更訂 H28.12.7



  布施の功徳について



 全き人(如来)・仏陀に成す布施は大いなる果報がある。

『全き人(如来)は、平等なるもの(過去の目ざめた人々、諸々の仏陀)と等しくて、平等ならざる者共から遥かに遠ざかっている。
 彼は無限の智慧あり、この世でもかの世でも、汚れに染まることがない全き人(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい』

『争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさを除き去った人、限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の徳性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、彼に対して、眉をひそめて見下すことをやめ、合掌して彼を礼拝せよ。
 飲食物をささげて、彼を供養せよ。
 このような施しは、成就して果報をもたらす』



 僧伽に成す施せば大いなる果報がある。

『四向四果に住する人、この僧伽は心正しく、智慧と戒めと正定とがある。供養を成し、福業を求め、再生のための福を成す者は、この僧伽に施せば、大いなる果報がある。

 僧伽のために布施を成す人は、正しく施し、正しくささげ、正しくけんじたのです。
 僧伽のために布施を成せば、その布施は無限の功徳に住立し、大いなる果報あり、世間解(仏陀)によって称讃されます。

 このような福業を随念し、感激して、世にほどこす人は、貪欲・物惜しみの垢を、根より除き、非難されることなく、天の境界へ至る』





  スンダリカ・バーラドヴァージャ

 わたくしが聞いたところによると、ある時、尊き師(仏陀)はコーサラ国のスンダリカー河の岸に滞在しておられた。

 ちょうどその時に、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、スンダリカー河の岸辺で聖火をまつり、火の祀りを行なっていた。バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、聖火をまつり、火の祀りを行なった後で、席から立ち、あまねく四方を眺めていった──「この供物のおさがりを誰に食べさせようか」と。

 バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、遠からぬ所で尊き師(仏陀)がある樹の根もとで頭まで衣をまとい坐っているのを見た。
 見おわってから、左手で供物のおさがりを持ち、右手で水瓶を持って、師のおられる所に近づいた。
 そこで師は彼の足音を聞いて、頭の覆いをとり去った。
 そのときバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、
「この方は頭を剃っておられる。この方は剃髪者である」と言って、そこから戻ろうとした。

そうして彼はこのように思った、
”この世では、あるバラモンたちは、頭を剃っているということもある。さあ、私は彼に近づいてその生まれ〔素性〕を聞いてみよう”と。

 そこで、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、師のおられる所に近づいた。

そして、師に言った、
「あなたの生まれは何ですか」と。

そこで師は、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャに詩を以て呼びかけた、
「私はバラモンではないし、王族の者でもない。私はヴァイシャ族〔庶民〕の者でもないし、また、他の何ものでもない。
 諸々の凡夫の姓を知り尽くして、無一物で、熟慮して、世の中を歩く。
 私は、家なく、重衣を着け、鬚髪を剃り、心を安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩いている。
 バラモンよ。あなたが私に姓をたずねるのは適当ではない」

「バラモンは、バラモンと出合った時は、『あなたはバラモンではあられませんか」とたずねるものです。

「もしも、あなたが自らバラモンであるというならば、バラモンでない私に答えなさい。
 あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。

 この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろ供物を献じたのですか」

(師が答えた、)
「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに、ある(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く」

バラモンが言った、
「わたくしは、ヴェーダの達人であるこのような立派な方にお目にかかったのですから、実にその方に対する(わたくしの)献供はきっと効果があるでしょう。

(以前に)あなたのような方にお目にかからなかったので、他の人が献供の菓子(のおさがり)を食べていたのです」

(師が答えた、)
「バラモンよ、あなたは求めるところがあって求めてきたのであるから、こちらに近づいて問え。
 恐らくここに、平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人を見出すであろう」

(バラモンが言った、)
「ゴータマ(仏陀)さま。わたくしは祭祀を楽しんでいるのです。祭祀を行なおうと望むのです。
 しかしわたくしははっきりとは知っていません。
 あなたはわたくしに教えてください。何にささげた献供が有効であるかを言ってください」

(師が答えた、)
「では、バラモンよ、よくお聞きなさい。わたくしはあなたに理法を説きましょう。

 生まれを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎むならば、高貴の人となる。

 真実もて自ら制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、
 ──そのような人にこそ、適当な時に供物をささげよ。──バラモンが、功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩き、善く自らを慎んで、梭のように端直な人々、
──そのような人々にこそ、適当な時に供物をささげよ。──バラモンが、功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

 貪欲を離れ、諸々の感官を静かにたもち、月がラーフ〔鬼神〕の囚われから脱したように(捕われることのない)人々、
──そのような人々にこそ、適当な時に供物をささげよ。──バラモンが、功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

 執著することなくして、常に心を留め、我がものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、
──そのような人々にこそ、適当な時に供物をささげよ。──バラモンが、功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

 諸々の欲望を捨て、欲に打ち勝って行い、生死の果てを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 全き人(如来)は、平等なるもの(過去の目ざめた人々、諸仏)と等しくて、平等ならざる者共から遥かに遠ざかっている。
 彼は無限の智慧あり、この世でもかの世でも、汚れに染まることがない〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、我がものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 心の執著をすでに断って、何らとらわれるところがなく、この世についても、かの世についても、とらわれることがない〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 心をひとしく静かにして激流を渡り、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅し尽くして、最後の身体をたもっている〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 彼は、生存の汚れも、荒々しい言葉も、除き去られ滅びてしまって、存在しない。

 彼はヴェーダに通じた人であり、あらゆる事柄に関して解脱している〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 執著を超えていて、執著をもたず、慢心にとらわれている者共のうちにあって慢心にとらわれることなく、畑、及び、地所(苦しみの起る因縁)とともに苦しみを知り尽くしている〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 欲望に基づくことなく、遠ざかり離れることを見、他人の教える異なった見解を超越して、何らこだわってとらわれることのない〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 あれこれ一切の事物をさとって、それらが除き去られ滅びてしまって存在しないで、平安に帰し、執著を滅ぼし尽くして解脱している〈全き人〉(如来)は、供物の供物を受けるにふさわしい。

 煩悩の束縛と迷いの生存への生まれかわりとが滅び去った究極の境地を見、愛欲の道を断って余すところなく、清らかにして、過ちなく、汚れなく、透明である〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 自己によって自己を観じてそれを認めることなく、心が等しく静まり、身体が真直ぐで、自ら安立し、動揺することなく、心の荒みなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 迷妄にもとづいて起る障りは、何ら存在せず、あらゆる事柄について智見あり、最後の身体をたもち、目出諦無上のさとりを得、──これだけでも、人の霊(タマシイ)は清らかとなる。──〈全き人〉(如来)は、供物の菓子を受けるにふさわしい。

 「あなたのようなヴェーダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。梵天こそ証人としてみそなわせ。
 先生。願わくはわたくしから受けてください。先生。願わくはわがお供えの菓子を召し上ってください」

 「詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。
 バラモンよ、これは正しく見る人々(目覚めた人々、諸仏)のなすきまりではない。
 詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。
 バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いの仕方(実践法)である。

 全き者である大仙人、煩悩の汚れを滅ぼし尽くし、悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。
 けだしそれは功徳を積もうと望む者の(福)田であるからである」

 先生。わたくしのような者の施しを受け得る人、祭祀の時に探しもとめて供養すべき人、をわたくしはあなたの教えを受けてどうか知りたいのです」

「争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさを除き去った人、
 限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の徳性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、彼に対して、眉をひそめて見下すことをやめ、合掌して彼を礼拝せよ。
 飲食物をささげて、彼を供養せよ。
 このような施しは、成就して果報をもたらす」

「目ざめた人(仏陀)であるあなたさまは、お供えの御菓子を受けるにふさわしい。
 あなたは最上の福田であり、全世界の布施を受ける人であります。
 あなたにさし上げた物は、果報が大きいです」


そこで、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、尊き師に言った、
「素晴らしいことです。ゴータマ(仏陀)さま。素晴らしいことです。ゴータマさま。
 あたかも倒れた者を起すように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は、色や形を見るであろう』と言って、暗闇の中に灯火をかかげるように、ゴータマ様は種々の仕方で、理法を明らかにされました。
 だから、わたくしはゴータマ様に帰依したてまつる。また、法と修行僧の集いに帰依したてまつる。
 わたくしはゴータマ様のもとで出家し、完全な戒律(具足戒)受けたいものです」

 そこで、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。

 それからまもなく、このスンダリカ・バーラドヴァージャさんは独りで他から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが、──を現世において自らさとり、証し、具現した。

「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。成すべきことを成し終えた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。

 そうしてスンダリカ・バーラドヴァージャさんは聖者の一人となった。

スッタニパータ




 精舎天宮

 女神よ、汝は優れたる容色によって十方を照らしつつ立つ。まるで暁の明星のように。

 汝が舞う時、全体より耳に快い天音が響く。

 汝が舞う時、全体より香好くい天香が漂う。

 身体にて旋回する時、髪の飾りのその音は、五支楽器の音のように響く。

 装飾は風に揺れ、風により振るえ、その音は五支楽器の音のように響く。

 その汝の頭にある華飾りは香り好く、その香りは十方に漂い、曼珠沙華のようである。

 この良い香りを嗅ぎ、人界のものにあらざる色を汝は見る。女神よ、問われて汝は語りなさい。これらは如何なる業の果報なのかを。


 尊者よ、舎衛城のわたくしの友人は、僧伽のために大きな精舎を建立しました。
 そこにおいて、わたくしは、その家と、その僧伽とを見て、喜びて随喜〔他人の善い行いを見て、心に歓喜を生じる〕しました。
 そのわたくしの清浄なる随喜によりて、未曾有の美しき天宮は得られました。
 それは遍く十六由旬あり。わたくしの(福業の)神通によりて空を行く。
 わたくしの住居は重閣にして、室は釣合よく区画され、輝きつつ遍く百由旬を照らす。
 そこにあるわたくしの蓮池は、魚が棲み、清水があり、清浄にして金砂が敷かれていて、種々の紅い蓮が充ち、白い蓮が満ち、微風に揺られて好い香りを漂わせています。
 ヂャンブ、パナサ、ターラ、ナーリケーラの園林があり、住居の中に種々の樹木が生じて延びていて、種々の楽音が響き、天女の群れがさざめいています。

 このように、遍く照らす未曾有の美しき天宮は、わたくしの業によりて生じたのです。

 本当に、福業を成すということは素晴らしい。


 その汝の清浄なる随喜によって、未曾有の美しき天宮は得られた。

 布施を成した女人は何処に生まれるのか、その帰趣〔行き着くところ〕を汝は語りなさい。


 尊者よ、わたくしの友人は、僧伽のために大いなる精舎を建立しました。

 法を了得した彼女は施しを成して、化楽天に生まれ、かの〔化楽天主〕スニンミタの妃となりました。

 彼女の業の果報は不可思議です。

 尊者よ、彼女が何処に生まれたのか、あなたの問いをわたくしは異なることなく答えました。


 それならば、他の人にも教え示しなさい。


 受け難い人身を受けた者は、僧伽のために喜んで布施を成し、また、心喜んで法を聞きなさい。

 黄金に似た肌のある、梵音を有している道の主は説いてくださいました。

 僧伽のために喜んで布施を成せ、供養の成されるところに大いなる果報がある、と。

 善人の称讃するこれら四向四果の八輩の人、彼ら善逝の弟子は布施に値する。

 これらの、人々に施せば大いなる果報がある。

 四向四果に住する人、この僧伽は心正しく、智慧と戒めと正定とがある。
 供養を成し、福業を求め、再生のための福を成す者は、この僧伽に施せば、大いなる果報がある。

 実に、僧伽〔への功徳〕は広大にして、無限なること大海の如く、大洋のようである。
 彼らは最勝にして人中の雄者たる声聞である。彼らは法を説くところの、そこに光明をあたえるのです。

 僧伽のために布施を成す人は、正しく施し、正しくささげ、正しくささげたのです。
 僧伽のために布施を成せば、その布施は無限の功徳に住立し、大いなる果報あり、世間解(仏陀)によって称讃されます。

 このような福業を随念し、感激して、世にほどこす人は、貪欲・物惜しみの垢を、根より除き、非難されることなく、天の境界へ至る、と。

天宮事経




施すことについて





















inserted by FC2 system