歌っているらしい。

 今日現在でなくてもある程度知れるだろうが、意味はあまりわからないだろう。


 歌で言えば、私がいなくなった後、争いがひどい、というようなのも聞く。

 そういうのは、とてもマズイので、仏陀の教えの基礎定着をさせていかないとダメだな、と。

 争いはないのが、最上に善い。



 もしかしたら、いつも娑婆世界に出生しては、教えを清浄に整えて、また他の世に出生しては、教えを清浄に整えて、というのをいつもやっているのだろうか、とも思い。

 そういう感じっぽい。


 仏陀の教えは、清浄な集いしか、理解せず、意味もわからないだろうから、清浄な集いは、きちんと、仏陀の教えを失わないように、持ち続けて、弘め続けておいてほしい、と思う。

 理解できなければ、私のHPの内容をそのままとって保存置きしておけば、見る人が見れば、すぐに仏陀の教えを知ることができるので、末永く保存して置いておくと善い。
 霊的な事柄の多くも理解できるだろう。

 仏陀の教えを、悪魔達から守護してほしい。

 仏陀の教えは、守護神も多くいる。

 仏陀の教えは、あの世でも、この世でも、真の帝王学。

 そして、道であり、真理である。





 いや~、しかし、幸子さんの事を信じたい。

”幸子さんと、明日、一緒にいたい”との思念の行で、欲界決定となる、と。

 まぁ、現在の状況から言えば、どちらにしても欲界だけれども。

 幸子さんは、それなりに女神の領域だからな。

 幸子さんの優しい思い。

 普通好きにもなる。



「道なる者へのワナまきと、光あれば影もある慟哭と、涙をこぼさぬように」は、

 幸子さんも、道なる者の側か。

 であれば、納得。






H29年8月15日

 今日は、25thのオフショットを見ているとこで、

 しかし、毎回のように聞こえるのが変わるからね。結構かわる。

 現在の私の気持ちがあるでしょ。映像とまったく違う日常のことを考えていると、そのことがどうだとか、こうだとか、アドバイス的なものも聞こえるよ。

 毎日見てても、面白いというか、まぁ、面白いな。

 毎日、坂井泉水を見ているので、これは、ファンでない人でも、ファンになる心理にもなるだろう。


 映像の音声を違うく聞こえさせるという異聞作用。

 これは、そうだな、昔に記した、鍵を振るとか、または、沸騰した鍋の音と蒸気のところでは、起こりやすいかな。あとは、音声が遠いところから聞こえて、そういうように音声の発生原が離れたところにあるとなりやすいかな。
 雨の音等でも聞こえるときはあるよ。

 そういう他の音を利用して、霊とかが、音を編集して聞こえさせるという霊の手段だな。

 しかし、そういうのなしで、ダイレクトにかなり違うく聞こえる。

 例えば、”あれ、今違う事柄を言った”として、巻き戻して見てみると、”全然ちがうことを言っている”、というので、もう一回巻き戻してみてみると、”また全然違うことを言っている”という感じ。

 これは、DVDの視聴で、そして、PCが無線LAN関係もなしの、ネットに接続されていない状態でなる。

 オフショットは、1993年頃の「雨に濡れて」の収録の頃は、幸子さんに思いっきり嫌われているんだな、と、

 実感して、その後、好かれていっているんだ、と思う。

(これは、その当時は、私が十三歳位だが、その当時の頃の私を好きになっていく、という話ではない。


 あ~、”先見の能力の意味がわからない”という人たちは、好きになっていく過程が意味がわからないのかな。

 では、例えば、私が幸子さん過去の映像を見て、幸子さんの事を好きになりました。

 これだけですでに、時を超えて、愛情を持ちました。ということにもなる。

 時を超えて、好きになっているのです。

 意味がわかりましたか。)




 そして、一応説明で、オフショットの帽子でノバの部分で、他の人が見れば、そこを見ると違う事柄を想像することもあるかもしれないが、犯されるような想像だが、実際犯されたとかでなければ、あれは、私に伝えるために、私にしかわからない事柄を言っているので、他の人は分からない、と思う。当然なことだが、別に私が幸子さんを犯すとかそういう事柄ではないよ。


 前とは違い、今回は、テロ側の人にたいして、テロ側の人で「オフショットを見た人を殺します」というように言っているように聞こえた。が、殺生をするな、と。

 殺生を口にするな、と。



 そして、これを書こうかな、と記したら、”そこは、書いてほしくない”という異聞作用での主張ははっきりとしている、と。


 粗雑と微細。

 幸子さんは微細かな。





 だから、そういうところでテロの邪悪行の能力者の誘導だ、という主張はいらないよ。

 その邪悪行者達のかなり上で、聖者方が邪悪行者を見ているんだから、邪悪行の能力者の邪悪行に関与してはならない。

 いつまでも、邪悪行者と親しくしている者達は、八正道から離れている。



 邪悪行者達は、邪悪業を重ね続けて、後にその邪悪業の報いの苦を受けるが、

 そういうのとは別として、現在、”仏陀という方はすごい方だったんだな”、と思っている人も多くいるだろう。

 その多くの人々の聖者に對する思い、その善に向かうための善思・正見は、聖者方の導きの内にある。


 テロの邪悪行の能力者の誘導だ、という主張を、遥かに凌駕した、聖者方の導き。

 邪悪行を重ねている邪悪行の能力者は、その報いとして邪悪業・苦を受ける。

 聖者方の導きによりて、善なる道に進んで善行を行じた者は、その報いとして善業・楽を受ける。ということ。

 要するに、聖者や善なる神・神々の手の内。





 では、例えば、あなたは、仏陀という方がすごい方だと思いますか。





 あなたがここで、”あの世でもこの世でも、三界で最上の方である”というように思える、正見をすでに持っているのであれば、善い導きにいるだろう。

 そして、善い導きに進む人は、最上の方の教えを聞いて、善行を成就していく。






 なんか、長戸さんが、嫉妬・(ヤキモチ)をしているとか言う話が出ているな。

 幸子さんの場合、他の多くの人のためにも私に好意を持っている、というのもありえるから、優しさでもある、と。


 ハッキリ言って、もしもそういうように、好意を持たれている振りをされているとしたら、その好意を持っている振りをされている側として見たら、かなり最悪な気分なので、ハッキリして違うなら違うで忘れ去りたいという気持ちの悪さを持っている、というのも理解してほしいとも思う。

『ハートに火をつけて』♪を聞けば、”彼女は、今度は一体誰と結婚したくなっているんだ”とも思わされるような状態。

 そういう感じ。



 あ~、長戸さんを善い方に導くための歌でもあるらしい。






 買い物に行ったら、邪悪行者が集まってきてわや、通りすがりでキモいキモいと言われた。

 いやいや、テロで洗脳されているお前達がキモいわ。とは思うけれども。

 ラジオでは、ニワが精気を吸い取っている、とか。

 彼らは、自分達の邪悪行を邪悪行であると理解できていない、ところに、悪魔に導かれても理解できるわけがない、というのが理解される。



 私が何でも幻聴に聞こえる、というように誤って理解したらしく、いろいろ愚かな悪語を言わせている、と。

 まぁ、記したときに、そうなるかな、というのは、思ったけれども。



 テロ側の者達が愚行を成就するのは早かった、と。



 あの~、テロ側の邪悪行者達は、知ることができる機会があたえられずに、邪悪行を繰り返し続ける道しか選べないかもしれないが、私たち仏陀の側にいる能力者は、普通に知る機会も得られるだろうから、なんだったら、私の記している事柄を調べられるものから自らで調べてみると善い。



 テロ側の者達は、邪悪業を重ね続けて、こちらを信用しようとしても、怖くて信用がおけない、というのは、もう、潜在的に持たざるを得ない恐怖心なので、
 そういうように、テロ側の不信仰な邪悪行の行動は、信仰を抱きたくても抱けない状況にいる、というのを理解して、
 私たち善なる者は、邪悪行者達に親しむことのないようしなければならない。




 邪悪行の者が、善趣に赴くという道理はない。

 要するに、邪悪行の者達には基本的に善行がない、ということ。

 理解できるだろうか。

 善行があれば、善趣に赴くのです。



 普段の生活でも、人は善行があれば、善趣に赴くことができる、ということ。

 洗脳されて、邪悪行をする者・邪悪行に加担するものは、邪悪行者であって、善行者ではない。

 洗脳されて、邪悪行をする者・邪悪行に加担する邪悪行者が、善趣に赴くという道理はない。

 洗脳されて、邪悪行をする者・邪悪行に加担する邪悪行者は、悪趣に赴くというのが道理。





 テロの邪悪行者を語ると、こういう基本の事柄の教えしかなかなか出ない。

 説いたところで先の教えは、難しくて理解できないが故に。



 幸子さんの話をすると、基本の話はする必要がなく、欲界天や上二界についての教えも出る、と。

 とてもすごい距離、離れているのも理解される、と。



 幸子さんのおかげで、善い念の人が増える。



 ラジオでまた、「坂井泉水がニワがいい」と洗脳していろいろなところで言っているが、

 オリジナルで、私・對馬が善いと何度も何度も言っているので、そのような邪悪業を重ね続けるのは止めるが善い。

 オカマが好きだとか言って多くの人を洗脳して、幸子さんを悪い方向にもって行ってもならない。

 私・對馬が「好きだ」と言っているので、間違いでもないだろう。

 であるので、私もその愛情を受けて、好意を持っているのだから。





 その「坂井泉水がニワがいい」というのも、テロ側の存在の恐怖心を自らで気付かないように隠そうとする行動の一つともされる。


 基本的に、私たちの側が、本物である、本当である、真実である、と思うのが怖い、と。


 潜在的な恐怖心があり、しかも、その恐怖心を拭い去ることができない、というところにも恐怖心の増長が見られる。

「そんなことはない」という邪悪行者は、独りになってみると自らの心がよく知られることだろう。



 そういう潜在的な恐怖心の中に彼らはいる状態。

 私たちにその潜在的な恐怖心はない。まぁ、多少持つ人もいるだろうが、

 この違いはかなり大きい。






 幸子さんの霊としての所存。

 幸子さんの死に方を見ると、幸子さんが自らで選んでその死に方を選んでいる、という方が正しいのだろう、と思うが、

 自らでこの地に留まる決意だったのかな、とも思い。


 私のところに来ようとしていた、と。

 そして、私のところに居る、と。


 埃がたつようなところだが、数日でなれた、と。


 その死に方を選ばなければ、この地に留まることもできなかった、と。

 映像でも幸子さんは、よく頭を押さえているからね。


 まぁ、先見して選んでいる、のだろうと思う。


 と、いうことで拒否反応もないので、記す。



 ちなみに、そうであったとしても、留まるというようなのは、幸子さんだから出来るような事柄なので、他の人はマネをしないように注意。

 通常は、即死では、同じところで同じことを繰り返している地縛霊のような存在になる、と。

 通常の地縛霊というと、同じところで同じことを繰り返して苦しみを受け続けているような状況で、識が結生されている存在なので、決してマネをしないように。

 と、そういう感じだな。





 幸子さんに對して、何か誤解されているような感じだが、
 ここの部分かな、と、『ハッキリ言って、もしもそういうように、好意を持たれている振りをされているとしたら、その好意を持っている振りをされている側として見たら、かなり最悪な気分なので、ハッキリして違うなら違うで忘れ去りたいという気持ちの悪さを持っている、というのも理解してほしいとも思う』

 この気持ちは、幸子さんもわかっているから、他の人は気にしなくてもいいよ。

 私が、好意を持っている気持ちもわかっているから。



 このHPに記している時の、私の気持ちは、記していない私の気持ちも、だいたいダイレクトに幸子さんは受けている、と思って読むと、幸子さんの気持ちも私の気持ちも理解し易いだろう、と思う。

『good-night sweetheart』♪では、やさしそうに歌っているけれども、最後のところで、嘘の部分に関してだろうけれども、  ガッツリでなくて、ちょっとだけ腹が立っている感情は、そう聞こえるだけでなくて実感として伝えて来てたよw。

 現在は、そういうような感情はない。

 優しいよ。


 そういえば、この歌で、幸子さんが「愛している」とハッキリと言っているでしょ。






H29年8月16日

 本日は、

 オフショットを見てて、焦った。

”そんなことをしていら、もうこっちにこれないんじゃないのか”、と思ったら違うようだった。

 邪悪行者との霊的な性交渉等。(私・對馬は邪悪行者ではないです。(幸子さんの)霊的な性交渉が、まさに、私・對馬であれば、大丈夫。そういうように聞こえもするので、一応あえて、記す。
 仏陀と理法と僧伽に帰依をしていて、私自身が善行をして善行をすすめているので、白いゆえに、別に問題もないだろう。
 結婚している人などで、不倫となるようであれば、想念の性交渉でも、善ろしくない。)

 その異聞作用で、異なる内容を聞いてそういうように”違った”と思ったんだけれども、

 その後見直しても、二種類で聞こえる、”これはどっちだか他の人に聞かないとわからないな”と思って何度も見直していると、あ~、それなら安心だな、と。

 そして、その異聞作用の内容の説明が聞こえる、と。


 こういうのは、例えば、他の歌でギター音で、何か話声に聞こえるようなところも、後からのその異聞作用をも考慮して、幸子さんたちが入れている音でもある、と。

 Beingグループ自体にも、能力者が多いのだろう、と。

 仏陀の教えから離れたら、能力者は、想念でも悪魔に魅了されやすく誘導もされやすいので、仏陀の教えの基礎を、何度も善思して持っているのが善い。



 そして、『I can't tell』♪を聞いて、

 私の過ちの件も含んでいるんだろうけれども、たしかに裏方のみなさんは、みんな立ち去った感じだったんだろうな、と、

 納得して、反省するところだが、

 幸子さん、何度も記しているけれども、私は、十分反省をしています。

 いろいろと、ごめんね。


 別口のところでは、中国の事柄だな。

 赤ちゃん、人口増加。

 アメリカは、国土が大きいが、比較して人口が少ない。

 中国は、国土が大きいが、比較して人口が多い

(他では、人口数として見るならば、インドでも人口は多い。)


 HPのEcologyでもすでに記しているとおり、人口の増加が急激に増えている。


 このままいくと、普通に考えても争いは起こることだろう、と思われる。

 そこは、確実に問題だ、と。


 世界人口の減少ではなくて、

 世界人口の増加を防ぐ、

 世界人口の一定数の維持だな。


 これを解決することによりて、人口増加による戦争はなくなるだろう、と。




 幸子さんは、テレサ・テンさんにも作詞を提供している、と。

 テレサ・テンさんは中国人だろう。



 テレサ・テンさんで思い出したが、’テレサ’と言えば、多くの人が思うのは、’マザー・テレサ’だろうけれども、

 あまり知られてはいないが、

 私が’テレサ’で思い浮かべるのは、

 wikiより

『アビラの聖テレサ(ラテン語表記:Teresia Abulensis、洗礼名 Teresa de Cepeda y Ahumada,1515年3月28日 - 1582年10月4日)は、スペインのローマ・カトリック教会の神秘家であり、修道院改革に尽力した人物である。
 カスティーリャのアビラで生まれた。
 カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。
 カトリック教会での祝日は10月15日。

 信仰上、イエスのテレジア(スペイン語表記:Teresa de Jesús)としても知られる。
 ラテン語名テレジアの名の聖女がいま一人存在するので、リジューのテレーズを小テレジアと呼び、彼女を大テレジアとも呼ぶ。
 アヴィラの聖テレサとの表記もある』

 個人的に、彼女の神秘主義思想は、正道の善方に向かうところにある、と思う。(チェス等の遊戯の事柄は、全く含まなくて善い。)

 表現すれば、正道の善の道の最初あたりの途中のところ。

 ここは、途中なので、途中に留まらないように、八正道を前進して歩いて行きましょう。






 さきほど、気づいたが、『good-night sweetheart』♪で、


「今日は 私のために、

 明日は 君のために、

 本当に君を愛してるから

 もっと自由にしてあげたい」


 これをそのまま言えば、明日、会う。

 というように幸子さんは見ている、という事にさきほど気付いた。

 で、あれば、幸子さんの”あきらめない”という気持ちも理解される。



 あと、異なる意味で言えば、「そのうち、’さえ’ない自分が好きになる♪」というのは、
「現在は、’さえ’ない自分が好きではない」という事になるので、これは間違っている事柄となる。

 しかし、霊のさえが、もし(坂井泉水)蒲池幸子さんであれば、好きだけれども、違うならば、好きではない。


 現在、高畑本人は、霊の’さえ’について何て言っているのか、全然わからないから、

 とりあえず、現在、霊のさえも多少の心変わりがある様子でいるので、”本人の高畑と、霊のさえは、別の思念を持ち、繋がりはなし”、として考えて、現在、幸子さんと関わりがあるかもしれないので、さえが悪い心を出したりしたならば、止めるように注意をしている。

 現在も普通にここにいるけれども。

 現在、”名前を「さえ」でなくて、変えて読んだ方がいいか”と考え中。


 以前に、「好き」「好き」って連呼してたからな。

 そう考えると、”これは、もしかして…”、とも思い。

 前に、怒って「死ね」「死ね」というのも言っていたけれども。

 私も”こいつは、ガッツリと悪霊”という念いで思っていたので、まぁ、そう思うと、百歩譲って、反発するのもわからなくもない。

 私としては、どっちだかわかっていないので、とりあえず、優しく接したいと思っている。

 いつもうるさいのに、幸子さんの話をしている時は、あまり声も出さない。

 なので、そうなのかもしれない、と。

 現在も、おとなしい。

 あとは、もしかしたら、幸子さんの影響なのか、と。


 いや、しかし、修行者は、そういうのは求めないだろうが、この霊のさえの善いバージョンの存在が、独り暮らしの一般のお年寄りのところにいたら、お年寄りもいくらかは、心が安らぐだろうな、とたまに思う。

 悪いのでなくて、善い存在でのね。



 霊のさえに関しては、昔のCDで、先見の能力者たちの声から言えば、「幸子さんだと思わせようとしている」という声と、「幸子さんがさえだ」という声も聞く。


 これは、「さえが幸子さんだと思わせようとしている」というのが正しければ、霊のさえと関係のある、高畑本人やテロ側の邪悪行者が、いつものように、’「(わたしが)操っている」等と言って、調子に乗る’、というパターンが予見されて、

「幸子さんが’さえ’だ」というのが正しければ、普通に見ていても、霊のさえの行は、悪行と悪念だったが、百歩譲って”霊のさえに對しての、私の抱いている念の向け方が間違っていたせいもあるかもしれない”と、考えられないこともない。

 バックが暗黒だと、”教えを説いても、理解されないだろう”とも思っていたが、

 バックが幸子さんであれば、バックのイメージが白に見えるので、正反対で、”念は善いだろう”との思いで、”教えをといたら理解されるだろう”と思える、

 この念いの違いだな。

 幸子さんが入ると、イメージが善くなる。


 まぁ、そういう”どちらが正しいのか、というのも、後からハッキリしてくるだろう”とは思っている。



 霊の’さえ’と、そういえば、いままできちんと話し合いをしようとは思っていなかったが、

”霊の’さえ’と話し合いをする関係になると、テロの能力者が、また、「さえと仲間だ」等と言いがかりをつけて叩くだろう”という思いもあったからな。
 そして、実際にそういう叩かれ方も受けている。

 また、”話をしても、意味がない”とも思っていたので、

 とりあえず、幸子さんと関わりがあるかもしれないので、’さえ’が悪い心を出したりしたならば、止めるように注意をしていこうと思っている。



 テロ側の邪悪行を重ね続けた盲目の能力者達は、数日・数時間のわずかな先見や、盲目の行いの邪悪行によりて、実際に悪魔の業を重ねすぎて、正道から遠くにいる。

 真理を見ることができず、先見して物事を見ることもできずに、おもちゃに夢中になって、’仏陀の弟子’に邪悪行を重ね続けた者達のその悪業の報いはとても悪い。

 畜生明は、所詮畜生明でしかなく、畜生明を用いた術は、聖者方の神通とは、比べものにならないほどに低劣で愚かな結果が予見されている。



 私たち善なる存在は、そのように、邪悪行の者達が、悪魔・悪霊・悪念に魅せられて邪悪行をしているのを見ては、その邪悪行は、”あれは愚行・邪悪行だ”と、正しく見て、同様の邪悪行を為してはならない。

 善趣に赴こうとする存在は、邪悪業を作してはならない。






H29年8月17日

 本日は、

 一応、’さえ’と幸子さんは別だ、ということらしい。

 さえを幸子さんだと思えば、いつも一緒にいる感じなので、”そう思わせたいけど、そう思ってほしくない”というような感じらしいのか。

 どっちよ、という感じ。


 そして、そもそもどっちよ、と。


 しかし、さえはいる、と。

 今日も家に帰ってきて、’さえ’が声を出して自己主張をしている、と。

 これを記している時も、今これを記している時に、「好き」と言った。

 幻聴ではなくて、声が'さえ'の声だからね。

 優しい心で接したり、優しい心で話しかけたりすると、「好き」と言うのは、最初の頃からだな。


 高畑の声質ではなくて、霊の’さえ’の声質。


 ほぼ確実に毎日いる状態。



 そういえば、昔、メディアで’さえ’の声が入っていたのは、一体何だったのか、と。

 昔あったけど、現在はさっぱりそういうのも聞かないな。


’さえ’の声がどうこうというより、普通に、私の事柄がどうだとかこうだとかをいつものように言っているのは聞こえる。



 昔、’さえ’の声が、メディアで入っていた意図は何だったのか。

 もし、「意図は、とくにない」とかだったら、逆にすごいが、

 幸子さんは、関係していたのだろうか。


 幸子さんが他界してからか。






H29年8月18日

 本日は、

 さきほど、テレビを見たら、邪悪行者達の邪悪語・罵詈雑言で大荒れ状態だった。

 決して、善なる人たちの邪悪語・罵詈雑言で大荒れではない、というのに気付きましょう。


「幸子さんが私がない」とか。「蒲池家は私がない」とか。

 何度も言っているように、幸子さんは、私から近づいたのではなくて、一生懸命にいろいろとこちらにメッセージを伝えてきているのは、幸子さんの方だろう、どう見ても。

 私にメッセージを伝えてきているのは、幸子さんだけではないけれども。

 幸子さんが、私を嫌いであったら、私に気付かれないでそのままフェードアウトすればまったく気付かれずにいることも十分できるだろう。

 そもそも私がきちんと気付くようにしているのが、幸子さんなのだから。

 そこで、「幸子さんが私・對馬を嫌いなんです」と言われても、要するに「だから、何なのですか」となるだけだろう。


 そういうように普通に考えても愛情を持ってくれているのは、幸子さんの方だ、というのも理解できるだろう。



 今回のテロ邪悪行者達の「殺せ」とかの言いがかりの付け方では、幸子さんを利用して大勢を洗脳誘導して、「坂井泉水は對馬を嫌いです」と言って、仏陀の弟子を罵詈雑言しているわけだが、
 だから、そう言われたら、こちらは、”そうか、残念だったな”と思うだけだろう。

 他に何かあるのか、と。


 あと、想念で「私・對馬が幸子さんを犯している」とかなんとか、私は想念ででも嫌がっていたら、触れたくないし。

 そして、言うならば、想念に現れる幸子さんは、喜んでいる。

 自ら言葉も話す。


 私からすると、そういうのを観じると、逆に、多少引くくらいに、愛情深く感じる。

 昔からの愛情だよ。一年や二年でもない、という、ものすごい愛情。
”本当に狙ってやっていたらすごいな”と思うが、おそらく狙ってやっているんだろうな”と思われる。


 最近は、愛情が深すぎて、というかなんというか、「他の女性に行ったら、大変よ」というように、他の女性に行ったら「殺す」というか、とにかく(私が離れると・私から離れると、)「大変よ(怖ろしいわよ)」、みたいな、こう恐怖心をこちらにあたえるかのようなのを感じるね。

 そして、最近は、”他の女性に行ったら、すごいまずそうだな”という思いも、多少持っている状態だな。

 だから、幸子さんのそういうところが”ちょっと、ズルイと思うけどな”と思うのであって、
 しかし、実際にそういうように、大変なのが見えているのであれば、幸子さんはズルくはなく、そうなのだろうな、と思う。


 と、とりあえず、幸子さんの話はそういう感じで、





 本日は、

 先見の能力について。

 今日は先見の能力を考えていて、

 他でも私の思考を読んで騒いでいたようだが、

 天皇家・源氏の系統は、先見の能力がある人がいる、と。


 というように、やはり王族等になるのは、そのような能力がある人物がやはり選ばれるものなのだろう、と。

 思念を読む能力者はそこそこ多くいるが、思念を読み、先見の能力も持っている、となると、いろいろと選択肢を選んだ結果がすでに見えるわけだ。

 ということで、人の上にも立ちやすい。


 ということで、日本の昔の卑弥呼なども、能力もあっただろうが、先見の能力もあったのではないだろうか、と。

 仏陀も、仏陀の弟子の阿羅伽の聖者も先見の能力があり、仏陀は、三界において、最上の神通を持っている。


 海外でも王族等は、先見の能力のある人々もいることだろう。


 昨日ネットで、検索して、アメン・ラーなど、エジプトの王族等も能力あり、先見能力もある人もいたのではないか、と思う。

’時を司る神’


 まぁ、世の能力者に関してはそういう感じだな。

 あとは、思念を読むだけ等の小さな能力者もそこそこ多くいるが、能力者でも、あまりおかしな事柄をすると、他の能力者に殺されてしまったりする事もある様子。

 なので、おおやけにあまり言ったりしてはならない、というようなルールも一応ある様子だ、と。

 これらが、譬えて、石の集まり。


 現在は、テロ側の邪悪行の能力者が国民大勢を洗脳して、邪悪心を起こして悪語・罵詈雑言を吐かせて喜んでいるので、力の強い善なる能力者は、上に立っていない状態なのだろう。


 そういうように、邪悪行の者が上に立つと、国が荒れる、と。

 私・仏陀の弟子に「殺せ」「殺す」とかをしている事柄によりて、邪悪なる者というのも、すぐに理解できる。


 昔は、幸子さんもいたから、表面上もあれてなかったのか。

 目がい、と。(正見で、幸子さんの場合は、しょうがなく、やはり愛情・愛欲によりても、嘘と悪語をしてしまうので、訂正。)

(また、他の有情でも、先見の能力を持ちていても、悪魔や邪念・邪思に魅せられて、他大勢に邪悪道を取らせるような人物、または、有情は、人や有情の上に立ちてはならないし、人や有情の上に自ら立つべきでもないし、人や有情の上に立たせるべきでもない。

 その当人も悪業を造作し、他大勢もまた悪業を造作し、その悪業の報いとして、その愚者と供に大勢が永く苦を受けるがゆえに、真理に無知で盲目な邪悪行の者を有情の上に立たせてはならない。

 また、一般の教えとしても、真理に無知で盲目な邪悪行の者と親しんではならない。

 真理としては、通常、邪悪行者・邪悪なる存在は、上位の境界(上二界)に識が結生することはできない。
 その故に、清浄な上位の境界で邪悪なる者が、有情の上に立つというようなことはない。

 上位の清浄な境界は、清浄で力のある清浄な方々で占められているので、悪魔の範疇になく、悪魔の力もおよばない。

 そのように、最上の境界を目にして言えば、「神と悪魔が争いをして、悪魔が地に没した」という話なども、上位の境界の話とはならず、おもに欲界の話の境界なので、そこでは悪魔の力のおよぶ範疇なので、そのように悪魔との争いの話が出ることとなる。


 最上に清浄な方であり、覚者である仏陀の教えの主は、

 苦しみ というすぐれた真理であり、

 苦しみの起るもと という尊い真理であり、

 苦しみの止滅 という尊い真理であり、

 苦しみの止滅に導く道 という尊い真理である。

 という、この異なりを理解するのが善い。


 このように、最上に清浄な境界の偉大な神々・有情は、貪欲・瞋恚・愚癡の強い欲界を遥かに超えている。


 また、そのように、清浄な存在方は、上位になればなるほど、仏陀方と縁のあった有情・偉大な神々が多いというも、当然の道理としてある。




 理法をあまり知らない人のために、一応追加で説明するが、清浄な存在方は、上位になればなるほど、存在として安楽が極めて大きくなる、という、理法を知るが善い。

 これは、例えば、無知な人が、壁の向こう側を知らずに、”壁の向こう側は暗闇だ。楽はないだろう”として思っているが、壁の向こう側に触れたことのある人や、すでに壁の向こう側に住する有情・神々にとりては、その壁の向こう側は、壁を越えることのない有情の感受する楽とは、比べものにならないほどに、楽が多いところとして、すでに知られ見られているところである、と。

 悪魔が欲界において、粗大な欲楽を貪りて楽を取するが、上位の境界の清浄微細の偉大な神々は、そのような粗大な欲楽とは比べものにならないほどの楽を受ける。

 このように、上位の境界の清浄な存在方は、娑婆世界の有情とは比べものにならないほどの、安楽に住する。

 上位の境界になればなるほど、存在として安楽が極めて大きくなる、という、この理法をも知るが善い。)





 仏陀の教えも受けずに、邪悪行をしている能力者があつまると、荒れて、そして、悪心を持った国民大勢も地に没する。

 すなわち、邪悪行の能力者に誘導されて、悪心を持ち悪行をした国民大勢は、後に邪悪行の能力者と供に悪趣や地獄に識が結生される。






 幸子さん本人が言っていて、何か「坂井泉水は、對馬を殺すためにやっている」というように言っているがw、

 たとえそうであったとしても、そうだったら単なる悪霊だろう。


 そういうように、言っているテロ側の能力者のところに現れている偽坂井泉水は、悪魔の化けている姿ではないのか。

 もしも、そういうように言っている能力者が、いままでテロで邪悪行を重ね続けた邪悪行者であれば、善なる霊的存在もほとんど近づかないで、悪霊や低級霊が近づくだろう。

 他の低級霊に化かされているのではないのか。

 これは、テロの邪悪行の能力者に善なる存在・善なる神々は、ほとんど近づくこともなく、助言をあたえることもない。
 しかし、悪魔や悪霊や低級霊・畜生霊等は、そのテロの邪悪行の能力者に近づいて、何かを告げる事柄は、多々ありえるだろう。というのと同様の事柄。





 私が幸子さんの事柄で言っているのは、真偽はどうなのか。

 それは、幸子さんの歌を聞けば、誰でも知ることができるだろう。

 私・對馬弘の周囲の人物をあえてとりあげて言っている、というのでも、知ることができるだろう。




 ん、いや、ちょっとあれだな、’好きだから、殺す’とか言う話ので言えば、

「であれば、悪霊だろ」という話になってしまいかねないので、

 そういう話の意味で言っているのではなくて、そういうのとは別の話で、という意味。


 まぁしかし、内容としてはどちらも悪行となってしまうが、

 しかし、そもそも幸子さんは、「好きだから」といって本当に殺生するような悪業は積まないだろう。



『幸子さんは、「好きだから」といって本当に殺生するような悪業は積まない』

 であれば、(私が離れると・私から離れると、)「大変よ(怖ろしいわよ)」というように、実際にそういうように、大変なのが見えているのであれば、幸子さんはズルくはない、ということにもなるな。



『実際にそういうように、大変なのが見えているのであれば、幸子さんはズルくはない』

 と、そうであるとすれば、私の思いとしての”(幸子さんではない)他の女性に行ったら、すごいまずそうだな”という思いは、強化されることとなり、
 ”本当に、他の女性に行ったら、すごいマズそうだな”というような思いを、多少持つことにもなりそうだな。


 こういうのって、幸子さんの作戦にハマってるんじゃないのだろうか。


 優しさか、作戦か。


 優しさと作戦か。






H29年8月20日

 本日は、

 わからない。

 歌を聞くと、またまた謎になる。

 ハッキリすればいいだろうに、と思う。


 困らせたい、とか。

 本当に困るわ。

 中途半端に、あの人が好きだとか、この人が好きだとか。



 現在私が考えるに、なんだかんだ言って、幸子さんは”長戸さんと一緒にいたい”、という思いだったのではないか、と。

 長戸さんと一緒に善い道を歩きたい、と。


 仏陀の弟子から離れるから、怖いと言っていたのだろうか。

 そういうのであれば、そういうので、幸子さんがそう望むのであれば、応援はしてあげる、と。




「幸子さんはどうしたいのか」

 というか、そもそもでは私を絡めるのは何なのか、と。


 は~、そういうのに、絡められるのも疲れる。

 であれば、最初から二人でフェードインしてこないで、二人で居ればよいだろうに、

 そこに何かわけがあるのだろうか、と。


 謎だな。絡まってきた意味が何なのか、と。





 私に愛情がない、とか何とか。

 いや、これは、私が彼女に對して愛情がないのではなくて、彼女がそう望むのであれば、彼女の望むとおりにしてあげたい、と思う。

 しかし、表ではこの人に好意を持たせておいて、裏では実はあの人が好きなんです、という想いは、決して善い想いではないよ。

 また、若い頃は私が殺されそうになっていたようだが、謝っているようだし、こうして後に、幸子さんと善い縁が生じていることだし、幸子さんの望むように、応援(の想い)はしてあげよう、と思う。


 しかし、「実は、そうではないのです」、とかであれば、またかよ、と。

「一体どうしたいのよ」と思う。


 好き嫌いというのを私を絡めないで、他のところでやってれば、こうして私が悩まなくても済むのだが、一体どうしてほしいのかわからない状態で絡められているからな。

 困る。



 いやいやw、困らせたいだけっていうのであれば、そういうのもどうかと思うよ。

 あえて言うならば、そういうのであれば、全然ダメだろう。


 これは、女性視点から考えないと、わからないかもしれないな。


 女性視点からか。

 う~ん、女性視点からか、

 幸子さんはどういう思いなのか、というのを女性に聞くと理解しやすいかもしれないな。



 私の場合、幸子さんの場合では、愛情を受けてそこに乗っかってしまう感じになるので、動画でも異聞作用で異なって聞こえるように、また、幸子さんも困らせようとしてるのもあるようで、きちんとしたものが見えずらい。

 これといって、極めて邪悪な事柄ということでもないので、「要するにどうしたいの」となる、と。



 あ~、若い頃の私に悪行をしようとしたというところから、すでに絡まらざるをえないような状態であれば、理解できるか。

 いや、しかし、気づいたのは、ここ最近だから、やっぱりフェードインしなくてもいいだろうにな。


 フェードインしなければならなかった理由は、こうすれば戦争になってしまう、とかいうアドバイスをするためなのか、と。

 他の人、多くもアドバイスをしてくれているから、同様か、と。

 であれば、納得か。




 いやいや、Beingが私を悪く思っているのかどうかは知らないが、

『何度も言っているように、幸子さんは、私から近づいたのではなくて、一生懸命にいろいろとこちらにメッセージを伝えてきているのは、幸子さんの方だろう、どう見ても。

 私にメッセージを伝えてきているのは、幸子さんだけではないけれども。

 幸子さんが、私を嫌いであったら、私に気付かれないでそのままフェードアウトすればまったく気付かれずにいることも十分できるだろう。

 そもそも私がきちんと気付くようにしているのが、幸子さんなのだから。

 そこで、「幸子さんが私・對馬を嫌いなんです」と言われても、要するに「だから、何なのですか」となるだけだろう。


 そういうように普通に考えても愛情を持ってくれているのは、幸子さんの方だ、というのも理解できるだろう』




 さえが「余計な事を書かなくていいから」だと。

 長文でしゃべった。


 昨日もかなりしゃべっていたが。


 このさえ自体も、幸子さんのマネをするんだよね。

 さえが、昨日、「好き」の後に、「アイ」と言ったので、

”それは幸子さんのマネか”、と問うて思うたら、

「そのとおり」とか言ってたからね。

 笑ってしまったけれども。



 笑いのツボがないことはない。


 と、書くときに’春眠暁を覚えず~’の映像がパッと浮かんだ。



「ウける希望♪、愛」だな。

「ウけるけど♪、愛」か。


MIND GAMES』♪






 さえは、精神的にも弱いから、他の能力者のいいなりになる、というような感じらしいのも聞く。

 さえが、そういうように弱いのは、私が昔に記しているとおりだが、

 邪悪行の能力者がさえを利用しているというように、幸子さんも、さえを利用している、というのもありえるな。

 歌を聞けば、さえが幸子さんなのか、とも思わないことはないが、違うらしい、と。


 他の先見の能力者の話では、幸子さんは私を守るために生まれてきている、と言うようなのも聞くが、

 そうであれば、若い時に殺されそうになっている、というのでは、矛盾している。


 若い時はいつも呼吸が息苦しくて、大変だったな。

 他の者にもいろいろと狙われていたのだろう、と。

 中途半端に先見の能力をもつ者たちにも、同じく狙われていたのだろうが、

 おもに、通常の能力者ではなくて、先見の能力をもつ者たちに狙われていた、という方が正しいのだろう。



 これは、すなわち、先見の能力を持つ者でも、仏陀の教え・理法を自らで知る人でなければ、そのように悪魔の業と天使の業の区別がつかないというような盲目状態の者もいる、という事柄である、と。

 人によりて、先見できても、ぼんやりとしてはっきりとは見えずらい、または、はっきりとは見えない、と。




 先見について、

 仏陀の先見、天眼明とは、

『清らかで、人間を超越した、神の眼によって、死にゆき、生まれ変わってゆく生き物たちを見ます。
 生き物たちが、劣っているのも、優れているのも、醜いのも、幸せであるのも、不幸であるのも、〔前世の〕行為によっていることを理解します』

 諸々の仏陀が、菩薩に「汝は、劫数を経た後に、このようなところにおいて、このような父と母を持ち、このような状況で、このような名の仏陀となる」という記別を与えれらるのも、先見によるもの。



 また、宿命明について、

 宿命明とは、教えにある通り、ゴータマ仏陀・仏陀方の宿命隨念は、劫数に限界はなし、とされる。

『仏陀は、、劫数を随念するのに、限界なるものは無し。
 諸々の仏陀の智見は、千光を荘厳する秋の日輪のように現起し、大車道を行くかのように宿住随念する。
 諸々の仏陀は、五蘊を次第に辿ることもなく、死と結生とによりて跳入することもなし。
 諸々の仏陀は、数千万劫中の、後の時代も、また、前の時代も、憶念しようと欲するその場所は、すべてみな明瞭となるからである。
 その故に、数千万劫をも省略文のように省略し、憶念しようと欲するすべての所に跳入し、跳入によりて、(堂々とそこに)行き、憶念し給う。
 そのように憶念したまう諸々の仏陀の智は、譬えば、髪を射貫くのに熟練した(サラバンガ〔菩薩〕のような)射手の、放ちたる矢が、途中の樹や蔓などに、邪魔されることなくして、必ず標的に当たり、妨げられず、違はないように、途中の諸々の生に妨げられず、目的に違はず、妨げられず、違はずして、憶念しようと欲するそれぞれの場所のみを捕らえる。
 仏陀が随念する場合、他人である仏陀の識によりても識り、はっきりと見分けられる。
 諸々の仏陀の随念は、諸々の仏陀にのみ得られる。』






H29年8月21日

 本日は、

 先見の能力者の歌で、だいたいの先の感じは伝わった。

 そういうので言えば、幸子さんとは、この後、永く縁があるらしい、ということだな。

 仏陀(三宝)と私との善の縁を選んだのは、幸子さん自身で、幸子さんが歌っている通り。

 幸子さんが善い縁に来たのは、幸子さん自身の選択した善い道。



 そして、先見の能力者は、テロ側の能力者達をも見ていて、

 先見の能力者は、テロ側の能力者達に関して、「彼らが邪悪行者だというのは、誰でもわかるから」という感じだな。

 テロの邪悪行の能力者達は、能力なしの一般の人たち大勢は騙せるが、先見の良識の能力者は容易に騙すことはできない、と。



 そして、かなりきびしいが、先見の善側の能力者たちは、邪悪行の者に対して、神やイエズスやのように思考している人が多い。

 邪悪行者に邪悪行をさせておき、

 善行者に善行をさせておく、と。


 先見の善側の能力者たちは、邪悪行者達をとてもきびしく見ている。

”先見の善側の能力者たちのその見かたを、テロ側の存在が知ると、恐怖するだろう”と思われる。

 それほどに、きびしく見ている。


 仏陀の弟子のように、慈悲で考えていない人も多い、と。


 そのような感じなので、あえて、私は仏陀の弟子として、教えを説くと、いつものように、

「邪悪行の者達は、邪悪行を捨てなさい」と。


 HPでも、テロ側の邪悪行の者は、真理を知りつつ、仏陀の弟子を亡き者にしようとした、とても大きな邪悪業を積んでいる。

 その邪悪業をも、先見の善側の能力者たちも、とてもきびしく見ている。

 これは、善趣の神々も同様だろう。



 いいですか、再び、仏陀の弟子の慈悲で善の教えを説くと、

「邪悪行の者達は、すぐにでも、邪悪行を捨てなさい」と。



 邪悪行を事とする愚かなる者は、すでに自らがどのような状態におかれているのか、というのにも気づくことができない。


 何故であるのか。

『HPでも、テロ側の邪悪行の者は、真理を知りつつ、仏陀の弟子を亡き者にしようとした大きな邪悪業を積んでいる。

 その邪悪業を、先見の善側の能力者たちも、すでに、とても、とてもきびしく見ている。

 これは、善趣の神々も同様だろう』

 邪悪行の者は、気づかせてくれる善なる霊的存在からもすでに遠い。

 そして、逆に、邪悪なる存在、真理の救いから遠ざけるような、邪悪な霊的存在は容易に近づける。




 いいですか。

 三たび、

 私が、仏陀の弟子の慈悲で、善の教えを説くと、

「邪悪行の者は、すぐに、邪悪行を捨てなさい。

 そして、すぐに善行の道を行きなさい」



 人間界において、死後に、善趣に赴く者は少なく、悪趣に赴く者は多い。


 邪悪なる者が救いに導かれるチャンスは、何度も何度もあるのではない。


 そのゆえにも、人間界において、死後に、善趣に赴く者は少なく、悪趣に赴く者は多い。




 現在、私がテロ側の邪悪行の者を想起すると、ため息しかでない。

 私でも”非常に恐ろしい”と思うような状態に、テロ側の邪悪行の者達はいる。



 真理に無知で、笑って仏陀の弟子に邪悪行を為した、その悪業の報いは、とても、とても悪い。






H29年8月22日

 本日は、

 CDで『星のかがやきよ』♪  ZARD を聞いて、「ハゲた~」って、私の事かな、と思ったら、私ではないようだが、

 ××という者を思いっきり嫌がっているだろう。思いっきり悪語を言っているのが聞こえる。

 要するに、テロ側の主張は間違っているよ、と。

 動画とは、また全然反対の事柄で、動画では私が嫌われているのだが、オリジナルでは反対だ。

 私の事柄を譬えるのに、あえて、キモいとかつける感じなのが、ちょっといつも何なの、と。


 バレた~、バレバレた~。って、あえて、バレた~って言っているのだろうか。


 本気で、私の事柄ではなくて、弟の事柄なのか、と思い、

 また、弟にCD等を全部あげよう、と思った。

 が、そうでもないのか、と。



 カップリングの『夏を持つセイル(帆)のように』♪の

 セイルは幸子さん自身らしいが、

 
 そこは、いいとして、好きなのか、嫌いなのか、

 そして、私の兄弟の事が好きなのだろうか、と。


 私は、對象に入っていないのだろうか、と。



『悲しいほど貴方が好き』♪だと、兄なんだよね。


 好きになる人に統一感はないのか、と。

 幸子さんの歌を聞いていると、いろいろとツッコミたいところが出て来るわ。


 幸子さんは曰く、目はそれで善い、と。


 長いこと兄と会ってはいないが、おそらく目は善いだろう、と思う。

 HPは、教えたけれども。

 HPを見ているのか、どうかもわからない。

 仏陀の三宝に帰依していれば、目は善い。



『遠い星をかぞえて』♪ どうやら、これらしい。


 動画での『ハートに火をつけて』♪ どうやら、これも混ざっているらしい。


 これは、幸子さんのCD等を弟ではなくて、兄にあげなければならない。

 と、そういう冗談は言うているところではなくて、


「兄が好き」と音声が出ていて、そして、「ヒロはねぇよ」と聞こえているので、

 幸子さんの内情を知らない状態で、あえて、普通に記しておくが、

「ヒロはねぇよ」というのは、まぁ、動画サイトのこの動画は、(オリジナルの他の歌と矛盾しているので)スルーしておくとしても、

 兄が「好き」というのは、

 兄は、結婚をしているので、

 幸子さんが、結婚している人に對してそのように歌うのは、善行者としても間違っている。

 兄は嬉しいかもしれないが、その妻の気持ちを考えてあげるべきだろう。

 ここでは、幸子さんが、とてもキモい。



「愛している」ではなくて、「愛したい」と。

 結婚をしているそのような人にたいして、愛欲の火をつけてはならないです。

 また、愛欲の火をつけようとしてもならないです。(動画サイトのPV動画によるもの)


 オリジナルでの内容は、現在手元にCDがないので、あとから聞いてみる。




 目は、この世もあの世も含めて、三界の眼は、仏陀の智慧の眼(目)で善い。



 この世もあの世も含めた三界において、目は、仏陀の智慧の眼(目)が最上である。


 仏陀はこのように仰せられた、

『肉眼はやがて超人的な眼の生ずる道であり、

 その眼によりて智慧が生じた。


 智慧の眼は最上である。


 その眼を得ることによりて、

 すべての苦しみから自由になる』と。






H29年8月23日

 本日は、

 昨日の日記をパッと見して、「ヒロはねぇよ」を見ると、笑ってしまうけどね。
(25日のヒロとは別で。
 自分が、「ヒロはねぇよ」として言われていると思っていたので、笑ってしまった。
 笑ってしまうという意味は、”ない、ということが、ない”ので。)


『悲しいほど貴方が好き』♪ を聞くと、一応、私を通しての兄への愛、として聞こえた。

 そう聞くと、”本当に、幸子さんは優しい”と思う。


 幸子さんの、昔の動画を見ると、幸子さんは若い頃私に対して怒っているようで、言い方も威圧的な感じがするが、途中から優しくなっていっている感じだな。

 幸子さんは、若い頃は、私を殺そうとしていた、というが、’私を助けるために’ということらしくもあり、私もどこで殺されそうになったかわからないが、
 音声では私の若い頃の仕事先の事柄を言っているが、そこであれば、たしかに車の事故で車に突っ込まれて車が全損になり、私は、頭を打って一日入院して、少し記憶が飛んだが、身体に異常がないので、次の日退院した。

 目を覚ました時に、何故か、病院で入院していて、母がいて、

「何でここにいるの」というように、聞いたら、車で事故を起こして検査入院をしている、と。

 横から車に突っ込まれて事故になり、車は全損で、その後、自分で救急車を呼んだが、その自分で救急車を呼んだ記憶も一時的に消えていて、数年後、この話を友人に話したところ、話している途中でだんだんと思い出した。



 その当時の頃も、こちらを見ている能力者は、それなりにいたのだろう。

 他の歌手の歌を聞くと、中学の頃からすでに見られているが、

 幸子さんも昔からこちらを見ている。

 そのように、こちらを見ていた能力者は、他にもたくさんいたらしいが、

 幸子さんからは、愛情の念を受ける。


 そして、他の能力者は、私だけではなくて、幸子さんの事柄も言っている。

 愛情が強いので、私の、兄弟にも愛情を起こすだろう、というようなのが他の先見の能力者に見えていたようで、幸子さんを批判をしている感じのようなものも聞く。

 まさに、歌われているような感じだろう。が、

 基本は、幸子さんも優しい、というように見られている、と。


 幸子さんは優しいと思うよ。





 そして、動画サイトの動画『Can't Take My eyes off of you readymade wizard mix rare edit』を見て、

 私ではなくて、弟かな。

 どこかの女性が泣く頃に、弟が幸子さんにたいする妄想のゲームに入るのだろうか。

 であれば、想念と感情の誘導のものだろうが、

 笑っている犯人らしき者は誰だろうか、と。

 ということなので、邪念を持ち、邪悪行をしているようであれば捨離して、そのようなゲームはしてはならないよ、と。



 動画サイトの動画だからな。


 想念で、明日の方向が変わってしまうので、気をつけましょう、と。



 想うという行。


 愛情・愛欲・渇愛によりて、人は明日への業を為す。


 邪悪行者は、邪悪な念を抱くことによりて、明日の方向が変わってしまうので、気をつけましょう。

 善行者は、善の念を抱くことによりて、明日の方向がより善くなるので、さらに善思しましょう。






H29年8月24日

 本日は、

 謎だ。

 兄がいい。弟がいい、と。


 何故、兄弟に行くのか、と。

 もしかしたら、今日、私が帰ってしまうので、明日、私がここにいないのかもしれない。

 孤独が嫌なので、兄弟のところに行く、と。


 もう一つは、他の人の先見でも、弟だけが迷うようなので、弟を助けようとしている、と。

 弟は、たしかに迷っている。


 もう一つは、兄か弟を、本当に好きになっている、と。


 しかし、だいたい永い輪廻を流転すると、現在の兄弟や親や親友や恩人や、妻や夫とは、血縁でなくとも、親しい知人や友人という異なる関係としてでも、何度も何度も会っているケースが多い。

 そのように、永い輪廻では、その生存で血の繋がっていない他人であった人でも、後世に親や兄弟となることもある。

 親や兄弟や夫や妻となる人や恩人の縁というのは、それほどに縁が強い、と。


 あなたの周りの存在に對して、愛を持ちて、優しくしましょう。

 そして、慈悲を持ちて、善へと導きましょう。



 いやー、しかし、どうなんだか、わからない。

 オリジナルの歌を聞いていても、”私が幸子さんの私の弟か私の兄との、明日の夫婦となる縁結びの邪魔をしているので、私が幸子さんの想念のところから去ればいいのだろうか”、と思いきや、そうでもなさそうだし、どっちだかわからない。


 弟と兄であれば、野呂さんは関係ないんだよな。

 どうしたらいいのか、ハッキリしてほしいわ。といつものように思う。



「好きだから、追わないと決めたの♪」と。

 追わないけど、見つめる力がハンパなく強いから、追わないときより、追っている状態が強いとか。






H29年8月25日

 本日は、

 ビーイングの音楽ショップから直接購入したCD、

『グロリアス マインド』♪ を聞いたところ、


 2007versionの歌が、聞いた通りであれば、とても嬉しく聞こえる。


 歌の内容では、ニワの事柄を聞いて不安だったのか。そういうようにも、聞こえる。

 であれば、前に記したニワに感謝をしている、というのは間違いだろうか、と。



『ハートに火をつけて』♪ をCDで聞いたところ、の

 昨日の日記の、「ヒロはねぇよ♪」のところは、「ヒロはねぇよ♪」ではなくて、「縁はねぇよ♪」だな、おそらく。

「好きだからガンにしたい♪」と歌っているように聞こえるな、

 ということは、私の兄が好きで、私の兄を、「ガンにしたい」ということで言っていることにもなりかねない、と。

 いや、これは最悪なパターンではないか、と。

 ちょっとそのまま記しているが、「縁はねぇよ♪」ということなので、ガンにしなくていいよ、と。


 カップリング曲の『君へのブルース』♪で、「嫌、ガン自分」って、幸子さんが自分の事柄を言うているような感じで聞こえるが、

 どういう意味でカップリングの曲にその曲を入れているのだろうか、と。


「好きだからガンにしたい」というのは、私を好きだから、「ガンでいい」、という、先日に日記に記した(とおりの)内容と同様だ、と。

 しかし、歌っているのがそうであれば、『君へのブルース』♪で、幸子さんは自分がガンになるのは、嫌だ、ということなのだろう。

 であれば、

 自分が嫌になるような事柄を他人にしてはならない。



 今日は、ダラダラと聞こえる事柄をそのまま記したが、

 毎日、いろいろ聞いていると、毎度のように違うくも聞こえるからね、

 幸子さんの歌を聞くと、毎日、謎解きのような感じだな。


 結局は、どうしたいのだろうか。

 自分がガンだから、または、他の理由ででも、好きな人たちも一緒に死後の世界に行く、というような希望であれば、間違っている。


 謎だな~、昔好きな人との明日への思いを歌っているその気持ちを守りたいゆえだろうかな。

 その思いを私が障害しているからだろうか、と。


 明日、私に介入してほしくない、とか。


 う~ん、

 私が勘違いをして、歌を自分にたいする歌だ、と思い込んだので、幸子さんは、あとから縁がつくので、そのような私のとの縁を拒みたい歌、とか。


 だから、私が幸子さんを嫌いになればいいのだろうか、と。


 であれば、「独りにしないでね」ではなくて、「独りにしてほしい」となるかな。

 昔好きだったアキという名だろうか、その人にたいして「独りにしないでね」と歌っているのであれば、辻褄があうだろうか。


 と、今日はマイナス思考で考えてもみた。



 しかし、その他の好きな人であれば、また、野呂さんは関係ないんだよな。

『どうしたらいいのか、ハッキリしてほしいわ。といつものように思う』


 あ~、ジャケットも、あれコートなのだろうね。





 このように記したところ、


 そして、また、邪悪行者達が出てきた。

 テロ側の邪悪行者達は、このような他人のマイナス思考を好む者が多い。

 テロ側の者の、心の素行・素質が知られる。



 いつものように記し方で、テロの邪悪業者達はすぐに頭を出してくる。




 う~ん、もしかして、野呂さんと幸子さんがオカマを好きになったという恋愛話での、オカマの取合いの話とか外道の話であれば、やるのであれば、”本当に他でやってほしいな”、とは思うな。

(この『オカマの取合いの話とか外道の話であれば、やるのであれば、”本当に他でやってほしいな”、とは思うな。』というのは、細かく正確に言うと、正しくはなく、現世でも、来世でも『オカマの取合いの話というような外道の事柄は、ここでも、他でも、どこででも、やってはならない』というのが正しい。)


 オカマというのは、私を脅迫して、五十万円請求して、私の家にまでおしかけてくる、と言って、脅迫をしてきた詐欺士のニワという者を言っているが、いままで私と直接話をしたニワという名の人物は、その犯罪者しか知らない。






H29年8月26日

 本日は、

『ハートに火をつけて』♪ をCDで聞いたところ、


『昨日の日記の、「ヒロはねぇよ♪」のところは、「ヒロはねぇよ♪」ではなくて、「縁はねぇよ♪」だな、おそらく。

「好きだからガンにしたい♪」と歌っているように聞こえるな、

 ということは、私の兄が好きで、私の兄を、「ガンにしたい」ということで言っていることにもなりかねない、と。

 いや、これは最悪なパターンではないか、と。

 ちょっとそのまま記しているが、「縁はねぇよ♪」ということなので、ガンにしなくていいよ、と。』


 よく聞くと、これは、兄が好きだから、メーソンがガンにする、というのかな。

 これは、メーソンは、兄をガンにしてはならない。

 また、私・對馬弘もガンにしてはならない。


 仏陀の教え

「生きものを(自ら)殺してはならない。また(他人をして)殺さしめてはならない。
 また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。
 世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、全ての生きものに對する暴力を抑えて」



(ちなみに、幸子さんが「兄が好き」だから、明日に結ばれたい、と言うたとしても、
 兄は結婚をしているので、’良い’として、認められるわけもなく、そこで言うてもあっさり却下だけれども、
 幸子さんの場合は、却下されるのを知りつつ言っている、と思う。)




 あとは、私の友人の溝口という人物の事柄かな。

 現在はない、らしいが、”對馬の善は善い”と思っているのか。

 しばらく連絡もしていないが、犯罪者を信用せずに、善なる人を信用するのが善い。

 私・對馬弘は善なる人である、と。


 メッセージで言うのでは、野呂さんと溝口夫婦が後から、会いたくなるが、会うと善ろしくない、らしいな。

 これは、多少抜けているのと、多少の嘘をつくのとがくっ付くと、善ろしくない想念が起きて、犯罪能力者に利用されやすくなるのかなw。



 好きだからガンにする、というのは、間違っている。

 例えば、これが夫婦間で、「好きだからガンにする」というのも間違っているだろう。

 ということで、そのような間違っている事柄をすることのないように、各人で気を付けましょう。



 仏陀の教え

「生きものを(自ら)殺してはならない。また(他人をして)殺さしめてはならない。
 また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。
 世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、全ての生きものに對する暴力を抑えて」


 両人は、この教えをきちんと持っているのが善い。

 仏陀や聖者方は、この理法を容認する。



 メーソン(石)も、仏陀の八正道から外れたら、現在のように悪魔に容易に利用される集いになってしまうから、各人は集いとしても、そうであるが、集いとしてよりも、各人で、仏陀の教えを自ら持ちて善思するのが重要。

 好きだからガンでいい、とか。

 果たして善いのだろうか。

 幸子さんは、自らがガンになるのは嫌がっているだろう。


 ということで、好きだからガンでいい、というのは、間違っている。


 仏陀の教え

「生きものを(自ら)殺してはならない。また(他人をして)殺さしめてはならない。
 また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。
 世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、全ての生きものに對する暴力を抑えて」


 メーソン(石)は、この教えを、きちんと各人自らで持っているのが善い。


 ここでも、メーソンリーは、兄が善いらしい。

「ヒロはねぇよ」と、いうことなんだろう。


 あとは、別のヒロとして、私もメーソンということになる、と。

 そういうことだろう。



 私・對馬弘はメーソンである、というのよりも、

 私・對馬弘は仏陀の弟子としてある。



 あとは、野呂さんだろうかな。

 他の人にも邪念を発生させる原因を持っているのかな、だから、会うてはならない、と。

 そして、幸子さんが、野呂さんに法にすがれ、と言うているのかな。


 君へのブルースは、ほとんど野呂さんへの歌だろうな。

「めっちゃ好き、めっちゃ好き♪」というのは、当時の私の事柄だろう。

 現在は、幸子さんに好意をよせている。



 野呂さんの事柄を「おばさん」と言っているのは、(後の、)叔母さん、または、伯母さんの意味だろう、と。
(母は母なので、叔母(伯母)さん、daga)

 野呂さんを好きなので、幸子さんが(私を)「殺す」となったのだろうか。

 今、聞いたら、「付き合ったら殺す」って言ってるわ。(これは、私に言っているのではない。)


 そして、他、よく聞いたら、「君へのブルーズ。法がニワ」って聞こえるな。


 脅迫するほどの詐欺の犯罪者に、仏陀の理法はない。

 悪法にしたがってはならない。



 幸子さんは、野呂さんも善だと言っているよ。



 あと、死後の世界で、ルールは、私が決めていいらしい。

 そういうところで、すごいらしいが、

 決めていい、範囲は定かではないが、そうであれば、

 最上は、仏陀と、理法(真理・善法)と、僧伽で、すでに確定。






H29年8月27日

 本日は、

 ふ、と聞いた曲。


『なんでもないや』♪ RADWIMPS 


 天プラ


 この’RADWIMPS’という若い歌い手は、どういう歌手なのか、どういう人物なのか、この歌以外の歌も知らないが、動画で発見したこの歌は、良い感じを受けた。


『Sparkle』♪ これも’RADWIMPS’だということを現在、知った。

 この歌の中で、間違いが言われている。そのように聞こえる。

 見方も逆だろう。



 驕りは自らを善に導かず、善ろしくない。

 あとは、聖者方の道は、自らも、自らが歩かなければならないよ。



 歌は、歌でも、応援をしてくれているのは、幸子さんだけではなくて、他にも結構たくさんいる。

 最近の歌手は、テロの発生に気付いた後で、良くも悪くも私の事柄を歌っている人は、とてもたくさんいるので、’応援してくれている人’という、対象としてあまり言わないが、

’他にも応援をしてくれている人’というのは、10年位より以前のCD等で、先見で、現在の仏陀の教えを含んで応援してくれている人を、主に言っている。


 これは、テロの邪悪行の者達が、盲目で、幸子さんだけが、”對馬を応援している”と、思っているようなので、あえて説明を加えている。



 こちらの善なる存在の側は、すでに明日(来世)の予定の事柄を、そのように電話で話会い、楽しく、また、たまにイラッとしたり、また、他のいろいろな感情や、強い愛情を受けたりしながら、明日以降をも楽しく予定して思い、業とも成す。
(予定として思い業と成すのは、”明日以降も、ともに(ゴータマ)仏陀の説いた八正道を歩く、のを前提”としての予定。)


 善なる存在の側は、来世に悪趣に赴くのではなくて、善趣に赴くのを予期できる、または、予見できるがゆえに、明日を話合い、明日の予定を思い、業と成し、そして、その死の後の善い境界での生存を楽しみともする。
(仏陀の弟子で、死後の行き先を選択することができる力を持つ弟子は、そのとおりに、自らで行き先を決めることが可能。)
(ちなみに、この明日への思いは、渇愛の領域なので、在家者としては許されるが、出家者としては、正思とはならない。
 解脱ではなくて、善趣・天にとらわれている。)


 しかしながら、邪悪行を重ね続けてきた愚かな者達は、来世は、自らの邪悪業のゆえに、その業の報いとして、悪趣へと赴くことが予期されている、または、予見されているがゆえに、来世は恐ろしいものとして、自らの想念にも現れる。

 そのように、明日の予定は、悪趣に識が結生して苦を多く受けるのが予期されているがゆえに、明日の話合いをしたくもなく、明日に恐怖するがゆえに、邪悪なる者達にとりての今日の終わり、すなわち、死は、恐怖以外の何ものでもないものとなる。





 善行を成して、安堵して、今日を終える人もいれば、

 悪行を成して、恐怖して、今日を終える人もいる。


 そして、道理としても、

 善行を成して、安堵して、今日を終える人は、その安らかな心のままに、善趣(天界)に赴く。

 悪行を成して、恐怖して、今日を終えるは、その恐怖におののいている心のままに、悪趣(地獄・畜生界・餓鬼界)に赴く。






H29年8月29日

 本日は、

 やはりZARDの動画の音声の編集がひどいな。

 テロ側の罵詈雑言が多く入っている。

 オリジナルでは、入っていない悪口の音声。


 ネット動画のZARDの坂井泉水さんの動画は、半分くらいで信じた方が善いだろう。


 私の心配事としては、歌で彼女は、私をゲイだ、とか疑わせるような事柄も言っているが、

 私はゲイではないし、オカマでもないのです。

 ニューハーフなどでもないし、そのような性同一性障害という病を患ってはいない。


 そこで、私の心配事というは、ZARDの坂井泉水さん自身がレズなのではないか、と、彼女が私を疑わせるような事柄を言うているように、私からも疑いが起きているので、なんとか、その疑惑を解消したいのだが、どうなのだろうか、と。

 レズとか、バイセクシャルなのは、「無理」というか、「ない」。

 尊敬の念で、同性が好き、というか、好意を持つのは、良いだろうが、

 性的欲求の念で、同性が好き、または、愛している、という、好意を持つのは、正道にない。


 そもそも、同性の性行為は、快楽の欲求を満たす以外に正当な理由もなく、快楽の追求でしかない。

 そして、その愚かな行いは、悪趣に赴くに足る悪業も造作される。


 同性愛者同士ともに悪趣に赴く。

「私達二人はそれでいいのよ」、というように、愚かな同性愛者は、そこにおいて言うのかもしれないが、

 いざ、その二人がケンカして仲が悪くなるようであれば、そくざに離れる者もいるだろう。

 そのような状況において、考えてみると、

 同性愛者同士ともに悪趣に赴くけれども、「私達二人はそれでいいのよ」と、言っている事柄に後悔することになるだろう。

 また、悪趣に赴く少し前から、後悔することとなるだろう。

 また、悪趣に赴いてから、とても強く後悔することとなるだろう。


 そして、また、この娑婆世界においては、そのような事柄を言っていられる状況にいるが、いざ悪趣に堕ちて、一人は犬に、一人に猫に結生して、または、一人は、蝶になり、一人は蛾になり、というようになる、としたら、そういう綺麗事というか、けがれた事柄を言っていられると思うだろうか。


 そして、神もまた、同性愛者という愚かな行い者に対して激怒しているように、真理においても、その同性愛者同士ともに悪趣の生存者として識が結生し、そこにおいて多くの苦を受けることとなる。

 そのように、真理においては、同性愛者やバイセクシャルの無知な者達は、この娑婆世界においては、「私達二人はそれでいいのよ」と、そのような事柄を言っていられる状況にいるが、いざ悪趣に落ちて、一人は餓鬼に、一人は羅刹に、または、一人は犬に、一人に猫に、または、一人は、蝶になり、一人は蛾になり、というような、悪趣の生存者として、そのような悪しき境界において、識が結生されることとなる。


 また、神が激怒するくらいなので、善趣・天上も行くことはできない、と考えるのが普通だろう。

 行こうとしても、現に神(々)がその愚行に激怒しているのだから。


 そしてまた、そもそも、「私達二人はそれでいいのよ」と言ってはいるが、そこに愛欲はあり、本当の愛はない。

 そこに本当の愛があるならば、あなたはその人を善趣へと導くことだろう。

 すなわち、人としての正道を取らせる。

 そこに、相手の幸福を思う本当の愛がないことにより、無知なる同性愛者は、自らで不幸の道を取り、また、相手にも不幸の道を取らせる。

 しかし、相手を思い、本物の愛を持ちてあなたがあなたの愛する人に善趣への道をとらせたならば、その相手に取らせた正しい道により、その人自身で善趣へと赴くことが可能となるだろう。


 神も、同性愛というその愚かな行いを激怒するように、無知にして愚かにも同性愛を行う者というのは、その無知と愚かな'愛欲'のゆえに、悪趣に堕ちるのは目に見えている。


 一応、同性愛者はここを読んでどう思うかはいくらか理解はできるが、私は、同性愛者・等のために記しているので、同性愛を行う者は、自らのために、また、相手のために、善く考えられよ。



 自らのための愛欲・自らの愛欲(我欲)が止んで、相手に對する本当の'愛'が出てきたならば、

 その時、あなたは相手に、正しい道を取らせることだろう。





 しかし、ZARDの動画の音声の編集など、

 オリジナルでは、入っていない悪口の音声が入れられているように、

 テロ側は「坂井泉水が、對馬を嫌いだ」というように持っていきたいんだろうな。


 歌でも「對馬と結婚したい」と音声で入っているように聞こえるが、

 そして、野呂さんの事柄を言っているので、私の兄弟は、野呂さんの事柄を知らないだろうし、会ったこともないだろうから、對馬という名の内でも、私の事柄を示している、ということで、ほとんど間違いはないだろう、と思う。



 しかし、野呂さんもまた、前世からも縁が強そうなんだよな。

 二人とも能力あり、こちらに来る人は、能力が強いんだな、やはり。


 本当の仏陀の弟子とその集まりであるので、

 能力が強い人が集まっている、と。


 そして、善良な人たちも多いと。


 幸子さんの場合は、「付き合ったら殺す」とか言ってしまうのは、善良なのか、というのも、悩まされるところだが、そういうのは、女性としての強い独占欲の心だろう、と。(しかし、女性としての心、というても、ここの部分は、決して、善行としては、認められない。)

 そこの部分を考えると、やっぱり、ちょっと、あれだな、
”他の女性と付き合ったりすると、大変な事になるんだろうか”、というように、思わされている、人がここにいる。

 これは、違った意味の怖れの心だな。


 しかし、ここで、幸子さんに「幸子さんは、他の人を好きだと言っているではないか」というならば、そこで縛りから自由になれるのである、と。

 というと、幸子さんは、他の人にあたりちらして、その人の事は好きではない、というだろうかな。



 あー、そうか、野呂さんの事柄等も他の人は知らないから、幸子さんが言っているのがどういうような事柄なのか、深いところはわからないのか、と。

 幸子さんは、私の周囲の人の事柄も言っているので、私からすると、言っている内容はそれなりに深いところまで理解できるところも多い。

 ということで、私を通して解説すれば、幸子さんの歌の内容は、より理解されるのである、と。


 しかし、同性愛の内容であれば、説明はでき難いかな。


 同性愛であれば、『君へのブルース』♪の歌は、野呂さんの事を「めっちゃ好き」と言うていることにもなりえることとなり、他でも愛情を表していることになるだろうけれども、この歌の中で、『いつでも野呂殺せ』というようにもあたりちらしているということは、’同性愛ではない’、ということなのか、と。


 ということで、『いつでも野呂殺せ』というのは、邪悪行なので間違っている。

 仏陀の教え

「生きものを(自ら)殺してはならない。また(他人をして)殺さしめてはならない。
 また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。
 世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、全ての生きものに對する暴力を抑えて」




(『無我夢中』♪ この歌で、おそらくレズの線は消えただろう。他はちょっと…。

 ケンカはやめれ。

 この歌の、後の歌『君へのブルース』♪で、野呂さんも善だ、と、幸子さんは言っている。8月30日)

(サヨナラまでのディスタンスを聞く限りでは、同性愛にも聞こえる。歌自体が何かのワナなのだろうか。

 蚊が好きなのか、と。

 野呂さんと私が一緒にいた時に、幸子さんが野呂さんを好き〔要するにレズ〕で、私に對して嫉妬していたという、予想外のパターンもあったりするのだろうか、とも思った。

 であれば、レズの関係を維持すべく、他の人をガンにする、とかは、邪見でしかないが、「對馬が好き」というのは、野呂さんが對馬が好きで、邪魔だからガンにする、とかか。

 だから、そういうのであれば、なおさら、私を絡めるな、と。

 では、どうして、私の話題を出したのか、と。

 野呂が私をすきだから、邪魔だ、とかだろうか。

 しかし、現在はもうすでに野呂さんに對して”好き”という感情を抱いてはいないので、関係もないだろう。


 幸子さんに、「同性が好きなので、この恋を叶えてください」と言われたならば、

「愚か者よ、自らを知れ」と言ってしまうけれどもね。


 そうなると、オカマということで、ニワがイイという意見も出ないこともないか。


 いやいや、レズとか、私の中でも、完璧に「ない」。

 そのゆえに、好きだったけれども、

「幸子さん、さようなら」と、すぐなる。


 仏陀の正道にないので、根本的にない。


 いや~、しかし、レズとかゲイとか、地獄に堕ちる路線は、普通に「ない」。 8月31日)






H29年8月30日

 幸子さんに限らず、誰かが、嫉妬心・独占欲によりて、他を許さない、とする。

 そこに、強い取著の心が見られる。


 そのような心に見られる、”その人は、'私のもの'”という取著。


 そして、その取著に縁りて、その自ら取著しているものを、自らのものとして固持して守りたいがために、そこに争いが生起する。



 守護を条件として生じる、争い等の多くの悪しき不善の事柄に関して(大いなる縁起の教え) 



 このようにして、自らの快い感受・等への強い取著によりて、邪悪行は生起する。


 例えば、ここで、嫉妬心・独占欲がなく、他を許す、とする。

”その人とは、何の関わりもないので、どうぞ、ご自由に”と。

 このような心において、自ら取著しているものを固持して守るもののない心において、そこに争いは生起するだろうか。



 自ら取著しているものを固執して守るもののない心・一切の取著がなければ、そこに取著に縁る争いは生起しない。



 これは、幸子さんが、何かしらへの取著の心が出ている、という事柄の例え。

 ここで、幸子さんに一切に取著がなければ、そこにおいて、取著に縁る、他への邪悪行も生起しない。



 と、幸子さんをの心を少し見てみたけれども、

 幸子さんの場合は、こういう事柄を、愛する人に對する’愛’としても言う、と。



 その愛・愛欲というもの。

 その愛・愛欲というものに縁りて、不善の行も生起する。



 自らのものとしての取著、愛・愛欲・我欲がなければ、’自らの欲するものを固執して守る’という行に縁る、争いはない。






H29年8月31日

 本日は、

 暗い邪念が周囲で、あたりちらして、他をイラつかせていた。

 イラつかせる念が、すごく酷い。

 本当に迷惑な話だ。

 さえも邪念を出している。



 幸子さんと、野呂さんが仲が悪いという事柄などで、「キレる」とか言われても、仲の悪い原因を私は知らない。

 そして、幸子さんと、野呂さんが仲が悪いという原因も本当に知らないから、「ケンカをするな」としか言えない。

 二人の共通の人物でいえば、ニワは二人が知っている人物なのかどうかは定かではないが、二人の思い出からは消えていい、というような内容で聞こえているので、テロ側が推しているニワという者は、もう論外だろう。

 そして、私の中では、九尾の狐の関係のニワシロウは、五十歳・六十歳位で、詐欺して脅迫をしているような者なので、最初の頃から八正道に「ない」。

 SMプレイ好きや、オカマや、飲み屋のママなど、本当に善い要素が見られない。

 そのように、他の事柄においても、最初の頃から「ない」。

 ここで私が、そのような邪悪行の者・犯罪者を、’ある’と言うならば、私が’ない’ということになってしまうだろう。


 しかし、

 私自身、私は「ある」。

 そのゆえに、正道に「ない」者には、「ある」と言わない。



 そして、私のこのHPの仏陀の教えを、私が書かせている等と言うて、理法を盗もうとした極めて愚かなる邪悪行者も「ない」。

 法の盗人は、悪業が大きすぎる。

 その愚かな行いの仲間もまた同様に、悪業が大きすぎる。



 だから、幸子さんはどうしてほしいのか、と。


 幸子さんが、望む本心を知りたい。

 だから、CD聞いても、どうしてほしいのか、と思う。


”同性愛を成就してほしい”との願いであれば、善なる神でも許さない。





 30日と31日で結構ひどい内容を記してしまっているが、申し訳ない。

 歌の内容が、そういうようにも聞こえるので。


 しかし、あえて、そういうレズだと思わせるような歌を歌うかな。

 カミんぐアウトか。


 いや~、同性愛は正道になく、その同性愛者自身が悪趣に堕ちるので「ない」。

 ということでいうならば、別々の道か。


 ここでの私の選択肢としては、外道の道を行こうとしているのを止めてあげるしかないな。



「ゲイ」や「レズ」などの、邪淫を行ずる、その悪趣へ堕ちる道を非難・忠告して、私が、またテロ側の邪悪行の者から邪悪行を受けるのあれば、ここでもまた、テロからの邪悪行を受けてしまうこととなるのか、と。


 聖者方や神の正道から大きく外れて、悪趣に堕ちる道は、仏陀も認めることはない。




『君と今日の事を一生忘れない』♪


「道なる者へのワナまきと、光あれば影もある慟哭と、涙をこぼさぬように」



 ということで、アルバム『君とのDistance』の、ここら辺のレズを醸し出しているような歌は、ワナのところなのだろうかな。

 幸子さん自身が、2005年の4月頃は、すでに憑かれているような感じだろうか。



『悲しいほど貴方が好き』♪

『カラッといこう!』で、レズではなし、と。



 先日に、宇多田光さんの歌で、幸子さんが「途中からレズだ」という歌を聞いたが、その根拠は何なのだろうか。

 そこがね、本当であれば、宇多田光さんが正しい、が、間違いであれば幸子さんが正しい、というか「レズ」ではない、と。


 promised youで、同じ仕草を見た。


 テロが適当な間違いを言っていたのかもしれないが、ラジオで、宇多田光さんが、私の事柄を思っていてくれている、ということで、私のために「戦争をする」とか言っていると、言っていたが、私は戦争を望んでいない。

 というのは、ハッキリと言っておく。

 戦争とかにしようと持って行こうとしてもならないよ。



 宇多田光さんについて、私はどのように思っているのか、以前に記しているように、動画を見て”カワイイ”と思ったが、宇多田光さんは結婚をしているので、既婚者に對して、どうこういうような思いは持っていない。

 逆に、既婚者なので、”既婚者に對して、好きという感情などを持っていたら、捨てなければならない”と、私は思っている。



『夏を待つセイル(帆)のように』♪

 J・GMの雑誌より

 ──「夏を待つセイル(帆)のように」のアレンジの方向性としては、どんなイメージで制作を進められたのでしょうか。

 坂井:裏打ちのシンセから私は動揺「森のくまさん」をイメージしまして、即決しました(笑)。
    後半のアカデミックに広がる世界観を堪能していただけるかと思います。

 ──ヴォーカルは、やわらかさとサビの部分の意志を感じさせる強さが印象的でした。

 坂井:この曲は映画館で流れたときを想定して、とにかくイントロと最初の出だしの声が一番重要だと考えました。
    話しかけるような気持で歌入れしましたね。



 宇多田光さんの歌で、「ひとつに向かっている」という内容の歌詞の歌は聞いていたな。

 宇多田光さんの歌で、最近の、幸子さんが「レズ」だ、という歌は、”失礼だ”と思った。


 本当だったら、

 その事柄が本当であったならば、う~ん…、

 しかし、

 そういうのは、そういうので、どちらにせよ、失礼になるでしょ。

 どのような気持ちで、そのような歌になったのか。



 宇多田光さんの他の歌では、

『First Love』♪は、メインで、誰の事柄を歌っているのか、と。

 なぜ、そこで歌われている、ということになっているのか。

 どういう繋がりがあるのか、と。


 そういうのでも、野呂さんが天皇家・源氏の血筋だから、私が叩かれもしたのだろう、とも思ったが、

 しかし、私はすでに中学生の頃から叩かれていた、と。

 そこら辺も意味がわからない。





 しかし、私もHPで幸子さんのレズ疑惑を、このように記しているのは失礼にあたるか。

 しかし、私の場合、幸子さんのレズ疑惑を解消したいのだが、

 空回りをしているところ。

 その部分に関しては、幸子さんが、私を空回りさせているような感じだな。


 幸子さんが、ワナまきをしなければならない理由があったのか、と。

 ワナに引っかかれば天皇家と、また、日本終わる、と。


 幸子さんも、動画にあったように、テロに絡まれているような状態だからね。

 そして、幸子さんは歌で、その犯人名を、何度も言っている、と。

 犯人名は、当然、對馬とは言っていない。



 ちなみに、私は、幸子さんの事を好きでもあり、いろいろと記しているが、動画で、音声ではなくても、幸子さんは「對馬がいい」と何度も何度も言っているように見えるので、私は幸子さんのそういうところの愛情も好きなので、私は幸子さんを信じていたい。


 野呂さんも能力者だが、宇多田光さんの歌で、野呂さんの声で「死にたくない」との主張をしている、と。

 逆に、私に「死ね」と言っているような音声が入っている、と。

 その歌のその部分で言えば、’私は死にたくないから、對馬弘は死ね’という意味なのだろう。


 その後、私と親しくなってからの他の先見の歌によれば、私・”對馬がすごく善い人なので、殺したくない”という心に変化した、ということらしい。

 幸子さんも同じような感じかな。

 幸子さんが、私を「いい人」と言っているところからすると。



 しかし、野呂さんも能力者で間違いないからな。


 そのように、私の周りに先見の能力者が多く集まっている。

 仏陀の真理が私のところにあるので、本物も多く集まる。



 私の場合、邪悪行者などに、心を読まれても問題のないようになのか、直観なんだろうな。






H29年9月1日

 本日は、

 テロの邪悪行者達がしつこい。


 仏陀の弟子を、下に見て、罵詈雑言しているその態度。


 今日も同じく。

 善なる人は、そのような愚かな者達と親しんではならない、と。


 本日は、

 ミニシングルCDで『MIND GAMES』のカップリング曲『Hypnosis』♪ を聞いた。



 今日もまた、ハッキリさせておこうと思うが、歌手は多くいるけれども、

 その中で、なぜ私は幸子さんに好意を持ったのか。

 それは、幸子さんが私に好意を抱いている、と示しているからである。と。


 好意を示さないところで、悪口ばかり言われて好意をもつわけもないだろう。


 あと、私が幸子さんを犯した、とかラジオ等で言っているのを聞いて、

”すごい面白い”とは正直思ったけれども、結構な爆笑に近いくらいの面白い気持ちは出た、けれども、

 テロ側の主張は、私が想念で幸子さんを犯している、ということで言っているのだろう。

 他に何かあるのだろうか。


 想念では、普段は、幸子さんは私の事柄を好意をもった笑顔の想しか出ないし、怒った感覚は野呂さんの事柄が絡んだときとか、レズ疑惑のときかな、険悪なものをすごく感じる。

 そして、その犯したとか愚かな頃柄を言っているが、

 そのように愚かに騒いでいる者も、他の人も簡単に気付けるように、譬えで説明すると、

 譬えば、どこかの男性なり女性なりが、エッチな本やビデオを見て、その本やビデオの映像に映っている人を見つつ、想像しつつ性的な行為をするとする。

 そうすることによって、あなたは、または、その人は、本や映像に映っている人を犯した、ということになるのか、と。


 テロ側が、「對馬が坂井泉水を犯している」と騒いでいるのは、そういう愚かなレベルの話。

 そもそも、幸子さんは、私のところに来たって自由だし、「家がちらかっているので、かたずくまで実家に帰っていればいいでしょ」と言ったら、ラジオで、坂井泉水は実家にいる、と騒いでいたな。

 テロ側の能力者も、ほぼ私の中の想念の幸子さんを見るのでしか知る力もあまりないようで、

 私が一瞬でも、幸子さんの事柄を想念を思って、幸子さんがそこで、何かを話したら、そこで幸子さんが話した事柄を、そのままとらえて、メディアで報じるという愚かな行いをしている。

 テロ側の能力者はそのような愚かな行いをいつもしている。



 オフショットで、幸子さんが、「對馬は、絶対に殺さない」と言っているシーンのところは、私から近づいた、ということで、騒がれているが、他のところで、「愛」と幸子さんが言っているようなところは、幸子さんの誘導でお互いが近づいている、と。

 ちょうど、そこで「愛」と言っているのだから。

 他にも同様に近づいたところで、「愛」とちょうど言っているので、単なる偶然でもない、と。


 いまさら、偶然という話もないけどね。


 他の単にこの幸子さんについての日記を読んでいる人は、理解でき難いかもしれないが、心の動きや、感受で、幸子さんの念を受ける、というので、単にZARDの歌を聞いている人と、私が受ける感受とは大きくも異なるだろう。
 幸子さん本人からの誘導であれば、他の人の感じるものとは、なおさら大きく異なるのも当然だろう。

 本人が直接私に言っているようなものなのだから。


 そして、以前から私が幸子さんに對する思い、をきちんとしたい、というので、幸子さんはどうしてほしいのか、ハッキリしてほしい、というように記しているのは、幸子さんの境界は、肉体の感受でなく、感情体や精神体での感受なので、私の意志によりて、幸子さんの心も大きく受けるものが変わる、と。
 また、その意志によりて意業を作せば、実際に未来もまた変わるだろう。

 そういう意味ででも、自らの心、幸子さんに對する思いをきちんとしておきたい、という事柄ででも言っている。


 私がどのような思いで、いつものように謎解きをしているか理解できただろうか。



 動画で、「少し愛し方間違えただけで♪」「A型」と、幸子さんは言っている、と。

 そこの部分は、ピリピリした感じだな。

(昔は、私の名前をダイレクトに言ってしまうというのは、してはならない。というようなルールのようなものがあった様子。)



 しかし、最初に気付いたのは、『君へのブルース』♪だろう。

 その曲を聞かなければ、幸子さんに気付くこともなかった可能性もあるが、どうなのだろうか。

 幸子さんが、あえてそこで気付くようにした、という可能性の方が大きいのかな。


 幸子さんが私の事柄を「好きだ」、とか「嫌いだ」とか騒いでいるが、

『君へのブルース』で、私と”関わりたくない”という気持ちでスルーしたならば、幸子さんは私の目に入ってくることもなく、スルーできた可能性もあっただろう、と。

 言っている意味がわかるだろうか。

 この幸子さんとの出会いが、たとえ悪い出会いだったとしても、私自身が別に悪いわけではないのです、と。

 幸子さんの事柄をホームページでこのように、いろいろと記してしまうのは、幸子さん自身にツッコまれたりもするが、幸子さんの事柄をこのように記す、という事柄をも、幸子さんがスルーしていれば、私がここにこのように’幸子さんの事柄を記す’、という事柄自体を、幸子さんはスルーすることもできただろう、と。


 もしかしたら、スルーできない定めにあったのか、

 そうでなければ、幸子さんが自ら私の目に入るようにした。ということにもなるだろう。






H29年9月2日

 本日は、

 テロ犯罪企業のCMとして、北海道で多いコンビニの’Seicomart’という企業が、「殺せ」、「殺せ」という酷いCMをしていた、21時頃だが、パンなどはいつものように購入していたが、そういうは関係なく、テロ犯罪企業の責任者は逮捕するのが善いだろう。

 テロ側の者の話を聞いていると、黒いのがすぐわかるんだよね。

 私たちは、そのような悪しき者を厭い離れるのが正しい。

 で、そういう汚れた話は、そのくらいで終わらせておいて、



 昨日の事柄も、幸子さんの事柄は、幸子さん本人の問題だから、そして、あえて言えば、幸子さんと私の問題だから他の人が入ってこなくても良い話でもあるんだけどね。

 好き嫌いの問題の話は。

 幸子さんは、弟を助けたい、という感じなのだろう、と思う。

 私の弟は、「ニワでいい」とか、愚かな事柄を言っていることもたまにあるので、そういうところで、幸子さんが助けに入ってくれているということだろうかな。

 私の弟がどのように、ニワという犯罪者に騙されているのかは知らない。

 話もはぐらかす感じで、たずねると怒る感じなので、とくに深くも聞かない。

 ただ、「仏陀は、自らで邪道・悪趣(の者)を選んだ者を、救わないぞ」、というように教えた。


 まぁ、”いづれは気付けるだろう”と見ているので、いまのところ強く引っ張ろうとも思っていないw。

 現在は、ゲイとか、そちらの方向に持って行かれそうだというので、注意でもしておこうか、と。

 先日、すでに注意をしたけれども。

 霊的に、電話ででもゲイの者と想像でも、性的な行いをしてはならない、と注意をしておいた。

 ちなみに、弟は、ゲイなどの性同一性障害の気はない。



 テロの犯罪者達は昔から、私に直接言わないで、そのように他の人に接触して裏で欺き工作をしているんだよね。

 そういうところでも、テロの邪悪行者達が、八正道に「ない」というのが知られる。


 現在H29年9月2日でも、いまだに、一度として、テロ側の関係者がテロの話をしに、私に直接話し合いに来たことはない。

 そういうとこででもまた、テロの邪悪行者達が、八正道に「ない」というのが知られる。


 真理で言うても、本当にテロ側はもうすでに、だいぶ前から、悪業を重ねすぎて、深くまで堕ちこんでいる。

 テロ側の邪悪行者達とその関連の仲間や協力者たちは、自らが死ぬとき、悪趣に堕ちる前に、自らにその悪趣の情景が見えるときにはもうすでに遅い。



 聖者方の、この’慈悲’をも受けれない、んだろうな。



 ということで、本日は、

 朝から、ふ、と聞いた曲。

 ───悪語が入っているので訂正削除───

(一応説明。
 よく聞いたら、弟の事柄をも歌っているかのような歌だったので、弟に’この歌を聞いて、テロの邪悪行の能力者を信じることのないように’と先に連絡をしておいた。)



 あと、テロ側の先見の能力者の歌も、結構間違いが多い。

 仏陀の理法を自らに持っていないゆえにも、悪趣に向かう方向を見て語る者も少なくない。


 譬えば、壁を越えるないところから、壁の向こう側を望遠鏡で少しの範囲だけ見ている人がいる。

 その望遠鏡だけで、見ているだけなので、そこを自らで話することも難しい。その望遠鏡で見えている範囲でもって、自らのその見える範囲によりて、語るので、そこに理法のない自らの思想も入るので、世俗のおもちゃの使用の話から越えることもでき難い。

 望遠鏡ではなくて、そこに触れたならば、望遠鏡でなく、自らでそれを語れば、すなわち、同じところへ容易に行き来することのできる聖者方の語るもの、それと同じ事柄を語ることとなる。

 何故、同じ事柄を語るのか。

 それは、同じものを見て、そして、理法・真理を持ちて、同じ真理を語るからである。



 そして、三界を見通している聖者方は、このように語る。

 善なる行いの者は、善趣の境界に識が結成する。
 
 悪しき行いの者は、悪趣・地獄に識が結成する。と。






H29年9月3日

 本日は、

 幸子さんは、うる星やつらに、かぶしているらしいな。

 うる星やつらは、諸星あたるが、ラムのツノにタッチして、地球を救ったという話で、

 幸子さんが女王で、ツノにタッチするかわりに、(私が)幸子さんに霊的に口づけをしたから、ゴールだ、とそういうことらしい。
 まぁ、そういう幻想に近い話は、どちらにせよ、もうゴールしたから良いとして、



 レズっ気は、野呂さんか、幸子さんがそういう気が、あるとかないとか。

 歌で言えば、野呂さんがレズっ気があり、ニワがその事を知っているということらしい。

 私は野呂さんがレズかどうかは知らない。

 私と親しかった頃は、そういうのに気づかなかったので、実際はどうだかも知らない。


 まぁ、どちらにせよ、同性愛の、ゲイやレズはないな。


 性的な思念の好意ではなく、男性が男性に惚れて、その人・善なる友のために命をも捨てる。というような好意。

 尊敬の意味で同性の人を慕うという意味では問題ない。


 同性同士で”結婚したい”というような思念も、性的な思念が混じっているのであれば、外道となる、と。



 あとは、そういうような邪な愛情によりて外道に堕ちる者もいるが、

 世間を騒がせているテロの邪悪行の者達のような、その邪悪行の関係者や協力者として、罵詈雑言している邪悪行の者達も、八正道にいるのではなくて、ことごとく、悪趣や地獄に堕ちる道・外道にいるというので間違いない。



 そのように、道理としても容易に知られるような悪しき者達。

 そのような愚かな者達と、私たち善なる者は、親しんではならない。





 善なる人と親しむ。

『グロリアス マインド(Instruumental)』♪  シングルのカップリング曲


(はっきりと、テロ側の者が推しているニワに関して、ハッキリと「ニワは嫌い」と言っている、ところにかぶさって、
 ニワを嫌いだというのと反対に、こちらを「好きだ」と言っている。これは、すごい、と思った。

 幸子さんの霊的な口づけの話もそうだけれども、普通の状態では気付くことができ難しいところで、言っているところもある。


 昨日の記したうる星やつらのセリフで、今日は、ダーリンって聞こえるわ。
(’うる星やつら’の、ラムが諸星あたるを呼ぶ呼び方が、ダーリン。)

 歌をわざとに二重でかぶせたりしているところは、例えば、自分が善く思って聞くと、善く聞こえるし、違うく思っていると違うく聞こえるし、他では、霊の異聞作用で、霊がその時に聞かせたい方で聞かせる、というのもされるだろう。

 幸子さんはそういうのを利用しているのかもしれない。

 別の事柄でも聞こえるけれども、どちらにせよ、私の周囲の人の事柄だが、結構細かいw。

「思いっきりないから」と。

 やっぱりこの歌は、野呂さんにツッコんでると思う。9月5日)






H29年9月4日


『愛を信じていたい』♪ 

 残像とか、シャドウというのは、神秘家の師匠と弟子が、師匠のところに弟子のシャドウをおいて、その弟子のそのままの残像を見て、見守るという感じのシャドウというようなのは聞く。

 そういうような霊的な事柄も可能である、と。





『グロリアス マインド(Instruumental)』♪  シングルのカップリング曲

 を聞くと、逆に、辛い。


”会いたくても、会えない”という、辛さが強く感受される。


”もしかしたら、前世でこういうのを繰り返しているのではないか”、というので、

 七夕の彦星と織姫が思いに何度も出て来て、心が辛い。


 そう思ってしまうと、辛すぎて、ため息が出るので、
”いっそ知り会わないで過ごした方が良かったのかもしれない”とも思い。

 いっそ、嫌われていた方が心が楽だろうか、と。

 だからと言って、本当に嫌われているようなのは、そっちの方が嫌だけどね。



 幸子さんの「その時は、もう自分はいない」とかいうのを聞いても、心が痛くなる。



 好意を持てば、好意を持つほど辛くなる。

 という、最初の頃から自分で言うている事柄だが、しんどいね。



 しかし、彦星と織姫のようではなく、明日、識が結生して気付いた直後にすぐに会い、永く善趣(天界)にて過ごす、というような明日の生存であれば、それほどに苦でもない、と。

 しかし、明日になれば、私がまた、忘れている可能性もあるが、そうであれば、また、幸子さんが覚えているという方が強いかな。



 記憶を単に忘れているのか、自分からあえて記憶を消して出生したのか。


 そしてまた、発見される、と。

 また、そういう感じになるだろうか、と。




 好意を持つ人への強い思い。


 好きな人への愛情。

 また、好きな人からの愛情。


 愛情を持ちて、なぜ、私(あなた)は、辛くなるのか。

 愛情を受けて、なぜ、私(あなた)は、辛くなるのか。


 諸々の事物や事象は、無常である。

 永続することはないのである。



 愛情を持ちて、その”好きな人に会えない”という辛さ。

 愛情を受けて、その”好きな人に会えない”という辛さ。


 諸々の事物や事象は、無常であり、

 無常であるものは、苦である。


 そして、ここでの感受もまた、無常であり苦である、と。

 これは、ここにおいて、(好きな人や、親しい人)から受ける、心良く感じる愛情の感受もまた、苦なのである、と。



 と、いうことで、私自身’現在これを記しているときにも、’ため息が出る’という、ので、取著のところで、有に繋がる意業のところまで、いっているが、


 真理においては、ここでの’愛情による感受もまた、苦である’という真理を、

 自らで見ておかなければならない。



 ここで、そのように’愛情による感受もまた、苦である’と言うのは、’相手から受ける愛情の否定だ’と、無知なる者は言うかもしれないが、

 無知なる者が、そのように言うのは、真理を知らないがゆえであり、

 本当に慈悲を持ち、相手に接するならば、

 そのように、真理を見て、正見を持ちて正道を行かなければならない。


 そのようにして、愚者は知らず、そして、愚者は行くことができない、善趣への真理の道を行くことによりて、

 私たち、仏陀と聖者方の近くにいる善なる存在は、清浄心をも得て、善趣へと赴く。


 そのように、私も、幸子さんとともに善趣へと向かい行く。






H29年9月4日

 本日も、

 すごい騒いでいるが、

 ラジオで、野球の集団の応援の「殺せ」だとか聞いていると、他の国の人が聞いたら、”野蛮な国だ”と思うだろう、と思う。

 テロの邪悪行の能力者や、その連れの愚かな者達に導かれると、集団でもそのように野蛮で愚かになる、と。

 そして、すでに野蛮になっているのに、誘導されている本人達も気付いていない。



 そういう感じで、日本のテロ側の者達の意識は、邪悪道に堕ちて行っている、と。

 確実に。確実に一歩ずつ。

 甕に水滴が一滴ずつたまるかのように、確実に悪業は重なっていっている。



 あとは、幸子さんと私が’お互い好きだ’とか、’嫌いだ’とか、’関係ない’とかは、他の人に関係ないだろう。

 私と幸子さん、私たち本人同士の問題であるので、他の者には関係がない。


 何度も言っているが、幸子さんが私を本当に嫌いだったら、私に気付かれないように、消えていくだろう。

 私に気付かれるようにしているのは、幸子さんだ、と。

 そして、見事に幸子さんを好きになった、と。



 本当に嫌いだったら、自分の事柄に関心もすらも持ってほしくもないだろう。

 私であれば、仏陀の教えで「悪しき者と親しんではならない」という教えのとおり、

 こちらから喜んで、悪しき者を厭い離れて、関心すらも持ってほしくもない。

 ここでいえば、テロ側の「邪悪行の者達とは、親しんではならない」というように教えとして受けている。



 そういう邪悪行の者とは異なり、私にとりて幸子さんは、親しむ人としている。


 動画などで、私の事柄を一切言わなければ、私も気付くことすらなく、坂井泉水さんを素通りしているのだから。

 以前に記している通り、当時から、ZARDにそれほど関心はなかった、と。

 現在このように記すと、幸子さんにちょっと申し訳ないけれども、実際にそうなのだから。

 幸子さんが、気付くようにしなければ、素通りして、幸子さんとこのように親しい縁ができることもなかっただろう。

 歌は、「揺れる思い」や、「きっと忘れない」などは、聞いていただろう、他のたくさんの曲の中の一曲として。
 とくに坂井泉水さんに強い関心を持つこともなく。




 幸子さんの歌にあるように、

「この手に触れるのは、偽り、それとも法」

 テロの邪悪行の能力者が、邪悪行を繰り返し行っている事柄で、すでに盲目であることが、とても簡単に知られる真実だろう。


 私たちは、偽りではなくて、善の法を選びとらなければならない。



 邪悪行を繰り返し行っている者を見習ってはならない。

 彼ら邪悪行の者は、すでに、邪道に進んで、邪悪行を繰り返して、悪しきに導かれている状態なのだから。



 そのような、邪悪な者の邪悪行に反発して、邪悪行を非難して、善の道を行く人と親しむのが善い。




 あと、想念で私が自分で幸子さんの想念を作っているというように、テロの邪悪行の能力者などが、ラジオなどで騒いで悪行をしているが、幸子さんの想念は、自分で作り出すことは容易だが、幸子さんの想念は、自分で話をする感じだから、幸子さん本人だろう。
 想念は見極めは容易ではないが、

 幸子さんの場合、なぜか私にたいしては強気な感じ。

 テロ側の邪悪行をしている能力者は、見る能力も、私の想念で容易に違う物を見る、というレベルで、ラジオで騒いでいる。

 まったく悪魔を見極められるとか、そういうレベルの者達ではない。



 そして、本日は、テロの邪悪行の能力者が、マハーカッサパ尊者の事柄について、嘘で大勢をだまそうと、そこでも大なる悪業を造作した。

 悪業が大きすぎる。

 アラカンの聖者に対して、悪業を造作するというのは、三界中の存在としてもなかなかいないだろう。

 そのような極めて愚かな悪業を造作して、テロの無知なる者達は笑って騒いでいる。

 彼らのような、聖者に対する極めて愚かな行いの者達の赴く境界は、悪趣だ、として、容易に知られる。



 テロの邪悪行の能力者が、真理において、だんだんと、一歩ずつ堕ちていっているというのも、容易に知られよう。


 そのように、邪道に進む者のこれから後の行いも、おおよそすでに知られるので、

 私たち善なる者は、邪悪行の者と親しんではならない。





 もう、私たち・對馬弘の側は、聖者の側として、善なる存在である、というのも、とてもハッキリしたので、他の人も、明日からの天の境界での楽しみも、より期待も強くなるだろう、と。


 反して、邪悪行の者達は、悪趣への不安によりては、再び、一時の安堵を求めて邪悪行をも行い、’自らを見る’ということから目をそらすだろう。



 善なる行の私たちと、邪悪行の悪しき者達とは、生存中において、このように遠く離れている。

 私たちは、聖者方にとても近いが、彼ら邪悪行の者達は、聖者方からも、真理からも、とても遠くにいる。



 この生存中に受ける、喜びと、恐怖の感受の異なり。

 この、真理によりて、私たちに生じる喜びと、

 この、真理によりて、邪悪行の者達に生じる恐怖というのは、

 まったく異なる。






H29年9月7日

 本日は、

 ラジオで「蒲池は、對馬と結婚したい」と言って騒いでいる。

 私の思いに出てくる幸子さんの言葉で言えば、幸子さんが「夫婦って言え」と、言っている幸子さんは出てくる。

 これを記しているときも、自分で記していて面白いけれども、

 夫婦と認めれば楽になる、という意味の感じだな。


 ここで、私が単に「蒲池幸子さんと私は、夫婦です」とか、記したならば、単なるアホな人みたいに思われても不思議ではないので、たとえ認めたとしても、これは日記に記さないで秘しておくのがベターだろう、と、我思う。

 まぁ、内容を記すか記さないかは、未定。

 どうなるかも、未定。


 幸子さんが弟を好きなんです、というようにも騒いでいるので、

 私も”幸子さん本人が、そう望むのであれば、弟にCD等を渡そう”とも何度も思うが、そう思うと、かなり具合が悪くなるのがいつもの状態なので、”幸子さんはそうは思ってはいない、幸子さんゴメン”と謝ると、楽になる。

 しかし、歌の内容を聞くと、”たしかに弟かもしれないな”とも、私も思わされることがあるので、

 再び、『”幸子さん本人が、そう望むのであれば、弟にCD等を渡そう”と、そう思うと、かなり具合が悪くなるので、”幸子さんはそうは思ってはいない、幸子さんゴメン”と謝ると、楽になる』と。

 そういう感じ。

 幸子さんが望むのであれば、幸子さんの望むようにそうしてあげたい。

(兄は結婚しているので却下だし、他の邪悪行の業の造作となるような望みや願いも却下。)

(幸子さんが、私と関わりたくないというのであれば、私は幸子さんが望むように、そうしてあげたい。)



 いままでの歌の内容からしても、歌からの霊的な事柄からしても、幸子さんの場合も、霊的な境界でありつつリアルな現象界での話だから、簡単に認めてしまうと、束縛が増えてしまうが、

 しかし、幸子さんのように優しい人であれば、一緒にいたくもなる。



 今でもすでに、霊的世界を知らない人々からは、「この人は何を言っているんだ」というようにも見られているというのに、しかし、本人同士としては、それなりに面白いな。


 一般人のそういうように見る視線のその気持ちも理解できる分、そういうところは面白い。


 理解できない線引きからの境界の話だからね。

 昔は、私も一般人のそういう視線の側にいたからね。

 こちらから見れるようになって善かったわ。



 あとは、

『真理においては、ここでの’愛情による感受もまた、苦である’という真理を、

 自らで見ておかなければならない。


 ここで、そのように’愛情による感受もまた、苦である’と言うのは、’相手から受ける愛情の否定だ’と、無知なる者は言うかもしれないが、

 無知なる者が、そのように言うのは、真理を知らないがゆえであり、

 本当に慈悲を持ち、相手に接するならば、

 そのように、真理を見て、正見を持ちて正道を行かなければならない』と、


 以前に記している事柄について、

 この真理は、一般の凡夫には、理解しがたい仏陀が覚られた真理です。

 無知なる愚かな者達は、真理の法を愚弄しては、大なる悪業を造作している。


 多くの人が、多少でも意味を理解できるのに、早くても一週間くらいはかかるだろう、とは思っているけれども、

 まぁ、もっと期間を要するだろうかな。


 多少なりとも、一週間で意味を理解できるというだけでも、すごい事柄だけれども、一週間で多少なり意味が理解できれば、それは、このHPに説かれている、仏陀の教えとまた、真理に則した教えのおかげによるもの。


 禅定がないと、理解でき難いだろうけれども、善思を続けることによりて、確実に一歩一歩、この真理の理解に近づく。


 仏陀や聖者方の真理は、正定がなければ、最上の理解はできない、と思うても間違いではない。



 そしてまた、反対に、テロの邪悪行の者達が、この真理を見て、罵詈雑言するのは、まったく不思議でもない。

 邪悪行を繰り返している者達は、一般の凡夫よりも遠く、真理とまた聖者方から遠くに離れているが故である。



 この真理は、親しい人と親しい人とが、苦に向かう教えではなく、

 親しい人と親しい人とが、苦から脱するための教えであり、

 ともに清浄心を持ちて、善趣に赴くための教え・真理である。



 最近、罵詈雑言している歌手も多く、ラジオで歌が流れているが、そのような邪悪行の者達(悪口の歌手など)や、盲目にして愚かなる者達(歌手など)の、邪悪行に導かれてはならない。

 私たちは、聖者方の説く真理を見て理解していなければ、そのような盲目にして愚かなる者達の、邪悪行に導かれて、果ては、のまれて、そのような盲目な悪行者とともに邪道へと堕ちる。



 仏陀の教えは、一日や二日で理解できるような教えではない。

 テロの邪悪行者のように、十年近くも、仏陀の教えを見てきても、初歩の教えすらも理解できずに、邪悪行をしている者を見てみなさい。

 邪悪行の者にとりては、初歩の理解すらも極めて難しい。



『愚かな者は、生涯賢者たちに仕えても、真理をはっきりと知ることがない。

 匙が汁の味を知ることがないように』



 一般の善良な心を持つ人でも、真理を理解するのは難しい。


 であるから、私たち善なる道にいる存在は、何度も何度も、仏陀の教え・真理を善思するのが善いのである。






H29年9月8日

 本日は、

「幸子さんは、誰々が好きだ」とか騒いでいるので、一応記しておくか、と思い、

 坂井泉水さんの好きな人なのかもしれない名前について、

’あきひと’、または、’あきと’、という名前だろうか。

 ZARDのDVDで、この名前の人の顔写真ものっているので、昔の恋人がそうなのかな、とも思ったこともあるが、どうだかは定かではない。

 幸子さんが、本当は、その人が好きなのです。というのであれば、幸子さんが望むように、その心を応援しようと思う。

 私は、幸子さんが望むようにしてあげたい、というだけ。


 私が好きだと思われるのが、不本意なのであれば、幸子さんも早めに気付かせてくれればいい話なわけで。

 そういうところが、本当に疲れる。

 うる星やつらの話だって、ヒロって言ったって、通常、他の人が気付くわけないがところで言っている。

 普通は、気付けるわけもない。



 しかし、私を利用して、”他に恋心を伝えよう”、なんて事柄であったら、ひどい話だとも思うが、

 そういうのであれば、他で勝手にやっていれば、いい話だろうに、「私を絡めるな」と、私が叱って良いところだろう。


 あきひと、または、あきと、という名前でも、野呂さんとか、弟とか、兄とか関係ないでしょ。

 だから、幸子さんは、「私の事柄を言っている」と、私は言っている。



 あと、ラジオなどで、「蒲池家の人が、對馬(家)を嫌っている」、とか、「蒲池家の人は、對馬を信用しているとか」、しつこく騒いでいるが、蒲池家の人がどのようにテロ被害にあっているのか、または、どのようにテロメディアに洗脳されている、などは知りませんが、
 私は、幸子さんの蒲池家の血縁親族の事柄を、まったく悪く思ってはいない。

 これからも同じく、悪く思いたくもない。

 それは、幸子さんの蒲池家の血縁親族であるがゆえに。



 蒲池家の人々から見たこちらはどうだかは知らないが、

 蒲池家が幸子さんの血縁親族ということで、仏陀に祈念はしている。


 まぁ、私とは直接に会うことも、一生ないかもしれないが、何かの縁だろう、と。



 しかし、幸子さんは、私の周囲の事柄を言っているのも間違いないだろう。

 確率論で言っても、すごい高確率で私の事柄を言っていると思うよ。



 幸子さんの歌で、私の事柄を言っているというのも、私としては、全く不思議な話ではなく、(昔の歌でも、)私の事柄を歌で言っている人は、他にもたくさんいるので、幸子さんだけが特別珍しいわけでも何でもないのではあるが、

 幸子さんの場合、愛情についての縁の話でもあり、他の歌い手とも違い、縁が強い。





 そして、昨日の、仏陀の教えについて、

 ここら辺も、意味を理解できない人に對して、私からの教えにもなるが、
(このHPでの、仏陀の教えの他の譬えなどの教えも、私・對馬弘の教えです。
「テロの邪悪行の能力者が記させている」などという愚かな言動を信じることのないように注意するべし。)

『真理においては、ここでの’愛情による感受もまた、苦である’という真理を、

 自らで見ておかなければならない』というのは、



 例えば、自分が受験勉強をしているとします。

 そこで、母親が食事を持ってきてくれて「食べなさい」と言ってくれました。

 そこで、その子は、このように思った、”仏陀の教えでは、’愛情による感受もまた、苦である’というだから、僕はこの母の愛情で持ってきてくれた食事を食べないことにしよう”と、

そして、母親に言った、
「その持ってきてくれた食べ物はいらない」と。

そして、母は言った、
「じゃあ、ここに置いておくから、食べ終わったら、皿だけ持ってきてね」と。




 この少年がこのように受持している仏陀の教えの、この受持の仕方は、果たして正しい受持の仕方だろうか、と。



 まぁ、この例えでいえば、ハッキリ言って、この少年は教えの受け方の主旨を理解していない。


 テロ側として、罵詈雑言して騒いでいる無知なる者達の、仏陀の教えの捉え方でいえば、
 上記のような愛情というものを、愛情として捉え、そして、”その愛情の拒否は、愛情の否定となる”、として、
”真理とされるその考え方はよくない”というようにして、正見を否定をする。というのと、大差はないだろう。



 罵詈雑言して騒いでいるような無知なる者達は、仏陀の教えが何を説いているのか、の初学をも理解でき難いだろうが、

 ここで、重要なのは、親や愛する者からの大切な愛情の拒否、という事柄ではなくて、

 その愛情という、自らの心が執著・依存してしまうものへの、その執着の捨離であり、

 愛情という渇愛・苦の原因となるものの、捨離を言うのである。


 真理として、善なる道を行くのに、私たちは、愛情を受けてそのとても心地善い心を、他にも与えもするのを善しとするが、’その愛情というものが執著・渇愛という苦の根本原因ともなるものなのである’という真理を、きちんと善思していなければならない。

 その愛情という苦の根本原因を、私たちが、強く異常なまでに固執することによりて、生・老・病・死の他に、争いまでもが生起されうる。



 そのように、

 苦の根本原因は、渇愛なのである、と、

 真理を見ることが、正見なのである。







H29年9月10日

 本日は、

 講習だということで勉強していなかったが、数日前に講習ではなくて、試験だということで、2,3日勉強をして、試験を受けに札幌まで行って、試験を受けてきた。


 そうして札幌へ行ったところ、札幌のラジオもテロですごい騒いでいた。

 最近のテロの邪悪業者達の犯行の名目は、蒲池幸子さんを助けるというような名目も言っていて、そして、私は、そのテロの殺人容疑の犯罪者たちの愚かな名目によりて叩かれているわけで、


 今日は、ZARDの歌をいろいろとずっと聞いていたが、現在家に帰ってきて、『ハートに火をつけて』♪を聞いたら、「中国がガンにする」というように、聞こえて、「犯人は中国人だ」というようにも聞こえるわ。


 他の歌もいろいろと聞いたが、幸子さんの新しい方のCDでは、ほぼ間違いなく私の関連の歌を歌っているのも間違いない。

 どう聞いても私の周囲関連だわ。

 幸子さんでなくても、私の事柄を歌で言っている歌手は気付いたらかなり多かったが、

 仏陀の教えを説いているので、そういので、先見の本物の能力者が集まっているというので、私の事柄を歌っているのだろう、と。

 先見の能力者は、テロの犯人ももう知っているような感じだが、テロの能力者達は、仏陀の聖者側にもいないので、先見の能力の強い者もおらず、盲目にして霊性も劣悪にして邪悪行を繰り返している、と。

 要は、歌で「バレた、バレた」、とわざとらしく言っているのも、今頃になって、テロ側の能力者が気付いている、というような話だ、と。



 テロの能力者達は、悪魔には、もうはめられている、という状態で、

 ラジオなどでも、テロの邪悪業者達が、悪魔の業をしているのを聞いているが、本人達は悪魔の業をしているのを気付いていない、というところが、悪魔の技なんだろうな、と。

 しかも、彼らテロの盲目の者達は、言い訳すらもできない状態で、邪悪業を為している、というところが、本当の悪魔の技だ、と。

 私は、そういうように見ている。



 天側の能力者も、はめる気の感じも聞かれるので、テロの盲目な者達に導かれて邪悪行をしないように気を付けましょう。



 中国人の邪悪行の能力者も入っているようなので、気を付けましょう。


 中国人の善行の能力者であれば、ともに善に行きましょう。



『夏を待つセイル(帆)のように』♪で、「アッキがイイ」とバックコーラスが入っている。

 これは、幸子さんは「アッキ」という人が好きだ、という意味で捉えても、いいと思われるが、私としては、であれば、そういうのはそういうので、幸子さんがそのように望むのであれば、そういうので良いとも思う。

 私は、幸子さん自身の望むようにしてあげたい。


 あと、幸子さんは、かなり昔から、私のその記憶の飛んだ頃の若い時からずっと、私の事柄を見ていたというのも間違いないのだろう、と、

 であれば、”幸子さんからの、数十年の束縛から解放される”とかさきほどちょっと思ったけれども、そういう思い方をすれば、幸子さんであれば、また怒るだろうか、と。

 しかし、「ガンにする」とかも、言われなくて良くなる、と。


 幸子さんの場合、「好きだから、ガンにする」というのも結構本気っぽいので、ちょっと痛い。

 そういうところは、幸子さんの優しさでなのではなくて、幸子さんの行いの間違っているところだ。



『あなたと共に生きてゆく』♪では、中国人っぽい人の声が入っているが、ニワの事柄を記したのは、この中国人っぽい言葉を聞く前にすでに記していて、その後聞き直して、あ~、そのとおりに言っているな、というので、そのまま記したのであって、この言葉に先導されて記したわけではない。

 タイミングはいつものように、ぴったりではあった、と。


 で、その中国っぽい人いわくでは、ゴメンと謝っている、と。

 誰に對してか、と。

 まぁ、私だろうか、と。


 であれば、幸子さんはこの歌も内容を聞いているだろうから、この歌の内容もまた、私の事柄を歌っているのだろうか、とも思うが、であれば、幸子さんは、私のところ、仏陀の側のこちらに来ている、と。



 おそらく他の人はわからないだろうけれども、他でも、幸子さんは、悪語をしているのを謝っている。

 テロ側の邪悪行の能力者の邪悪行と、幸子さんの私に對する悪行は根本的に異なっている。

 だから、私は幸子さんの悪行を聞いても、「幸子さんは優しい」と言っているのである。





 あ、中国人の邪悪行の能力者というのが出たので、そういうので変に誤解されたくもないのでハッキリさせておくけれども、私は、中国人のスパイ等ではなくて、生まれた時から北海道の函館の人で、日本人です。

 100歳を越えて、現在生存中の’内閣総理大臣賞’をもらった祖母もいる、という純粋な日本人です。

 他国のスパイになるというようなやましい心もまったくなく、

 また、特に日本だけ、というのでもなくて、”世界のすべての国の人々を、覚者である仏陀の許へ・真理・善へと導きたい”と、
 仏陀や聖者方と同じ心で思うている。




 中国は、道教、儒教と、聖人も出ているが、他の世にある教えと同じく、善良な教えも含まれているが、道教も、儒教も、’覚とりが得られる’ということはなく、天部に赴く教えとしてある。

 道教の教えの内容を見ても理解できる通り。


 そして、中国の神仙術も、’仏陀の教えによりて得られる最上清浄の神通’とは、大きな開きがある。


 要するに、そのような神仙術もまた、悪魔の力の及ぶ領域から出ることはない。



 あ~、だから、幸子さんはあえて、日本が好きって言っているのか。と。



 いや、ちょっと待て、

 私の”幸子さんからの、数十年の束縛から解放される”とかさきほどちょっと思った”というので、

「幸子さんが怒るのは、当然だ」とか言うのがいるらしいので、記すけれども、

 若いころから知らないで邪悪行を受ける、というのは、束縛でしかない。

「坂井(幸子さんの場合)は、殺す気はない」というのも他の人から聞くが、悪口などをする事柄自体で、幸子さんの悪業となってしまっている。


 しかし、幸子さんのそういう悪行になってしまうような行ではなくて、後々を見ての優しい行は、束縛とはならない。

 なので、”幸子さんからの、数十年の優しさ”は、嬉しい。


”幸子さんからの、数十年の優しさ”は、数十年の束縛ではない、と。


 こういうことだ、と。


 幸子さんからの数十年間のストーカーだったら、嬉しいよ。(悪行の部分は、除く。)





 あ~、あと、「上図」か、「エイズ」か、「であったならば殺す」と、歌っているのもあるが、

 これもまた、言葉がダイレクトで幸子さんの悪口となるが、

 そして、私が上に立つと曼荼羅になる、と。


 私が上に立てば、仏教の曼荼羅は成るが、現状の曼荼羅とはならない。

 大日如来等の大乗の如来は、外して、ゴータマ仏陀と、阿羅迦の聖者と、善なる存在とで曼荼羅と成す。


 大日如来の阿修羅の王とされる存在が中心として、大きく主となっているのは、完璧に認められない。


 もしかしたら、幸子さんは、私の説く正定仏教(小乗)と、大乗仏教との異なりを理解していないかもしれない。

 幸子さんが’LOVE’の愛を執る、というのも、大乗仏教の無明の内の教えに含まれる。

 まぁ、幸子さんが’LOVE’の愛を執る、というのは、正定仏教(小乗)の在家の教えとしてもある。






H29年9月11日

 本日は、

 動画サイトの動画編集に関して、

 例えば、芸能人のIさんが番組で、「甘い物が、好きです」と言う。

 そして、その同じシーンの映像を動画で見たところ、芸能人のIさん発言が「甘い物が、嫌いです」と、編集されていたとする。


 Iさんは、その自分の動画を見て、”編集されている”として、すぐにその動画を削除させました。と。



 というような事柄と同じように、

 例えば、あなたが「私は、夫(または、妻)を、心から愛しています」と言う。

 あなたは、その言葉を言った映像の動画を動画サイトに投稿したところ、ハッカーの悪意により、
「私は、夫(または、妻)を、心から愛していません」と編集されていたとする。

 その動画を見たあなたは、その動画の編集に対して、不本意に感じるでしょうか。


 勝手に自分の言っている事柄を全くの正反対に編集されていたならば、怒る人もいるでしょう。


 というのと同じように、動画サイトで、坂井泉水さんの編集がなされている動画も見るが、そのような事柄と同じく、あなたが不本意に感じるように、坂井泉水さん自身もまた、自分の動画を勝手に編集されて、また、全く正反対の言動に編集をされていたならば、そのような動画に納得することはないだろう。


”坂井泉水さんは、先見でもって、自分の動画の編集を、”自分の心とはまったく正反対の事柄の発言に編集される”というのも見こして発言をしている”、というような、愚かな事柄を思うている者もいるようなので、
 普通に考えても、幸子さんが、先見の能力を持ちていても、そのような、幸子さん自身の、自分の言葉や、心と正反対の事柄で思われるような編集をされている動画を”善し”として認めるわけもない、と。



 そして、また、

 例えば、

 仏陀の教えについて、

 仏陀が理法を説き、邪道の者が、その仏陀の理法とは、まったく正反対の事柄を悪意で
「仏陀は、このような教えを説いた」として、言うならば、仏陀は、その正反対の教えを認めるだろうか。



 答えは、認めるわけがない。


 仏陀は、弟子においても、そのような悪意でなくとも、間違いを説いている者を、強く厳しく叱る。

 それは、なぜか。

 仏陀の教えを、間違えて説くというのは、自らに大きな悪業を積んでしまう事柄にもなり、また他の存在をも、正しい道から迷わせてしまうがゆえである。

 また、仏陀の教えを、正反対に悪意で言うような者の悪業は極めて重い。



 と、このように、仏陀でありても、自らの教えを、間違えて説く者ですらも、強く厳しく叱る。

 ましてや、悪意で正反対に説くような者は、悪業が重すぎる。



 と、このように、(書物や動画の)発言の間違っている編集などは、幸子さんの場合における場合も同じく、先見の能力がありても、なくても、関係なく、容認されない、と。


 ということで、幸子さんの真意は、編集された動画での、その発言編集動画の発言は、幸子さんの真意とは異なる、ということ。


 あなた自身も、動画編集されていて、自分の言っている事柄と全く正反対の事柄を言っているように動画などで編集されていたら、”その動画は間違っている”と思うでしょう。

 そのように普通に考えても、幸子さんも、幸子さん自身の発言とまったく正反対の発言動画の編集を見て、思う気持ちは同じだろう。

 要するに、幸子さんの発言の編集された動画は、幸子さん自身の真意を言っているのではない、と。


 ということで、動画サイトなどのテロの編集動画などに気を付けましょう。



 私の場合は、仏陀の教えの間違いについては、以前に注意で記しているとおりで、

 幸子さんの事柄については、本当の真意について、真意を知るためにいろいろ歌などを聞いているが、幸子さん自身が、私を困らせようとしていないだろうか、と、ちょっと思う。

 だいたいにして、『あなたと共に生きてゆく』♪で、途中の中国人っぽい人の言葉をあのように聞かせられたら、”對馬はこのように思うだろう”というのは、幸子さん自身も、先見でだいたい見えるだろうに、そうであるのに、そこにあのようなセリフをあえて入れている、というので、私が”これは私の事柄を歌っているのかもしれない”と思ったとしても、ここでもしも、その思ったのが間違いであったとしても、ここでもまた、私に非はたいしてない、と思う。




 何も編集されていない映像などで、そのままの映像のとおりに、真意を言うているのであれば、
それは、自らの言った真意として、本人も認めるだろう。

 要するに、後々の編集などによる、本人の言葉や心とは正反対の事柄についての発言編集は、その本人の真意とは異なる。ということ。

 邪悪行者に脅されて言っているような事柄もまた、その本人の真意とは異なる。






H29年9月12日

 本日は、

 ラジオで、蒲池幸子がどうしたとか、こうしたとか、誰々とキスをした、とか、蒲池幸子は本当誰々が好きなのです、とか。

 その幸子さんの好きなんだか、その人の家にいる、とかラジオで言っている人は、幸子さんが見えるし話もできる、ということなので、私も、正直、幸子さんの楽を思って、幸子さんが望むのであればいいかな、とも思う。


 ということで、ZARDのCDなどをすべて捨てても良い、とも思う。

 嫌いだから、ではなくて、ためを思い、捨て去る、と。


 私は、恋のキューピッドではないが、他の人が、幸せになるのは善いよ。

 と、素直に思う。



 というか、

 能力者の間では、私に直接にあってはならない、というようなのが昔からあるようすだが、(私から会いに行くのは良い様子。)

 私としては、別に会っても善い、というか、私は仏陀の弟子としてここにあるわけなので、現在はもう、縁として、(現在の私は、昔とは根本的に異なり、現在はもう善業を成している、ので、)仏陀と理法と仏陀の弟子の結びつきとして直接会った方が善いだろう、と思うけれども、

 幸子さんがその人の家にいる、というその人は、幸子さんが生存時も生存しているわけだから、それほどに好きであれば、直接会って結ばれたら良かったのではないのか、と、

 幸子さんくらいの能力があれば、感情を揺れさせてホレさせるのもすぐできただろうと思う。


 何か障害があったのだろうか。



 というように記しているが、現在もすごいベットリとくっ憑いているのがいる。

 さえも、「ムリ」と言ってちょっと騒いでいる。



 その人のところに「行っていい」と、たしかに念をこめて言ったけれども、さえに関してで言ったのだが、幸子さんが行ったらしい。

 でも、その事で、本当に幸子さんが楽を感じるのであればいいかな、とも思う。



 と記している現在の私の状態は、締め付けられている感がすごく、胃も痛い。


 明日が変わる。

 幸子さんは、自分で”明日も人間界に来る”と思っているようだが、私は、自分で”明日は善趣(天界)にいるだろう”と思っている。



 さえが私に悪口を言っている。

「(臭いに関して)はない」と、いうことだが、

 ハッキリ言って、私もその事柄に関しては、自分でも”ない”とは思う(’八正道の道にない’という意味とは異なる)が、テロの邪悪行の者から受けた負傷なので、しょうがないものだ、と。


 その事柄に関して、私に罵詈雑言をしている者達を見聞きして、私は、そのような者達こそ”本当に’ない’”と思う。





 Beingのショップで、ZARDの『Golden Best 15th Anniversary』を購入した。

 WikiでBeingを見たら、ビーイングのビルが、トーマスビルという名前らしいが、

 先日、TVの機関車トーマスの劇場のCMで叩かれていたので、不思議に思っていたが、もしかして、そのトーマスと関係あるのだろうか、と思った。


 しかし、日本の音楽業界からの叩かれっぷりもひどいものだ、と。

 現在の、日本の音楽業界を引っ張って行っている者の、目は間違いなく善ではない。


 しかし、ZARDの坂井泉水さんの歌も、中途半端に好きとほのめすのを入れているのが、思い込みをさせられている原因であって、どちらにせよ、そういう意味では、やっぱり蒲池幸子さんが悪い、と思うよ。

 嫌いなら嫌いで、ハッキリと言えばいいところを、中途半端に好意を示すから迷うのだ。

「思いきりないから」と、ハッキリ言い通せば、”この人もテロなんだな”と思って、別に興味を持つこともなかっただろう。


 昔の、坂井泉水さんの若いころは、本当に嫌われていたらしい。あったことすらもないのに。

『Get U're Dream』♪の頃では、すでに”いい人だ”と、思っていた様子。



 どうしたらいいだろうかな、と思っているところ。

 一切を忘れてあげた方がいいのだろうか、と。


 というような事柄を思うと、ラジオで、今、「坂井が泣いてます」と言う、というようなのが、いつものパターン。


 本当に、幸子さんは、どうしてほしいんだろうかな、と思う。






H29年9月13日

 本日は、

『裸足の女神』♪ B'z


 幸子さんは、渇愛のゆえに、他をも害するような、過ちをしてしまうのが見られる。

 そこは、幸子さんの反省点。



 悪口によりて、他に害を為してしまう行いをしているのに、「優しい」として言うのは、

 渇愛により、私が正しく見ていないがゆえの、個人的な思い。

 これは、私の反省点。



 背梵の友の人々は、争いの心を捨てて、正道を歩いている。






H29年9月15日

 本日は、

 パソコンがどうしたとか、ラジオで本当に言っているので、説明するが、

 PCを自作で作ったので、

 Corei7-4770CPU 3.40 GHz
 RAM 32.0GB

 最新のCPUでもなく、そこまで良い性能ではないが、初の自作PCで、すごく簡単に作れた。

 マザーボードは4Kに対応しているが、ディスプレイが4K対応ではない。



 あと、蒲池幸子がどうしたこうした、とかいつものように騒いでいて、

「蒲池が、野呂に對馬を殺させようとしている」とか、

「蒲池が、對馬のことを好きだ」、とか、「嫌いだ」とか、はいつものように、

「蒲池が、對馬の子供をほしがっている」、とか、というのは、『君に逢いたくなったら』のオフショットのTVゲームをしているところで幸子さんが言っている言葉からのものだろう。

「蒲池が、對馬を殺したい」とか、というのは、であれば、なぜに私の前に登場してきたのか、不思議に思う。

「蒲池が、對馬と結婚したい」とか、というのは、明日を夢見ての、縁の強い繋がりを言うのだろう。
 しかし、ここにこのように幸子さんの事柄を記しているということからも、すでに縁は通常より強い繋がりになっているような気もする。

「野呂が、對馬を好きすぎて、他の人に取られるくらいなら殺したい」とか、というのは、野呂さんが私を好きなのかどうかは知らないが、私は、以前は野呂さんのことをものすごく好きだったが、現在は、野呂さんが他の人のところに行ったので、ものすごく好きということもなくなった。
 そして、最後に話をしてからすでに10年位経過していて、記憶が薄れている。

 その記憶の薄れっぷりは、現在の私の髪の毛よりもさらに薄れている。

 しかし、テロのせいで、この10年間ほぼ忘れることもなかったな。

 本人は、どうだか知らないか、私が野呂さんの事をあまり好きではなかったと(テロによりてか)思っているようだが、私が野呂さんを本当にかなり好きだったのは、間違いない。
 というのを、とりあえず、記しておく。

 昔を思い出すと、いつかの時に、「今、この瞬間の幸せ」の話をしたのも、本心からの話。


 なつかしき、おもひで。



 あと、幸子さんがね、どうしてほしいのか、本当にわからない。

 今日は、”他の人を本当に好きであるならば、CD等を全部捨てよう”と、本気で思ったら、その後、ラジオで、すごい罵詈雑言されたので、幸子さんが怒ったら怖いので、とりあえず、捨てるという選択肢はないことにしようと思う。


 最近は、幸子さんがちょっと怖いんだよね。

 好きとか嫌いとかの部分での話。

 他の人を好きになったら許さない、的な恐怖感がないことはない。

 でも、「あっきいい」とか、すでに私の話ではない、でしょ。

 であれば、”私が他の人との恋愛を邪魔してて怒るのであれば、CD等を全て捨てよう”と思ったが、

 この私の考えは、別に間違ってはいないだろうが、

 そこまですると、幸子さんが納得はしないのか、と。

 というのでも、どうしてほしいのか、本当にわからない。



 しかし、動画とかも見ると、昔から、幸子さんは、何だかんだ私の悪口を言いつつも、結局いつも私に直接話しかけているのが多いんだよね。

 というか、いつも私が対象か、というくらいに私に話かけているでしょ。

 幸子さんがいつも私に話しかけてくるのは、どうしてだろうか、と。

 他の人が好きであれば、わざわざ出てくる必要はなかっただろうに、なぜ出てきたのか。



 だから、とりあえず、幸子さんから離れる方向での考えは止めて、恋愛的な感情なしの、理法の友として行けばいいのだろうか、と、考え中。

 であれば、私が(思いででも)誰を好きになろうとも、幸子さんに関係がないのである、と。
(あえて、文字を残しておいたが、テロ側が無駄にうるさいので訂正)



 動画の「坂井泉水さんの素顔コメント撮影の現場から」も、結局、「私はムリ」とかいうのも、結局、私に話しかけているでしょ。

 あれは、”幸子さんが、私が「野呂と結婚したいから」と言っているから、「私はムリ」と言っているのかな”とも思い。

 そして、「野呂もしたい」と。


 で、これを読んで野呂さんが、私の事を、嫌いだったら、今度は野呂さんも別の意味で怒ることになってしまうわけだが、違ってもあんまり気にしなくていいよ。

 というか、私が誰をすきになろうとも、邪念によりて殺そうとしなくて善いよ。

 というか、殺そうとしないでね。

 そのような重い愛情は、受け取れません。

 重すぎて。



’他の人に取られるくらいなら、殺す’というのは、間違った愛情だ。

’殺すくらいなら、他の人に取らせてあげる’というのであれば、こっちのほうが、相手に對する愛情があるだろうかな。

 私としては、殺すとかは、まったく選択しに入れるわけがないが、”本人が望むのであれば、その他の人と幸せになってほしい”と思う。
 婚姻をしているのであれば、また別の話になるけれども。





 幸子さんも野呂さんも、能力は普通の人から比べて、ずば抜けて強いと思う。

 野呂さんが、能力あるというのは、昔の動画を見るまでは気付かなかった。

 上磯の浜の車内の動画で、ボイドのスリーブの話は、上手いと思った。

「子供だと思ったら、お父さんだった。あなた」というのも、

 説いている真理はたしかに、父を含んでいる父以上の教えだな、と。そういう意味で思った。

 テロの盲目な邪悪行者達は、一向に理解できずに、邪悪行を繰り返しているが、

 理解できる人たちも、それなりにいる、と。



 仏陀の教えという、父を含んでいる父以上の教えに、力の強い能力者が実際に私の元に集まっている、というのでも、理解できるだろう。

「對馬の説いているのは、誰でも説ける」と言って邪悪行をしている者は、真理を理解することがないゆえに、邪悪行をしているので、真理の理解者からは外れているが、そのような驕った邪悪行者は真理を理解しない。

 他にも、「對馬の説いているのは、誰でも説ける」と言っているような人は、以前にも記しているが、新興宗教に入っている人などに「真理とは何か」というのを問うてみるといい、

 正しく導かれずに、迷っている人の多いことを知るだろう。


 私のこのHPの教えとその導きは、仏陀の許へと導かれて、仏陀の教えを自らで学ぶことが可能となる。
 そして、イエズスの言葉も理解できるようになる。
 また、他の宗教の聖人の方々の言葉をも理解することができるだろう。

 どうしてそのようなことが可能となるのだろうか、と。

 それは、導きが正しいからに他ならない。

 そして、導き者として、私・對馬が導いている。

 その結果で、多くの人は、ゴータマ仏陀と、阿羅迦の聖者方の偉大さを知った。



 善行者は善趣へと赴き、

 善なる者に罵詈雑言して悪行を重ねる者は悪趣へと赴く。


 善行者は、正しく導かれてこちらの善なる道に来た。

 悪魔の業を行う者達に洗脳され、盲目となり、導き者に反発して、悪魔の業を行うようになった大勢の人々は、その自ら為した悪魔の業のその報いによりて、悪趣へと赴く。


 善趣・天界への道はせまく、大勢が来られるような道でもない。

 正道を歩く少数の人々が、通れる道であって、邪悪行をして、悪魔に導かれて正しい道から迷いの道へと導かれている者は、善趣への正道に来ることはできない、と。


 邪悪行者達は、ともに邪悪行をしている仲間が周りに多いので、そこに安心を感じているのも見られるが、真理としては、すでに正道から大きく外れている。


 そのゆえに、善なる者は、そのような悪趣の道に安心を感じている盲目な者・愚かな者・悪しき者に親しんではならない。



 この「悪しき者に親しんではならない」というのは、この先の輪廻においても、その悪しき者達と縁が生ずれば、また、永劫の輪廻において悪しき縁として会うことともなり、再び、ともに悪趣への道に行くこともありえるだろう。

 そのような故にも、そのように邪道をともにするような邪悪な行いの者、例えば、テロ側として笑って罵詈雑言をしているような悪しき者や、洗脳されて盲目にして邪道を行き、邪悪行を為してしまう愚かなる者など、
 そのような、その愚かなる者によりて、自らにも邪道の縁を生じてしまうような、悪しき者から離れるのが善い。

 そのように、邪道を行く愚かな者から離れるのは、あなた自身の永い輪廻において、あなた自身が多く善趣に赴くのに利益する。



 悪しき者と邪道を行くくらいなら、一人で正道を行くが善ろしい。






H29年9月16日

 本日は、

 さきほど、皇室のTV番組を見たが、宮内庁の元職員の発言が堕ちでダメだった。

 悪語と、二枚舌との悪行。

 あのような状態であれば、テロ側の邪悪業者のその邪悪行の根源は宮内庁周辺だろうな。


 現在の日本の宮内庁は目が悪い。

 天皇陛下と親族は善さそうにも見えるが、皇太子の声の編集なのかどうか知らないが、「對馬を殺したい」というのが聞こえた。


 仏陀の弟子として知っていての発言であれば、仏陀も聖者方も、善趣の神々もその発言は、皇族でありても認められません。

 邪悪業となります。


 宮内庁の元職員の発言からも知られるように、宮内庁は、一応、霊的なところを押さえているところだろうが、邪悪行を公でしていて、目がとても悪い。

 行いとしては、野球の無知な客席の、その邪悪な応援の声と、悪語の発言は大差ないだろう。


 私はテロの邪悪行者達の悪行を長いこと見て、実際に受けてきたのでハッキリと言えるのだが、

 宮内庁の人々は、長い期間、仏陀の理法を見てきても、善と悪の区別をつけることができていないようで、人々を大勢を善趣への導くための機関としても、善へと導く力がほとんどない状態にある。

 逆に、人々を大勢を悪趣に赴かせるように、邪悪行を誘導しているような状態なので、現状は人々を大勢を善趣へと導くためのの機関としても、使えない。






H29年9月17日

 本日は、

 野呂さんも幸子さんも皇族の血筋だろう、そして、私に近づいてきた、というのは、私のせいで天皇家が滅ぶとか、そういう感じなのだろうかな。
 しかし、仏陀の弟子に邪悪行を為して、重い悪業を為すのは、私自身のせいではなくて、自らの行いのせいだろう。


 何度も言っているが、私のところにテロの件で訊ねてきた人はいままでに一人もいない。

 これほどに騒いでいて、期間も先週から、というような話でなく、数年間も騒いでいるのに、訊ねてきた人はいままでに一人もおらず、そのように、正当な理由もなしに仏陀の弟子を攻撃しているというのも愚かな話であって、正当な話ではない。

 現在の邪悪行も、私に一言も問うこともせずに、自分達が悪魔に誘導されて、その妄想・洗脳によりて、仏陀の弟子の私に対して邪悪行を為しているのだろう。

 また、テロ側の邪悪業者の集まりは、狐に化かされて、狐の側を歩いている事自体が、善趣の神々から見ても、話しにならないほどに目が悪い。

 どうして私が悪いという事があるだろうか。

 そのように、人々を善趣へと導くことができない盲目な状態だというのは、ハッキリとしている。



 また、他では、私が日本を救う。私しかいない。というのも聞くのだが、

 すでに、日本も、日本以外をも救っているとも思うけれども、

 どこを見ることができるのか、というのでも、意味が異なる。


 八正道において、すでに導かれている人は多い。

 真理・八正道を知ることができて、さらに、その道を歩くことができる、というのは、これから後のあなた自身の永劫の輪廻に関わる事柄であって、’現在のその人生で最上に重要な事柄である’と言っても、まったく過言ではない。


 それほどに、真理の道を知るというのは難しく、そして、その八正道を歩くというのも難しく、そのような最上に善い縁にあうことは難しい。


 『ゴータマ仏陀の説かれた無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭うこと難し』



 テロの邪悪業者達は、悪魔に耳栓させれているかのように、すでに仏陀の声も、聖者方の声も、善趣の神々からの声も聞こえずに、邪悪行を為している。

 自らの心、精神、この心が重要なのである、というのを知ることも難しいだろう。

 彼ら無知な愚かなる者は、身体も言葉も心も八正道におらず、邪道を歩いている。


 邪道では、地獄や畜生界などに堕ちる人や存在が集まって、無駄な事柄を話して悪行と悪語と悪念の騒音でうるさい状態なので、なおのこと仏陀の声も、聖者方の声も、善趣の神々からの声も聞こえずに、無知なる悪しき者とともに邪道を堕ちていくだろう。


 すでに他の善の人や善の存在の声が届かない状態にいるので、もうそこまで行くと、本人が気付くしかない。


 根本的に、本人が気付かなければならないのだが、邪悪業者達は、善の存在方からの導きもすでに遠い。


 そのゆえにも、悪しき存在達に、邪心へと導かれている。






H29年9月18日

 本日は、

 ウェディングの件で騒いでいたな。

 ZARDの坂井泉水さんは、私の関連で歌っているのが多いというのも、間違いない。

 ZARDのファンがどうしたとかで、私が札幌に行くと、ZARDのファンに殺されるらしい、とかなんとか。

 どうなのだろうか。

 幸子さんがホッペタを膨らませているところ。


 ホッペタを膨らませるのはいいけど、ホッペタを膨らませるだけでなくて、”あなたのファンの悪行を止めなさいよ”、と春思ふ。


 幸子さんは、LIVEのときに、私が高畑さえに言った事柄を言って、私を「殺していい」、と言っている映像を前に見たが、高畑の場合は、霊的な感情操作による影響も強いので、あれは誤りであって無効だ、と。

 現在も、容認しているのであれば、私自身が認めているものであるが、だいぶ前から、あれは間違いだ、と言っている。

 その後の歌のグロリアスマインドも、私関連の歌であって間違いないだろう。

 しかし、あれからだいぶ経つのに現在こうして、その事柄を記すというのが、不思議だな。


 その霊的な感情操作による影響の、その根本原因の霊的存在というのは、現在私のところにいる’さえ’なのだが。


 グロリアスマインドでは、ヒロがいい、と言っているように聞こえる。


 昨日は、幸子さんっぽい声で、「あっきいい」と言っていたが、

 その主張の意味することは、どういうことだ、と。


 であれば、わざわざ私に主張することもないだろうに、とも思うたが、


 あっきというのは、悪鬼の意味でアクキいいと言っているのかな、とも思ったが、であれば、幸子さんは、悪道に堕ちているだろうし、現在供養をしているので、そういう事もないだろうとは思うが、


 しかしな~、他の人に愛情を示すために、わざわざ私のところに現れるかな~。

 しかし、なんだかんだで、私に向けてメッセージを残しているのも多い。



 他の人を好きだから、その恋路の邪魔をするので、私を殺したい。

 他の人に取られたくないから、私を殺したい。

 他の人に取られるくらいなら、私を殺したい。



 私としては、殺したいとか、殺さないとか、そういう重すぎるところから離れたい。



 しかし、幸子さんの場合は、好意を持たせる風なので、どちらにせよ、幸子さんが私を好きでなかったとしても、私がそう思い込んでいるだけであったとしても、やっぱり思い込ませる風にしている幸子さんが悪いわ。


 思わせぶりで、真実は、私ではなくて、他の人が好きでした。とかいうのであれば、早くCD等を捨てたい。とは思うが、

捨てる方向等で考えると、幸子さんが怒る感じで風当りが怖いのでしないようにして。

 すると、弟が好きという主張も現れて、実は弟が好きなのか、とも思うたりもするが、


 という事で行けば、弟にCD等をあげれば、一件落着なのか、と。

 しかし、弟は付き合っている女性がいるので、現在はCD等はあげられないな、と。

 恋路の邪魔をさせられないので。


 また、’あっき’というのが、全く別の人であればまた話も変わるが、別の人であれば、最初からこちらに絡んで来なければ良かっただろうに、何故わざわざ絡んできたのか。という話になり。
(神田樹希さんという人が、追悼本を出しているのを先ほどはじめて知った。)


 野呂のために、というのも聞こえるが、野呂さんのためにわざわざ私に絡んでくる必要はあるのか、と。


 一応、いろいろと謎な事柄を記しているが、

 私としては、幸子さんは、最終的に、私を好きなんだ、と思っている。
(幸子さんの呼び方で言えば、私の呼び名は「ヒロ」)

 これらは、明日を夢見て。



 しかし、私が、このように思っているから、「あっきいい」と言っていたのかな、と。



 しかし、カラオケで薬師丸ひろ子の『手をつないでいて』とか見ると、手は離さないでいるべきだろう、とも思い。

 handshake。


 ラジオで、蒲池がどうしたとかこうしたとか言うのも、私の感受や想念での、私の中の幸子さんの思想を主に言っているのであって、たいしてあてにもならない、と。



 幸子さん自身の思いが重要。



 幸子さんの事柄を思うと、さえはいつものように静かになる。





 神田樹希さんへの強い思いだろうか。2年間の付き合いということだが。

 現在、私を絡める意味は何だろう。


 テロ側が喜んでいるような、悪鬼の話は考えなくて善いよ。

 悪鬼がイイというのであれば、ZARDから離れるのが善い。


 ちなみに、弟は悪鬼ではないですw。

 鬼人ではなくて、普通の人間です。

 そして、私も、仏陀の弟子で人間です。





 ふ、と、初めてのごとくに聞いた曲。

『Change my mind』♪。

 流れとしては、

 こちらの事柄なのだろう。



 恋愛謎解きミステリーみたいな。


 ミステリーは関係ないか。

 いやしかし、”好きだから殺したい”とかは、重すぎる。


 というようなのは、幸子さん自身も、幸子さんでなくても、自分が逆の立場になると理解できるだろう。






H29年9月19日

 本日は、

 しかし、一般の霊的な世界がわからない人は、”坂井泉水は10年も前に亡くなっている、というのに、對馬は何を言っているのか”というような思いをも為すだろうが、こちらとしては、現在のリアルなこの時の、蒲池幸子さんの過去の先見からのものと、現在の幸子さんの霊と、明日を信じてのその念を感受するのである、と。

 過去10年前の話ではなくて、今現在のリアルな事柄なので、

 だから、「幸子さんが怒れば怖い」と言うのです。

 怖いというのは、女性として怒ると怖い、という意味。



 このような状況とこの気持ちは、なかなか味わったとこのある人はいないだろう。

 過去世においても、未来世においても、多くはないだろう。


 とても不思議な縁だよ。


 しかし、世界的に見ても、とても貴重な縁の結びつきだろう。


 現実に幸子さんの歌としても残っている、その先見の能力などの事象が証明されるのも、他にもなかなかないだろう。


 歌は、先見で私の事柄を先見によりて歌う人は、他にもたくさんの人がいるが、



 私から見ると、

 主は、仏陀との縁の結びつきである、と。



 今後、これからの後娑婆世界において、

’仏陀という覚者は、(あの世でもこの世でも〔三界において〕)あらゆる境界において、最上の目である’

 として、現在ここにおいて、ここから、多くの清浄な人々や、清浄な能力者たちに、最上である三宝が識知され、認知される。という転機にある、と。






H29年9月20日

 善趣天の境界においての、普通の良識は、この娑婆の人間界の人々、各々により捉え方が異なる。

 この娑婆の人間界の善なる存在においては、天の境界の良識は常識でもある。

 この娑婆の人間界の悪しき存在は、天の境界の良識を、常識として捉えることができない者は多い。



 邪道を進み、死後に地獄や畜生界に出生するような、悪しき存在は、善行をすることは当然とは思うことなく、普通の事柄であるとも思わない。

 善なる存在は、善行をすることは当然であり、普通の事柄であると思う。


 私・對馬も、善行を行じることは当然であり、普通の事柄である、と思うている。



 善行をする心の光。心のあたたかさだな。

 実際に、心において受ける、そのあたたかさ・優しさの感受。

 この善行の心は、真理を受け入れることができる。


 これは、あなた自身の善行の心も同じく、真理を受け入れることはできる。



 しかし、邪悪行の心は、真理を受け入れることができない。

 たとえ受け入れたとしても、「悪趣へと堕ちる」として、自らで真理を受けるだろう。

 邪悪行の心に光はなく、心のあたたかさも受けない。



 邪悪行の者達は、ゴータマ仏陀の最上の優しさをも感受でき難い。


 現在、私がこのように記しつつ、ゴータマ仏陀を思うと、その優しさが本当にすごい。

”これほどに優しい人がいるだろうか”と、いつものように、感動がこみ上げる。

 そのように思念するだけでも、優しさが感受される。


 そして、実際にその優しい思念を受けて、現在ここにおいて、思念も心も、優しさで満たされる。






H29年9月21日

 本日は、

 ラジオの20時30分、639chの野球(日本ハムのファイターズLIVE)の放送は、集団で坂井泉水の妄想を描いている。

(20時50分、675chの野球放送も、集団で坂井泉水の妄想を描いている。)

(坂井が私を嫌いだということだそうです。)

 どう聞いても、異常だ。

 妄想もほどほどにしないと、そのように集団で愚かになる。

 集団で洗脳されているわかりやすい悪い例だろう。



 メディアの記録を後世のために残しておいた方が良いだろう。

 集団で洗脳されている者はこのようになる、

 邪悪行者達・邪悪行の能力者に洗脳されて、このように集団で愚かになる、と。



 そして、集団意識というのは、そのように深く思慮もできなくもなる、と。

 まさに、妄想を抱いて、また、抱かされ、洗脳されて、愚かに騒いでしまっている、と。



 テロ側の妄想壁がひどい。



 21時18分、675ch、野球戦で妄想をアナウンスし続けている。

 テロの放送は、完璧に愚かな行いだ。



「蒲池はニワがない」というのは、常識で考えてもないだろ。

『このHPについて』より
ニワ・シロウ(仮名 津野 雅、男のオカマ)、岐阜県)本人曰く、九尾の狐に陰陽師となのりなさいということで、名乗っている自称陰陽師。九尾の狐の霊から教えを受けている者。
・当時は、飲み屋のオカマのママ。
・オカマとニューハーフは違うというようなことを言っていた、そっち系の者。
・SMプレイ好き。
・九尾の霊狐(金狐)に師事する関係。
・恐喝する詐欺士。私に50万円を払えと、恐喝されて、家までくる、とまで言っていた。
 そのように、間違いなくニワシロウという者は詐欺士。
・見た目は、芸能人で「畜生ー」と言っている、着物を着たコウメダユウ似。
 写真で見ても、着物を着ていて暗いバックでコウメダユウ似。
・たしか、良いのと悪い人格が出るというように、人は、良い人格と悪い人格を持つとか言っていた、私を恐喝した詐欺士。
 人格がその良い人格と悪い人格で二人だったか。






H29年9月22日

 本日は、

 ラジオの野球放送で言っている事柄は、私が想起した事柄ばかりだと思っている一般人が多いようなので、野球で言っているのは、私が想起していない事柄は多い。

 おもに、邪悪行や悪語に関するものなどは、テロ側のいつもの悪業としての悪語と嘘言も入っている。

 テロ側の主張は、昔から言うているとおり、昔からすでに正道に’本当にない’から。

 善趣の道にもない。

 これは、もう昔からわかりきっている話なので、そういう邪悪行者達のテロ放送にまどわされないようにしないと、いつものように邪道に導かれてしまうので、聖者側にいる人は、気を付けましょう。



 聞いてても、テロ側の主張が、本当に愚かすぎて笑ってしまうような話も多く聞くけれども、そのテロ側の愚かな嘘言で、私が’頭おかしい’と思われるのは正しくなく、間違っているので記しておく。


 テロ側が妄想を電波して、世間を欺いている。

 世の衆生を、聖者方からも欺いて邪道へと導いている。





 幸子さんの話も、私の'弟が好き'というように、私に主張しているのも伝わるが、’あっき’ではなくて、’あきお’と言っているからね。

 相当好きなんだろうな、と、私も思う。

 そういうこのところがね、謎なところでもあり、

 霊的な話が含まれたりすると、弟よりも私が對象となるだろう。



 赤ん坊の事柄で、「ビビったSON♪」、というようなところは、弟は関係ないだろう。

 だから、主要なところは私に對しての主張だろう、と。



 野呂さんがどうしたとかいう話も、弟ではなくて、私を中心として、語っている。


 しかし、弟が好きならば、私を仲介して通って行かずに直接行けばいいだろうに、とも思うたが、


 そうであると、仏陀や聖者方との縁が生じ難い、と。


 ということで、

 本日の朝に聞いた曲は、

『こんなにそばにいるのに』♪

 カップリングで、
『あなたのせいじゃない』♪ これは、初めて聞いた曲だと思う。(ちなみに、このCDは、古い。)



 ちなみに、私の家に、テレビや、秒針で音の鳴る時計はない。

 禅定で気が散るので、秒針の鳴る時計は置かない。


 しかし、最近、禅定もさぼってしまっている状態だからね。


 私のせいだけでなくて、幸子さんのせいでもあるだろう。


 幸子さんの場合はね、私のせいにばかりしようとしているけれども、幸子さんも悪いからね。



『あなたのせいじゃない』♪と、私が記している、幸子さんのせい、という話でかぶっているけれども、

 禅定の事柄・その他について言っている話で、歌は、私の事柄ではないだろう。



 しかし、昔のCDは、先見で私は嫌われていると思うが、幸子さんの歌は、現実と先見のでダブルね。


 しかし、テロの邪悪行の者達に、幸子さんの件でも、キモイとか言われているが、こちらからしたら、テロ側の罵詈雑を言っている者や、邪悪行者のストーカー達の方が、充分にキモイよ。

 どうして、そう、一方的にしか見ないのか、と、いつも思う。


 仏陀の教えとして、邪悪なる者と親しんではならない、という教えを私は受けている、と言っているだろうに。

 邪悪行の者を厭い離れたい、と思う。


 動画サイトの動画の倍速音の悪意のこもった声を聞くと、私は幸子さんから離れたい、とはたまに思う。

 ZARDの歌でも、動画サイトの動画は、基本、悪意で聞こえるのは間違っている、と、思って聞くのが良いだろう。


 悪意のこもった声や、私が嫌いで他の人が好きというのを聞くと、弟であれば、CDをあげられるが、現状はそうはいかないので、

 幸子さんがそう思っているのであれば、”CDを全部捨てようかな”と思うと、すごい急激に胃が痛くなるので、”捨てない。捨てない”と、訂正した、というのは、本日の出来事。

 私がZARDから離れようとすると、拒む存在がいる。


 だから、結局、幸子さんはどうしてほしいのだろうか、と思う。


 だから、今日は野球中継で、子供を産むという話の件で、幸子さんが喜んでいると言っていたが、たしかに、私のところでも、幸子さんがいままでで一番かなすごい笑顔だった。
(何かの話の流れで、普通に、”幸子さんとの子供であったらほしい”と思った。のを読み取られた件。)

 だから、そういうのであれば、結局、幸子さんはどうしてほしいのだろうか、と思う。



 作戦的に、幸子さんは、昔から、他の人に見つからなければいいのに、というように、他から引き離そうとする傾向があるようなので、私を悪く言って、他から離そうとかいうのもしているのだろうか、と。

 テロの動きを見ていると、幸子さんに好かれると、他の女性からも好かれる傾向が強くなるようなので、そういうのもあるのだろうか、と。

 幸子さんに嫌われると、他の女性からも嫌われる傾向が強くなるようなので、そういうのもあるのだろうか、と。


 女性は、野呂さんが私を好きかどうか、というのでも、判断しているようで、

 女性というのは、そういう他の人の判断で自らも判断をする、という感じも多いようで、
 そのように女性の心の好き嫌いは、コロコロと変わりやすいので、私は、そのような女性の好き嫌いの感情や関心に興味はたいしてない。

 テロ側の悪口を言っている女性の話はとくに関心がない。
 テロ側の悪口を言っている男性の話は、さらに関心がない。

 盲目なのが、聞くだけでハッキリと知られるので、この邪悪な者からは、たいした善い話は、聞くこともないだろう。と思うと、その人物に関する話にも興味はない。



 テロ側の人物については、テロ側で、さらに、自らすすんで罵詈雑言・悪口を言っている状態ですでに、性格が悪い、というのも出ている。






H29年9月23日

 本日は、

 テロ側の邪悪行者達はしつこい、って、幸子さんは(生前、最後の収録曲の)『グロリアスマインド』♪で、「ニワが嫌い」とハッキリと言っているだろうに。

 テロの邪悪行の者達が、幸子さんが「ニワを好きだ」と、オカマで詐欺士の邪悪行の者とくっ付けようとしつこい。



 テロの邪悪行の者達が、無知と妄想によりて、仏陀の弟子に対して悪業を罪重ねている。というのも、ハッキリと知ることができるだろう。


 昔から、テロの邪悪行の者達は、多くの邪悪業を重ねている。

 しかも、仏陀の弟子と知りつつ。


 その大なる邪悪業の報いは、消えずにその悪業を造作した者に返る。


 真理に関しての、そのような邪悪業は、とても重く苦しい報いを受けるというのは、何度も説明しているのに、無知で愚かなる者は、善なる者の忠告を聞くがずに、邪道へと足を踏み入れて、邪道へと堕ちる。

 その結果、自らの死後に対して、恐怖するようにもなる。


 ということで、本日も、

『テロ側の人物については、テロ側で、さらに、自らすすんで罵詈雑言・悪口を言っている状態ですでに、性格が悪い、というのも出ている』

 そのような邪悪行をする者、邪悪なる者と、私たち善なる者は、親しんではならない。

 邪悪なる者と迷いの道・悪趣への道・邪道を行くくらいなら、独りで正道を行きましょう。

 正道に、善なる存在である私たちと、仏陀の弟子である聖者方も居られる。



 しかし、私も何も知らない時に、知らないところで、先見でこちらに電話をしている幸子さんのその念は、すごいと思う。

 仏陀とその教えを説く私との縁。よっぽどの繋がりがあるだろう、と。

 善がいい、ということで、よっぽどの善の念だろう。女性としての念を除けば。

 女性としての念は、ちょっと善の念ではなくて、愛情というか、愛着・執念というのがまじって、「エイズだったら、たぶん殺す♪」とか入るのかな、と。



 しかし、私のところで、「あきおがいい」、「あきおがいい」と言うのだよ。

 これは、本人のところに行かないで、私のところで主張するのは何なの、と。

(たまに、(私・弘)がいい、とも言っている。)


『悲しいほど貴方が好き』♪を聞くと、矛盾があるのだが(’まさる’は兄)、幸子さんはどうしたいのか、と。


 私が、嫉妬をするとでも思うているのか、と。



 幸子さんの優しい念を他の人に伝えてあげたいのだが、

 本人が楽しみを感じているのだろうか。






H29年9月24日

 本日は、

「マンガは、芸術か」という文章をネットで見て、

 マンガは、芸術なのか、と。


 マンガは芸術なのか、辞書の意味で言えば、マンガも芸術だが、

 書き物も、人間の想念を描かせるものや、

 スポーツの精神、努力精進、勝つ、というような心も、

 真理を知るための精神や心に繋がるようなものでなければ、

 努力精進をしても、正道に通じ難い。


 人間は、後世に、地獄や畜生界に出生するために努力精進をするのではなしに、

 善趣である、天の境界や、善行を行じる事ができる人間の境界に生まれるように努力精進をしなければ、永く苦の境界をさまようこととなる。



 真理と、スポーツ。

 スポーツから真理へと繋がる事柄は学ぶことができるだろうか。

 集中力、念の集中、気を静める、等々、修習に通じる事柄はあるが、基本は欲界の精神・心の増進となるだろう。

 ドキュメンタリーの『ただ一撃にかける』でしているような、心の雑念を払い、無にする、というような精神集中は、善の道や八正道に通じる。

 そのような意味で言えば、スポーツから通じるものは多少ある。

 スポーツから、真理へと繋がる修習を行じることができる人も少ないだろうけれども、無意味ではない、と。


 以前に、記した、日本のお祭り事や、伝統も真理を伝えているものもある、と。

 お祭り事も、伝統も、芸術も文化も書物も、スポーツも、あらゆる事柄が真理へと繋がるよういでなければ、私たち善なる者にとりては、意味のないものとなる。


 私たちは、お祭り事も、伝統も、芸術も文化も書物も、スポーツも、あらゆる事柄が真理へと繋がるようにしていくのが、自らのためにもなり、後世の多くの人々のためにもなる、と。


 ここで、真理を伝えるにも、その真理をどこの境界で見るかによりて、その人が伝えることができる、自ら見る真理の教えでの最上にも限りがある。

 例えば、日本神道で見る、結構矛盾した真理。
 超自然現象の、おもに欲界から出ることはないが、霊的な事柄は多少押さえているというような、ところから見る真理、と、

 修験道のような、神秘的な神仙術や、神人合一を目指すようなところから見る真理。

 これらの人々から見る真理においては、欲界よりさらに上の境界である色界における真理は、伝統として伝えることができ難い。
 見えず、無知であるがゆえに、伝統としても、八聖道が真理として上すぎて、それほど見えない。


 その導き手が、どこの境界を見て、その理法を伝えるかによりて、このように伝えるにも、限りがある。

 私の場合は、覚とりを得られたゴータマ仏陀や、阿羅迦の聖者方の教えによりて、

 その違いも、日記に記しているように、結構容易に説くこともできるが、

 ゴータマ仏陀や、阿羅迦の聖者方の教えを知らない日本神道や修験道の人々は、最上を知らないことによりて、欲界よりも上の理法・真理を説くこともできない。

 理法・真理が見えず、無知であるがゆえに、欲界の最上の教えから上の教えを説くこともできない。



 どのようにして真理へと導くか。

 どのように真理を伝えるか。


 世間の衆生の教えでは、新興宗教の神霊からの啓示でもほとんどが、欲界善趣への教えがおもに説かれていて、その欲界より上の色界に赴く教えは、少ない。

 新興宗教などの一般の神霊もまた娑婆の人間と同じように、色界の境界は上位にあり、見難い境界であり、知り難い境界としてある。

 日本神道も善くて色界でもあるが、

 仏陀や阿羅迦の聖者方からすると、その色界も、最上の境界から見ると、下の境界となる。



 この歴然とした、清浄心・神通力の大きな差だな。


 この大きな差によりて、一般の新興宗教の神霊の啓示においても、その神霊から見ても、ゴータマ仏陀や、その弟子の阿羅迦の聖者方の教えが、見えずに、難しすぎて理解もできない、と。


 テロで洗脳されているテロ側の一般の者達は、妄想壁という、低い壁も越えることはできないが、
 一般の良識ある人や、善心ある信仰者や、欲界の領域の心の能力者や、また、新興宗教の神霊自身も、聖者方が自由に行き来しては超える壁を、越えることができない。


 見えずに、真理に無知な新興宗教の神霊においても、壁の向こうは暗闇にしか見えない。



 譬えば、その暗闇とはどのような事柄なのか、

 それは、

「仏陀が覚ったこの法(真理)は、

『深遠で、見難く、難解にして、静寂であり、卓越していて、思考の領域を超える。
 微妙であり、ただ賢者のみよくそれを知ることができる。
 ところがこの世間の人々は執着のこだわり(五つの感覚器官の対象、眼に色形、耳に音声、鼻に香、舌に味、身に触)を楽しみとし、執着のこだわりを悦び、それらの執着を嬉しがっている。
 それらの執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、それらの執着を嬉しがっている人には、〈これを条件としてそれがあるという(全てのものには原因があって、結果があるという)〉縁起という道理は見難い。

 またすべての形成作用(存在)のしずまること、すべての執着を捨て去ること、渇愛(渇欲)の消滅すること、貪欲を離れること、煩悩の消滅すること、止滅、それは完全なやすらぎ(涅槃・ニッバーナ)であるというこの道理も理解しがたい』」




 暗闇ではない、この清浄心から見られる真理の光は、欲界の貪欲・愚かさ・無知によりて盲目な者は、知り見ることができない。

 欲界の神霊においては、暗闇にしか見えなくとも、清浄心を持つ多くの神霊は、そこに最上の光明を見ている。

 欲界の神霊は、貪欲な心を持ちまた、また愚痴の心、無知によりて、清浄でない心をもち、清浄心を持つ上位の神霊が見る光が見えない。


 邪悪なる者や愚かな者や、理法に無知な者においては、壁の向こうは暗闇に見える。


 彼ら、邪悪なる者や愚かな者にとりて、悪魔や悪霊や悪しき能力者・魔術者の投ずる光・地獄へと通じる邪道への導き灯りは、美しく見える。


 彼ら、邪悪なる者や愚かな者にとりて、清浄なる神々が見る光への道は暗闇であり、悪魔の投ずる光・地獄へと通じる邪道への導き灯りは、美しく見える。

 そのゆえにも、彼ら盲目にして愚かなる者は、自らで邪悪行を為して、美しく見える邪道へと堕ちていく。

 邪道へと堕ちていくのを止めてあげる善なる存在が、すでに離れているというのであれば、なおさらに、堕ちていく。



 まぁ、しかし、私も若いころは、壁の向こうの暗闇の、越えて見える光明が、意味が分からずにいたので、世間一般の多くの人も”意味が分からない”というのも、”そりゃ、そうだろう”と思う。

 若い頃に、たった一人で、仏陀の教えのとおりに行ってみたら、行くことができて、そこは暗闇ではなく、光明の道だった。

 昔日記に記している、’宝の譬え’は、この事柄を言うてもいる。



 これは、まさに、

『ところがこの世間の人々は執着のこだわり(五つの感覚器官の対象、眼に色形、耳に音声、鼻に香、舌に味、身に触)を楽しみとし、執着のこだわりを悦び、それらの執着を嬉しがっている。
 それらの執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、それらの執着を嬉しがっている人には、〈これを条件としてそれがあるという(全てのものには原因があって、結果があるという)〉縁起という道理は見難い。
』と、

 仏陀の仰せられた言葉のとおりである。






H29年9月25日

 本日は、

『Brezza di mare』♪ ZARD のDVDを初めて見て、

『眠り』の動画は、同じ場所の他のシーンのカットされている部分が私に対しての幸子さんの問題発言があったような気がしたが、
 このDVDで見ると、「(お尻の筋肉を取られた後)の頃、絶対にあいに行く」というようにも聞こえる。

 他の人はどのように聞こえるだろうか。

 私の場合、幸子さんに對する思いで、幸子さんを現在どのように思うているかによりて、聞こえるのがリアルに変わるから、正しいのが聞き取り難い。

 好意の感情によりて正聞しずらく、あえて異聞を受けてしまう、という感じかな。


 ZARDのCDを聞いていても、私が幸子さんをどのように思うているかによりて、本当にかなり違うく聞こえる。


 何度もリピートして同じものを聞いていても、幸子さんを好く思うて聞くと、幸子さんが私を好く思うている言葉の方で聞こえる。

 異聞作用の顕著なものだ、と。


 幸子さんの思いの念がとても強いので、すごい、とも思う。


 今日は、他の人ではなくて、私がいい、というのがハッキリと聞こえた。



 しかし、不思議な縁だよな~、と。


 勘違いではなくて、幸子さんが、好いてくれているのであれば、とても嬉しい。

 その反面、他の女性と結婚しようとするものならば、「殺していい」とか、直球で言われるくらいなので、そのような事柄を考慮すると、”他の女性と友達以上に親しむのは、(おそらく)もう無理だろうな”、ともちょっと思う。

 念が強い。

 しかし、私も、見た目も年齢もいいおじさんになっているからね、なんとも、誰かと恋愛するにも遠いかな、と。

 という思いも持ちつつ、

 まぁ、幸子さんが安らげれば良いな、とも思う。

 しかし、私の周囲の事柄をことごとく示している、のが、すごい強い念だ、と思う。


 幸子さんの善い念のところは、すごく善い。





 そして、本日は、

 争いに関して、その事柄に対して、自分は(あなたは)、どのようにするのか、というので考えていたが、以前にも同じ事柄を考えていたが、


 争いに関しての、悪業の造作と、その報いに関して


 例えば、あなたは、争い、戦争をよしとしますか。


 どうだろうか。


 ここでも、あなたの悪業の造作とその報いとで、死後に善趣・天へと出生するか、悪趣・地獄へと出生するかが大きく変わる。


 例えば、ここで、”私は争い・戦争を善しとはしません。”
 そして、”戦争を善しとはせずに、戦争をしてはならない、という考えの集いの元にいて、戦争があれば、止めます。”

 このような人たちは、争い・戦争を止める、というその業によりて、その善い業の報いとして、争い・戦争のない処に縁が結ばれることもあるだろう。


 また、ここで、”私は争い・戦争をよしとします。”
 そして、”戦争をして、障害となる存在を滅ぼそう、という考えの集いの元にいて、戦争を起こします。”

 このような人たちは、争い・戦争を起こす、という業によりて、その悪業の報いとして、争い・戦争の勃発する処に縁が結ばれることもあるだろう。


 この違いもまた大きく、

 欲界においては、争いの起こっている地域・場所も存在し、争いのない地域・場所も存在し、争いのない時代もあり、争いの多い時代も見られる。

 そして、善趣の清浄な色界においては、争い・戦争を止める、という心の者において、色界は遠くではなく、
 争い・戦争を起こす、というような心の者にとりては、色界は極めて遠くの境界としてある。



 この違い。


 あなたが現在、”私は戦争をしません。戦争があれば、私は戦争を止める側の集いの元にいて、争い・戦争を止めます”

 というような者であれば、その善業の報いとして、

 善趣の清浄なる色界は、遠くではなく、

 欲界においても、争いのない場所や、争いのない時代に、再び出生する、という善い報いを受けることもあるだろう。


 しかし、あなたが、現在、”私は戦争を起こします。私は戦争を起こす側の集いの元にいて、争い・戦争を起こします”

 というような者は、その悪業の報いとして、

 善趣の清浄なる色界は、極めて遠く、そして、

 欲界においても、争いの起こっている場所や、争いの多い時代に、再び出生する、という、悪い報いを受けることもあるだろう。


 譬えば、あなたは、現世界の過去の歴史の、第二次世界大戦の真っ只中で、
 戦火が激しい地域・場所で、毎日おびえて暮らすのと、
 現在の戦争をしていない国の、戦火が激しくない場所で、家族や親しい人と、ゆったりとのんびり暮らしている生活とでは、
 どちらの暮らしを好しとしますか。


 あなたは、どちらの暮らしをしたいですか。


 普通、多くの人は、『現在の戦争をしていない国の、戦火が激しくない地域・場所で、家族や親しい人と、ゆったりとのんびり暮らしている生活』を、好しとすることでしょう。



 そのように、もしあなたが、”争い・戦争のない地域・場所や時代を好しとする”のであるならば、

 自らに、’争い・戦争を起こす’というような邪悪業を造作してはならない。

 自らで’争い・戦争を起こす’という邪悪業を作して、争いの起こっている場所や、争いの多い時代に、出生する(識が結生する)、というような、悪い報いを受けることのないように、自らで邪悪業を造作しないようにするべし。







H29年9月26日

 本日は、

『Brezza di mare』♪ ZARDの

 付属DVD動画の『眠り』のは、動画サイトの動画とは違って、このオリジナルでは、きちんと謝っているでしょ。

”幸子さんは、優しい”と思うよ。

 ZARDのスタッフの心意気も優しいのかな。

 あとから、動画で着ているリアルのTシャツとか、言葉で「殺していい」と言うているようなのも、後から気付いたけれども、昨日の今日に合わせているのか、こちらが幸子さんに合わせられているのか、どちらかだろうか、と。

 まぁ、どちらでも好いが、否定はせずに、肯定をする、というのは、
 昨日の話の流れで言えば、『(私が)他の女性と結婚しようとするものならば、「殺していい」』というのを肯定している、という流れの話になるのではないのか、と。

(そうであれば、)

 ちょっと、待って。


 ちょっと、考えてみる。



 やっぱり、重い、と思う。


 考えている現在、この身体のジワーとした感覚。

 確実にくっ付いている。

 幸子さんの事柄を思念するときは、この感覚が多い。



 最近は、幸子さんの声もたまに聞こえるので、嬉しい。
(悪い言葉ではなくて、善い言葉が聞こえるのは、嬉しい。)

 さえの場合は、さえは心で呼びかければすぐに反応して、声を発する。
 さえの場合も、想念の中で言葉を言うているのではなくて、他の人にも聞こえる音量で声を発する。
 めずらしい霊体。



 いや、途中で、話が変わったけれども、やっぱり重いと思う。



 この優しい感覚と、想念で幸子さんが好意で微笑んでいるのは好い。



 記している現在、幸子さんを褒めると、さえは怒っている、と。

 というか、さえよりも幸子さんの方が好きだというのは、何度も言っているのだが、

 当然の話だ、と。


 今日のさえの話で言えば、さえは幸子さんが怖いらしい。

 私としては、さえは故郷に帰って、幸子さんが居れば好い。と思う。


 そもそも、さえは何故に私のところに来ているのか、というのも、わからないな。そういえば。


 幸子さんが来ているのは、DVDの話で言えば、私がかわいそうで来てくれている、ということらしい。


 思念でたずねると、好意を持っているから、という感じ。






H29年9月27日

 本日は、

 テロ側がかわらずに、「坂井は私が嫌いだ」というのを主張してもいるが、「坂井は對馬が好きだ」というのも最近は聞く。


”幸子さんが私を嫌いらしい”、とか、”他の人が実は好きなのかもしれない”とか、そういう事柄を考えるとちょっと、”離れたい”と思ったりもするが、そうすると、身体の胸当たり等に痛みが出てきて、

 痛みが出た時、”えー、今何を考えてたっけ”、”どこの部分だ”と、思い出して、幸子さんについてのマイナス思念を訂正すると、即時に良くなることも多い。


 しかし、幸子さんが私を嫌いだ、と聞くと、”そうか、では、好かれていないので、残念だけれども離れよう”と思うと、
”痛い”となり、

”いやいや、あなたが嫌いだから、あえてこちらから離れるんでしょ。どっちよ”

 と思うたりもする。


 また、

 私が、”私と幸子さんは夫婦”と思うと、「蒲池が喜んでいる」という主張をいつものように聞く。

 痛みもとくになし。絞め付けもなし。

 想念では、幸子さんは笑顔。


 最近は、ニセの幸子さんも、能力を持つ人のところでいろいろと言っているようなので、思念を読むだけの能力者は、とくに分別はでき難い、と。



 基本は、”幸子さんが好き”と、本心から思うと、優しさが感受されて、心が安らげて心地良い。

”幸子さんが嫌い””離れたい”と思うと、苦痛が感受されて、実際に痛くなる。


『Brezza di mare』♪の付属DVD動画の『眠り』で言うているように、幸子さんが私のところに来てくれている、というのは、とても嬉しい。



 幸子さんの視線の先は、’仏陀’だろう、と思う。






H29年9月28日

 本日は、

『Brezza di mare』アルバム ZARD

 の『明日を夢見て』♪を聞いて、この曲で言えば、今度は、兄が好きらしい。

 最後あたりで、「始まるよ、神純愛~、夫婦~」と聞こえる。

 この歌では、私は嫌われている役のポジションにいるらしい。


 このアルバムの選曲は幸子さんではない。

 スタッフの選曲の順番が間違っているのではないのか、と。

 順番の問題でもないのかな、と。



 好く思われているようにも聞こえた。



 幸子さんは、先見で、夫婦の事柄を読んでるね。



 11曲目の『さわやかな君の気持ち』♪

「今日もまた一日、愛はない笑顔で♪」というのが、気にくわない。


’愛がない’というのは、正しくない、間違っているので、

 知っているだろうけれども、あえて記して確証すると、

’愛はある’。



 先見の当事者と、他の先見する人を見る一般人では、大分思考に開きがあって、

 先見する人を見る一般人は(他人の思念を読む能力者も同じく)、私と幸子さんの二人で言うている事柄がおそらく、半分も意味を理解できるかどうか、というところで見ているので、そこで、「愛はある」と言っても、非現実的な状況で言うている、というように捉える人が多いだろうから、あえてそういう愛情も日記に強く出したくはない。


 しかし、以前にも記しているが、幸子さんとの縁は、彦星と織姫のような状態になりそうで、そうであれば、とても好ましくなく、望んでもいないので、できればそのような状況は、回避したい状況だなと、つくづく思う。

 要するに、今日この人生で、会わないで、恋心が生じて、そして次の生存(後世)でも、また会えずに、恋心だけが生じる。そして、次の世も会えず、と、何世か繰り返して後、やっと会える、と。

 スパンがとても長い、という感じの状況は回避したいな、と。


 まぁ、しかし、永劫の輪廻で言えば、そういう感じも多くあるだろう。



 歌で喩えれば、『創聖のアクエリオン』♪のような歌かな。名前からの連想で狐は気にしなくていい。

 このアニメは1話も見たことはないが、歌は動画で拾ってたまに聞いていた。

 何か、この歌も”私関連の歌っぽい”というのは、今初めて知った。

(「フリなら(でも)いい」とか言うているが、フリでも、悪語であれば言うている時点でダメだろう。悪行。)


 「殺りくの天使」や「地獄」など、ところどころでそぐわないところも聞かれるが、永い縁で、過去や未来を見るというのは、この歌のようなものだ、と。


『1万年と2千年前から愛してる。

 8千年過ぎた頃から、もっと恋しくなった。

 1億と2千年あとも愛してる。

 君を知ったその日から』


 これが、渇愛。



 また、悪趣の、地獄という境界は、多くの苦(のみ)を受ける境界であり、楽を感じるこのような歌も聞くことはない、だろう。






H29年9月30日

 本日は、

『創聖のアクエリオン』♪を聞き直して、

 途中で「ゲイでもいい」というのが聞こえて、笑ってしまったけれども、

 何度も何度も言っているけれども、私は、神が激怒するようなゲイのような性同一性障害という病を患ってはいない。


 途中で「仏陀」というようなのも聞こえたが、「仏陀はある」というのは、善なる存在としては普通。


 その普通が、’最上にすごい’普通だけれども。


 この歌は、初めて聞いたのは、昔、友人から、いい曲として教えてもらった曲。


 ゲイとか、レズなどの病いは、悪趣に赴いてしまう心で、善趣に赴くような心ではない。


 この曲を教えてくれた友人とは現在疎遠なのだが、疎遠になった理由は、その友人が、まさにゲイなのではないか、という疑いが生じて、そういうそぶりがあったので、私から疎遠を選んだ。

”(ゲイって)まさかよ”とは思うたが、確証があって、ゲイではないというのであれば、普通の友人として親しむのは問題ないだろう、と思う。


 中学からの友人だが、そういうそぶりがあって驚いた。

 まぁ、テロの能力者の誘導という影響もあったのかもしれないな、と。

 まぁ、ゲイなのだろうか、というのが、勘違いであっても、勘違いであった方が良いな。


(テロの騒ぎや叩きに気付く以前は、ゲイのそぶりは知らなかった。

 テロの悪行の能力者の誘導や、狐の畜生霊や、狸の畜生霊などの低級霊の誘導で、ゲイやレズの心を起されて、終いにその外道の行いを行じてしまう、という過ちをしてしまうこともありえる、という意味で、テロの邪悪行の能力者の誘導の影響ではないだろうか、ということ。)






H29年9月30日

 本日は、

 悩む。

 テロ側の能力者からはいつものように、「(坂井)は嫌がっている」、というのも聞くが、

 その事柄を考えると、”嫌がっているのであれば、どうして出てきたのかな”と、いつも思う。

 出てこなければ、嫌がることすらもなく通り過ぎただろう話だ。


 そういうところこがね、

 嫌がっているのではなくて、やはり好意で来ているのだろう、と。


 あとは、歌での主張は、弟がいい、らしいが、兄もいい、らしいとも聞こえるが、

”私はどうなの”、とも思うが、たまに私を好きというようにも聞こえるところはある。


『星のかがやきよ』♪を聞いていると、「死ね~、ニワ~」と聞こえるが、「死ね~、ヒロ~」というようにも聞こえる。
歌で言えば、「ハゲたら、死ね」ということらしい。

 そこだけ記したら、酷い歌ということになるが、

「本気で世界を変えたいと思っている私のヒーロー、まぶしいね♪」と。

 ハゲているから、まぶしいのか、とも思われる表現もまた微妙。

 私としては、笑えない、が、

「本気で世界を変えたいと思っている’人’」というのであれば、私だな、とも思う。


 これは、昔、いつぞやに日記に記した、詐欺士達の言うていた’ハゲの神’のように、ハゲてしまうならば、死ね、ということかな、と。

 詐欺士の言う、ハゲの神様はどこまでハゲているのかもわからないからな。

 バーコードの髪型は、ハゲに入っているのか、と。

 微妙だな。

 結構どうでもいい、微妙だけれども。

(詐欺士という邪悪行の者が目指すようなハゲた邪神と、私が目指す仏陀と聖者方との集いとその集いの善なる神々とは、目指すところは全く異なります。
 私は、ハゲても善神になることはありえるが、ハゲた邪神となることはありえない。)


 なんか、野呂さんを怖がっているので、私を好きと言えない、というような感じもするんだよね。

 幸子さんの歌に、野呂さんの事柄がけっこう出てくるでしょ。


 ということは、二人とも、私を好きだから、嫉妬をしているのだ、と。

 二人とも、私の事が好きなのです。


 という私の自己満足っぽい感じの結論を、出したところ、

 今、現在、胃が痛い。


 結論が少し外れているのだろうか。

 少しではなくて、大きくだろうか。


 しかし、幸子さんが嫌がっているとするならば、本当に何故に出てきたのか、とは思う。


 想念で聞いてみると、

(私を)「好き」らしい。



 今日は、さえは悪行をするから、何度も「さえは帰りなさい」と、何度も言ったが、「嫌だ」と言って、帰ろうとしない。
(さえの帰る場所というのは、やはり、おそらく本人のところ、だろうと思う。が、他の善なる人のところに行った方が善いだろう、とは思う。)

 誰かが「ガンにされる」とか、そういうような事柄を言っていた。



 現在もここにいるけれども、ちょっと言うてみたところ、

 いつも言うているような事柄を小さくボソボソと言うている。

 ボソボソしていてハッキリと聞こえない。






H29年10月1日

 本日は、

『星のかがやきよ』♪で、最後あたりで「結婚したい♪」と聞こえる。

 結婚をしたい、と。


 悩むわ。

 自分のポジションに悩む・幸子さんとの距離に悩む。


 私に對して歌っている歌があるというのは、十分に伝わるが、どこのポジションとして歌っているのか、と。

 恋や結婚の對象としてか、恋や結婚の傷害者としてなのか、と。


 恋や結婚の對象として歌われているのであれば、「別れたら殺す」というような表現の言葉も、尋常ではないが、嫉妬として意味は理解できるが、
 恋や結婚の障害者としていろいろと言うているのであれば、他の人と私の恋愛や結婚を成就させたら良かっただろうに、とも思う。


 現在は、独り身なので、明日の予定も、思念できるのだ、と。

 普通、結婚していたら、妻ではない女性と、明日(後世)の予定は立てない。

 現在、結婚しているとしたら、結婚しているときから、心で浮気してどうするんだ、と、そういうような話にもなってしまう、と。



 男性として、結婚相手は純潔な処女の女性が善い、と。

 処女の女性の胎に、最上上位の天人は宿るだろう。

 最上上位の天人は、自らの宿る胎を選ぶので、普通は、処女の女性(他の男性と性的行為をしていない女性)の胎でなければ、選んで宿らないだろう。






H29年10月2日

 本日は、

”幸子さんとの繋がりをどうしたら良いのか”という悩みを晴らすべく、幸子さん自身が生前に選曲していた作品のアルバム『Soffio di vento』♪を聞いて、どうするかとキッパリと決めるべく、本気で聞いた。

 ということで、アルバムを最後まで聞いて、弟はいいという心があるようだが、私に對しての心はない、と、いうことで、では、離れる方向で行くか、というところで、

 DVDを見たら、’ある’と。



『So Together』♪では、

 嘘をついた、というのは、夫婦~、って、夫婦の件で嘘をついたというのだろうか、と。

 嘘をついたわけではないけれども、霊的に夫婦という意味で夫婦。

「夫婦って言え~」と聞こえたので、では霊的に夫婦。

 しかし、好きでもない人とは、冗談でも、霊的に夫婦である、とは言わない。



「あきおがいい」というのは、すごくたくさん聞こえるけれども、’ヒロ’とは言っていないので、”私が恋の障害する人なのだろうか”と、離れる気で聞いたが、DVDで入っていた、と。

 そして、DVDで「對馬がいい」と言っている、と。

 良かった、良かった。


 他のCDを聞けば、「坂井から離れたら殺す」とか言うている感じだし、しかし、くっ付こうとすると、「あきおがいい」とか言うているし、”何だこれは”という状態だったので、とりあえず、幸子さんは、私(が)もいい、ということで受けた。


「無理」、「無理」というのは、素顔のコメントの動画で言えば、’野呂と結婚したい’から「無理」、という「無理」だろうか、と。

 昔の話だからね。現在は、そのような気持ちも特になくなった。

 動画で昔の短い映像を見たところ野呂さんは、その映像では母親希望らしかったが、母親は、現在の実の母親がいるので、野呂さんは、伯母さん(・伯母さん)のポジションだな、と思うていた。

 昔のその短い映像動画を見たら、やっぱり、野呂さんも優しい、と思ったわ。



 野呂さんも、仏陀に帰依して、善い縁で結ばれれば、後世でも、再び何度も会うだろうけれども、幸子さんの歌で言えば、野呂さんは遠いようなので、邪悪行をしていたならば、仏陀と法と僧伽を思い、懺悔して、再び邪悪行をしないのが善い。

 ───


 善行と、心を清浄にする行をするのが善い。



 もし、明日(後世)に、この娑婆世界・人間界に来るとしたら、時代が近ければ、寿命はまた、現在のように、100年前後ほどの寿命だけれども、


 天随念で、

【兜率天(兜術天)】は、
・寿命四千年で、人界の五億七千六百万年に相当し、この天の一日は、人界の四百年に相当するとされる。三十三天の寿命で見れば、四倍の八千年。

【楽変化天(化自在天)】は、
・寿命八千年で、人界の二十三億一千六百万年に相当し、この天の一日は、人界の八百年に相当するとされる。兜率天の寿命で見れば、四倍の一万六千年。

【他化自在天(他化自在天)】は、
・寿命一万六千年で、人界の九十二億一千六百万年に相当し、この天の一日は、人界の千六百年に相当するとされる。楽変化天の寿命で見れば、四倍の三万二千年。

 というように、善趣・天界に識が結生すれば、現在の人間の寿命とは比べものにならないほどに、とても長い。



 であるから、私たち善なる者は、邪悪行を捨てて、善行を行じて、善趣・天界に出生するのが善い、とも言うのである。



 幸子さんと、どうしたこうした、とかいう話も、これが明日(来世)に、善趣・天界で逢うならば、ともに寿命は長く、一緒に居るのも永く居る、という話になる。

 これは、仏陀の教えであり、真理。


 であるから、’明日を信じて思念をする’というのは、単なる妄想や、笑い話で済むような事柄ではなく、とても重要な事柄。

 幸子さんが、歌で強く伝えるというのも、そのような世界をきちんと知っているがゆえであるだろう。



 人の思い、心というのは、重要なのであり、

 正道では、’清浄な心’が、とても重要なのである。






H29年10月3日

 本日は、

”日記を書かないかな”と思ったが、

 アルバム『Soffio di vento』♪の、『ひとりが好き』♪ を聞いて思いだしたので、


「今思えば、懐かしい嘘。『君だけだよ』なんて、信じて♪」

 というので、思い出したが、この「君だけ」というので、その人だけではなくて、他の人にも「君だけ」という言葉を使ったことがあった。

”嘘になってしまうかな~”と思いつつこの言葉を使った記憶がガッツリと残っている。
のを、この歌を聞いて、以前から思い出していた。

 懺悔。

 あとは、記憶に残る故意の嘘、のようなのは、記憶にないな。

 これだけが残っていた。

 他にあったかな。


”嘘になってしまうかな~”と思いつつこの言葉を使ったので、記憶に強く残っている。


 と、思い出したが、まさか私の事柄と掛けているのだろうか、とも思うたが、


「はじめてのキッスをかわした、メリークリスマス♪」というのは、わからない。


 私事で言えば、クリスマスにキスをした、というのは、限られている。



 ちなみに、私の、はじめての(唇での)キッスを語るならば、

 あれは、私の若かった頃、あれは小学生の低学年の頃だった。


 人生で初めて、女性の人と、唇と唇でキスをした。


 その女性は、毎日小学校に行く途中の横断歩道で、信号が青になったら誘導をしてくれていた、旗を持った、通称’緑のおばさん’という人だった。

 その人は、何故か知らないけれども、いつもホッペタにキスをしてくるおばさんで、いつもキスをしてくるので、あまり気にしていなかったが、今思うと”子供が好きだったのかな”とも思うが、

 その人が、ある日突然、ホッペタではなくて、唇にキスをしてきたからね。

 突然、唇を奪われてしまったので、あの時は、もう、”初めての口づけ(キス)が、緑のおばさんになってしまった…”という事で、小学生ながらに、かなりショックだった。

 というような、緑のおばさんに、初めての唇を奪われて、かなり凹んだ、という、初めてのキスの思い出がある。


 その後は、緑のおばさんのキス攻撃をかわすようにしてた、と思う。






H29年10月4日

 本日は、

’さえ’がかなりしつこい。

 今日も悪行をしていたので、さすがに、もう”悪霊”ということで、何度も「帰りなさい」と言っても、騒いでいる。


「さえは悪行をするからもう’ない’」と。

「幸子さんだけがいれば、嬉しいから、それで満足だから」と。


 さえの悪行もかなり長いからね。

 さすがにもう親しまなくても善い、と。



 そうそう、そして、今日は、仕事の休憩時間に考えていたが、

 この私のところでウロウロしている’さえ’という霊だけれども、元の居場所である高畑のところに帰らずにここにいるようなので、まぁ、高畑の指示で嫌がらせをしているのかどうかもわからないが、帰らずに私のところでいつものようにいろいろと騒いでいるので、誰か’さえ’をほしいという人は、直接’さえ’に話かけて連れて行ってくれたら、私としてはその方がよい。

(一応、霊のさえのために言うならば、悪行者ではなくて、善行者であったほうが善い。
 悪行者であれば、やはり、私としては、連れて行ってあげてほしくはない。

’さえ’もその人も、邪道へと堕ちていくだろうから、善行者がよい。)


 ’さえ’と、高畑本人との関係はどのようになっているのかも知らないが、

 いつも私のところにいて、悪さをしているので、ほしい人は’さえ’が持ち主のところに帰る気もなく、’さえ’自らが納得すれば連れて行ってくれたらよい。

 もとから霊の’さえ’と私とは関係がないので、’さえ’が納得すればいいだろう、と。

’さえ’も、嫌であれば、持ち主のところに帰るだろう。


 ちなみに、私は、’さえ’と幸子さんが、輪廻で前世と後世だとか、そのように考えていない。


 幸子さんは、ともに八正道を歩くので、間違っても、幸子さんを連れて行こうとしないように。



 と、記しているときに、’さえ’がテンションの下がっている音(声)を出している。

 一応、このように言われてテンションは下がっているらしい。


 私は、本気で言っているので。


 霊の’さえ’が空想の存在だ、として思うている人もいるとは思うが、他の人も、聞こえるくらいの音声で声を出す、めずらしい存在なので、空想とかでない、というのも、ハッキリと知ることはできるだろう。

”空想の話だ”と思うているような、霊的世界に無知すぎる人は、対象外の話。



 午後20:00時 ラジオの900chを聞いていると、幸子さんがかなりの悪霊というように言うている。

 妄想ワールドだが、神智学の者がどうとか言うているが、昔から神智学の者の話もちらほら聞いているが、神智学の目は善くない、と思うよ。

 こちらを応援してくれているのは、昔からあまり聞かない。

 どちらかというと、テロ側を支持している様子だったので、このように思うている。


 以前にも同様の事柄を記しているが、神智学の教えの四諦は、ハッキリ言うて、悪魔の領域を越えることができない教えで、苦ではなく悲しみとしている。

 その時点で、悪魔に魅せられても、真理に気付くことはできない、というのも目に見えている。

 また、神智学の者が、私に直接言わずに、メディアを通して語っているというのもおかしな話だ、と。



 クリシュナムルティさんも、私も、神智学に入って、辞めて出てきたが、クリシュナムルティさんも、真理を知るのに、自己に気付くのに、神智学は必要なものではなかった、ということである。


 他の人はどうかは知らないが、動画で、幸子さんが「對馬はいい人」と言うているので、私は幸子さんを信じる。

 仏陀の弟子を「いい人」と知っているのは、普通の良識ある目を持っている、と思う。


 しかし、私がどうかしたら「殺していい」と幸子さんは言うているくらいだから、幸子さんも同じような責任を負わなければ正当ではない。

 と、いうことで、幸子さんにも、きちんと責任を負うてもらおうではないか、と。


 さて、どのような責任を負うてもらおうか、と。



 一応、譬えば、幸子さんが悪霊であったとして、私が幸子さんに誘導されて悪趣に堕ちてしまう、というような譬え話を言うならば、

 私は、すでに多くの善業を成しているので、もしも、悪趣へ堕ちるような事柄があったとしても、悪趣からすぐに出てきて、善趣へと向かうことができるだろう、とも思う。

 であるので、そういう意味ででも、別に幸子さんに對して、そのような心配の恐怖もとくにない。



 善業を多く積んでいる人は、地獄からも、一瞬、または、一時にしてすぐに出られる、と言う話もある。

 であるから、以前に「善をあきらめないように」と、告げたこともあったが、人の忠告を聞かないために、悪しき者達・愚かな者達は、悪業を積み重ね続けている。





 結婚の話で、さえが「決定」とか言っているんだけれども、何なの。

「いやいや、さえに言ってないから」と。

「好き」とか言っているんだけれども、どういう事なの。



 さえが、「好き」、「好き」って何度も言っているんだけれども、

さえの中で、どういう話になっているのか。


 さえのポジションがわからない。

 ベッタリとくっ付いている。


 あ~、このさえの勘違いの話の方向は、まずいな。

 テロ側の野球のラジオ放送なみの妄想だと思われてしまう。





 ダメだわ。

 やはり、動画サイトの動画で考えようとすると、編集で騙されるわ。



 しかし、謎なところが、ちょっと面白かったりもするが、

 悩むわ。



 しかし、やはり、「殺していい」とかいうテロの邪悪業者達のような言葉を言うのは、悪であって、善ではない。というのは、間違いない。

 幸子さんのそのようなところは悪い部分で間違いない。


 嘘をついてでも人を助けたいという心は良いが、善行では嘘をついてはならない。

 人を助けたいという心は善。




 しかし、「霊的に夫婦」というのを、これはどうしたものか、と思うているところ。

 幸子さんが嫌がっているようであれば、’お互いの合意がなく、成立しない’という方向でよろしいだろう、と思う。

 動画サイトの動画ではなくて、オリジナルCDの歌や、DVDのオリジナル映像で、幸子さんが言うているのを答えとしましょう。



「霊的に夫婦」というのを、ラジオで聞けば、「蒲池がすごく喜んでいる」とか、「嫌がっている」とか、ラジオの神智学か誰か能力者からの伝言なのか知らないが、妄想で、結果的に矛盾した事柄を言っているので、聞いていても、たいしたプラスにもならず、結局は、公共電波で悪口を言って笑って騒いでいる、というのは、”いつもどおりのテロの犯罪者達・邪悪者達の悪行”として、こちらに充分に伝わる。

 このように、テロ側の邪悪行の者達の洗脳は、半分以上、または、ほぼすべてが妄想で出来上がっております、と。


 妄想で邪悪行をしている愚かな者達は、悪趣への道へとすでに堕ちてしまっている。

 私たちも妄想で邪悪行をしてしまはないように、気を付けましょう。


 邪悪行の悪しき者と親しんではならない。






H29年10月5日

 本日は、

 ふ、と、一番に聞いた曲。

『カラッと行こう』♪ ZARD

 次、『虹』♪ カノン

 どちらもオリジナルは、後から聞く。

 狙って、聴いてはいない。



 いや、蒲池幸子さんの話は別にしても、テロ側の邪悪行は、昔から’ない’よ。

 同じ話で語らないように。


 幸子さんは、この日記の話で書く教えについてなどの話が中心で、それとは別で、テロ側の邪悪行者達は、昔から犯罪・邪悪行を行じている。

 野球放送も、テロ側の邪悪行ということで確定していいだろう。



 野球放送で、神智学の人も違ったらしい。


 例えるならば、神智学の能力を持っている人は、能力があるから、真理に近い、と思うているのかもしれないが、そうではない。

 過去や未来の事物や事象の、世間の見解からの名色を見ても、その事柄によりて、人は清浄とはならない。


 その名色とは何なのか、ということを知り、理解すること。

 そして、その名色としての自己とは何なのか、それを知り、理解すること。


 まぁ、クリシュナムルティさんもこのような事柄を説くだろう。


 また、譬えば、貴方が、真理であるとして、その名色を見て、その事柄から渇愛を生起する。その事柄に執著する、としよう。

 このような心は、クリシュナムルティさんと、進んでいる方向が異なるということが理解できるだろうか。


 クリシュナムルティさんもこちらの正道にいるけれども、神智学にいない。


 神智学の教えは、悪魔の領域にどっぷり漬かっているような状態で、欲界をも越えがたい。

 聖者方と進んでいる方向が異なるので、壁を越えることができない、または壁を越え難い、という表現が適当だろう。

(神智学は、仏陀の教えの最上に重要な教えである’四聖諦の教え’を間違えて伝えているので、そのように’真理から善なる人を迷わせるような教えを伝える’という行いは、単なる間違えであれば、真理が単に見えていない、ということで、、さらに、悪意であれば、悪魔が入って真理から逸らそうとしている、というようにも捉えられる、そのような重大な間違いを犯している。

〔神智学の者が間違えている教え’四諦’を、そのまま通そうとするのであれば、悪しき集い、また、愚かな集いとして、仏陀や阿羅迦の聖者方から祓われ、善趣の神々からも除外される。〕

 悪魔は、そのように重大なところで、人々を真理から欺こうとする。

 神智学の教えでは、悪魔の領域を越えることが出来ない。

 そして、その教えを見る限りで一見してわかるように、盲目な状態なので、私が仏陀の教えを説いているように’真理を正しく伝える人’がいなければ、悪魔の導きに従い、真理へと来ることはできない。

 要するに、神智学の教えでは、真理へと来ることはできない・真理へと来ることはできなかった。というのは、理解するべきであって、理解しなければ、いつまでも盲目にして暗闇をさ迷うだろう。)



 とりあえず、’畜生霊系統は覚とりを得ることが出来ない’というところから、そのような畜生霊など悪趣の境界の存在に騙されたりしないように気を付けましょう。

 あとは、放送でどこかの能力者が、私が「地獄に堕ちているのが見えた」、というようなのを言っているのを、野球放送で聞いたけれども、仏陀の弟子で、仏陀の教えを説き、善行をしている人に對して、そのような誤った事柄を大勢に言う、というのは、大きな悪業となるので、気を付けるがよろしい。

 他の人も、その言葉によりて、道を誤ることもありえるだろう。


 永劫の輪廻の苦と、永劫から限られたものとなった苦の道の、どちらを大勢の人々に歩かせるのか、という話で言えば、理解できるだろうか。

 この計り知れないほどの大きな違いのように、

 仏陀の教えを説く、仏陀の弟子に對して、そのような誤った言葉は、このように大きな悪業となりえるので、気を付けるがよろしい。



 テロ側の無知なる者達は、真理に対する悪行というのが、どれほどのものであるのか、というのを理解できていないがゆえの愚行なので、智慧ある私たちは、気を付けて悪行をすることのないように注意して、善なる道を歩いて行きましょう。



’世の父’が真理を尊重するというのは、当然の事柄。

 善なる存在。

 そして、父もまた、当然、私たちのこの善なる道・八聖道にいる。





 そして、話を今朝の歌の話に戻して、

『カラっと行こう』♪で、最後あたりのところで「(霊的に)結婚したい」と聞こえる。

 言っているのであれば、’お互いの合意がある、ということで成立は可能’である、と。



 とりあえず、オリジナルはあとから聞く。

 他の人は、どのように言うて聞こえるだろうか。


(追記で、この『カラっと行こう』♪は、以前に記しているのは最初から意識して聞いてはいるが、’「(霊的に)結婚したい」というように聞こえる’というのは、まったく意識をしていない。

 『虹』♪も同じく。

 歌の内容もいつもどおりに日記とぴったりと通じる、というのも、やはり幸子さんは、先見の明があるね。

 数日前に、ネットで購入した「WEZARD」を見たら、自分でもそのように言うていた。


 これは、幸子さん自らの意志と、この日記の幸子さんの事柄は繋がっている、というのも、もうほぼ決定事項だろう。

 そして、一応説明で、この私のHPでの、仏陀の教えについては、幸子さん自身は、’LOVE’という渇愛を執する心を強く執っているので、仏陀の説く真理は、幸子さんの思念とは別に見て取れて、私自身の慈悲心から説くゴータマ仏陀の教え、として説かれているのが明らかとなる。

 この説明は、幸子さんの思念や、または、テロの邪悪行の能力者などに誘導されて記している、というような、いつものテロの邪悪行者の主張と、他の人の迷いを消し去るための説明。

 テロの邪悪行の能力者は、公共電波で他大勢に悪口を言わせ続けている、という状態を見て知ることができるように、八正道にいない。)






H29年10月6日

 本日は、

 ラジオで、さきほど、17:30 900chで、’トヨタ’がテロの犯罪行為をしている企業だ、と、自ずから自慢げに吐露していた。

 テロの犯罪者達は、10年程たっても、周りに悪口を言わせて、こちらを怒らせるという、邪悪行を繰り返している。

 10年程を経ても、悪業者は、変わらず。

 ラジオでそのように、自慢げに、悪口を言って、盲目な人々大勢を悪趣へと導いている、というのも、100%間違いない、というのも確定している。


 トヨタの責任者・指示者が、テロの犯罪者・邪悪行者として確定。

 理法においても、邪悪行の者とされる。





 今日も、テロ側の邪悪行の者達の拠り所が、悪行者にしか依れていない、すわなち、仏陀や聖者方に依ることができない、という、以前に日記に記しているとおりの事柄を見た。

 彼らは、理法を知らないがゆえに、善なる人と悪しき人との区別がつかないで、洗脳されて悪しき者につき従って行く。

 その中には自慢げに悪行を行じているような者もいる。


 拠り所のこの大きな違い。



 『アーナンダよ、誰かある比丘が、現在、もしくは、私の亡き後も、

  自己を依り所とし、自己に帰依して、他人に帰依することなく住し、また、

  真理を依り所とし、真理に帰依して、他のものに帰依することなく、住するならば、

  アーナンダよ、その者は、私(仏陀)がいないという闇の世界を超えて学を求める者である、と言うことができるのだ』


  これが、すなわち、私たちの拠り所。



 テロ側の邪悪行の者達の拠り所は、すなわち、同じ悪行者。

 彼らは、真理を拠り所とすることができない。

 なぜならば、彼らは’真理を怖れる’が故なのです。


 邪悪行の者が集まって、ともに一時の安堵を感じる。そして、彼らはともに真理に近づかない。

 彼ら邪悪業者達は、自分達自らの救いとなる真理を怖れる。





 と、

 そして、

 今日は、動画サイトのZARDの歌を聞いて、やはりオリジナルと違って、私から離れる方向でいろいろ違う声の内容が聞こえる。

 動画サイトのZARDの歌は、やはりほとんど参考にならない。


 そして、オリジナルでアルバム『君とのDistance』の『あなたと共に生きてゆく』♪を聴いて、

 途中で「ニワ」「ニワ」と聞こえるので、”幸子さんは、実は犯罪者のニワが好きなのか”とか思うたりもしたが、
”『グロリアスマインド』で、ハッキリと「ニワが嫌い」と言っているので、やはり違うな”と納得。



 そして、『月に願いを』♪ を聞いていたら、「誰々に会えるから、胃がんにしたい」と聞こえたので、

”いや、ちょっと待て”と思うた。

’ちょっと’というのは、時間のちょっと、という意味ではない。



 しかし、現在36歳で、幸子さんは40歳で亡くなっている。

 人生は短い、と実感される。


 この短い人生をどのように過ごすか、と。


 仏陀の教えを説いたので、人の道としての行いは善く成した。

(おそらく明日もまた、教えを説くだろうから)”明日も目立つのだろうな”と思うたら、ため息が出た。

 善くもあり、よろしくないのもあり。




 現在、”幸子さんが喜ぶようなことを、してあげたいんだよな”と思うたが、

『月に願いを』♪で、「誰々に会えるから、胃がんにしたい」というようなことで、’喜ぶ’ということだから、

”いや、そういうのは、ちょっと待て”と、また、思うた。






H29年10月7日

 本日は、

 体調不良。胃が痛い。

 悪しき者達・悪魔達にも攻撃を受けている、と。


『星のかがやきよ』♪で、「死ね~ヒロ」ではなくて、「死ね~、お前から」があっているらしい。
「死ね~ニワ。ヒロ殺す」ということだった。



 歌を聞いて、何っ、と思い、確かめてみたら、悪いのが私にくっ付いて苦しめていたので、軽くやっつけておいた。

 やっつけるのは簡単だが、悪業になってしまうのかが、心配。

 この悪業を懺悔する。


 やっつけるのは簡単だが、悪業となるのでしたくなかったが、これでは俗世の存在と変わらない。

 慈悲心が足りない、と。



 この『星のかがやきよ』♪では、最後に「結婚しなくていい」と聞こえる。

 と、いうことで、霊的な結婚の話はなし、ということでよい、ということでよろしいかと思う。


 この後の歌の『カラッと行こう』♪では、霊的に結婚したい、というのは、誰かほかの人の事柄を言うているのかもしれない。

 しかし、歌で何かを言う對象が私が多いというの事実なんだよね。

 だから、それほどに、私が恋の邪魔をする存在だったのか、謎だ。

 そもそも、何故に出てきたのかも謎だ。

 出てこなければ何もなかっただろうに。


 と、いうことで、私は幸子さんから離れる方向で行きたい、と思うている。


 ちょっと、歌を聞いていて、私に対してか、または、ほかの人に対してか「死ね~」とかいう悪語も、”違う意味で重い”とも正直思うている。

 他の人が言う幸子さんの声を聞くと、私が"幸子さんと結婚する"と思うと「すごく喜んでいる」というのを何度も聞くが、野呂さんを思うと、幸子さんが暴言を言っている、というのを聞き、離れる方向で考えるとまた、暴言を言っている、というのを聞く。
要するにどちらかわからない。

 だから、どちらにしたいのか、というのも不明だった。


 ちなみに、この「霊的な結婚をしない」というのも、幸子さんが選んだということだろう、ということであって、私が選んだのではない。
 要するに、この選択も私が悪いわけではない、と。


 ん、そういえば、霊的な結婚というのはどこから出た話だったんだっけか、と。

 夫婦って言え~、のところからか。


 と、いうことで、一旦離れようかと思う。

 おそらく、野呂さんと、競って、誰かと結ばれたいのだろう、と思う。

 動画サイト他では、弟がいい、というようなのは聞くが、まぁ、私ではないのだろう。と思おうと思う。



 しかし、謎だったな。


 『カラッといこう』♪では、「對馬と結婚したい」、「ニワと結婚したい、NONONO」というようにも聞こえる。



 野呂さんと競うというのも、共通な人が他にいるのだろうか、謎だ。

 幸子さんの場合、謎が多すぎる。


 昨日か、”結婚する”と思うたら、想念で幸子さんからキスをしてきた。
 これは、単に想像しているだけでなく、身体にくっ付ているのを感じるので、想念を起されている状態。

 だから、幸子さんの場合、どうしたいのか不明。


 この日記に進行に加わっているのも、どう見ても幸子さん本人だろう。

 歌の内容からしても。


 謎だ。

 幸子さんの場合、謎が多すぎる。





 ん~、しかし、「對馬と結婚したい」とも言うているように聞こえるか。

 ん~、もう少し調べてみるか。


 とりあえず、保留、ということにしておくか。

 まぁ、違うのであれば、気のせいだった、ということにしておこうか、と。



 今日は他ででも、「幸子さんが’對馬を殺す’と言うている」として聞いたが、

 しかし、「結婚をするから、殺さない」ということらしかった。



 しかし、殺されるくらいなら、結婚をする、けれども、幸子さん本人が「結婚したくない」というのであれば、結婚できないだろう。

 と、いうことで、そういう事でも、「私はとくに悪くはない」と。

 眠りの動画で「会いに行く」というのは、誰に会いにきたのだろうか、と、そういう事柄においても謎になる。


 他に、幸子さんの障害となるような悪いところがあるのであれば、直そうとは思うている。ので、幸子さんが気付かせてくれた方がよい、と。






H29年10月8日

 本日は、

 アルバム『Soffio di vento』で、『あの微笑みを忘れないで』♪


 その後、いろいろな話の流れにより

 私から折れて、私から言うた。

「(幸子さんと)結婚をする」と。

 そして、幸子さんも「(私と)結婚する」って。



 一応、このような話になった。

 あとは、ご想像におまかせします。

 と言いたいところだが、ラジオの野球放送の妄想を聞いていたら、他の人の勝手な想像にまかせることはできないな、と。



 この話も、特殊な話だからね。

 他ではあまりないだろう。


 幸子さんは、殺そうとして、永遠(永い)の結びつきができるならそうする、という感じの話だな。

 そして、折れた人がここにいる。

 以前の幸子さんいわく、「逃がさない」と。


 私も嫌いな人とは、折れることもなく、「結婚をする」と言うようなこともない、と。



 と、いうことでした。


 しかし、特殊すぎて、普通の人は信じられない話だろう。

 私の周りでは、普通の人が信じられないような話は沢山ある。

 日常の話からして、普通の人が信じられないような話だからね。

 ラジオの野球放送の話も、後世の人は信じられないかもしれないが、実際にラジオの野球放送を聞くと、”こいつら、頭おかしいだろ”とも思えるような事柄を言うている状態。
 このような状態もすでに、日常の話からして、普通の人が信じられないような話だろう。



’真実の真理に生きる’と、このような感じで、真実を見る。

 そして、真理を見る。



 幸子さんは、40歳で他界して、私は現在36歳。

 幸子さんを40歳とすれば、年齢は、近くなっている。


 人生は短い、というのを実感する。


 幸子さんは人生の40年をどのようにして生きたのか。



 譬えば、あと数年で人生を終えるとしよう。

 あなたは、あと数年の人生をどのようにして過ごすか。



 人生という短い生存において、善行を成した者は、次の生存において永く善趣へと住することが出来る。

 三界〔欲界・色界・無色界〕の存在に関して


 人生という短い生存において、悪行を成した者は、次の生存において悪趣(地獄・畜生界)へと堕ちて、永く苦しみを受ける。


 地獄に堕ちた者の出生と生存に関して



 私たちの行く善なる道と、悪しき者達の堕ちる邪悪道とは、このように大きく異なる。



 人生は短い。

 私たち、善なる道に行く存在は、急ぎ、理法(善法・真理)を修学・修習しなければならない。





 さえが、自らが幸子さんだと言い張りたい様子。

 で、さきほど邪念を想起させたので、「悪霊のさえは消え失せなさい」ときちんと言った。

「お前は、蒲池幸子さんではない」と。

(幸子さんは、想念で出てくる。)


 以前に、邪念を潰した時に、負傷してたらしく、弱った声を出していたが、”お前がやってたのかよ”と思うたが、気にくわないとたまに攻撃もしてくる、と。

 最近は、たまに、邪念を潰すのだけれども、幸子さんもたまに巻き込まれて潰されてしまうらしくて、痛がってかなり怒っているというのもあって、幸子さんに謝っている。

 霊としてはかなり痛いらしい。(懲らしめるために、殺す気とかではなくて、ペタッと潰している。)

 ということで、潰すときは、幸子さんに離れたところにいるように言うている。

 昨日のやっつけるのとは別。

(この業も、悪業になりえるだろうか、というので、すすんでやりたくはないので、考え中。)


 幸子さんは、潰されるとかなり痛いから、ガンにしたい、というのも言うているように聞こえるが、だから、幸子さんをペタッ潰す気はまったくないので、幸子さんに對しては謝っている。


 ということで、霊的な存在として私に悪さをすると、たまに潰したりもするから、あまり悪すぎると、やっつけるので、私のところまで飛んで来て悪行をすることのないように注意。

 私のところでなくても、他の人のところででも悪行自体をしてはならない。






H29年10月9日

 本日は、

 また、900ch 17:57頃 ラジオで殺人犯が犯行声明を言っていた。

 逮捕した方が善い。


 殺人犯をかくまっているラジオ局の責任者も逮捕するべきだろう。

 テロ規制法はどのように稼働しているのか。

 稼働していないのだろうか。



 テロ側の存在は、善なる存在ではなくて、悪しき行いの存在だ、というのがハッキリと理解できるだろう。

 悪魔の業を行う者達。


 テロ側の盲目の能力者達が、”自分たちこそが善なる存在だ”という妄想をえがいている者もいるが、そのようなことは、道理としてもありえない。


 このような、テロ側の盲目の邪悪業者達の行いを受けて、すでに10年程。


 このように、テロ側の盲目の邪悪業者達が悪しき行いをし続けて、すでに10年程。

 もっと長いか。





 真理として、善行者と邪悪行者との違いがハッキリと出ている。


 昨日に説かれた真理も、適用される。

『人生という短い生存において、善行を成した者は、次の生存において永く善趣へと住することが出来る。

 三界〔欲界・色界・無色界〕の存在に関して


 人生という短い生存において、悪行を成した者は、次の生存において悪趣(地獄・畜生界)へと堕ちて、永く苦しみを受ける。


 地獄に堕ちた者の出生と生存に関して



 私たちの行く善なる道と、悪しき者達の堕ちる邪悪道とは、このように大きく異なる』






 地獄に堕ちた者の出生と生存に関して を久しぶりに読んだが、私の行くところではないw。


 悪い事はするものではないな、と。

 我思う。


 あと、サイコパスの事柄で考えていたが、幸子さんの歌を聞くと、サイコパスの行いとしてかぶっているようなのが見られるが、幸子さんの場合は、私に對して、”好きだから、殺したい”とか、「ヒロに会えるから、胃がんにしたい」というのは、一応、善ではないが、サイコパスのような極悪な犯罪者としての邪悪さはない。

 だから、魔人と言っていたのか、と、思いだしたが、

(ちなみに、本人いわく、私の現在の胃の悪いのは、幸子さんの意図したものではない、という事で言うている。まぁ、たしかに前から胃の状態がとても悪いのは、アップしている胃の写真を見れば知られるだろう。)

 幸子さんが、実は、私を恋を障害する者として思うていて、

 幸子さんの思いを、私が勘違いで受けているのであれば、

 幸子さんが、他の人を好きなのであれば、当然、「結婚する」という話も無しとなる。


 当然の話。


 これは、私が幸子さんの思いを叶えたいから言うている話で、私がその思いを叶えるのを障害する者となりたくはないので言うている話。

 間違いなく幸子さんの好きな人が對馬弘だ、というのであれば、それでよい。


 幸子さんの歌で、昔は「殺そうだった」と言うているように、その後の歌は、そのような気持ちのものではない、ということだろう、と。

 テン・フォーの事柄も間違いなく私の事柄を言うているものだろう。



 だから、幸子さんが「殺していい」と言うているのは、殺そうとした結果がどのように見えていて言うているのか、そのように言う事によりて、異なる変化が起こる、というのを先見して言うているのか、と。

 そのような見方によりても、また、受け方は異なる。



 また、このように、幸子さんの事柄を記しているが、私としては、幸子さんに對して、恐怖とかいうのはまったくない。

 むしろ優しい感じを受けている。


 これは、幸子さんが私に直接話しかけているのも多いので、他の人が言葉の通りに受けるのとも異なる。


 私としては、幸子さんは、善なる存在の助力者として来ている、と、私は思うている。



 まぁ、テロ側の邪悪行の能力者等の邪道にいる者達が、死後の世界においても、すでに問題視されている、ということでもあるだろう。

 邪悪行自体もそうだが、普通の物を知らない人々を、悪趣(餓鬼界・畜生界・地獄)に道連れにするような行いは、すでに問題。






 さきほど、DEENの、『永遠をあずけてくれ』♪を聴いて、この歌も何かありそうだな、と。

 幸子さん関連なのか、私関連なのか、いろいろだな。

 とりあえず、幸子さんが好きな人がいるのであれば、その人を特定したいな。


 とりあえず、幸子さんの恋愛に私が関係なければ正直、早々に抜けたいな、ともちょっと思う。

 これは、私のためにも、幸子さんのためにも。


 再び言うけれども、『これは、私が幸子さんの思いを叶えたいから言うている話で、私がその思いを叶えるのを障害する者となりたくはないので言うている話』

 幸子さんが、何故に私のところに出てきたのかが謎。



 と、CDでZARDの『永遠』♪を聞いたら、またかよ、と。

 私か、と。


 カップリングの『I can't let go』♪も、私に言うている様子。


 と、いうことで、結局悪いのは幸子さんだ、と。



 要するに、どういうことなのか、と。

 ん、やはり弟ではなくて、私に好意を持っている、ということでいいのか。という事か。



 ん、ちょっと待って。

 エロ助けるな、とw。

 エロいのは、私なのか、と。

「一は胃がんでいい」って、良いわけないだろ。


 なんで、私が歌にツッコまなければならないんだ、と。


 二人の悪魔が、って、野呂さんと幸子さんが、レズだ、というようにも聞こえる。

 いやいや、話の展開がキモい方向ですぞ。



 この曲は、初めて聞いたが、いやいや、いろいろと言ってはいるが、根本的に迷わせているのは、幸子さんであって、私は悪くはない。

 一方的に、ガンにするというのは、幸子さんが悪い。

 幸子さんの歌が自由すぎて、かばうのが大変だ。



 う~ん、

 いや、「この歌を聞いて結婚するって言う」、と聞こえるけれども、この歌を聞いて「結婚をしたい」とは、まったく思わない。


 そういうどうでもいいようなのは、本当にどうでもいい。

 三度目に言うけれども、『これは、私が幸子さんの思いを叶えたいから言うている話で、私がその思いを叶えるのを障害する者となりたくはないので言うている話』

 幸子さんの思いを聞いてあげたいんだ、と。


 ということで、歌を聞く限りでは、弟でいい、ということだろうな、と。解するが、

 歌を聞いていると、また、どっちよ。と思う。


 何なの。

 ハッキリしなさいよ。


 ちょっと、まって、今、直接幸子さんに言った。




 また、流れが妄想っぽくなっている、のはよろしくない。ので説明。

 要するに、初曲で現在私が聞くのを、幸子さんが先見で待ち構えているような感じ。


 だから、弟でいいのか、と言えば、そうではない、と言うようなのだし、どっちなのよ、と。

 ちょっとイラついてきた。



 しかし、「ガンにする」というのが、テロ側のように悪意で言うているのであれば、私は仏陀の弟子として、悪しき者と親しむことはできない。ということになる。

 悪しき者に関与したくはない。と。


 このまま普通に、善趣に帰るわ、と。



 しかし、弟がいい、らしいので、では、私も幸子さんは弟を選んだ、として納得できるのだけれども、大丈夫かな、と心配になるんだよな。

『I can't let go』♪で、弟を脅かしているだろう。

 だから、そういう感じで大丈夫かな、と。

 ん、「私がいい」と聞こえた。


 だから、どっちよ、と。



 ん、そもそも、現在、幸子さんと私は結ばれている状態なのだろうか、そうではない状態なのだろうか。

 幸子さんが、「結婚する」と頷いていたのだけれども。






H29年10月10日

 本日は、

 ZARDのいろいろな動画を見たら、愛情たっぷりに見える。

 と、いうことで、すなわち、今日は幸子さんの機嫌が良い。


 さえも騒いでいるけれども、無視。


『I can't let go』♪を本日も聞いてみたところ、

『二人の悪魔が』って、聞こえないな。

 二人の野呂さんと幸子さんは、悪魔ではなかったらしい。


『レズ』というのも聞こえないな。


「絶対さえのゲーム」「絶対それが理由」というようにも聞こえる。

「殺すアワさえ」「ウケる」と聞こえて、

「ヒロ(ケア)ガン」だろうか。


『この歌を聞いて結婚するって言う』、と昨日聞こえたけれども、よくそういうように聞こえたな、と思う。

 この歌で言えば、さえのせいで胃ガンか、肺ガンになるらしいので、

 この歌で言えば、犯人はさえだ、と。


 私は、昔にさえの本体だった高畑さえと親しまない。そして、別人格だった悪行をする霊のさえとも親しみたくはない。


 そもそも、高畑のせいで霊のさえがこちらで悪さをして、私がかなり酷く迷惑をしているのに、音沙汰すらなし。



 ちょっと、まって、

「絶対、さえはキレる」「絶対、それが理由」というようにも聞こえる。


 とりあえず、犯人および犯罪霊は、どちらにせよ、さえ、ということで言うている。



 要するに、まとめるとだね。

 どちらにせよ、’私・對馬弘は、被害者だ’という真実。

 真実であり、真理。


 真理としても、私・仏陀の弟子に害を為す邪悪行の者達は八正道に’ない’。という真実。



 仏陀の教え

『探らず、究めずして、そしるべき(非難すべき)人を称讃し。
 探らず、究めずして、称讃すべき人をそしる。

 これらの二法を成就せる愚者、不明なる不善人は、損傷し失壊したる自己を保護する。
 また、罪あり、智者の呵責するところである、また、多くの非福を生ずる』

『探り、究めて、そしるべき(非難すべき)人をそしり(非難する)。
 探り、究めて、称讃すべき人を称讃する。

 これらの二法を成就せる智者、賢明なる善人は、不損傷、不失壊の自己を保護する。
 また、罪なく、智者に可責せられず、また、多くの福を生ずる』





『あなたに帰りたい』♪では、幸子さんは、私を見ている、と。



 幸子さんが見られる、ということは、他の善趣の衆生も見ることができる神霊はいるだろう、と。



 テロ側の邪悪行の者、また、テロ側の邪悪行の能力者は、すでに見られている。

 善趣の神々を欺こうとしても、ほぼ意味はないだろう。

 そして、当然ながら、

 仏陀や聖者方を欺くことはできない。



 という事は、おのずと自らの行き先も理解されるだろう。

『聖者方の怖れる悪業・怖れるべき悪業〕・避けねばならない罪業を、”避けなくて良い”と思い、
 避けなくて善い(無)罪業を、”避けなければならない”と考える邪まな見解〔邪見〕をいだく人々は、悪趣〔地獄〕に到る。

〔聖者方の怖れる悪業・怖れるべき悪業〕・遠ざけるべき罪業を、”遠ざけるべきである”と知り、
 遠ざけなくて善い(無)罪業を、”遠ざけなくて善い”と考える正しい見解をいだく人々は、善い処〔天上〕に赴く』



 最近は、邪悪行の者の悪業の報いの’仏陀の教え’を記すと、テロ放送で邪悪なる者から罵詈雑言が出る。



 あれ、歌は、『あなたに帰りたい』♪でなかったかな。


『愛が見えない』♪では、良く言われていない、と。

 愛が見えないからだろう。





 テロ放送で邪悪なる者が騒いでいる。

 善なる者のために、多くの人が見えていないから記してあげるが、

 幸子さんが私をいろいろと言う、というのは、正道においては主として知るべきところではない。



 その幸子さんの、善良な方向へと導こうとしている力(先見)や、行いから見える真理をこそ、知るべきである。

(テロは’ない’。善が善い。等。

 嫉妬から殺していい、等は、幸子さんの愛欲からくるものなので、まともに受ける必要はとくにないだろう。
 まぁ、言われているのは、なぜか、私が多いようなのだが。
 一応、私が幸子さんから離れようとしても、幸子さんがよろしくないようで、どうしたものかとも思う。
 そして、私も幸子さんから離れると、よろしくなくなるような感じらしいので、これもまたどうしたものかとも思う。)



 大局が見えず理解せずして、盲目にして邪悪行を為す者は、悪趣へ赴く。

 大局を見て理解し、正見にて善行を成す者は、善趣へと赴く。






H29年10月11日

 本日は、

 CD ZARD『あたらしいドア』♪


『遠い日のNostalgia(追憶)』♪では、あきがいい、ということらしい。

 う~ん、遠い日だからか、と。


 ちょっと、謎を解明していっているところ。


 DVDのオリジナル動画『カナリヤ』の「月の砂漠」のところも違う意味で伝わるんだけれども。

 私の受ける意味で言えば、他の人は、ほぼわかるわけもない話。

 幸子さんは私の思念・記憶に合わせて歌うているのもあるから、他の人とは受け方が異なるところもあるだろう。


 これは、例えば、昔の歌手が私の思念を見て歌うているとすれば、私が聴くと、すぐに意味が理解できる、と。

 また、聖書などでも、たとえば、イエズスが、私・對馬の思念に合わせていろいろと言うてくれている、としたならば、イエズスの言葉は私の思念にあうものとなる。というような感じ。

 受け方の違い、というのは、このような感じでもある。


 イエズスの言葉は、真理に合うので、仏陀の教えを知る私の思念において、それほど難しい事柄は言うてはいない。

 八正道の道の人たちにとりて、結構普通。


 智慧と心解脱をしている阿羅迦の聖者からすると、イエズスの行に渇愛のあるところが見られるだろう。

 私から見ても、そこは渇愛だよね、と思われるところ。

 まさに、仏陀の出家の比丘がしてはならない行のところ。



 智慧と心解脱をしている阿羅迦の聖者方は、無明を執らない。






H29年10月12日

 本日は、

 今日は、ZARDの初聞きの曲『Teenage dream』を聞いて、

 初聞きの曲でイメージが想起されるが、”(そのイメージは)私のイメージではないよ”と幸子さんに言うてもいるが、

 その想起させられたイメージの事柄を歌にしている、というので、幸子さんは言うている。


 以前に「テレてる」と言うているのと同じような事柄。

 私の中の想念に出る幸子さんは、幸子さん本人である、という証明ともなりえるだろう、と。


 私の想念を動かす念のものだね。

 これをしているのが、幸子さんである、と。

 なので、歌を聞きつつ、”その想念(の動き)は、私のものではないよ”と、幸子さんに言うたところ。

”あ~、幸子さん(本人)か。”と。


 幸子さんを想うと優しい気持ちで心が安らぐから、本当に心地がいい。

 幸子さんとしては、「やさしさよりも、キスがほしい♪」と、

 私としては、キスもいいけれども、やさしさと、その心の安らぎが善い、と。



 心地がいいというのは、良い。


 誰かと居て、心が安らぐから、心地がいい。

 一人で居て、心が安らぐから、心地がいい。


 周りが騒がしいけれども、心が安らいでいるから、心地がいい。

 周りが静まり返り、心が安らぐから、心地がいい。


 自分の心が慈しみの心で満たされていて、心が安らぎ、心地がいい。



 一人ででも、誰かとでも、どこの場所ででも、自分の心が安らいでいるのであれば、心は満ち足りることができる。





 今日は、パソコンのモニターが壊れたので、ノートパソコンよりホームページを更新。






H29年10月13日

 本日は、

『悲しいほど貴方が好き』♪と、カップリングの『カラッといこう』♪ オリジナルをCDを聞いて、


『悲しいほど貴方が好き』♪で、歌詞で「貴方がふさぎ込み うつむく日は 私が そっと 照らしてあげたい」♪の部分が、
やはり「貴方が’くさい’と うつむく日は 私が そっと 照らしてあげたい」♪というようにしか聞こえない。


 このうつむく人とは、一体誰のことを言っているのか。

 幸子さんはこの人を好きだ、と言っている。


 もし、私の事柄であるならば、では、素直に毎日善く照らしてもらおう、と思う。



『カラッといこう』♪のカラオケでは、天魔が来て、さぁみなさん利用し魔にする、使徒殺す、と言っている様子。
良心を殺し魔にする、と。
 最後らへんで、悪しき者がそのように魔にしたい。ということを幸子さんが教えているのだろう。


 前から悪魔達が出てきて騒いでいるからな。

 善なる存在が狙われる。

 私は、かなり前から狙われいたようだけれども。


 邪悪行をして、悪魔の業をしている悪しき者達は、すでに悪魔に殺されて生命を失っている者も多くいるだろう。

 要するに、悪業を造作して地獄に堕ちる者。



 と、いうことであれば、私たち善なる存在は、光の武具を身に着けて闘わなければならない。

 光の武具とは、仏陀・理法(真理)・僧伽と、信と善行との善心と清浄な心と、他、仏陀の教えにある善の念と善行。

 聖書で使徒が言うているのも同じような事柄。

 仏陀の弟子ではなく、キリスト教の人も、仏陀・理法(真理)・僧伽と、信と善行との善心と清浄な心と、他、仏陀の教えにある善の念と善行を持てば、本当の悪魔に勝つことは可能。

 イエズスの教えだけであれば、かなり難しいだろう、と思う。


 悪しき者達・悪魔達が、妄想を多くの人々に抱かせて、脅かして邪悪業をさせているからね。


 ラジオの野球放送で、その野球場にいる者達のようなものだな。

 悪念の渦に巻き込まれて、妄想を抱かせられている人々。

 集団意識特有の、幼稚で自らで物事の分別もでき難くなる乏しい意識。

 その集団意識と自らの意識との同調。

 そして、邪悪業を造作する。



 知らない人にしてみれば、この話は非現実的な話のような話だが、現実として、あのように、ラジオの野球放送で、その野球場にいる者達のように、悪しき能力者や悪魔に導かれると、あのようになり、悪業を造作してしまう、という現実。


 聖者方の説く真理を、きちんと現実として受け止めて、悪の心があれば、きちんと心を改善して悪念を捨てなければ、悪しき能力者や悪魔に導かれている人は、正道・善趣・天界に行く道へと来ることは、難しいだろう。



 光の武具という話も、仏教でも聖書でも教えとして説かれている話。



 幸子さんは、渇愛を取するのが強いので、幸子さん自身も悪魔に導かれて気づかなくても、おかしくはない、ところにいる感じだけれども、幸子さんは愛欲の嫉妬の部分を除けば大丈夫な感じだろうか。

 私も、愛欲は受けるけれども、仏陀の弟子の在家としてあるので、悪魔に導かれても気づくことができる。



 まぁ、幸子さんの先見でも見ているように、幸子さんがテロは’ない’と主張しているように、テロ側の邪悪行の者達は、すでに悪魔の業を為している。という現実。

 仏陀の教えとして、真理としてすでに正道から外れている。


 最初、カラオケ『カラッといこう』♪で幸子さんは”大丈夫か”とも思うたが、内容を理解して聞くと目が善い。

 しかし、幸子さんの歌はいろいろ’善い’とは言えないところも多々あるからね。



 他の人も善信で聞くと、善く聞こえるだろうし、悪信で聞くと悪く聞こえもするだろう。

 幸子さんの歌は、善信を持ちて聞きましょう。


 愛欲で嫉妬心の部分などは、善信を持ちて聞いても、おそらく良くは聞こえ難いでしょうw



 幸子さんは危なっかしいけれども、善なる者としているだろう。

(以前と同様で、私に對しては、なぜか強気。)






H29年10月14日

 本日は、

 今日も、「蒲池幸子は、(私)が好きではない」と、たくさん笑われた。(能力者等が、霊の言葉を聞いて、言うている風な話で笑っている。本当に幸子さん本人が言うているかどうかは定かではない。さえもモノマネをしてウロチョロして、能力者を欺いているようなので。)

 はぁ~…、と、テンションが、上がるわけもなく。

(いままでの経験からすると、幸子さんの場合、私が野呂さんの事柄を考えたりすると、嫌いとか悪口を言う傾向にある。)


 幸子さんはね、「アキがいい」、とたくさん言うてはいるが、時おり、そうではなくて、「ヒロがいい」と入れているところがね、あるので、本当にどうしてあげたらいいのか、と思う。

 今日は、またしつこくさえのものまねか知らないが「あきがいい」、と言うので、CDを全部手放して渡そうか、というように言うたところ、泣いてそうはしないで、とか、邪悪行の者もバケてたらしく、困ったものだ。

 私は幸子さんでいい。
 幸子さんはアキでいい。
 では、幸子さんがそのように望むのであれば、そのとおりにしよう。
 そうすると、反対の意見が出てくる、と。

 歌でも、実は、「アキは好きではなくて、ひろがいい」と言うようにも聞こえる。ガンにされるとかなんとか、というのも聞こえる。

 幸子さんは、どうしてほしいのか、と思う。

 幸子さんの希望のとおりで、私はよろしい。


 グロリアスマインドで「おもいきりないから」、というのが、もしかしたら、私に對して興味がない、ということであれば、そのまま受けて良ろしい。

 あとで、CDをまた聞いてみよう。



 あと、TVを見たところ、テロの能力者が、どうやらクリシュナムルティさんを’力なし’と、決めつけているようなのが聞かれるが、私から見れば、おもちゃに魅せられている邪悪行の能力者よりもクリシュナムルティさんは、全然上の人であるし、また、蒲池幸子さんよりも、また、野呂さんよりも上界の人である、と思うている。

 話の次元が、壁越えの人と、壁の中のおもちゃに魅せられている者とのこの大きな違い。


 譬えば、色界の清浄な存在と、欲界の愛欲に執らわれている存在の差、ほどの異なり。


 話の清浄さでも理解はされる。


 あとは、神智学の人も、おもちゃで遊んでいないで、クリシュナムルティさんの話を知ると善いだろう。

 ゴータマ仏陀の教えを修学するのは、さらに善い。





 あ~、わかった。

 要するに、ZARDの歌・動画を見る他の人と、直接私にメッセージを送ってくる幸子さんがどれほどに私に對して、メッセージを送っているか、というのが、’他の人は全然わからない’、というこの受けの大きな違いから、「蒲池幸子は、(私)が好きではない」というのを簡単に言うているのだろうし、私も、どうしたものか、と困っている状態になっている、ということだ。

 その私個人に對するメッセージの強さのところ。

 結構多くの歌・動画で、私に悪口っぽくメッセージを送っていたり、「愛」だ、とか、私だけが気づくようなメッセージも送っている。というところ。

 そのようなところがほかの人は、まったくわからずに、単に悪口の部分のみを受けて笑っている、と。


 邪悪行の者達は、悪しき質で、悪い部分を取り笑い、善い部分を取り喜ぶことがない。

 多くの善行の者は、善き質で、悪い部分を取らず、過ちとして悔いている悪い部分が取れても笑わず、善い部分を取りともに喜ぶ。




 幸子さんの場合は、弟にメッセージを送っているが、これは弟にメッセージを送っているのだろう、というのが私にも伝わる。まぁ、わからない部分もあるかな。

 悪口の部分は、他の人にも、私・對馬弘へのメッセージである、というのは、誰にでも理解できるほどにハッキリとしている。


 と、いうことなのだよ。

 と、いうことで、やはり私、ということにもなるのだよね…。


『悲しいほど貴方が好き』♪など。






H29年10月15日

 本日は、

『今日はゆっくり話そう』♪ をオリジナルCDで初聞き。

『今日はゆっくり話そう』♪、『淡い雪がとけて』♪、『雨が降り出す前に』♪

 私に對してのメッセージにすごく聞こえる。

 カップリング曲の『淡い雪がとけて』♪では、私の前を通り抜けて行こうとしているところだ、と。

 兄が好き「(兄で)決定」らしい。

 だから、兄は結婚しているから却下だって。

 結婚している状態の者に對して、そのように言うのは、認められない、と。

 霊的な浮気も、結婚している人を(別れさせて)霊的な浮気に導くのも、善いわけがない。してはならない。



 あと、テロ側の者が私の「弟が仏陀になる」という主張を聞くが、弟が仏陀になるかどうかはわからない、と。

 後世の仏陀になるのであれば、仏陀に帰依して、その生存においても、理法を知り学ぶだろう。

 過去世の諸々の仏陀が、自ら菩薩として、仏陀のもとで出家して八聖道を修学・修習するように、その生存において、八聖道を修学・修習するだろう。

 私は、すでに眉間から光が入っているので、教えにあてはめると、その入光箇所でいえば来世においては、天上の存在となる。と思われる。

 次の生存においても、仏陀になることはない。

 まぁ、それはそうだろうが、善趣に帰る。


(身体の下半身の各所(股間など)から光が入ると、悪趣に生じるのが決定となる。箇所により悪趣のどこの境界かは異なる。

 邪悪な者が、自分に光が入ったのを股間としていたのを、脳天(など他の箇所)から光が入ったと書き換えた、というのを聞いたので、そのように自らを聖者として偽る者もいるようなので、騙されたりしないように注意するべし。




 幸子さんは、畜生系統のペットの犬と一緒にいる、と。

 犬への幸子さんの愛情だろう。


 幸子さんはペットとしての犬への愛情だが、そのようなのではなくて、畜生(霊)を師事しているような者は、そのような事柄の状態で、すでに八正道から外れている。

 

 師事するというのは、畜生霊系統を師事するような者の弟子になるようなことがあっては、その者自身が道を誤っているのが決定となる。

 しかし、私も昔、霊的能力を知ろうとしていた頃、能力を得てみようとして、危なく道を誤り畜生霊系統の者に師事しようとしたこともあり、まぁ、たとえ師事していたとしても、誤りに気付き外道から離れて、正道に戻り来ただろうが、そういうので、霊的な事柄を知らない状態の者が、霊的な能力に魅せられるという気持ちもわかる。

 しかし、正しい理法を知らないものは、比較検討もできずに、畜生霊であれば、畜生霊の道から抜けることも難しいだろう。

 私の場合は、仏陀の正法をすでに知り、仏陀に帰依をしたこともあり、正道から離れて外道の能力を知ろうとしていた状態にいたが、教えの異なり・目指すものの大きな違い、などを比較検討して、いくらか外道を知り見た後に、”(外道とは)このような感じか”と、ゴータマ仏陀の正道に戻り来ただろう、と思う。

 まぁ、しかし、霊的能力を知ろうとして、いろいろと霊的な事柄を調べていた若い頃に見ていた印象でも、畜生霊系統は怪しさでいっぱいだったな。

 畜生霊系統は、外道として堕ちる道だから、やはり怪しく見えるのが普通だろう。





『グロリアスマインド』♪ をオリジナルCDで再び聞き。

 これまた、愛情たっぷりに聞こえる。

 パソコンのモニターが壊れて、ノートPCのスピーカーで聞くと、音が良くて綺麗に聞こえる。

 ツイーターがあった方が聞きやすい。


 幸子さんは、優しいわ。



 笑ってしまったけれども、いや、野呂さんのことを言うているところは’優しい’というところではないよw。

 野呂さんが好き、ということではない(レズとかそういうのではない)、ということだ、と。



 おもいきりあえないから、か、逢う方法はないものか、と。

(「胃がんにする」というのも、「おもいきりないから♪」ということで言うている。)



「明日逢える」も聞こえるね。



「日本人××のせいで嫌われる」と言っているのかな。

「ヒロも嫌われる」


「××は嫌い」と。





 幸子さんは優しいから、私も幸子さんを本当に愛したいわ。

 仏陀の慈悲と、イエズスの言う愛と安らぎと、在家としての愛情の愛。

 仏陀の慈悲は以前と変わらず。



 しかし、テロ側の邪悪行の者達のせいで、10年程しても、日本人の多くが愚かな行いをしているので、日本人の多くが、もう、海外から”頭が悪い”とは、思われているだろう。


 日本人は、テロ側の邪悪行者は愚かだが、テロ側の邪悪行を良しとしない善行者も多くいます。



 あと、あれだな、私が’蒲池幸子さんにつかれている’と、思われているのかもしれないが、善霊につかれる場合は通常は守護霊と言う。

 守護してくれる存在。

 幸子さんの場合、自分に(私が幸子さんに)愛情を向けないと、怒って悪霊になりえるが、まぁ、基本は私や日本人や世界の多くの人の事柄を考えてくれている、と思うよ。

 私も、仏陀の弟子として当然、世界各国の多くの人々の善のために、また、後世の世界各国の多くの人々の善のために思念する。


 あと、テロ側がこちらを悪く言うのは、’本当に理法を恐れている’という者もいる、というのをまのあたり見た。

”本当に怖れているんだな”と思った。


 真理として、邪悪行の者の、仏陀の弟子を苦しめるという極めて重い悪業は、必ずその邪悪行の者に返り、その愚かな者はその極めて重い悪業の悪い報いを受ける。



 テロの邪悪行の者が笑って悪業を重ねられるのも、現在のその生存で終わる。

 邪悪なる者は、悪趣(地獄や畜生界など)に識が結生する。



 私たち善行の者が、笑って善行を重ねられるのは、現在の生存で終わらない。

 善趣においても、善行は行うことができる。

 善なる者は、善趣の欲界天(四大王天、三十三天(忉利天)、夜摩天、兜率天、楽変化天(化自在天)、他化自在天)や、色界や無色界に識が結生して、多くの楽を受ける。


 他の善趣の天人衆も、善行者で、善趣天界は善行者が集まっているので、心優しく、自らの心も安らぐ、と。


 邪悪行の者のように、いつも「殺せ」だとか「殺す」だとか言うているような、邪悪行の者が集まるのは、善趣天界ではなくて、悪趣の地獄や畜生界や餓鬼界に集まる。

 悪趣は、悪行者が集まり、心優しくなく、また、地獄では獄卒も優しくなく、自らの心が安らがない。





 邪悪行の者は、懺悔して反省し、同じ過ちを繰り返すことなく、急いで、善に向かうべし。



 邪悪なる者に、善行は成し難く、悪行は為し易い。

 善なる者に、悪行は為し難く、善行は成し易い。






H29年10月16日

 本日は、

 ホームページを、hi-hoのURLアドレスででも上げたが、サイトごと上げたところ、ラジオで教えの重要な部分が以前と変わって間違えている、というような事を言っていたので、本当だかどうだかは定かではないが、私も見直していないので、重要なところに間違った変化があれば、そこはハッカー等による悪意で為された間違いとなります。

 私が修正するときは、更訂したときに、日付も更新します。


 自分の日記は読み直すと、面白いけれども、読むと細かな部分に修正や追記をしたくなるのです。

 聖者と神々の對話での教えも、また読み直してみようと思う。



 あと、仏陀との三宝に帰依するのは、このHPによりて帰依するのが善いでしょう。

 テロ側のサイトで帰依した、として、このHPで帰依し直した、という話も聞いたので、道を誤っている人は、自ら正道に帰ってくるのは善いでしょう。

 テロ側のサイトで、仏陀に帰依する、というのは、そこではどのような教えが説かれているのか知らないが、テロ側の酷い悪行を見て一見して理解できるように、テロ側の者の多くは正道に’いない’。

 テロ側の者の多くは正道に’ない’。



 仏陀の弟子であったが、邪悪行によりて破門されたダイバダッタのような、邪悪なる者のもとで修習しても、ダイバダッタ自身も、そのような邪悪行者のもとにおいて修習する者も同じく、邪悪なる者も、邪悪なる者につき随う者も、正道におらず、邪道にいる。

 そのゆえに、その事柄によりて、善趣に識が結生するという道理もありません。






H29年10月17日

 本日は、

 いや~、しかし、悩むわ~。

 グロリアスマインドで、「届けダーリン、遠い明日野呂とはあえない♪」と聞こえる。

「ヒロへの愛♪」と聞こえる。

 野呂さんとあえるとか、あえない、というのは、私に言うているというので間違いないだろう。


 やっぱり私に言うてくれていると思うんだよね、

 しかし、幸子さんも言うているが、(テロでお尻の筋肉をとられたゆえの、)「×××はないから♪」というのも、酷い話だと思うよ。

 まぁ、私自身もたしかに”そこはないだろう”とは思うけれどもね。

 そもそも、テロの邪悪行者や幸子さんにも、馬鹿にされているけれども、私は、×××ではないからね。
 何か最近言われ慣れてる風になっているけれども。


 仏陀の弟子として、悪しき者から受けた障害なのです。


 テロ側の多くの者がそういうのを見て、馬鹿にしているが、人として大きく間違っていると思うよ。

 善法から言えば、人を馬鹿にしている悪行の者として、人の行いとして間違っている、と。


”自分は’ある’”と思うて勘違いをしている者、そのような人を馬鹿にしている悪行の者をいままでたくさん見てきたけれども、非難するべきではない人を非難している、という事柄においてすでに、邪見、邪思、邪語を為している。

 正道にいない。



 幸子さんにも馬鹿にされているところが多々あるけれども、幸子さんとしてはどういうように見えていたのだろうかな、と思う。

 昔は憎まれていて、年を経るごとに好意に変わっている、と。



 歌を聞いていたら、「ヒロが×××じゃないから♪」と聞こえた。


 やっぱり幸子さんはわかってるね。

 と、いうことは、他もそうではない、のか、と。


 ───


 ん、ということは、幸子さんの歌は愛情が強く込められている、ということになる、と。

 やっぱり優しいな。

 愛したい。一緒に居たいわ。



 幸子さんにホの字だわ。


 まぁ、この表現がオヤジっぽい、と。



 文通と電話で恋をした、みたいなことになっている、と。


 この気持ち・心持ちで行くと、’明日は逢える’ような感じらしい。





 ラジオで宇多田光さんの歌がかかっていたが、私が’幸子さんから愛情を受けている、というのは、勘違いをしている 'と、一応注意喚起をしてくれているのだろうかな。

 まぁ、そういこともありえるな、と。


 幸子さん本人に問うて見たところ、「××(犯罪者・詐欺士)はない」ような感じ。(私は犯罪者・詐欺士ではない。)


 宇多田光さんの歌は、野呂さんとの歌、という感じなんだよね。

 能力者のうちで、派閥とか勢力の異なりのようなのがあるのだろうか。



 宇多田さんは、幸子さんがどういうところまで細かく私にメッセージを送っているか、というのを知っているのだろうか。


 幸子さんと同じ仕草を宇多田さんもしていたが、あの仕草の意味は何なのか、と、時おり考えることがある。


 宇多田さんに関しては、動物の尻尾を着けた衣装の歌の動画を見て、”畜生霊に関係しているのかな”というようなのも考えたことがある。
 畜生霊を自分の上にすると、自分の赴く行先が、畜生道か、または、地獄のへの道か、という悪趣への選択肢にしかならなくなるので、畜生道は行ってはならないよ。

 その後に他で、「對馬がいい」というような事柄を言うている動画を見て、それが本心であれば問題ないかな、とも思い。


 聖者方もいる、こちらの’八正道’へ来るのが善い。


 自分に関して”歌われている”、というのに気づいたのは、宇多田さんの歌がたしか初めてだったと思う。



 現在は、自分に関して”歌われている”、というのが、”(昔の歌で)結構多くの人に歌われていた”というのに気付く。



 法


 それは、ゴータマ仏陀の説かれた教え、善法・真理。






 ───いろいろなところからクレームが聞こえる感じなので、カット────

 身体の構造に関しては、医学的な見地において、後にでも、記そうかな、とも思う。

 考え中。






H29年10月18日

 本日は、

 今日もテロの邪悪行者達が、「(私)がガンだ」と喜んでいたな。

 10年程の邪悪行・嫌がらせの達成か、否か、と。


 邪悪行の者達は、極めて重い悪業の報いを受けるだろう。


 テロの邪悪行の能力者が、私を犯人にしようと多くの一般市民にまで、妄想を抱かせ洗脳工作をしている。そのいつもの邪悪行・愚かな行いを見聞きしているが、真理として、私が邪悪行者とされることはあり得ない。

 そこのところは、間違いようのない事柄であり、もうすでに余裕であり、

 真理としても余裕。

 仏陀の弟子としても余裕。

(であるので、昔の日記を読んでいても、行が丸見えなので面白い。)



 邪悪行の者を見ていても、基礎の重要なところがもう悪業で成っていて、この後はもう、潜在的な真理への恐怖や聖者方の教えへの恐怖の上に乗って、現在の残りの生存を送っていくこととなるだろう。


 その邪悪行の者は、誰かと笑っていても、自らの心に虚しさが潜在的に宿っている、と。


 その潜在的な虚しさ消すべく、動くけれども、まぁ、動かずにはいられない心の潜在的な焦燥感を受けつつ、動くだろうけれども、邪道にいる状態なので、改善も難しい。


 現在のテロ側の邪悪行の者達は、もうそのような状態に入っている状態。


 真理を知りつつも、邪悪行を為した者は、あと数年、数十年という、わずかな時を経た後、悪業の報いとして、永く苦を受ける生存へと識が結生するに到る。


 また、潜在的な真理への恐怖や、聖者方の教えへの恐怖の上に乗っているので、動かずにはいられず、誰か敵を造り、自らが上位であるとして、そこで邪悪な心による一時の安心感を得ようとも為す。

 現在も、テロ側の者達が得ようと欲している潜在的な感受。


 その人よりも上位に立つと、”その人が説く理法は正しくはない”という錯覚をも成したい。


 遠回しの妄想と、その妄想から、仏陀の説く真理をも否定して、自らの行きつく先を、良いものであると思うていたい。悪趣・地獄とうい境界への自らの識が結生するとは思いたくはない。真理・理法を否定したい心。

 自ら安心へとすがりつきたい、という潜在的な心。


 そして、現在も邪悪行の者を見ていると、そのように同じく悪業を重ねた者同士が集合している。


 その集いにいることで、そこには”邪悪業の極めて悪い報いを信じたくはない”また、”悪業の極めて悪い報いはない”というような者が集まっているので、その集いのうちにあっては、一時の真理の無信仰・否定の心を共有する。


 しかし、真理はかわらずに、邪悪行の者は悪い報いを受けなければならない。

 真理や聖者方に反する悪業は、極めて重く、愚かな者に圧し掛かる。

 悪業は消えることなく、その悪業を造作した者に返る。



 邪悪行の者が集合した時にあった真理の無信仰・否定の心は、自らが独りとなった時に消え失せ、

 そして、その邪悪行の者達が、独りになった時、彼の邪悪なる者に潜在的な恐怖が顕れる。

 自らで為した悪業による報い。

 その潜在的な恐怖が彼らの心を駆り立てる。

 そしてまた、駆り立てられた彼ら邪悪行の者の心は、安心を求めて、再び邪道へと走り出す。





 仏陀や、阿羅伽(迦)の聖者方や、善なる存在の導きを失うと、善趣の道の存在や善趣の事物事象に依り所が得られ難くなり、悪趣の道の存在や事物事象を心の依り所とするしか選択肢が得難い。

 邪道のうちにいて、安心を求めるが、邪道で得られるものは、同じく邪悪な者や、邪悪な事物事象でしかない。

 また、邪道のうちにいて、心の依り所を欲して求めるが、真理に依る安らぎ・善法に依る安らぎは、邪道において得られることはできない。






H29年10月19日

 本日は、

 アルバム『Golden Best』♪を聞き、

(H29.9.12日に購入して、10.19日頃初聞き。

『アルバム『Golden Best』♪は、幸子さんの生前に発売されたアルバム。H06.10.25日にリリース』)


『ハートに火をつけて〔Golden Best〕』♪では、最後は、かなりいろいろなパターンで聞こえる。

 5パターン以上聞こえる。


 他の歌でもいろいろなパターンがあるが、私以外にもメッセージを送っているようだ、と。


 私を中心として、他の人にもメッセージを送っている、という感じかな。



『ハートに火をつけて』♪では、「人間を殺す気でいる」、「怖いよ~」、「悪の大王はミクロン」というように言うているな。

 他は、『運命のルーレット廻して〔Golden Best〕』♪など、

 まぁ、現在の魔王は悪魔として、仏陀や善なる存在の敵だが、

 弥勒仏陀の時は、魔王も仏陀の守護神としている、と。




 これから後に、’ゴータマ仏陀が、最上の天人師である’というのが、世界各国で正しく知られると、善なる存在がかなり増えるだろう。

 仏陀の教えに依りて、善趣へ赴く存在が確実に増える。


 例えば、キリスト教の人でも、イスラム教の人でも、仏陀の清浄な教えを合わせて学び自らで持つことにより、ものすごく自らの善心と、清浄心に利益となり、善趣(天界)に赴く存在の意識に近くなり、そして、さらなる上界へ行くことも可能となる。



 悪魔の頭領は微細であるから、仏陀の教えでしか勝つことはほぼできない、と。

 色界の梵天の衆生にも力がおよぶから、当然だろう。

 そのゆえに、

 悪魔の誘惑とは何か (真理の観察の障害) の

 この仏陀の教えが最上に有益となる。

 これは、空想や妄想ではなくて、真理・真実として、悪魔や悪霊等に對して有効な教えとなる。

 逆に、この仏陀の最上の教えを知らず意味を理解しなければ、悪魔に勝つことはできず、また、悪霊にすらも翻弄されてしまい、悪霊の言いなりのようにもなってしまう者もいるだろう。



 幸子さんの歌は、他の歌でも、いろいろな事柄を言うている。



 話の流れで関係ないけれども、面白いところで言えば、「鼻毛、超長い♪」とか、いろいろ言うている。

 いや、本当に言うている。



 あと、幸子さんの歌の場合もそうだけれども、すでに想念の世界に入った事柄を語っているわけで、想念の世界というのは、本物の悪魔の範疇でもあるので、そのような意味ででも、

 悪魔の誘惑とは何か (真理の観察の障害) の教えを知った上で、幸子さんの先見と、幸子さんの霊による話を見聞きすると良い。

 これは、悪魔にいろいろな想念の騙し、というのもされる世界だ、ということで、気をつけましょう、ということ。

 幸子さん自身も騙されていてもおかしくはない。



 悪魔に支配されると、譬えば、ラジオの野球放送の野球会場の悪行者達のように、多くの者が邪道へと堕ちる、と。

 ああいうのも、洗脳されて、悪しき存在に思念が支配された、その結果の愚行というようにも言える。

 妄想を解説しているのを聞いても理解できるように、妄想の中で邪道へと堕とされている。



 そして、その邪道へと堕ちた者は、昨日のように、

邪悪行の者が集合した時にあった真理の無信仰・否定の心は、自らが独りとなった時に消え失せ、

 そして、その邪悪行の者達が、独りになった時、彼の邪悪なる者に潜在的な恐怖が顕れる。

 自らで為した悪業による報い。

 その潜在的な恐怖が彼らの心を駆り立てる。

 そしてまた、駆り立てられた彼ら邪悪行の者の心は、安心を求めて、再び邪道へと走り出す』




 あと、幸子さんの左腕の骨折の想念だな、想念のは、幸子さんが自分でやっているものだろう、と思う。

 幸子さんが動画で、手をぱっと出す映像のとおり。



 あとは、野呂さんっぽい言葉も多いんだよな。

 二人は仲が良いんだか悪いんだか、どっちなのか。






H29年10月20日

 本日も、

 アルバム『Golden Best』♪を聞き、

 朝から笑ってしまったけれども、昔「×××」というのを友人に言うてしまったのを思いだしたが、それで気にしてたのかもしれないな。

『ハートに火をつけて』♪だったかで、その友人も名が上がっている。

 言い直したので、気にしなくていいよ。

 あとは、数年前に、’××’も「×××だ」と言うていたのを思い出して、悪業を厭うて言い直した、ことがある。



 あとは、今日は昔に私がされた’ストーカーの件’で騒いでいたが、幸子さんの歌によると、邪念はそのストーカー女性からも来ているらしい。


 以前にも記しているが、ハッキリさせるためにここに再び記そうか、と。

 そのストーカー女性とは、その女性が電話番号を他から聞いて私に電話をかけてきたところから、少しの期間だけ男女の関係となった。

 私のその頃の心情は以前の日記に記しているとおり。

 そして、そのストーカー女性が「子供ができた」と言うてきて、私からお金をとろうとしていたが、その後、その子供ができたという話も、そのストーカー女性が「噓だ」と、認めている。

 ストーカーの件は、相手の女性に誓約書を書かかせて、’もう私・對馬に近づかない’というような誓約書を、警察署で書かせて、ストーカー犯罪的に一応の解決はしている。

 その女性から手紙が何通も来たが、警察に渡している。そして、最後の手紙も読まずに警察に渡している。

 と、そのような感じ。

 その間の無言電話や陰湿な嫌がらせ等を受けたが、その事柄も警察に伝えている。



 そのように、無言電話や陰湿な嫌がらせ等を受けたが、その事柄があるまで実感としてなかったが、私は、「本当に世の中にそういう者もいるんだな」と、本当に驚いた。

 現在は、テロの犯罪者の心理も似たようなものだろう、と思うてもいる。



 そのストーカーの件も幸子さんは知っていて、もしかしたら、私のいろいろな周りの事情は、私自身の事柄だが、幸子さんの方が私よりも詳しいかも知れない。

 そんな気もする。

 と、いうか、歌を聞く限りでも詳しい様子。


 幸子さんにも昔から見られているが、ストーカーとしての認識ではないが、「’野呂と付き合ったら殺していい’、というような愛情表現は、ストーカーと同等か同等以上くらいに酷くないか」と、幸子さんに言うた。

 愛情を示してくれるのは嬉しいけれどもね。

 幸子さんから愛情を受けているというのは、私の勘違いだろうか、他人への愛情だろうか、と。


 アルバムの『星のかがやきよ〔Golden Best〕』♪では、3:33に「野呂に殺されるから、結婚しなくていい」というように聞こえるわ。

「不倫」ではなくて、「(結婚の)フリでいい」と、「だから胃がんにしなくていい」と。



 二人とも、私ではなくて、他の人が好きなのだろうか。

 この、私を好きなのだろうか。



 どちらにせよ、その強い愛情というか独占欲によりて、その、死に直結しているのは、何とかならないものなのだろうか。

 もし、これが私がその対象であった場合、どちらに行くにせよ、私は死に直結している、ということとなるのです。

 ハッキリ言うて、私としては、笑えないのです。

 どちらも重すぎる、と。


 もしこれが、勘違いであれば、死に直結しない、安穏なところを行きたい。と思う。



 アルバムの『夏を待つセイル(帆)のように〔Golden Best〕』♪では、4:21のところで、助言をくれている。



 幸子さんの歌では、ことごとく、「犯人は××だ」と言うている。(霊のさえの事柄ではない。)

 さきほども私にくっ憑いていたので、懲らしめといた。

 しつこいわ。

 ××は、力なし。





 アルバムの『マイフレンド〔Golden Best〕』♪では、「日本全国で、ヒロが嫌われているのは、××のせいだ」と、言うている。



 いや、しかし、日本全国で嫌われている、という事に、気づかなかった。

 しかし、これは、「日本全国の、邪道を行く者達に嫌われている」というのが、理法・道理に正しい。


 善なる者が、邪道を行く者(邪悪なる者)に嫌われる、というのは、教えに正しい。




「野呂に殺されるから、結婚しなくていい」というのは、野呂さんに殺されなければ結婚してもいい、ということか。

「アキオとフリでもいい」と聞こえるな。

 う~ん、





『今日はゆっくり話そう〔Golden Best〕』♪で、野呂さんから私にクレームが入っているな。

 う~ん、






H29年10月21日

 本日は

 歌に合わせて感情を起こされている。

 嫉妬心を起こさせるような、そのような感じなので、今日は静かな音楽を聞こう。

 と、思うて、PCのファイルを見たら、モニターが壊れて、ノートパソコンを使用中なので、音楽が入っていなかった。



 昨日のは、「フリでもいい」というのは、フリでいい、とかそういう問題ではないだろう。

 結婚のフリも別にいらないだろう。

 が、結婚のフリをした先見と、結婚のフリをしない先見の結果の違いはどのような違いかあるのか、というところだな。


「フリ」というのが、「不倫」というようにも聞こえたが、そうであれば、問題外なので、「アキオのもとから消え失せなさい」と、こうなる。

 双方ともに悪趣へ堕ちる、というのを容認するわけもない。



『今日はゆっくり話そう』♪で、野呂さんから私にクレームが入っていたが、他の歌でも、幸子さんの歌に野呂さんの声のようなのが結構たくさん入っているように聞こえる。


 そして、歌を聞きつつ、野呂さんの事柄を好く思うと、幸子さんの歌の中で、ちょうど幸子さんから悪口を言われる感じなんだよね。

 歌だけでなく、普段もそういう感じが多いな。






H29年10月22日

 本日は、

 その、野呂さんからの愛情なのか、当時の野呂さんについての愛情なのか、野呂さんについての愛情が気持ちが悪い、

「だからキモイ」と、言うている。


『ひとりが好き』♪という歌はあるけれども、ひとりになるのが、そうとう嫌なようで、「(ひとりにしたら)殺す」w、ぐらいに言うているな。



「ひとりが好き」というのは、例えば、聖者方で言う独りであれば、独りで正道を歩いて行かなければならない。という意味であれば正しい。

 仏陀の弟子の友と八正道を歩くのは善い。
 しかし、他の人に依存していると、道は見えなくなる、と。


 何故、道が見えなくなるのか。

 その依存している好きな人が居なくなったとき、あなたの心は寂しさと、また、先行き、道を進む行き方がわからなくなる、という不安からも、道が見えなくなる。

 その寂しさと、無明との、その恐怖(無明)で、すでに八聖道が見え難い。



 という意味で言えば、ひとりが好き、というのは、間違っていない。



(仏陀は、私の亡き後、「(仏陀の説かれた真理)法に依り、自らに依りなさい」と仰せられた。)





 しかし、幸子さんの優しい念がとても心地良い。



 最近上げているZARDの曲は、アルバム『Golden Best』♪の中の歌で、幸子さんの生前に発売されたアルバム。
 H06.10.25日にリリースで生前時において新しい。と、いうことで、幸子さんの最終的な認可とされる頃の歌。


 テロの集まりが「蒲池幸子は私・對馬が嫌いだ」等と、日々出鱈目を言うているが、最初の頃から私が言うているとおり、幸子さんの愛情が込められているだろうに。

 もしくは、私が勘違いするくらいに、愛情が込められているように聞こえるだろうに。



 最初の頃から言うている私の説が正しいことも証明されている、と。


 動画を見ても、逆に、”幸子さんの思いの念がすごい”よ、と、思う物もある。

 昔から見ている感が本当にすごいから。



 あと、蒲池家の血縁親族一同の方々に関して、

 こちらのメディアで「蒲池家が對馬(家)を嫌いだ」と、またまた騒いでいるが、私は蒲池家の人を幸子さんの他は知らず、会ったことも、話をしたこともないが、蒲池家を悪い性質の人々だとは思うていないし、善い性質の人々だろうとは思うている。

 仏陀と聖者方と他に祈念しているから、もし悪くても改善するだろう、とも思う。

 私はTVもほとんど見ないので、他にどのように騒いでいるか詳細は知らないが、蒲池家の幸子さんの血縁親族一同は、私・對馬を信用して、ゴータマ仏陀の八聖道をともに歩けますように。

 幸子さんは蒲池家を心配しているんだろう、と時おり思う。


 人生、あと数年、数十年を、光へと赴くように行きましょう。

 人生のこのわずかな期間を、憎悪や邪悪念で自らの心を穢れで満たして過ごしてはならない。


 あとは、幸子さんの歌を聞いても理解できるとおり、幸子さんから私にいろいろと言うてきているのも理解できるでしょう。

 私が幸子さんを束縛している、というような事柄もない、ということです。

(束縛に関して言えば、逆に、幸子さんに束縛されているのは私です。)


 要するに、テロの邪悪な能力者や邪悪行の者達が犯罪行為をするのに、次の言い訳として、私から幸子さんを助ける、というような愚かな言い訳も聞くが、
 幸子さんは、たまに怒りつつも、好意を持ちて私のところに来ている、というのも理解できるでしょう。

 また、私と仏陀の理法を助力するために来てくれている、と。





 明日からの予定のために、今日は、忍耐する。

 長く楽を受ける、そのために、今日は努力忍耐をする。


 現代の、こ人生は短い。平均75年程。(世界で見れば、日本は長命の方。)


 明日、善趣に識が結生したとき、天の境界にもよるが、天界での生存は長い。



 善趣に赴く人は、善趣に赴くのを知りつつも、明日のために善行を成すのです。

 悪趣に堕ちる人は、悪趣・地獄に堕ちるのを知りつつも、明日に行くのを信じずに悪行を為すのです。


 善趣に赴く人でも、悪趣に堕ちる人でも、必ず、今日の、この現在の生存は、死によりて、終わりをむかえるのです。



 仏陀や聖者方や、イエズスも、預言者も、使徒も、善行を成しなさい、と言う。

 私も当然同じく言う。

 そして、

 生存時においても、善道にいなければ、真理を覚とることはできないのです。



 幸子さんとのこれらの現象を見聞きしても、霊的な世界に入っているというのが理解できるだろう。

 私もまた、聖者方や、善なる神々や、イエズスとともに、真理の道にいる。






H29年10月23日

 本日は、

 テロの者達が、最近、「蒲池家に對馬を叩かせている」という話で、ラジオで洗脳工作をしている。

 蒲池家の方々は知らないけれども、幸子さんが助っ人で来てくれていることはほぼほぼ間違いないだろう。

 犯人は××だ、と何度も伝えているし。

 ××に関しては、私が空港にいた時の記憶を思い出しても、××はおかしな事情を知っていたし、犯人の仲間だろう。


 今日もまた、テロの者達が罵詈雑言を言って騒いでいたが、やはりテロの者達が依存しているその依りどころが、××という人物。

 決して聖者に依らない、また、聖者に依れない、と。

 そして、右往左往して、「蒲池幸子が私を嫌っている」という話にまた、戻り。



 そういう感じで、とりあえず、邪悪行の者達は、幸子さんと私・對馬の仲が悪い、という話にすがり付きたいらしい。

’さっちが私・對馬を嫌い、だとすると、私の来世は善趣ではない、かもしれない。ということころから、自分たちは、悪趣に堕ちない、という潜在的な心理もあるだろう。


 せめて、普通の善人に依れないんだろうかな。

 幸子さんも「犯人は××」、と何度も言うているのに、その犯人に依存するというこのテロの者達の愚かな行為。


 ワラにもすがりつきたい、という気持ち。

 う~ん、そういう気持ちもわからなくはない。


 そういう経験はしたことがあるわ。

 邪道に堕ちている邪悪行の者でいえば、もう後戻りができないので、愚かだと自覚していてもすがりつくしかない、というような心理。



 さきほどの、ラジオの野球放送 675ch 18:35頃からの愚悪な内容。

 まぁ、テロの者に言われなくても、普通に記すけれども、野球場の観客の罵声が一気に変化したところが聞こえる。

 間違いなく野球場の応援の罵詈雑言も、テロの邪悪行の者達の工作だというのがハッキリわかる。

 その後、トイレに行った話とか、完璧に良識も、常識も失っている放送。

 テロ側の者達の性質が極めて劣悪である、というのが、ラジオを聞いているだけで知られる。





 幸子さんの歌は、『グロリアス マインド』♪なんかも、100%間違いなく、私関連の事柄を幸子さんは言うている。

 パーセンテージで、100%。

 幸子さん、いつも’さっち’とか’さっちん’って呼んでいるけれども、呼び方は’さっちん’でいいらしいが、そのさっちは、間違いなく、私関連で歌を歌っているのです。


 そのさっちが病院で亡くなった後からだったかな、叩かれ始めたのは。

 その映像を空港(の職員だった頃)のTVで、見たのは覚えているんだよ。


 その時、叩きが始まっていなかったか。

 その後、か、その時は、幸子さんの事柄を全く知らないので、映像を見て、’ZARDに興味がない’っていう感じで思ってしまったかもしれない。そういうような記憶が残っている。

 たしか、その当時、霊的な探究の事柄でいっぱいで、真理以外に興味はない、という感じからのもの。


 というのを思い出すと、”俺って最低なことをしてしまったな…”と思う。

 その時の幸子さんの気持ちを思うと、タメ息が出るわ。


 グロリアスマインドなんて、100%私関連の歌だもの。

”本当に最低だったな”と思う。


 しかし、その当時、芸能人にもほぼ興味はなく、自分が歌われているなんてのも信じられない話で、自分自身も、自分が他人にいろいろと言われるようなたいそうな人だとも思っていない状態。

 あの頃は、煩悩が頭に浮かんで酷かったわ。”これは本当に私の思いなのか”というのを本気で思ったこともあったが、その頃すでに、他からの邪念・邪思の誘導があった、と。これは、後から気がついた。


 幸子さんのその事柄を思うと、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 しかし、どう考えても、’ZARDの坂井泉水が、私・對馬の事を思うている’というのに気付く、というのは不可能だっただろう、とも思い、

 普通の感覚で言えば、

「だって、ZARDの坂井泉水だよ」

「あの、ZARDの坂井泉水だよ」

 という、昔の私であればそうであっただろう、と思われる、このような感覚は伝わるだろうか。


 私の事柄を歌っているなんて、気づくわけがない。


 でも、当時であれば、そういう善い縁があったとしても、その頃の私の心情としては、私からその人と離れる、という気持ちだっただろう、とも思う。

 幸子さんだけにではなく、他の人も同様に。



 しかし、本当に気づけて良かったな、と思う。


 まぁ、しかし、さっちが私の事を本気で嫌いなのであれば、気付かない方が良かったな、とも思うw。






H29年10月24日

 本日は、

 昨日、 『愛を信じていたい』♪解読しよう。として、途中だった。

「はーっ」

「死んだら逢うこともない」

「夫婦言えー」「死んだら逢う」

「しないよ」「はーっ」


「無理結婚」

(不明の女性)「したい」

「はーっ」とか。

「危険ならみんな殺す」の意味が不明。



 そして、本日は、アルバム『Soffio di vento』の『かけがえのないもの』♪解読。

 この歌を聞くと、、幸子さんは、アキヒトという人が、好きなのではないのだろうか、と。思う。

 付き合っていると、ガンになるから、付き合えなかったのだろうか、とか。


 幸子さんのアキヒトという人への愛が込められている、のではないか、と。

 要するに、、このアキヒトという人への愛を、私が勘違いして、横取りでもないけど、私への愛だろう、と思うたところ、幸子さんが怒っている、という図。

 で考えると、全体的に辻褄があっているだろうか、と。


 そして、歌で言うと、野呂さんが怒って戦争になる、と。(これは、野呂さんの念が強いから言うているのだろうか、とは思う。)

 戦争させようとするのは、悪行なのでそのような悪業となることはしてはならない。


 アキヒトという人は、これでいい気になる、と。

 調子に乗る・おごりはよろしくない。


「ヒロの法がいい」というのも聞こえなくはない。


「ふ、と、ひとりきりがよぎる」

 うん、たしかに、そういう事柄であれば、CDを捨てるのも、誰かにあげるのもよろしくないようなので、ひとつにまとめて封印しておこうかな、とも思うてもいる。

 それはなぜか、

 だから、その愛情を私が勘違いしたことによる、幸子さんの怒りによる胃がんにする、とか何とかでいろいろと言われていた、とすると、私はその過ちを止めて、離れるべきだ、と。


 私からすると、「であれば、幸子さんは何で私のところに出てきたんだ」と言いたいけれども、

 出てこなければ、こっちも勘違いすることもなく通り過ぎただろう、と。


 そもそも、坂井泉水をほとんど全く知らなかったのだから。

 そこのところがね、意味わからないんだよな。


 勝手に登場して、そして、私が勘違いして、というか、私を勘違いさせて、胃がんにする、とか言われてだよ、

 束縛を受けて、まったく酷い話だ。

 さらに、歌に野呂さんまで登場させてだよ、私を勘違いさせて、いや、本当に酷い話だ。とも思う。



 だから、要するに、そのアキヒトという人への幸子さんの愛情がこの事柄により、おそらくそのアキヒトという人にも幸子さんの愛情が伝わるだろうから、幸子さんの無念は解消される、ということで、一件落着、ということでよろしいのかな、と。



 痛いわー。

 どちらかわからない。



 結局、いまだに幸子さんがどうしてほしいのかわからない。



 先日の、

『アルバムの『星のかがやきよ〔Golden Best〕』♪では、3:33に「野呂に殺されるから、結婚しなくていい」というように聞こえるわ。「不倫」ではなくて、「(結婚の)フリでいい」と、「だから胃がんにしなくていい」と。』

『「野呂に殺されるから、結婚しなくていい」というのは、野呂さんに殺されなければ結婚してもいい、ということか。
「アキオとフリでもいい」と聞こえるな。』

 というのは、アキオではなくて、アキヒトかもしれないな、と。



 しかし、自分の愛する対象の人を勘違いされるのが嫌で、10年後くらいにわざわざ出てくるかな。

 理法の出助けは結構してもらっているけれども。

 そもそも、勘違いさせる歌を歌っているのは、幸子さんだからね。


 野呂さんが私の名前を言うている声とかも、完璧に私を對象としている、と。

 という歌も、あるので、勘違いをさせているのは幸子さんなのです。


 私はまったく悪くはない。


 一体どういうつもりなんだ、と思う。


 昔の動画を見れば、まさに編集でどうこうできるレベルじゃないところでも幸子さんに驚かされるし。


 これは、アキヒトという人に対するものであって、だとすると、ひとりにしたら殺す的なのも、そのアキヒトという人への思いであるだろうから、私は幸子さんから離れて良い、ということにもなるのかな、と。

 すべてを、そのもともとのアキヒトという人へ乗せて、私は離れる、と。

 このような図で行けば、正解なのだろうか、と。


 すると、幸子さんの怒りも治まるのか、と。



 他の人は、この幸子さんの事柄について、幸子さんはもう亡くなっているのに、私が、そういうような妄想をいつも考えている、と思うかもしれないが、現実として、現在でも、実際にいろいろなところからの、霊的な、また、念の、善い影響や悪い影響を現実として、直に受けるので、こちらも真剣に考えているのです。


 私自身、後に、善趣・天の境界へ赴く可能性がとても大きいので、赴く先についての私自身の心配もなく。

 私自身の事柄も考えるが、私自身よりも幸子さんがどうしてほしいのか、というのを思う。






H29年10月25日

 本日は、

 幸子さんがアキヒトという人を好きだ、という思いで、いろいろと騙されていた、としても、私はアキヒトという人への憎しみとか憎悪というものは、まったくないので、そういうところも勘違いなしないように。

 いや~、かえって良かったとも思う。

 これがあっているならば、これで、幸子さんの無念も晴れるだろう、と。



「野呂に胃がんにされるから、」というのは、そのアキヒトという人が胃がんにされるから、ということかな。

 とりあえず、野呂さんは、本当に私よりも怖いらしい。


 野呂さんの家に行って、門善払いをされたときかな。冬夜空を見ながら、野呂さんからの気配がかなり”ヤバイな”とは思うたが(普通の感じではなくて、かなり危険な感じの気配だったが)、その件以外は、野呂さんが危険だという感じはまったく知らないな。

 裏事情は、どうだかは知らないが、実際、親しかったときも、優しかったな。

 野呂さんは一体何者なのだろうか。

 歌で言えば、野呂さんは、私のために怒る、らしい。

 ので、そこで言うけれども、実際はどうだかは知らないが、野呂さんも怒らなくてもいいよ、本当に。


 私のために、悪業を造作するのを、私はまったく喜ばない。

 かえって、私のためというのであれば、善業を造作してほしい。



 仏陀も菩薩の時に、「私のために、誰も苦を受けることがないように」というような事柄を言うている。

 この仏陀の心だよ。

 この清浄な優しさ。

 この仏陀の心が最上に心地良い。



 しかし、幸子さんからも優しい心地よさを受けていたんだけれども、一体どうなのだろうか、と。



 他の歌も聞くと、また「ヒロがいい」、「ツシマがいい」、という言葉も拾うから、今日は、あまり聞かない方がいいかな、ともちょっと思い。


 だから、これは
『「野呂に殺されるから、結婚しなくていい」というのは、アキヒトという人が殺されるから、結婚しなくていい、というのをアキヒトという人に伝えているのか、と。

 そういうようにも考えが結びつく。


 と、いうようなことで、これらの話で、野呂さんも狙われてしまうらしいのは、よろしいわけもないので、

 愚かな者達は、野呂さんに危害を加えて、野呂さんを怒らせないようにしましょう。

 無知な者達は、野呂さんを亡き者にしようというような安易な考えをするかもしれないが、野呂さんが亡くなった後の、強力な憎悪の念で大変な事柄になるかもしれないので、そっとしておいてあげましょう

 と、いう感じで野呂さんは好いのだろうか、と。

 これは、幸子さんも野呂さんをかなり恐れている、というので、野呂さんの念はやはりかなり強力なのだろう、と思う。

 野呂さんは宇多田さんの歌にも、他の歌にも出てきているので、とりあえず、何かしらの重要な人物なのだろう、と思われる。


 私と親しくなる能力者の女性は、自分の事柄を何故か、’姫’だとか、’女王’だとか言う。

 野呂さんが能力者だとは気づかなかったが、野呂さんも言うていた。


 天ぷらコがあるかどうか、という問いで、最後あたりは切らしていたが、天ぷらは美味しかったが、天ぷらだけでは、悪魔と表裏一体のようなもので、それだけでは、真の幸福は得られない。

 野呂さんも、世の善なる人々も、真に天を益するために、必要なのは、仏陀の明知が必要。


 明知なく、無明によりて天を益しようとしても、悪魔の範疇にありて、なんだったら、行きつく先は、畜生種が望む利益とも同様となる。

 畜生種は、決して覚とりを得ることはない。



 真理を見る人と、無明のうちの利益を見る人との違い。


 幸子さんも、無明のうちの渇愛を執りて、自らの愛欲に適わない人は、「殺していい」とまで言うてしまうほどに、そういうところは、目があまりよろしくはない。

 自らの渇愛・愛欲に適うのであれば、「殺さなくていい」と言う。

 これらは、まさに無明によるもの。


 しかし、他の人の事柄を思うて、「殺さなくていい」と言うているのもある、と。


 幸子さんの場合は、微妙なところもあるけれども、まぁ、そういう処だね。



 それでも、幸子さんのおかげで、畜生、地獄に赴くような邪悪行の者に対する毎度おなじみの初歩の初歩の説教から、天部の者に對する教えを説くことができるようになって、私としても善かった。(仏陀の教えを理解できうる境界の人がいて善かった。)


 悪行の者に、何度教えを説いても、匙は味を知ることはない、というのは、教えのとおりだった。


 そういうようなのも、幸子さんのおかげだな。





 と、いうように、

 幸子さんの歌を、アキヒトと言う人への愛情だ、として聞くとまた違って聞こえる、と。



 幸子さんの場合はね、自分の我・他への愛欲が強い分、余計に重いんだと思う。

 私の場合は、もしかしたら、自分の我・他への愛欲があまり無い分、愛情が感じられない、と受け取られるのかもしれないな。

 私の場合、私の事柄は置いといて、他の人が幸せになったらいいな、というのもあるな。



 だから、幸子さんが、明日、強く慕うているその對象の人と、結ばれればいいな、と思い。

 この思考に我・自分は入っていない。


 ただし、真理の道を言うてはおらず、明日の幸子さんの笑顔・楽を思うて言うている。

 明日の私自身の笑顔・楽を思うて言うているのでもない。



 という、「真理の道を言うてはおらず」、というところで言えば、導きにかなり問題がある。


 問題、というので言えば、この話自体も、現在、アキヒトと言う人が所帯を持っていれば問題があるか。


 また、もしかしたら、アキヒトではなくて、アキ何とか、という人かもしれない。

 とりあえず、アキという人だろう。



 と、いうように、今日も似たような事柄をいろいろと考えてみたりもする。


 何だかんだで、こういう謎解きで結構楽しみも感じたりする。



 私が思うている事柄をスラスラと記しているだけで、日記は長くなるのであった、と。



 しかし、歌でもそうだけれども、幸子さんから、野呂さんに負けたくない、というようなのが強く感じられるんだよね。

 ライバル心を燃やしているというか、野呂よりも良ければいい、というような比較の心。


 二人の間に一体何があるのだろうか。

 私への嫉妬心か、とも思うたが、勘違いであれば、そこに一体何があるのだろうか、と。


 野呂さんは野呂さんで、他の人を思い、他の人のために怒りもする、と。

 幸子さんはその思いを怖れているのだろうか、と。






H29年10月26日

 本日は、

 アルバム『〔Soffio di vento〕かけがえのないもの』♪ で「仏陀になる」と聞こえなくもない。

「ロング ロング ロングタイム♪」と。



 私たちの現在のこの時代のゴータマ仏陀・世尊は、燃灯仏陀の時代から仏陀になるまでに、四阿僧祇(4掛10の140乗)と十万劫の時を経て、仏陀になられている、とされる。


(辟支伽仏陀の覚とりは、二阿僧祇(2掛10の140乗)と十万劫の時を経て、(それだけの時を要して)辟支伽仏陀と成られる、とされる。
 第一弟子の覚とりは、サーリプッタ尊者と、マハーモッガラーナ尊者とは、一阿僧祇(1掛10の140乗)と十万劫の時を経て、(それだけの時を要して)阿羅迦と成られた、とされる。

 八〇の大声聞の覚とりは、マハーカッサパ尊者やアーナンダ尊者などの八〇の聖者の方々は、十万劫の時を経て、(それだけの時を要して)阿羅迦と成られた、とされる。)


 釈尊が燃灯仏陀に「あなたは(いついつの時に)、仏陀になるだろう」との記別を受けてから、二十四代目の仏陀である。


 と、いうように仏陀になるまではとても、ロング ロング ロングなタイムが必要。


 仏陀は、過去に大梵天にもなられている、と。

 世界の破壊の後の、最初の存在としての大梵天。


 次の仏陀になられるのは、メッテイヤ仏陀。

 メッテイヤ仏陀から二十数代目の仏陀を経て、’仏陀になる’としても、かなりなロングタイムだな。



 最後あたりで、「決定でいい」♪というように聞こえる。



 對象が私であれば、いろいろと辻褄は合うな。

 そういうように考えると、小さいころから、能力者たちから見られている、というのも、理解できる。

 悪魔達から狙われているというのも理解できる。

 騒ぎがこじんまりしていないで、大勢で騒いでいるというのも理解できるわ。

 知らない頃から歌われている、というのも理解できるな。


 とすると、以前に、「マハーカッサパ尊者が、私・對馬に付いている」と、騒いでいたことがあったが、もしかしたら、本当にに、マハーカッサパ尊者が、その時、付いていてくださったのかもしれないな。

 たしかに、その時、マハーカッサパ尊者を念じたけれども。

 十大声聞の阿羅迦の聖者が付いていてくださる、というのは、とても最上にすごい事柄である、と。



 と、いろいろと想いがめぐるのであった、と。





「ハゲ、××」♪と言うているわ。

 ×××が好き、と。


 ××という者が、性同一性障害を克服して直して、他の人をも直し、一切の悪行(犯罪・詐欺、他)を止めて、過ちを懺悔して、悪行も、悪心・邪念を抱く事柄をも、もう繰り返すことなく、すべての邪悪を捨てて離れるならば、’ない’ことはない。

 邪悪行の者でも、アングリマーラ尊者のように、仏陀によりて、邪悪を捨てて仏陀の弟子に成った聖者もいるし、
 邪悪行の者でも、ダイバダッタのように、仏陀に帰依して仏陀の弟子となった者でも、仏陀の弟子僧を破門されて、大地獄に堕ちた者もいる。

 
 ちょうど、『見つめていたいね』♪の歌で、「××が天人だと勘違いされる」というように聞こえた。

 そのように、邪悪行の者でも、善に向かえる者もいるし、向かえない者もいる。



 真理を見聞きして、’業の報いは、その業を為した者に返る’という真理を知った後に、また、さらに、’仏陀の弟子に対しての悪業の報いは極めて悪い’という、その悪行の結果で、極めて悪い報いを受ける、と知りつつも、悪行を為した者の、その報いは極めて悪い。



 真理を見聞きして、’業の報いは、その業を成した者に返る’という真理を知った後に、また、さらに、’仏陀の弟子に対しての善業の報いは極めて善い’という、その善行の結果で、極めて善い報いを受ける、と知りつつも、善行を成した者の、その報いは極めて善い。






H29年10月27日

 本日は、

 幸子さんが、とても怒っている。

 しかし、幸子さんとさえからの非難がすごい。

 非難というか、嫌がらせというか、幸子さんも十分悪霊のような事柄をしている、と、言えばまた怒るだろうけれども。


 怒っているのは、そのアキヒトという人への思いを横取りのような事柄になっているからなのか、それとも、アキヒトという人ではなくて、他の人が好きだからなのか。
 アキヒトという人ではなくて、神田樹希さんの事柄を言うてほしいのだろうか。
 私・對馬が好きだと伝えているのに、他を見ようとするからなのか。

 悪霊だと思われるのが嫌だからなのか。

 でも、さえと一緒に悪行をしているのは、悪霊と言われてもしょうがないだろう。


 というか、幸子さんもそのくらい自分で理解できるだろう、と。


 幸子さんが空回りをしている状態なんではないのか、と。


 今日は、本当にかなり怒っていたけれども、私は幸子さんがどこで怒っているのか、本当にわからない。

 だから「どうしたいのか」と言うているのに、悪い感じのを私のせいにしようとする。


 ハッキリ言って、幸子さんも十分に悪い。

 例えば、幸子さんはエロいのは、私・對馬だ、と言いたいようだが、私がエロいとするならば、幸子さんも十分にエロい。


 そういうような面でも、何でも私・對馬だけが悪い、というように言うのが、納得いかない。



 しかし、怒りポイントがわからない。


 が、聞いてみたところ、私が他を見ようとするから(の類)、らしい。


 どうだかな、

 他を見ようとする、というか、他を見せようとするのは、幸子さんだろう。


 納得いかないなー。






H29年10月28日

 本日は、

 幸子さんが、怒っていない。

 さっちのご機嫌によりて、メディアが騒ぐのであった、と。(幸子さんが騒がせているのではなくて、邪悪行の能力者があいまいに、そして、デタラメに思念を読んで伝えてメディアを騒がせている、という意味。)



 本日は、幸子さんとの縁というのを考えてみようかな、と。

 幸子さんと、現実として、私は会うた記憶はない。

 このような縁は、強い縁と成り得るのだろうか、

 というところ。


 例えば、現生の私は、ゴータマ仏陀・世尊にお会いしたことがない。

 仏陀・世尊は、私が出生する遥かは以前に、すでに般涅槃されている。

 では、私と世尊との縁というものは、弱い縁なのであろうか、と。


 私は、仏陀に帰依して、法に帰依して、僧伽に帰依している。

 この仏陀との三宝に帰依する、という最上の縁によりて、私は死後に善趣に赴く縁ともなり、輪廻の後の生存においても、また、善行を成して善趣に赴く縁ともなる。

 仏陀との三宝に帰依する、というのは、これほどに最上の善の縁である。


 果たして、この縁は弱い繋がりの縁なのであろうか。

 強い繋がりの縁なのであろうか。


 答えは、現世のだけの縁を越え、輪廻を越えた強い繋がりの縁と成るのである。


 そう、このように、現生において、私が、ゴータマ仏陀・世尊にお会いしていなくとも、三宝と、その仏陀の教えによりて、最上に強い繋がりの縁は成るのである。

 この縁によりて、メッテイヤ(弥勒)仏陀の時に、メッテイヤ仏陀は、そのような縁のある者も私のもとに来なさい、とも為す。


 と、いうように、仏陀との三宝に帰依を成す、という善縁は、輪廻においても、最上の幸せな道への入り口とも成るのである。



 仏陀と法と僧伽に帰依することについて(三宝への帰依)






 そして、幸子さんとの話に戻り、幸子さんと私は、直接逢うたことはない(私から逢うた記憶はない)が、幸子さんとこのように普通ではありえない形において、会話をする、また、電話をする、というような、縁が生じている。

 逢うたこともない人、幸子さんとのこのような縁は、強い縁と成り得るのだろうか。

 仏陀に帰依を成すという善縁が、輪廻の後世においても、強く最上の善縁を生じるように、幸子さんと私が逢うたことがなくとも、後生の縁に強く影響を及ぼすことはあるのである、と。






H29年10月29日

 本日は、

アルバム『Soffio di vento』『かけがえのないもの』♪ 2:54~


「××が犯人だってだれでもわかる」かな。

「かわいがるから戦争になる」と言っているのかな。


「していい」「していい」というのは、野呂さんかな。

 野呂さんはべつにどうでもいい、という気持ちらしい。


 野呂さんは、そういう感じだろうな、とは思う。


 野呂さんであれば、自分に関係ないことや、邪悪行者などの頭のおかしい連中はどうでもいい、という感じだろうな。

 私は、野呂さんも善を推す人だろうと思うている。


 しかし、歌で野呂さんの事柄が登場して、胃がんにするのは、野呂さんらしい事柄も言うているんだよね。

 他は、野呂さんとの関係での、野呂さんの機嫌の好い時の声のときに、幸子さんは(私に)腹立てているような傾向。


 というか、そこも私は関係あるのか、という私の感じだな。





 念の動き。

 辟支伽仏陀が世に出現されれば、その時世は幸福となる。

 というのと同様に、

 仏陀が出現されれば、世は幸福となる。

 ゴータマ仏陀は、末永い世の多くの存在の幸福を考えてくださっているので、仏陀の法も永く残り、世は幸福と成っていく。


 仏陀という最上の強い善の念の方が、ひとり出現されるだけで、世(三界)の存在は、末永い幸福が得られるようになる。


 と、いうように、ひとりだけの念、というものだけでも、世を大きく動かすだけの力はある。


 幸子さんが、このようにしてしまえば、戦争になる、というような話も、現実として、あり得る話だ、と。


 私が邪悪行者達から攻撃されつつも、仏陀の教えを説き続けた。

 その結果、世の多くの衆生は、仏陀という覚者が最上の善なる存在である、という事柄に気付く。

 これから後、能力者の間でも、仏陀は、覚者・最上の存在・世尊として敬われていくだろう。


 私ひとりだけの念でも、このように多くの存在を、正しく善法と真理に導くことはできた。


 イエズスも使命を持ちて、世に来て、天の教えを説く。

 私も仏陀の弟子として、世において、八聖道・真理を説く。


 そして、後の世において、この善縁のある存在を、メッテイヤ仏陀が覚とりへと導く。



 このように、間違いなく、私も聖者方の側の存在として含まれている。

 これは、最上に善い縁だ。


 でも、そうであれば、普通、”しょうがない”というような感じか、積極的な心で、自分からこの世に来ている、と思われるが、そういうい記憶はない。が、

 とすれば、私に光が来たのも、偶然ではないだろう。と思う。






 明知のない能力者達が、昔の私を殺そうとしていたところに、野呂さんが私と親しくなって、私を見てみたところ、善人なので”殺すな”と言うのを、他の能力者がその意見を聞いた、が、野呂さんと私が離れてから、私を殺そうと為した。

 そのように邪悪行を為したのが、無知なる邪悪行の者達。というような流れもあるらしい。


 野呂さんは、私と離れる前にメールアドレスがSOSとなっていたので、誰かに狙われていたのかもしれない。

 そのアドレスを見て、SOSなんて普通のアドレスではないので、そのアドレスを見たときは、”私への当てつけか”、と、ちょっと思った。
 冗談なのか、もしくは、他の人にSOSを求めるほどに私が嫌いなのだろうか、と。

(ちなみに、私は野呂さんに暴力を振るったことも一度もないし、口ゲンカというのも、1回しただろうかな、という位。
 また、暴力を振るわれたことも一度もない。)

 アドレスが変わる前に疎遠となり、また、親しくなり、変わっていて気づいたアドレス。

 その頃は、テロとかそういうのは全く知りもしない、TVやメディアも普通だと思うている頃で、”野呂さんの交友関係も、悪い奴らがいるわけでもないだろうに。ということは、私へのあてつけか”と。そのようにちょっと思った。

 あの頃は、裏で目をつけられていろいろと見られていたなんて、全く気づかず。

’見られている’というのを知っていたならば、もう少し、いろいろとカッコよく決めていたかもしれないのに。

 まぁ、あんまり変わらなかったかもしれないが。

(ニワと一門と高畑を知ってからも、野呂さんに会うたが、SOSはその後だったかな。
 畜生霊の九尾だとかの話は野呂さんにしていない。テロの騒ぎに気付いてから伝えた。)



 しかし、野呂さんと疎遠となった後の、あの煩悩に悩まされている頃の私を見たならば、そのような盲目で愚かなる者達の短絡的な見方をしてしまうのも、理解はできなくもないが、

 愚かな者というのは、そのように短絡的な見方・無知と自らの驕りと傲慢とによりて、自ら悪業を造作して、その報いとして悪趣へと赴く。




 その、能力者の集まりのМ。

 動画で奈良さんが言うていた、Мというのは、このМなのか、と。

 メーソンのМか。


 だとすると、私は仏陀の弟子として、邪悪行の能力者と親しんではならないので、その無知なる邪悪行の能力者の集いとは異なるメーソンとなる。


 ゴータマ仏陀・釈尊・世尊の弟子としてのメーソン。

 Buddhistのメーソン。

 ゴータマ(仏陀)のメーソン。だな。



 仏陀の教えにあるように、邪悪行の能力者(のメーソン)と親しんではならない、と。


 しかし、同じメーソンという呼び方にされるのも、やはり間違っている呼び方だろう。

 邪悪行の能力者達で言えば、地獄や畜生に赴くような愚かな能力者すらもメーソンとしているところが、同じくされると仏陀や聖者方に失礼になる。


 М、

 幸子さんが「私を助けてほしい」というところでは、その能力者の中に何かしらの束縛があり自由がないのだろうか、と。

 幸子さんの場合は、強く渇愛を執しているところを見たならば、もともと、真理においても自由を得られることはできないが、そういうのとは別で、能力者の間で、束縛があるのだろうか、と。

 邪悪行の能力者のように、悪魔の束縛から抜けられないような事柄をいうているのだろうか、と。


 まぁ、邪悪行の能力者を見ていても、邪悪行の能力者達は抜けられるわけがない。どう見ても。

 見ていても、段々と、また、急激に邪道に深く深く堕ちて行っているのが見られる。


 仏陀や聖者側にいる私から見ても、彼らは盲目にして、こちらの善なる道に来ないで、逆に進んで行って邪道へと堕ちて行っている。

 こちらから見ると、彼らがハッキリと見えているが、彼ら邪悪行の者からは、こちらの仏陀や聖者側が見えない。


 仏陀や聖者側にいる私たちは、真理よりて自由になるが、邪悪行の者達は真理を怖れて、自由になれることもなく、悪魔の束縛から抜けられることもない。



 数年、数十年間を悪魔と戦い、真理の道を行き、末永く善趣の流れへと入るのと、

 数年、数十年間を悪魔に誘導されて快楽を追及して、邪道を行き、そして、悪業を重ねて、永く苦の生存を受ける輪廻の流れへと入るのとでは、

 結果として、どちらが幸福と言えるだろうか。



 答えは、善趣の流れに入るのを幸福と言い、幸福・幸せへの道という。



 数年、数十年間というのは、50年間で言えば、日にすると、365日×50年間で、1万8250日しかない。

(80年間で言うても、日にすると、365日×80年間で、2万9200日しかない。)

 50年後、あなたはこの世に生きているでしょうか。

 人生は短い。



 天の最下層の四天王天の寿命は、寿命五百年で、人界の九百万年に相当し、日にすると、365日×900万年間で、32億8500万日となる。

 それでも、四天王天の寿命は、他の上の天の境界に比べると、短い。



 多くの楽を受ける自分の意識の生存。


 天の境界での生存とは、

 譬えば、多くの楽を受けている自分を想像してみるとする。

 すると、その想像の中で、多くの楽を受けて思いきり喜んでいる自分がいる、とする。

 そのように、多くの強く快い楽を受けている自分の意識が、現在の現生で考えられる楽よりも、さらに、比べものにならないほどに、好ましくて好い楽を受け続けているような境界での自分の生存をいう。


 そこでの生存では、不浄の集まりである肉体はまとっておらず、

 血や、汗や、小便や、大便もない。






H29年10月30日

 本日は、

 昨日のように、幸子さんが「私を助けてほしい」と歌にして言うている。

 と、いうことで、私は幸子さんを助ける側として行きます、と。


 現在も聞こえたが、そういえば、最近幸子さんの声が聞こえる事も多い。


 助けると言うても、仏陀・世尊の側に来ている事自体、邪悪行をして外れなければもう救われているだろうが、

 幸子さんの場合、’感受は苦である’という真理を観ることだろう。


 慈悲と愛情の異なり。

 幸子さんは愛情がとても強い。

 優しさが心地よい。


 聖者方の慈悲は最上の上方の心にある。

 それは、全き安らぎへと向かわせる。






H29年10月31日

 本日は、

 帰依をするにあたり、ここのHPではなく、邪悪行をしている他の者のところで帰依をしてしまった、という声を聞くので、記しておこうか、と。

 仏陀に帰依を為しても、コーカーリカのような、出家者ですら、自らで邪悪心を起こして大地獄へ生じた者もいる。

 コーカーリカのような修行僧のもとで共に修業をしても、覚とりを得ることはできない。

 これは、コーカーリカのような修行僧から、仏陀の教えを聞き学んでも、覚とりを得ることはできない。ということ。

 何故ならば、修行僧のそのコーカーリカ自身が大地獄へ堕ちているのだから。



 修行僧コーカーリカも、仏陀から直接教えを聞いていたのに、邪悪心を起こして大地獄へと堕ちたのです。

 ということは、、邪悪行をし続けている者から真理の教えを聞いても、覚とりどころか、善趣すらも怪しい。


 仏陀の三宝と縁が結ばれるのは、最上に幸せな事柄ではあるが、教えを聞くのも、帰依を成すのも、善く気を付けて、邪悪なる者を厭い離れて、善なる人に親しみ、善の道を共に行きましょう。



 そして、

 仏教では、出家者が還俗する、ということが可能であり、新興宗教や怪しい団体のように、一度入会したならば、もう脱会できない、というようなネズミ講のような、束縛はあり得ません。


 仏教の出家僧の還俗しようとする僧は、捨戒(式)をすることにより、還俗します。

 仏陀との三宝を信仰し続けたい人は、出家者から還俗して、在家信者となることもできる。



 帰依について

「」






H29年11月1日

 本日は、

 邪悪行の者は救われない、と。

 マハーカッサパ尊者、想起による感じ。


 マハーカッサパ尊者は、三界の最上の境界に坐す。


 聖者方は、禅定によりて、安らぎの境界に遊ぶ、と言う表現をするが、以前に記している遊ぶという意味とは異なる。



 テロ側の能力者は、邪悪行の者達と縁が繋がってメディアで騒いでいるので、内情も知れる。

 私の周囲で、嫌がらせを言わせている邪悪行の者も、赴く先は、善趣はとても遠く難しく、悪趣は近い。


 テロ側の悪しき者・存在が、殺人の関連の話を、笑って話しているその心を見れば、邪見から邪念まで生じているというのも容易に理解できるだろう。

 すでに、邪道にいる、というのも、一見するだけでも理解できる。



 すでに、聖者側からとても遠い。





 今日も、メディアで蒲池幸子さんが、悪霊のごとくに言われて騒いでいたが、私を信じている能力者などは、幸子さんを攻撃しないようにしてください。


 メディアのテロ側を通って聞くと、善の存在でも悪の存在として言われているのが、いつものテロの邪悪行のパターンなので。




 すでに仏陀の弟子に対して、真理を知りつつも邪悪行を為してしまった者達は、輪廻が恐怖なので、ソワソワしてジッとし難い。
 死後に、自らが地獄の穴に堕ちるというのが見えている人が、生存中に安らいだ心になることができないように。



 こちら側の善趣に赴く側の人々は、邪悪行の者から悪行や嫌がら等を受けたその時にソワソワと心の動揺もすることもあるだろうが、少し経つと、安らいだ心に戻る。

 死後に、自らが天界に結生して多くの楽を永く受けるというのが見えている人が、生存中から安らいだ心になることができるように。






H29年11月2日

 本日は、

アルバム『Soffio di vento』『かけがえのないもの』♪

「イズミから溢れ出るこの気持ち~♪。××嫌だ」


 幸子さんは、悪行者を嫌がっている。

 テロ側は幸子さんが悪行の者を好きだ、と言い通したいようだが、幸子さんはそのように思うてはいない。


 私も悪行者を厭い、そして、離れます。



 以前に記した歌詞は、

「かわいがるだけで」ではなくて、

「野呂怒るだけで」と言うているのか。


 野呂さんがそれほどの人だったなんて、本当なのだろうか。

 一体何者なのか。


 野呂さんもそうだが、私は何者なのか。

(先日、店で後ろ姿の似た人を見かけたが、私もオッサンになっているので、自分から声を掛けようという気にもならず、
 他に何だかんだと言われるのも好まないので、本人かどうかの確認をすることもなく早々に店から出てきた。
 ので、おそらく、今後野呂さんを見かけたとしても同様だろう、と思う。)


 まぁ、しかし、何者なのか、という事柄よりも、

 強く関心を寄せなければならないのは、仏陀の教えの修習・修学なのである。


 野呂さんも、きちんと理法を修学してほしい。





 念が強い人が、八聖道に来るのは、他の人のためにもなる。

 仏陀の弟子として、禅定をする人が一人いるだけでも、他の多くに善い影響力が及ぶように。



 善趣の神々と同調して行いいくところだな。






H29年11月3日

 本日も、

 テロメディアが騒いでいて、そのテロの邪悪行の者達が、殺人犯予備軍を洗脳生産しているような状態だ。

 テロ側の者達にとり、殺人に関する言葉でも、すでに悪行として認識されない状態の意識でもあるらしい。



 善悪の分別。

 邪悪行の存在というのは、そのように段々と、善悪の分別の基準が、邪悪を基準とするようになって堕ちていく。という事が知られる。


 善なる私たちは、善悪の分別の基準を、善を基準として、ゆるがせにしてはならない。という教訓として気を付けなければならない。




 今日は、選挙が終わったけれども、選挙中に私の家の近所に、選挙カーで、私に対して殺人宣言をしていた選挙カーが来て、大きい音声でずなっていたが、今日、姉が実家に来ていて、なんと、その殺人宣言をしていた政治家を応援していた、ということで、「おかしいだろ」ということで口論となり、まぁ、自分がおかしいというのを認めていた。

 自民党の政治家ではなく、その邪悪行の政治家は当選したと言っていたが、そのように裏で邪悪行をしている政治家もいる。






H29年11月4日

 本日は、

 昨日、さえがハッキリと「結婚したい」と私に言った。周りに他の人がいないところで。

「何言ってんのよ」と、思わず声を出して言うてしまったけれども、

 私は、「さえではなくて、幸子さんが好きだ」と、何度も言うているのに、しつこい。

「さえはない」。

 悪行をするからない。

 勘違いしているのではないのか、というので、さえに、「’さっち’というのは、さえの事ではない」とも言うている。



 その後に、「さえに結婚したいと言わせた」といういつものように、テロの能力者側が愚行をして言うていた。

 人の念を出鱈目に読んでいちいち騒ぐテロの邪悪行者達。



 しかし、明日なら理解もできるが、私のようなオッサンに「結婚したい」というのも珍しい。

 珍しい、珍しくはないか。


 最近、幸子さんの事柄を思うと、胸というか、上半身全体が、ベッタリとくっ付いて強めのジワーという感じでくっ付いている感の時に、幸子さんを”好き”、という思いがこみ上げてくる。

 自分の思念なのか、誘導の思念なのか、オッサンながらに考える。


 現在も、上半身のジワーというのが強い。(お風呂の入浴剤のシュワシュワの身体的感受に似ている。)


 まぁ、両方だな、と。



 幸子さんの場合は、気持ちが好く・心地好い。

 その心地よさが、逆に”ヤバイ”と思い。


 いや、”はまりそうでヤバイな”と。


 う~ん、いや、すでにはまっているのか、と。



 この感受・想念の動揺。


 幸子さんの場合、いろいろと特殊な感じだからな。

 私自身も特殊な感じだけれども。


”霊的な本物の蒲池幸子さんなら大丈夫だろう”とは思うが、霊的に化けてモノマネをしている”ニセ者の幸子なら問題だな”とは思う。

 これは、もしも悪しき存在と、現在の私のような感受・想念の繋がりの関係となると危険な状態、ということ。


 霊的な世界というのは、危険が多いのです。という以前の日記に記した事柄に同じ。

 善霊もいるが、思いっきり悪魔の力の及ぶ範疇。



 まぁ、強く心配はしていないが、

 幸子さんの場合は、明日の予定のための行が強い、と。

 私の場合、数カ月後か、数年後か、数十年後に来る明日。



 もちゃもちゃしていれば、すぐに明日になる。



 急いで、善念・善行をしなければならない。






 出かけてきて、今日は月が綺麗だったわ。



 先ほどの結婚の話で、TVやメディアや他で私と結婚したい、という話を聞いたことがない、ということもなく、私と結婚したい、という話は結構聞いたな。

 現在は、置いといて。

 結婚についていさきほど考えていたが、容姿は置いといても、私が女性であったら、自分と結婚したいと思うな。と、さきほど思うていた。

 煩悩を除いたところは完璧に善なる人なので、私は、”自分となら結婚したい”と思う、と。

”一人で悪魔達と戦っているこのような人はそうはいない”と、第三者視点から見て、自分自身だけれども本当にそう思うた。

 しかし、実際、女性であれば、男性から見る男性と、女性から見る男性の見る視点が異なりもあるだろうからどうだろうかな。

 価値観をどこに見ているか、というのでも大きく異なる、と。

 私の場合、価値観を真理において見ているので、やはり女性であったならば、自分と結ばれたいな、と思う。

 理法を見ている人が少ないので、余計にそう思う。



 だから、結ばれるのであれば、女性の仏陀の弟子の完璧な善なる女性と縁強く結ばれたいとは思う。

 と、記していたら、さっちが何か言うていた。


 善なる女性と縁が結ばれると、ともに善趣への行を成し易いがゆえにも。


 テロ側の邪悪な性の女性に興味はないな。


 ともに悪趣に堕ちたくもないので。



『賢者は、自分は、果物籠が(中にいれる果物に)影響されるようなものであるということわりを見て、悪人と交わるな。

 善人と交われ。』

 という教えにあるとおり。


 真理を見て、清浄行をしている善なる女性は、そうそういない。



 五戒

 殺生をしない。

 嘘言をしない。

 盗みをしない。

 邪淫(不倫)をしない。

 飲酒をしない。 


 五戒として、これらを持つ男性や女性は、善趣に赴くに遠くない。



 このように、善趣という善い境界は、このような戒めを持つ善なる存在が集まる。


 邪悪行を笑い行うような邪悪な者達は、善趣から遠く、悪趣と悪趣の衆生・地獄で苦を受けている生存者にとても近い。


 悪趣・地獄というところは、このような邪悪行を笑い行うていたような邪悪な存在が、苦を受けさせられるために集められている。

 仏陀の弟子を亡き者にしようとしていたような極めて邪悪な輩は、悪趣や地獄へと集められる。






H29年11月6日

 本日は、

 デンタルクリニックに行くのに、ラジオでまた騒いでいた。

 テロの殺人犯達は何とかならないものか、と。


 歯もボロボロだからね。

 普通に直してくれればいいのだが、

 前の歯医者では、歯磨きはして行っていたが、鏡を見せてもらって確認をしたところ、食べかすがついている状態でそのまま埋めている状態で治療していた。テロの邪悪行の者達の、いろいろな嫌がらせ・殺人行為を受けているのです。






『グロリアスマインド』♪を改めて聞いたところ、

 ガンにしたい、というのは思いきりないらしいが、

 やはり野呂さんだな。

 野呂さんの事柄が聞こえる。

 幸子さんは野呂さんと私の事柄を言うている。

 う~ん、不倫とかの話であれば、私が関与するところではないし、関与したくはないな。

 そういうのがなければ、善いのだが、

「(私)ヒロは天人、野呂とあう」などなど、

 いろいろと言うているのが聞こえる。


 やはり(幸子さんを好きであれば、)野呂さんに殺される、というようにも聞こえる。

 そもそも、野呂さんと私の事柄を言うている幸子さんは、何故なのか、と。

 いろいろと謎だけれども、幸子さんがメインで伝えたいのは、どこなのか、というところだな。


(ちなみに、邪悪行をしていれば’ない’けれども、私は、野呂さんを善人だと思うている。)





 今日も、幸子さんと想念で楽しくいろいろとやっていたが、仕事をしながらでも楽しいんだよね。

 さえも何か言っているが、さえはかなりの悪行もするのであまりかまわずに。

 今日は、幸子さんもちょこちょことイタズラをするので、’私を怒らせたら、キスをする’とか、なんかそういうのをやっていたw。

 罰としてキスをするとか、なんか微妙だな、とか思いつつ、普通逆だなw、とか。



 さきほど、テロの者がラジオで私に悪口を言っていたが、さえにすら「ない」と言われていた。

 さえに「ない」って言われるのは、相当ないだろう。

 邪悪行のテロの者。



 さえがテロ側の者を非難して言うているのは珍しい。

 初かな。

 性質が善く変わればいいとは思うが。難しいだろう。と思う。


 歌を聞いていると、幸子さんは本当に優しいよ。






H29年11月7日

 本日は、

 先見の能力者について考えていたが、

 幸子さんもそうだけれども、幸子さんは、先見能力があるので、邪悪行の先見能力がなく単に思念を盗み見る邪悪な能力者に狙われていた、か、もしくは、利用されていた、という可能性があるのではないのか、と。

 私を助けてほしい、というのは。


 幸子さんの場合も、自由はなかったのではないか、と。

 10°decimo の写真のようにピッコロで囚われているかのように。


 霊的にも真理を言えば、幸子さんは、仏陀の弟子で八正道にいなければ、以前に記しているように、渇愛によりて、真理で言う自由は得られてはいない。

 必ず悪魔の力の及ぶ範疇にいるが、

 八正道にいれば、大丈夫だろう。



 邪悪な能力の低い能力者が、幸子さんのような能力のある能力者を利用して自らに悪業を造作する。

 そのように、その邪悪なる能力者は、後に、今度は自らが利用される側の、苦を受ける者となる、という悪業をも造作する。

 また、先見の能力者の思念を読んで、先を盗み読み自らがその能力者であるかのようにもふるまう。

 まぁ、そういう者もいる、と。

 例えば、テロ側の邪悪行の能力者が、私・對馬が次にどのような行動をするのかを、単に私の思念を読んで、私自身は予定している事柄を行っているだけなのに、邪悪な能力者は自分の言うた事柄(「對馬は、いついつにどこどこに買い物に行く」等)を、その通りに對馬が行ったので、「私が、對馬を操っている」などという愚かな事柄を言うているのと同じように。





 野呂さんは大丈夫だろうかな、と。


 まぁ、しかし、能力の低い能力者がこちらの思念を盗み見ているのを、こちらであえて違うものを見させる、というのも容易だからね。

 仏陀の教えを知らず能力の低い能力者は、真偽の分別が難しい。

 邪悪なる者に善悪の分別が難しい、または、邪悪なる者に善悪の分別ができない、のと同じように。


 しかし、先見の能力も、阿羅迦ほどの聖者でなければ、先見での未来を見る的中率も低いので、何とも完璧な頼りを置くことはできないものでもあり(先見として、世間で有名な人物で言えば、ノストラダムスの水を利用した微妙な透視能力など)、

 また、先見の能力を邪悪行に用いるという事柄自体は、正道になく、聖者方や善に導く存在からも見放されているようなものなので、まぁ、だいたいは、邪悪行の能力者とその取り巻きの邪悪行者も、悪趣に堕ちる方向に自らに悪業を重ねて、地に没するだろう。

 そして、聖者方や善趣の衆生からも、あっさりと外される、と。

 まぁ、これも普通だろう。



 そのように、幸子さんも狙われていた可能性がある、と。

 であるので、先見の能力者は、邪悪な能力者に狙われる可能性がありえるので、大っぴらに能力を言わない方が良いかもしれない。



 野呂さんの場合は、私のせいになるだろうか、と、ちょっと思うた。

 いや、幸子さんのせいかな、と。


 ということにもなるかもしれないので、困り事があるようでれば、私に相談は可能。


 まぁ、どちらにせよ、現世において、他に狙われるにせよ、狙われないにせよ、先見の能力者でも、何年先が見えようが、何世先が見えようが、重要なのは、自らで真理を知ることであり、悪魔の力の及ぶ範疇から脱して自由になることである。


 譬えば、

 誰かが、「私は、自分の輪廻の五世先まで見えるのです」と言い、

「その五世の間、私は、すべて地獄における生存を繰り返します」などというように、自由も何もない状態(地獄の生存)から脱するかのように

、自らで真理を見て知り、そして、自らが真理によりて自由になるのが善いのである、と。


 そして、


 まさに、ゴータマ仏陀・世尊・天人師の教えこそが、悪魔の力の及ぶ範疇から脱して自由になる教えであり、

 また、悪趣に赴く輪廻の生存から、あなたを善趣へと導く真理なのです。






H29年11月8日

 本日は、

 幸子さんの声は、普段からこの頃多く聞こえる。

 私と一緒にいて、周囲の他の人を喜ばせるところも優しい。


 優しい念が本当に気持ち良い。






H29年11月11日

 本日は、

 たくさん幸子さんや、さえが声を出している。

 どこへ行ってもいる。

”幸子さんがいるのは嬉しい”とは思うが、


 しかし、今日はまた、かなり怒っていた。

 先日、ネットオークションで、幸子さん関連の物を見ていたら、雑誌のZARDの切り抜きで幸子さんの赤裸々な過去が記されているという物を発見して、偽物だとか、本物だとかで記されているので、

 ネットで検索をしてみたら、エッチなビデオに出演して本物の可能性も高い、というように書かれていた。

 そうしたら、次の日、ラジオで幸子さんに関するそのエッチなビデオに出演しているという件で、偽物だとか本物だとかで、騒いでいた。

 調べてみたところ、本物か偽物か定かではないが、ビデオでも一人で出演のヌードの映像はあるらしい、が、他人とSEX性交をしているような、本番行為をしているようなものはないらしい、と。



 ということで、「何やってるのよ」と叱ったが、

 その事柄を日記に記されたくないようで、今日は幸子さんが、声を出してかなり怒っていた。

”記されたくなくて、怒ってるということは、出演しているということではないのか”とも思うたが、

 幸子さん本人ではなくて、幸子さんに似た偽者の人物の映像で言われているから怒っているのか。



 この事柄に関しては、すでに私から記さなくても、騒がれていて、また、その怪しげなところを通り越さないと、さっちは信用されないだろうから、通り越せるようにあえて記す。

 ハッキリとさせた方が善いだろう、と。


 ハッキリ言って、こっちだって勘弁してほしいわ。

「アダルトビデオに出演するなんて、普通に’ない’」と。

 そんなしょうもないものに、出演するとか。

 盗撮をされてしまう、等というのとも、全然違うからね。

 本当であったら、人としても、問題がありすぎるわ、と。

 もう幸子さんを「優しい」と言うている、私の見る目も疑われてしまうことになり、そして、仏陀の教えにも悪影響が出てしまうだろうに。

”まったく、何をやってるのよ”と、こっちも怒りたくなるわ。



 まぁ、失敗は誰しもしたことはあるだろうが、

 しかし、幸子さんは昔から、私なのか、他の誰かなのかのため、だとかで、伝えようともしてあえて映像に写って話しているものも見られる。(私は昔、かなり嫌われていたようだが、)

 そういうのを考えると、また微妙だけれども、基本、そのようなビデオに出演するとかは、普通に’ない’方向だ、というのは当然の事柄である。


 そして、何かに記されていた幸子さん自身の本人の話によると、そのようなものに出演したことはない、ということらしい。


 しかし、動画サイトで見られるお菓子を食べて、はしゃいでいる若い頃の動画を見ると、編集なのか、”どうだかな~…”、とも私も思うが、





 それでは、このような事柄に関して、

 宗教によりて、いろいろと異なるが、

 聖書でも淫らな事柄に関して、娼婦の話は記されている。



 では、仏教ではどうなのであろうか、と。


 仏教では、そのような淫にらな事柄に関して、アンバパーリー尼や、アッダカーシー尼という尼僧が、過去に町で公認の高級な娼婦・遊女として、生活をしていた、という話がある。

 アンバパーリー尼や、アッダカーシー尼のように、後に、反省して、邪淫を行うことを捨てて、仏陀に供養を成し、三帰依を成し、そして、仏陀の許で出家をすれば、
覚とりを得ることはできる。とされている。





 不倫に関しては、すでに記しているとおり、

 邪淫を行わないことについて (邪淫・不倫による悪業の報い)

 不倫(邪淫)という悪行の報いは悪い。

 反省をして、「もう悪行をしない」と、悪行を捨てるのは善い。






H29年11月12日

 本日は、

 好んで嫌な事柄を記すわけもなく、幸子さんのために記すんだよ。ということで言うたら、幸子さんも納得したらしい。

 エロい事柄に関しては、基本は、幸子さんは、他に思念を読める人や、大勢いがいるところでエロい事柄を想起してしまうたならば、かなり怒る。

”いやいや、想いたくて、想うているわけではない”と、そこら辺の他人の想念をつかんでしまうてから、派生して想うてしまうだけでも怒り、他の女性に関してエロい事柄を想起しようものならば、罵声が聞こえる。

”あ、これはマズい”と、気づいたときは、すでに少しでも想起してしまうているので、もう遅い。


 最近は、私は、そういうときは、いろいろな要因を考えつつも、幸子さんに謝る態勢になっている。

 たしかに、私が謝る側の立場になっている。

 そういえば、私が謝る側の立場になっていた。

 知らず知らずに、私が謝る側の立場になっていることが多い。


 別に、私(だけ)が悪いわけでもないんだけれども。

 私の言いぶんとしては、だいたいは幸子さんにも非はあるのです。


 そういえば、いつもだいたい私が折れて謝る側だな。

 大して、私が(故意に)悪いわけでもないのに。


 しかし、実際は、私が幸子さんを叱る立場になっていい事柄の方が多い、とも思う。




 これは、関係性の捉え方が異なっているのが問題なのだろう、と現在、思うた。


 現在もさっち(幸子さん)が発言をしたが、そのいつもの発言が、どうしたいのよ、と悩ませられる。

 そして、さっちが望むのならばその方向へ行かせてあげよう、とすると、実はそうではない、というような事柄を言う。


 というように、いつも悩ませられている。






H29年11月13日

 本日は、

 さっちとケンカをした。

 11日のを消す消さないで。

 さっちは、どうでもいいという感じだと口が悪い。

 その口の悪さも注意した。


 でも、さっちは本当に優しいところがあるわ。

 その後、私のためにしてくれた事があり、肉体がないから不器用な感じだけれども、その優しさがね、とても嬉しい。


 そして、その11日の消す消さないというのは、さきほど、「消さなくていい」と、言うていた。


 さっちは、自分や他のエロい事柄の想起については、やっぱり、かなり怒るわ。


 と、怒りつつも、自分はトイレでも話しをするくせに。とちょっと思う。



 トイレに関して、最近は、減ったけれども、前は、私がトイレに入るたびに救急車のサイレンの音がして、裏の公園のスピーカーからテロ側の者が音を出しているのだろうかな、とも思うたが、ラジオでもたしかそのように言うていたことがある。

 あと、「對馬が、今、トイレに入っている」というのを、ラジオで聞いたことは、結構たくさんあるが、そのようなのを聞くと、テロ側の存在というのは、良識が欠如していて、なおかつ、変態だと思う。


 お風呂でもさっちの声は聞こえる。

 トイレにいる時に話をしてきた時は、”いや、ここトイレだから”というのは、毎度のように言うている。



 さっちの場合は、先見の透視で、あの、マイクの前にハイヒールをはいて、座って怪しげに「ウフフフフ」と、笑うている感じのイタズラ感たっぷりの絵だが、

 あの絵は、最初は手の部分がパンツなのだろうか、と思うて、”であれば、エロい”と思うたが、パンツではなくて、手だったが、
 よくよく、考えたら、あの絵は、さっちがモノマネをしている絵だろう、と。


 まぁ、どこをどう見たら、モノマネなのか、というのは、他の人はほぼわからないだろうが、その事柄についてはわからなくてもいいだろう。

 むしろ、わからなくてよいが、

 さっちの能力は本物だ、と。

 変なところで感心してしまったな。






H29年11月15日

 本日は、

 テロ放送でまた、騒いでいたが、幸子さんが私を殺したい、と言うている、とか。

 テロの邪悪行の者達は、私と幸子さんを離そう、離そうと罵詈雑言を繰り返しているが、するが、別に離れる気は特にない。


 しかし、私の周囲でのそのような発言も、たしかに、聞こえる。

 悪語を言うているのは、幸子さんよりもさえのグループの方が充分怪しいよ。

 テロの邪悪行の能力者は、さえの存在を最近言わないようだが。

 幸子さんに好意の感情を抱けば、さえが「スキ」と私に言う。

 何度も言うているが、好意をいだしているのは、幸子さんにであって、さえではない。


 本日の幸子さんの想念は、胃が痛いときに、たぶん明日なのだろうが、絶対に結婚すると言え、という想念だな。

 何度も何度も。



 なので、「絶対に悪しき存在とは、結婚をしたくはない」

「幸子さんが善なる存在であれば結婚をする」と言うた。



 しかし、今日も胃が激痛だったな。

 胃が痛いとき等、そのな時は、テロ側の能力者達が、蒲池幸子の邪念だ、とかいうので、ほとんどいつも騒ぐ。

 今日の騒ぎと同じように。


 この事柄によりても、テロ側の本当に邪道を行く邪悪行の存在というのは、他人の苦しみを喜ぶ、というのが知られる。


 そのような邪行によりて、善趣に赴くという道理はない。


 善趣に赴こうとする者は、決して同様の邪心を抱き、同じ邪行をしてはならない、と。



 あと、幸子さんとの霊的な性交がどうしたとかこうしたとか、幸子さんが私との霊的な性交を嫌がっているというような言い方で、テロ側の能力者は騒いでもいるのだろうが、そういうわけはなく、何だかんだで幸子さんはその逆も示す。

 というか、歌でもいろいろと好意を示して言うているのも、そもそも幸子さんだろう。

 何度も言うているが。


 その反対にテロの邪悪行の能力者が騒いでいるのを聞いて、これからそのような想念を抱かないようにしよう、と思えば、「そういうのはいい」というようにも、示してくる。

 逆に、離れようとするのはダメです、というような感じにも受ける。


 本人ではなく、他の存在の偽りなのかもしれないが、であれば、離れればいい話にもなるが、離れようとすると、絶対に許さない、といような想を示してもくる。

 そして、離れたいなら離れたいで、そういう時、幸子さんはハッキリと言わない。



 先日は、(本心で)「幸子さんと一緒にいられるのは幸せだ」と言うたら、本人の声で「嬉しい」と大きな声で言うていた。


 最近は、幸子さんを知れば知るほどに、う~ん…、と考えさせられるので、そういうとこでも、怒っているんだろうな。

 そういう内面部分を野呂さんと比べて見てしまうんだよな。

”野呂さんならそういうことはしないだろう”とか、そういうので、再び激怒している感じなのだろう。


 でもね、本物の幸子さんだか、テロの邪悪行の能力者の使い魔か、邪念のモノマネなのかどうだかは定かではないが、ひどい悪口を聞くと、”私なら絶対に言わないな”とか、”私なら絶対にしないな”というようなのが多々聞かれる。

 幸子さん以外の声で同じような悪口もよく聞こえる。

 さえの声で同じような悪口もよく聞こえる。

 そういうのを聞くと、考えてしまうな。


 そういうので、”普通の子でいい”と思うてしまうたこともあるが、しかし、幸子さん自身も霊体なのに、テロの邪悪行の能力者達に囚われているような感じも聞くので、どうなのかな、とも思う。


 しかし、霊体なのに元気だよな、とは思う。


 そのような現状であり、何だかんだ言われても、幸子さんとの善の縁での繋がりはすでに成っているので、別に離そうとする気・離れる気はない。



 現在、テロの邪悪行の者が「蒲池は悪霊だ」と言うているが、私は、幸子さんに感謝をしている。

 なので、幸子さんの霊とも離れる気はない。と言うているのです。

 幸子さんが怒っているというようなころも多々見られるが、私に攻撃をしているのは、テロ側の能力者だというのは、他からもいつものように聞いている。




 テロ側の邪悪行の者は、八正道にいない。

 テロ側の放送の邪悪な能力者の言葉で抱いた妄想から「殺す」とか、何とか言うているようなのでも理解はできるだろう。

 彼らテロ側の邪悪行の者・存在は、八正道にいない。



 幸子さんが、攻撃をするとかではなくて、幸子さんを好きな人が嫉妬して攻撃をしている、とかいうのもあるのだろうかな。


 しかし、

 本当の愛ならば、自分ではなく他の人とその人が結ばれるのなら、その人の幸せを思うて「殺していい」というような発言はしないだろう。

 しかし、明日の事も考慮していて、その好きな人が’他の人と結ばれなければ一緒になれる’というのであれば、なおかつ強い思いで ”どうしても一緒になりたい”というのであれば、その好きな人が、他の人と結ばれるくらいなら愛情・愛欲から「殺していい」とまで言うてしまうかもしれないな。

 幸子さんの歌で言えば、胃がんで死んだら、私・ヒロと会える、というような感じ。

 だから、殺していい、と。


 私としては、「殺さなくていい」と。



 私は、明日は、善趣・天に赴くので、娑婆のような女性ではなくて、性格の善良で、美しい異性は大勢いるだろう、という思いが生起される。

 そして、そのような思いが生起したときは、幸子さんが怒っているような感じをも受ける。


 さっちは、すぐに怒るんだもの。

 私は、優しい人が好きなのです。


 私は、優しい幸子さんが好きなのです。






H29年11月16日

 本日も、

 テロ企業は、今度は、幸子さんが私を嫌っているというような話から、「殺せ」だのと、TV広告もしている、と。

 テロの殺人企業の、その邪悪行社の連なり集まりの面子もたいした変りもなく、内情も改善るすることもなく、時だけが数年間過ぎ去った。

 今日に至っても、なお悪業を積み重ね続けているテロ企業の面々を見ている。


 しかし、そのような邪悪な行いの連なりとは異なり、改善している人も大勢いるね。

 そういうのは、とても善い。




 そして、先日のモノマネに関して、

 モノマネは、幸子さんが自分の姿を描いてモノマネをしているのだよ。

 意味が分かかるだろうか。


 自分で、自分がモノマネをして、「ウフフフフ」と笑っている自分の姿を描いている心境は、どのようなものなのだろうか。


 私は、どちらかというと、ウケる方(笑)で感受した。

 その絵を見て、激怒するというような感情も全く起こることもなく。


 さっちが私に邪念を抱いている、というのであれば、嫌悪するようなものを描くだろう。

 これは、テロ企業のTV広告のように、おもいきり嫌悪することもなく。


 しかし、そのモノマネの絵は気づくまでは、気持ちが悪かったな。

 気づいてからウケたけど。






H29年11月17日

 本日は、

 テロ側の存在で、仏陀の弟子を亡き者にして後、その悪業も”仏陀に帰依すれば問題ない”と、現在、思いつつも邪悪行を為している者は、そのような愚かな考えをしてはならない。

 仏陀に帰依するというのは、仏陀の弟子を亡き者にして後の、その罪業を軽くするためにあるのではない。



 そのような悪しき者も、仏陀に帰依しつつも大地獄に堕ちたコーカリヤのように、悪趣へと出生するだろう。



『そうしてサハー世界の主である梵天は、わたくし〔仏陀〕に告げていった、

「尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。
 修行僧コーカーリヤは、〔仏陀の弟子の〕サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意を抱いていたので、死んでからパドゥマ地獄に生まれました」と。
 サハー世界の主である梵天はこのように言った。

 そうして、師〔仏陀〕を敬礼し、右まわりをして、その場で消えうせた」


「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

 そしるべき人を誉め、また誉むべき人をそしる者、彼は口によって禍を重ね、禍のゆえに福楽を受けることができない。

 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。
 しかし立派な聖者に対して悪意を抱く人の受ける不運は、まことに重いのである。

 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラッブダの(巨大な年数の間)また五つのアッブダの(巨大な年数の間)地獄に赴く。

 嘘を言う人は地獄に堕ちる。また実際にしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。
 両者ともに行為の卑劣な人々である、死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に堕ちる)。

 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪(い報い)がもどってくる。
 風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。

 種々なる貪欲に耽る者は、言葉で他人をそしる。
 ──彼自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで、やたらにかげ口を言うのだが。

 口穢く、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。下劣を極め、不吉な、でき損いよ。
 この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に堕ちる者だぞ。」』



 テロ側の邪悪行の者達は、簡単に考えているようではあるが、真理を知りつつも、さらに仏陀の弟子と知りつつも、さらに、仏陀の弟子に対する邪悪業の罪業は重いと知りつつも、邪悪行を行じているその悪業は、極めて重い。






 今日は、ちょっと思うたのだが、さっちではなくて、さえの事なのだが、現在悪霊のような状態ではあるが、供養をすれば善霊になるかな、と思い、最近話す内容は中学生程度位に話せるようになっているようなので、供養をすればいくらかかわるだろうか、と。


 ということで、もしよければ、霊の’さえ’を思うて供養をしてあげてほしいな、と。

「對馬のところにいる’さえ’が善霊になりますように」と。


 そして、さっちも供養をしてあげてほしい。

「對馬に関わりあうている’蒲池幸子’が、ゴータマ仏陀の説く八正道を行じることができますように」と。


 幸子さんの場合は、毎年大勢に供養もされているから、大丈夫だろうかな、とも思うけれども、供養の仕方が異なるからね。



 そして、もし、あなたのその供養を’さえ’も’幸子さん’も受けなければ、自らでその善念の供養を受けとることでしょう。



 そして、変化はするのか、変化はしたのか、というのも、おって報告しましょう。


 ということで、問うてみたところ、

 さえは「ムリ」、

 さっちは、ハッキリと聞こえなかったが、「うれしい」というように聞こえた。






H29年11月18日

 本日は、

 携帯電話をしていて、悪霊が何か声を出して嫌がらせをしていて、その後、その男の悪霊の声を、ラジオで「××の息子の声だ」というて騒いでいた。

 そもそも、××に息子はいるのかどうかも知らないがそのように騒いでいた。

 私に書かせるためにしているとか、愚かなことを言うていた。


 女性の声ではないし、幸子さんの声でもない。


 ちなみに、幸子さんは、別の件で今怒っているところ。

 幸子さんは、怒ると、「誰々と結婚したい」とか言う。

 すでに、複数人のを聞いた。



 怒っているというか、嫉妬だよね。



 そして、昨日は、供養をしてもらったが、一日目にして、すでに、’さえ’はなかった。

 さえの行っている事柄が、悪霊のそのたぐい以外の何ものでもない、という状態だな。

 そうだな、邪念、邪道をベースにしていて、そこで喜怒哀楽をしている、という状態だな。


 善趣に赴くような状態、または、善趣に赴くような存在(の状態)ではない。



 今日のさえの行を直に見聞きして、私は、さえのような悪しき羅刹のごとき存在と親しんではならない。

 これは、仏陀の教えによるものであり、親しんではならない。



 さっちも、羅刹のように「殺す」だとか言うて、実際に邪悪行をしているのであれば、親しむことはできない。

’親しむことができない’ということは、結婚をするという事も出来ないし、死んでから結婚するという事も出来ない。


「私は、羅刹女と結婚できない」

「私は、死んでからも、羅刹女と結婚できない」


 善趣に結生して、なぜに羅刹女と結ばれなければならないのか、と。

 善趣に結生して、八正道を行じている善良な心を持つ天女と結ばれるのが善い。



 さっちは、悪鬼・羅刹女のたぐいとは異なり(怒れば、たまに近いが)、こちらに助力をしてくれているので、できれば蒲池幸子さんは供養をしてあげてほしい。



”自らの行いが、羅刹と変わらない”と気づいたのであれば、その邪悪行を捨て去るが善いのである。



 さっちが、八正道を行じている善良な心を持つ天女であれば、死後にでも、結ばれたい、と思う。






H29年11月19日

 本日は、

 善い縁と悪い縁について、

 ゴータマ仏陀の善性の物語からすると、だいたい、現世において善い縁の存在は、前世においても、善い縁・善友・助け手としての縁で双方が結ばれている。

 同じく、悪い縁の存在は、前世においても、悪い縁・悪しき繋がり・敵対する者としての縁で結ばれている存在が多い。

 と、いう事は、私も、現在、自らと善い縁のある存在は、前世においても、善い縁・善友・助け手としての縁で結ばれており、
 同じく、悪い縁の存在は、前世においても、悪い縁・悪しき繋がり・敵対する者としての縁で関係していた可能性が高い。


 そして、後世において、私が覚とりを得たとき、私と善い縁のある存在は、そのときも同じように、善い縁・善友・助力者としての縁で結ばれており、

 同じく、悪い縁の存在は、そのときも同じように、悪い縁・悪しき繋がり・敵対する者としての縁でいる可能性が高い、と。


 このように前世の結びつきから、現世においても、また、後世にも結びつきがあるがゆえにも、自らの父と母とは、大切にしなければならない、と。



『比丘たちよ、私は、この二人にたいしては容易に償いを成すことができないと言明する。

 どのような二人にたいしてであろうか。

 母親と父親とにたいしてである』


『両親は、息子たちにとり、大いなる助力者であり、保護者であり、養育者であり、この世界の導き手である。

 両親に、信仰(善法・理法・真理)がなければ、信仰(善法・理法・真理)の達成へと誘い導いて、住させて、安住させる。

 振舞い(・素行・普段の行い)が悪ければ、戒めの達成へと誘い導いて、住させて、安住させる。

 物惜しみ(ケチ・吝嗇)であれば、施しの達成へと誘い導いて、住させて、安住させる。

 智慧(真理を見きわめる認識力)が浅ければ、智慧の達成へと誘い導いて、住させて、安住させる。


 そのようにして両親に對して、何事かを成して償いを果たし、大いに(恩に)報いた、ということになる』と。






H29年11月20日

 本日は、

 夕食にスパゲティを作り、味は一応ナポリタンだが、そこそこ美味しい。

 スパゲティは、ゆでた後に、火を止めて、5分位かもうちょっとか、置いておくと、のびて柔らかくなり食べやすい。


 私の味の感覚で、美味しいという感覚は、他の人はどうなのだろうか、というので、ちょっと記す。

 え~と、簡単な物で、食パンをトースタでこんがりさせて、バターかマーガリンを付けます。そこにそばなどのめんつゆをまんべんなく数滴たらします。

(マーガリンは身体に悪いらしいので、ここの日記を見て、めんつゆパンを試したいのでマーガリンを購入する、という事のないようにしてください。マーガリンが身体に良ければ問題ないが、そうではないようなので。)

 そして、食べると美味しい。

 そのめんつゆの食パンが美味しいかどうか。

 美味しければ、私の味覚と似ているが、まずければ、私の美味を感じる味覚と多少異なる。

 そばは、湯がいて、ラップなどにくるみ水で湿らせた状態で一日おくと、なぜか美味しく感じる。のびているけれども。

(そばは、ゆであがった後に、5分位そのまま湯につけておくと、甘くなっておいしくなる。)



 ちなみに、マーガリンは身体に悪いらしいが、どうなんだろうかな。

 身体に良いマーガリンは作れないんだろうか。




 そして、話は変わり、

 今日は寝起きで、いきなり「結婚したい」と聞こえた。

 寝起きでいきなり、ハッキリと聞こえたから、話の流れの意味もまったく分からないが、前置きもないからな。

 このオッサンにそのような事柄を言うのは、さて、誰でしょうか、と。

 知っている人の声なのです。

 さえの声という認識ではない。



 先日は、寝起きで、聞いたことのない声のどこかのおばさんの声がした、というのがあった。

 どうやら、嫌がらせに来ていたらしい。

 そのような悪行をしにくるような存在は、基本は、性格も邪悪なのです。


 善趣・天界というのは、性格の善良な存在が集まるところであり、性格の邪悪な存在が集まるところではないのです。

 地獄というのは、性格の邪悪な存在が集まるところ・性格の邪悪な存在が集められるところなのです。



 あとは、今日もラジオで「蒲池が××のためにしている」とか言うていたな。

 神智学の者がそう言うている、としきりに言うていた。

 なんだかんだで、私と幸子さんとを離したいらしい。

 なぜに、幸子さんを、オカマであって、SMプレイ好きでいて、さらに詐欺士、という者とくっ付けようとするのか。


 テロ側の者達が、幸子さんを根本から悪い存在として、多くの人々に思わせようとしている。


 こちらからすると、人々を欺いているテロ側の邪悪行の者が、邪悪な存在として見えている。




 あとは、さっちの歌(ZARDの坂井泉水の歌)は、100%、私の周囲の事柄を言うているので間違いない。


 99%ではなくて、100%。



 少し昔の他の人の歌も私の周囲の事柄を言うているので、おそらく間違いないというのも多々あるのだろう。


 何者として写り見えているのだろうかな。



 まぁ、しかし、そういう何者なのか、というのも、別に、自分の事柄なので、どうでもいい、というか、置いといて、

 縁については、幸子さんとも、このように間違いなく、関わりあうている、という事で、後世においても、もうほぼ間違いなく関わりあうことだろう。

 優しい人たちと、強い縁が生じるのは、とても嬉しい。


 仏陀の弟子の集まりと、その聖者の集まりと、善なる友、善趣の友たちの集まりの縁、善なる縁の結びつきの存在。



 善趣だな。

 この優しい心安らぐ心がいい。



 善趣に赴く存在の心は優しい。






H29年11月21日

 本日は、

 仕事現場の仮設事務所移転にともない、現場事務所に置いていた自分のパソコンモニターを自宅へ持ってきた。

 ので、デスクトップのパソコンを使用しようかと思うたが、ノートパソコンは音質がいいので、そのまま使い、記しているところ。


 今日は、デンタルクリニックに行ってきて、治療をしてもらった。

 以前から痛みが出ていたのに、前の歯科医できちんと治療してもらえなかったところを治療してもらった。おかげで痛みもとれた。

 そこの歯は、虫歯だ、と鏡を見れば自分でもハッキリと見えるのに、前の歯医者では、治療ができない、と言われて、痛いのにきちんとした治療をしてもらえなかったので、せめて食べかすをハミガキでとれるように、と、自分でルーターで穴を開けたところ、見事に失敗して、大きな穴が開いてしまった。

 が、そのおかげで、今日はきっちりと削ってもらえたので、まぁ、良しとしよう。

 ちなみに、ルーターで削った歯は、どちらにしても、抜かなければならないという歯なので、食べ物が詰まらないように虫歯のところを広げようしたら、失敗した。

 歯の根が斜めになっているので、通常の治療の仕方とは異なるということで、そこは前の歯科医も同じ見解は言うていた。

 その歯は、私が失敗したところは別として、中に大きな虫歯の空洞ができていたらしく、テロ側の者がその歯を治療させないようにさせていたらしい。

 その虫歯を治療している途中で、これならガンになる、というような事柄を言うていて、その歯科医師が「犯人××」と言うていた。


 今日もそこの虫歯が痛かったので、良かった。


 今日の治療は良かったな。



 犯人が××なのかどうか、は定かではないが、テロ側の邪悪行の者というのは間違いないだろう。


 私からすると、犯人が××なのかどうかは定かでないが、私から見て、テロ側の邪悪行の共犯犯罪者はみんな犯人です。

 邪悪行者であって、善行者ではない。



『善趣・天界というのは、性格の善良な存在が集まるところであり、性格の邪悪な存在が集まるところではないのです。

 地獄というのは、性格の邪悪な存在が集まるところ・性格の邪悪な存在が集められるところなのです。』と、いうこと。






H29年11月23日

 本日は、

 テロ側の者がラジオで、罵詈雑言して騒いでいるときに、幸子さんの声で「×××はないから」という声がした。

 他では、弟のところで蒲池幸子の声がしている、と言っているのだが、どうなのだろうかな。

 今度直接聞いてみるが、幸子さんの声で「×××はないから」とハッキリと聞こえたので、イラついたので、「なくていいから」と、言い、「そういうような(事柄を言う性格の悪い)者と親しみたくはない」と、言うたら、幸子さんが泣いてる、とか言うているし、そして、さっちが私に「親しみたくはない」と言われたから、「蒲池幸子は悪霊だ」と言うて、ラジオでは喜んだ感じに言うていたが、ラジオのテロ側は、やはり、私と幸子さんとの中を裂きたいらしい。

 しかし、テロ側のラジオはすでに殺人鬼達がラジオで騒いているかのように、罵詈雑言して騒いでいるので、すでに、人の道からも外れて邪道に堕ちている。

 そういう悪しき者達の邪悪行の言葉を聞いてても、さっちの方があるよ。悪口はないけど。

 しかし、さっちが、外見が好みでないならば、外見の好みの人のところに行けばいい話であり、なので、私も、”さっちも外見の好い人がイイ(の)だろう”というので、離れようとすると、別れたら、誰々を殺す、というように他でも騒ぐ。

”はぁ~…、それなら”「さっち戻ってこ~い」と、そういう感じ。


 だからね、私はさっちが望むようにしてあげようとしているのだが、さっちがどうしたいのか一定しないんだよ。

 あと、テロ側の能力者は、私が以前から思うている事柄を指して、「書かせる」とか言うているので、ほぼ完ぺきに正道にいないから。



 そして、さっちは、さきほども、同じ件について、別れたいなら、想念で別れるという想念をだしなさい”というて、想念を出させようとすると、出る想念で別れたくない、と言うていて、何度問うても、別れたくない、と言うている。

 なので、私が、さっちが「ヒロと別れる」と言うている想念を造作したら、声を出してハッキリと「×××だけど別れたくない」と言うている。

 幸子さんてきに「×××」は私らしい。

 これもどっちなのよ、と思うけれども、

 それよりも、「×××」と言うている事態、女性心理としては、これはどうなの。

 本当に好きな人にそういう事柄を言うと思うか、と。


 しかし、性格の悪い女性とは、親しみたくはない、というのは、本心であって、別に、”性格が悪くてもいいから、付きあいたい”というような気持ちはない。



 流れで言えば、このような感じ。

 さっち 「×××はないから」

 さっち ”でも、ヒロが好き”

 ひろし ”CDに、ヒロは’×××’ではない、と入れて言うているだろうに、何なの”



 さっち 「(誰々)と、結婚したい」

 ひろし ”良さげな人がいると、また、すぐに言うし…。しかも、すでに複数人に言うている。”



 さっち 「(誰々)が好き」または、「(誰々)と、結婚したい」

 ひろし ”では、その人が好きなら私は離れようか、と。しかし、急に別れたら、他の人も気になって騒ぐだろうから、ゆっくりと、知られないように別れよう。”

 さっち 「(誰々)を殺す」

 ひろし ”ふ~…、別れないから、殺さなくていい。そういう悪行をしてはならない。”



 というようなのが、いつもの流れだな。




 現在は、私の中でさっちが好きという感情が出ている。

 この感情の時は、さっちは私の事を「好き」と言うような時。




 ラジオでまた、てきとうな事柄を言うて、妄想を膨らませている。



 テロ側の能力者の話を聞いても、基本は意味がない、と。

 仏陀の教えについても、そうだけれども、真理につく前に、すでに、正道から堕ちているように、

 人の想念を読むのに重点がおかれて、真相にたどりつかずに、妄想からでない。



 そして、いつも堕ちつくところが、自らが殺人鬼のごとくになり果てて、罵詈雑言で殺人の話を公共電波で電波して、悪業の造作を為す、
 というようなのが、テロ側の邪悪行の者・邪悪行の能力者などのパターン。



 殺人鬼のような悪しき存在は、善趣に赴くこともなく、悪趣・地獄の境界へと集められる。





 ちなみに、幸子さんの場合は、例えば、今日の話で、その時、エッチな事柄を一瞬思い浮かべてしまったときに、
 そこで、”あ、(一瞬だけれども、これは)マズイな”と思うたが、もう遅く、どこからともなく、幸子さんの声で「胃がんにする」というような声がハッキリと聞こえ、

「だから、ゴメンって」と、いうように謝るが、一瞬の想念の想起は、私のせいでもない、とも思う。

 というように、幸子さんは自分に関するエッチな事柄を想起すれば、かなり怒る、と。

 ただし、時間帯や場所による。


 そういう面では、とても善い良識がある、ように思われる。

 節度がある、というような、「そういうところは善い」、とさきほど褒めた。

「胃がんにする」というのは行き過ぎなので、ないけれども。


 その後、「エッチな事柄は、私のせいだけではないのだから、あきらめなさい」と、言おうとしたら、半分笑ってるから、私も「あきらめなさい」と言う途中で笑ってしまったけれども。



 と、さっちはこういう感じ。

 嘘と冗談と本気と。


 といように、さっちは、冗談半分だな。

 そういうところは、歌で言えば、「鼻毛、超長い♪」と言うているような事柄からも理解できるだろう。

 また、ライブで舌を出しているところとかを見ても、何となく人柄が理解できるだろう。



 さえは、私の胃が激痛の時に、「すごい、好き」とか胸のあたりで声を出して言うていたので、本当に’ない’。と思うている。

 悪霊。

 これは、供養の話をした次の日のできごと。



 歯の治療をしてから、昨日も今日も、胃の調子はいい。






H29年11月24日

 本日は、

 さっちが、悪口のところだろうけれども、言えって言わされているらしいことを言うていた。

 霊なのに、そういうのがあるのか、と思うたが、過去に天と阿修羅が戦闘をするくらいだから、まぁ、そういう裏事情もありえるだろう、と。


 蒲池幸子さんは、悪口なんて言うような人ではない、と言うような人は、動画を見れば、さっちがどういう感じか理解はできるだろう。


 そうだな、動画の渡部の反応を見れば理解できるだろう。


 まぁ、そういう話はいいのだが、今日も、また、殺人鬼に誘導されて、殺人鬼の仲間になり果ててしまった者を多数(北海道のラジオ放送などを)見聞きしたが、私の直感で、マハーカッサパ尊者が、テロ側の邪悪行の者達に関与してはならない、と言うているのを感受している。

 テロ側の者の邪悪行を見る限りでは、余裕で悪趣に堕ちるだろう、と思われる。

 だから、関与してはならない、と。

 阿羅迦の聖者にも、見放されている状態だな。

 悪業がひどいから、まぁ、そうだろう、とも思う。


 さっちも、邪悪行者達にそのまま悪業を積ませようとしている感じだし。





 現在、”さっちと一緒にいられるのは嬉しい”と言う気持ちが出ているのだが、その気持ちが、さっちも「嬉しい」と優しい声で言うている。

 やさしい気持ちは、いいよ。

 そのやさしい気持ちが「嬉しい」という、その心も善いわ。






H29年11月26日

 本日は、

「×××はないから」と、さえも言うている。

 マネして言うているのか、さえの場合は、”なくても全然いいから”とは思う。

 だから、どうした、と。


 ここ数日、胃の痛みがほとんどない。

 歯が原因であった可能性が高い。



 食事時にさっちを供養したら、さっちが「ありがとう」と言うた。

 供養をして、本人から「ありがとう」と言われるのは、人生初。


 その後、「蒲池が喜んでいる」とさえが、言うていた。

 さえは、たまに、さっちの事柄を説明して話す。


 そういうのを聞くと、仲がいいのだろうか、どうなのだろうか、とは思う。


 さえは、私とさっちが好きな感情を出して接すると、「腹立つ」とか、なんか怒ってはいる。



 そして、話は変わり、さきほども考えていたが、人間と霊との恋愛や結婚は成就するのだろうかと。

 例えば、人間と異星人との恋愛や結婚の成就というのも同じく。

 昔、映画でアバターというのを見たが、異星人との恋愛もあり得るな、どうだろうかな、と考えたことはあったが、まぁ、ありえるな、と。

 例えば、さっちの場合は、霊だけれども、日本語で話し、意思疎通も別に常識の範ちゅうで考えられる事柄であり、身体がないけれども、感受や精神は通じる。

 さえの場合は、霊だけれども、邪悪行を酷いから相手にしなくても善いが、

 さっちの場合は、生前の事柄も知られて、なおかつ、生前の知らない時から、すでに助力してくれている、という優しさがとても善い。


 あ~、そういえば昔話の浦島太郎も同じようなものだな。

 乙姫に恋をしてどうとかこうとか。


 世界中にも伝説的な神話などの恋愛話なども、いろいろあるだろう、と。



 神話で語られるような事柄は、私のところでは日常茶飯事で、奇跡的な出来事にも、もうとくに感動すらもしないほどに、日常の普通の事柄となりつつあるが、

 さっちが思うているのであれば、その思いを成就させてあげたい、とは思うている。


 まぁ、問題は霊と接すると、人間側が精気が減じてしまう可能性があるということかな。

 そういうのを懸念して、さっちに「精気を吸わないでね」とは、言うているものの、

 不可抗力で減じる可能性も無きにしも非ず。


 ちなみに、仏陀の比丘も、神霊と親しんでいる方はおられるので、善なる霊と親しむ、という行いは問題がない。

(比丘が神霊と親しむというのは、恋愛など渇愛の情の関係で親しむという事柄ではない。

 私の場合は、恋愛など渇愛の情の関係で親しむ、という事柄も含まれているので、問題が発生する可能性も無きにしも非ず、と。)



 ラジオなどで、蒲池に精気を吸われているので、髪の毛が急激に薄くなったりしている、と、そういうのような事柄も聞く。

 髪の毛は、ちょうど数カ月前に、ネット通販で、育毛剤を購入して、ヘアケアをしたところ、なんと、急激に薄くなってしまった。

 その育毛剤に関しても、購入する頃、テロ側がいろいろと言うていたので、何か怪しい成分が混入されているのだろうか、とも思うたことはある。現在は使用を止めたところ。

 であれば、発毛薬のプロペシアだったかを皮膚科でもらってきて飲んだ方がいいかな、とちょっと思う。



 精気がどうとかで、最近は、食欲が減った、というような事柄もなく、食欲も旺盛で、精神的にも別に普通だな。

 精神的なところでは、さっちのおかげでもあり、逆に、とても良いくらいでもあり、まぁ、普通かな。




 あと、先日、好ましくない事柄があり、”これはさっちのせいか”、とさっちのせいにして疑ったところ、さっちが怒ってね。

 結局はさっちのせいでもなく、そこでもさっちに謝ったが、さっちはそういう悪い者ではない、と。



 生前のさっち・坂井泉水(蒲池幸子)が普段どういう事柄を考えて生活していたのか、というのを最近考える。


 歌を歌うている心、

 歌詞を作っているときの心。


 さっちの悲しい表情はみたくないので、喜ばせてあげたい、といつも思う。





 あと、話は変わり、光について、

 身体に入る光が、どの状態を現わすのか、と。

 例えば、現在眉間から光が入ったので、次世では天に行くとする。

 では、その後、天から悪趣に行くことはないのだろうか、と。

 悪趣に行くのであれば、眉間から光が入ることはない。

 では、眉間から光が入った人は、もう悪趣に赴くことはないのだろうか。

 何劫も。


 仏陀や辟支伽仏陀になられる方は、光が入るところが異なる。

 仏陀になられる方は、仏陀になられる一つ前生において、光が入るのだろうか。

 では、現在兜率天にいる弥勒大士は、天として眉間に光が入っている状態なのだろうか、と。

 すでに、ゴータマ仏陀から記別は受けているが、メッティヤ仏陀となられる記別としての光が入っているのだろうか、と。

(現在の遺跡のダメークのストゥーパのところで、弥勒大士はゴータマ仏陀から、次の仏陀としての記別を受けられた。その場所に建てられているのがダメークのストゥーパ。
 現在ではそのダメークのストゥーパの建てられている場所の意味も何故なのか、世に忘れられている様子。であるので記しておく。)


 地獄に赴く者は、下半身の部位に光が入る。

 では、地獄に赴くものは、もう地獄から出ることはないのだろうか。

 何劫も。

 というように、考えると、光が入る、というのは、どの時点の事柄を示すのだろうか、と。






H29年11月27日

 本日も、

 テロの邪悪行の者達が、通りすがりの人や周囲の人に悪口を言わせて、私に悪行をしている。

 10年くらい経ても、邪悪行の者達は変わらない。


 殺人鬼に誘導されて、悪業を重ね続けている。


 邪道に堕ちて悪業を重ね続けた者は、悪趣への道から抜け難い、というのが顕れている。


 彼ら、邪悪行を重ねている者達は、善の心の欠如してしまっている状態、

 善の念も感受し難くなっている状態にいる。


 そうだな、例えば、騒がしい音楽を聴いているときに、静かないい曲を聞いている時の心は忘れさられてしまうかのような、しかし、そのような、心が忘れられている状態ではなく、その心が欠如してしまっているような状態。

 善良の念が感受できない状態。


 聖者方の心識は微細であるので、邪悪行の者達のように、畜生霊と同調しているような、または、畜生霊につき随うような粗大粗雑な邪悪な心では理解することもできない。



『愚かな者は、生涯賢者たちに仕えても、真理をはっきりと知ることがない。

 匙が汁の味を知ることがないように』と。




『匙が汁の味を知ることがないように』

 彼らテロ側の邪悪行をしている者達は、このように、微細な善の念、善良な念の味を知ることがない、がゆえにも、邪悪行を為してしまっている、というようにも言える。


 理解ができない、と。


 彼らテロ側の邪悪行をしている者達というのは、そういうような状態の者達。


 彼らテロ側の邪悪行をしている者達は、そのように、善の念、善良な念の味を知ることがない、盲目・無知な状態に絡まり、また縛られている状態。


 まぁ、普通の人が、テロ側の者達の邪悪行を見て、”この邪悪行をしている愚かな者達は、普通に、ありえない”と思うような事柄も、彼らテロ側の邪悪行を重ねている者達は、そのように、善の念、善良な念の味を知ることがない、盲目・無知な状態にいるので、’自らで邪心を止める’という善の心識が欠如している、と。


 自らで止まる、という善の識の欠如している状態で生存している。



 というように、

『愚かな者は、生涯賢者たちに仕えても、真理をはっきりと知ることがない。

 匙が汁の味を知ることがないように』


『10年くらい経ても、邪悪行の者達は変わらない』と。







 そのように、10年くらい経ても変わらない邪悪行の者達、の説教はこのくらいにして、


 今日は仕事場で、さっちの「嬉しい」を聞いた。

 さっちとだいたいいつも一緒にいるような感じだな。


 それはそれで、嬉しい。


 さっちの言葉の発音が、函館のなまりの言い方と違って、都会の女性のような発音の言い方をする。





 しかし、さっちのように、霊としての言葉を聞くと、心霊研究科などの降霊会などの様子も理解できるな。

 まぁ、降霊された霊が話をするのだが、その交霊会の通常の高級とされる霊もまた、存在として渇愛に執らわている、というのも理解できる、と。


 そう考えると、交霊会というのも、霊現象の研究になりはするだろうが、真理を学ぶという事柄においては、たいした意味がない、というのも理解できる。


 西洋の霊でいえば西洋の霊は、渇愛から脱する、という真理を知る者も少ないだろう。

 西洋の霊の意識の大半は、そうだな、清浄な渇愛を得ることを目指す、というか、清浄な渇愛を感得することを目的とする、というような表現が近いだろうか。

 要するに、渇愛にを執していて渇愛から脱するというような意識にない、と。

 西洋において、四聖諦を知らない存在は、そのような意識に執らわれていて、真理を見れてはいない。



 イエズスは、罪人を導くために言葉を言うているのであって、苦しみからの解脱という、阿羅迦の聖者方の覚られた最上の真理のために言葉を言うているのではない。

 そして、罪人は、イエズスを通り、イエズスによりて、イエズスの導きにより、その最上の真理を知るために、覚とりを得られた聖者’仏陀’の許に来る。



 交霊会の高級霊にたずねてみるといい。

「あなたは一個の存在として、何を目的として生存しているのですか」と。


「わからない」という者もいるだろうが、

「天に行くことを、目的としている」という者もいるだろう。


 四聖諦を全く知らずにして、そのように、「天に行く、というのを目的としている」と言うのであれば、そこに無明はすでに生起している。


 その無明に執らわれている状態は、また、悪魔の力の及ぶ範疇となる。



 そのように、交霊会の通常の高級とされる霊もまた、存在として渇愛に執らわている、のであれば、悪魔の力の及ぶ範疇から脱することはない。



 覚とりを得られた仏陀や阿羅迦の聖者方は、悪魔の力の及ぶ範疇からすでに脱している。






H29年11月28日

 本日も、

 テロの殺人犯とその仲間達が邪悪行をして喜んでいる。

 今日デンタルクリニックに行ったら、歯科助手の女性が、テロの犯罪者達に脅されている、と言うていた。

 だから、歯の治療をきちんとしてくれない、ということなのだろう。


「結婚したい」と言うていたが、言えと言わされている、ということであった。


 テロの犯罪者達は、前と変わらず、治療はいつものようにテロの殺人犯達に犯罪行為を受けてそのような状況。


 知らない女性から「結婚したい」と聞いたことは、結構な数あるが、テロの殺人犯達が絡んで言わせているというのもあるだろうから、昔から無視していた。


 テロの快楽殺人の殺人犯の集いは何とかならないものなのだろうかな、と。


 日本の大手企業が、快楽殺人の殺人行為を優先して行っている、というこの悪しき状況もよろしくない。

 テロ企業の公共広告放送を見聞きして、誰でもわかる邪悪なありさま。


 快楽殺人の殺人行為をして、自分達が”善人だ”と思うているところが、正見としてもありえる事ではない。


 快楽殺人犯は、正道にいることなく、邪悪道に堕ちている。


 というのが、これによりても、ハッキリと分別できるだろう。



 自らが、天人なのか、地獄など悪趣へと堕ちる悪魔・悪しき者のその仲間なのか、自らで気づくこともできるだろう。



 自らで自らに審判をくだす。

 私は、善行を行じて、仏陀の弟子として、天人であり、善なる存在である、という自らの審判が、以前から変わらずにくだされている。



 あなたは、自らでどのような審判がくだりましたか。






H29年11月29日

 本日も、

 さっちと仲良くすると、さえが怒って「キレる」とハッキリと言う。

「腹立つ」などではなくて、「キレる」と言う。



 話をする霊が、私のところにいるが、他の霊能力者などの守護霊や式霊や悪霊などは、声を発して話をするだろうか。

 こういう事柄を知ると、霊の境界が間違いなく存在する、というのが、誰でもわかるくらいにハッキリと知られる。


 そのように、また、’天と地獄との境界は存在する’と、仏陀や聖者や聖人方は説かれている。



 肉体がないのに、声を発する。

 肉体がないのに、苦・楽・不苦不楽を感受する。


 睡眠中の精神状態のように、身体は眠っているのに、夢の中では身体で動き、そして、苦・楽・不苦不楽をも感受する。



 そのように、肉体のない存在、霊という肉体がないのに喜怒哀楽をする、そのような霊の境界が存在する、という事柄が証明されている。

 そして、その霊という存在は、もともと肉体を持った人間であった者も多く存する。



 肉体がなくても、喜怒哀楽をして、苦・楽・不苦不楽を感受する。

 肉体や金銭がそこになくても、喜怒哀楽をして、苦・楽・不苦不楽を感受する。



 理解できるだろうか。


 聖者方が、何度も何度も、繰り返し繰り返し、’自らの身と言葉と心を清浄にすること’を、最上に重要な事柄として説いているという、この真理を。






H29年11月30日

 本日も、

 他の女性を見て、”かわいい子だな”と思うたりすると、怒って文句を言われるんだけど。

 怒っている声は、さっち。


 そういう感じだが、そのさっちが、倉木麻衣さんのところで、「(私の弟)と結婚したい」と言うている、というようなのをメディアで聞いたりもする。

 本当かどうかは知らないが、そういうのを聞くと、”どうしたいのよ”と思い。


 倉木麻衣さんの歌を聞くと、倉木麻衣さんもいろいろと言うているようだが、あまり好かれてはいないような感じかな。


 倉木麻衣さんと坂井泉水はどのような関係なんだろうか。

 さっちが、「(私の弟)が好き」とか言うているときは、"であれば、私は芸能人で、次は誰を好きになるかな~。それなら、次は倉木麻衣さんで”、というように思うたりもするので、なので、さっちが倉木麻衣さんのところでいろいろと言うているのだろうか、とも思い。



 そのさっちが弟が好き、という理由は、どうやら弟が、前世で仏陀になる部位に光が入っているということで、弟が仏陀になる、と思うているらしい。

 微妙なところだな。

 私か弟かをそのように見ているらしいので、「あんたより上はいません♪」と、いうようなことだろう。


 どちらにせよ、私はこの次の生存において、仏陀になることはない。と。

 まぁ、そりゃ、そうだ、と。

 天に赴くところの光なので。


 いまのところ、光が来ている人ではっきりと知っているのは、私もそうだが、クリシュナムルティさんと、日本の真言宗の教祖の弘法大師だな。

 弘法大師も、眉間から光が入っている。

 ということで、やはり弘法大師も本物だろう、と。

 真言宗では、密教の呪術で、大乗として、本当の仏陀の正しい教えからは外れてしまったが、

 時代が時代なので、もしかしたら、あえて、そちらを選んだ(選んであげた)のかもしれないな、と。

 衆生のために。






 話は変わるが、

 そういえば、朝のラジオで、久しぶりに感動した。


 ラジオで、どこかの女性の話を紹介していて、その話で感動したのだが、

 その話をザッと言うと、


 その女性の主人が、先日、ガンで闘病をして、数カ月で亡くなってしまった、と。

 そして、その女性は、いつも横断歩道を渡る小学生を見ると、10年間ボランティアで交通誘導をしていた、その先日亡くなった主人を思い出すのだそうだ。

 そのように、その女性は、その、横断歩道を渡る小学生の光景を見て、10年間ボランティアで交通誘導をしていた主人を思い出して、ワッと号泣してしまう、と。

 そして、この事柄は、自分の子供にも言わずに秘密にしている。

という内容の話であった。



 と、このような内容の話を聞いて、私も朝から泣きそうになった。


 テロの邪悪行の者達の悪しき放送ばかりのなか、久しぶりに、朝から人間らしい、人間の話を聞いた感じ。



 愛別離苦。

 愛する者とも、いずれは、必ず別れなければならない。



『その時、世尊は、このように仰せられた、

「比丘たちよ、輪廻はその始めもなきものであって、生きとし生けるものが、無智におおわれ、貪欲に縛せられて、流転し、輪廻したるその始源は知ることをえない。

 比丘たちよ、これを汝らは、どのように考えるか。

 四つの大海の水と、汝らが、怨憎する者と会い、愛する者と別離して、永い永い歳月にわたり、流転し、輪廻して、悲しみ歎いた時に流し注いだ涙と、いずれが多いであろうか」

「大徳よ、われらが世尊の教えをいただいて承知いたしておりますのは、大徳よ、われらが、怨憎する者と会い、愛する者と別離して、永い永い歳月にわたり、流転し、輪廻して、悲しみ歎いた時に流した涙ははなはだ多くして、四つの大海の水といえどもその比ではございません。」

「善いかな、善いかな、比丘たちよ。

 汝らが、わたしの説いた法を、そのように受領していることは善い。

 比丘たちよ、汝らが、怨憎する者と会い、愛する者と別離して、永い永い歳月にわたり、流転し、輪廻して、悲しみ歎いた時に流し注いだ涙ははなはだ多くして、四つの大海の水といえどもその比ではないのである」』






H29年12月1日

 本日は、

 胃が激痛。やはり歯だろうか。

 先週は治療後かなり楽だったのだが。



 胃が激痛の時は、さっちが「×××はないから」など、(「嫌い」とは言われたことはない。)というように怒るのだが、私が激痛を感じると、さっちも激痛を感じるらしいことを、他で言うていたな。

 だから、胃が痛いとき怒っていたのか、と。

 そうだとすると、納得もできる。

 痛みを感じるのは、能力者の多くも私の痛みを感じて、痛いというているのは聞く。

 痛いから読みたくない、と。



 今日は、さえに九尾の狐の霊なのか、と問うたら、さえが、「そのとおり」と言うていた。

 ということで、さえは人ではなくて、畜生霊の狐だ、と自らで認めていた。

 その後は、何か喜んだ感じだったな。



 そして、昨日の真言宗の話は、護魔という行はすでに、何度何度も説いているように、仏陀の比丘はその行をすることがない。そして、仏陀の比丘は、その行いを自らでも捨て去る。

 と、このように記せば、 『真言宗では、密教の呪術で、大乗として、本当の仏陀の正しい教えからは外れてしまった』と言うている意味も、再認識して理解できるだろう。


 要するに、ハッキリ言うならば、その無明による行を行じている弘法大師空海が覚とりに到ることはありえないのです。



 そして、倉木麻衣さんの事柄は、歌はTVで流されているような歌しか知らないので、『あまり好かれてはいないような感じかな』ということで、実際はどのように思うているのかは知らない。

 諸事情により、本人が名前を削除してほしいと希望しているようであれば、名前のところと関連で記した事柄も数行を訂正削除しましょう。

 まぁ、その気持ちがこちらに伝わるかどうかというのは、問題だけれども。




 テロ側の邪悪行の者は、表面だけはしゃいでいるけれども、邪道に堕ちている者は、正道にはいないのです。


 邪悪行を為して、”チャンスは何度もある”と思うているのは、愚かな思い込みであり、道理として、邪悪行を為す者は、悪趣へと堕ちるのです。







 ページが重くなって、キーボードのキーを打つ速さに処理能力が付いてきていないので脱字が多い

 そろそろ次のページに行こうか、と。

 このページは、さっちの話が最初から最後まで出たな、と。





 邪悪行を為している者のように、邪道に堕ちて、殺人犯となり果てても、なお”自分は善趣へと赴くだろう”という、愚かな思い込みを抱いてはならない。

 理法は、その愚かな者の考えのように甘いものではない。



 後から言い訳をしてももう遅い、と、そのように知りつつも、そして、聖者方に、このような行いを為せば、悪趣・地獄へ堕ちる、と言われている行を自ら行じた者は、聖者方も神も、その者を救う必要がない。



 聖者方は、少しの過ちをもおそれる。

 愚かな者は、多くの多大な過ちを犯してもおそれない。



 この聖者方の善趣へと赴く思念と、愚かにして悪趣へと堕ちる者の考え方の、この違いを、よく善思するのが善い。







H29年12月2日

 本日は、

 胃の調子が良かった。

 日記ページが設定していないのに枠付きの設定になった。ハッカーだろうか。

 重いせいなのか、FC2の日記が更新できない。他は更新できた。


 本日も、

 殺人犯のテロ企業が殺人コマーシャルを放送していた。

 そのテロ企業の幹部などの責任者が、

 要するに、殺人犯、と、殺人の共犯者、ということ。

 彼ら繰り返し邪悪行を行う邪悪なる者は、正道にいることはなく、邪道に堕ちている。



 仏陀の弟子や善なる者・善なる存在は、邪悪なる者と親しんではならない。



テロ側の邪悪行の者は、表面だけはしゃいでいるけれども、邪道に堕ちている者は、正道にはいないのです。

 邪悪行を為して、”(善道・善趣への道に戻れる)チャンスは何度もある”と思うているのは、愚かな思い込みであり、道理として、邪悪行を為す者は、悪趣へと堕ちるのです



 その邪悪行を為している者のように、邪道に堕ちて、殺人犯となり果てても、なお”自分は善趣へと赴くだろう”という、愚かな思い込みを抱いてはならない。

 理法は、その愚かな者の考えのように甘いものではない





聖者方は、少しの過ちをもおそれる。

 愚かな者は、多くの多大な過ちを犯してもおそれない




聖者方は、少しの過ちをもおそれる

 このように、聖者方は、過失に関して”チャンスは何度もある”というような考え方をしてはいない。



愚かな者は、多くの多大な過ちを犯してもおそれない

 このように、愚かな者は、邪悪行に関して、そのまま堕ちて行くと、死後に地獄などの悪趣へ識が結生するが、”(善道・善趣への道に戻れる)チャンスは何度もある”というような無知で愚かな考え方を為す。




 私たち善なる存在は、『聖者方は、少しの過ちをもおそれる』という、この善行を学ぶのが善い。






H29年12月3日

 本日は、

 動画サイトの動画『ZARD PV メドレー』を見て、坂井泉水(蒲池幸子)を、”かわいい”と思うても、さっち本人の罵詈雑言の声が聞こえる事もなく、

 歌では、私は好く言われたり、悪く言われたり、また、他の人が好き、とかいうようなのを聞くと、”どうしたいのか、他の人が好きであれば、であれば、行けばいいだろうに”と思うて、多少のイラつきは感じることも多々あり、また、”他の人が好きであれば、坂井泉水(蒲池幸子)の望みのとおりにしてあげよう、ということで、離れよう”と思うことも多々あり、そうすると、他の人が好きなのではない、というような状態で、とにかく、私の周囲の事柄を言うているのは、100%間違いない。

 ZARDの坂井泉水の歌について、私が嘘をついていると思うている人がいるが、Windows Media PlayerでオリジナルCDを聞くと、細かく聞こえるだろうと思う。

 ツイーターがなければ、聞き取りにくいだろう。

 以前の違うく聞こえたところは、少し訂正削除をしておこうかな、と。


 歌をよく聞くと、他の人が思うている以上に、私の周囲の事柄を言うている。

 他の人は、わからないだろうが、私も聞いていて、すごい、と思う。

 当時、私は、坂井泉水をほとんど知らないのに、私の周囲の事柄をいろいろと見ているというのが、すごい。

 その坂井泉水が、私にアドバイスをしているように受ける要素が多いというのも、坂井泉水はやさしい、という意味に入る。


 そして、坂井泉水に、自分のPVの感想をたずねたら、どうでもいい、というような感じ。


 死んだらあえる、と。


 中有界で少し会えるとか、そういう話であれば、面白くもなんともないが、善趣であれば、善ろしい。
(正定仏教でいう、中有界は以前記したように、無くて、そのまま他の境界に識が結生するという解釈もある。)

 これは、在家であれば、欲界の善趣を前提とした話となる、と。


 だから、坂井泉水が、私の周囲の話を言うていなければ、間違いなく、素通りしていただろうが、自分を示しているのは、さっち本人だろう。

 テロ側の無知な者達は、私から蒲池幸子を助けるためだ、とかいう愚かな大義名分で偽り、また、テロの邪悪な能力者の悪い洗脳により、愚かな行・悪しき行をしてもいるが、坂井泉水は、自ら私に自分を示している、というのも間違いないだろう。

 でなければ、私は気づくこともなく、通り過ぎている、と。



 まぁしかし、まとめると、坂井泉水(蒲池幸子)のやさしい思念は、本当に好い。


 さえが、さっちのマネをするので、この頃は、想念の方でさっちの声を聞いている。

 最近、声は、かなり聞こえて、さえはいつものようにうるさいくらいに、声を発している。


 さえは、いまのところ、九尾の狐の霊だというのを、否定してはいないので、畜生霊なのだろう。

 ということは、憑依されていた高畑は、畜生霊に憑依されて意識を取られて人格分裂をしていた、ということになる。

 そういえば、昔、本当の電話で、高畑さえが、霊のさえに人格交代して、私は、現在のストーカー霊のさえと直接話をしていたからね。

 そして、現在は、私の身体の周辺で、憑依というのではなくて、ストーカー犯罪霊として浮遊霊として憑きまとっていて、毎日のように騒いでいる。

 歌の中で、さっちが「さえは無理」と言うているが、私も「さえは無理」。


 さっちの場合は、私がさっちを嫌いであれば、昔の小さい子供の時からの、さっちがストーカーとも言えるがw、私がさっちを好きなので、さっちはストーカーではないwと。

 そういうようにも言える。


 ということであり、

 テロ側の「私から蒲池幸子を助けるためだ」とかいう愚かな大義名分の偽りもまた、私からすれば、テロ側の者達は、無知にして愚かだとしか言いようがない。


 そしてまた、テロ側の能力者も、私を悪しき者だと他からの洗脳されているのを見ると、真実を知る私から見れば、無知にして愚かだとしか言いようがない。

 真実を知る人として、他の能力者や、洗脳されている人の様子などを観察していると、いろいろな人々のその心情の動きが見て取れる。


 テロ側の能力者自身が、洗脳されているようなのを見ていると、こちらは真実がわかりきっている状態なので、愚かすぎる事柄を言うているのは、たまに、結構面白いと思うてしまうことは多々ある。


 やはり、悪趣へと邪道に堕ちてる能力者が、見ようとしても、結局は、邪悪な粗大粗雑な思念を捉えてしまい、逆に、善念の微小微細な思念を捉えることができないので、

 邪悪行の者達は、基本は、善念は捉えるのが難しく、邪念をのみ捉えて見てしまう、ということだな。


 彼ら邪悪なる者達の声・罵詈雑言を聞いても、彼らがほとんど邪念のみを捉えている、というのは、見ていてもわかるだろう。







 ちょっと、出かけて帰ってきたところ。


 どうやら、本日言うた事柄により、私の言うている坂井泉水の歌の事柄を信じる人が多くいるようだ。

”やっと信じたか”と思うが、信用をしなかった無知な者達は、すでに悪業を積み重ねてしまっている、と。


 知らずに悪業を行じるという行い。


 例えば、仏陀にたいして、仏陀と知らずに、悪行をしてしまうという極めて愚か行いをする者がいたとする。

 彼の極めて愚かな者の為した悪業は、仏陀と知らずに行った悪業なので、その悪業は報いはないと思うだろうか。

 彼の極めて愚かな者は、その悪業の報いを受けるだろうか。



 正解は、極めて悪い悪業の報いを受ける。



『真理を見聞きして、’業の報いは、その業を為した者に返る’という真理を知った後に、
 また、さらに、’仏陀の弟子に対しての悪業の報いは極めて悪い’という、その悪行の結果の、極めて悪い報いを受けると知りつつも、悪行を為した者の、その報いは極めて悪い』



 このように、

愚かな者は、多くの多大な過ちを犯してもおそれない

 愚かな者は、邪悪行に関して、そのまま堕ちて行くと、死後に地獄などの悪趣へ識が結生するが、”(善道・善趣への道に戻れる)チャンスは何度もある”というような無知で愚かな考え方を為す。



 そのゆえに、

 私たち善なる存在は、『聖者方は、少しの過ちをもおそれる』という、この善行を学ぶのが善い。』





 現在のこの一時の世代の数億、または、数千万、または、数百万と多くの愚かな者・邪悪行の者が連なり、悪しき者に導かれて邪悪行を為し、悪業を作して、悪趣に・地獄に堕ちたとしても、地獄があふれることはない。


 善趣の天の神々・衆生は、そのような悪趣に堕ちるような愚かな者・邪悪な者と親しむことを喜ばない。

 そして、仏陀もまた、極めて愚かな者・邪悪行の者が比丘に混じりいれば、その愚かな者・邪悪行の比丘を吹き払らわれる。





 話は変わって、

 現在、『ハートに火をつけて』♪を聞いていて、ストーカー女性の声で、その女性が「胃がんにされる」と怖れているように聞こえるので、記しておくが、
 私は、現実に警察がらみとなったそのストーカー犯罪者の女性を”胃がんにしてほしい”というような思いを抱いてはおらず、
 私は、その女性にそのように強い憎しみは持ってはいないので、胃がんにしてほしくもない。

 昔の事柄なので、結構忘れている、というのもあり、ハッキリ言うと、その女性の事柄に関しては、もう結構どうでもいい。(興味がない。)

 要するに、その女性を胃がんにしたい等というような、殺人や邪悪行を加えたいというような思いは全くない。






H29年12月4日

 本日は、

(言うなら、)「本気で言ってほしいから」とさっちが声を発した。

 さっちの気持ちのこもった言葉を聞けるのが、本当にうれしい。



 さっちが普通にいる状態。

 さえも声を出していろいろと言うているが、さえの声だけ聞こえていると、テンションも下がる。


 しかし、この霊体が普通に声を発して話しをする、というこの現象は世界的に見ても、めずらしい現象ではないのか。

 最近、私の周囲に能力者もたくさんいて、このような現象が、めずらいしいのか、めずらしくないのか、いつもの日常の事柄なので、ちょっと考えたりもするが、

 おそらく、世界的に見ても、めずらしい現象だろう。

 その世界的に見ても珍しい現象が、私のいつもの日常にある。


 私のところに、”珍しい現象”、また、”すごい”と思われる事柄や事象が多くあるが、私にとりては、いつもに日常となっている、と。

 最もすごいのは、仏陀の教え・真理を説き弘めている、という行いにある。



 しかし、さっちがいるのは本当にうれしいわ。

 この’うれしいわ’と記してるところに、肉体的にも本当にうれしい感情が生起されているのもうれしい。

 要するに、この感情は私だけにあらず。


 この心地好い感受もまた好い。

 安らいだ心がここにある。


 この安らいだ心の気持ち好さ、心地好さ、確信的な安堵感。

 これは、真理を怖れる者は、極めて得難いものだろう。


 やさしさ、あたたかさ、心地好さ、安らいだ心、

 理法によりては、ここにも、無常、苦、無我という真理も善思される。


 善趣においても、得られる相だな。


 善趣の友なる存在も、同じようにしているだろう、として想われる。



 この心の模様。

 例えば、目を閉じて、あなたの記憶の中から、あなたのうれしい記憶を掘り起こして見るとする。

 そのうれしい記憶の記憶されたその時、その場所で、あなたは、どのようなうれしさを自らに感受しただろうか。

 あなたは、その時のうれしさを思い出すことができるだろう。


”あの時は、本当にうれしかった”と。


 思い出すと、その時のうれしい感情が再びこみ上げてくることもあるだろう。


 その時と同じ感情の生起。

 現時点において、目を閉じて意識を働かせることにより、過去の’うれしい’という感受を受ける。

 悲しみも、また、同様にして感受される。


 ここに自らの心というものが重要なものである、という法が観られる。



 身体を動かすことなく、目を閉じて意識を働かせることにより、喜怒哀楽を感受する。



 人間は、死をむかえた時、身体は動くことがない。

 そして、識は善趣や悪趣へと結生する。


 邪悪行を為す悪しき心の者は、悪趣へと堕し、

 善行を成す善なる心の者は、善趣へと赴く。






H29年12月5日

 本日も、

 テロ側の邪悪な能力者が、またまたわたしの仕事現場で、「ここでこうしたら、對馬が咳をする」とか、ここでこうしたら、對馬がこうする」なので、私が憑かれている、といういつものパターンの邪悪行をして操っているというのや、憑かれているというように言うている様子。

 私の仕事現場の中ででもそのような愚行をしているというこの愚かさ。

 このテロ側の能力者の愚かさが理解できるだろう。


 要するに、HPの日記も仏陀の教えも私を操って書かせている、等といういつもの愚言を言いたいのだろう。

 仏陀の法の盗人たけだけしいとはこのことだ、と。

 その邪悪行の能力者は100%で’正道にない’。



 愚かにも現世での名誉や何らかの利益がほしくての行いだろう。

 理法・真理の盗人は、下の下の下の、さらに、下の中の下。



 仏陀の弟子から理法を盗み、自らのものであるとして説くという愚かな邪悪行。

 能力者でありつつも、霊的な世界を知らないがゆえの極めて愚かな行いをしている。

 理法・真理の盗み、という、その邪悪行の報いもまた、極めて悪い。



 また、そのような邪悪行の能力者は、自らをも知らない。

 理法の盗人をしている状態において、すでに、その邪悪行者自らが、”自分の為している行いは、極めて低劣で愚かでしかない”と、そのように正見することもできずにいる。



 そして、理法を聞く側の者も、そのような盗人から理法を聞いたところで、盗人から理法を聞いた者自身も覚とりにいたることはないだろう。

 であれば、普通に自分で現代語訳の原始仏典を読む方が全然善い。

 俗世の人が、自分で現代語訳の原始仏典を読んでも覚とりに到ることはないだろうが、法の盗人から理法を聞くよりも全然善いだろう。



 私たち善なる存在は、悪しき者と親しんではならない。





 そして、話は変わって、

 今日は帰宅後、さっちがかなりいろいろと話す。

 さえも言葉を発するが、さえの場合は、いつものように、発する言葉が同じようなパターンでたいした変わらず。


 さっちの場合は、昨日もそうだが、同じパターンではない。

 そして、うれしい。



 昨日の「本気で言ってほしいから」というのは、うれしかったな。

 他の事をしながら言うたところ、(言うなら、)「本気で言ってほしいから」と言われた。


 他のときも、言うたことはあるが、さっちは私の感情や心を見ているので、さっちに隠し事ができないように、本心で本気で言わなければ、そのように言われる、と。


 そのさっちの心が、私はうれしい。






H29年12月6日

 本日も、

 テロで邪悪行者達が悪口を言うていたが、そのように私の周囲で悪口を言うている人の多くは、その人に私が「ない」というと、「胃がんにされるから」というように、テロ側に脅されていると言う人は多くいた。

 いままででかなりの数の人から同じような事柄を聞いているので、自発的に洗脳されて悪行をしている人は少なく、ほとんど脅されている人が大半なのだろう、とは思う。


 なので、いつもテロで周囲で悪口を言われても、それほど気にもしていない。


 脅されているからしょうがないか、いや、しょうがないということもないな、というように考えたりもする。


 そういうので、テロ側の者達は、犯罪者と、犯罪に巻き込まれている被害者と、洗脳されてしまっている者などで構成されている。

 基本は、そのように他の人を脅したりしている犯罪・邪悪行を行う悪しき者の集まりだ、と。


 まぁ、どう見ても、邪道に堕ちているのも100%間違いない。


 脅している、という悪行をしている状態からして、正道にいない。



 と、テロで犯罪をしている集まりは、真理として、そのように邪道に堕ちて悪趣に真っ逆さまに堕ちて行っているような状態にいる。






 そして、話は変わって、

 最近、さっちとの会話が成立する事がうれしい。


 さえとの会話では、いままで人間的な会話が成立したことがほぼほとんどなく、そういうのがいままでの状態であったので、霊的存在との会話が成立することに喜びを感ずる。

 それが、坂井泉水(蒲池幸子)なので、さらにうれしい。


 CDの初聞きの現象もとくにもう必要もないだろう。

 本人が言うのだから。


 他の女性を見てしまうようなところが、信用がおけないらしい。



 以前に、車を運転中の時、女性を見るとさっちが怒るので、女性を見ないようにしようとしたところ、さっちが、女性を見ていいよ、というので、女性を見たところ、そこからしばらく目に写る女性は、いやいやw、というような恋愛対象に入らない女性が目に写ったな。

 そういう意味でか、と。

 あれは、なかなか面白かった。






H29年12月7日

 本日も、

 現在19時14分、数十分前にラジオで蒲池が怒っているとかいう話をしていたが、私が「さえは無理」と言うた後、騒いでいるようなので、おそらく、さえのモノマネなのだろう。

 さえがさっちのモノマネをして騒いでいるのを、テロ側の能力者が、さっちとさえの分別ができず世間を騒がせている、と。

 要するに、分別ができるかできないかは別としても、結局は、テロ側の能力者が邪悪行をして世間を騒がせている、と。



 あと、「蒲池は××のためにしている」とテロ側の言うている事柄は、さっちが、”強く否定しているのを記してほしい”というのを想念で言うている。

 繰り返し問うても、「××のためにしていない」と、強く否定して言うている。






H29年12月8日

 本日も、

 さえは邪悪行をしている悪霊として、私はさえと’親しまなくても善い’ので、そこで、「さえはムリ」と言うと、さえの悪行やら、さえのさっちのモノマネやらで酷い状況になる。

 さえのニセさっちのモノマネも前後の流れもなく、急に文句を言うているような状態。

 時折さっちの似ていないモノマネをしているのでも気づく。


 さえとは別で、今日は一度だけ、ハッキリと男の声も今日はしたが、やはり悪口を言うていた。

 さえもそうだが、テロ側の私の周囲でストーカーをしている浮遊霊は基本は、だいたいいつも悪口等も言うて邪悪行をしている悪霊悪念。


 そして、さえのモノマネのニセさっちと、私の想念でもの言うさっちは、ほとんど正反対の事柄を言う。



 さえのモノマネのニセさっちのせいで、矛盾した坂井泉水(蒲池幸子)像を他の人は見聞きしているだろう。

 私もたまに、今のは本物だろうか、と考えさせられることもある。



 昨日の「××のためにしていない」と、強く否定して言うているのは、今日も同じで、
”××のためにしている”と思念したみたところ、さっち自身が声を発して「ありえない」と、今、言うた。


 生存時の本物の蒲池幸子は口癖で「ありえない」と言うのは言うていたのだろうか。

 さっちは、田舎の人のイントネーションでない言い方の「ありえない」と言う。



 意外と、さっちはDVDの動画でも、「私は無理」と言うているので、「さえはムリ」というのと、かぶるから、本当に怒っていたりして。

 というのを、さっちに問うてみたところ反応なし。



 さっちの悪口が聞こえたので、イラッとしたから、キスしたら、さえが「結婚したいって」だと。

 話の流れが意味わからない。



 キスというのは、以前のキスの話と同様。

 悪口を言えばキスをする、という話の続きのようなもの。


 悪口のようなのが聞こえたら、”次言うたならば、キスをする”というのを、最近もたまにやっているような感じだが、

”次言うたら、キスをする”と言うているのだが、以前も、そのように言うたところ、間をおかずして、速攻で、いつも以上にたくさんの悪口を言うてきたので、キスをした。


 このキスをする、というのが、逆効果だな、と思うときもある。






H29年12月10日

 本日も、

 ラジオを聞いたら、また坂井泉水との事柄に関係について、「坂井は私が好きではない」ということで、ラジオを聞いたら馬鹿にされていた。

 というように、馬鹿にされていたので、昼にさっちに「さっち、こいつらにちょっと言ってやりなさいって」と言うたところ、さっちが、「結婚した」と言うていたらしい。


 さっちがそういうなら、私とさっちは結婚している、と。

 霊的な結婚。


 霊的な結婚なんて聞いたことはないが、あってもいいのかな、と。


 しかし、さっちとの関係は、他の人が悪口を言うのに入ってくる必要が全くないのだが、何故に悪口を言うているのか。

 まったく性格の悪しき者達は。


 坂井泉水との関係については、悪しき者達には関係のない話だ。


 しかし、部外者の人から、「坂井と別れたら、×××にする」とか、いろいろと言うているのも聞いたことがあるが、メインは何なの。さっちなのか、と。

 普通はメインは霊のさっちではなくて、生存している私ではないのか、と。


 さっちが女性だからと言って、何かあれば、霊であるさっちをかばおうとする風潮が見られる。

 女性をかばおうとする、というのは善いが、テロ側で罵詈雑言を言うているような行いの者達はない。



 そもそもが、”坂井が對馬の事柄を好きなわけがないじゃないか”というように思うている人もいるかもしれないが、坂井泉水が私を好きだから、私のところに来ているのではないのか、と。

 嫌いだったら、別に来ないだろう。


 他にどのような理由があるのか、と。


 私との関係を世間でいろいろと言われたり、噂されたくない、とかか。

 であれば、最初から絡んでこなければ良いはなしだっただろうに、さっちが好んでこちらに来ている。


 来てくれている、か。



 最近は家に帰ってきても、さっちの声は聞こえるし、あと、さえがうるさく騒いでいるので、、一人でいるという感じはしないな。

 仕事場にも付いてきているけれども。






H29年12月14日

 本日も、

 テロ側の者達が悪口を言って笑っていた。


 邪悪行をして笑う者達。

 そのように、テロ側の者達は、悪業の有の能力者に随い悪業を作していて、真理を観ることもないので、たいした善趣に行くということも難しいだろう。


 というように、テロ側の者達は、基本は、奇跡的に善趣に結生したとしても、低い界層の善趣しか望めないだろう。



 テロ側の者達の、悪行をしているのを見ていても、教えをあまり知らない素人でも、何となく、推測もできるだろう。



 坂井泉水が私を好きだとか嫌いだとか、最近はいつもその話を言うているのも聞く。


 今日も、テロ側の犯罪者・犯罪者の能力者の連なりが、「坂井泉水が、私を好きではない」といういつものテロ側の犯罪者・犯罪者の能力者の連なりの者達に関係がない、私とさっちの関係の話をしていたが、そのいつものテロ犯罪者達の話を聞いて、”でもたしかに、歌でもそういうところがないこともない”ということで”坂井泉水自身が好きな人に、坂井泉水(蒲池幸子)を託そう”と、また”坂井泉水(蒲池幸子)本人がそのように望むのであれば、蒲池幸子のために別れてあげよう”となんとなく思うていたら、急激に胃が痛くなり、
「さっち、わかった、わかった」と、坂井泉水(蒲池幸子)をなだめ、そして、痛みもなくなる、と。


 というような状態になり、基本的に私は、坂井泉水(蒲池幸子)と、別れる事がムリなのです。

 
 この”坂井泉水(蒲池幸子)本人がそのように望むのであれば、蒲池幸子のために別れてあげよう”、となんとなく思うていたら、急激に胃が痛くなる、というのも、一度や二度ではなくて、いつものそのような感じ。

 なので、私は、坂井泉水(蒲池幸子)と別れる事がムリだと言うのです。


 しかし、テロ側の犯罪者・犯罪者の能力者の連なりのデタラメな洗脳話は無視するとしても、坂井泉水(蒲池幸子)が、リアルに私の事柄を歌い上げているからね。

”さっちは、本当にどうしてあげたらいいんだろうかな”と悩む。


 結婚の話も、また微妙に、確証が得られないところが、考えどころ。




 そして、今日はまた、前後の前置きもなしに、さえに「死ね」と言われたので、やはりさえは正道にいないし、正道に’ない’。

 また、’×××はない’と、さえが悪口をしていた。


 そのような事柄を見ていても、さえは私から見ても、普通に’ない’。

 そのゆえにも、私は、さえと親しまなくて’善い’と。


 このように、私は、ゴータマ仏陀の教えの通りに、行くのです。






H29年12月16日

 本日も、

 テロ側の犯罪者達・詐欺士・邪悪行者達が、嘘を言うて、衆生を洗脳していた。

 「對馬は、蒲池よりもさえが好き」と、嘘を言うていた。

 私は、「絶対」という言葉は、昔、野呂に言われてから、言わなくなったが、

 
これは、ハッキリと言えるが、前から、そして現在でも、「私が、蒲池幸子(坂井泉水)よりも、さえが好き」ということは、絶対にありえない。

 
テロ側の犯罪者達・犯罪の能力者達は、嘘をつきすぎ。


 テロ側の犯罪者の能力者達は、昔から私を犯人にしようと大勢の衆生を騙そうとしている詐欺を行う邪悪行の者達です。


 彼ら邪悪なる者達は正道にいない。




 そして、本日の、その後、邪悪行をして、その言い訳が、「蒲池のためにやっている」というのや、「私に書かせるためにやっている」と、彼らテロ側の犯罪者達・犯罪の能力者達は、愚かな言い訳を言うて悪行をしている。



 あと、ハッキリと言うておくが、私は蒲池幸子(坂井泉水)が好きです。

’嫌い’ではなくて、’とても好き’です。



 
そして、私はさえを好きではありません。

’好き’でもなく、’親しまなくて'善い'’のです。






H29年12月18日

 本日も、

 テロ側の能力者が悪口を言いに寄ってきていた。

 テロ側の犯罪者達・犯罪者の能力者が派遣している悪行の能力者達、という感じ。


 今日もデンタルクリックに行ってえらい騒いでいたが、さっちが、「さえはありえない」と言うていた。

 さえの悪行がありえないのだろう。

 さっちの言うとおりで、さえはありえない。


 さえといっしょに悪行をしているテロ側の能力者・犯罪者達も理法としても正道にありえない。

 しかし、いつものごとく、彼らは悪行を成就しつつ、自らはあり得ると思うている。



 いわゆる、邪見による、邪思。


 罵詈雑言・悪口・邪語を吐きつつ、”自らが’ある’”と、邪悪行を行うテロ側の能力者達、すなわち邪悪行者達は思いこんでいる。


 これが、邪見による、邪思であって、彼ら悪しき者達とその連なりは邪道に堕ちていると自他ともに知られる真理。





 しかし、昨日は、私を「いい人」と言う母と子の親子がいた。

 最近聞かなかったので、久しぶりに人間がいた。と言う感じだったな。


「犯罪者は××」と言う人は多くいるが、何気に「いい人」と言う人は、いないことはないが、久しぶりに聞いたな。

 最近は、テロ側の者で、わざわざ悪口を言いに、わざとらしく大きな声で、悪口を言いながら歩いている邪悪行者達が多く出没している。


 まぁ、しかし、テロ側のそのような無知な者達をいつも見ていても、テロ側の者達は’100%ない’と。

 間違いなく、決定しているので、こう、興味もない、というのや、テロ側の悪しき者と親しまなくて善い、と。



 さっちの話でも、テロ側の邪悪行者達が焦っているかのように騒いでいるが、こちらは、坂井泉水の事柄も、別にさっちがどう思おうが、焦る必要もまったくないが、なぜに、テロ側の者達は焦っているのか、と。


 彼ら無知なる者達は、自ら邪道を選んだことにより、悪趣に赴くという思念が、Azd もう自らに出始めて想われるがゆえにも、テロ側の者達は、ジッとしていることも難しくなっている、と。





 ちなみに、さっちは、私が、別れたいのか、と問うと、「別れたくない」と言うている。

 何回も問うても、別れたくない、と言う。


 別れたい、という想念を造作しても、ブロックするわ。






H29年12月19日

 本日は、

 さっちとの結婚がどうとかこうとかでハッキリしないので、さっちの生前の時から「本気で結婚する気であったなら、結婚する」と言うた。

 そうしたら、「本当」と聞いてきたので、

「本当だ」と言うた。

 言うてしまった。


 しかし、以前にも言うているように、さっちが善行者として、八正道を目指していなければならない、と。






H29年12月20日

 本日も、

 テロ側の能力者の殺人犯と、その連なりが、いつものごとく笑って悪行をしていた。

 テロ側の者の意思は、通常の人々とも異なり、邪悪だ。


 悪趣に堕ちるだろう、というのも、理解ができる。

 テロ側の、その悪趣に堕ちる存在の行いを見ておく、というのが、私の学びにあるらしく、たまに、”(愚かなる者達の、その邪悪行を)よく見ておくように”という思念が生じる。


 仏陀の弟子の尊者方からの思念の感じ。



 しかし、正直、最近、さっちを知ってからというもの、愛欲が出ているので、私の死後の行き先にも、変化が生じてしまうかな、とも思うている。


”さっちが他の人を好きであれば、いっその事、離れてくれた方がいい”、と、フと思うたら、今、さっちが「(離れるのが)無理」と言うた。


 さっちの気持ち。


 テロ側の能力者の殺人犯とその連なりが、坂井泉水が私の弟を好きだ、と言う事柄を強く推しているようで、さっちの歌でもそのように聞こえるところがあるのだが、10年位も邪悪行をしているテロ側の能力者の殺人犯と、その連なりが言うている事柄なので、おそらく、その線はないのだろう、と私は思うている。



 他の人はわからないだろうけれども、さっちの歌は、とても生々しく私に関しての音声を入れている。


 生々しい。

 そういうのを考えると、どういうように考えてそういう音声を入れているのか、と考える。

 現在、さっちがイタズラっぽく嬉しそうに笑っている想念。


 だからね、そういうところも他の人は理解できないから、私の気持ちもさっちの気持ちも理解することもできない、と。


 さっち自身が、宝珠(女宝)になる、ということなので、仏教用語なので、やはりそこも私に言うているのだろう、とも思い、

 他の人は、仏教用語もあまり関係ないだろう、と。



 ちなみに、邪悪行の者が言い訳をしているのもいるらしいので、言うておくが、聖者のマネをして、人を欺こうとするような極めて愚かな者は地獄へと堕ちるだろう。

 テロ側の能力者の殺人犯とその連なりは、だいたいいつも、このような愚かな事柄をして、操っているだとか言いたいらしく、そういうような低劣な行いを為して、他の人を欺いては喜んでいる。というのが テロ側の能力者の殺人犯とその連なりのいつもの状態。




 10年位も邪悪行をしているテロ側の能力者の殺人犯と、その連なりは、これでも、まだ、”自分たちはある”と思うていたい、と。

 極めて盲目な状態にいる、邪見者の者達。


 盲目にして、邪悪行を行う邪悪なる者は、地獄へ堕ちる。


 盲目にして、邪悪行を行う邪悪なる者が、善趣に出生するという道理は’ない’。




 
テロ側の能力者の殺人犯とその連なりに導かれて、ともに罵詈雑言・悪口を言うて笑っているテロ側の盲目な者は、悪魔や悪しき者に導かれているのであって、仏陀と聖者方に導かれているのではない。


 テロ側の盲目な者達は、誰々がこのように悪口を言うている、と言うのを聞いて、その邪悪な言葉や邪悪な思念を糧として自らもまた、邪悪行をともに行じている、と。


 彼ら盲目な者達は、自らで真理・善法が見えないがゆえに、他の悪しき者達の思念を頼りとする。

 そして、悪しき者達の思念を頼りとするが、善なる存在の思念を選ばない。

 何故ならば、彼ら盲目にして邪悪なる者は、善なる者と悪しき者の分別ができないのです。

 これもまた、ゴータマ仏陀の教えの通りなのです。





 私たち仏陀の弟子や、イエズスや他の聖者聖人の善なる存在の側の人は、愚かなる者や邪悪なる者と親しんではならない。






H29年12月21日

 本日は、

 AmazonのCMでキショイと言われている。

 テロ企業だな。

 そのようなCMを広告放送を流しているAmazonの責任者は、盲目にして悪行を伝染している悪行者だ。


 しかも、お前たちはさっちを知っているのか、と。

 ちなみに、ヒロがいい、と言うているところもあるのだぞ、と。


 坂井泉水が生々しく私の事柄を言うているのも知らないのに、テロ側の者達は、よくそのような愚かな事柄ができるよな。

 何も知らないのに。

 テロ側の能力者の殺人犯とその連なりに導かれて。



 いやしかし、”さっちが他の人を好きであれば、いっその事、離れてくれた方がいい”とは思うわ。

”何故に、私が他の人の恋愛を邪魔せねばならんのだ”と。

 普通にそう思う。



 さっちが私を好きだ、というようにほのめかしているから、好きなわけで、私が嫌いで他の人が好き、と言うのであれば、そのさっちの恋愛を邪魔したくないので、私も離れたいし、さっちも離れたいことだろう。

 そうすると、問題解決なのです。


 そうして、私も、Amazonの責任者のようなテロの悪行者に「キショイ」と言われなくても良いのです。


 このような迷いを生じさせるのは、坂井泉水も悪いよ。


 最近も、さえとテロの悪しき能力者が一緒になって、私を欺こうとして悪行をしているが、しかし、愚かなので、関与してはならないという仏陀の教えを受けているので、無視するが、

 しかし、このまま坂井泉水(蒲池幸子)が私の事を好きなんだか、嫌いなんだか、わからない状態で行くと、どちらにせよ、私の選択肢は、離れようとすると、さっちがリアルに怒るし、離れることなく行くと思う。

 もしも、離れて他の女性を好きになりました、としても、何かこう、もうムリのような気もするな。


 そもそも、さっちは、私が日記で坂井泉水を記す以前のほとんど知らない時から、私の事柄をかなり詳しく知っているし、そのような時から、「好き」とか「結婚する」とか、言うているのは、私ではなく、坂井泉水(蒲池幸子)なのです。

 意味がわかりますか。



 と、このように記すと、さっちはまた、私が冷たいとかいう感じで怒るんではないのか、と。


 いや、泣いている感じ。



 悪魔達は、私と蒲池幸子を離したいらしい。






H29年12月22日

 本日は、

 真理の面において、テロ側の邪悪行者達に、仏陀の弟子である私たちが完璧な勝利をしました。

 どうもありがとうございます。


 どういたしまして。

 まぁ、かなり前から、完璧なる勝利を得てはいたけれども。


 テロの殺人犯達が、嘘を言って、他の人々を騙す放送をしているのは、私の最近通っているデンタルクリニックの歯科医師やその助手の女性に殺人を決意させて実行させるためにも最近は、叩きを強くしているということで、これも、テロ側の殺人犯達の前にしていた邪悪行と同じ手口。

 そして、そのデンタルクリニックの歯科医師やその助手の女性が、殺人を決意して実行さする気になっているからもう叩かなくていい、という指示をしていた。


 テロの殺人犯達は、もう公でもそのような事柄を平気で言うているからね。

 邪道に堕ちている者が、如何に良識から遠く離れているかがよく知られよう。



 テロ側の殺人犯の能力者やその連なりに導かれて、殺人をするように決意する、というこの汚れた縁の連なり。

 真理において、イエズスの父の教えにおいても、テロ側の殺人犯の能力者やその連なりの悪行は悪趣へと堕す。


 以前から、私が一人勝ちしていたが、今日もまた決定的な勝ちだな。



 あと、テロ放送でテロ側が一所懸命にさっちが私を嫌いだと、嘘ぶいているが、さっちは、あれだけ私に絡んできているのに何故に私と結婚すると言わないのか、言っているようにも、聞こえるが、というのは、以前にも記している通り、私と結婚する、というのが決定的に決まったならば、私がガンにされる、ということでそうしている、らしい。

 とすると、蒲池幸子の優しさが、そこにも含まれているのです。


 そのように、今日もラジオ放送でさっちが怒っている、と言うような事柄を嘘ぶいていたようだが、別に今日はさっちはそれほど怒っていなかった。

 別れたい気持ちになると、怒るが。

 今日は、想念では、さっちからキスをして来てもいたが、まぁ、その話はおいておこう。


 私とさっちの仲が好いと思わせたくもないのだろうか、

 悪魔達は、私と蒲池幸子を離したいらしく、人々を洗脳するのに躍起になっている。



 そしてまた、デンタルクリニックの歯科医師や助手の女性を殺人犯にしたてあげようと必死になって邪悪行を為している彼らテロの邪悪行の者達。


’テロ側の殺人犯の能力者やその連なりに導かれると、邪悪な存在になりはてる’というのも決定的となった。



 こちらから見ていても、かなり余裕だもの。

 こちらが、その決定的な勝利を得ているところも含めて。



 テロ側の殺人犯の能力者やその連なりにとりて、すでに真理は恐ろしいものとなってしまっている。


 私たち善なる行の者にとりては、真理は安楽を得るためのものであり、喜ばしいものである。


 これから後の永い流転輪廻において、この真理に對する受け方は、極めて大きな異なりが生じている。

 これは、天の系統を永く流転輪廻するのと、地獄や畜生などの悪趣の系統を永く流転輪廻する、という異なりも生じている。



 テロ側の殺人犯の能力者や、その連なりの邪悪行の者と親しむことのない、私たち善なる存在は、天の系統を永く流転輪廻するという正道・善道にいる。





 テロ側の者が蒲池幸子が私を騙すために、キスをしている、ということで喜んで強気になっているが、そういうのはそういうので、別に、たいしたことでもないし、問題は、さっちの心が嘘をついているのであれば、さっち自身が私とともに正道に行けないということだ。

 テロ側の殺人犯の能力者やその連なりは、仏陀の弟子を亡き者にしようと邪悪行を重ねて、すでに悪魔の手のうちに堕ちている。


 あと、さっちと想念でキスをするとかいう話も、さっちとキスなんてのは、何だかんだで毎日のように何度もしているので、別にいまさらどうこうと騒ぐような事柄でもない。


 ただ、私が愛欲の行を強くすることによりて、テロ側の殺人犯の能力者やその連なりに悪趣に堕ちる者が増えるということだ。

 実際、テロ側で良識を失って邪悪行をしてる者が増えているだろう。


 これは、私の責任ではなくて、邪悪なる者達が、盲目にして強気になり笑って邪道を選ぶ、というような事柄の意味。


 そういうところが、私が天に帰った時に責められるところだろうか、と。





 聖書でいえば、イエズスがマリアと口づけをした。

 これは、所謂、愛欲。

 これは、渇愛である。


 苦聖諦のその原因はそこにもある。







H29年12月23日

 本日は、

 そういえば、以前に’さえを別の名前で呼ぼうかな’という事で、さえのことを「さっち」と呼んだことが、あったようななかったようなで、さっちと言うと、さえが自分の事だとして出てくるような感じがないことはないという事柄に、そういえば、ということで、今日気づき、であれば、蒲池幸子を別の名前で呼ぶか、ということで、今日は考えていたところ、幸子という名前を呼ぶのに、「呼びすてでいい」と本人が言うていた。

’さっち’という名で呼びやすかったのに、さえが出てくるような感じなので、しょうがないか、と。

 幸子と呼ぶのが、慣れない感じ。


 さっちゃん、さちーこ、さっちん、さっちょん、

 というような事柄を今日は考えていた。


 というのを記していたら、さえが「スキ」とか声を出して言うている。

 しかも、か弱い女の子っぽく感情を込めた感じで言うている。

「うわ…」と言うてしまったが、

 自分のいつもの邪悪行をたなに上げて「スキ」とか言うので、そういうように言われるこちらとしては、思いっきりヒクわ。

 さえは、無理。




”何故か、さえが勘違いしているようだ”ということで、何度も「さっちというのは、さえのことではない」と言うてはいたのだが、もしかすると、だから、幸子が怒っていたのもあるのかもしれないな。

 今日幸子は怒っていない、むしろ喜んでいる方が多かったかな。


 今日現在は好きな感情を出しているな。

 お互い好きな感情だ、と。


 他の人は、キスをたくさんする、というのがイコール’好き’、ということであるならば、何だかんだでキスをしない日はない、というくらいに一日に何度もキスはしているので、ということは、’好き'ということだ、と。



 う~ん、今日は、幸子がすごい好きな感情を出して言うている。

 さえとは別というのも含めて、安心したらしい。



 口づけ・キスをする、というのは、以前に話した’私を怒らせたら、キスをする’というので、本当にイラッとしたら、キスをする、ときもあるが、
 イラッとして、それ以上怒らせるような事柄を言うたらキスをする、というように思うているのに、速攻で、多めに盛って言うてくるからね。
 しかし、本人もわかってやっていて、私からキスをしようとすると、幸子からキスをしてくることもあるので、

 逆に”ちょっと待て”と。

 というのは、今日の話。


 幸子と呼ぶのが、やっぱり慣れてないな。


 他は、好きな感情が出ている時もすることもある。



 しかし、身体での感受もあり、キスはしたくなるわ。

 不思議だね。


 まぁ、その不思議というのは、見てみると、その感受が心地好いという事なのです。





『口づけをする』

 それは、その感受が心地好いという事なのです。

 これは、所謂、愛欲。

 これは、渇愛である。


 苦集聖諦のその苦の原因は、渇愛なのです。






H29年12月24日

 本日は、

 テロの犯罪者の能力者達の手口で、私のところ(私の仕事の現場等)に思念を盗み読む者を派遣して、ストーカーをして思念を読んでは、その思念をテロの犯罪者達に伝えて、私を操っている等の事柄を言うて喜んでいる。

 テロの邪悪なる能力者達の手口は、だいたいいつもそんな感じ。

 真理としては、彼ら悪しき行いの能力者達は邪道に堕ちている、という真理も、改善することもなく。


 
また、テロの犯罪者の能力者達の手口で、数日か、数時間かの先見能力をもち、邪悪行をしている能力者も混ざっているようなので、善なる側の存在は注意されたし。


 聖者方ほどの何世も先の未来を見る先見の能力を持つ賢人は、テロの犯罪者の能力者達のしているような愚かな邪悪行を為すことはない。

 それは、何故なのか。

 それは、その先の結果が見えている、または、予見できる智慧を得ているからに他ならない。


 正道にいる聖者方や天神や天に赴く存在は、テロの犯罪者の能力者達のごとき邪悪なる行を、普通、行なわない。


 これは、善趣に赴く存在の常識の範疇であって、普通の事柄を言うているにすぎない。







 あとは、テロ側の盲目な者達は、蒲池幸子の動向に依りて、私やテロの犯罪者達自身の見識を確かめたいらしいが、
ハッキリ言うて、その蒲池幸子は、聖者でもなく、私から見ても、微妙なところもあり、正道を確かめる基準の人物とするよりも、蒲池幸子は普通の人として見ていた方が良いだろう。(蒲池幸子は、愛情を執する普通の女性という事柄の意味。)


 そのように聖者方を基準とせず、蒲池幸子を判断の基準として見ようとするような乏しい智慧の状態のところにおいても、テロ側の盲目な者達は、すでに、聖者方を基準として正道にすでに進むことができないような状況にすでにいる、というのが知られる。

 それは、聖者方を基準とすれば、邪悪行の者というのは正道から外れていて、「邪悪なる者は悪趣へと堕ちる」と、ハッキリと説かれているがゆえである。

 そのゆえに、テロ側の邪悪行を為した盲目な者達は、聖者方を基準とすることもできない、と。



 そして、極めて重要な事柄として、

 ’聖者方を基準とすることができない’という事は、残されている道は、良くて善趣の天の最下層あたりの境界や、あとは悪趣への道しかない、という事柄とほぼ同義なのです。







H29年12月26日

 本日は、

 坂井泉水の名前を呼ぶのに、蒲池幸子の「幸子と呼び捨てでいい、といことであったが、幸(さち)というのでいいかな、と思うている。
 まぁ幸子でもいい。


 今日は、ZARDのオフィシャルブックをフと読んでみたところ、

『「子供が好きだったという坂井は、何年も前から小児ガンの子供たちのために力になりたいと、話をしていた。
 音楽以外にも、自分が力になれる事に自分の人生を注ぎたいと言い、2006年に自身が手術をした後でも、家族に「小児ガンの子供たちの力になれることはないか調べてほしい」と、自分に何ができるのかを真剣に考え続けていた。

 家族はそんな彼女に「自身がガンを克服して、それをちゃんと伝えれば説得力を持って必ず伝わる。だからまずはあなたが頑張りなさい」と励まし続けたという。』

 というところを見て、やはり優しい心を持っている。


 私たちや、善趣に赴くような存在の多くは、”他の人のために何かをしてあげたい”と強く思うている人は多い。

 まぁ、私たちにとりては、これは普通の心だな。


 そして、その坂井泉水が、最後にレコーディングした歌で伝えたかったものは何なのか、と思い、CDで『グロリアスマインド』を改めて聞いてみたところ、


 最後の最後に「ヒロありがとう」というのを伝えていた。

 また、「××は気持ち悪い」というのを伝えていた。


 テロ側の者が聞くと、「××ありがとう」に聞こえるから、あえて、「××は気持ち悪い」というのを伝えているのではないのだろうか。


 これが、坂井泉水(蒲池幸子)の人生最後のレコーディングの曲。


 と、今日はそのように感謝の言葉が入っているのが聞こえた。



 人生の最後の曲において感謝をされる。

 これもまた、ゴータマ仏陀の教えからきている善念の、その善念を受けている流れである、と。





 という歌の内容を聞いて、これは、”きちんと幸との明日を考えるべきなのだろう”とも思われるが、”ん、好きなのが私ではないのであれば、考えてあげない方が良いか”とか。

 しかし、他の歌からして野呂の事柄も言うているから、私の事柄でまちがいないのだろうと思われる。

 ちなみに、坂井泉水が歌で言うところでは、野呂が(おそらく私の)母親となるということは、「見えてる、絶対ない♪」と言うているので、幸が観えている未来においては、野呂が(おそらく)私の母親となっていることはない、と。

 親戚の叔母(伯母)さんなのだろう。


 おばさんということは、血縁親族だな。

 まぁ、それはそれで他人よりも縁が深いな、と。






H29年12月27日

 本日は、

 やはり、「ヒロありがとう」と聞こえる。


『いつまでも変わらぬココロをもう一度君に届けたい♪』


 とすると、幸の感謝の気持ちは私にきちんと届いた。



 しかし、幸の歌はやはり私の関連の歌なんだよな。

 100%間違いない、ので、どうしてあげたらいいいだろうか、と悩む。



 坂井泉水の歌の『星のかがやきよ』♪の頃はおそらく、ニワと関わり合った頃で、その頃ニワを信用しそうになり、ニワに「弟子を取っているのか」というのを訪ねて、弟子をとっているのであれば、弟子になってみようかな、と思っていた頃ではないか、と。

 歌では、「ニワ死ね♪」というのが聞こえるが、幸に私も「ハゲたら死ね」って言われているように聞こえる。

 おそらく、だからではないのか。

 ハゲの悪神にならないでほしい、と。

『君だけは変わらないでいてほしい♪』と。



 まぁ、畜生種を崇拝する人間は、偶像崇拝をしているようなもので、正道にない。


 オカマもないし、詐欺行為もないし、恐喝で金銭を盗ろうとするという行いも正道にない。

 そのような人物のニワという者を、テロ側は推薦しているが、テロ側の基準の価値観というのは、最初からそのように正道からも大きく外れている。



 これは、譬えば、

 テロ側の愚かな者達の主張のように、「オカマでもいい、、詐欺行為をする人物でもいい、恐喝で金銭を盗ろうとした者でもいい」と言うような愚かな邪見を抱いている者が正道にいる、というような事柄は、道理として、真理として決してありえないのです。






 現在、野呂さんは私の事柄をどのように思うているのか。

 全く知らないが、永い輪廻を見たら、いつか結ばれるようなことも事柄もあるかもしれない。

 親戚の叔母(伯母)さんではなくて。


 幸の場合は、こちらから好きというような気持ちになっても、弟が好い、というようなのも聞こえて、では、幸の望むように弟が好きということで、私は離れましょう。

 と、すると「別れたらガンにする」等々。

 テロ側の者達は、昔から殺人をしようとしているので、ガンにするというのを聞くのはいつものようなことだが、幸の想念でも幸本人がそのような事柄を言う。


 というような状況となり、だから、幸は”どうしたいのよ””どうしてほしいのよ”というのがいつもの状況。


”好きな人と一緒に居たい”というような心は、”幸の望むようにしてあげよう”としている私の純粋な心は、テロ側の殺人犯の悪しき能力者達によりても、邪魔をされている。


 ちなみに、強く”幸と別れたい”と思うているわけではなく、

”本人が望むようにしてあげたい”と思うている。



 この状況が他の人たちは理解できない人も多いだろう。

 この人は妄想において、何を言うているのか、と。


 と、記していて、現在自分でも笑ってしまったが、

 坂井泉水(蒲池幸子)の場合、いろいろとリアルなところがそのような状況となっている。



 しかし、以前に「本気で言ってほしいから」と、思いきり幸が言うていたように、

 本気度が足らないと思われているらしい。


 自分の本心を見ても、”バレてるな”という心も、微かに出たけれども、そういうのではなくて、坂井泉水(蒲池幸子)の場合、”どうしたいのよ””どうしてほしいのよ”という状況となるので、だから、そのような感じの心も出るし、本心は、”好きな人と一緒に居たい”という坂井泉水の望みの通りに”幸の望むようにしてあげたい”と思うている。



 本気度が足らない、というか、私の心としては 蒲池幸子(坂井泉水)が好きです。



 この、あれだよね、現在生きている状態の時からして、この天の存在のように、肉体なしの存在でのようなこのような関わり合いのようなのが、普通ではないよね。


 現在、幸が「うれしい」と言うているのが聞こえた。

 本物の幸子であれば、私もうれしい。






H29年12月28日

 本日は、

『グロリアスマインド』♪では、野呂は私を嫌いらしい、のだろうか、と。

 胃ガンになるのは、野呂、お前が悪い、ということなのだろうか。



『(弟の)、その救いになっちゃうよ、ベイベー♪』

『心をもう一度君に届けたい♪』で、今度はその弟が嫌い、と聞こえる。



 他は、やはり、『死んだらあえる♪』だな。


『死んだらあえる♪』というので、あれだけど、

 今日も車を運転していて、横の歩道をフ見ると、かわいい女性がいて、”お、ずいぶんかわいい子だな”と、フと。また思うてしまい、

”あ…、ヤバイ…”と思うたところ、

 幸の声で、

「死んでいい」と聞こえて、

 ”幸、ちょっと待て”と、

 ”いや、かなり待て”、というような状況があったが、

 幸の、そういう反応は本当にかなり早い。

 しかも、直球。


 そして、その後、”幸の方がかわいい”と本心から思うのであった。



 まぁ、しかし、『死んだらあえる♪』というならば、「死んでいい」と言うのも理解できないことはない。


 と、そういう問題ではなくて、

 理解はできるが、了承はできない。



『ヒロは嫌われる♪』と。

 悪しき者に嫌わるというのは、善なる存在として、他にも多くいるだろう。

 悪魔に狙われる程であれば、当然、そのような事もあるだろう。





 まぁ、しかし、幸の上記のような行をいろいろと見聞きしていると、幸を存在として”かわいい”と思うてしまう。


 ちなみに、幸というのは、さえではなくて、蒲池幸子である幸の事柄を言うているので、勘違いをしないように。

 存在としてかわいいと思うのは、さえではなくて幸の事です。


 私はさえと親しまない。

 そして、

 私は幸と親しむ、と。



 そして、最後あたりで「ヒロありがとう」と言うている。


 4:00分あたりで、「結婚したい」とも聞こえる。






H29年12月30日

 本日は、

 正月休み一日目にして風邪。

 テロ側の殺人犯達が、またいつものように蒲池幸子が私を嫌い、と言うて騒いでいる。

 人生最後の歌で、「ヒロありがとう」と言うているだろうに。


 今日は、朝から、その幸子とキスをしたけれども、想念なのに、かなり気持ちが好い、という状況で、逆にすごいわ。

 想念なのに、本当にすごい気持ちが好い。

 というのは、肉体的にもすごい持ちが好いということ。

 すごいものだよ。

 それ以上の事柄はあえて記さないけれども。


 ということで言えば、キスをしても毎日気持ち好くなることも可能。

 幸と離れなければ。


 昔話の雪女のような、霊的な女性を好きになる人の気持ちも理解できるわ。

 そして、

 このような、この一連の行は、愛欲以外にない、と。

 これらの行は、坂井泉水(蒲池幸子)も理解をしているところだろう。

 歌の内容から聞くところでも。

 と、坂井泉水についてはこのような状況でいる。



 しかし、

 テロ側の殺人犯達は、昔からしているように何かしら言いがかりをつけて、今度は坂井泉水(蒲池幸子)の事柄についても、何かしら言いがかりをつけては、結局は「殺す」等という話に持って行っている、という状態で、

 そのように結局は邪悪な行に堕ちていくのが、邪道に堕ちている者達なのである、というのが知られる。



 テロ側の殺人犯の能力者達も、昔から詐欺行為で、話の中に本当の話に嘘をおりまぜて、大事なところに嘘を入れて人々を欺くという詐欺の手口で、人々を欺いて洗脳している。

 そのような、邪見を持つ詐欺士のごときテロ側の殺人犯の能力者達に随い行っても、邪道にしか行きつかない。



 テロ側の殺人犯の能力者達は、昔からとても多くの嘘をつき続けているので、親しまないのが善い。

 見て聞いて知られるように、親しんだところで、行きつく先は邪道なのだから。

 彼の者達はすでに邪悪行を重ねて、邪道へと堕ちている。



 まぁ、そのように悪趣の道へと堕ちたくない者は、来年からは、『善なる者と親しむことができますように』と祈念するのも善いだろう。






 と記したのち、そして、現在、テロ側の邪悪なる能力者達によれば、「蒲池幸子が私をガンにしたいからしている」ということらしい。

 
そのように、テロ側の邪悪なる者達の話に依れば、坂井泉水(蒲池幸子)までもが、悪しき存在として語られることとなる。



 さえが邪悪なる者は「おまえだろ」言うている。

 10年程も邪悪行を重ねて私を苦しめている邪悪な存在が、テロ側の殺人犯の能力者達と同様に、私を悪しき存在として、言いたいらしい。

 このように、’邪悪なる者達の見識というのは、正見を邪見として見て、邪見を正見として取る’というのもよく知られる事実。



 胃が悪いというのも、日記に詳細を記しているように、坂井泉水(蒲池幸子)を知る前から、テロ側の殺人犯の能力者達にいろいろな邪悪行を受けている結果に現在のような状態なので、そもそもが坂井泉水(蒲池幸子)は関係ないから。





 動画で『こんなにそばにいるのに』を見ていても、気持ちが好い。

 幸が何かを言うている。

 声が高い。


 この一緒に居られる感も気持ちが好い。

 肉体的にも気持ちが好いんだよね。


 一緒に直接触れ合っている、という感じだな。

 そうだな、肉体的に寄り添ってくっ付いている、というよりも、抱き合ってくっ付いているという感じの一緒にいる感じだな。


 その時の、興奮しているようなときの感じ気持ち好さ。

 の、一緒にいる感じの気持ち好さ。

 伝わるだろうか。


 ここでの、肉体的な方の気持ち好さというは、その好きな人と触れ合っている時の、意識せずして興奮・高揚する時に感受している気持ち好さ。

 肉体的な気持ち好さ。まぁ、これも快楽だね。



『優しさよりも、キスがほしい♪』と、

 この感受は~、キスしたくなるわ。




 一緒に居られるというのを考えていたら、

 幸が「本当にうれしい」と言うた。(私の想念上ではなくて、現実に声を出して言うた。)

”それは、私もうれしい”と思うた。



 う~ん、しかしこの一連の流れを疑うてみても、どのようにあるにしても、快楽の感受も間違いない。


 現在、うれしい感じが強い。



 疑う、というのは、実は幸ではない、霊的な邪悪な存在がモノマネをして欺くという可能性もありえるので、疑いつつもあり、という事柄であり、

 坂井泉水(蒲池幸子)と一緒にいられる、というのは、私も本当にうれしく思う。



 ちょっとひいたらしく、(疑うたから、)「(坂井泉水(蒲池幸子)を、)好きと書いて」というように想念で言うていたので、

 私は坂井泉水(蒲池幸子)を好きなのです。


 しかし、嫌いだったら、キスもしたくないわ。



 う~ん、これは幸がいるから一人で居ても暇しない、という感じだな。

 幸との話を日記に記しているのも楽しい、と思う。




 動画で、坂井泉水(蒲池幸子)は、野呂と付き合っている頃に、×××を殺したい、と聞こえたところを見ていたら、

 幸が、「普通、思うって」と声を出して言うていた。


 ということで、私は、野呂と付き合っている頃に、坂井泉水(蒲池幸子)に憎まれていたのでした。

 憎まれっ子世にはばかる(憎まれっ子神固し)とはこの事だ、と。



 辞書より、

【憎まれっ子世にはばかる・憎まれっ子神固し』

 人から憎まれるような頑固な人間のほうが、かえって世の中で威勢を振るうものだ。の意。



 ちょっと出かけてきて、帰ってきた。

 しかし、私はこのように考える。

 昨日かな、車を運転していて、信号で停まった時に、横を見たら紳士服屋の特大のボスターのような物に、外人の美しい女性が写っていて、その女性を見て、またまた、”美人だな”と思うたのだが、その時も、幸がまたまたいつものようにすぐに怒っていた。

 さすがの私も”そこは怒らなくてもいいだろう”と思うたが、

 そのような事柄から考えるとですね。

 この後、私が’幸以外の女性と結ばれる’というような事柄は、極めて難しいという事柄が推測されるのです。

 そして、私と直に対面する女性に関しても、幸がその女性に私を好いイメージをわかせようとはしない。

 さらに言うならば、メディアに関しても、幸が私をすごく好き、ということになると、他の多くの女性も蒲池幸子が好きということは、善い人、すごい人に違いない、ということで、私と結ばれたいというような人も少なからず出てくるだろう。

 だいたい、メディアなどで褒められているようなときは、決まってそういような話も簡単に出る、というようなのを見てきたが、世の中の流されやすいそのような集団思想をも見越して、幸の場合は、私が他の女性に好かれたならば、すぐに心惹かれやすい、というところも見越してだね、好いイメージをわかせようとはしないのではないか、と。

 ポスターの女性を美人と思うても怒るくらいだよ。

 他の女性を”美人だ”と思うその感情や思念から派生されるものを、先見推測してその思念に関して怒っているのかもしれないが、そのような状態を見る限りでは、幸子は私の立場を他の女性から好かれるような状態に持っていこうとしようとしないと思われる。

 これは、実は嫌い、という事なのか、または、リアルに自分だけのものにしようという心からのものなのではないのか、と。

 幸の歌の場合も、私個人しかわからないような事柄のものも生々しく入っているからね。

 私個人に生々しく伝わるように歌が作られている。というようなのを考えると、


 幸を通すと、おそらく私は他の女性から好かれない、と。



 現在、何か、こう、重い空気を感じるので、記すけれども、私は幸の事が好きです。

 怒るところは好きではないよ。




 今度は『ハートび火をつけて』を聞いたところ、(男性タレント)に電話がしたい、というように聞こえた。

 最後あたりにヒロはキレるか、ヒロは呆れると聞こえたが、

 (男性タレント)かよっと思うたら、ガッツリと呆れたわ。

 ヒロはキレるというのは、私をキレるのかと思うたが、こっちが呆れたわ。


 と、いうように聞こえたので、坂井泉水(蒲池幸子)の歌を(男性タレント)が好きで歌を聞いてみたら、どうだろうか、と。


 実は(男性タレント)が好きでした、というのであれば即、私は身を引くというか、坂井泉水(蒲池幸子)の恋愛に関わらないようにしたい、と思う。

 こうなると、さすがの私ももう身を引きたくなる。


 とりあえず、坂井泉水(蒲池幸子)の望みが叶えてあげたい、ので、(男性タレントさんに)、蒲池幸子が電話がしたいということなので、電話をしてあげてください、とは思うが、すでに結婚しているから、電話をして夫婦生活を邪魔したらダメだろう。

 ということで、坂井泉水(蒲池幸子)の望みは却下されました。


 最近結婚したのだったかな、幸ももう少し、結婚する前にアピールしておけば、何とかなったかもしれないものを、私に気づかせるポイントがおかしい。



 いや~しかし、もう本当に私も身を引きたい、とも思わされる。


 現在、幸がまた怒っている。

「どこに怒っているのよ」とこっちが怒りたいわ。


───


 いや~しかし、タイミングの悪い人だな、と。

 幸が。

 狙ってこのタイミングなのだろうか、と。



 まぁ、坂井泉水(蒲池幸子)の本心がどうかはわからないが、歌によって好きな人が変わるからねこの人は。

 どうだかな。


 まぁ、本当に幸の好きな人に思いが伝わればいいと、我思う。


 あと、好きでもないなら、そもそもが私を絡めないでほしいとも思う。



 ん、ということは、野呂も(男性タレント)が好きなのか。

 そうなると、好きとか嫌いとかいうか、単なる芸能人とそのファンの話だな。


 すごい興味ない話だわ。


 そのような話は私を絡めないで他でやってほしいし、

 そういう話に私は絡められていたということなので、やはりそういうのを聞くとかなり呆れるわ。



 しかし、となると、私が絡められていた原因は何なのか、と。


 現在、時刻は0時を越えてすでに31日。

 年末に坂井泉水(蒲池幸子)に悩まされている人がここにいる。


 まぁ、坂井泉水(蒲池幸子)に悩まされるのはいつもの事であった、と。



 と、いうことで、今日は休息をするのであった。


 プロフィールを見たら、A型ではなかった…。






H29年12月31日(2016年)

 本日は、

 朝から、他の人はどのような反応をするのかな、とラジオを聞いたら、まあ、微妙。

 そして、『ハートに火をつけて』♪を聞いたところ、いきなり悪語で聞こえた。


 好きなのか、ガッツリと嫌いなのか、どっちなんだ、と。


 混ざってるな。


「テロねぇよ」って聞こえるな。



 まぁ、テロは天の衆生の中においても、普通にない。

 仏陀の弟子をも殺そうとする極めて無知で極めて愚かな者達。

 そのような極めて愚かな者達は、速やかに悪趣へと堕ちる事だろう。


 しかし、悪語で聞こえるわ。

 名前を伏せようか、と。(男性タレント)に変更。


 う~ん…、悩む。





 まぁ、とりあえず、その話はいいとして、

 坂井泉水(蒲池幸子)の出ていないオフショット映像が見たいわ。

 この人は、おそらく、私が後に見る映像や音声を自ら認識して話をしていると思う。


 CDも私個人に伝えているものもあるので。

 オフショット写真のようなのがため撮りしていて2万点以上あるとか、どこかの記事に記していたと思うが、であれば、たくさん表に出してほしいな。

 幸の両親が良いと言えば、別に良いのではないか、と思う。


 私個人としては、普通に見ていても、坂井泉水(蒲池幸子)は、私の輪廻の後世にも関わるだろうから知りたい。



 まぁ、しょうがないので記すが、野呂から私は「ツン」と呼ばれていた。

 幸の歌でも出てくる。

 これも、言わなければ他の人はわからないだろう。





『星のかがやきよ』♪で、

 3:19位に「胃がんだよ、バレバレ、野呂バレた~♪」言うているのか。

「パソコンでバレバレ」と言うているのか。

「ばれた」と言っているのは、野呂っぽい声だな。

(ツン助けるというのも聞こえる。)


 最後あたりでに「結婚しないくていい♪」、ではなくて、「結婚したい♪」かな、とも思うたが、

「餓鬼殺したい♪」かな。

 そして、「××はヒロに殺させる~♪」かな。


 だから、私は仏陀の弟子だから、悪趣に堕ちるような行の者でも、「殺してはならないし、殺させてもならない」という仏陀の教えの通り、殺すわけがない。


 しかし、いろいろなパターンで聞こえる。

 結婚、したい♪、と聞くと、不倫~♪というようにも聞こえる。


 まぁ、不倫は何度も言うているように悪趣へ堕ちる悪業となる。

 不倫をしてはならない。


 というか、そもそもガンにしなくて善い。



『君だけは変わらないでいてほしい♪』というのは、どうやら、私の弟に言うているようで、この時点では、私はすでに邪道へと導かれて堕ちていると思われているらしい。

 すでに、仏陀の教えも知っていたからね。
 多少の寄り道はしても、邪道に堕ちるわけもなく。

 その後、幸も私が邪道に堕ちていない、と気づいたのだろう。



 歌でいえば、他の人をガンにするのは野呂だ、という意味なのだろう。

 他で、「野呂に殺されるから、結婚しなくていい♪」というところも、幸が見ているのでは やはり野呂だ、という事で言うている。


 仏陀の教えで「殺してはならないし、また、他人をして殺させてもならない」


 どうだか知らないが、野呂さん、悪行はしてはならない、と。

 まぁ、真相は知らないが、悪行をすれば、地獄に堕ちるから、悪行をしてはならないよ。






 悪行を事とする者は、壁越えを理解しておらず、壁を越えることもできないだろう。

 そうだな、譬えば、この悪行を事とする者というのは、

 狭い道を行くのに、捨てるべきいらない物を山ほど荷物として抱えていて、しかし、自分ではその荷を下ろすこともできず、捨てることもできずに、狭い道を行くことができない人。というようなものだ。


 そのように、悪行を事とする者は、壁越えを理解しておらず、壁を越えることもできないだろう。


 聖者方で言えば、壁越えをして、こちらもあちらも行き来往来できるのは、普通。










さくら
さくら
更訂 H30.7.21
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