更訂 H28.12.8



  功徳の廻向について




大勢の人々が集まってきて(この人が、身壊れ、命終わりて後には、どうか善処・天界に生れますように)といって、この人のために祈り、この人を礼讃し、合掌して、そのまわりを周行したとしても、
 その人は(悪行を行なっていたので)、身壊れて、命終わりて後には、やはり、六道にさまよい堕ち、悪処・地獄に生れるであろう。』

『大勢の人々が集まってきて(この人が、身壊れ、命終わりて後には、六道にさまよい堕ち、悪処・苦界・地獄に生れるように)といって、この人のために祈り、この人を礼讃し、合掌して、そのまわりを周行したとしても、
 その人は(善行を行なっていたので)、身壊れて、命終わりて後には、やはり、善処・天界に生を受けることをうるであろ




『ともに行為もせず、(その行為に)同意もしない人と、悪の行為を互いに分けあうことはできません。』

『善は、互いに分けあうことはできますが、悪は、互いに分けあうことはできません。』

『善は多大であり、多大であるから、諸神および人々とも互いに分かちあうことができるのです。』





  西方の人

 このように私は聞ききました。
 ある時、世尊はナーランダーのパーヴァーリカンバ林にましました。
 その時、アシバンダカプッタなる村の長が、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。

傍らに坐したアシバンダカプッタなる村の長は、世尊に申し上げた、
「大徳よ、西の方から来たバラモンたちは、水瓶をたずさえ、百合の花環をつけ、水に入って浄め、あるいは火につかえるのであるが、彼らは人が亡くなって命終したのを呼び起こし、その名を呼んで、天界に入らしめるといいます。
 大徳よ、世尊にましまし、応具にましまし、正等覚者にまします大徳もまた、あれやこれやと世の人々が身壊れ、命終わりて後、よく善処・天界に生を受けしめることができるでありましょうか」

「では、村の長よ、それについて、私から質問しよう。思うがままに答えてみなさい。

 村の長よ、そなたは、これをいかに思うか。

 ここに人があり、その人は、人の命を取る者であり、与えられざるを盗る者であり、よこしまの快楽にふける者であり、嘘を言う者であり、両舌をもてあそぶ者であり、あるいは、乱暴な言葉を語り、誠実ならぬ言葉を語り、強欲にして意地悪であり、間違った考えをもった人間であったとする。
 そこに、大勢の人々が集まってきて(この人が、身壊れ、命終わりて後には、どうか善処・天界に生れますように)といって、この人のために祈り、この人を礼讃し、合掌して、そのまわりを周行したとするならば、村の長よ、そなたはいかに思うか。

 この人は、大勢の人々の祈願により、礼讃により、あるいは合掌し周行したことによって、身壊れ、命終わりて後、善処・天界に生れることをうるであろうか」

「大徳よ、そのようなことはありません」

「村の長よ、たとえば、ここに人があって、大きな岩を深い湖に投じたとする。
 そこに、大勢の人々が集まってきて(大きな岩よ、あがってこい、浮かんでこい、陸にあがれ)と言いながら、その岩のために祈り、それを讃え、合掌して、そのまわりを繞り歩いたとするならば、村の長よ、そなたはいかに思うか。

 その大きな岩は、大勢の人々の祈願により、礼讃により、あるいは合掌し周行したことによって、あがってくるだろうか、浮かんでくるであろうか、そして、陸にあがってくるであろうか」

「大徳よ、そのようなことはありません」

「村の長よ、それと同じく、ここに人があって、彼は、人の命を取る者であり、与えられざるを盗る者であり、よこしまの快楽にふける者であり、嘘を言う者であり、両舌をもてあそぶ者であり、あるいは、乱暴な言葉を語り、誠実ならぬ言葉を語り、強欲にして意地悪であり、間違った考えをもった人間であったとする。
 そこに、大勢の人々が集まってきて(この人が、身壊れ、命終わりて後には、どうか善処・天界に生れますように)といって、この人のために祈り、この人を礼讃し、合掌して、そのまわりを周行したとしても、その人は、身壊れて、命終わりて後には、やはり、六道にさまよい堕ち、悪処・地獄に生れるであろう。

 それでは、村の長よ、そなたは、これをいかに思うか。

 ここに人があり、その人は、他の命を取ることをせず、与えられざるを盗ることをせず、よこしまの快楽にふけらず、嘘を言わず、両舌をもてあそばず、あるいは、荒々しい言葉を慎み、誠実ならぬ言葉を語らず、強欲ならず意地悪をせず、正しい考えをもった人間であったとする。
 そこに、大勢の人々が集まってきて(この人が、身壊れ、命終わりて後には、六道にさまよい堕ち、悪処・苦界・地獄に生れるように)といって、この人のために祈り、この人を礼讃し、合掌して、そのまわりを周行したとするならば、村の長よ、そなたはいかに思うか。

 この人は、大勢の人々の祈願により、礼讃により、あるいは合掌し周行したことによって、身壊れ、命終わりて後には、六道にさまよい堕ち、悪処・苦界・地獄に生れるであろうか」

「大徳よ、そのようなことはありません」

「村の長よ、また、たとえば、ここに人があって、酥油もしくは油をいれた瓶を、深い湖に投じて破ったとする。
 すると、瓶は、破片や断片となって、湖の底に沈んでゆく。
 だが、その中にあった酥油や油は、浮いて湖水の表面にのぼってくるであろう。
 そこに、大勢の人々が集まってきて(汝、酥油よ、油よ、沈め。汝、酥油よ、油よ、下に沈め。汝、酥油よ、油よ、下に降れ)といって祈願し、礼讃し、合掌して、そのまわりを繞り歩いたとするならば、村の長よ、そなたはいかに思うか。

 その酥油もしくは油は、大勢の人々の祈願により、礼讃により、あるいは合掌し周行したことによって、沈没し、下降するであろうか」

「大徳よ、もちろん、そのようなことはありません」

「村の長よ、それと同じく、ここに人があり、その人は、他の命を取ることをせず、与えられざるを盗ることをせず、よこしまの快楽にふけらず、嘘を言わず、両舌をもてあそばず、あるいは、荒々しい言葉を慎み、誠実ならぬ言葉を語らず、強欲ならず意地悪をせず、正しい考えをもった人間であったとする。
 そこに、大勢の人々が集まってきて(この人が、身壊れ、命終わりて後には、六道にさまよい堕ち、悪処・苦界・地獄に生れるように)といって、この人のために祈り、この人を礼讃し、合掌して、そのまわりを周行したとしても、その人は、身壊れて、命終わりて後には、やはり、善処・天界に生を受けることをうるであろう」

世尊がこのように説かれた時、かのアシバンダカプッタなる村の長は、世尊につぎのように言った、
「善いかな、大徳よ、善いかな、大徳よ。たとえば大徳よ、倒れる者を起こすがごとく、覆われたるを開くがごとく、迷える者には道を示すごとく、また、暗闇のなかに燈火をもたらして、(眼ある者は見よ)というがごとく、世尊はさまざまな方便をもって法を説きたもうた。
 私は、世尊に帰依したてまつる。また、法と比丘衆とに帰依したてまつる。今日よりはじめて、終生かわることなき在家の信者として、私を許し受けられんことを」


相応部 四二、六





【『もしも、或る人が百年間も、(自分の)なした善に専注しつづけるならば、専注するたびごとにますます善は増大し、
  彼は、その善を欲する人々とともに、(善を)分かちあうことができるのです。

  大王よ、これが、善の多大であるという理由です。』


 『大王よ、悪をなす者の心は、停滞し、萎縮し、退転し、進展せず、悲嘆し、痛苦し、消沈し、消耗し、意気高揚せず、その場  で消滅します。

  大王よ、これが、悪の小であるという理由です』】


  施餓鬼の功徳

「尊者ナーガセーナよ、これらの布施者たちが布施をなして、亡者の餓鬼らに廻回し、「これ(布施)は彼らのもとに達せよ」と(言うならば、)彼ら(亡者)は、それを因縁として(何らかの)果報を獲得しますか」

「大王よ、或る者は獲得し、或る者は獲得しません」

「尊者よ、いかなる者たちが獲得し、いかなる者たちが獲得しないのですか」

「大王よ、地獄に生まれた者は(布施の果報を)獲得しません。
 天に生まれた者は獲得しません。
 畜生に生まれた者は獲得しません。
 四種の餓鬼のうちの三餓鬼、すわなち、吐いたものを食べる餓鬼、飢えと渇きをもつ餓鬼、そして焼くごとき渇きをもつ餓鬼は(布施の果報を)獲得しません。
 他者の施しによって生きる餓鬼は(布施の果報を)獲得しますが、彼らとても憶念するときだけ獲得するのです」

「尊者ナーガセーナよ、しからば、もしも(布施を)廻回されたこれらの者たちが(果報を)獲得しないのであるならば、布施者たちの布施は流出し、果は存在しないことになります」

「大王よ、その布施は果がないのでもなく、報いがないのでもありません。
 布施者こそがその果をうけるのです」

「尊者ナーガセーナよ、しからば、事例をもって私を納得させてください」

「大王よ、たとえば、ある人々が魚・肉・酒・ご飯・菓子などをととのえて、親戚の家に行くとしよう。
 もしも、彼ら親戚の者たちが、その贈物を受納しないとすれば、その贈物は流出し、または消失するでしょうか」

「尊者よ、そうではありません。それは、所有している人々のものとなります」

「大王よ、それと同様に、布施者こそが、その果をうけるのです。

 大王よ、またたとえば、部屋の中に入った人がいるとしよう。
 (彼の)前方に出口がないとき、(彼は)どこから出るだろうか」

「尊者よ、入った場所から(出ます)」

「大王よ、それと同様に、布施者こそが、その果を受けるのです」

「尊者ナーガセーナよ、そうでしょう。布施者こそが、その果を受けるというこのことは、まさにそのとおりだ、とわたくしは認めます。わたくしどもは、その道理を非難しません。

 尊者ナーガセーナよ、もしも、これらの布施者のなした布施が、亡者の餓鬼らのもとに達し、また、彼ら(布施者)がその報いを受けるならば、しからば、生きものを殺し、残忍にして、手を血でぬらし、害心をいだき、殺人を犯し、残虐な行ないをなす者が、亡者の餓鬼らに廻回して、「この私の行ないの報いは、亡者の餓鬼らのもとに達せよ」と(言うならば)、その報いは、亡者の餓鬼らのもとに達するであろうか」

「大王よ、そうではありません」

「尊者ナーガセーナよ、それならば、いかなる理由、いかなる原因によって、善(業)が(餓鬼に)達し、悪(業)が達しないのですか」

「大王よ、この問いは、問うべきものではありません。
 大王よ、あなたは”解答がある”からといって、問うべきことでないことを問うてはなりません。
 あなたには、さらに『何故に虚空は依存するものをもたないのか』『何故にガンジス河は上流に向かって流れないのか』『何故にこれらの人間と鳥とは二足であって、獣は四足であるのか』というようなことを、私に尋ねるつもりですか」

「尊者ナーガセーナよ、私は困らせようと思って、これを問うたのではなくして、実に、疑いを除くために問うたのです。
 世間には、多くの左ききややぶにらみの人々がおります。
”どうして、彼らは(治療の)機会を得ないのだろうか”と(考えたから)こそ、私はあなたにそれを問うのです」

「大王よ、ともに行為もせず、(その行為に)同意もしない人と、悪の行為を互いに分けあうことはできません。

 大王よ、たとえば、人々は水を運び出すことによって、水を遠方へ運びます。
 大王よ、しかしながら、堅固な大岩を運び出すことによって、欲するままに(それを)運ぶことができますか」

「尊者よ、そうではありません」

「大王よ、それと同様に、善は、互いに分けあうことはできますが、悪は、互いに分けあうことはできません。

 大王よ、またたとえば、油によって燈火を燃やすことはできますが、大王よ、しかしながら、水によって燈火を燃やすことはできますか」

「尊者よ、そうではありません」

「大王よ、それと同様に、善は、互いに分けあうことはできますが、悪は、互いに分けあうことはできません。

 大王よ、またたとえば、耕作者たちは、貯水池から水を引いて、穀物を実らせます。
 大王よ、しかしながら、大海から水を引いて、穀物を実らせることができますか」

「尊者よ、そうではありません」

「大王よ、それと同様に、善はを互いに分けあうことはできますが、悪を互いに分けあうことはできません。」

「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由で、善は互いに分けあうことができるが、悪は分けあうことができないのですか。
 理由をあげて、私を納得させて下さい。
 私は、盲でもなく、観察力のないものでもありません。聞けば、理解するでありましょう」

「大王よ、悪は小であり、善は多大です。悪は小であるから、行為者だけに付着して、善は多大であるから、諸神および人々の間に拡がります

「譬えを示して下さい」

「大王よ、たとえば、小さな一水滴が、地面に落ちるとすれば、大王よ、その水滴は、十ヨージャナ(七〇マイル)も二十ヨージャナも拡がりますか」

「尊者よ、そうではありません。その水滴の落ちた場所だけに(水滴は)付着します」

「大王よ、いかなる理由によってですか」

「尊者よ、水滴が小さいためです」

「大王よ、それと同様に、悪は小であり、小であるから、行為者だけに付着し、(他の者たちは)互いに分ち合うことができません。
 大王よ、またたとえば、大雨が、地表をうるおし満たしつつ降るとすれば、大王よ、その大雨は、あまねく拡がるでしょうか」

「尊者よ、そうです。その大雨は、窪地・池・川・支流・洞窟・岩の裂目・湖・貯水池・泉・蓮池を満たして、十ヨージャナも二十ヨージャナも拡がるでしょう」

「大王よ、いかなる理由によってですか」

「尊者よ、雨の大なるためです」

「大王よ、それと同様に、善は多大であり、多大であるから、諸神および人々とも互いに分かちあうことができるのです

「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によって、悪は小であり、善は多大なのですか」

「大王よ、たとえば、布施をなし、戒行を守り、布薩の行事をなす者は、だれでも喜び、大いに喜び、歓喜し、大いに歓喜し、欣喜し、心満足し、感激します。彼に、絶えず悦びが生じ、心が悦べば、ますます善は増大します。

 大王よ、たとえば、飲み水がいっぱいに満たされた(泉)の中に、一方から水がはいり、一方から流れ出すとしよう。
 流出しているときでも絶えず(水は)生じ、尽きてしまうことはありません。
 大王よ、それと同様に善はますます増大します。

 大王よ、もしも、或る人が百年間も、(自分の)なした善に専注しつづけるならば、専注するたびごとにますます善は増大し、彼は、その善を欲する人々とともに、(善を)分かちあうことができるのです。
 大王よ、これが、善の多大であるという理由です。


 大王よ、たとえば、干上がった川の、高低あり屈曲ある大砂州に上手から少量の水が(流れて)来ても、消えうせ、消耗し、増大せず、その場で消滅するごとく、
 大王よ、悪をなす者の心は、停滞し、萎縮し、退転し、進展せず、悲嘆し、痛苦し、消沈し、消耗し、意気高揚せず、その場で消滅します。
 大王よ、これが、悪の小であるという理由です


「もっともです。尊者ナーガセーナよ、これはまさにそのとおりだ、と私は認めます」


那先比丘経





















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