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さくら





さくら
(掲示板書込頁)



□□□ 掲示板書き込み頁 □□□

〔2ちゃんねる掲示板書き込み内容から、サイトの日記に至る経緯〕




2024年3月30日

【仏陀メーソンリーのサイトと掲示板のことを言っても書いても読んでも殺すわけがない、とヤクザのご霊体方と電通との御関係者勢の方々が言い張っている話】

 テロの騒ぎは貴方を殺させないが正しい、殺さないの発言、妄想だって言って聞こえないって言っている企業の山崎製パンのようなテロ企業は潰れていい、他にも殺さない、を殺させない仏陀の弟子を貴方をも、と直さないような企業は潰していい、とみなさんのために聞いてあげるように、アラハトの比丘の御霊体方で仰せくださりているので、(私も)聞かせていただいたら、

 そのとおり、仏陀の弟子は、(×)殺さないじゃなく、(〇)殺させないが正しい、とここに来ている霊体勢でおっしゃってくださっていて、

 そのとおり、治させる、みんなして、仏陀の弟子を立てる国にしよう、と五十嵐博氏の御霊体勢が自ら勢でおっしゃってくださっていて、

 そのとおり、と水島正幸氏勢の御霊体勢でおっしゃってくださっていて、

 とここに来ている霊体勢でもおっしゃってくださっている。

 Googleで叩かせているのが多い、とみなさんのために聞いてあげるように、アラハトの比丘の御霊体方で仰せくださりているので、(私が)聞かせていただいたら、

 私が、だから、が、と(私が)書いて言わせていただいたら、

 そのとおりだ、そういうこと、俺を助けるためにやっている、逆、でいい、みんなしてそうやって助け合うのは今の内、とサンダーピチャイという名前を偽って入った人物勢でおっしゃっていて、

 サンディースピチャイだったかが本者だって言ったら遣っていなかったって、そうやって言ってるの、だから、そういうことだったの、とおっしゃってくださっていて、
 エリザベスが言ってるの、そうやっていつもいつもしつこいの、私が言ってるの、と五十嵐博氏の御霊体がおっしゃってくださっていて、
 そうやって聞こえるから、だから、書いていい、そうやってなってるの、Googleが最も犯人、とおっしゃってくださっていて、

 私も個人でやられてるの、霊体界では麻生だって言ってたけれど、違ったの、そっちも、博報堂も違ったの、そうやってGoogleだったの、犯人が、私の叩き、どこでやるかってそこしかないの、そういうこと、みんな中国は力が弱いの、と電通の御霊体方でおっしゃってくださっている。〉




【掲示板書込頁にも記載の、このサイトの仏陀メーソンリー創立にいたる以前の経緯】

〔掲示板と仏陀メーソンリーのサイトを読むにあたって注意事項(必ず読んだ方がいいですよ。)

〈2024年3月30日

【ニワシロウとイチカドユカ(とZARDの坂井泉水の蒲池幸子とその親族一家)は(笑って平気で殺人をする)悪魔の行いの者(達)で確定、絶対に信じないようにしてください、信じたら堕ちます、大地獄に、と言うていい、とアラハトの比丘の御霊体方で仰せくださりているので、(私も)言わせていただいたら、

 そのとおりだ、とニワシロウという狐に憑かれてマンコを偽造して失敗したと吐いている者が調子に乗って吐いてほざいてみんなにボコボコどろこじゃないことになっている。】ので、ニワシロウという一切その狐に憑かれて肉体のチンポをも盗り外されたのに自ら切り取ったと吐いてそこまで狐に憑かれている愚かすぎる人間失格の行いの者達を、今日も調子に乗ってみんなに殺す、と正しく言われているようなもので、死んだらみんな好くなる、と言われている者を信じてはならない。と言うていい、とアラハトの比丘の御霊体方で仰せ下さりているので、(私〔對馬弘〕も)言わせていただいている。

 〈ニワシロウと麻生太郎の妹の麻生信子(三笠宮寛仁親王妃信子)はその後2023年以降も、殺人鬼の行いを私勢にも海外の要人にもし続けているので、殺すくらいにしてあげた方がいい対象の狐付きでマンコを取り去った者、とみなさんのために書いてあげるように、アラハトの比丘の御霊体方で仰せくださりているので、(私も)書かせていただいた。〉〉〕


2023年11月23日

 ニワシロウとイチカドユカは悪魔の行いの者で確定、絶対に信じないようにしてください、信じたら堕ちます、大地獄に、と言うていい、とアラハトの比丘の御霊体方で仰せくださりているので、(私も)言わせていただいたら、

 そのとおりだ、とニワシロウという狐に憑かれてマンコを偽造して失敗したと吐いている者が調子に乗って吐いてほざいてみんなにボコボコどろこじゃないことになっている。】ので、ニワシロウという一切その狐に憑かれて肉体のチンポをも盗り外されたのに自ら切り取ったと吐いてそこまで狐に憑かれている愚かすぎる人間失格の行いの者達を、今日も調子に乗ってみんなに殺す、と正しく言われているようなもので、死んだらみんな好くなる、と言われている者を信じてはならない。と言うていい、とアラハトの比丘の御霊体方で仰せ下さりているので、(私〔對馬弘〕も)言わせていただいている。









 ここのページの掲示板ですが、表立った騒ぎと霊的現象はこの掲示板を建てた後、途中から始まりました。
 今までの様子から見ても、明らかに計画はされていたんだろうけど、なんだか、自分らで墓穴を掘っているように見受ける。
 まぁ、他の人ももうだいたいわかる人はわかるのでしょうが。

 今後、経済が駄目になったり、争いがあったり、隕石が落ちてくるようなことがあったとしても、心を悪魔に売り渡すようなことはしないように、普通に生きていきましょう。
 縁があれば、戻ってくる。縁があれば、天上に行くと。
 あなたは生まれる以前、自分が何をしていたか知っていますか。

 知らない、と。

 そう、生を受ける以前はどのようであったかわからない。現実的に言うと忘れてしまっているだけの可能性もあるし、何も無かったのかもしれない。それすらも不明。
しかし、知っている人々は口々に言ってますね。前生での行いにより、ここにいると。なにも無いところから(現在のこの生は)生じたのではないと。又はどのような苦しい状況に置かれても、善行を成す、その行いにより天上へ行く、と。
そういうことで、最後の最後、この生を終えるまで善行をしていきましょう。
私達の行いは聖者方のなす善業に比べると、わずかなものかもしれませんが、それでも善い。
善行に対する執着、善行をするという執着をも捨てて善行を為しましょう。それが善業というものである、と。




 掲示板63からの、間違えを訂正の文章は、書き方に問題があったのではと思い訂正したものですので、
内容を理解していただければ、それほど、気にしなくていいです。
(訂正の文章は、どう読んでも(私の思い、言葉)を勘違いしないよう(たとえ間違って捉えても、善性に判断するよう・できるよう)に訂正したつもりです。文章の流れは多少無視して訂正したので読み難くなってます。)(←この訂正の文章、の訂正文章とは、掲示板の「以前の間違いの訂正」のところの事柄であって、後から、←の、追記・訂正の事柄ではありません)

 あと、掲示板を記す心境としては、この掲示板の記す初めの頃は、教えを直す姿勢もあり、他の人の霊的な関連事象を聞く姿勢もあり、当初は話を聞きつつこうした方がいいのではないのですか、という断定しない姿勢で話す感じです。ちなみに、掲示板を記す以前から当然、小乗仏教の仏陀の教えは知っています。神秘家の方の霊的世界観も結構知っていますが、TVに出ている能力者等の言うことも「そうか、その言っているのはあっているな~」っという感じで聞いていたと思います。(他の話も、おおよその参考として聞いていた。昔は、だいたいそういう感じだった。)まぁ、当初も純粋にいろいろな世界を聞いていこうという感じではあったのです。自分の中で一般的な霊的な世界の現象やら、話の流れだとかの謎が、だんだんと解けるので、それより以前からも調べていたので。過去の出来事は日記に書いてある部分も参照してください。そんな感じです。

 98 あたりではすでに、霊的現象的にも現実的にも意味もわからずに畜生霊の仲間達に殺られそうになり、畜生霊のたぐいの道は聖者方の聖道とは程遠いのをまのあたりにして、私の中でそのような表象を見ている人達(かれら本人としては、リアルに見ている・思っている、または、見せられている・思わされている表象)の進むべきところの話はすでに(正道から外れて)崩れているので、元に戻って仏陀の教えにより、自己の話を始める感じです。仏陀の教えの清浄さをすでに再認識している状態で、畜生霊の仲間達が仏陀の教えを絶たせようとしているのであろうという思いも持っていた頃だと思います。で、魔術的なたぐい及び霊的現象にこそ、何かあるという(執著のループへの)執着、を否定してみたら「光〔光明〕」だったと。だいたいそのような感じです。
まぁ、一般の人に言ってもあんまりわけわからないだろうけど。善の念はとても大事ですよ。

 現在22/12は、過去に真理を知るのに命を懸けていると発言したら、後に本当に命が懸り、命が懸った分、聖典も自分なりに読めるようになりましたので、現在はもう、あとは普通でいいと思っています。
昔から見ると、まさか、後にキリストさんの聖書を読んで号泣するとは思ってもみなかったです。
他の聖典を読んでも、相手方(悪魔の仲間達)のしている行いは地獄に落ちてしまうと記されていると思うのだが、拝読してないのかな。
悪魔方に心を寄せてしまっている人達で気をつけなければならないのは、悪業が延び放題になってしまうような状態になってしまうところ、かもです。
神はそのようにさせて、あとから、刈り取る(自己の悪業)って、いうのは、すでにその人達は神の手から離されてしまっているというようなことなのでしょうか。
「はっ」と気づいて、普通に暮らしていければ、良いのではないかと。失敗は誰にでもあると思います。
特定の人々(例えば、お金がすべてとか、死後はない等の、いわゆる無信仰な人達)が神について行くということで、悪鬼についていって、神の怒り(救いがおよばない)を喰らって、他の(知らないでついて行く)人も巻き添えっていうのは、過去の説話ではいつもあるようなパターンみたいですが、現在は関係のない人々も多数いるのでちょっと勘弁していただきたいところではありますね。
自然災害以外で(も)今後、大きな争いがあるかどうか。そういうのは悪業があればどうにもならないものなのかな。

 あと、掲示板に日本神道のお祀りでワッショイワッショイやっているところもありますが、中には鬼を祀るところも見られる、これは鬼を祀るとは鬼神を鎮めるという昔からの教えのところでしょう。
なので、間違っても鬼を崇拝しないように。心身を清浄にしないと、鬼神を鎮めるどころか、(その鬼に)自らもやられちゃうだろうから、お祀りをする人は心身を清浄に保つものなのではないでしょうか。
そちらの祀りは、そういう念で祀りをするべきではないですか。と、思います。
(↑(神社で鬼神を祀っているところ等の)この祀りというのは、真理をそこに求めるというような祀りではなくて、例えると、近所でケンカっぱやい存在をケンカしないように鎮める役のような感じでの意味ででの祀りです。
このような祀りをする人個人に対しては、他(鬼神の力、魔術、妖術、畜生霊の力)に依存してしまうと、道が見えなくなるというのも、心にとどめておくのが、とても重要です。
 参照 自己を依りどころとすることについて )

で、鬼神が静まらないと国が滅ぶという古聖の説もあるのですが、現在の日本は御覧のように、教えを知っても仏陀及び聖者方の教えを推さず、鬼を推すなどと言い張る輩も多数居ますね。(これは日本だけではないですが。)
魔的な存在がどのような存在かを知らない者達。(一般的な)恐れを知らないというか、ただ単に何も知らない者達の言と行動ではありますが、
金銭だけを見て、そちらの信仰をしてしまうようであれば、聖典でいうにはその者個人としては、聖典に書いてあるようになされると記されています。(悪行をした者は悪処へと赴きます)

 現在の社会で団体や企業でも、金銭に対する執着を強くしてしまった結果悪性を推すところもあるようですが、企業、団体等もその方針の決定を下す者がいる。その決定権者の意向で動くならば、その業は個に帰するところも大きい、と思われるので、そのような決定を下す立場にある、会社や団体の代表等決定権をもつ方は、よく考えてから、指示、方針を立てたほうが善いと思います。他の人々、多数にも影響はでると思うので、畜生霊を良しとして、他の人々、多数を悪性に走らせるのは、一つの生で作る悪業にしても大きいと思います。個人で走らされる側の人はそのような企業や団体等の代表、方針の決定権者は何という名前の人物だろう、と、また、なぜ悪業を良しとするのか、又は、善行を勧める心の清い代表のいるところだ、ということで、もし悪性の人物であるとわかれば、自らの芯が流されないように気をつけているのが良いのではないでしょうか。
まぁ、一般で考えると霊的な話の悪魔とかは、現実離れした話にはなるだろうが、仏典、聖典にもあるとおり、真実、存在しています。


 自己の中で法を見れば、信が生じるとは思いますが、すでに先に進んでいる人は、邪魔をする悪魔に出くわしたりもするだろうけれども、仏陀の教えを知っていれば、そういうのに絡まれつつも、あとは、仏典、聖典等、過去の聖者が再び開いてくれた道の確認作業と実践修行。そのような人達は、共に進んでいきましょう。途中で悪魔に殺られちゃっても、まぁ、そこまでの善業は無駄にはならない、ということなので、ガッツリと落胆する必要もないでしょう。(個人的にはできることから普通にしていこうと思っています。)
中でも出家する程の人はすごいですね。出家生活は為しがたいというのは世間の常識。


 『目覚めた人あり、さとりを開いて真理の道を歩む』という、その仏陀の教えを知る、学ぶというのは、私たち、人にとって、とても重要な事柄です。
  正しい道を行く人にとって、道しるべであり、最上級に重要ですね。



(1は、私、對馬弘の記したもので、赤字の文章は、掲示板を見ていた誰か、他者が記したものです。)

●旧約聖書、世界の神話(宗教)がひっくり返る●

1 :天之御名無主:2008/05/24(土) 16:17:25
そもそも旧約聖書の中で、ファラオから奴隷を解放したモーセさん(預言者)。
しかし、今の現代考古学の進歩により、エジプトピラミッド建設において
奴隷などは使役しておらず、みな普通に仕事をしていたと言う事である。
奴隷を使役していたのではないという事が事実であるならば!
そもそもモーセさんが奴隷を解放する必要すらない。
ということで、旧約聖書による神様の命により、様々な動物を殺生して
奴隷を解放したという話も誤りが含まれていることになる。
根本からして違う=ファラオさんは善人=ハローワーク提供者であるとすれば、
ファラオさんを悪とみなした旧約聖書事態全く180度異なる見解に成りえるのである。
あなたにはわかるであろうか?ということは、旧約聖書での蛇は悪魔である。というのもまた信憑性に欠ける。
そもそも悪魔がそそのかした智慧の実とはいかなるものであったのか。
仏教で言うと無明から悟りにいたるには、智慧が必要と説いている。
お釈迦様は太陽の子で、竜王とよばれていたような気がしなくもない。
(↑竜王というのは、仏典で修行完成者を竜と譬えることからの例え。蛇が地上での生存を終えた後になると言われる龍の龍王の意味ではない。
 ちなみに、仏典である仏陀を豪雨から守った龍王(ナーガ)の話のように、善性の龍神も仏教の守護神である、ということです。
日本の神道でいうと、そのような霊的な神霊。そのような神々から尊敬、供養をされるのが、仏陀、仏陀の阿羅伽の弟子の方々で、さらにわかりやすくいうと神々の神ということです。)
智慧の実とはいかなるものか。  (日記のH27.12.8を参照)                  
    (↑智慧の実に関しては、後からちょっと考えたんですが、智慧の実を悪魔に食べさせられたとかどうとかの話は、昔の話で、すでに済んだ話。要するに、それを食べた後のそういう人達が現在の人々である、ということで、もう食べたあとだから、どうこう言ってもたいした意味はない。と思っています。↓訂正のところにも同じく。)

旧約聖書の唯一神様はどうして、あのように沢山の殺生をなさるのか?   
なぜ、仏教や、日本神道のようにみなとなかよくしないのか?
自分を一番として、自分のみ崇拝するべき!という教えに、
みなが幸せになる法則がはたしてあるのか?
自分を一番とするところには、かならず比較対象があり、他と確執をもたらす。
私の方が一番!嫌、俺の方が一番だ!なんの、俺こそが一番だ!
このような状況で果たして、みなが救われるのか?
なお、これらは一つの考え方である。

2 :天之御名無主:2008/05/24(土) 16:48:56
追記
バチカンでは、聖書を書き換えたことを認めている
ということであるが、真相はいかに?
1に記した事がらも真相は不明である。
私的な一つの見地からの考え方で、正否は不明。

3 :sage:2008/05/24(土) 18:16:46
1だけど、要するに慈悲の心をもちつづけることだけは、
たぶん俺的に真理。
みんなで助け合う。一人ではいきてはいけない。
悪魔と呼ばれるものがいて、
自分に悪い事が起こったとする。でもそれによって、初めて気づくこともある。
たとえば病気とか。
重い病気にかかったことがある人はわかるでしょ。
あ~、普通の健康って、こんな~~~にすばらしい事なんだって。
すぐにその事を忘れてしまうけどね。
でも、それを繰り返す事によって、もっと深い理解につながるのかな。
だから、もし間違いがあったとしても、本当の真の神さまは
それに気づいて、みんなそれぞれに、何かを悟ってほしくて
わざとにそういう試練的な事柄を設定しているということもある。
なので、善悪の区別というのはできないのかもしれない。
ようするに、慈悲の心で、みんなが楽しく幸せにくらすには、
あまり欲を出しすぎず、普通にみんなとくらすのが
すごく幸せなんだと。普通ってことは、すごく幸せだということに
最近きづきました。外に出て風にあたってみる。普通のことなんだけど、
風ってすごく気持ちいいんだよね。というか見る物聞く物って、
明日自分が死ぬと本気で思ったとき、換気扇の音ですら良い音に聞こえる。
聞こえるという事自体がすばらしいことだと。食べることも。何もかも。

4天之御名無主:2008/05/24(土) 21:17:12
>>1

あの~
エジプトでヘブライ人がピラミッドの建設に使役されていたことは
聖書のどこに書いてあるのか、教えて頂けないでしょうか?

5天之御名無主:2008/05/24(土) 23:26:45
>>1
奴隷解放じゃなくて独立運動だったって見方も成り立つのでは?

6 :天之御名無主:2008/05/25(日) 20:38:48
あれ、奴隷解放じゃなかったのか。
それにしても、そこまでやるのか?
と、日本人のあなたはそう思いませんか?
「俺の言うこと聞かない奴はこうしてやる」ってな感じに書いてあるでしょ。
現在の日本でたとえるなら、ヤクザでね~か。
カンジーの非暴力の独立運動をしってるかい?
仏教では動物とか殺生をゆるしていない、食べ物では別だけど。
聖書では殺生あり。食べ物でなくとも。
この違いは~‥!!!
日本人のあなたなら、何が正しいかどうかって普通に考えても
わかるでしょ?
なんで、旧約聖書に書かれている神様はあんなに殺生するの?
なぜ、生贄を要求するんだろうね。

7 :天之御名無主:2008/05/25(日) 20:39:37
人間は動物の肉を食べなくても生きて生けるのにね。
たしか、本来の仏教では肉食をあんまり良しとしていないよね。
これって、殺生するのを良しとしていないから、
普通に考えてそうなるんじゃない。

みんなで仲良くやらないと、仲良しの世界なんてつくれない
と思わない?
我輩がすぐれていて、他のヤツ(神)は劣っている。なんて、
慢心はよくない。
旧約聖書と別に、キリストさんは新しい説を唱えたみたいだけど、
本当は(書き換えなしの時)なんて言ってたんだろうね。
三身一体っていってたみたいだけど、
父と子と精霊で一つってこと?
精霊ってのは、日本でいう、八百万の神なのかな?
ということは、他の神さまも認めてるってことかな!?
と、すると、現在の日本の仏教と神道って、
キリストさんの教えとあってるのかな。

8 :天之御名無主:2008/05/25(日) 20:52:10
(訂正があれば、ここは違うとどなたか教えてね。)

ファラオさんは、多神教で、動物とか虫とかたくさんの生き物を
神様として敬ってた(=大切にしていた)ということみたいだけど、
これって、現在の日本の仏教と神道の混交と同じなんじゃない?
じゃ、日本は悪魔崇拝だ!わっはっはっは~(旧約聖書によるとねw)

ということで、なにを隠そう、わたくしも悪魔崇拝?なのだ!
仏教が好きだからw 慈悲の心が好きw 慈悲LOVEw       〔← ここは、読み直すと、文章のテンションがなんだか恥ずかしいが、一応、慈悲を、愛という表現からいうとすれば、LOVEは、愛欲のLOVEではない、LOVE。アガペ、という愛、の意味する表現の方が近い。   H28.1.18〕

9 :天之御名無主:2008/05/26(月) 18:00:19
現在の旧約聖書では、偶像崇拝を禁じている。
もちろん他の神を崇拝してもダメなんだよね。

ほんの少し書き換えるだけで、意味が全く正反対になるからね。文献なんて。
いろいろな視点から見なきゃ、本当の所がみえてこない。

旧約聖書は本当は何が書いていたのだろう?
神=唯一神?(父?)は何をされたいのだろう?

10天之御名無主:2008/05/26(月) 23:28:13
>>1
とりあえずエジプト史を総花的に紹介したものではなく、時系列を追って紹介した本を読め。
そして中間期、新王国のあたりを集中的に理解せよ。

第19王朝に至るまでのエジプトとセム系の連中の関係をよーく読むと良いと思う。

それからトーラーの方はBHSを読めと言いたい所だけど(w。さすがに無理があるので(w。
マトモな聖書注解を読め。

少なくともモーセ5書と呼ばれる物は相当後の時代に書物に纏められたということを忘れてはならない。

つーかこんなスレ立てるなよorz



11天之御名無主:2008/05/27(火) 20:16:59
聖書を見るとわかるが、ユダヤの民は神と言えど平気で裏切る。
シナイ山でモーセがちょっと留守をしただけで、偶像崇拝に戻っていた。
こういう人たち相手には「妬みの神」である必要があった。

12 :天之御名無主:2008/05/28(水) 22:04:08
>>10
ご指摘ありがとうございます。
なんせ聖書の深いところはまだ理解していないので。
みなさん、1の発言は鵜呑みにしないで自分で考えてください。
ちなみに、私が1です。

できれば、マトモな聖書注解を記しているものを紹介していただきたい

物質的な欲がモロにでていないもので。

偶像崇拝は良くはないのかもしれないけど、
乱交パーティーみたいのなら、こいつらヤバイってヒクけど、
偶像崇拝で騒いでいたってのは、日本のお祭りでお神輿かついでるのと
同じようなものでないの?
じゃ、日本人の人たちはみんな「妬みの神」を崇拝しちゃってるってことに
なるわけだよね。
でも、日本人の根底はみんな神さまをワッショイワッショイやってるだけで、
根底は仏教っぽくない?みんなの家に仏壇あるでしょ?
偶像崇拝っていうか、多神教であって、唯一神というか、どこの神様も
、神様はみんなエライんだってなカンジでただワイワイ騒いでいるだけかもね。
日本人でお祭りに参加してミコシかついでいる人いるでしょ?
あの人たちのほとんどはなぜお神輿をかついでこういうお祭りをしているか
わかっていない人がほとんどじゃない?
なにを隠そう私もわかっていない。たぶん、地鎮的なカンジなんだろうけど。
聖書の場合、偶像崇拝でみんわワイワイと堕落したというように
書かれているみたいだけど、乱交パーティーしてたの?
以外と普通のお祭りやってたのかもよ。
ワッショイワッショイって、ねぷた祭りとか。
という考え方もあるよね。
でも、乱交パーティーをやっていたなら、堕落者だよね。


13 :sage:2008/05/29(木) 00:23:58
ちなみに智慧の実をたべさせた蛇が本当に悪魔であるかどうか、又は、
本当の悪魔であるかの正しい解答はわかりかねるので、
絶対に鵜呑みにしないで、自分で考えてください。


14天之御名無主:2008/05/29(木) 07:09:32
地上の波動が
太陽を変えるのか

これ、変えるツールは有りと思う。
聖書には太陽に云々は無い
でも今は
太陽の変動で私が右往左往している。
そこもよーく考察しよーや


15天之御名無主:2008/05/29(木) 12:23:50
ピラミッド強制労働説はもっと昔だろ。
それに民衆は強制労働に借り出されなかったとしても、
よそ者のセム人はなにさせられたかわかんねーぞ。
エジプト人のヒクソスに対するアレルギーは相当なもんだし。


16天之御名無主:2008/05/29(木) 15:04:39
>12
闇祭りってのは村全体で一年に一度の乱交の日だったらしいね
あと「妬みの神」ってのはジョーヴェだかヤハーヴェだかエホバだかか自分で自分のことを言ったんじゃなかったか
まあ氏神様ってのは対立する場合もあるらしいが


17 :天之御名無主:2008/05/29(木) 22:57:15

ようするに、「自分だけをよしとしなさい」という書き換えられた!?教え(慢心)が
あるところに、涅槃はない=みんなが幸せになるという法則もない。
天国への道もない。争いの道はあるけど。
慢心は仏教ではよくないものだと言ってるよ。普通に考えてもわかるでしょ?あなたが日本人なら。

今、日本の教えを世界に教える時期なんだと思う。
今、日本が物質本位になりそうになってるけど。

で、逆にも考えてみたら、なおわかる。慢心があるところには、
その裏に「自分だけをよしとしなさい」という心があるでしょ。
わかる?ちょっと考えてみそ。

ね、あるでしょ。慢心があるところにみんなで幸せになるという法則はない。

人間で有る程度、精神的に自己観察する人で気をつけるべき
心は、慢心、徳の高い人でも、慢心により天狗になる?!
人間ができてくる→人から支持される→人の上に立つ→ココ!
本当に徳の高い人は、本当に普通の人だけど、自分の心をよ~く観察して、慢心がでそうになったら、
すぐに消すだろうし、慢心をだしてしまった後には、思いっきり反省をする人だと思う。
徳の高い人ほど、慢心という穴に落ちやすい。ちやほやされるから。
全ては自分の力でここまでやったんだ=慢心がでる
世の中、自分一人では生きていけない。
神仏の加護が影にあることはわすれない方がいい。
私もあなたも生かされているということに。太陽も水も食べ物も全てがあって今生かされている。
そして、先祖があって、今自分がいる。←こういうのは宗教とかの枠を超えて、普通にわかるでしょ。
日本の昔から伝えられてきた教えって普通にすごいよ。それが普通になってるところが実はすごいと思う。

18 :天之御名無主:2008/05/29(木) 23:14:46
>14
神仏混交で念じればわかってくれるかもなの?

地球って、地球でえらばれた王さまが太陽の鎮祭をして、
地球がひっくりかえらないようにしてたりしてw
ありえなくもないよね。
(  省略します。  )
今だれか鎮祭やってるのかな?
地球まるごと熱くなってきてるから、
そろそろやばくない?

19天之御名無主:2008/05/30(金) 00:07:13
別に多少熱くなったぐらいで何と言うこともないだろう
人間の数が多すぎるせいだってんなら、ちょうどいい具合に減るまで待てば良い




20天之御名無主:2008/05/30(金) 02:54:18
神は一人の人間のたった一度の違反行為のためにすべての人間を永遠に呪います。
:ロマ書 5:12, ローマ人の手紙. 5:17-19, 1 コリント人への手紙. 15:21,22. 現代的な司法制度じゃないですね

神は一つの創造物 (人間)を欠陥物にしてしまったがゆえにすべての生き物を溺死させます
:創世記. 6:5, 7, 創世記 6:17, 創世記. 7:23. 呪いをかけられた魚はどう溺死させられるのでしょう?

神は奴隷制度を認可します:出エジプト記. 21:2, 4-6及び レビ記. 25:44-46.
新約聖書も確かに奴隷制度に賛成しています:ペトロ第一の手紙. 2:18, テモテへの第一の手紙. 6:1, テトスへの手紙 2:9,
エペソ人への手紙. 6:5-8及び. コロセイ人への手紙. 3:22.

有罪者の代わりに無罪者が呪われました:創世記. 9:20-22, 24-25.
後に教会は、裸の父を見てしまったハムの子孫は黒人の祖先で、それゆえ奴隷扱いを正当化しました。

神は人間に犠牲を求めます:レビ記. 27:28, 29, ヨシュア記. 6:17,エレミヤ書 7:30, エゼキエル記. 20:25,26及びミカ記 6:7.
創世記. 22:2, 9, 10(アブラハム - イサク)
そしてジェプザー、彼は自分の娘を神の食欲の為に丸焼きにしました:士師記 11:29-31及び 11:34, 39.

処女を結婚前に失った少女、処女でも初夜に出血しない少女には死:申命記. 22:20-21.
処女膜が完全でない聖職者の娘は火あぶりの刑:レビ記. 21:9.
強姦された時に大声で叫ばなかった少女に死刑:申命記: 22:24.
月経中にセックスすると死刑:レビ記. 20:18.
奴隷は時間をかけて殴殺してもかまわない:出エジプト記 21:20,21.

占い師に相談しただけで死刑:レビ記. 20:6.
偶像崇拝と異端も死刑: 出エジプト記. 22:20, 申命記. 13:1, 2, 5, 14, 15, 申命記. 17:2-5, 申命記. 18:20.

宗教観の異なる兄弟、娘、息子、妻たちは殺されなければならない:申命記. 13:6-11.

魔女たちは殺されなければならない:出エジプト記 22:18, レビ記 20:27, 申命記 18:10, ガラテヤ人への手紙 5:19,20.
魔術は宗教と同じく明らかに空想の世界のものです。ですからここでも無罪者の処刑が求められているのです。



神は一人の人間のたった一度の違反行為のためにすべての人間を永遠に呪います。
:ロマ書 5:12, ローマ人の手紙. 5:17-19, 1 コリント人への手紙. 15:21,22. 現代的な司法制度じゃないですね


ローマ人の手紙
5:12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだのである。


ローマ人の手紙
5:17 もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと、義の賜物とを受けている者達は、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人にされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。

コリント人への手紙
15:21 それは、死がひとりの人によって来たのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によって来なければならない。
22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。


要するに、現代的な司法制度の話をしているのではなく、

神は、一人の人間(アダム)のたった一度の違反行為のために、すべての人間が罪に定められたが、
また、一人の義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶこととなった。という話で、

そのように、
ひとりの人(アダム)の不従順によって、多くの人が罪人にされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのであり、
また、アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。と。   H28.1.14



神は一つの創造物 (人間)を欠陥物にしてしまったがゆえにすべての生き物を溺死させます
:創世記. 6:5, 7, 創世記 6:17, 創世記. 7:23. 呪いをかけられた魚はどう溺死させられるのでしょう?


創世記
6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を創造ったことを後悔し、心を痛められていた。

6:7 主は言われた「わたしは人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」、しかし、ノアは主の眼前に恵みを得た。


6:11 この地は、神の前に堕落し、不法に満ちていた。
6:12 神は地を御覧になった。見よ、それは、堕落し、すべて肉なる者は、この地で堕落の道を歩んでいた。

6:17 見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべての肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。

6:18 しかし、わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。

7:23 地のおもてにいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られ、ノアと、彼と共に箱舟にいた者だけが残った。


要するに、魚は、エラ呼吸なので溺死はしないだろうが、魚は地上のものではなくて、水中のものだから、ここはあえて、魚を気にする必要もないだろう。


そして、このように、地が、不法(悪法・邪法)に満ちてしまったことにより、神は地上に洪水をもたらしたとされる。)



神は奴隷制度を認可します:出エジプト記. 21:2, 4-6及び レビ記. 25:44-46.

出エジプト記
21:2 あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目に無償で自由の身となることができる。
3 もし、独身で来た場合は、独身で去らねばならない。もし、彼が妻帯者であった場合は、その妻も共に去ることができる。
4 もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子、あるいは、娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。
5 もし、その奴隷が、「私は主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意思はありません」と明言する場合は、
6 主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口、もしくは、入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を、生涯、奴隷とすることができる。
7 人が自分の娘を女奴隷として売るならば、彼女は、男奴隷が去るときと同じように去ることはできない。
8 もし、主人が彼女を一度自分のものと定めながら、気に入らなくなった場合は、彼女が買い戻されることを許さねばならない。彼は彼女を裏切ったのだから、外国人に売る権利はない。
9 もし、彼女を自分の息子のものと定めた場合は、自分の娘と同じように扱わなければならない。
10 もし、彼が別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦、の交わりを減らしてはならない。
11 もし、彼がこの三つの事柄を実行しない場合は、彼女は金を支払わずに無償で去ることができる。

レビ記
25:39もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。
40 雇い人が滞在者として共に住まわせ、ヨベル〔イスラエルにおいて50年目(辞書より、25年に短縮されたこともある)ごとに守られた自由解放の喜びの日、聖別され、すべての人に自由が与えられた〕の年まであなたのもとで働かせよ。
41 その時が来れば、その人もその子供も、あなたのもとを離れて、家族のもとに帰り、先祖伝来の所有地の返却を受けることができる。
42 エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である。彼らは奴隷として売られてはならない。
43 あなたは彼らを過酷に踏みにじってはならない。あなたの神を畏れなさい。
44 しかし、あなたの男女の奴隷が、周辺の国々から得たものである場合は、それを奴隷として買うことができる。
45 あなたたちのもとに宿る滞在者の子供や、この国で彼らに生まれた家族を奴隷として買い、それを財産とすることができる。
46 彼らをあなたの息子の代まで財産として受け継がせ、永久に奴隷として働かせることもできる。しかし、あなたたちの同胞であるイスラエルの人々を、互いに過酷に踏みにじってはならない。
47 もしあなたのもとに住む、寄留者、滞在者が豊かになり、あなたの同胞が貧しくなって、あなたのもとに住む寄留者ないしはその家族の者に身売りしたときは、
48 身売りした後でも、その人は買い戻しの権利を保有する。その人の兄弟は誰でもその人を買い戻すことができる。
49 おじとかいとこも買い戻すことができる。その人の一族の血縁の者も買い戻すことができる。その人が自分でその力を持つようになったときには、自分自身を買い戻すことができる。
50 その人は自分を買い取る人と共に、自分が買われた年からヨベルの年までを数えて、その年数によって自分の価を決める。これから彼のもとで働くはずの期間の労賃を、日雇い労働の率で算定する。
51 ヨベルの年までの年数が長ければ、その年数に応じて、身売りした金額との差額を、買戻し金として支払う。
52 もしヨベルの年までの年数が短くても、同様の算定をし、買い戻し金として支払う。
53 その人を買い取ったものは、年々過酷に踏みにじってはならない。
54 もしその人が身売りしたままで買い戻されなかった場合、ヨベルの年にはその人も、その子供たちも手放される。
55 イスラエルの人々はわたしの奴隷であり、彼らはわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。わたしはあなたたちの神、主である。

民数記

36:4 イスラエルの人々にヨベルの年が訪れると、娘たちの嗣業の土地は、嫁いだ先の部族の嗣業の土地に加えられ、その娘たちの嗣業の土地は、わたしたちの父祖以来の部族の嗣業の土地から削れられてしまいます。」


要するに、神は奴隷制度を認可しているが、いろいろ条件が付いている。
奴隷は、ヨベルの年になったら、自由に解放される。


そのように、神は奴隷にも、自由を与える。と。)



新約聖書も確かに奴隷制度に賛成しています:ペトロ第一の手紙. 2:18, テモテへの第一の手紙. 6:1, テトスへの手紙 2:9,
エペソ人への手紙. 6:5-8及び. コロセイ人への手紙. 3:22.

ペトロの第一の手紙
2:10 あなた方は、以前は神の民ではなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのないものであったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
11 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いを挑む、肉の欲を避けなさい。
12 異邦人の中にあって、立派な行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなた方の立派な業を見て、かえって、おとずれの日に神を崇めるようになろう。
13 あなた方は、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、
14 あるいは、悪を行う者を罰し、善を行う者を賞するために、王から遣わされた長官であろうと、これに従いなさい。
15 善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨(みむね・中心事)なのである。
16 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由を悪を行う口実として用いることなく、神の僕(しもべ)にふさわしく行動しなさい。
17 すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
2:18 僕だる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気難しい主人にも、そうしなさい。
19 もし誰かが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それは良しとされることである。
20 悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし、善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神に良しとされることである。
21 あなた方は、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなた方のために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
22 キリストは罪を犯さず、その口に偽りがなかった。
23 罵られても、罵り返さず、苦しめれても、脅かすことをせず、正しい裁きをする方に、一切をゆだねておられた。
24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなた方は、癒されたのである。
25 あなた方は、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり、監督である方のもとに、立ち帰ったのである。


テモテへの第一の手紙
6:1 くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教えとが、そしりを受けないためである。
2 信者である主人を持っている者たちは、その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。むしろ、ますます励んで仕えるべきである。その益を受ける主人は、信者であり、愛されている人だからである。
あなたは、これらの事を教えかつ勧めなさい。
3 もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教えに同意しないような者があれば、
4 彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、猜疑の心が生じ、
5 また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、果てしのないいがみ合いが起こるのである。
6 しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。
7 わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世に来た。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。
8 ただ衣食があれば、それで足りる、とすべきである。
9 富むことを願い求めるものは、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。
10 金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は、欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって、自分自身を刺しとおした。
11 しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と、信心と、信仰と、愛と、忍耐と、柔和とを追い求めなさい。
12 信仰の戦いを立派に戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、立派なあかしをしたのである。

テトスへの手紙
2:2 老人たちは、自らを制し、謹厳で、慎み深くし、また、信仰と、愛と、忍耐とにおいて、健全であるように勧め、
3 年老いた女たちにも、同じように、たち居振舞いをうやうやしく、人をそしったり、大酒の奴隷になったりせず、良い事を教える者となるように、勧めなさい。
4 そうすれば、彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、
5 慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言葉がそしりを受けないようになるであろう。
6 若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい。
7 あなた自身を良い業の模範として示し、人を教える場合には、清廉と謹厳とをもってし、
8 非難のない健全な言葉を用いなさい。そうすれば、反対者も、わたしたちについて何の悪口も言えなくなり、自ら恥じ入るであろう。

2:9 奴隷には、万事につけ、その主人に服従して、喜ばれるようになり、反抗せず、
10 盗みをせず、どこまでも心を込めた真実を示すようにと、勧めなさい。そうすれば、彼らは万事につけ、わたしたちの救主なる神の教えを飾ることになろう。


エペソ人への手紙
6:1 子たる者よ、主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。
2 「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、
3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。
4 父たる者よ、子供を怒らせないで、主の薫陶〔徳の力で導くこと〕と訓戒とによって、彼らを育てなさい。
6:5 僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。
6 人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、キリストの僕として、心から神の御旨を行い、
7 人にではなく、主に仕えるように、快く仕えなさい。
8 あなた方が知っているとおり、誰でも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。
9 主人たる者よ、僕たちに対して、同様にしなさい。脅すことをしてはならない。あなた方が知っているとおり、彼らとあなた方との主は、天にいますのであり、かつ人を偏り見ることをなさらないのである。
10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また、天上にいる悪の霊に対する戦いである。
13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
14 すなわち、立って、真理の帯を腰にしめて、正義の胸当てを胸につけ、
15 平和の福音の備えを足にはき、
16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
17 また、救い兜をかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言葉をとりなさい。
18 どんな時でも御霊によって祈り、願いをし、そのために、目を覚まして、倦むことなく、すべての聖徒のために、祈り続けなさい。

コロサイ人への手紙
3:22 僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心を込めて、主を恐れつつ従いなさい。
23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。
24 あなた方が知っているとおり、あなた方は御国を継ぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなた方は、主キリストに仕えているのである。
25 不正を行う者は、自分の行なった不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。
4:1 主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなた方にも、主が天にいますことが、わかっているのだから。
2 目を覚まして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。
3 同時にわたしたちのためにも、神が御言葉のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わたしは、実は、そのために獄につながれているのである)、
4 また、わたしが語るべきことを、はっきりと語れるように、祈ってほしい。
5 今の時を生かして用い、そとの人のに対して賢く行動しなさい。
6 いつも、塩で味つられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、一人一人に対してどう答えるべきか、わかるであろう。


要するに、
15 善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨(みむね・中心事)なのである。
16 自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由を悪を行う口実として用いることなく、神の僕(しもべ)にふさわしく行動しなさい。
17 すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
2:18 僕だる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気難しい主人にも、そうしなさい。


そのように、
6:1 くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教えとが、そしりを受けないためである。と。

そして、
12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また、天上にいる悪の霊〔本当(本物)の悪魔〕に対する戦いである。
13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。と。)



有罪者の代わりに無罪者が呪われました:創世記. 9:20-22, 24-25.
後に教会は、裸の父を見てしまったハムの子孫は黒人の祖先で、それゆえ奴隷扱いを正当化しました。


創世記
9:18 箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。
19 この三人がノアの息子で、全世界の人々は、彼らから出て広がったのである。
9:20 ここに、ノアは農夫となり、ぶどう畑を植ることを始めたが、
21 ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
22 カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
23 セムとヤペテは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。
24 ノアは酔いから醒めると、末の息子がしたことを知り、
25 こう言った。
  「カナンは呪われよ、僕輩の僕となり、兄たちに仕えよ。」
26 また言った。
  「セムの神は、讃むべきかな。カナンはセムの僕となれ。
27 神、ヤペテを大いならしめたわん、彼はセムの天幕に住み、カナンはその僕となれ。」
28 ノアは、洪水の後、三百五十年生きた。ノアは九百五十歳になって、死んだ。

要するに、ハムは裸の父を見て、父を笑いものとして兄弟に告げて、そのことをノアが怒った、ということだろうから、
たしかに、ノアを怒らせたハムの代わりに、無罪者のハムの息子カナンが呪われてしまっている。




後に教会は、裸の父を見てしまったハムの子孫は黒人の祖先で、それゆえ奴隷扱いを正当化しました。

これは、ノアは、ハムの息子カナンに対して言ったことであって、「カナンの子孫は奴隷となれ」と言っているわけでもないので、その奴隷扱いは、普通に考えたら、不当だろう。


そして、ノアについて、

『ノアよ、立ってその蔓を植えよ。神がこう言われるのだから。この木の若さは甘さに変えられ、その呪いは祝福となり、そこから生ずるものは神の血となるであろう。その(木の)おかげで人類は罰を受けたのだが、今度はインヌマエルなるイエス・キリストを通してその木において上への召しを受け、楽園へ入ることを許されるようになるであろう

 そういうわけなので、バルクよ、知りなさい。アダムがその木を通して断罪され、神の栄光を奪い取られたのと同じように、今の人々もそれから生ずるぶどう酒(欲望)をあくことを知らずに飲み続けて、アダムよりもひどい罪を生み出し、神の栄光から遠く離れて、己が身を永遠の火に委ねているのです。ぶどう酒(欲望)を通しては、善いものは何一つ生じないのですから。これをがぶ飲みする者達は、次のようなことをするのです。兄弟が兄弟を、父が息子を、子供が両親を憐まず、たとえば殺人、姦通、姦淫、偽誓、盗み、およびこれらに類似のものはすべて飲酒を通して生ずるのです。
ぶどう酒(欲望)を通しては、善いものは何一つ打ち建てられません。』      バルク黙示録〔聖書外典〕


このように、ノアは、酒を飲んで裸になってしまった、というのは、ノア自身の失敗でもあるだろう。
ノアの、飲酒による家族崩壊の危機。というか、そのことによって、ハムと離れることなってしまった、と。

ということなので、


仏陀の教え

『「酒類など怠惰の原因に熱中するならば、次の六つのあやまちが生ずる。すなわち、
  現に財の損失あり、
  口論を増し、
  疾病の巣窟となり、
  悪い評判(不名誉)を生じ、
  陰処をあらわし、
  第六は智力を弱からしめる。
  これらの六つのあやまちは、酒類など怠惰の原因に熱中するときに生じる。
」  シンガーラへの教え』

それ故に、
『「飲酒を行ってはならぬ。
 この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。
 これは終に人を狂酔せしめるものであると知って。
 けだし諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
 この禍の起こるもとを回避せよ。
 飲酒は愚人の愛好するところであるが、しかし、人を狂酔せしめ迷わせるものである。」  スッタニパータ』


このように、人を狂酔せしめ迷わせる原因である飲酒、という過ちをしてしまわないように、飲酒を行なわないのが最も善い。
できなければ、飲酒を慎みなさい。と。   H28.1.15)

神は人間に犠牲を求めます:レビ記. 27:28, 29, ヨシュア記. 6:17,エレミヤ書 7:30, エゼキエル記. 20:25,26及びミカ記 6:7.
創世記. 22:2, 9, 10(アブラハム - イサク)
そしてジェプザー、彼は自分の娘を神の食欲の為に丸焼きにしました:士師記 11:29-31及び 11:34, 39.


レビ記

27:28 また、自分の持ち物のうちから、永久に主のものとして奉納したすべての奉納物は、人であれ、家畜であれ、先祖伝来の畑であれ、それを売ったり買い戻したりすることはできない。永久に奉納物はすべて、神聖なもので主に属する。
29 特に、永久に神に奉納された奉納物が人である場合は、その人を買い戻すことはできず、必ず殺さねばならない。


ヨシュア記(ヨシュアは、モーセの後継者)
6:16 七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。
17 町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。
18 あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でも掠め取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。


エゼキエル書
20:23 ただし、私は荒れ野で彼らに誓い、彼らを諸国民の間に散らし、諸国に追いやると告げた。ら
24 なぜなら、彼らが私の安息日を汚し、彼らの父祖の偶像に目をひかれていたからである。
25 私もまた、良くない掟と、それによって生きることができない裁きを彼らに与えた。
26 また、彼らが初子をすべて捧げたとき、私は彼らの献げ物によって彼らを汚した。それは、私が彼らを荒廃させ、私が主であることを知らせるためであった。
27 それゆえ、イスラエルの家に語りなさい。人の子よ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。お前達の父祖は、私に対して裏切りを行い、またもや、私を冒瀆した。
28 私が与えると誓ったその地に彼らを導き入れたとき、彼らは高い丘や茂った木を見ると、どこででも、生け贄をささげ、私を怒らせる供え物をささげた。彼らはまた、そこでなだめの香りをたき、ぶどう酒の献げ物のを注ぎかけた。
29 私は彼らに言った『お前達が通う聖なる高台は一体何か』と。それゆえ、今日までその場所の名は、聖なる高台と呼ばれている。
30 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。お前達は父祖の歩みに従って自らを汚し、彼らの憎むべき偶像と姦淫を行ってきた。
31 また、自分の子供を献げ物として火の中を通らせ、全ての偶像によって今日に至るまで自らを汚している。それなのに、イスラエルの家よ、私はお前達の求めに応じられようか。私は生きている。と主なる神は言われる。私は決してお前達の求めに応じない。
32 お前達は『我々は諸国民のように、また、世界各地の種族のように木や石の偶像に仕えよう』と言っているが、お前達が心に思うそのようなことは決して実現しない。


ミカ書
6:6 何をもって、私は主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。
  焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
7 主は喜ばれるだろうか。幾千の雄羊、幾万の油の流れを。
  我が咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
8 人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。
  正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。


士師記
11:29 主の霊がエフタに臨んだ。かれはギレアドとマナセを通り、さらにギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。
30 エフタは主に誓いを立てた言った、「もしあなたがアンモン人を私の手に渡してくださるなら、
31 私がアンモンとの戦いから無事に帰るとき、私の家の戸口から、私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」
32 こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。
33 彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。
34 エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼には他に息子も娘もいなかった。
35 彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った、「ああ、私の娘よ。お前が私を打ちのめし、お前が私を苦しめる者になるとは。私は主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」
36 彼女は言った、「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、私をその口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」」
37 彼女は更に言った、「私にこうさせていただきたいのです。二カ月の間、私を自由にしてください。私は友達と共に出かけて山々をさ迷い、私が処女のままであることを泣き悲しみたいのです。」
38 彼は「行くがよい」と言って、娘を二カ月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で処女のままであることを泣き悲しんだ。
39 二カ月が過ぎ、彼女が父のもとに帰ってくると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。
40 来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。


創世記

22:1 これらのこの後で、神はアブラハムを試された。
   神が「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が「はい」と答えると、
2 神は命じられた、
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。
  私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
3 次の朝早く、アブラハムはロバに鞍をを置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
5 アブラハムは若者に言った、
「お前たちは、ロバと一緒にここで待っていなさい。私と息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
7 イサクは父アブラハムに「私のお父さん」と呼びかけた。彼が「ここにいる。私の子よ」と答えると、
  イサクは言った、
「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする子羊はどこにいるのですか。」
8 アブラハムは答えた、
「私の子よ、焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる。」
  二人は一緒に歩いて行った。
9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
11 そのとき、天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると、
12 御使いは言った、
 「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。
  あなたは、自分の独り子である息子すら、私にささげることを惜しまなかった。
13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を捕られていた。
  アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
14 アブラハムはその場所をヤアウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。
  そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。
16 御使いは言った、
 「私は自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである。」
19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。


エレミヤ書
7:30 まことにユダの人々は私の目の前で悪を行った、と主は言われる。私の名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。
31 彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことを私は命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。
32 それゆえ、見よ、もはやトフェトとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る、と主は言われる。そのとき、人々はもはや余地を残さぬまで、トフェトに人を葬る。
33 この民の死体は空の鳥、野の獣の餌食となる。それを追い払う者もない。
34 私はユダの町々とエルサレムの巷から、喜びの声と祝いの声、花婿の声と花嫁の声を絶つ。この地は廃墟となる。
8:1 そのとき、と主は言われる。ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、祭司の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される。
2 それは、彼らが愛し、仕え、その後に従い、尋ね求め、伏し拝んだ太陽や月、天の万象の前にさらされ、集められることも葬られることもなく、地の面にまき散らされて肥やしとなる。
3 私が他のさまざまな場所に追いやった、この悪を行う民族の残りの者すべてにとって、死は生よりも望ましいものになる、と万軍の主は言われる。





『仏陀の教え

「馬の祀り、人の祀り、棒を投げる祀り、精力を飲む祀り、閂を取り去る祀り、これらの祀りは、労することを多くして、大いなる果報をもたらさない。
 山羊と羊と牛とが種々に殺されるが、正しい道を行く大仙人たちは、その大規模な生けにえの場所におもむかない。

 しかるに、労することなくして、常に順調に行われ、山羊や羊や牛が種々に殺されることのない祭祀。

 正しい道を行く大仙人たちは、その祭祀におもむく。

 聡明な人は、この祭祀を行え。
 この祭祀は大いなる果報をもたらす。

 実にこの祭祀を行うならば、その人には、善いことがあり、悪いことは起こらない。
 その祭祀は広大なものとなる。
 そうして神々もそれを喜ぶ」



 要するに、
神は自分の息子や娘を犠牲に捧げさせない。そのような行いは悪行であり、してはならない。


 エフタは、自らの言葉のとおり、「私は主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」と、自らで言ってしまって後悔している、

 そして、アブラハムは、そのすぐ後、雄羊を息子の代わりに捧げものとして捧げたが、

『山羊と羊と牛とが種々に殺されるが、正しい道を行く大仙人たちは、その大規模な生けにえの場所におもむかない。
 また、ジャータカより、帝釈天も、試し心で、犠牲的行為をさせたこともあるが、その後、その人を救っている、というような話もあり、

 要するに、生命ある存在を犠牲として、本当に捧げさせる神は、悪しき性の神・劣性の神・低級な神として言われてしまうし、言われてもしょうがない、と。

 本来は、動物の犠牲ですらも、最上清浄の聖者や神々からは忌み嫌われる。

 アベルとカインの捧げ物の話で、神は、アベルの捧げものを顧みたが、神がその捧げ物を善いと言っているわけでもなく、
 神は怒りを抱いているカインのその怒りに対して、彼が悪行をしてしまうその先にカインに忠告をしている。

 これは、
普通に考えても、カインの捧げ物(土の実り)の方が善い。H29.5.3



 また、覚とりを得た覚者である仏陀の教えにおいて、肉は食べても良いが、自らのために殺されて献げられた肉だと知っているのであれば、その肉を食べてはならない。

 覚とりを得た仏陀と最上清浄な阿羅伽の聖者方は、知りつつも、そのような生け贄・献げ物を食べることはない。

 そして、これは、肉食をしないということではない。


 肉食することがなまぐさ〔臭穢〕なのではない、ということについて (肉食に関して)


 また、例えば、仏陀の弟子である私も、普段、肉を好んで食べないので、肉自体を食べたいとも思わないし、肉をくれるくらいであれば、野菜果物をくれたほうが良い、と普通に思う。

 このように、肉よりも、野菜果物を好む存在もいる。

 そしてまた、これは、肉食をしないということではない。



『バラモンよ。真の道理があるところに、この目ざめた人々の行い〔実践法〕がある。

 全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し、悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食物をささげよ。

 けだし、それは福(徳)を積もうと望む者の(福)田であるからである』   H29.5.5










処女を結婚前に失った少女、処女でも初夜に出血しない少女には死:申命記. 22:20-21.
処女膜が完全でない聖職者の娘は火あぶりの刑:レビ記. 21:9.
強姦された時に大声で叫ばなかった少女に死刑:申命記: 22:24.
月経中にセックスすると死刑:レビ記. 20:18.
奴隷は時間をかけて殴殺してもかまわない:出エジプト記 21:20,21.

占い師に相談しただけで死刑:レビ記. 20:6.
偶像崇拝と異端も死刑: 出エジプト記. 22:20, 申命記. 13:1, 2, 5, 14, 15, 申命記. 17:2-5, 申命記. 18:20.

宗教観の異なる兄弟、娘、息子、妻たちは殺されなければならない:申命記. 13:6-11.






魔女たちは殺されなければならない:出エジプト記 22:18, レビ記 20:27, 申命記 18:10, ガラテヤ人への手紙 5:19,20.
魔術は宗教と同じく明らかに空想の世界のものです。ですからここでも無罪者の処刑が求められているのです。

 体験もなく、無知であり、真理の智慧もない凡夫は、空想の世界のものであるとして、無知盲目からの推測しかできえないであろうが、魔術は宗教と同じく、明らかに空想の世界のものではない。
 魔術のその魔術者は、その邪悪な行為によりて、人々を誘惑し、自らだけでなく、他の人々を大勢をも、地獄へと導く。そのような事柄によりても悪。
 ちなみに、邪悪行をしているテロの魔術者・殺人共犯者のごときは、すでに旧約の神の道においても、道にいない。旧約で”ない”と認定されたならば、新約ではなおさらに”ない”。
 さらに言えば、アッラーの教えにおいても、邪悪行をしているテロの魔術者・殺人共犯者は、完璧に排除されるべき悪しき存在として説かれている。そして、天に赴くのは絶対にないと、断言されている。
 仏陀の教えが最上に慈悲深いというのに、その仏陀の弟子を殺めようとしているところで、もうすでに、善なる神からも相手にされることは、普通に考えても”ない”と。

 その本当の恐ろしさに気づいていないのは、テロの邪悪行者達・悪しき存在者達。

 その故にも、一般の人たちは彼ら邪悪行者達に関与するべきではないし、関与してはならない。H29.5.4








処女を結婚前に失った少女、処女でも初夜に出血しない少女には死:申命記. 22:20-21.
処女膜が完全でない聖職者の娘は火あぶりの刑:レビ記. 21:9.
強姦された時に大声で叫ばなかった少女に死刑:申命記: 22:24.
月経中にセックスすると死刑:レビ記. 20:18.
奴隷は時間をかけて殴殺してもかまわない:出エジプト記 21:20,21.

占い師に相談しただけで死刑:レビ記. 20:6.
偶像崇拝と異端も死刑: 出エジプト記. 22:20, 申命記. 13:1, 2, 5, 14, 15, 申命記. 17:2-5, 申命記. 18:20.

宗教観の異なる兄弟、娘、息子、妻たちは殺されなければならない:申命記. 13:6-11.

魔女たちは殺されなければならない:出エジプト記 22:18, レビ記 20:27, 申命記 18:10, ガラテヤ人への手紙 5:19,20.
魔術は宗教と同じく明らかに空想の世界のものです。ですからここでも無罪者の処刑が求められているのです。

21天之御名無主:2008/05/30(金) 02:55:22
神は逆らった人々を地震や火事や疫病で殺す:民数記. 16:3、20-22、27、31-33、35。民数記.16:49
神の呪い:“あなたがたは自分の息子の肉を食べ、また自分の娘の肉を食べるであろう。”レビ記. 26:29.
神の命令:七つの民族の大虐殺:申命記. 7:1-6, 申命記. 20:6,17.

神はファラオの心を頑なにし、他の犯罪も犯させます:出エジプト記. 7:3,4,13, 出エジプト記. 10:1, 20, 27, 出エジプト記. 14:17及び出エジプト記. 7:20, 21; 9:3, 6; 9:19, 23 ,25.
神は真夜中の殺人犯:出エジプト記. 12:29, 30及び 出エジプト記. 11:3-6.

神のお気に入りの男が、神の怒りを静めるため、罪のない七人の男を打ち殺させます:サムエル記下 21:1,3-6,9,14, 及び民数記. 25:4.
ヨシュアはエリコの人々を皆奉納物として滅ぼす。ただ協力した娼婦のラハブと彼女の一族を生き残す事を許した:ヨシュア記. 6:17-21.

ヤエルは信頼を裏切って残酷な殺人する:士師記 4:9-24
それに対する神の誉め言葉:士師記 5:24-31.

神はある民族(女たち子供を含む)の全虐殺を手伝う:申命記. 2:30, 34.
遠く住んでいる民族の男性を殴殺し、その女性と子供を奴隷にせよと神が命令した:申命記. 20:10-15。
近隣民族であるヘテびと, アモリびと, カナンびと, ペリジびと, ヒビびと 及びエブスびとは残らず大虐殺せよと神が命令した
:申命記. 20:16,17.

神はモーセにミデアン人の大虐殺を命令する。ミデアン人はモーセがエジプト兵から逃げた時以来40年間もモーセを客としてもてなしていた。
しかし、忘恩は世の習い、神はミデアン人を皆、女達と男性の子供を含めて、殺せと命じた。
ただ、処女達は戦利品となり、兵士、聖職者、さらには神自身の慰安婦として生き残ることを許された:民数記. 31:1-2, 9-11, 14-18, 32, 35, 40.



22天之御名無主:2008/05/30(金) 02:56:09
ダビデは、復讐のためイスラエルに侵入したが誰も殺さずユダヤ人をただ捕虜にしたアマレク人に、
大虐殺こそ本当のやり方だと見せつける:: サムエル記上 30:2-18.
神は、400年前の罪で、赤子と用畜を含めたすべてのアマレク人の虐殺を命じる:サムエル記上. 15:1-3, 8.
“嬉しそうにサムエルの所に来た”アマレク人の王アガグを主の前で切り刻むサムエル:サムエル記上. 15:33.

神の男ダビデは、キリスト教の宗教裁判官の様にアンモンの人々を鋸、おの、つるはしや鉄の道具での拷問の末、
彼らをナチとクロアチのウスタチャ(カトリックのファシスト政府、1941―45)同様大きな煉瓦造りの炉で焼き殺す:
歴代志上 20:3 及び サムエル記下 12:31.
1956年、聖書のこの個所はアウシュビッツの大虐殺を連想させるとの理由でルーテル派の聖書協会により
“煉瓦工場の労役につかせた”との表現に変えさせられた。手元にある日本版の聖書にもそう書いてあります。
聖書の言葉は変わり易いですね。永遠の真実とは何なのでしょうか?


23天之御名無主:2008/05/30(金) 02:59:00
契約の血の犠牲を要求する主の正体は「悪魔」の可能性あり。
イスラエルは主を騙る悪魔に操られてきた「悪魔の民族」か‥
なぜなら歴史的にも紛争と略奪の国。
世界の火薬庫の中心として現在も占領地、パレスチナで無差別虐殺を繰り返す
嘘の祝福・激怒「殺せ!」
という冷徹・非情な.殺戮命令を下す主を恐れて実行してきた。
魔神ヤハウェが主なる存在を偽って神のように現れたものか‥


24 :天之御名無主:2008/05/30(金) 16:30:05
>>20-23
でも、20さんが書いている出エジプト記でさえ、書き換えられた可能性もある。
なので、断見だけはよくないと思う。でも、言いたいことは、とてもわかる。
高級な霊の世界は簡単に考えられるようなものかどうかすらもわからないしね。
はっきりとした事など今さら知る手段がないのだから。
ただ、仏教で言う、四諦という、ようするに
そこに苦しみがあることをしって、その苦しみがどのように生起して、
さらに、その苦しみを滅するためにはというのを考えて、
さらに、その苦しみをなくする道を歩むためにはどうするかっていう
点で考えればおのずと、相手に対しての慈悲の心っていうものを考えざるをえないと思うけどな。

そして、>>19さんの
>別に多少熱くなったぐらいで何と言うこともないだろう
>人間の数が多すぎるせいだってんなら、
>ちょうどいい具合に減るまで待てば良い

というのは、まさに価値感をどこに置くかという事だよね。
地球を救うという価値感からして言えば、私たち(現在の)人間というものは、
地球という霊を苦しめていることになりえる。
地球という霊にとっては、私たちは悪なのかもしれないしね。


25 :天之御名無主:2008/05/30(金) 16:30:29
善と悪もまた表裏一体。要するに価値感をどこに置くかで、悪魔にも天使にも
なりえるのよ。例えば、現在の私たちはお金がたくさ~んほしい!と思う
とすると、お金をたくさんくれる神さまは、まさに天使!!キラキラ
しかし、原始経典(聖書も)に書かれている事柄によると、
物質的な金銭はないほうがよい。逆にあってはいけないといような感じの      〔 ←律により、出家修行者が、金銭を受持するのは罪業となる。  H28.1.25〕
事柄さえ記してある。だとすると、原始経典(聖書も)に登場してくる
聖者にとっては、お金をたくさんくれる天使は悪魔になりえる。
それは、物質的な事柄の感心を高める(欲を湧き出させる存在)だから。

あなたがどこに価値をおくのか?悪魔とは天使であり、天使とはそのまま悪魔
であるのかもしれないしね。
どちらにしても、根底に慈悲というもの(真理という真の意味で)その人を
救うという気持ちがない神さまがいるとしたら、その神さまは悪魔と呼べるもの
なのかもしれない。

26天之御名無主:2008/05/30(金) 22:48:17
ギリシャ神話
http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w25196130

27天之御名無主:2008/06/01(日) 04:49:50
>>12

えーっと。

>物質的な欲がモロにでていないもので。
ここ以下の事を考察したいのであればこの板ではなく宗教板でやるべきだな。
その方向は。

題材としてはこの板でももちろんいけるわけだが、方向がヤバい(w。

何故かはよーく考えてみよう。

まず日本の宗教的風土なんてのを考えるには足元がぐずぐずすぎる。
さらに全然わかってないユダヤ教やキリスト教と比較しようなんてのはぐずぐずの土台の上でアクロバットをやるよーなもんだ。



28 :天之御名無主:2008/06/01(日) 13:25:10
>>27
>ここ以下の事を考察したいのであればこの板ではなく宗教板でやるべきだな。
その方向は。

たしかに、方向が宗教的になっているので、日本人的な一般論でなるべくいきます。

ちなみに、物質的な欲がモロにでていないものってのは、ラクダがなんとうで、
なにがどのくらいっていう、物が多けりゃ幸せだって感じにかかれているところに、
あなたそこに心はあるのか?とちょっとたずねたい気持ちから。
いくら物質的に恵まれていても、心が貧しい人はたくさんいるからね。
物質(金)を追うことに一生懸命な人は、お金がいくらあっても、
心が満たされない限り、心がなんとなく
しいでしょう。
でもって、でも、お金があればいろんな知り合いや友達がたくさんできるから、
心が満たされて満足に達するはずだ!と。
お金が縁でできた知り合い友達は、お金がなくなったらいなくなると思ったほうが無難。
無一文になって、残っている人こそ友達。その人には心がある。
そこで、あ~、お金はこんなもんなんだな~と。


29 :天之御名無主:2008/06/01(日) 13:27:44
>>27さらに全然わかってないユダヤ教やキリスト教と比較しようなんてのは
ぐずぐずの土台の上でアクロバットをやるよーなもんだ。

って、あなたも普通に考えてわかっているように、カトリックっていうのは、
聖なる書(聖書)ってことで、両方を読んでいるわけでしょ?
最初からアクロバット的な矛盾があるものをどうして一緒に聖典としてよんでるわけ?
書いている内容が何を言うているのかわからないの?
わからないわけがない。神様が言うから殺人は容認ですか?
あなたは、それでも日本人ですか?自分の心に聞いてみりゃすぐわかるだろうに。
誰がこういうから、正しいではなくて、自分の心はどれが正しいかわかってるだろうに。
神さまは自分の中にいるんでしょ?聖書では。 そうでなくて、自分の心を信じるべきではないのか。
だれが書いたかわからないものを信用しないで。

30 :天之御名無主:2008/06/01(日) 13:38:15
>>29 訂正→神さまは自分の中にいるんでしょ?聖書では。  〔 ←訂正箇所の番号を訂正 ( >>80も同様に訂正 )〕
じゃ、自分の心を信じるべきではないのか。         〔 ←「そうでなくて」の箇所 ⇒ ×じゃ ⇔ それならば、自分の心を信じるべきではないのか 〕

自分の中の神さまは信用せずに、書き換えられた聖書を信じるってそれ。

「自分をもちなさい!」

って、私が以前言われたことがあります。反省

31天之御名無主:2008/06/01(日) 16:18:47
イエスは、下層民や仲間はずれ、犯罪者たちをあおって、ユダヤ教が支配する社会を攻撃しました。
言ってみれば、イエスはというのはアナーキスト(無政府主義者)なんですね。
「聖書」に書いてあることが本当だとしたら、
今の時代では政治犯として刑務所に入れられるようなことを言っている。
(中略)
要するにあらゆる種類のガラクタが集まってできている。
言ってみればキリスト教は「人間のあらゆるダメな部分」の集合体なのですね。
キリスト教によって、社会のくずやガラクタが権力にありつこうとするわけです。
(中略)
頭の悪い下層民たちがキリスト教に染まっていった時代でも、ローマ帝国の中にはそれとは正反対の、
高貴で、美しく、成熟したタイプの人間がおりました。
しかし、多数者が支配するようになってしまった。キリスト教と同じ本能を持っている民主主義が勝利を占めてしまったのです。
それではなぜ、不健康なキリスト教が勝利を占めたのか。
それはキリスト教が「国民的」ではなかったからです。
キリスト教は一つの民族だけが信じる宗教ではなく、不健康でろくでもないあらゆる種類のものに取りつく宗教なのです。
それで、いたるところににたくさんの同盟者を持つことができたのですね。
(中略)

32天之御名無主:2008/06/01(日) 16:19:15
反対に、キリスト教はローマの巨大な業績を一夜のうちにぶち壊しました。
キリスト教は世界を破壊しつくしてしまった。
キリスト教と無政府主義者は両方デカダンスです。
解体したり、害毒を与えたり、歪曲したり、血をすう以外には何の能力もありません。
立っているもの、持続するもの、 未来を約束するもの、すべてに対する恨みと呪いの固まりなのです。
(中略)
ところがそこにパウロが現れたのです。ローマに敵対し「世界」に敵対する下層民、恨みつらみの天才、
ユダヤ人の中のユダヤ人、選りぬきの永遠のユダヤ人であるパウロが登場したのです。
パウロはこう考えました。ユダヤ教から離れたキリスト教の小さな宗派運動を利用して、
世界を焼き払ってしまおうと「十字架にかけられた神」というお話を使って、人々をダマしてやろうと。
ローマ帝国の中でねじ伏せられている下層民、反乱を起こしたがっている連中、
陰謀を持っている無政府主義者など、全てのものの巨大な力を利用してやろうと。


33天之御名無主:2008/06/01(日) 16:19:46
キリスト教がどこで誕生したのかを考えることは大切なことです。
キリスト教がユダヤ民族から生まれた宗教であることは、皆さんご存知だと思います。
たしかにイエスはユダヤ教の諸制度には反対しましたが、
キリスト教は、ユダヤ民族の持っている本能に反発したわけではなく、
むしろその性質を徹底させているのです。
(中略)
現在のキリスト教徒は、自分たちがユダヤ的なるものの最終形態な姿であるのに気づかず、
「自分たちは反ユダヤ的だ」だどと思っているのですから始末におえません。

F・W・ニーチェ「キリスト教は邪教です」アンチクリスト現代語訳


34天之御名無主:2008/06/02(月) 08:49:51
ユダヤ人は根から邪悪である。


となればキリストも邪悪という訳だな。
だがローマ皇帝のコンスタンチヌスがミラノ宣言でキリスト教を国教にしている。
清らかな民族がよごれた民族の教祖を崇拝したという事は、何かがあるのであろう。

35天之御名無主:2008/06/02(月) 09:34:32
天上のエルサレムとあるが、ローマ人、ギリシャ人、ケルト人、ゲルマン人なども死後に行く訳じゃなかろうな?
それぞれの民族の天国に行ってほしいわな。


36 :天之御名無主:2008/06/02(月) 22:25:06
誰が悪だ!っていう、悪と決め付けること自体が、
自分はじゃ、善?ってことでしょ。
自分の考えと異なる人は、じゃ、悪となるの?

善と悪ってわけたら、争いはなくならないと思う。
善も悪も一切を救う。ことが慈悲。なんだろうかね。
って、むずかしすぎるけど。

でも、人間の魂を慈悲の道からそらしたり、
相手に嫌な気持ちをさせる行いは悪だね。
改心させたほうがよろしいかと。
正しい道に進ませるのも、また慈悲かと。

でも、自分が正しいと思っている道が、慈悲なのかどうかは
よく自分自身で考えてからにしたほうがいいと思われ。
自分の今の道が若干ずれているという事はよくある話で。
よ~く、考えてみてください。私も現在進行形で考え中です。

ようするに、相手が嫌な気分をするようなら、
良い事をしてあげたつもりでも、それは正しくはないと思う。
自己満足の域を脱していないっちゅうことで。

ちなみに、相手に快楽を増長させるように仕向けることは
正しくはないと思う。現在の日本の状態はあまりよろしくないね。

ネットでも、性画像が氾濫してるしね。
悪魔の思うがままなわけで。

どうなんやろう!?    
〔← 関西弁は、高畑さえと電話で、たしか毎日のように、話をしていた時があって、どのくらいの期間電話してたか、忘れたが、そのせいで関西弁がうつって、多少、関西弁を言うようになった。高畑と電話で話をするのは、たしか、携帯は通信料が高くかかるから、お互い、家の電話で話をしよう、ということで家電で話をしていたが、高畑が携帯なかったのもあったんだったかな、だいたいは、いつも高畑さえから電話が来て話をするという状況だった。高畑の家の電話に電話をして、父親が電話に出て多少気まずかった記憶がある。そして、この関西弁を使うことによって、憑かれているとか言われる要因にもなっていたのだろうと思い、あとから、関西弁を使わないようにした。H28.1.15〕

37天之御名無主:2008/06/02(月) 23:26:56
>>6
イエス・キリストに結びつくため。

38天之御名無主:2008/06/02(月) 23:28:18
>>12
神々との乱交が問題。

39天之御名無主:2008/06/03(火) 12:00:26
>>37
これでも見たら?
http://video.google.com/videoplay?docid=4197639845259809993&q=Zeitgeist%2C+The+Movie++Final+Edition&ei=r7JESLPsDJGqwgP39-G9Bw&hl=ja


40天之御名無主:2008/06/03(火) 17:20:31
何か日本人にこだわりというか「日本は一つ」みたいな考えがあるのか
近所で言ったってうちはヒカリモノ食えないし、隣の字(歩いて二分ぐらい)じゃ胡瓜は神様のものなので食えない
違う思想、風習の人(敵対関係も含めて)が取り敢えず相手を完全に否定することだけはない環境は日本特有だと思うが


41 :天之御名無主:2008/06/03(火) 21:40:44
今現在の書物などで、伝えられている事柄では、ヒカリモノが善で、
その逆が悪という概念は通用しない。その逆が善なのかもしれないし
=ヒカリモノを食って、腹を壊す場合もあるので、好んで食うひつようもないと思う。
胡瓜が神様のもので食べることができないなら、別にみんなで騒いで食べる気はない!
胡瓜を食すことじゃないなら、個人的な食へのこだわりを語ることは、
別によしと思われるが誤りがあるのだろうか。

>>40違う思想、風習の人(敵対関係も含めて)が取り敢えず相手を完全に
否定することだけはない環境は日本特有だと思うが

相手を完全に否定する人間は断見しているとことですでに、
自分だけを良しとしている。否定はするべきではない。
相手が悪い。自分だけよしという考えは争いの種だ。
争いのあるところに慈悲はない。
慈悲は光でもないし、暗闇でもない???      
〔← 慈悲は自己の思惟による光ではない。という例えも、う~ん、訂正の例えも微妙なので、もうちょっと追加で、私達は光明の方向に向かうのではあるけれども、光に執着すると、外見のキラキラ光った悪魔の光(街路灯に蛾が集まるように)に目が行くので、その光というのにも執着しないように、という感じで。一般的に言うと、執着する心を出しすぎないように。
私個人で聖者方の光明を例えると、光明とは、私達の心を遮っている光=光明を見えなくしている光=悪魔の放つ光(物質、名誉、権力等など表面の美しさに惹きこむ光又は、人々の物質等への執着心が増長する光)を越えた先の光明。街路灯に集まる我は多い。現実では私の住んでいるところは夜景が綺麗な場所なので夜景をよく見ますがかなり綺麗です。っと、このように魅了されてしまう心は普通に持ち合わせてしまっていますが、光明へ行く方々の領域は、我や死魔の領域にない、とされる。私達人間で、誰一人として、死魔の軍勢と戦わない人はいない。っと。(この場合、死魔の軍勢っていうのは犬の畜生霊とかそういう畜生の関係の仲間の事柄ではなく(まぁ、含まれるといえば含まれるのですが)欲望を起こす存在の事柄、犬(狐)の輩とか畜生関係の仲間達(ニワシロウや高畑さえなどの狐憑きは死魔の軍勢と戦うとかではなく、すでに、飲まれている者達、ちなみに、さえと名乗る悪魔もすでに飲まれている存在、要するに、さえと名乗る悪魔の仲間達もすでに、死魔と戦う、というか、死魔と戦う力すら最初から持ち合わせていない。そして、そういう末端の本当の悪魔と畜生の下の者達も自分達が死魔の領域に他を引っ張る手伝いをしているということに気づいてもいないし、気づかされてもいない。もうちょっと、考えてみ。仏陀と、聖者方(言葉を預かっている聖者方でいうならば、その聖者方の善なる言葉のとおりの)を念じなさい。って言ってるのに。(←他の教えを持っていて、仏陀の教えに対して(自己の執着心により)抵抗を抱き続けてしまう人は、その言葉を預かっていた聖者方が言っていたであろうという、あなたのその思い描く聖者方の美しい言葉の先へ行くのかもしれませんが、そちらは私にはわかりません。が不明です。)
霊的世界間を全く知らない人達は、聖典で書いている事柄が結構わけがわからないだろうから、霊的世界間をすでに現実に触れて知っている、本当に悪魔と戦っている人達は、世間の人々の言は、社会的に聞いておいても、真理として、自ら一人で歩みを進めていかないと引っ張られるので、一般の人達はとりあえず、ほっておいたほうがいいと思う。一人で進んでいくべきだと思う。理解できる人は理解できるから。来る人は来る。後から、悪魔と戦う人も増えるでしょう。)聖者方もそれぞれにおいて本当の悪魔(外的存在としての本当の悪魔と自らの心の煩悩)と戦っているのが記されていますね。
あと、普段悪霊等を除いている一般的な霊的能力者もキリストさんの言をよく読んでおいたらいいとは思うけどな~、聖者方に「あなたの事なんか知らない、この不届者、わたしを離れよ」とか言われてしまわないように。
さて、霊的関連で人々を救っているというのに、これは一体どういうことなのでしょうか?っと。そう思うようであれば、仏典、聖典を読んで(みると善い)と思います。〕

42天之御名無主:2008/06/04(水) 23:32:18
>>39
くだらん

43 :天之御名無主:2008/06/05(木) 11:59:27
くだらなかったらあげなきゃいいのに
なぜ、あげる?

ちなみに、私は1ですが、キリスト教の全部を悪とはしてません。
聖書も書き換えられているだろうし。
どっちが悪い、誰が悪いってのは、何回も言うように、
争いはなくならないので。
(結局、悪いのは自分自身の心だったりしてw)
キリスト教の全部が悪としている方も多数書き込んでいらっしゃるようですが。

ようするに、自分の心で考えればわかるやろという感じです。
善も悪も表裏一体だと思ってますし。

あなたは殺人を良しとしますか?と自分の心に問いかければ、
おのずと答えは見えるでしょ。日本人なら。
そんなのもわからんようなら、そんなもん読まんほうがましだ。
と思うわけで。

44天之御名無主:2008/06/05(木) 21:09:13
当時のローマ帝国は勇猛で高尚な文化であった。
だが闇の部分、すなわち弱者、または弱者になる恐れについては無力であった。
そこに弱者救済のキリシタンがローマを闊歩し、ローマ人の弱い部分のメンタルを捕らえた。
これがキリシタンのシステムである。


45天之御名無主:2008/06/06(金) 13:23:33
キリストとキリスト教は別ですからね
キリスト教は悪魔そのもの


46天之御名無主:2008/06/06(金) 18:46:21
ヒトラーもニーチェもイエスキリストの事は好きだったが、キリスト教徒とユダヤ教徒に対してはかなり批判的だった。
キリストは光に生きたが、キリスト教は憎しみや嫉妬を広め人々を腐敗させたのである。



47天之御名無主:2008/06/06(金) 19:25:40
ニーチェ「ユダヤ人やクリストからは腐った臭いがする」


その通りだな。彼らは嫉妬、憎しみ、憐れみ、弱き精神を食い物にして膨れ上がる。
世界に憎しみを広めるために、人々の精神を衰弱させ神に契約をさせるのである。
この騙しのトリックを編み出したのがユダヤ人のパウロであり、白人はパウロの策略に騙されたのである。

48天之御名無主:2008/06/07(土) 21:06:12
>>43
ほらな?
自分の考えを人に押し付けるなよ。ファシストか?


49 :天之御名無主:2008/06/08(日) 00:05:38
虐殺者のヒトラーや脳梅毒のニーチェが批判してるからなんだって?

50天之御名無主:2008/06/08(日) 00:27:04
聖書の自称、「神」やキリスト教徒のほうがヒトラーより虐殺してる件について
自分の考えを脅しでムリヤリ強要する自称、「神」について語りましょう

51天之御名無主:2008/06/08(日) 00:48:11
ニーチェ「十字軍は高級な海賊です」


ニーチェ「キリスト教を指示したドイツ人は馬鹿です。ヨーロッパ全土に広めたドイツ人は馬鹿としか言いようがありません」


ニーチェ「キリスト教とアルコールが人を駄目にするのです」


52天之御名無主:2008/06/08(日) 01:49:11
神と悪魔が聖書内で殺した人間の数を比較
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070405_god_satan_kill/

聖書の神は虐殺しか脳がないようで

53天之御名無主:2008/06/08(日) 12:51:07
単に当時の神観がそうだってだけの話だろ。
ソドムとかゴモラとかホントにあったと思ってんならオカ板池。


54 :天之御名無主:2008/06/09(月) 23:14:14
>>48
ほらな?
自分の考えを人に押し付けるなよ。ファシストか?

1ですが、答えは「NO」です。

556月13日大阪地震まで、あと3日:2008/06/10(火) 21:42:37
6月13日大阪地震まで、あと3日
<<酷似する2つの大予言>>聖書&ジュセリーノの予言

http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/occult/1212617655/665


56天之御名無主:2008/06/14(土) 00:35:41
>>55
何も起こらなかった件について一言お願いします

57天之御名無主:2008/06/14(土) 13:26:53
パート1は特に必見!

ツァイトガイスト(時代の精神)日本語字幕版 パート1
http://video.google.com/videoplay?docid=1431037135738418803

ツァイトガイスト(時代の精神)日本語字幕版 パート2
http://video.google.com/videoplay?docid=274762950234337392
ツァイトガイスト(時代の精神)日本語字幕版 パート3
http://video.google.com/videoplay?docid=2172429313954008035


58 :天之御名無主:2008/06/15(日) 20:37:48
1です。このスレは自分が正しいと思って書きましたが、真意の    〔← 真意の、というか、真偽の。H28.1.15〕
ほどはたしかではありません。どうもすいませんでした。
また、たくさんの方々を勘違いさせてしまったことも、
申し訳なく思います。すいません。

59 :天之御名無主:2008/06/17(火) 08:29:01
1です。最近軽率な書き込みスレッドを作ってしまったことで申し訳なく思います。
教えに関してここの教えの箇所をどうなのだろうという疑問をなげかけただけで、
批判をしたつもりはないです。あとは個々で考えるところだと思います。
思いっきり批判を書いているコメントもありますが、1の私ではありません。
ちなみに、私が書いた、スレは1、2、3、6、7、8、9、12、13、
17、18、24、25、28、29、30、36、41、43、54、58です。
どうも騒がせてしまいまして申し訳ありませんでした。      
〔←たしか、この頃から叩かれ始めたので、原因は、この掲示板スレッドだろうかと思い、批判をしている他者のコメントは、私のコメントではない、ということで、私の書いたスレは、これこれです、と説明をして、そして、そのような批判のコメントにより、叩かれて騒がれているのかもしれない、ということで、謝罪をしたところ。そして、その後、その勘違いを訂正すべく、以前の間違いを訂正、という流れ、だったと思う。だから、この頃から叩かれていることに気づき始めたんだと思う。たしか。叩かれるよりも、悪霊と魔術者・妖術者達の悪しき霊的現象に先に気づいてから、メディア等の叩きに気づいたんだが、先に霊的現象に気づいた頃だったかな。そのような状況の頃。   H28.1.16〕

60天之御名無主:2008/06/17(火) 21:30:04
>教えに関してここの教えの箇所をどうなのだろうという疑問をなげかけただけで、
疑問や批判以前に、ピラミッド建設における使役が問題だって指摘されてんだけどな。
まず出エジプト記の関連箇所をじっくり読んでみて、さらに古代エジプト史の入門書を
読み直してみろってことだろ。


61天之御名無主:2008/07/04(金) 01:32:46
そういや、日本神話って海外からはどう見られてるの?


62天之御名無主:2008/07/04(金) 02:10:13
問いの立て方がおかしくないか?
それに適切な答えなんかあるのか?


63 :天之御名無主:2008/07/07(月) 01:33:18
以前の間違えを訂正です。そもそも旧約聖書の中で、
ファラオから奴隷を解放したと書かれているモーセさん(預言者)。
しかし、今の現代考古学の進歩により、エジプトピラミッド建設において
奴隷は居なくて、人々は普通に仕事をしていたという事である。
奴隷が居ないという事が事実であるならば!
そもそもモーセさんが奴隷を解放する必要もない。          
旧約聖書による神様の命により、様々な生き物を殺生して
奴隷を解放したという話も誤りが含まれていることになる。
根本からして違うという事は、ファラオさんは善人であるとすれば、
ファラオさんを悪と書いている旧約聖書事態全く違った見解になる。
ということは、旧約聖書での、蛇は悪魔である。というのも本当なのか、わからない。
そもそも悪魔が教えた智慧の実はあったのか?
   〔↑(エジプトのピラミッド建設に携わっていたのは、奴隷ではなくて、一般の労働者である。というのを、当時、TV番組等で見聞きしていたので、その現代考古学の見解から、歴史的に紐解いて考えて、例えば、現代考古学の言うように、そこに奴隷が居なかったということであれば、奴隷を解放する必要がない。何故ならば、奴隷がいないのだから。という話から、考えられる見解、ですので、「そんなことは、断じてない。」ということであれば、この見解の問いは、気にしなくていいです。)

旧約聖書でいうと、その頃、その時代に、現在のように各国に聖者の教えが世に出ていないような頃で、悪法により悪鬼等が跋扈しているとすると、善性の信仰の人(預言者等)でも、悪霊や悪鬼に憑依されたような輩連中の悪行に、さすがにイラっとしちゃうのかもしれませんが、
旧約聖書というのは全部が全部、そのまま伝わっているというのではないと思います。旧約聖書にも綺麗な書はある。
 ただ、日本語訳の聖書ですら、聖書の違いにより意味あいが違うものが現にあるので、さらにいうと、同じ文字、同じ文章ですら、それを読む人の受け取り方で、意味あいも異なる事が結構多いと思うので。たとえば、新約聖書ですら、悪魔と天使でごちゃまぜに考えている時と、悪魔と天使が表裏一体という事柄の意味を理解したあとで読むのとでは、意味あいの受け取り方が変わるのと同じ感じである。と思っています。〔少しの違いで全体が大きくかわる場合もありうるということです。〕
かといって、手を付け加えて修正しようとすると、その人個人の考察も入るので、そのまま文章をそのまま原文の意味で伝えて、わかる人だけ理解させるのがやっぱり、無難ではありますよね。手を加えて、わかる人すらわからなくなると大変なので。聖書を書き換えたものには、罰があたるとかなんとか(新約)。本当の教えを伝えよう、神聖な言葉を伝えようという優しさでもありますね。〕
仏教で言うと悟りにいたるには、智慧が必要と説いている。
お釈迦様は太陽の子で、竜の王とよばれていたような気がしない事もない。 智慧の実とは何か? 旧約聖書に描かれている神様はどうして、あのように沢山の殺生をすると
書かれているのか?

64 :天之御名無主:2008/07/07(月) 01:34:18
以前の間違えを訂正の続き。現在の聖書は以前より書き換えられているという事であるので、
私の考えでは本当の聖書は、人間同士で殺生をする事は説かないであろうと思う。
同じ種族で殺生をする事もないであろうと思う。
見た感じが互いに同じ人間として認識できるのであるならば殺生をする事はないであろうと思う。
互いに殺生しあう事は、苦しみを増すだけだからである。
苦しみは生き物が普通に生きているだけで、みんなが普通に受ける。
生きなければならない苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、
どのような生き物、動物も死ぬという苦しみがある。
形ある物はいずれは壊れる。
自分を一番として、自分のみ崇拝するべき!という教えに、 みんなが平和になる法則が果たしてあるのか?
信仰は自由であると思う。
自分を一番とするところには、かならず比較対象があり、他と確執をもたらす。
私の方が一番!嫌、私の方が一番だ!なんの、私こそが一番だ!
このような状況で果たして、全ての生き物に平和があるのか?
これらは一つの考え方である。 誰かが一番になるということはなく、
普通である事が一番だと思う。悪い行いはせずに平和に物事を解決するべき。
みんなで支えあえば、黒い人も白い人も青い人も緑の人も赤い人も、
どんな色の人も動物も、生き物も、神様も全て慈悲の心になるでしょう。
みんなで良い事を教え合えば、平和になるよね。

65 :天之御名無主:2008/07/07(月) 02:16:28
以前の間違えを訂正です。
1だけど、要するに慈悲の心をもちつづけることだけは真理だと思う。
慈悲とはみんなで助け合う平和な心、そして、安らぐ心の事。
誰もが一人では生きてはいけない。      〔← 『家ある者と家なき者との両者は、互いに依存せるものである。そうしてかれらは無上の安穏なる正法を成就する。

家なき者は、家ある者から衣と資具と住み家と危害の除去とを受く。
また、家ある者、家を求める者は、善く行ける人(仏陀)をたのみ、真人を信じ、智慧もて禅思し、善きところに赴く道である法を、この世において行い、天の世界においては歓喜し、欲するものを得て悦ぶ。』
の意味において 如是語より   28.1.15

悪魔と呼ばれるものがいて、 自分に悪い事が起こったとする。
でもそれによって、初めて気づくこともある。
たとえば病気とか。 病気にかかったことがある人はわかるでしょ。
あ~、普通の健康って、これ程にすばらしい事なんだって。
それで、苦しみを知って同じ苦しみのある人に慈悲をかける。
でも、それを繰り返す事によって、もっと深い理解につながるのかな。
だから、もし間違いがあったとしても、本当の真の神さまは
それに気づいて、みんなそれぞれに、何かを悟ってほしくて
わざとにそういう試練的な事柄を設定しているということもある。
なので、善悪の区別というのはできないのかもしれない。
ようするに、慈悲の心で、みんなが楽しく幸せにくらすには、
あまり欲を出しすぎず、普通にみんなと暮すのが最高の平和であり、安らぎなんだと。
普通ってことは、すごく幸福だということに 最近気付きました。
外に出て風にあたってみる。普通のことなんだけど、
風ってすごく気持ちいいんだよね。というか見る物とか聞く物って、
見る事ができる、聞く事ができること事態がすばらしいことだよね。

66天之御名無主:2008/07/07(月) 09:37:23
もしかして、アホか?
ピラミッド建設とは時代が違うし、旧約聖書のどこにもピラミッド建設に
駆り出されたとも書かれてないじゃん。それに吉村作治がいっているのは
ピラミッド建設≠奴隷による建設というだけであって、奴隷の存在自体を
否定しているわけがない。誤った仮説を前提になに妄想してるんだ?


67 :天之御名無主:2008/07/07(月) 13:41:05
以前の間違えを訂正です。
奴隷解放でないかどうかは不明。奴隷がいたら解放すると思う。
それにしても、そこまでやるのか? と、日本人のあなたはどう思いますか?
ガンジーの非暴力の独立運動を知っているでしょうか?
仏教徒の出家者の教えでは動物とかの殺生を許してない。食べ物にするにしても。
形の在る者でも、形の無い者でも、この世に存在する者は、同じ人間同士、同じ動物同士、
同じ生き物同士、同じ形の無い者同士、見た感じが互いに同じ人間として認識できるの者同士であるならば
殺生をする事はないと思う。見た感じが人間として認識できるのであるならば、
その者は形のあるものでも、形の無い者でも、
この世に存在するものと望んで争いをする事をしてはならんと思う。
日本人のあなたなら、何が正しいかどうかって普通に考えてもわかると思う。
なんで、旧約聖書に描かれた神様はあんなに殺生すると書かれていたのか?
本当は、仏教と同じ考えで、どんな色の人種も動物も、生き物も、
神様も全てが慈悲の心を持って、みんなで良い事を教え合い、
みんなで平和になるようにするという事を言っていたと思う。
そんな神様なら生贄を要求する事はないだろうね。
慈悲の心を持てば、誰かに見返りを求める事も無く普通に慈悲の心を持って
接すると、相手も慈悲の心を持つ。
すると自分にも普通に慈悲の心が返ってくる。
邪念を心に持っている神様が居れば、みんなで慈悲の心を持って接すれば、
考えから邪念を中和して、中立の立場に立って心を正すと思う。

68 :天之御名無主:2008/07/07(月) 14:34:08
以前の間違えを訂正です。
人間は動物の肉を食べずにでも生きて行ける。
たしか、本来の仏教では肉食をあまり良い事ではないとしているよね。
〔← 出家者でも、供物で調理された肉を食をすることがあるが、そのことにより〔なまぐさ〕ではないのとこ。ただ、生肉は受け取らない。与えられた供物で肉食をすることがある。肉食をしてはならないのではない。しかし、肉食は清浄修行者として仏教外でも、一般的に非難されうるところであるので、普通に考えて好んで食する(小乗仏教の)出家者は、まず、いないと思います。〕
肉食することがなまぐさ(臭穢)なのではない、ということについて H28.2.27〕

在家者に対する食事の制限は特に無いと思うけど。    
〔← 細かくは不明。私の祖母は肉を食べない人だが現在80何歳。ん!?90行ったんだったかな。肉食はしてもしなくても普通に生きていけます。追記最近、施設に行ってから肉食をするようになったらしい!?現在たしか85歳くらい。〕
これは、殺生するのが正しい事では無い。としているからだと思う。
〔← 上記と同じ、普通に考えて、好んで肉食する(小乗仏教の)出家者はまずいないと思います。〕

みんなで助け合わなければ、平和な世界は築けない。
平和な世界にするために、誰一人として犠牲になる事はない。
自分が優れて、他の神は劣っている。なんて、
慢心は良い事ではない。良い事とは全ての生命が助け合う様に導くことである。
旧約聖書と別に、三身一体って言ってた見たいだけど、
父と子と精霊で一つって事?
父も子も精霊も一つで、誰の心にもいるのだろうか。
精霊と言うのは、日本でいう、八百万の神なのかな?
ということは、他の神さまも認めてるってことかな!?
と、すると、現在の日本の宗教は、仏教と神道とキリスト教もイスラム教も
世界のあらゆる宗教と教えが存在するのかな。
どのような宗教でも、同じ生き物同士、同じ形の無い者同士、
見た感じが互いに同じ人間として認識できるの者同士であるならば
殺生をする事はないと思う。見た感じが人間として認識できるのであるならば、
その者は形の在るものでも、形の無い者でも、
この世に存在する者と望んで争いをする事は、正しい事ではない。
という教えだと思う。

69 :天之御名無主:2008/07/07(月) 14:52:36
以前の間違えを訂正です。
(訂正があれば、ここは違うとみんなで教えてね。
 正しい感じに書き進めるので。)

ファラオさんは、多神教で、動物とか虫とかたくさんの生き物を
神様として敬って大切にしていた。と言う事、見たいであるが、
これは、現在の日本の仏教と神道の混交と同じなのか?
じゃ、日本は悪魔崇拝ではない。天使を崇拝するわけでもない。
中立の立場で物事を見定める国であり、国民であると思う。
平和で正しい方向へ全世界の生命と共に進むために。
わっはっはっは~
見た感じが互いに同じ人間として認識できるの者同士で
望んでする争い事や殺生をする者がいるならば、その者に教えることで正しい道に
戻る事もできると思う。

ということで、なにを隠そう、私も中立思想の立場なのだ!
仏教が好きだからw 慈悲の心が好きw 慈悲LOVEw       〔← 上述と同じ。〕


70 :天之御名無主:2008/07/07(月) 15:05:07
以前の間違えを訂正です。
昔の旧約聖書では、偶像崇拝を禁じているとされる。
もちろん他の神を崇拝してもダメであるとされる。

ほんの少し書き換えるだけで、意味の捉え方が変わるからね。
いろいろな視点から見なきゃ、本当の所が見えない。
いろいろな視点から見れば、本当の所が見える。
普通に平和な心を持つ事の尊さが全世界に伝わるはずだと思う。

旧約聖書は本当は何が書いていたのか。
神=唯一神?(父?)は何をされたいのだろう?
みんなが平和に普通に暮らせれば、何をされたい訳でもないと思う。
(    訂正    )   〔← ここでの個人的な表現はあまり親切ではないかもしれないので訂正しておきます。とりあえず、詳細等に興味がある方は御自分で原本等で確認をどうぞ。この事柄については、当然その方が正確です。〕
                  
                    
             

71 :天之御名無主:2008/07/07(月) 17:22:10
以前の間違えを訂正です。

>>10 ご指摘ありがとうございます。
聖書の深いところはまだ理解していないので。
スレを見ているみなさん、1の発言は鵜呑みにせずに自分で考えてください。 私が1です。
できれば、心のある聖書注解を記している書物があれば、ぜひ読みたいです。
物質的な欲に囚われ過ぎてないもので。
乱交パーティーみたいな事を行うのは、正しい事ではないので、
この人達を正しい方に導かなければならないと思うけど、
偶像崇拝で騒いでいたってのは、日本のお祭りでお神輿担ぐのと、またちょっと、違うのかな。
でも、日本人の人たちはみんなが心の無い像を崇拝してるって訳でもないよね。
心が入っているのかどうかはわからないけど。
日本人の根底はみんな神も仏もを尊敬していて、心の根底は仏教だと思う。
神棚がある人の家には神棚があるでしょ?
神棚の御神鏡は自分の顔が映る、自分が映るという事は、
自分の心の中にも、神様がいるという事だよね。              〔 ← 要するに、>>148追加説明と同様、鏡そのものではなく、鏡に写る自己です。
本来の仏教も神道も、多神教であって、唯一神も、どこの神様も
、自分自身の心の中にいる。自分自身を悟りに導くために。
なので、神棚は家にあっても無くても、本人の自由。
神仏は私の心の中には居る。他人の心の中は私にはまだ見えないので、
他の人は神棚があれば、その家をお守りしてくれると思う。
日本人でお祭りに参加してお神輿を担いでいる人いるでしょ?
あの人たちのほとんどはなぜお神輿を担いでこういうお祭りをしているかわかっていない人も居ると思う。
たぶん、みんなで平和に暮らせるようにするためだね。
昔の聖書の場合、偶像崇拝でみんなワイワイと楽しんでいたというように
書かれているみたいだけど、乱交パーティーのような事はしてないと思う。
以外と普通に平和なお祭りやってたんだと思う。
乱交パーティーはないと思うけど、正しい事ではないので、してはならんと思う。
仏陀や神道等の高級な霊魂が居るとすれば、本人の心が望まなければ、
その地に御霊が鎮まる事はないと思う。   
仏陀のような、存在が居れば地球はいつまでも、平和なんだろうね。

72 :天之御名無主:2008/07/07(月) 18:28:12     〔間違って2回コピペ、言わんとする内容は同じ〕
以前の間違えを訂正です。
スレを見ているみなさん、1の発言は鵜呑みにせずに自分で考えてください。 私が1です。
できれば、心のある聖書注解を記している書物があれば、ぜひ読みたいです。
物質的な欲に囚われ過ぎてないもので。偶像崇拝は良い事ではないのかも知れないけど、
乱交パーティーみたいな事を行うのは、正しい事ではないので、 この人達を正しい方に導かなければならないと思うけど、
偶像崇拝で騒いでいたってのは、日本のお祭りでお神輿担ぐのと 少々、違うのかな。
でも、日本人の人達はみんなが心の無い像を崇拝してるっていう事でもないよね。
心が入っているのかどうかはまだわからないけど。      
〔←神社によりけり、御霊も神社によりけり〕
日本人の根底は、みんな神も仏もを尊敬していて、心の根底は仏教だと思う。
神棚がある人の家には神棚があるでしょ?
神棚の御神鏡は自分の顔が映る、自分が映るという事は、 自分の心の中にも、神様がいるという事だよね。
本来の仏教も神道も、多神教であって、唯一神も、どこの神様も 、自分自身の心の中にいる。自分自身を悟りに導くために。
なので、神棚は家にあっても無くても、本人の自由。
神仏は私の心の中には居る。神仏様に善悪はないと思う。 〔← 善悪の分別はないという意味ではない。

 仏陀の言葉
『怠け者の親族よ、悪しき者よ、汝は(世間の)善行を求めてここに来たのだが、わたくしに、その(世間の)善行を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。』の意味において スッタニパータより  仏陀は、善行を求める必要は微塵もない。ましてや、悪行を求めることもありえない。

『(輪廻の流れを断ち切った修行僧に、執著は存在しない。なすべき(善)と、なすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれに煩悶は存在しない。』スッタニパータ  H28.1.18

他人の心の中は私にはまだ見えないので、他の人は神棚があれば、その家をお守りしてくれると思う。信仰は自由だと思う。
日本人でお祭りに参加してお神輿を担いでいる人いるでしょ?
あの人たちのほとんどはなぜお神輿を担いでこういうお祭りをするか、わかってない人も居ると思う。 〔←神社、祭事の内容により〕
たぶん、みんなで平和に暮らせるようにするためだね。         
昔の聖書の場合、偶像崇拝でみんなワイワイとお祭りをしていたというように
書かれているみたいだけど、乱交パーティーのような事はしてないと思う。 以外と普通に平和なお祭りやってたんだと思う。
乱交パーティーはないと思うけど、正しい事ではないと思う。 あと、神道でも仏教でも、どちらでも信仰は自由だと思うけど、
仏陀や神道等の高級な霊魂が居るとすれば、本人の心と御霊が望まなければ、その地に御霊が鎮まる事はないと思う。 〔←主に、仏陀の弟子の阿羅伽の聖者が、般涅槃されずに留まっていてくださるということ、の意味において。 H28.1.18〕
仏陀の様な如来の御霊が居る限り、地球は平和であり続けるんだろうね。
〔← ちなみに、解脱をした存在は、私達の認識であ~だ、こ~だと論じるための頼りにできるものがないとされます。〕
                                                    
                                     
                                      
                                      

73 :天之御名無主:2008/07/07(月) 22:12:40
以前の間違えを訂正です。
要するに、「自分だけを良いとする」という昔の書き換えられた教え(慢心)が あるところに、
平和はない=みんなが幸福になるという法もない。
慢心は仏教では良い事ではないと言っている。
今、日本の教えを世界に教える時期なんだと思う。
今、日本が心と物質の中立の国に成ろうとしている。
で、逆にも考えて見たらわかる。慢心があるところには、
「自分だけを崇拝しなさい」という心があるでしょ。
慢心があるところにみんなで幸せになるという法則はない。

人間で有る程度、心で自己観察する人で気をつけるべき
心は、慢心、徳の高い人でも、慢心により驕った心になる事がある。
仏教では、如来が驕り高ぶる事はないとされている。
如来が心良い気持ちになると、大勢の人にもその功徳がもたらされる。  〔← この例えは、(わからなければ)気にしなくていいです。〕 
そのために、如来にする功徳は大きい。                〔← こちらは、自己の苦しみの滅に到る縁が生じるとされるので、各自己にとっては、最大(上)級。天上に生じる縁、及び、迷いの生存とあらゆる苦しみからの解脱に到る縁。〕

人間が出来てくる→人から支持される→人の上に立つ→ココ!
本当に徳の高い人は、本当に普通の人だけど、自分の心を観察して、慢心が出そうになったら、
すぐに慢心を無くすると思う、慢心を出した後には、反省をする人だと思う。
徳の高い人ほど、慢心という心になりやすい。褒められる事が多くなるので。
全ては自分の力でここまで成長したんだ=慢心が出やすい
世の中、みんな助け合って生きている。
神仏の加護が影にあることは忘れない方がいい。
私もあなたも生かされているということに。太陽も水も風も火も地も食べ物も、全てがあって今生かされている。
そして、先祖があって、今自分がいる。←こういうのは宗教等の枠を超えて、普通にわかるでしょ。
日本に伝えられてきた平和という教えって普通にすごいよ。それが普通になってるところが実はすごいと思う。

74 :天之御名無主:2008/07/07(月) 22:21:44
以前の間違えを訂正です。
神仏が心の中にいる人は、念じればわかってくれるのか
地球って、地球でえらばれた王さまが太陽の鎮祭をして
地球がひっくり返らないようにしてたりしてw
ありえなくも無いよね。
(  省略します。  )
今、誰か鎮祭やってるのかな?
今まで地球温暖化で地球全体が暖かくなってきてる見たいだけど、
温暖化が止まれば、以前の様な普通の気候に安定するのか。

75 :天之御名無主:2008/07/07(月) 22:50:24
以前の間違えを訂正です。

>>20-23
でも、20さんが書いている出エジプト記でさえ、書き換えられた可能性もある。
なので、断見的な考えはちょっと良い事ではないかも知れない。
でも、殺生をする事が正しい事ではないというのはわかる。
高級な霊の世界は簡単に考えられるようなものかどうかすらもわからないからね。
はっきりとした事を今は知る手段がないのだから。
ただ、仏教で言うところの
そこに苦しみがあることを知って、その苦しみがどのように生起して、
さらに、その苦しみを無くするためにはどうするかを考えて、
さらに、その苦しみを無くする道を歩むためにはどうするかという観点で
考えれば自然と、誰もが、誰に対しても慈悲の心を持つと思う。

そして、>>19さんの
>別に多少熱くなったぐらいで何と言うこともないだろう
>人間の数が多すぎるせいだってんなら、
>ちょうどいい具合に減るまで待てば良い

というのは、正に価値感をどこに置くかという事だよね。
地球を救うという価値感からして言えば、私たち(現在の)地球上の生命というものは、
地球という霊を苦しめている事になるかも知れない。
地球という霊にとっては、地球上の全ての生物が悪なのかも知れない。
善と悪は表裏一体であって、どちらが善でどちらが悪という事はないと思うけどね。
←ここの掲示板の「善と悪」の箇所について、「善と悪は表裏一体」とは誘惑する天使と悪魔の表裏一体の意味での方の善と悪の意味で、仏陀の教えを学ぶことに関して言えば、善と悪は表裏一体と解釈すると間違いです。聖者方の説く善と悪(煩悩)は表裏一体ではないです。要するに、世間でいうような善(天)と悪(魔)は苦(輪廻)においては、表裏一体と言えないこともないですが、聖者方の説く善(涅槃への真理、全き安らぎ、苦しみの消滅)と煩悩、悪魔、苦の原因)は表裏一体と解釈すると間違いです。他の同様の箇所も同じく。〕
見た感じが互いに同じ人間として認識できる
(      訂正削除      )〔←伝えたいことは、要するに、戦争等、争いは正しくはないという事柄です。 〕
純粋で普通の心を持っている人間
助け合う心があるから減ることは無いと思う。   
人間の数を減らせば、温暖化が止まるという考えは当てはまらない無いと思う。     
 
人間の数を減らさなくても、普通に節電等に全員で気を付ければ、  
〔←節電(省エネ)等は、ほんの一例です。〕
温暖化は改善されるだろうね。
地球という霊がいるとすれば、みんなと一緒になって、犠牲者を出す事無く
温暖化を解決する方法を教えてくれると思う。
地球という霊も熱くなるのが嫌だろうから。

76 :天之御名無主:2008/07/07(月) 23:22:37
以前の間違えを訂正です。
善と悪もまた表裏一体。要するに価値感をどこに置くかで、悪魔にも天使にも
なると思う。例えば、誰かが、お金が欲しい!と思う。
とすると、お金を沢山くれる神様は天使!
しかし、原始経典(聖書も)に書かれている事柄によると、
本格的な出家者は、物質的な金は持たない方が良いらしい。    
(小乗で)個人的に所持するということはない(一般的に三衣一鉢等の六物等)が、(大乗の出家者はだいたい所持しているのでしょうか。宗派等により違いがあるとは思いますが。)〕
多少金銭を持っていても良いのかはっきりとわからないが、    
←(小乗でも)後の教団としての所持はあったような~。忘れた。あとで、調べたら説明を入れておくかもしれません。個人でいうと、持っていても執着しなければいいのではないのですか、というのは、持っていることじたいでなにかしらの執着により持っているわけなので、執着しなければいいとかそういう問題ではないというのがわかりますね。
追記説明文、仏陀般涅槃後の話です。基本は上座部(小乗)では比丘の金(銭)のうけとりは排斥されている、です。
律典は、比丘が在俗信者から受けた金銭の処理を記している。これは現実にそうしたケースの多かったことを物語るものである。処理の方法は律典により。ということは部派により同じではないが、例えば些細な額の金銭は、比丘自信に、人のいないところに捨てさせている。あるいは浄人や在家の信者にその金をわたして、僧院として必要な品物を買わせることもあったらしい。また僧院の……… 僧院ないし比丘が何らかの経済行為をなすにしても、直接金銭に手をふれ売買することは許されず、………。
全インドの仏教教団はおそらく西暦前後ごろには金銭を信者から受け取っている。経済状況並びに社会状態の変動に応じた自然の勢いであったろうが、そのために各律典はいかにして律の規定を犯すことなく、金銭を受け取るかの方法を苦心して説いている。そのために生まれた便法の一つが、サンガに俗人の使用人をおいて金銭上の事柄を処理させることであった。金銭ばかりではなく、サンガは次第に寄進された土地を所有し、小作人をやとい、荘園制を発達させてくる。従って、ヴァイシャーリー(マガダ地方)における金銭受理の問題は教団発展史の特定の時点における是非論争だった。……云々。
と、このように法は薄れていくのではありますが、ということで、教団としての所持は……!?どこからどこまで、というような細かいところは昔からの論争。
真理の教えとして、
仏陀は全くの清浄である。仏陀の教えも全くの清浄である。本来の仏陀の弟子の集いも全くの清浄である。と。
〔ちなみに、小乗という言葉に関して、私個人は、尊敬の念で、小乗という言葉を昔から使用しています。涅槃へたどり着く、本来の仏陀の教えというような気持ち。一応、大乗仏教の方等が過去には違う意味で使用していたということもあったらしいというのも昔から知っていましたけど、そういうのは、気にする必要もなく。どちらが清浄なのか、わかりやすいといえばわかりやすいので。しかし、大乗の一般のお坊さんには、小乗はあまり理解はされず、見られることもなく、宗派にもより。なので、違う意味で使用していたこともあるということなのでしょうか。
小乗仏教に関しては、大乗仏教の方からすると、大乗特有の見方があるようですが、まぁ、要するに、大乗側から言うと、大乗と小乗の違いは何か。大乗とは、縁覚の方々のように個人だけということではなく、こちらは大勢、一切衆生を救うのである、だからすごいんです。のような。善に執着するあまりに仏陀の教えからちょっと離れてしまったという感じでしょうか。縁覚の聖者方(辟支仏)〈独自にさとった聖者方〉の偉大さを理解できていないような書き方の大乗の書物も見られますね。
さて、仏陀は縁覚の聖者方(辟支仏)・独自にさとった聖者方をどのように見ておられたのだろうか。と。きかいがあればご紹介します。
アーナンダ(尊者)が、仏陀が涅槃されたあと、仏陀のご遺体に対して、どのようにしたらよいのかを仏陀に伺ったときの、仏陀の言葉
『アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前達は、正しい目的のために努力せよ。正しい目的に向って怠らず、勤め、専念しておれ。アーナンダよ。王族の賢者達、バラモンの賢者達、資産者の賢者達で、修行完成者に対して浄らかな信を抱いている人々がいる。かれらが、修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう』
ここで語られている、仏陀の弟子の正しい目的とは何なのだろうか。
この世には、縁覚の聖者方(辟支仏)〈独自にさとった聖者方〉もおられる。と。

金銭に執着する欲が良い事ではない、というのを伝えているのであろうと思う。
だとすると、原始経典(聖書)に登場する聖者にとっては、
お金をくれる天使は悪魔だったりするのだろうか。 執着する欲を高める存在だから。
でも、普通に生活をする人にはお金をくれるのは良い事であると思う。
出家者でない人は普通の生活を営む必要があるから。
あなたがどこに価値を見だすのか?悪魔とは天使であり、天使とは悪魔であるのか。
どちらにせよ、根底に平和の心を持つ神様なら、天使も悪魔も関係ないよね。
正しい方に導けばどのような神様も心が安らぐだろうから。

77天之御名無主:2008/07/08(火) 02:10:56
何だと思えば1つの間違った思い込みから別の間違った思い込みにすり替わっただけか。
ネットを見ない方が良さそうな子だねぇ


78 :天之御名無主:2008/07/08(火) 12:21:36
以前の間違えを訂正です。

たしかに、方向が宗教的と物質的な考え両方になって来ているので、日本人的な一般論でなるべく書き進めます。
ちなみに、物質的な欲がモロに出てないものってのは、
物質だけ多いのが幸福であるという事では無く、
正しい心もそこには必要である、という事だと思う。
いくら物質的に恵まれていても、物質を追うことだけに懸命な人は
物質がいくらあっても、心が満足する事がない限り、心に不安を感じる事があると思う。
ただ普通の生活をするのであれば、物質と心の両方が満たされる事が安らぎであると思う。
物質に執着し過ぎる心が良い事ではないと思う。

79 :天之御名無主:2008/07/08(火) 12:42:22
以前の間違えを訂正です。

あなたも普通に考えてわかっているように、カトリックっていうのは、
聖なる書(聖書)ってことで、両方を読んでいるわけでしょ?
最初からアクロバット的な矛盾があるものをどうして一緒に聖典として読んでいるのか?
書いている内容が何を言うているのかわからないの?
わからないわけがない。昔の聖書が誰かによって書き換えられているならば、
本当は神様は殺人を容認する事はないと思う。
苦しい事は良い事ではない。
苦しい事を苦しい事だと知れば、もう苦しい事柄を経験する必要はない。
自分の心に聞いて見ればすぐわかるだろうに。
誰がこういうから、正しいのではなくて、自分の心はどれが正しいかわかっているだろうに。
神様は自分の中に居るんでしょ?聖書では。そうではなく、自分の心を信じるべきではないのか。
誰が書いたかわからないものを信用せずに。

80 :天之御名無主:2008/07/08(火) 12:58:44
以前の間違えを訂正です。

>>79 訂正→神さまは自分の中に居るんでしょ?聖書では。
では、自分の心を信じるべきだと思う。

自分の中の神様を信用するべきで、
昔に誰かによって書き換えられた聖書を信じるっていうのは
どうなのか?と思う。

「自分を持ちなさい!」

って、私が以前言われた事があります。

81天之御名無主:2008/07/08(火) 13:25:16
以前の間違えを訂正です。

わたし、実はなに書いてるのだか自分でもわからなくて、誰か説明してくれませんか?
長文すぎて、途中から自分がなにを言いたいのかわからなくなっちゃうんですよね。
誰も長文うざいと言ってくれないので、書き出すと止まらなくなっちゃうんです。
だから、長くなりだしたら、どなたか長文うざいと突っ込んでくれませんか。そうで
ないと、まだまだダラダラと続けますけど、それでもいいですか?あとになって、
長文うざいと突っ込んでも、もうその時は耳を貸さないかもしれませんよ。それでも
いいんですね。その時は責任を取ってくださいよ。謝罪を求めますけど、かまいませんね。
ああ、自分でもなにを言いたかったのか忘れてしまったじゃないですか。だから、どなたか
早く突っ込んでくださいよ。(#゚Д゚)y-~~イライライ



82 :天之御名無主:2008/07/08(火) 13:33:16
以前の間違えを訂正です。

誰々が悪だって言うと それでは自分以外は善って事になるでしょ。
自分の考えと違う人は、善にも悪にもなるのか?

善と悪って分けたら争いは無くならないと思う。
善も悪も全てを正しい方へ導く事が慈悲。なんだろうかね。
以外と簡単な事なのかも知れないけど。

でも、人間の魂を慈悲の道からそらせたり、
相手に苦しい気持ちをさせる行いは正しい事ではないね。
そういう場合、改心するために正しい方へ導いてあげた方が良いと思う。
正しい道に進ませるのも慈悲だと思う。

でも、自分が正しいと思っている道が、慈悲なのかどうかは自分自身で考えるべきだと思う。
自分の道がまだ見えてない事もあるので。

要するに、相手が正しい心を持つ道へ行くようなら、それは正しい事だと思う。
争いの道を脱しているという事で。

ちなみに、相手に快楽を増長させるように仕向ける事は
正しい事ではないと思う。現在の日本のマスコミやインターネットの状態は
一新するべきだと思う。
ネットで性画像が氾濫する事がないように。
悪魔とか、天使の思うがままにならないように。

83 :天之御名無主:2008/07/08(火) 14:05:26
以前の間違えを訂正です。

昔の書物等で、伝えられている事柄では、ヒカリモノが善で、
その逆が悪という概念は通用する事はないと思う。その逆が善なのかも知れないので。
ヒカリモノを食う食わないは、その人の自由だと思う。
胡瓜が神様のもので食べることができないとすれば、別にみんなで食べる事もないと思う!
胡瓜をどうこうする事でないなら、個人的な思いを語る事は、
別に普通と思われるが誤りがあるのだろうか。
普通の家庭ではキュウリは、普通に食べられているけどね。

>>40違う思想、風習の人(敵対関係も含めて)が取り敢えず相手を完全に
否定することだけはない環境は日本特有だと思うが

相手を完全に否定する者は自己中心的な考えなので、既に自分だけを良いとしている。
その心は正しい心ではないと思う。
相手が憎いから否定するという事は争いの種だ。
争いのあるところに正しい行いはないと思う。

84 :天之御名無主:2008/07/08(火) 14:40:07
以前の間違えを訂正です。
くだらんとかくだらん事も無いとかはその人の心が決める事

ちなみに、私は1ですが、キリスト教が善だとか悪だとか偏った考えはありません。
昔の聖書も誰かに書き換えられているらしいから。
誰が悪い 誰が良いという考えでは争いは無くならないと思うので。
(結局、決めるのは自分自身の心だったりしてw)
キリスト教を悪とする考えの方もいるようですが、                 〔←そうではなくて、要するに、自分の心で考えれば正しい事柄がわかるであろうという感じです。
昔の事であって、部分的に書き換えられた可能性はある。              
〔←後の人に書き換えられたとしても、全部空想の可能性もあるというのは、どう考えても間違いだろうと思う、ので訂正。可能性だから可能性とすると100%そうだとは言い切れない、かもしれないが、100%に近く空想ではないだろうとも思われる。後の人に書き換えられているのならば、後の書き換えられた箇所の部分的な空想はありえる。しかし、個人的に、キリストさんの教えは、とても眼が善い、清浄であると思っています。そして、十分過ぎる程に理解ができるので、要するに、全部の可能性は、個人的には間違いであると思っている。と。
 ちなみに、ここのキリスト教というのはキリストさん自信の事柄ではなくて、後世のキリスト教徒の方(私が学んだキリスト教の歴史と、キリスト教徒の方自体、大勢いるので、「世の中には、知恵の眼が煩悩の塵に汚れていない者もあり、ひどく汚れている者もある。生まれつき資質のすぐれた者もあり、ひどく汚れている者もある。生まれつき素質のすぐれた者もあり、素質の劣った者もある。善い性質の者もあり、悪い性質の者もある。教えやすい者もあり、教えにくいものもある。また、来世に生まれて苦を受けねばならぬおのれの罪業についておそれを知りつつ暮らしている者たちもある」。)という意味でキリスト教と、記していたと思います。様々な人がいるというのは、その考えは現在でも同様ですが、これはどこどこの教徒であるというのに限らず、後世の仏教徒でも、多数の宗派に分かれているように、大乗仏教が善だとか悪だとか偏った考えはありません。大乗仏教徒も大勢、様々な人がいるので。
ん!?大乗仏教に善以外はあるのか?というのは、他でも記していますが、例えば、仏陀の教えであるというのに、性的な呪術等で、それを仏教であると教えているというところがあるとすれば、その教えは仏陀の道理にないです。大乗仏教に対する、私個人、基本的な気持ちとして、実家のご先祖は大乗仏教徒であり、日本で育った私自身も大乗仏教徒でもあるので(心は大乗の小乗という意味の中乗、縁覚乗の中乗というより、在家でもあるので前者の中乗)、大乗仏教全体が真の仏陀の言葉を見てくれると嬉しく思います。
 あと、仏陀の教えは空想の可能性はあるのか、というのは、世尊が「伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法」と説かれているとおり、自己自身で眼のあたり見られるので、空想ではない。ので全部空想の可能性はありえない。と思っています。〕

要するに、自分の心で考えれば正しい事柄がわかるであろうという感じです。

ただ、正しい行いをするところには平和とか安らぎがあると思う。

あなたは憎しみや恨みや嫉妬をどのように思いますか?と自分の心に問いかければ、
普通に答えは見えるでしょ。
憎い心があるところに平和はない。
そういう事もわからないなら、そういう書物を読まない方が良いと思う。   
〔← 解釈を誤って、争論しないように。キリストさんの教えも仏陀の教えを理解してから読むと、とても善い。と個人的にそう思います。真理を源泉であるとすると、キリストさんのように源泉から源泉の事柄を言われても、一般の人は喩えでも、意味不明なところも多々あると思うので。また、仏陀の説かれた教え(原始仏典)は、解釈の仕方を間違えても悪性に解釈することの方が難しい(始めのうちは、解釈に迷うところもあるかもしれないですが)と思うので、キリスト教の人でも、他の教えを信仰する方でも、仏陀の教えを学ぶと善いと思います。聖者の言葉が自己で理解ができるようになるので
 法(真理)を見る人は、仏陀を見る。仏陀を見る人は、法(真理)を見る。

85天之御名無主:2008/07/08(火) 17:02:15
以前の間違えを訂正です。
ごめんなさい。前に書いたことは全部出鱈目でした。キリスト教が善か悪かは
もうどうでもいいです。だって善と悪とは相対的な概念でしかないのだから、
さっきまで善だったことが悪に早がわりすることだって不思議ではないですからね。
早い話、さっきわたしが書いたことだって、ほらもう全面撤回だってあり得るのです。
結局、わたしの話は全部空想だって可能性もあるのです。ニーチェではないですが、
善悪の彼岸ですね。そうすると善悪にこだわるキリスト教はやっぱりたいした宗教では
ないですね。キリスト教は洗脳して奴隷意志に仕立てるという意味で、やっぱり悪です。
前言撤回です。ごめんなさい。


86天之御名無主:2008/07/08(火) 17:07:08
以前の間違えを訂正です。
ごめんなさい。奴隷意志でなく奴隷道徳でした。奴隷意志はエラスムス
でしたね。あ~、もうわけわかめ~YO(;´д`)トホホ…
やっぱりさっき書いたことは全部出鱈目でした。撤回します。

87天之御名無主:2008/07/08(火) 17:20:05
キリスト教徒が割合多いのは
・産めよ殖やせよ地に満ちよで際限なく増えた子供たちが信仰を引き継ぐ
・世界の製作者が直々にルール変更して寿命なんて無くしてくれるという説を信じたい人が沢山居る
・しかも不死はユダヤのみならず全ての人に与えられる
って所が理由かね


88天之御名無主:2008/07/09(水) 09:46:50
白人は植民地を作ると、そこに学校と病院を作って原住民を手懐けたんだよ。
そしてそこの教師や医者は聖職者なんだよね。今でも聖職者て、その名残りか、
神学以外の資格を必ず持っている。昔はカトリックの神父が多かったようだけど、
今は、植民地ではないが、牧師が未開拓地に入っていて同じことをしている。
だからキリスト教徒が多くなる。似たようなことはイスラム教もやっているが。
キリスト教は一方で世俗化が激しいから、もうこの先それほど伸びは期待できない
と思うけど、イスラム教はまだまだ広がっていくだろうな。




89健吾教:2008/07/17(木) 23:03:57
確かに、エジプトは悪とみなされてるよね。
詠んでて分かります。

90天之御名無主:2008/07/20(日) 10:12:50
1980年イスラエルでイエスの物と思われる墓所が発見された
墓所は小さな教会風に掘られた洞穴で、中に10人分の骨壺が安置されていた
内六人分の名前が判読でき、イエス、マリア、マタイ、ヨゼフ、マグダラのマリア、イエスの息子ユダとアラム語で刻まれていた
2007年科学的解析結果が発表された
残された微量の筋繊維からDNA鑑定を行い、遺灰が2000年以上前の人間であり、ユダとイエスに親子関係が認められたとの事


91天之御名無主:2008/07/20(日) 11:02:58
イエスの息子ユダってどこの文献に出てくるの?
イエスとかヨゼフとかイスラエル人には普通にある名前だし
マグダラのマリアというのも実際は「マラのマリアムネ」と
あったのを監督がそう解釈しただけです。

92天之御名無主:2008/07/24(木) 07:46:31
モーセってイスラエルの王族だっけ?
でも実は自分は賎民の出、つまり捨て子だってしらなかったんだろ。
自身の苦悩を解放する為にたまたま奴隷っぽい自分の仲間の
賎民を連れてっただけでだ。日本語の聖書ばっか読んでるから理解が偏る。


93天之御名無主:2008/07/24(木) 09:57:12
捨て子だったから賎民なんじゃなくて、ヘブライ人がハビル(アピル)と関係
してるっぽいから賎民じゃないかって話なんだけど。

94天之御名無主:2008/08/02(土) 10:51:17
什分の一献金はそれを納める「倉」がすでにない以上、すでに実行不可能な律法である。
また、現代社会の月収は厳密に言って「収穫」ではない。例えとして似ているだけ。
こうした差異を無視して、自分たちの給料になる金を貧乏人から略取する牧師は不法。
地の収穫を宮に携えて来よというのは、土地を持っているような金持に対してのこと。
富裕層に責任を負わせることにより富の偏りを是正し貧困層を救うための神の掟なのだ。

95天之御名無主:2008/08/08(金) 19:44:21
最初、神は自分に似せないで生物を造り給えり。
その試みは何度か失敗に及び、その都度全球凍結、スーパープルーム、直径10キロの隕石の落下などによってリセットされてきた。わりと短気なかたとおみうけする。
次に神は自分に似せて人間を造りたまうも、、、またもそのリセットぐせがあーー



96天之御名無主:2008/08/23(土) 00:02:16
神は世界中の皆を救おうとか皆を幸せにしようなどと考えていない。
選民やある集団のための神ではあっても全人類の神ではない。
自分こそは神に選ばれた者だと思わないことには殉教も異教徒の殺害もできないと思う。
それぞれ神を信じる者どうしでも喧嘩する…。そういった非人道的とも思える行為でさえ
神自身が賛美を受けるために人間に要求してるんじゃないか?

97天之御名無主:2008/08/25(月) 15:05:04
己だけの賛美を求める時点で神ではないんでないの

98 ::2008/09/17(水) 23:31:30 
  〔すでに騒いでいたので。〕
>>59の1のヒロシ・Tと言います。
私が書いた、スレは63、64、65、67、68、69、70、71、72、73、74、
75、76、78、79、80、82、83、84です。
S・TとS・NとI・Yは私が書いた文章には関係ないです。

99 ::2008/09/20(土) 02:21:34
1です。このスレッドを読む方が多いようなので、紹介させていただきます。
ブッダのことば(スッタニパータ)より 中村 元 訳 

○二様の考察
つぎのようにわたしくは聞いた。
あるとき、世尊は、サーヴァッティーの東園にある僧院におられた。
その僧院は、ミガーラ長者から母として敬われているヴィサーカー(本当はミガーラ
長者の妻)の建てたものだった。
 さて、ウポーサタ(懺悔と禁欲のための聖日)の日である十五夜の満月にあたって、
世尊は集まっている比丘たちに囲まれて、屋外に座っておられた。押し黙っている
比丘たちを一人一人見回してから、世尊はこう語りかけた。
「比丘たちよ、迷いの世からの出離に導き、完全なさとりに通じ、神聖にして、善な
る種々の真理、およそこれらの真理は何のために聞いて学ぶのか、と問う者たちが
いたらならば、つぎのように答えるがよい。『二様の真理をあるがままに正しく理解す
るためです』と。
 さらに、何を二様の真理と呼ぶのと言えば、『これが苦しみであり、これが苦しみの
原因である』というのが第一の考察である。他方、『これが苦しみの止滅であり、これ
が苦しみの止滅に至る道である』というのが第二の考察である。比丘たちよ。このよう
に二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に自己を奮いたたせて修行してい
る比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報が期待できるであろう。
いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでまだそれが残っている
場合で、この場合には、死後、二度とこの迷いの世に舞い戻って来ないよいになる」
 世尊は、このように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

100 ::2008/09/20(土) 02:23:46
「苦しみとは何であるかを知らず、苦しみの生起も知らず、苦しみがすべてにわたっ
て余す所なく止滅する境地も知らず、苦しみを静めるかの道もしらない人々、
かれらは、心が解脱することなく、智慧によって解脱することもなく、苦しみに終止
符を打つこともできず、生まれ変わっては老いねばならない。
 苦しみとは何であるかを知り、苦しみを生起を知り、苦しみがすべてにわたって余
す所なく止滅する境地を知り、苦しみを静めるかの道も知っている人々、
 かれらは、心が完全に解脱し、智慧によって完全に解脱して、
苦しみに終止符を打ち、二度と生まれ変わって老いることはない」


 「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができる
かと、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、人々が執着している所有物が機縁と
なっている』というのが第一の考察である。
他方、『人々が執着している所有物から心が離れることにより、それを余す所なく止滅
させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。

「比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのよ

101 ::2008/09/20(土) 02:25:39
うに説明した。

「世の中には実に種々のあり方をした苦しみが存在するが、それらはすべて、人々
が執着する所有物を根拠として生じてくる。それにかかわらず、無知な者は何らかの
ものを所有し、愚かにも、繰り返し繰り返し、苦しみを味わうこととなる。それゆえに、
以上のことを知り、苦しみが生じる原因を考察しつつ、何ものも所有しないようにしな
さい」


「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、無知(無明)が機縁となっている』というの
が第一の考察である。
他方、『無知から心が離れることにより、それを余す所なく止滅させれば、苦しみが
生じることはない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、
自己を奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか
一方の果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりに
してさとりの智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を
取り込んでそれが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い
戻って来ないようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

102 ::2008/09/20(土) 02:28:09
「人々がこの世からあの世へと、繰り返し繰り返し、生まれ変わり死に変わりして輪廻
して行くのは、他ならぬ無知の結果である。
 なぜなら、この無知とは、迷妄の大洪水であり、このためにこの世の人々は永劫の
過去以来、輪廻・流転しつづけてきたのである。しかし、智慧を備えたならば、人々
は二度と生まれ変わることがない」


「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、行為の余力(行)が機縁となっている』
というのが第一の考察である。
他方、『行為の余力から心が離れることにより、それを余す所なく止滅させれば、
苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を奮
い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の果報
が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの智慧
を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んでそれ
が残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないように
なる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎのよ
うに説明した。

103 ::2008/09/20(土) 02:30:00
「どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、行為の余力が機縁となっている。
行為の余力が止滅すれば、苦しみは生じない。
 行為の余力が機縁となって苦しみが生じるということのことを禍いだと知り、
ついで、一切の行為の余力がおさまることにより、心中のあれこれの想いも止滅し、
こうして苦しみが消滅する、という道理をも正しく知り、
 正しく、物事を見、正しく物事を知り、聖典に通暁し賢者である人は、
悪魔によって拘束されることがなどなく、二度と生まれ変わることはない」


「比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することが
できるかと、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。
どのようにしてかと言えば、
『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、認識作用(識)が機縁となっている』という
のが第一の考察である。
他方、『認識作用から心が離れることにより、それを余す所なく止滅させれば、
苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

104 ::2008/09/20(土) 02:32:39
「どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、認識作用が機縁となっている。
認識作用が止滅すれば、苦しみは生じない」
「認識作用が機縁となって苦しみが生じるというこのことを患いだと知り、
認識作用をおさめることによって、比丘たちは、欲望なく、完全な安らぎにはいる」


比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することが
できるかと、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。
どのようにしてかと言えば、

『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、何かを体験すること(触)が機縁となって
いる』というのが第一の考察である。
他方、『体験することから心が離れることにより、それを余す所なく止滅させれば、
苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

105 ::2008/09/20(土) 02:36:00
「日々の体験に翻弄され、人生の激流に押し流されて、苦境に陥っている人々
には、束縛を消滅させることなどとうてい及びもつかない。
 日々の体験がいかなる結果をもたらすかを見極めることにより、それから離れ、
さとりの智慧をもって、平穏さを楽しみとする人々は、まさしく体験に本質を見抜いて
いるから、欲望なく、完全な安らぎにはいる」


比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、感受すること(受)が機縁となっている』
というのが第一の考察である。
他方、『感受することから心が離れることにより、それを余す所なく止滅させれば、
苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

106 ::2008/09/20(土) 02:36:41
「楽であろうと、苦であろうと、楽でもなく苦でもないものであろうと、内面的なもので
あろうと、外面的なものであろうと、感受されるものは何であれ、すべて消滅し、
虚ろなものとなるものであり、したがって、苦しみ以外の何ものでもないと知り、
何かを体験するたびに、それは消滅するものだと見極め、こうしてそれから心が
離れる。かくて、感受を消滅させることによって、比丘は、欲望なく、完全な安らぎに
はいる」


比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、渇望(愛)が機縁となっている』というのが
第一の考察である。
他方、『渇望することから心が離れることにより、それを余す所なく止滅させれば、
苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ないよ
うになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

107 ::2008/09/20(土) 11:12:31
「渇望を愛妻のように常に抱いている人は、永劫の間、流転し、この世からあの世へ
と生まれ変わり死に変わりして行く輪廻の流れを越えることができない。
 渇望から苦しみが生じるというこのことを患いだと知り、渇望を離れ、何ものも取り込
まず、比丘は心して行脚するがよい」


比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、取り込んだり、執着したりすること(取)が
機縁となっている』というのが第一の考察である。
他方、『取り込んだり、執着したりすることから心が離れることにより、それを余す
所なく止滅させれば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

108 ::2008/09/20(土) 11:13:46
「取り込んだり、執着したりすることが機縁となってう生まれ変わる。生まれ変われば、
苦しみを味わう。生まれたものに必ず死がある。これが苦しみの生起である。
 だから、賢者は、正しく物事を知り、取り込んだり、執着したりすることがなければ、
生まれ変わることもないと自ら知り、事実、二度と生まれ変わって来ることはない」


比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、悪行が機縁となっている』というのが第一
の考察である。
他方、『悪行することから心が離れることにより、それを余す所なく止滅させれば、
苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

109 ::2008/09/20(土) 11:20:40
「どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、悪行が機縁となっている。悪行を止滅さ
せれば、苦しみは生じない。
 悪行が機縁となって苦しみが生じるというこのことを患いだと知り、一切の悪行を
一つ一つ捨てて行き、悪行を離れた境地へと解脱し、
 生まれ変わろうとする渇望を断ち切り、心静かな比丘は、生まれ変わり死に変わり
して行く輪廻の流れを渡り、二度と生まれ変わることはない」


比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、糧を摂取することが機縁となっている』
というのが第一の考察である。
他方、『糧を摂取することから心が離れることにより、それを余す所なく止滅させれ
ば、苦しみが生じることはない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

110 ::2008/09/20(土) 11:21:51
「どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、糧を摂取することが機縁となっている。
糧の摂取を止滅させれば、苦しみは生じない
 糧の摂取が機縁となって苦しみが生じるというこのことを患いだと知り、糧の摂取が
すべていかなる結果をもたらすかを見極めて、それを絶ち、糧の摂取には一切頓着
せず、
 身体や心に糧などが全く流れこまなくなれば、身心の病は消えるということを正しく
知り、何事もあまねく吟味してから受容し、道理に立脚している聖典の通暁者は、
死後、生まれ変わって人間や神々などと呼ばれることはない」


比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、心の動揺が機縁となっている』というのが
第一の考察である。
他方、『心の動揺を離れることにより、それを余す所なく止滅させれば、苦しみが
生じることはない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

111 ::2008/09/20(土) 11:23:04
「どんな苦しみが生じる場合にも、すべて、心の動揺が機縁となっている。心の動揺
を止滅させれば、苦しみは生じない。
 心の動揺が機縁となって苦しみが生じるというこのことを患いだと知り、それゆえに
心から動揺を追い払い、行為の余力を止滅させ、動揺なく、
何ものも取り込むこともなく、心して比丘は行脚するがよい」


比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『何ものかに頼っている人は心が動揺する』というのが第一の考察である。
他方、『何ものをも頼りにしない人は動揺しない』というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

112 ::2008/09/20(土) 11:24:21
「何ものをも頼みとしない人は動じることがない。しかし、何ものかに頼り、それに執着
する人は、この世からあの世へと生まれ変わり死に変わりして行く輪廻の流れを越え
ることができない。
 何ものかを頼みとすることの中に大きな危険が潜んでいるというこの事実を患いだ
と知り、何ものをも頼みとせず、何ものにも執着することなく、心して比丘は行脚する
がよい」


比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

『形あるものの世界より形なきものの世界の方が安らかである』というのが第一の考察
である。
他方、『形なきものの世界より一切のものが停止した世界の方が安らかである』
というのが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

113 ::2008/09/20(土) 11:25:11
「形ある世界にかかずらっているものたちや、形なき世界に安住しているものたち
は、一切が停止した世界を知らずに、何度も何度も生まれ変わる。
 しかし、形あるものの本性を見極めることにより、それから離れ、形なき世界にも
安住せず、一切が停止した世界へと解脱した人々は死から離脱している」


比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

比丘たちよ、神々や悪魔や梵天を含めたこの世のものすべて、さらに沙門や
バラモンや人間を含めた生きとし生けるものたちすべてが、『これこそが真実である』
と見なしているものを、聖者たちは『これは虚妄である』と、あるがままに正しくさとりの
智慧で看破する。これが第一の考察である。
他方、神々や悪魔や梵天を含めたこの世のものすべて、さらに沙門やバラモンや
神々や人間を含めた生きとし生けるものたちすべてが、『これは虚妄である』と
見なしているものを、聖者たちは、『これこそが真実である』と、あるがままに正しく
さとりの智慧で看破する。これが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

114 ::2008/09/20(土) 11:26:38
「永遠普不変の自我であるわけではないのに、何ものかをそのように思い込んで
いる神々や世間の人々を見てみなさい。かれらは、形があったり、名づけることが
できたりするものに執着し、『これこそが真実である』と思い込んでいる。
 何であれ、何かを『こうだ』と思いこんでも、その当のものは思い込んでいたものとは
異なったものとなる。なぜなら、その当のものは、思い込んでいたあり方から見れば
違ったものとなっている。うつろいゆくものは、すべて虚妄となる性質をもっている。
 他方、涅槃は変化することなく、虚妄ならざるものである。それを聖者たちは
真実なるものだと知る。かれらは、まさに真実なるものをさとって、欲望なく、
完全な安らぎにはいる」

比丘たちよ、また、他の方法によっても真理を二様に正しく考察することができるか
と、問う者たちがいたならば、『できます』と答えるがよい。どのようにしてかと言えば、

比丘たちよ、神々や悪魔や梵天を含めたこの世のものすべて、さらに沙門や
バラモンや人間を含めた生きとし生けるものたちすべてが、『これこそが安楽である』
と見なしているものを、聖者たちは『これは苦しみである』と、あるがままに正しくさとり
の智慧で看破する。これが第一の考察である。
他方、神々や悪魔や梵天を含めたこの世のものすべて、さらに沙門やバラモンや
神々や人間を含めた生きとし生けるものたちすべてが、『これは苦しみである』と
見なしているものを、聖者たちは、『これこそが安楽である』と、あるがままに正しく
さとりの智慧で看破する。これが第二の考察である。

比丘たちよ、このように二様の真理を正しく考察し、怠ることなく、熱心に、自己を
奮い立たせて修行している比丘には、つぎの二つの果報のうちいずれか一方の
果報が期待できるであろう。一つは、現世において、真理をまのあたりにしてさとりの
智慧を開くことである。いま一つは、生まれ変わる原因となる業や煩悩を取り込んで
それが残っている場合で、この場合には、死後、二度とこの世に舞い戻って来ない
ようになる」
 世尊はこのように語った。正しく歩んだ方はこう語ってから、さらに師としてつぎの
ように説明した。

115 ::2008/09/20(土) 12:27:44
「好ましく、いとおしく、心地よい一切の色形や音声や味や香りや感触や思いは、
それらが、存在していると言われる限り、
 快いものだと、神々や世の人々は一様に思い込んでいる。そして、それらが
消滅したとき、かれらは一様にそれを苦しみと思う。
 一方、聖者たちは、存在していた心地よい色形などの集まりが消滅することを
安楽であると見なす。こういった見方は世間の人々と正反対である。
 他の人々が快いと言うものを聖者たちは苦しみと語る。他の人々が苦しみと
言うものを聖者たちは安楽と知る。この理解しがたい道理に目をすえなさい。
目の利かない者とたちはこの点に迷う。
 ちょうど、目を閉ざした人には暗闇しかないうように、心の目が覆われている人々
には真実は闇の中である。しかし、目を開ければ光がさし込んでくるように、
聖者たちは一切のものが顕になっている。道理をしらないものたちは、
傍らにいるにもかかわらず、それに気がつかない。畜生のように。
 生に対する飽くなき愛着に支配され、人生の流れに押し流され、悪魔の手中に
陥っている人々にとって、この道理はさとりやすいものではない。
聖者以外のだれがこの境地をさとることができようか。この境地をさとった暁には、
煩悩や業が心に漏れ込むことはなく、全き涅槃にはいることができるのだが」


このように世尊は語った。世尊の説法を聞いて、比丘たちは、心奪われんばかりに
歓喜した。この教えが説かれている間に、六十人の比丘たちは、何ものも取り込ん
だり、執着することがなくなって、その心は煩悩や業が漏れ込むことがなくなり解脱しました。
スッタニパータ


116天之御名無主:2008/09/20(土) 13:39:48
なるほど、「私が証明です」ということですね      意味不明、事の成り行きを知っている人物の書き込みではないかと思われる。〕

117 ::2008/09/20(土) 19:36:14
1です。上記は仏陀が説いた仏教の根源をわかりやすく説いたものであると思い
紹介しました。
原始仏教です(ブッダが説いたとされる教え)。すごく簡単に言えば、
生存欲を含めた、潜在的な渇愛、この生存も含めそれよりも根源的な(欲)我、あらゆる煩悩を
滅する道であると思います。

〔↑ここの、訂正前「すごく簡単に言えば、生存欲以外の欲を滅する道」、というところで、

要するに、

サーリプッタ長老

「われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。よく気をつけて、心がけながら、この身を捨てよう。
われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。この身体を捨てるであろう。─雇われた人が賃金をもらうのを待つように。」

生に対する欲も無く、死に対する欲も無い、寿命が続く限り身体を保つためだけ、という身体を保つ意味で生存欲以外と記したのですが、
身体を保つだけ、というのを、「生存欲」としたのは、それを欲とする表現は(勘違いするので、)間違い。なので訂正。
身体を保つだけというのを
生存欲と表現するならば、身体を保つ以外も(身体を保つのも含み)の生存欲を含めた、潜在的な渇愛、を滅する道という表現が的確です。
(ちなみに、生を喜ばず、ですが、 死も喜ばずです。極端にならないようにです。)
その当時の状況は畜生霊とその仲間達がとても騒いでいたのがよく見受けられたので、あえて表現をやわらげたのはたしかですが~、
欲っていうのは、微妙。間違いとした方がわかりやすいでしょう。
ん、日記にこのところは書いていたかな?って、まぁ、いいとして、
って、日記ぽい説明文になったりしてみたり。
生存欲っていうのを違う意味で捉え続けていた人がいたならば、申し訳ないです。特にそっちから見て禅定している人に対してのため。
そっちで禅定してても見えないと思うので。

ただ、ここでの生存欲っていうのは、 ものすごい最低限必要な生存欲の事での生存欲という意味、私が言っているのは。
例えば、欲はないけれども、乞食をして食をとる。一日一食。そこらへんのところ。

悟った方々は、すでに身体を保つだけの生存、であって、生存を望む欲という無明はありえません。
生存してしまう欲というのも含め、あらゆる煩悩、潜在的な煩悩(渇愛、根源的な欲、原罪的な業〔煩悩〕)をも滅している。とされます。


あと、私はHPを見ている人を善に進ませる、善を自分で見てみると善いと促すのは当然ですが(菩薩行、仏弟子なので)、しかし、一般人です。
聖者方の言う本当の善者とは、在家者ではなくて出家している修行者であると思います。
ただ出家をしていても人生とはなんだろう?というような疑惑がある状態ならば、善者とは言いがたいかもしれませんね。求道者ですね。
すでにやらかしてしまっているテロメンバーにあとからでも芽生えるような畏怖の念等々は、他人に与えようとしても意味はないでしょう。
だって、他の人は全然関係ないもの。他の人は、善行を積む方にすでに動き始めているのに、
テロメンバーは、残念、逆走中、っていうならば、あまりにも話にならない。まず、悪友から離れて一人になったほうが、その人のためにはなると思いますがいかがなものなのでしょうか。
善をあきらめないように。
って、これ誰かきいているの?これ。っと。また、日記ではないところが長くなったので、ここの文章は~、まぁ、あとから直すかな~。っと。





なに!?、そこまで…( ̄0 ̄;) って、これは無我(非我)、ヴェールをとる(外す)、光明、なので、
別に目新しい事柄ではないんですが、
「そんなのできるか」とか、ふてくされたり、戸惑う人がいるかもしれなので、
まぁ、ちょっと付け足しておこうかと、

教えはあせらずに学んでいったほうがいいと思いますよ。

ここの時点で、そういう教えは駄目だとかって言ってしまったような人は、
まぁ、欲の観点から、聖者方の教えを聞こうとしていたのかな、と思う。
ベースの見方が、苦しみ(欲)の上に真理がのっかているように見ている人や、自分の中で法を見てない人は、
上記のような事柄を聞かされると、離れていくと思いますよ。
例えば、そのような、欲が消えると真理も消える。というのではなくて、
欲が消えると真理があらわれる。っていう表現がわかりやすいかな。
自我のヴェールを脱ぎなさいと。


そもそも欲を貪ることを見るような説とは逆の教えなわけなので、聖者方の教えは。
以前にも記していますよね。
欲の観点から見たり、他の人の目を通してみるのでなくて、自分の中で安らぎを見ないと、
迷ってしまうと思います。

日本の大乗仏教でも、現在はちょっとよくなってきたのかもしれないですが、
ちょっと前までは、ちょっと危ない方向だったかもしれないですね。
例えば、セント君だったかのようなのについて行っても、極楽には行けないと思いますよ。
仏教都市が観光目当てでやってしまった…という、感じではあるのかもしれませんが、
道をあやまってしまったところの大乗仏教のなれのはては、そのようなものなのかもしれない。

これは日本の仏教も気をつけていかないと、みんなが迷うでしょう。
仏教だけに限らずですけど。

私は仏陀の教え を 学ぶ者で、仏弟子ですが、現在の日本は仏教国であるはずなのに、
メディアを見ると、死ねとか、いろいろ叩かれていますよ。私の近辺の人も叩いていますね。(工作員作品紹介した動画の一応関連付けっぽい人をも叩いている)
以前とあまりかわらず。多少、一般の人には気づかれにくい感じのやり方になってきたかな~。
あんまりかわらないかな。
CMとかも、結構わかりやすく音声変えているのも多々ある。

仏陀の弟子を(殺)ろうとするっていうのは、とりあえず、仏陀の教えを説いてもちょっと無理っぽいかなとは思う。
他の善を説いている聖者方の教えでも、そのような者が死後どうなるかっていうのは、まぁ、他の聖典にも、同様の 事柄は書いてるんですが。

まぁ、現在はそういう国です。日本は。
仏弟子を(殺)ろうとする国。

ふ~、なんだか、教えを聞く人が増えてきたのもたしかなようですが、
なんとも。微妙な心境。
仏陀の教えで、復活しそうな国であったが、
仏陀の教えを紹介する人やそれを喜ぶ人、学ぶ人を、叩いて終了する国なのか。
仏陀の弟子を(殺)ってしまった時点で仏教国ではなくなるかもしれないけどね。
そこからは、日本神道で行くのかな、と。
って、日本の神道も、どのような感じなのかは、このHPでも、結構知ることができると思うんですが、
世界の宗教から見ても、現在の、神道の教えでは、いろいろと越えがたい部分はあると思います。



人生というのに意味があるのかわからずに、老齢を迎えて、死ぬっていうのは、一般的な人。
そんなのはもうわかりきっている。
そこに意味はあったのだろうかと。

仏教では、在家でも、聖者の流れに入れるという教えがあるので、安心をしてもいいですよ。
最初の段階。預流という段階の聖者の流れに入った段階になると、無限(無数に続く輪廻)の苦しみが、有限になるということですので。

無限の苦しみが、有限になるっていうのはどういうことかわかりますか。
例えば、どこかの国をあなたにあげるとか、どこかの惑星をあなたにあげるとかいうのよりも、
無限の苦しみが有限になるほうが、価値があると私は思っています。

で、そういうと、一般の人だと、 「いや、惑星をもらったほうがいいでしょ。」とかいうかもしれないですが、
その人は惑星をもらった次の日にポックリ逝ってしまうようなこともありえるかもしれないわけで。人生は短い、諸行無常。
で、逝ってから、せっかくもらったのにショーック!っていう苦しみ。

「あのとき、惑星をとらないで、苦しみが有限になる方を選んでおけば善かった」とか、あとから、後悔しても、ちょっと遅いようです。

なので、死後の生存を知っている聖者方が、そういう短い人生で、欲をださずに、そっちに猛進せずに、善の方向へ行きなさい、
天に徳を積みなさいと、天に積む徳は、そのようなものよりもはるかに価値があるのですよ、と。



苦しみからの解脱。
苦しみがなければ、なにがあるのかな。

(すごく一般的なところで)例えば、何もなければ、退屈じゃないの?っていうのは、
退屈という感情がその人自身にとって不快であるならば、その人にとってそのようなものも苦しみ。

我があるわけで、そうなるのですが、仏陀の教えはあらゆる苦しみからの解脱。

まぁ、今日は、ちょっと、もう寝よう。日付も書かずに。どうたらこうたら。
って、ここ日記のスペースところじゃないけど、ね。



この国にだけ限らずですが、教えを妨げようとする者、
自ら光に入らないばかりか、他の人もまでも光に入らせないとする者達はいますが、
そういうのと関係なく、
この国には、善い人達も、たくさんいる。っと。
他の国にも。




この本は岩波文庫で購入できますので、ブッダの説いた教えが知りたいと思われた方
は読まれてみてはいかがでしょうか。
大乗仏教は後に、在家中心で大勢を救うために仏教の弟子の方達が作り上げたも
ので、護摩法要などもその内の一つであると思ってます。
(ブッダが生存していた時のブッダの教えでは、ブッダの弟子である人は偶像崇拝や
護摩法要などは禁じられていたようです。→護摩法要は何らかの欲を叶えるための行
いであるから。
しかし、ブッダは火への供養は祭祀のうちで最上のものであると
認めていたので、他の
バラモンなどが行う祭祀は批判はしていなかったようです。普通に神霊を供養する行い
は悪い事ではないからであると思います。生贄を要求したりする神霊は低俗な神であ
るので、かまわない方が良いと思います。高級な神霊、正しい神霊はそういう祭祀には
近づかないということだそうです。これはブッダの食生活がどのようなものであったかを
見れば明らかであると思います。)
あと、大乗仏教については、大乗仏教の願い事等を叶えてくれる菩薩様等の存在は、
中国の神様的な存在が日本に渡ってきたと考えれば理解しやすいのではないかと
思います。
ブッダの説いた本来の仏教は欲を叶えてもらうための道ではなく、
自分自身の欲を無くするための道であると思います。
気になった方は、岩波書店で購入できるので読んでみてはいかがでしょうか?
縁起の理法等、信じる信じないはその人の自由です。
原始仏教の法は私にとって、とても共感できる教えであります。



118 ::2008/09/20(土) 19:37:39
ちなみに大乗仏教の護摩法要なども、日本神道と同じような感じで、ある程度の願い
を叶えてもらうために、普通に暮らしている人にとっても神霊を祭祀する事は良い事で
あると思ってます。
我が家にも普通の神棚はあります(神道は法ではなく力の方だと思います。)

      
もう一つ紹介します。 ブッダの教えとは↓
 「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?わたくしは内外
の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠す
ような教師の握拳は、存在しない。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、
あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧の
つどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、
あるいは、『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。
向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、歳をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、
老齢に達した。わた齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによって
やっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
 しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を
滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの
身体は健全(快適)なのである。
 それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島
とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。では、修行僧が自ら
を島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、

119 ::2008/09/20(土) 19:39:02
他のものをよりどころとしないでいるということは、どうして起るのであるか?
 アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけ
て、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における
貪欲と憂いとを除くべきである。
 心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲
と憂いとを除くべきである。
 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をた
よりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるので
ある。アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らを
たよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころ
としないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるで
あろう、 ── 誰でも学ぼうと望む人々は ── 。」

もし、あなたが何でも好きなものを享受できるとすれば、何を享受しますか?
仏教とは要するにブッダのように何物も享受せずに、ただ生老病死苦の苦しみを消す
道を求めて、全ての苦しみは(無明)欲から来るものであると知って、身体を保つ以外
の欲を無くして心に安らぎをえて、涅槃というものに到達←涅槃というものは出家者で
もブッダの直接の教えを知っていなければ、到達は難しい境地であるという私の見解。
逆に考えてみると、究極的には心に安らぎさえあれば、身体を保つ以外の欲は必要な     
くなるという事でもあると思えなくもないですが。 
普通に生活している人には、ブッダの教えの涅槃(全き安らぎ)というものへの到達は
100%に近い確立で不可能であると思われますw 普通に社会生活をするためには

120 ::2008/09/20(土) 19:40:24
どうしても欲というものが必要であるからです。ある程度ざっくばらんに説明しました。
ちょっと、現代の仏教がブッダの説いた教えとは外れて来ているので、有る程度正しい
方へ戻ればよいかなという思いで書込みました。
みなさんはどのように思いましたでしょうか?

121 ::2008/09/21(日) 01:31:28
誤字脱字があったらすいません。
フリーメーソンなどの秘密結社とされる社会的知識が豊富な方々も(が)、
(今生ではないとしても)いずれは辿り着く道であると私は個人的に!そう思います。

↑クリシュナムルティさんの<星の教団>の解散についての演説が
現代的でわかりやすい例であると思います。
クリシュナムルティさんの<星の教団>解散の演説が記された本を読めばわかると思います

122天之御名無主:2008/09/21(日) 03:13:09
だからここは宗教板じゃないと何度言わせれば気が済むんだ?

お前のやってるのは神話研究でもなくただの俺様哲学or宗教の開陳だ。

聖書もスッタニパータもどうでもいい読み方しか出来ない&誰かのご高説を鵜呑みというのだけは
解ったが。

速く削除依頼を出してから心と宗教板かオカルト板にスレを建てて遊んでるか、どこかでBlogを
ひっそりやっておいてくれ。

ということでさらし上げ


123 ::2008/09/22(月) 00:34:20
1のヒロシ・Tです。
神話学というスレッドなので、神話の話もしていこうと思っています。

この辺までで要約すると、このスレッドを立てた後、途中の頃から、急に周囲やTV等が騒ぎはじめて、過去に違うサイトで知り合った畜生霊の系統の霊能力者達のさえ・Tとシロウ・N(ミヤビ・T)とY・Iが関わっていて、なぜか私が絡まれていて、なぜ絡んでくるのか意味がわからない状況。光の件で畜生霊の仲間達が邪魔をするのに絡んできているんだろうかなと思っていた頃だと思います。この頃は、すでに、_畑さえの別人格の霊である悪霊の「さえ」は、表だってこっちで悪行の限りを尽くして恐怖心をあおっているところですが、すでに悪霊に対する恐怖心がもうほとんどない頃です。
すでにTV等でも騒いでいて、畜生霊の仲間達が絡んでいるのもハッキリしていたのですが、そもそも畜生霊の仲間達が悪霊等を使って堂々と悪さをしていても、現代人はそういう事柄が現実にあるとは思っていないので、畜生霊の仲間達が霊的現象を用いて悪事を行っているというのと、その霊的な現象等が理解できなければ、そういう事象を何もしらない一般の人達ならば、二つ返事で畜生霊とその仲間達の思うがままにいう事を聞いてしまうだろう、ということで、とりあえず、騒ぎをおさえるようにしつつ、畜生霊とその仲間達の妖術を解明するところです。それに加えて、このスレッドを立てた本来の目的が仏教、宗教の誤った方向を修正する向きの主旨なので、仏陀の教えの紹介もしつつという感じです。仏典の言葉は畜生霊とその仲間達の悪行を理解できるようにも、引用させてもらっています。
掲示板の当初の頃の内容は、TVや、周囲、悪霊の影響でそう思わされていたところもあり、更に全体的な状況もほとんど掴めていないような状況で説明が多少とぼしいところはありますが、だいたいの流れはわかると思います。畜生霊とその仲間達の悪事等は、後日の日記の方で詳しく説明をしてます。〕

その前に、さえ・Tとシロウ・N(ミヤビ・T)とY・Iは私が書いた仏教の文章には
全く関係ないです。

彼女らは、憑物付きなので、かまわない方がよいです。
また、彼女らの能力は
動物霊を使役する能力があり、実際に小型の動物を操る術を使用します。
また、動物霊が完全に体の中に入っているようなので彼女らはいずれ、
動物霊のために体を壊すでしょう。彼女らは動物霊を使役しているつもりですが
動物霊に使役されていると考えたほうがわかりやすいと思います。
また、電話などの電波に割り込んで入って会話を妨げる能力があります。
会話に入って、相手を脅す能力です。普通の人はこれでビビってしまいますが
この能力を知っていればビビルことはなくなると思います。
あと、ラップ音をさせる能力もあります。

また、彼女らの霊は人にくっ憑いてある程度感情を左右する能力があります。
感情などをある程度自分で制御できない人は動かされやすいようです。
慣れれば大した事はないです。
この能力を悪事で利用していた例としては、大勢いる球場などでアナウンスをしている人などに憑いて、( 誰々 )さんによりお送りしておりますなど、
自分の勢力を大きく見せて、バックには大物が付いていないのに、付いていると思わせる能力です。
また、マスコミなどでも、スタッフやタレントにについて

124 ::2008/09/22(月) 00:35:28
その番組を見ている人々も騙されそうになるという手段です。
彼女らは、実際は数人で動物霊、自分らの生霊(念)を操っているだけで、
バックには、右翼や、暴力団などはいません。
という事を私のところにいつも飛んで来る霊が、操っている主人が寝ているので、
その内に話をするということで自ら暴露してくれました。
さえ・Tの霊はいつも私のところに来て、「スキ」とか訳のわからないことを
言う霊で、この霊は頭がおかしくてかなり気持ち悪いので
黙って聞いているとめちゃくちゃムカつきます。
あまりにもしつこいのでイライラしてついつい怒ってしまいます。
以前、4回ほど殺されかけたので、それを知っての発言なのかと思うと
「さえ」と発言する霊は頭がおかしい霊であるということはたしかであります。
ちなみに、4回ほど殺されかけたというのは、私の霊能力を狙っての事なので
普通の人には問題ないです。この事を考えると明らかに彼女らに入っている霊は良い
霊とは言えません。
もうそれほどの霊能力を彼女らはもっていないようですが。
このごろはやっと、無視することになれてきました。
いつも怒ってしまう理由はこういう事です。
あと、感情の先読みです。私が行動をしようとして物事を考えると
それを読み取り、先に言葉にして他の人に話をして、この人を操っているかの
ごとくに他の人に思わせることをよく行っているようです。
しかし、この感情を先読みする能力はすでに他の人も知っているようなので全然大した
事はないです。
彼女らは感情を先読みするだけなので、それ以上先を読む能力はありません。
テレビなどでは、その画像に合わせて感情を合わせさせる能力により、
これも同じくその人を操っているかのように他の人に思わせる事をしているようです。

125 ::2008/09/22(月) 00:36:15
彼女らの霊能力はすでにかなり無くなってきているので他の人は心配する事は
あまりないと思います。結界を張る能力ももうないようです。

あと、他人の記憶を読み取る能力です。
相談相手などの過去の記憶読み取り、過去の事柄を見せて信じ込ませる能力です。
また、その人の記憶から過去に聞いたことのある声を似せて聞かせる能力です。
あと、他にも床屋さんというキャラの人が遠隔透視を有る程度できるようです。
彼女らは現在でも悪事を行っているようなので、結界とか何とかに彼女らを封印すれば良いとは思いますが、
早い話は彼女らの本体を潰せば終わると思います。

私の会社の従業員の人もくっ憑かれると、行動や話方が変わるのですぐにわかります。
でも、すぐに離れるので心配はないです。
ちなみに、私の会社の従業員のIさんTさんOさんOさんSさんは普通の人なので
そういう能力はないです。

1の私の能力は、
以前、座禅をしていた時に弘法大師の話のように、光が体の中に入ってきたことがあります。       〔← 弘法大師、空海さんに直していたので、もとに戻し。日本真言宗を創設した僧、空海さんのこと   H28.1.18〕
それが原因かどうかはわかりませんが、私が話をした言葉(言霊)が現実になるという能力があります。
現在わかっている事では、私、ヒロシ・Tの話す念のこもった言霊が人間の感情面(大勢)や霊に作用して、
現実の物質界にも作用するということです。
 例えば、「何事かをする」と言えば、人間の感情面がそういう気持ちになって

126 ::2008/09/22(月) 00:36:39
結果的にそういう事になっていってしまうという事です。(大勢)です。
 誰かを褒めたりすると、他の人もその褒めた通りに思っていってしまうという事であります。
なんとなく伝わりましたでしょうか?
 私が思い続ける事だけでも作用するようです。実際に思っただけで起こった現象は結構あります。
あと、心の言葉を相手に伝える能力があります。
この能力はまだ確実には扱えていない部分があります。
また、私の中の光!?がどうやら大勢の人の心を左右するという能力があるようです。
私が心の中で言葉を発すると、その人の気持ちがそういう気持ちになるという能力です。
以前、この能力を自分でも知らない時に、彼女らに私の霊能力を使用されて
大変なことになりました。
さすがにもう、普通に大丈夫ですが。ある程度私の霊能力も上がってきました。
(  省略します。  )
←これらの件に関して、他に依ったとしても、その意味が微妙であることを知った事によりです。
私 ヒロシ・Tはこの能力を正しい方で使用できたらいいなと思ってます。

彼女らは、私の霊能力を自分らの霊能力だとか訳のわからないアホな事を言っていま
すが、彼女らは、私 ヒロシ・Tの霊能力と全く関係ありません

127天之御名無主:2008/09/24(水) 03:57:37
つttp://www.amazon.co.jp/dp/409451080X/

128 ::2008/09/24(水) 20:31:02
大事な事をいい忘れてました。

私の中に入ってきた光は、シロウ・N(ミヤビ・T)とY・Iのサイトに書いてある
方法で入ってきた光ではないです。全く違います!

私の中に入ってきた光は、彼女らと電話で知り合う、3、4年くらいか、もっと以前の話です。
知り合った後に、シロウ・Nにそれを電話で伝えたのです。
彼のサイトのチャクラを錬って見える光というものが実際にあるのかどうかはわかりません。
彼女らと私は実際に会ったことはありません。

心身を清浄な心に保って、たくさんの人の魂を救いたいと思っていた頃
座禅をしていたときに入ってきたものです。
彼のサイトのチャクラを錬って見える光?というものと全く関係ないです!!!!

『 ちなみに、霊魂の件について原始仏典より

世界は常住なるものであるという見解があっても、
また世界は常住ならざるものであるという見解があっても、
しかも生あり、老いることあり、死あり、憂い、悲しみ、苦痛、悩み、悶えがある。
われはいま目のあたり、これらの消滅を説くのである。
 それ故にここにわたくしが〔いずれとも〕記説しなかったことを
記説されなかったこととして受持せよ・・・・「世間は常住である」などということは
わたくしの記説しなったことである。

〔次に「世界は有限である」「世界は無限である」「霊魂と身体とは同一である」
「霊魂と身体とは異なったものである」「人格完成者は死後に存在する」「人格完成者は死後に存在しない」
「人格完成者は死後に存在しかつ存在しない」「人格完成者は死後に存在するのでもなく、存在しないのでもない」
という見解についても一々同じことが繰返し説かれている〕
何故にわたくしはこのことを記説しなかったのか?何となればこのことは目的と相応せず、
清浄行の基礎とならず、厭離・離欲・止滅・平安・知通・正覚・安らぎ(ニルヴァーナ)の
ためにならない故である。
それ故にここにわたくしが〔いずれとも〕記説しなかったことを記説されなかったこととして受持せよ。』

129 ::2008/09/24(水) 20:31:38


現在の私の考えでは、一般の人は使用しないチャクラで気を錬ったり
しない方が良いと思っています。
低級な能力(過剰な性欲など)が開花すると本人が困ると思うので。
低級な能力を開いてしまうくらいなら、
普通に何もしていない人の方がまだマシであると思います。
何らかの行法を行うとすれば、霊的な能力を開発する目的ではなく、
自分の内面を清浄にするのに焦点をおいてする呼吸法やヨガなどが良いと個人的に思います。
ヨガの目的は「自分を知ること」だそうですw。本にも書いてますw
内面を清浄にすると、霊能力は必要な時にその人に身についていくそうです。

そろそろ、日本や世界中の人も霊的な現象は普通に認めても良い時期であると思います。
ちなみに、私は普通の生活をしております!

130天之御名無主:2008/09/24(水) 23:32:36
これ荒らしだろ。
削除依頼出てるの?

>>1
1人で書くならブログやるか、ワードパットにでも書きなよ。
誰と会話してるんだよ。


131 ::2008/09/25(木) 18:42:27
このスレッドを見ている人の人数は多いかどうかはわかりませんが、
どうやら、マスコミや政財界のトップの人達が多数見ているようなので
〔← この頃の、周囲の状況を見て記したのものですが多数というか、特定の人達という感じです。〕
どうして、私のような若者に興味をもつのか?身体の中に入ってきた光に興味がおありなのか?
とりあえず、日本のマスコミや政財界のトップの方に読んでもらえれば、
世界中が大きくかわるのが早いと思いますので書込みます。      
多分、世界各国のおエライ方も普通に見ているでしょう。       
なぜか?というのは、これを読んでいる方ならみんなわかっているとおもいます。
〔← 当初からそれなりの規模で騒いでいた感じだったので、そう思っていた時です。〕
私が書くこのスレッドで伝える事柄の影響は世界的にもかなりでかいようなので、
いつもどおり理解しがたいかもしれませんんが紹介します!       〔← 原始仏教の教えは全く知らない人には難しいだろうということで、上記に記している掲示板の文章を含め、いつもどおり理解しがたいだろうという感じだったと思います。で、そもそもこのスレッドを立てた本来の目的が仏教、宗教の誤った方向を修正する向きの主旨なので、仏陀の教えの紹介。仏典の言葉は、畜生霊とその仲間達の悪行をも理解できるように、引用させてもらっています。


分別

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナー
タピンディカ(給孤独)の園にましました。その時、世尊は、比丘たちに告げて
いった。
「比丘たちよ、わたしはいま汝らのために、縁起を分析して説こうと思う。
汝らはよくそれを聞いて、考えてみるがよろしい」
 比丘たちは、「大徳よ、かしこまりました」と答えた。世尊は説いていった。
「比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。
 比丘たちよ、無明によりて行がある。行によりて識がある。識によりて名色がある。
名色によりて六処がある。六処によりて触がある。触によりて受がある。
受によりて愛がある。愛によりて取がある。取によりて有がある。
有によりて生がある。生によりて老死があり、愁・悲・苦・愁・悩がある。
かくのごときがこの苦の集積のよってなれるところである。

132 ::2008/09/25(木) 18:43:27
 では、比丘たちよ、老死とはなんであろうか。生きとし生けるものが、
老い衰え、朽ちやぶれ、髪しろく、皺生じて、齢かたむき、諸根やつれたる、
これを老いというのである。また、生きとし生けるものが、命おわり、
息絶え、身体やぶれて、死して遺骸となり、棄てらたる、
これを死というのである。かくのごとく、この老いとこの死とを、
比丘たちよ、老死というのである。
 また、比丘たちよ、生とはなんであろうか。生きとし生けるものが、生まれて、身体の各部あらわれ、手足そのところをえたる、比丘たちよ、これを生というのである。
 また、比丘たちよ、有(生存)とはなんであろうか。
比丘たちよ、それには三つの存在がある。欲界すなわち欲望の世界における存在
と、色界すなわち物質の世界における存在と、無色界すなわち抽象の世界におけ
る存在である。比丘たちよ、これを有というのである。
 比丘たちよ、また、取(取著)とはなんであろうか。
比丘たちよ、それには四つの取著がある。欲にたいする取著、見(所見)に
たいする取著、戒(戒禁)にたいする取著、我にたいする取著がそれえある。
比丘たちよ、これを取というのである。
 比丘たちよ、では、愛(渇愛)とはなんであろうか。比丘たちよ、
それには六つの渇愛がある。物にたいする渇愛、声にたいする渇愛、香に
たいする渇愛、味にたいする渇愛、感触にたいする渇愛、法にたいする渇愛が
それである。比丘たちよ、それを愛というのである。
 比丘たちよ、では、受(感覚)とは、なんであろうか。それには六つの感覚が
ある。眼の接触によりて生ずる感覚、耳の接触によりて生ずる感覚、鼻の接触に
よりて生ずる感覚、舌の接触によりて生ずる感覚、身の接触によりて生ずる感覚、
ならびに意の接触によりて生ずる感覚がそれである。比丘たちよ、これを受とい
うのである。

133 ::2008/09/25(木) 18:44:05
 比丘たちよ、では、触(接触)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには六
つの接触がある。すなわち、眼による接触、耳による接触、鼻による接触、舌に
よる接触、身による接触、および意による接触がそれである。比丘たちよ、これ
を触というのである。
 比丘たちよ、では、六処(六根六境によってなる認識)とはなんであろうか。
眼の認識と、耳の認識と、鼻の認識と、舌の認識と、身の認識と、意の認識とで
ある。比丘たちよ、これを六処というのである。
 比丘たちよ、では、名色(五蘊)とはなんであろうか。受(感覚)と想(表象)
と思(思惟)と触(接触)と作意(意思)と、これを名というのである。また、
四大種(地・水・火・風)およびそれによって成れるもの、これを色というので
ある。つまり、そのような名とそのような色とを、名色というのである。
 比丘たちよ、では、識(識別する作用)とはなんであろうか。比丘たちよ、そ
れには六つの識がある。すなわち、眼識と耳識と鼻識と舌識と身識と意識とがそ
れである。比丘たちよ、これを識というのである。
 比丘たちよ、では、行(意思のうごき)とはなんであろうか。比丘たちよ、
それには三つの行がある。すなわち、身における行と、口における行と、
心における行とがそれである。比丘たちよ、これを行というのである。
 比丘たちよ、では、無明(無智)とはなんであろうか。
比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての
無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。比丘たちよ、これを無
明というのである。
 比丘たちよ、かくのごとくにして、無明によりて行がある。行によりて識があ
る。……これがこのすべての苦の集積のよりてなるところである。また、無明を
あますところなく滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は
滅する。……これがこのすべての苦の集積のよりて滅するところである」


134 ::2008/09/25(木) 20:27:11
あと、別にお笑いをとるというわけではないのですが、
実家がビンボーであったので、いつもビンボー、ビンボーと
言っていたら、いまでもビンボーで普通の人です。
今後もビンボーであるかはわかりませんw

個人的に思うのは、強い国より、正しい国づくりがいいと思います。
難しいかもしれないですけどね。
とりあえず、霊的に政治家の方が怖がっている方がいるようなので、
そこのところは、以前に書いているように大した事はないので、
気にしないようにしてください。
1の私は一般の方や政治家の方などに霊的に悪い事はしてないです。
私が登場してからの変化を考えていただければわかると思います。
普通の感じになってきているはずですが。

真面目な話で、霊的に日本国が正しい方向へ行くように、
そのような方法をさがして実行したほうが良いと思います。
日本国だけでなく、世界各国も同じようなもののようですが。
ちなみに、伊勢神宮の結界は、微妙でした。(我が家には天照皇大神宮の御神札を祀ってます)
現在新しい神殿を造営している最中のようで、その影響もあったのかも知れませんが
電話をしたら、相手の方に、私の霊能力を狙っている霊(以前説明しました)がくっツいていたようなので。
誰かにくっツいてもすぐに取れるので大した事はありませんが。

霊的に正しい方へ向かうにあたって、
以前に説明しました、他人の霊能力を狙うような人は正しい方向に進んではいないです。
今後の日本などに、悪い影響がでないように。


135天之御名無主:2008/09/27(土) 21:07:23
現在の日本の仏教は、原始仏教と1万光年も離れている。だからこそ、人類を救うものがあると思う。本じゃなくて足で探せば。

136 ::2008/09/28(日) 22:53:11
1です。伊勢神宮の結界に関して、結界に関して若干表現が良くない感じで、   
不安を与えてしまった感があったかもしれません すいません。         
  神職の方(日本神道に限らず)等も、仏陀の説く教えによる善悪の分別をする智慧があると、益するところが大きいです。 
 仏陀の教え理法を知らなければ、善神、悪神、天使、悪魔の分別も難しいでしょう。理法を学んでいる仏陀の弟子から見れば、日本神道の、神社によって教義が様々なところ等、そのように、なぜ迷っているのか、というのも、理解ができる。
その様々な教義の中からどれを受けるか、どのように捉えるかによっても大きく異なる。
 真理に迷っているということは、善神、悪神、天使、悪魔の分別もできない、または、難しい。なぜならば、悪魔がその迷っている人を真理に反するように操っても、その人は、自らでその分別ができないのだから。真理について不明であるがゆえに。   H28.1.18〕

私の実家は私が生まれたときから、天照皇大神宮の御神札を祀ってますので、
天照大神様の御力は確かなものであると思っております。           〔←感謝の気持ちです。〕 

たったの数日書込みしないだけで、いろいろなウワサが起きてしまう様で
(暴力的な事柄に巻き込まれたのではないか?など)
 暴力的な事柄に巻き込まれているとしたならば すでに書込みもできないでしょうが
このように普段と変わりなく書込みをしております。

マスコミなどを用いて(心理的に操られているのに気付いてないひとがまだおります)
政財界(海外の方も)やマスコミなどで上に立たれている方もそろそろ気付くとは思いますが。
(ペタペタくっ憑いていて)あ~だ、こ~だ、と暴力的な事柄を言わせて
芸能人やマスコミ、政財界の人を心理的な動揺をさせるべきではない。
それ以前に、霊的に正しい人であるならば 暴力的な事柄の発言はまずしない(させない)と思いますが。

私の家族はみんな元気で以前より体調も良いです!私の友人も普通に元気です!
不幸な感じの人は特にいないです!                 
これからも私の周囲に不幸になるような人はいないと思います。        〔←自己は、各自己の行い如何に依る 〕

私には関係ない事柄ですが、
逆に、霊を操って悪い事柄をしているのであれば
その人の周囲の人やその人に関わっている人は良い方向へ行くとは思えません。
そのような話に乗っかる人(政治家等も)も。これも普通の考え方であると思いますが。

また、S・T等は日本を霊的に正しい方へ導くに当たって必要ないと思います。
こちらは迷惑をしております。
小学生や中学生のケンカのような事をしている人に、
(   当然の事柄なので削除します。   )
日本の祭祀に関わってほしくないと思ってます。
まず、S・TはS・Nに操られていたという時点で、そのような能力に欠けていると思います。
また、本人によると多重人格的なところがあるということは、
霊的に弱いというのが明らかであると思います。自分をきちんとできていない人にどうして他人を救えるのか。

137 ::2008/09/28(日) 22:53:50
私も未熟なので色々、一般の事から霊的な事まで勉強中ですがそのような症状はないです。
以前障りが若干強かった時はさすがに頭がボヤッとしてましたが現在はとてもスッキリしております。
一般の方にも神霊の存在をわかってもらえる時であるとおもっているのに、
神霊を小学生や中学生のケンカのような事柄に巻き込まれるのは不愉快です。
私も もう無駄に怒りたくないと思っております。

霊的な事柄に関しては、こちらとしてはもう彼女らに関係したくないです。
とても迷惑をしております。これまでの放送などを見直せば、
どちらに矛盾が生じているかみなさんはすでにわかっていると思いますが。
暴力的な事柄も全然受けてないです。死にそうになるような体験(霊的な)ももうないです。
会社の人も私の周りの人はなぜか霊的な能力が付いてしまうようですが、    
〔← 人により、霊的な感覚に気づけるようになることもある。仏陀の教えを修学すれば、清浄な力は身につく。  H28.1.18〕
それ以外は普通の人で、私も普通に仕事をしております。
現在は言霊のおかげというか影響で、仕事中はほとんど言葉を発する事をしておりません。
会社の人にも有る程度 心で話をすれば通じるので、そこのところは助かってます。
(変なのがくっツかなるまでの辛抱であると思ってます。)

書込みがないとまた、ウワサが立ってしまうようなので書込みはして行きたいと思います。
一的な事柄ではない方向のつもりですが。一般的な事柄も書き込んだほうが良いのでしょうか?

内容を伝えないとさすがにみなさんも理解ができないようなので、
ぼちぼち説明をして行こうと思ってます。こちらは時間がものすごくあるのでゆっくりとですが。
相手の方が時間がないようなので焦っているようですが。
逆に相手が何をしたいのかこちらとしてはわかりません。
私にどうしても絡んできたいようですが こちらとしては迷惑です。

どうしたいのかハッキリすればどうなのでしょうか?
正しい方に進むのか? 正しい方に進むのに金属音は必要ない。
正しい方に進むのに物質的に暴力的な事柄も必要ない。

138天之御名無主:2008/09/29(月) 02:52:11
まあ、最も成功した詐欺だな…宗教は。

139( ・○・) :2008/09/29(月) 11:31:42
 
世界史@2ch掲示板  【約束の】イスラエルの歴史【地へと】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1156647886/535-
535
ttp://www.asahi.com/international/update/0531/TKY200805310046.html  ← ※( 朝日の記事リンク切れ。)
イスラエルで「建国根拠なし」本、ベストセラーに  2008年05月31日11時12分

建国から今月60年を迎えたイスラエルで、建国の原動力である「シオニズム運動」の根拠を否定する著書が ベストセラーとなっている。題名は「ユダヤ人はいつ、どうやって発明されたか」。

シオニズム運動は、古代に世界各地へ離散したユダヤ人の子孫が「祖先の地」に帰還するというもの。
著者はユダヤ人でテルアビブ大学のシュロモ・サンド教授(61)=歴史学。
3月にヘブライ語で出版され、アラビア語やロシア語、英語に訳される予定だ。

著書では、今のユダヤ人の祖先は別の地域でユダヤ教に改宗した人々であり、
古代ユダヤ人の子孫は実はパレスチナ人だ――との説が記されている。

サンド教授は「ユダヤ人は民族や人種ではなく、宗教だけが共通点」と指摘。
第2次世界大戦中に約600万のユダヤ人を虐殺したナチス・ドイツが、ユダヤ人は民族や人種との誤解を広めたとする。

そのため、イスラエル政府が標榜(ひょうぼう)する「ユダヤ人国家」には根拠がないと批判。
「パレスチナ人を含むすべての市民に平等な権利を与える民主国家を目指すべきだ」というのが著者の最大の主張だ。

シオニズム運動は欧州で迫害されたユダヤ人たちが19世紀末に起こし、「ユダヤ人国家の再建」を目指した。
運動の根拠になったのは、ユダヤ人が紀元後2世紀までにローマ帝国に征服され、追放されたという「通説」だった。


140 ::2008/09/29(月) 23:47:03
くっツく霊についての追加情報です。
霊がくっツくと、胸、や背中がジワーっとした感じになったり、お腹が多少痛くなったするのですぐにわかると思います。
胸にくっツくと多少息苦しい感じになります。背中にくっツくと日焼けのすごく軽いような感じになります。
お腹にくるとトイレに行きたい感じになります。ず~っとくっツいているということがないので、離れればすぐに治ります。
あと、音を立てるとその音に霊自身の言葉をあえて入れてきて何かを伝えてくる感じです。
くっツいていても、大した問題はないというのはみなさんももうおわかりだと思います。
私がそういう事をしているのではないかという疑問がでていなくもないようですが
こういう事を詳細に説明している事で 私ではないという事が理解できると思います。

彼女らは単体でしか、物事を動かすことしかでいないようです。
私にペタペタとくっツいて、私の大勢を動かす能力を使用されていました。
私の能力は私もまだハッキリと解明できてないです。勉強中です。
あと、身体にかゆみを起こさせて、頭の髪の毛をかかせたり指を動かしたりです。
くっツいた時に手を上げたりすれば、周囲の人がその状況を理解できるので良いと思います。
また細かい情報がありましたら、お知らせします。

宗教は詐欺かどうかはわかりませんが、新興宗教は詐欺まがいのがあるようなので
気をつけたほうが良いと思います。別に私が言う事ではないんですが。
私は特に宗教には入ってないです。仏教系の新興宗教等に入っている方は118、119を読めば、
他人を崇拝してしまっていることについて、仏陀が「他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、
他のものをよりどころせず」という文章より 他人を崇拝せずに 自分をよりどころして自分をきちんとしないさいって
言っているのがよくわかると思います。教えとして正しければ別にどれでも良いとは思います。正しい事柄であるならば。

141 ::2008/09/29(月) 23:48:06
ターナヤ
一 そのとき、以前には異教徒であった<神の子>ターヤナは、夜が更けてから、容色うるわしく、
ジェータ林を普く照らして、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに立った。
 傍らに立った<神の子>ターヤナは、尊師のもとで次の詩をとなえた。 ──
二 「勇敢に流れを断て。諸々の欲望を去れ。バラモンよ。諸々の欲望を捨てな
ければ、聖者は(瞑想における)合一に達することができない。
  〔智慧ある人々は、なすべきことを〕いつもなしつつ、それをなせ。
それを断乎として実行せよ。
 行いのだらけた出家修行者は、多く塵を受ける。
 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。
悪いことをすれば、後に悔いる。
 善いことは、するほうがよい。なして、後に悔いがない。
 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行者の行も、
誤って行うと、地獄にひきずりおろす。
 なにをしようとも、その行いがだらしなく、どんな誓いを立てても、
汚れていて、清らかな行いなるものも怪しげであるならば、
大きな果報はやってこない。」
三 神の子ターヤナは、このように、言った。このように言ったあとで、
尊師に敬礼し、右まわりの礼をしたあとで、その場で消え失せた。
四 そこで、尊師は、その夜が過ぎてから、諸々の修行者に告げられた。
五 「修行者たちよ。以前には異教の徒であった<神の子>ターヤナなる者は、
夜が更けてから、容色うるわしく、ジェータ林を普く照らして、わたしのもとに
近づいた。近づいてから、わたしに挨拶して、傍らに立った。

142 ::2008/09/29(月) 23:49:54
六 傍らに立った<神の子>ターヤナは、わたしのもとで次の詩をとなえた。
 『勇敢に流れを断て。諸々の欲望を去れ。バラモンよ。諸々の欲望を捨てなけ
れば、聖者は(瞑想における)合一に達することができない。
  もしも〔なすべきことを〕なすのであれば、これを実行せよ。
断乎として実行せよ。
 行いのだらけた出家修行者は、多く塵を受ける。悪いことをするよりは、
何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後に苦しむ。
  善いことは、するほうがよい。なして、後に悔いがない。
  茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行者の行も、
誤って行うと、地獄にひきずりおろす。
  なにをしようとも、その行いがだらしなく、どんな誓いを立てても、汚れて
いて、清らかな行いなるものも怪しげであるならば、大きな果報はやってこない。
七 修行者たちよ。<神の子>ターヤナは、このように言った。このように言っ
たあとで、わたしに敬礼して、右まわりの礼をして、その場で姿を消した。
「修行者たちよ。ターヤナの詩を暗記せよ。ターヤナの詩を身につけよ。
ターヤナの詩は、意義深いものであり、最初の清らかな行いに導くものである」と。

143 ::2008/10/02(木) 12:09:19
1です。久しぶりに全文読み返しましたら訂正箇所がありましたので、
訂正と説明をしておきます。

>>30  の件で「自分をもちなさい!」 っていうのは、私が以前、Nにメールだ
ったか、電話で話をした時だったかに、言われた事がありますが、mixi内でも、
他の人に全く同じ事を言われたので印象に残っていただけなので書込みました。
Nと私の関係ですが、たしかH16か17年?多分17年の2月頃だと思います
が、mixi内で知り合い、後に弟子の件を聞いたら、
弟子をとっていないという事で、弟子ではないけども受講料的なものを払えば何
かしらを教えてくれるという話を聞きました、が、一度も会ったことがないです
(私の住所は相手の住所から かなり距離があります)。もちろん弟子になっても
ないです。
Tとは平16か平17年の11月頃に知り合いました。 T(女性)の母が病気
(重い病が複数)で霊障が治れば治るというような話で それを治すために霊的
な師匠を見つけたけれども その師匠と恋愛感情になってしまい話がこじれて、
逆にその師匠というのに呪詛をされそうだという事で、
誰でもいいから人を探してほしいという事で、(この時は、私自身にも霊能力が
あるということには気付いてなかったです。)mixi内にいたNを紹介しました
(こっちに来てペラペラ話していた霊は、Nは実際に霊能力は大した事ないと言
ってました。彼らは動物や音を立てて人を怖がらせるだけの能力はあります。九
尾の話も嘘であるという事です。他の彼女らの能力に関しては、以前の>>12
3の文をよく読んで下さい。全く知らない方から見ると珍しい能力に思うところ
があるかもしれませんが。気にしなくて良いです。人が普通に生活するにあたっ
て必要のない能力です。)
その後、Tは彼らと仲良くなったようです。彼女の呪詛の話と、

144 ::2008/10/02(木) 12:11:55
彼女の母親が重病であるという話も本当かどうかはわかりません。
彼女は霊媒体質で、どこかに行けばそこら中にウロウロしている霊が中に入って
くるという事で体質的に弱いのは、電話で聞いており、彼女の中に3人(匹?)
違うのがいるのも知っておりました(彼女とも実際に会った事はなく。電話での
やりとりは2カ月位でした)が、あれほどワケのわからない霊が入っていたとは
さすがに知りませんでした。(祭祀ができるはずはないという理由はこの事柄も
含まれています。)
(そういう人物を操っていたという人Nと、Iも当然、祭祀に向かないと思いま
す。正しい神霊は他人を操って悪い事をするような人のところには来ないと思い
ます。変な霊が来るくらいなら何もしない方が良い。Tの所から来る霊は典型的
な邪霊です。)
彼女自身、違う人格の3人(匹?)と意識は繋がっているという話であったので、
ほぼ確信犯であると思いますが。
その後、Nのサイトでブレスを購入しましたら、私の体質に合わず、体調が悪化
したので(このときは障りに関して無知でしたので)、そのまま神社に収めたの
ですが、後になってから、そのブレスには神仏の念がコモっていた、という事で
何故かIが怒っており、その怒り方に違和感を感じたので、その件が済んだ後、
少ししてから連絡をとらないようになりました。(もちろん金額もきちんと支払
って購入しました。)
私は購入時にそのブレスにはどのような感じの物で、何か入っているのですか?
という感じで聞いたにもかかわらず、神社に収めたあとから神仏の念がコモって
いるから、どうこうという話で怒っていても困りますので。
神社に収めてはいけないという感じの話をしていたので違和感を感じました。
別に善霊であれば、神社に収めても問題はないと思いますが。
正しい神霊は邪な心の人が念をこめて何かを作成してもその物自体にやどった

145 ::2008/10/02(木) 12:12:38
りはする事はないと思います。邪な念があれば、邪な念しかやどらないと思いま
す。
それからしばらくして、2CHにこのスレを作って書き込みをしたところ、
なぜか?騒ぎになって彼ら(彼女ら)もそれに絡んでいたようなので、
連絡をとる事になってしまいましたが、以前、頭がボヤーとしていた頃、私の周
囲の状況が一変したので、とりあえず彼らが電話で言っていた事をある程度その
通りにおこなったら、私自信も実際に大変な事になりましたので、その後はほと
んど無視しており、かまわないようにしていたのですがしつこくペタペタという
感じです。今後はもう連絡を取ろうとは思っていません。
現在はすごく体調も良く絶好調に近い状態になりつつあり、彼女らが私に対して
行う感情を左右させる能力も もうそれほどに効くこともないです。
あちらは霊的に私にちょこちょこと攻撃をしてきていたのですが、私はそういう
(霊的な)悪事を止めさせようとしていました。が、これ以上私に絡んでも、彼
女ら(彼ら)の変な欲(私の考えた事を自分らの考えであると他の人に伝えたり
する事)が増すだけであるので、もうかまわない方向に行こうと思ってます。
どちらにしてももう離れる方向にいってますが。
他の人が彼女らをチヤホヤするれば、彼女らもあきらめる事ができないだろうか
らかまわない方がよいと思います。
>>125の早い話は彼女らの本体を潰せば終わると思いますというのは、
ある程度、反省をさせれば、あきらめると思っていたのですが、反省をする気が
特にないようなので、彼らの悪行について現実的に悪い行いをしているというの
を世間のみなさんが現実的に教えてあげれば良いと思います。
現実の方でそれを理解させれば、霊的な悪行も早めに治まると思います。ちなみに、現実的にも霊的にも世間に迷惑をかけたのは私ではなく彼女らです。
間違いなく!

146 ::2008/10/02(木) 12:13:10
私の霊能力は消えるかどうかはわかりません。消えるという見込みは特にないで
すけども。私は当然 悪い事をするつもりはないです。彼らの他にも悪い輩が現
われれば、また同じような事になりかねないとも言えないですが。彼らが他の悪
い輩を私に近づけないようにするとか言う詭弁は必要ないです。かなり迷惑で、
それなら、他の輩の方がまだマシです。
あと、このスレを作って、私は別に宗教を批判しようとしたわけではないです。
今後も書込みはするので、批判ではないという事がわかると思います。
仏陀の説く仏教は、他の宗教と争いをするという事がない教えです。
宗教だけではなく、何事に対しても争うという事がない教えです。
(私は普通の生活をしており、当然、未熟者なので、悪い事などをされるとすぐ
に怒ってしまいますが‥。あと、これも当然の事ですが、貧乏で金銭をもたない
のが良いと言っているわけではないです。金銭をもたない方が良いというのは本
当の出家した人のための教えです。私もこれからのんびりと努力していくつもり
です。)
後ほど、その争いをする事がない教えの部分を書込みます。


147天之御名無主:2008/10/02(木) 21:29:06
愛の賛歌(コリントの信徒への手紙1 12章31~13章13節)

そこで、あなたがたに極めつきの道を示しましょう。

私が異言や天使の言葉を語ったとしても、愛がなければチャラチャラしたコインの音、がなり立てるシンバル。
私に預言する力が与えられ、全ての知識と秘義に通じ、もし山を動かすほどの信仰を持っていても、愛がなければ無意味です。
もし私の持っている全てを分け与え、この体を捧げたとしても、愛がなければ何になりましょう。

愛は我慢強くて優しい。ねたまず、うぬぼれず、誇りません。
だらしなくせず、利益を求めず、いらだたず、恨みません。
不正を喜ばず、真実を喜びます。
どんなことにも耐え、あらゆることを信じ、すべてに望みを抱き、すべてを我慢します。
愛は不滅です。でも、預言は絶え、異言は終わり、知識は廃れます。
それは私たちの知識が一部分にすぎず、預言も部分にすぎないのだから。

完全に成熟したものが現れるときには、未熟なものは放棄されます。
私たちは幼いときの話し方、感じ方、考え方は大人になるときに棄てています。
今は銅製の鏡でおぼろげに見ています。でもやがて顔と顔を見合わすようにくっきり見るでしょう。
私は一部分しか分かりませんが、その時には私が知られているのと同様にはっきり知ることが出来るでしょう。

さて、信仰と、希望と、愛の3つはいつまでも残り、その中で最上のものは愛です。


148 ::2008/10/04(土) 00:45:16
信仰は人それぞれ、その人自身に安らぎがもたらされれば良いと思います。
世界中の人々がみんなで一緒に安らぎを得ようと思うのであれば、
他にも正しい心を持った神々が世界中にはたくさんいらっしゃると思うので、
他の神々も一緒に仲良くなるように認めればケンカをする事もなくなりますよね。
「他の神様も正しい心を持って、人々を助けようとしているんだな。それならそれで良い!」というような感じで、あっさり認めれば宗教間での争いもほとんどなくなると思うのですが。
宗教間同士で争ってる時点で、すでにそこには安らぎがないとは思います。←これも一つ
の愛のある文章であると思って頂ければ、うまくまとまるような気がしなくもないのですが。
そういうところでは、日本人は他の宗教の神様でも、悪い事しなければ別に良いという
感じなところがすごいと思います。

個人的に思うのですが、キリスト教やイスラム教などの唯一神と仏教が違うところは
>>118>>119 を読んでいただければわかると思いますが、
アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をた
よりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるので
ある。アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らを
たよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころ
としないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるで
あろう、 ── 誰でも学ぼうと望む人々は」
というように、最終的な終着地点(ゴール)に行きつくのに、自力(仏法)で行くか神の力で
行くかであると思います。しかし、途中まではみんな自力(自己の心を清浄にする)で行か
なければならないだろうし、そこから、自力(仏法)で行くか神様に引っ張って行ってもらう
かを選べばよいと思います。
ちなみに私は 神棚がありますけども、仏(法)の道の方が好きです。 〔 ← 日本の神道の教えでいうならば、上記に記しているように仮に引っ張ってもらうという表現の方になりますが、(私の表現で)正道の話で、日本の神道とすると、こちらも引っ張ってもらうという表現にはなりえますが、こちらの正道でいうところは鏡です。鏡そのものではなく、自己(非我)ということです。そして、(仏陀の教えとは
そもそもの究極的に言うならば、好きとかそういう話ではないです。〕

〔『道によって心を統一した釈迦牟尼が得られた、煩悩の滅尽、離貪、不死、最勝の(涅槃の)法に等しいものは何もない。このすぐれた宝は、理法のうちに存する。この真理(の言葉)によって幸せであれ。』スッタニパータより  H28.1.18)〕
〔”神に引っ張ってもらうという”表現について、
譬えば、引っ張るという意味で、悪魔に引っ張られる、と表現したとすると、悪しき者・悪魔に引っ張られたら、悪処・悪趣・地獄へ堕ちる、
その逆に、善神に引っ張られる、と表現したとすると、善神に引っ張られたなら、善処・善趣・天へと出生するだろう。

『途中まではみんな自力(自己の心を清浄にする)で行かなければならないだろうし、
そこから、自力(仏法)で行くか、神様に引っ張って行ってもらうかを選べばよいと思います。 』

 譬えば、邪見によりて、正見は得られない。このように、邪心・穢れた心を捨てて、行かなければ、正道を更に進んで行けないように、
善神は、邪見によりて、邪思あり、邪語・邪業・邪命・邪精進・邪念・邪定・邪智・邪解脱というように、邪行により悪業を積んでいる者を、善として見ることはないだろう。
聖典で言えば、そのような愚かな者を裁くだろう。

というように、通常見向きもしないだろうが、

 その者が、正見を持ち、正見によりて、正思をもち、正語・正業・正命・正精進・正念・正定、というように、善行者としてあるのであれば、
その人が望めば、その人に手を差し伸べることもあるだろう。

というように、その人が自己の心を清浄にしなければ、善神に見向きもされないだろう、という意味において。日記H28.3.30より


どの宗教も基本は正しい行いをするという事を説いているのであれば、

149 ::2008/10/04(土) 00:46:32
宗教間での争いさえなければ、どの宗教の人も安らいだ生活ができると思うのですが。

>>147  どんなことにも耐え、あらゆることを信じ、すべてに望みを抱き、すべてを我慢しま
す。
という文章で、宗教間で他の神様も認めるだけで、普通にみんな仲良くできると思うんで
すけども。

仏教では戦争が正しくないというのは、そこに苦しみがあるからです。
因果応報で考えると、他の人に苦しみを与えた行い(悪業)は、いずれはその人に返って
きますので、結局そこには苦しみがあります。だから戦争は正しい行いではないです。
私も悪い事をすれば、悪い事が自分に返ってくると思い、極力、悪い事はしないようにして、善い行いをするように心がけています。
が、普段の日常で大なり小なり失敗した事はそれなりにあります‥。
その度に反省です‥。(霊的な事柄でなく、普段の一般的な事です)

因について
セーラー(世羅)
かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータピンディカ
(給孤独)の園にましました。
 その時、セーラー(世羅)比丘尼は、朝はやく、衣をつけ、鉢を持して、托鉢のためにサ
ーヴァッティーの町に入った。そして、サーヴァッティーに托鉢し、食事をおえると、鉢を片
付けて、独り静かに坐して思索するために、とある樹下に到り、日中の休息に入った。
 その時、あしきもの魔羅は、セーラー比丘尼に、毛髪そそり立つ恐怖を起さしめ、独坐の
静観より去らしめようと、かの比丘尼のもとに到って、偈をもって語りかけた。

150 ::2008/10/04(土) 00:47:32
「この身を作れるは誰ぞ この身の作者はいずこぞや 
いずこよりこの身は生じ いずこへかこの身は滅する」
その時、セーラー比丘尼は思った。「この偈を唱えたのは、いったい、人間か、それとも、
人間ならぬものか」と。だが、彼女は、また思った。「ああ、これは、あしきもの魔羅が、わた
しに毛髪そそり立つ恐怖を起さしめ、独坐の静観より去らしめようと思って、このような偈を
唱えたのである」と。
 かくて、セーラー比丘尼は、これはあしきもの魔羅であると知って、偈を持ってあしきもの魔羅に答えた。
「この身はみずから作りしものならず この身は他者の作りしものならず
因あるものによりて生じたるなり 因なきによりて滅するなり」
たとえば、一粒の種子ありて そが田にまかれたる時 地味と曖昧の二つにより やがて萌
えいずるがごとしかくのごとく、四大・五蘊・ならびに六処のこの身もまた 因あるによりて生
ずるなり 因滅してまた滅するなり」
 その時、あしきもの魔羅は、「ああ、セーラー比丘尼は、わたしを知っているのだ」と、
苦しみ萎れて、そこにその姿を没した。
                           相応部経典、五、九、世羅

151 ::2008/10/06(月) 00:01:04
戦いについての話がでたので書込みます。
 
戦いについて(1)
 かように私は聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナー
タピンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、マガダ国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、四軍をそ
なえて、コーサラ国のパセーナディ王に対し、カーシ国に攻め入った。
 その事を聞いて、コーサラ国のパセーナディ王も、また四軍をそなえて、マガ
ダ国のヴェーデーヒーの子アジャータサッツ王を、カーシ国において迎え撃った。
 かくして、マガダ国のアジャータサッツ王と、コーサラ国のパセーナディ王と
戦った。その戦いにおいて、マガダ国のアジャータサッツ王は、コーサラ国のパ
セーナディ王を破った。
コーサラ国のパセーナディ王は、その都城なるサーヴァッティーに逃げ帰った。
 その時、多くの比丘たちは 朝はやく、衣をつけ、鉢をもって、サーヴァッテ
ィーに入った。彼らは、サーヴァッティーに托鉢し、食をおえて、鉢を置くと、
世尊のいますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐した彼ら比丘たちは、世尊に申しあげた。
 「世尊よ、マガダ国のアジャータサッツ王と、コーサラ国のパセーナディ王と
が戦いました。その戦いにおいて、マガダ国のアジャータサッツ王は、コーサラ
国のパセーナディ王を破りました。コーサラ国のパセーナディ王は、その都城な
るサーヴァッティーに逃げ帰りました。

『比丘たちよ、マガダの国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、
悪しき友、悪しき仲間、悪しき取巻きをもつ。比丘たちよ、コーサラ国のパセ

152 ::2008/10/06(月) 00:02:01
ーナディ王は、善き友、善き仲間、善き取巻きをもつ。だが、比丘たちよ、
コーサラ国のパセーナディ王は、今夜は、敗者として、苦しく眠るであろう』
そして、世尊は、このように仰せられた。
『勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、
安らぎに帰した人は、安らかに臥す。』

戦いについて(2)
 かように私は聞いた。
ある時、世尊は、サヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータ
ピンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、マガダ国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王は、四軍をそ
なえて、コーサラ国のパセーナディ王に対し、カーシ国に攻め入った。
 そこで、コーサラ国のパセーナディ王もまた、四軍をひきいて、マガダ国のア
ジャータサッツ王をカーシ国において迎え撃った。
 かくして、マガダ国のアジャータサッツ王と、コーサラ国のパセーナディ王と
は戦った。その戦いにおいて、コーサラ国のパセーナディ王は、マガダ国のアジ
ャータサッツ王を破って、彼を生捕りにした。
その時、コーサラ国のパセーナディ王はかように考えた。<このマガダ国のア
ジャータサッツ王は、たとえ、なんの害も加えない私に害を加えようとするも
のであるとはいえ、やっぱり彼は私にとっては甥である。私は、むしろ、彼か
ら彼のすべての象軍・馬軍・歩軍のすべてを奪い去って、そのうえで彼を放つ
こととしよう>と。
かくて、コーサラ国のパセーナディ王は、マガダ国のアジャータサッツ王から、
その象軍・馬軍・歩軍のすべてを奪い去って、彼を放った。
その時、多くの比丘たちは、朝はやく、衣をつけ、鉢をもって、サーヴァッテ

153 ::2008/10/06(月) 00:02:38
ィーに入った。彼らは、サーヴァッティーに托鉢し、食をおえて、鉢を置くと、
世尊のいますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。
 傍らに坐した彼ら比丘たちは、世尊に申しあげた。
 「世尊よ、マガダ国のアジャータサッツ王は、四軍をひきいて、コーサラ国の
パセーナディ王に対し、カーシ国に攻め入りました。コーサラ国のパセーナディ
王は、それを聞いて、王もまた四軍をひきいて、これを迎え撃ちました。そして、
その戦いにおいて、コーサラ国のパセーナディ王は、マガダ国のアジャータサッ
ツ王を破り、彼を生捕りにしました。世尊よ、そこでコーサラ国のパセーナディ
王は、かように考えました。<このマガダ国のアジャータサッツ王は、たとえ、
なんの害も加えない私に害を加えようとするものであるとはいえ、やっぱり彼は
私にとっては甥である。
 私は、むしろ、彼からかれのすべての象軍・馬軍・車軍・歩軍を奪い去って、
そのうえで彼を放つことにしよう>と。世尊よ、かくてコーサラ国のパセーナデ
ィ王は、マガダ国のヴェーデーヒーの子なるアジャータサッツ王から、その四軍
のすべてを奪い去って、彼を釈放いたしました」

 その時、世尊は、そのことの意味を知って、次のような偈を誦したもうた。
『おのれに利のあるかぎり人は他を掠めてやまず 次いで、他の人々がかれから
掠め取るときに、他人から掠め取った人が、掠め取られるのである。
悪の報いが実らない間は、愚者はそれを当然のことだと考える。
 しかし、悪の報いの実ったときに、愚者は苦悩を受ける。
殺す者は殺され、怨む者は怨みをかう。また罵りわめくものは他の人から罵ら
れ、怒りたける者は他の人から怒りを受ける。業の〔輪の〕廻転によって、
彼は掠めてはまた掠め取られる。』

154 :2008/10/06(月) 18:32:47
ぷぷ。
「平和がもたらされた暁には、戦争の熟練者たちは有能で正しい人間として、
丁寧な言葉、思いやりある態度、謙虚で打ちとけた、感じのいい客人として振舞い、
出しゃばらず感官を制御して、賢く、人を脅かしたりしない人であらねばならない。
厳しい制裁をもって卑屈な態度で膝まずかせてはならない。
全てのものが幸せと平和に暮らし、強者も弱者も、身分の高いものも低いものも、
遠くに住むものも近くにいるものも、生れたもの、これから生れてくるであろうものも、
全てが平和に暮らせるようでなければならない。
誰も仲間にへつらったり軽蔑したりせず、怒りや憎しみで他人を傷つけようとさせたりしてはならない。
母親が我が子を命がけで庇おうとするように、生けるもの全てを我が子と思う心を抱き、全世界への愛、
内に憎しみをもたぬ汚れなき、敵意を起こさせない愛を抱かしめよ。
このように、汝らは立つ時も歩く時も、坐ったり横になったりする時も常に全力をもってこのことを考えよ。
〝これが清らかな状態である〟」



155 ::2008/10/06(月) 22:42:27
1です。噂的な事で関係がまだはっきりと理解できていない感じを受けたので、
はっきりさせておこうと思います。
1、の私 ヒロシ・T(男)はS・T(女)と一度もあったことがありません。
当然の事ですが、彼女に対して恋愛感情なんてものは100%全くありません。100%ありえまん。
友人でもないです。周囲が一変してからの彼女の後の電話での対応はとても酷いものでした。
あと、T(女)は初期の頃の最後の電話で自ら、自分の中にはア
_マが
いると自ら言ってました。(←「ここに書き込んだからそうなった」とかいつもどおりのセリフが
聞こえてきそうなのであえて
_にしておきました。)
本体(本人)の方にもはっきり(私の気持ちを)知らせておかないとしつこいので、
あと周囲の方にも承知をしていただいた方が確実に良いと思いましたので、あえて。
現在までの彼女の経過を見ていただければ
_の意味も普通にわかると思いますが。
で、現在それでもペタペタしつこくするのは、しつこくしてノイローゼ状態にするのが
目的らしいですがノイローゼにはもうなるわけないです。そろそろ霊能力落ちてるのに気付け。
こっちはしつこくされて迷惑。

あと、動物がどうこうという話があったので、動物の霊がすべて悪いと言っている
わけではないです。中には良い霊もいるとは思っております。(上記の霊は邪霊です)
4回状態が悪化したときの1回は倉稲魂命に助けて頂きました。
倉稲魂命様自体は人間の霊であるとか稲の精霊であるとか言う話がありますが、
実際のところは私にもわかりません。光は紫にたくさんの色が混ざった感じでした。

あと、以前お話した事柄なのですが、国家の機関として霊的な安定をはかる機関を
作った方がよいと思います。きちんとした
審神(以前記した3人にできるわけない)が
できる人も必要であると思います。(個人的な意見です)  
       〔← 大勢の人が仏陀の教えを知って、(善なる存在と悪しき存在、また、善悪の分別)ができればあまり必要でもないと思いますが。〕〔テロの悪魔の業を行なっている妖術者・魔術者を見てきたけれども、日本という国としては、そのような悪しき存在に導かれて、悪魔の業を行なっている者が、中枢に関与しているので、霊的な安定は、ほとんどなっていない。理法も、霊的な知識にも暗い人が多い。仏陀の教えを知らない人は特に、悪魔の業を行なっている者に引っ張られないように、注意するのが善い。   H28.1.18〕
                              

156 ::2008/10/09(木) 00:15:11
1です。愛というのものについて、話がでたので書込みます。
仏教では愛というものを前面に出した教えは、多分、少ないのではないでしょう
か。愛について(仏教でいう愛とはたいてい渇愛の方の意味の愛ですが、下記文
章の愛は、渇愛の愛とは意味が異なります。)の文章ですが、下記の場合の愛は、
どこの宗教でも(善い行いをするという意味で)同じような感じであると思いま
す。
他人に善い事柄をすれば、回りまわって自らに善い事柄として返ってくるし、
悪い事柄も同じく。善業も悪業も長い劫期を経ても消えずに、いずれは自らの
ところにもどってくる。という(仏教でいう道理)見解から見ると理解しやす
いと思います。
そうすると、全ての人が自己を愛する(正しい行いをする)と、他の人をもおの
ずと愛することになります。なぜなら、他人に善い事をすれば、自分にも返って
くるし、悪い事をしても自分に返ってくるので、悪い事をしないようになる。
>>153(悪行をなして)悪の報いが実らない間は、愚者はそれを当然(その業が
返ってくると思ってない)のことだと考える。
しかし、悪の報いの実ったときに、愚者は苦悩を受ける。

仏教でいう業(行い)というものは、(私は)神道の大祓いのようにどこかへ
(持ち去る?)消え去るようなものではないと思います。でも、神道の祓い(邪
霊を祓う)はきちんと効果があります。ちなみに、仏教にも善神霊の話はあり
ます。例えば、欲を滅する道(苦しみを滅する方法)(解脱)を悟ったのが仏
陀で、世界の主(仏典では)の梵天のような神霊にも
(苦しみ)があり、他
にもたくさん道理(真理)を悟ってないで(解脱できずに)輪廻流転を繰り返
している人々がいるので、仏陀に懇請するにいたっている次第です。
>>115他の人々が快いと言うものを聖者たちは苦しみと語る。他の人々が苦しみ

157 ::2008/10/09(木) 00:16:14
と 言うものを聖者たちは安楽と知る。この理解しがたい(欲が苦しみであると
いう)道理に目をすえなさい。 目の利かない者たちはこの点に迷う。

愛する者
かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナー
タピンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、コーサラ国の王のパセーナディは、世尊を訪れ、世尊を礼拝して、
その傍らに坐した。
 傍らに坐したコーサラ国の王パセーナディは、世尊に申し上げた。
 「世尊よ、わたしは独り静かに坐して思索している時、かようなことを考え
ました。<いったい、いかなる者が本当に自己を愛するのであろうか。
また、いかなる者は真に自己を愛してはいないのであろうか。>と。
世尊よ、そして、わたしはかように考えました。
 なにびとであろうと、その身によりて悪行をなし、その口によりて悪語をいだ
し、その意において悪事を思わば、それらの人は真に自己を愛する者ではあるま
い。たとい彼らが<自己はわが愛するところである>といったとしても、彼らは
真に自己を愛する者ではないのである。なんとなれば、彼らは、愛せざるものが
愛せざる者にたいしてなすことを、彼ら自らにたいしてなしているからである。
だから、彼らはけっして自己を愛する者ではないのである。
 また、何人であろうとも、その身によりて善行をなし、その口によりて善語を
かたり、その意において善事を思わば、それらの人は本当に自己を愛する者であ
ろう。たとい彼らが<自己はわが愛するところにあらず>といったとしても、彼
らは本当に自己を愛する者なのである。なんとなれば、彼らは、愛する者が愛す
る者にたいしてなすことを、彼ら自らにたいしてなしているからである。

158 ::2008/10/09(木) 00:18:41
だから、彼らは本当に自己を愛する者なのである」
「大王よ、そのとおりである。大王よ、そのとおりである。なにびとであろうと
も、その身・口・意によって悪業をなすものは、真に自己を愛する者ではない。
なにびとであろうとも、その身・口・意によって善業をなすものは、真に自己を
愛する者である」
その世尊はそのようにいった。そして、かさねて偈を説いていった。
「自らを愛すべき者と知らば 自らを悪に結ぶなかれ
 けだし、悪しき行ないをなす人には安楽は得がたきものなればである
 すでに死魔のとりことなってやがて生命を捨つべき人には
 もはやなにものか彼のものたらん
なにをもちてか彼は行かんとする
 ただ善業と悪業との二つは 人がこの世において作りしもの
 人がこの世において作りしもの それこそは彼自らのものにして
 それをもちて彼は行くのである 影のかたちにそうがごとく
この二つは彼に従うのである
されば、人はただ善業をなして未来のために積むがよろしい
功徳こそは後の世における 人々の渡場であるからである」
                      相応部経典 三、四、愛者

159天之御名無主:2008/10/09(木) 00:32:55
慈悲の事言ってるの?

160 ::2008/10/10(金) 01:09:00
1です。経済の動向が慌しいようですが、地球の温暖化も現在改善中であるようですがどのようになるのでしょうか?

世界に国はたくさんありますが、世界中の全ての人々はたった一つの地球の上に
います。経済も環境も今のうちに基礎からどんな事があっても崩れないような感
じに治していくと、これからの人々も安心。(プラス思考)
今治さないで、将来治るのか?って地球環境はすぐにとりかからないと、そんな
にすぐになおるわけない。さすがに最も大きい事柄なので、世界中で協力しなけ
ればならない。経済も基礎にあるが、地球がもっとも基礎だと思います。
世界各国の神話も地球がなければ語れません。
多少なりともプラスになればと思いましたので書込みます。↓

アル・ゴアさんの不都合な真実より
「ありのままの地球を見ること、つまり永遠の沈黙の中に漂う、その小さく青く
美しい姿を見ることは、自分たち自身、みなこの地球の乗客なのだと知ることだ」

地球温暖化をめぐるありがちな10の誤解
誤解その1
「人間が地球の気候変動を引き起こしているのかどうかに関して、科学者の意見
は一致していない」
実際には、科学的な意見は「人間の活動が地球の気候を変えている」ということ
でしっかり一致している。圧倒的多数の科学者が、「地球はどんどんと暖かくな
っており、この傾向の原因は人間である、温室効果ガスを大気中に排出し続けれ
ば、温暖化はますます害を及ぼすものになる」ことに合意している。

161 ::2008/10/10(金) 01:09:47
誤解その2
「気候に影響を与える可能性のあるものはたくさんある。
 だから、二酸化炭素だけを取り出して心配すべき理由はない」
気候は、太陽の黒点や水蒸気など、二酸化炭素以外にもさまざまなものの影響を
受けやすい。しかしこのことは、私たちが二酸化炭素などの人間の影響による温
室効果ガスに真剣に気をつけなくてはならないことを示しているにすぎない。
「歴史を通じて気候システムはつねに、さまざまな自然の変化に影響を受けやす
いことがわかっている」ことは、危険信号として受け取るべきである。私たちは、
自分たちがもたらしている前例のない大きな変化にしっかりと注意を払わなく
てはならな。私たち人間は、自然のいかなる力よりも大きな力を持つようになっ
ているのだ。

誤解その3
「気候とは、時の経過とともに自然に移り変わるものだ。だから、私たちが今見
ている変化はどれも、自然の周期の一環にすぎない」
確かに気候は自然に変化するものである。年輪や湖の堆積物、氷床コアなど、過
去の気候の変遷がわかる自然の特徴の研究から、科学者は、気候が、急速な変化
を含め、歴史を通じて変化してきたことを知っている。しかし、そのような変化
が起こった際の自然な二酸化炭素濃度の変動はどれも、私たちが現在引き起こし
ているものより小さい。南極の深いところから取り出した氷床コアを調べると、
現在の二酸化炭素濃度は過去65万年間で最高であることがわかる。
つまり、私たちは、自然に生じる気候の変動幅を外れているのだ。大気中の二酸
化炭素が増加すると、気温が上昇する。

誤解その4

162 ::2008/10/10(金) 01:10:22
「オゾン層の穴が地球の温暖化をもたらしているのだ」
気候変動とオゾンホールの間には関係があるが、こういう関係ではない。大気の
上層にあって、高濃度のオゾンガスによって地球を太陽の放射から守ってくれて
いるオゾン層に穴が開いたのは、CFC(クロロフルオロカーボン)と呼ばれる
人口科学物質が原因であり、CFCはモントリオール議定書という国際条約で禁
止された。オゾン層に穴が開くと、地表に届く紫外線が増えるが、地球の気温に
は影響を及ぼさない。
 オゾン層と気候変動の唯一の関連は、この誤解とはほぼ正反対のものだ。温暖
化によってオゾン層に穴が開くわけではないが、温暖化は実際、オゾン層の自然
な修復家庭を遅らせてしまう可能性がある。地球が温暖化すると、大気の下層は
暖かくなるが、成層圏の温度は下がる。そうすると、成層圏のオゾン消失が悪化
する可能性があるのだ。

誤解その5
「温暖化について、自分たちにできることはない。すでに手遅れだ」
これは最悪の誤解である。真実を否定してはならないのと同じように、決して絶
望しないこと。自分たちにできることはたくさんある。ただし、今すぐに始めな
くてはならない。私たちはこれ以上、気候変動の原因と影響を見て見ぬふりをす
ることはできない。政府の取り組み、産業界の革新、個々人の行動を組み合わせ
て、化石燃料の使用量を減らさなくてはならない。自分にできる数十のことが、
194ページ以降に載っている。

誤解その6
「南極の氷床は大きくなりつつある。だから、温暖化のせいで氷河や海氷が溶け
ているというのは、本当のはずがない」

163 ::2008/10/10(金) 01:11:18
南極の氷の中には、大きくなっている部分もあるかもしれない。しかし、南極の
大陸のほかの部分は明らかに溶けており、新しい2006年の研究によると、南
極全体では氷が縮小している。たとえ南極の氷の一部が縮小せず大きくなってい
たとしても、だからといって、温暖化の影響で世界中の氷河や海氷が溶けている
という事実には変わりはない。地球全体では、氷河の85%以上が縮小している。
そして、いずれにしても、気候変動の局地的な影響は、科学者が観測している地
球規模の趨勢を相殺することはできない。
 マイケル・クライトンの小説『恐怖の存在』のように、グリーンランドの氷は
大きくなっているという間違った主張をする人もいる。実際には、NASAから
の最近の衛星データによると、グリーンランドの氷冠は毎年縮小しており、海水
面の上昇を引き起こしている。1996年から2005年の間に、溶けて消えた
氷は2倍に増えている。2005年だけでも50立方キロメートルの氷が失われ
た。

誤解その7
「地球温暖化はよいことだ。なぜなら、寒さの厳しい冬がなくなるし、植物の生
長も早くなるから」
この誤った思い込みは、なくなりそうにない。局地的な影響はいろいろなので、
確かに、冬の天気が今よりも快適になる地域もあるかもしれない。しかし、その
ように局地的なよいことがあったとしても、気候変動のマイナスの影響は、それ
よりずっと大きい。たとえば、海を例にとろう。温暖化が引き起こす海への変化
は、すでに大量のサンゴ礁の死滅を招いている。サンゴ礁は、人間にまでつなが
る海の食物連鎖のあらゆる段階で、生物にエサとすみかを提供してくれる重要な
場所である。氷床が溶けていることから、海水面が上昇している。もし大きな氷
床が海の中に溶けてしまうと、世界中の沿岸地帯の都市は水に沈み、何百万もの

164 ::2008/10/10(金) 01:15:48
人々が非難民となるだろう。こういったことは、温暖化の影響のごく一部でしか
ない。ほかに予測されている影響として、干ばつの期間の長期化、洪水の激化、
より強烈な暴風雨、土壌劣化、大量の種の絶滅、新しい疾病がもたらす人間の健
康上のリスクなどがある。今より望ましい天候を経験できる人が少数いたとして
も、それはほどんど見えないほど小さな場所でしかない。

誤解その8
「科学者が記録している温暖化とは、単にヒートアイランドの影響であて、温室
効果ガスには何ら関係がない」
取り組むよりも否定するほうが簡単だからと、温暖化を否定したがる人々は、「科
学者が実際に観測しているものは、単なる“ヒートアイランド効果”にすぎない」
と主張する。ヒートアイランドとは、たくさんの建物やアスファルトのせいで、
都市に熱がこもってしまう傾向のことだ。これはまったくの間違いである。気温
測定は通常、公園でおこなわれている。公園は規定した気温の長期的な記録を見
ると、地方と都市の両方で測定した気温の長期的な記録とほぼ一致している。多
くの科学者から、ヒートアイランドは、全体的な温暖化にはほとんど影響を与え
ないことがわかっている。

誤解その9
「温暖化の原因は、20世紀初めにシベリアに衝突したいん石である」
「何ておかしな」と思うかもしれないが、これはロシアの科学者が実際に提案し
ている仮説である。では、この仮説のどこがまずいのか?基本的にすべてである。
いん石は、火山の噴火と同じように、その規模が大きければ、気候に対して当面
の影響を与える可能性はある。しかし、そのいん石が衝突したときやそのあとに、
温暖化や寒冷化が起こった記録はない。いん石による影響があったとしたら、水

165 ::2008/10/10(金) 01:16:34
蒸気にかかわるものが考えられる。といっても、水蒸気は最長でも2~3年の間、
大気上空に残っているだけである。どのような影響があったとしても、短期的な
ものであって、これほど将来にわたって感じられるものではない。

誤解その10
「気温が上がっていない場所がある。だから、温暖化なんて嘘っぱちである」
確かに、地球上のあらゆる地点で気温が上がっているわけではない。マイケル・
クライトンの小説『恐怖の存在』では、登場人物たちが、世界には、気温は若干
下がっているか変わっていない場所もあることを示すグラフをみんなで回して
見ている場面がある。このグラフは、実際の科学者が出した実際のデータだ。し
かし、そのデータが事実かもしれないからといって、上記の誤解を証明したこと
にはならない。温暖化とは、温室効果ガスの濃度が上昇することによって、地表
全体の平均気温が上がるということだからだ。
 気候は想像を絶するほど複雑なシステムなので、気候変動の影響はどこでも同
じというわけではない。地球上の地域によっては、たとえば、北ヨーロッパでは、
実際には寒冷化する可能性がある。しかし、だからといって、全体的には地表の
気温も海水温も上がっているという事実は変わらない。この温度上昇は、衛星デ
ータなどの何種類かの測定によって実証されている。どの測定を見ても、全体的
な結果は同じなのだ。

これから世界中で協力しなければならない。経済も治すし、地球も治す。
みんなで努力すれば治る。治さなきゃダメなんですけどね。
とりあえず、安心して暮らせるような普通の人生っていいと思います。
http://jp.youtube.com/watch?v=0VR3HrODFds&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=I-yHDph56Rk&NR=1

166 :天之御名無主:2008/10/10(金) 02:17:08
(     省略します。    )

167 天之御名無主:2008/10/10(金) 07:32:35
温暖化はあるのかも知れんが、それこそ宗教的な下地の違いか、自然を舐めてる気もする
人間が死に絶える程度の環境の変動で全生物が根こそぎ居なくなるわけではないだろうし、
変化は新しい可能性を産むものでもある
人間が存在して、できる限り幸福でなければならないっていう強迫観念はなくせないのか


168 ::2008/10/11(土) 04:58:34
1です。他の人が勘違いをすると、また大変なことになる可能性が
なきにしもあらずなので(もう大した事はないと思いますが)、一応、
私のプロフィールを少し公開しておきます。

http://1st.geocities.jp/handshake_h/

↑こちらの方はのんびりと更新していくつもりです。

169啓蒙社:2008/10/13(月) 11:54:28
旧約聖書の存在・本質が・・何も分かってない人が書くと
この様な文になるので・笑・・
http://www.keimousha.com へ


170天之御名無主:2008/10/13(月) 13:53:58
1よ、自分でページ持ってるならここでやらないでくれよ。
こっちは削除依頼出して、そっちで勝手にやってくれないか?


171 ::2008/10/13(月) 23:13:17
 (>>170 とりあえず、イニシャル等はこの板ではもう出さないので。
仏陀は(たとえ話で)神々の中の神と呼ばれていたので一応神話!?
この板ではまずいでしょうか?まずいようでしたら、自分の方に移ります。)

1です。とりあえず、
仏教の立場から、争い・全ての宗教・真理・議論について仏教の立場が
わかりやすくまとめられている部分を紹介します。

まずは、仏道というものについて  学生ドータカの質問
ドータカさんがたずねた、「先生!わたくしはあなたにおたずねします。このこ
とをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことば
を頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学
びましょう。」
師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく
気をつけて、熱心につとめよ。この(わたくしの口)から出る声を聞いて、自己
の安らぎを学べ。」
ドータカさんがたずねた、「わたくしは、神々と人間との世界において何ものを
も所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなた
を礼拝します。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」
師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者
をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによ
って、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」
ドータカさんがたずねた、「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)
遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。
わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、ことなしに、この世におい

172 ::2008/10/13(月) 23:14:08
て静まり、依りすがることなく行いましょう。」
師は答えた、「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの
安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世
の中の執著を乗り超えよ。」
ドータカさんがたずねた、「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受
けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り超えま
しょう。」
師は答えた、「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく
知っているものは何であろうと、-それは世の中における執著の対象であると知
って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。

上記の、「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得
ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたは
この煩悩の激流を渡るであろう。」という文章より、仏陀が解脱させるのではな
く、解脱するのは本人であるという事がよくわかると思います。仏陀は道しるべ
であって、その道を歩むのは自分自身です。

これをふまえた上で仏教の立場から、下記の争い・全ての宗教・真理・議論について
まとめた部分を読むと理解しやすいと思います。
『↓907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらに
ついて断定して固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。』

最上についての八つの詩句
796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」で
あると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故に

173 ::2008/10/13(月) 23:14:48
かれは諸々の論争を超えることがない。
797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことにつ
いて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著
して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。
798 ひとが何か在るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすな
らば、それは実にこだわりである、と<真理に達した人々>は語る。それ故に修行者
は、見たこと・学んだこと・または戒律や道徳にこだわってはならない。
799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならな
い。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れ
ている」とか考えてはならない。
800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執著することなく、学識に関し
ても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれ
は実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世につ
いても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれ
には何も存在しない。
802 あれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、
微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモン
を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見)特に重んずるという
こともない。かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは
戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還っ
てこない。

  パスーラ

174 ::2008/10/13(月) 23:15:30
かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでない
と説く。「自分は依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理
に固執している。
825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を<愚者である>と烙印し、他
人(師など)をかさに着て、論争を交す。-みずから真理に達した者であると称しなが
ら、自分が称讃されるようにと望んで。
826 集会の中で論争に参加した者は、称讃されようと欲して、おずおずしている。
そうして敗北してうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難され
ると、怒る。
827 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと
、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。
828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意があ
る。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称讃を得ること以外には他に、なんの
役にも立たないからである。
829 あるいはまた集会の中で論議を述べて、それについて称讃されると、心の中に
期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。
830 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増
上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々
は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。
831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んで
ゆくようなものである。勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに
到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。
832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるなら
ば、汝はかれらに言え、-「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。
833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を〔他の〕諸々の偏見と抗争させ

175 ::2008/10/13(月) 23:16:10
ない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか? パスーラ
よ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここに存在しないのである。
834 さてあなたは(〔自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、心中にもろもろ
の偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、
あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、できない。

  マーガンディヤ
835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりをひらこうとした時に)、愛執と嫌悪と貪
欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起ら
なかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足で
さえも触れたくないのだ。」
836 (マーガンティヤがいった)、もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような
宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を
、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?
837 師は答えた、「マーガンティヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたく
しにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見にお
ける(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
838 マーガンティヤがいった、『聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固
執することなしに、<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを
諸々の賢人はどのように説いているのでしょうか?」
839 師は答えた、「マーガンティヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、
戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。それらを捨
て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願っては
ならぬ。(これが内心の安らぎえある。)」
840 マーガンティヤが言った、「もしも、『教義がなくても、学問がなくても、知識がなく

176 ::2008/10/13(月) 23:19:27
ても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、そ
れはばかばかしい教えである。とわたくしは考えます。教義によって清らかになること
ができる、と或る人々は考えます。」
841 師は答えた、「マーガンティヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求める
ものだから、執着したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平
安)について微かな想いをさえもいだいてはいない。だから、あなたは(わたくしの説
を)『ばかばかしい』と見なすのです。
842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、-かれ
はその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、-
かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思い
は存在しない。
843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれ
は『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくな
い』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。
834 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、
諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論し
てはならない。
845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それら
に固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも
泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望
にも世間にも汚されることがない。
846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。
かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導か
れないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執著の巣窟に導き入れら
れることがない。

177 ::2008/10/13(月) 23:21:19
847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷
いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろ
つく。」

  並ぶ応答  -小篇
878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異った執見をいだいて争
い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。-「このように知
る人は真理をしっている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
879 かれらはこのように異った執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理
に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と
語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?
880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣っ
た者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから
、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
881 またもしも自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるなら
ば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その
点で)等しく完全であるからである。
882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実
である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故に
かれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々
が「虚偽である、妄想である」と言う。このようにかれらは異った執見をいだいて論争す
る。何故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのであろうか?
884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争う
ことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえる。それ故に諸々の<道の

178 ::2008/10/13(月) 23:22:21
人>は同一の事を語らないのである。
885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異った
真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異った真理を(他人から)聞いたのであ
るか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?
886 世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のも
のだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行っ
て、「(わが説は)真理である。」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いている
のである。
887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し
、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴
だ」という。
888 反対者を<愚者>であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であると
いう。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、
そのように語る。
889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものである
と思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、
(かれによれば)そのように完全なものだからである。
890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その
(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・
賢者と称し得るのであれば、諸々の<道の人>のうちに愚者は一人も存在しないこと
になる。
891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人
>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏
見に耽溺して汚れに染まっているからである。
892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。

179 ::2008/10/14(火) 00:03:06
このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くたもって
論ずる。
893 自分の道を堅く堅くたもって論じているが、ここに他の何ぴとを愚者であると見る
ことができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、
かれはみずから確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考えを量りつつ、さらにかれは世の中
で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起
すことがない。

  並ぶ応答  - 長篇
895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、-かれらは
すべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだ
けである。
896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできな
い。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見
ても、汝らは無論争の境地を安穏であると観じて、論争してはならない。
897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。か
れは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだ
わりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?
898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、
誓戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるで
しょう」といって、<真理に達した者>と称する人々は、流転する迷いの生存に誘き込
まれている。
899 もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむ
いて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」とと

180 ::2008/10/14(火) 00:04:14
なえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅
立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。
900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの(宗教的)行
為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それ
らにとらわれずに行え。-安らぎを固執することもなく。
901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したこ
とにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる
種々なる生存のうちにある。
902 ねがい求める者には欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがあ
る。この世において死も生も存しない者、-かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と
称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?-かれらはすべて自分らこそ
真理に達したものであると称しているのであるが。
904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。
かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真
理である」と説く。
905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというなば、諸々の教えのう
ちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して
、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切
の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄とな
れるからである。
907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらにつ
いて断定して固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを
最も勝れたものだとみなすこともないからである。

181 ::2008/10/14(火) 00:04:52
908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄に
なることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそな
たにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道をはずして、他人によって清浄と
なると説く。
909 見る人は名称と形態とを見る。またみてはそれらを(常住または安楽であると)認
め知るであろう。見たい人は多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。
真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人は、みずから構えた
偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらの
み適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのよう
に(一方的に)見たのである。
911 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にも
なずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。-他の人々
はそれに執著しているのだが。-
912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみす
ることがない。かれは不安な人々のうちにあってもやすらけく、泰然として、執すること
がない。-他の人々はそれに執著しているのだが。-
913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執著して論
ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責
めることもない。
914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対
して敵対することがない。かれは負担をはなれて開放されている。かれははからいを
なすことなく、快楽に耽ることもなく、求めることもない。
 -師はこのように言われた。
                                スッタニパータ

182天之御名無主:2008/10/14(火) 00:13:43
1様

この板は「民俗学・文化人類学・神話学について話しましょう 」とあります。
現在あなたが書き込んでいます内容は相応しくないと思われます。
ご自分でも以下のように書かれているではありませんか。
 >仏教の立場から、争い・全ての宗教・真理・議論について仏教の立場が
わかりやすくまとめられている部分を紹介します。

今一度、よくこの板のタイトルや注意書きをご覧になってみてください。
何卒よろしくお願いいたします。


───


185 ::2008/10/15(水) 19:08:04
>>182 分かりました。内容が民族・神話学と相応しくないようなので、
自分の方に移ります。






 そして、日記へ



(掲示板書込頁)






さくら

枠等更訂 2024.04.11  文章更訂 2024.04.11
    前回更訂 2024.03.30
    2023.11.23
      2021.07.17

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