更訂 H28.12.8



  無我について



 『これは私の自我ではない』という事柄の教えです。


〔無常が苦であるという事柄は、他でも説明をしていますが、下記の文章が理解しやすいように付けておきます。

『この世の全てのものは、常に同じ状態、不変という事はありえず、時の推移とともに移り変わってゆかざるをえないもの(無常)であるので、楽しい事柄も、いずれはその楽しい事柄がなくなることが苦しみであり、喜びもまた、いずれはその喜びがなくなることが苦しみです。
 自らの身体(眼・耳・鼻・舌・身・意)も無常であり、病気により、また、死によりて、捨て去らなければならない。
 無常であることにより、愛する人とも、いずれは死別しなければならないというのも、当然苦しみです。
 このように、喜怒哀楽、等の楽しさ、嬉しさ、幸福感等もいずれはなくなってしまう。
 神々や世の人々が一様に思い込んでいる、好ましく、いとおしく、心地よい一切の色形や音声や味や香りや感触や思い等の快いものだと思っているものも、自らの身体(眼・耳・鼻・舌・身・意)も、いずれは無くなってしまうという事は、そのものが無くなる時にはやはり悲しみ(苦しみ)を受ける。

 これらの事柄により無常は苦であるという事になります。』〕



 もしもこの形あるもの(身体)が、自我(我)であるならば、この形あるものは病気にならないであろうし、また形のあるものについて”私の身体は病気になるな”または、”病気であってはならないので、病気よ、すぐ治れ”と思っても、
 身体は我ではないので、病気になり、また、病気になっても、一瞬で治ってはくれない。

 身体が我であれば、すぐ治るはずのものであるが、自らの思いどおりにならない。
 この故にも、色(身体)は、”私のものではなく””私ではなく””私の自我ではない”。

 自らの心、自らの精神、自らの感情等も同様にして、精神的なショック等で落ち込んだりすることもあり、そのように、心もまた病気のような状態に陥る。

 また、例えば、「忘れたいのに、忘れられない…」、
 この心が我であれば、すぐ忘れられる(治る)はずのものであるが、忘れられず、自らの思いどおりにならない。

 この故に、心も(感受も)、一切は”私のものではなく””私ではなく””私の自我ではない”。



 このように見ることも正見であり、この教えは、他の存在、聖者でありても、梵天でありても、偉大な神でありても、悪魔でありても、バラモンでも、誰も覆すことができない、基本となる真理の一つ。

 例えば、大乗仏教が真理でない教えを真理として説いてるので、仏陀の教えによりて、それなりに容易にひっくり返して直せるが、
 仏陀の説く正しい真理は、真理であるが故に、いかなる存在でありても、覆すことはできない。
(年代〔劫期〕等のそういう経典によりて結構まちまちな部分を、言っているわけではない。そのような事柄に関しては赤馬の教えを参照。また、苦を滅するのに、山の大きさも直接関係がない。ヴェープッラ山参照。)

 また、仏陀の説く正しい真理は、どのような偉大な神でも覆すことは出来ず、また、偉大な神、世の父、父たちは、諸々の仏陀の説かれた真理を守護する側にいるので、覆そうとかいう愚かで無駄な思いを為すこともない。





  これは自我ではない


 それから世尊は、五人の比丘たちに話された、

「比丘たちよ、

 形あるもの(色)は、自我のないもの(無我)である。

 比丘たちよ、もしもこの形あるものが、自我(我)であるならば、この形あるものは病気にならないであろうし、また形のあるものについて『私の形のあるものはこのようであれ〔病気になるな〕』、または、『私の形のあるものはこのようであってはならない〔病気であってはないないので、病気よ、すぐ治れ〕』と言うことができるであろう。

 しかし、比丘たちよ、形のあるものは、自我のないものであるから、形のあるものは病気になり、また形のあるものについて、『私の形のあるものはこのようであれ』、または『私の形のあるものはこのようであってはならない』と言うことはできないのである。


 感受(受)は自我のないものである。

 比丘たちよ、もしもこの感受が自我であるならば、この感受は病気にならないであろうし、また感受について、
『私の感受はこのようであれ』、または、『私の感受はこのようであってはならない』と言うことができるであろう。

 しかし、比丘たちよ、感受は自我のないものであるから、感受は病気になり、また感受について
『私の感受はこのようであれ』、または『私の感受はこのようであってはならない』と言うことはできないのである。


 想念(想)は自我のないものである。

 比丘たちよ、もしもこの想念が自我であるならば、この想念は病気にならないであろうし、また想念について、
『私の想念はこのようであれ』、または、『私の想念はこのようであってはならない』と言うことができるであろう。

 しかし、比丘たちよ、想念は自我のないものであるから、想念は病気になり、また想念について『私の想念はこのようであれ』、または『私の想念はこのようであってはならない』と言うことはできないのである。



 
意志(行)は自我のないものである。

 比丘たちよ、もしもこの意志が自我であるならば、この意志は病気にならないであろうし、また意志について『私の意志はこのようであれ』、または、『私の意志はこのようであってはならない』と言うことができるであろう。

 しかし、比丘たちよ、意志は自我のないものであるから、意志は病気になり、また意志について『私の意志はこのようであれ』、または『私の意志はこのようであってはならない』と言うことはできないのである。


 心(識)は自我のないものである。

 比丘たちよ、もしもこの心が自我であるならば、この心は病気にならないであろうし、また心について『私の心はこのようであれ』、または、『私の心はこのようであってはならない』と言うことができるであろう。

 しかし、比丘たちよ、心は自我のないものであるから、心は病気になり、また心について『私の心はこのようであれ』、または『私の心はこのようであってはならない』と言うことはできないのである。」


「比丘たちよ、次のことをあなたたちはどう考えるか。
 形のあるものはいつまでも存在するのか、或いは無常であるのか」


「尊い方よ、無常であります」

「それでは無常は苦しみであるのか、あるいは楽しみであるのか」

「尊き方よ、苦しみであります」

「それでは無常であり、苦しみであり、変化するものを、
『これは私のものである』、『これは私である』、『これは私の自我である』と認めてよいであろうか」

「尊い方よ、それはよくありません」


「感受はいつまでも存在するのか、あるいは無常であるのか」

「尊い方よ、無常であります」

「それでは無常は苦しみであるのか、あるいは楽しみであるのか」

「尊き方よ、苦しみであります」

「それでは無常であり、苦しみであり、変化するものを、
『これは私のものである』、『これは私である』、『これは私の自我である』と認めてよいであろうか」

「尊い方よ、それはよくありません」


「想念はいつまでも存在するのか、あるいは無常であるのか」

「尊い方よ、無常であります」

「それでは無常は苦しみであるのか、あるいは楽しみであるのか」

「尊き方よ、苦しみであります」

「それでは無常であり、苦しみであり、変化するものを、
『これは私のものである』、『これは私である』、『これは私の自我である』と認めてよいであろうか」

「尊い方よ、それはよくありません」」


「意志はいつまでも存在するのか、あるいは無常であるのか」

「尊い方よ、無常であります」

「それでは無常は苦しみであるのか、あるいは楽しみであるのか」

「尊き方よ、苦しみであります」

「それでは無常であり、苦しみであり、変化するものを、
『これは私のものである』、『これは私である』、『これは私の自我である』と認めてよいであろうか」

「尊い方よ、それはよくありません」」


「識はいつまでも存在するのか、あるいは無常であるのか」

「尊い方よ、無常であります」

「それでは無常は苦しみであるのか、あるいは楽しみであるのか」

「尊き方よ、苦しみであります」

「それでは無常であり、苦しみであり、変化するものを、
『これは私のものである』、『これは私である』、『これは私の自我である』と認めてよいであろうか」

「尊い方よ、それはよくありません」


「感受はいつまでも存在するのか、あるいは無常であるのか」

「尊い方よ、無常であります」

「それでは無常は苦しみであるのか、あるいは楽しみであるのか」

「尊き方よ、苦しみであります」

「それでは無常であり、苦しみであり、変化するものを、
『これは私のものである』、『これは私である』、『これは私の自我である』と認めてよいであろうか」

「尊い方よ、それはよくありません」


「比丘たちよ、したがって、

 形のあるものは何でも、すなわち過去、未来、現在の、内・外、粗・細、劣・妙、近・遠のすべての形のあるものは、『これは私のものではない』、『これは私ではない』、『これは私の自我ではない』と、このようにこれをありのままに正しい智慧によりて見るべきである。

 感受は何でも、すなわち過去、未来、現在の、内・外、粗・細、劣・妙、近・遠のすべての形のあるものは、『これは私のものではない』、『これは私ではない』、『これは私の自我ではない』と、このようにこれをありのままに正しい智慧によりて見るべきである。

 想念は何でも、すなわち過去、未来、現在の、内・外、粗・細、劣・妙、近・遠のすべての形のあるものは、『これは私のものではない』、『これは私ではない』、『これは私の自我ではない』と、このようにこれをありのままに正しい智慧によりて見るべきである。

 意志は何でも、すなわち過去、未来、現在の、内・外、粗・細、劣・妙、近・遠のすべての形のあるものは、『これは私のものではない』、『これは私ではない』、『これは私の自我ではない』と、このようにこれをありのままに正しい智慧によりて見るべきである。

 識は何でも、すなわち過去、未来、現在の、内・外、粗・細、劣・妙、近・遠のすべての形のあるものは、『これは私のものではない』、『これは私ではない』、『これは私の自我ではない』と、このようにこれをありのままに正しい智慧によりて見るべきである。


 比丘たちよ、このように見て、教えをよく聞いている清浄な弟子は、形のあるものを厭い、感受も厭い、意志も厭い、心も厭い、そして貪欲から離れ、解脱する。
 解脱したとき、『私は解脱した』という知が生じ、『迷いの再出生はすでに滅し尽くした、清浄な修行はなし遂げられた、なすべきことはなされた、再びこのような状態には生まれない』と知るのである」

 世尊が以上のように説かれたとき、五人の比丘たちは歓喜し、世尊の説かれたことを信受した。

 そしてこの教説が説かれている間に、五人の比丘たちは執着がなくなって、もろもろの煩悩より心が解脱した。

 かくして、そのとき、この世で尊敬さるべき人は六人となったのである。


律蔵・大品





  わがもの  〔見相応〕

 このように私は聞きました。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータピンディカの園にましました。

その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた、
「比丘たちよ、いったい、何があるによりて、何を取するによりて、また、何に執着するによりて、”これはわが所有である””これは我である””これは本体である”と、そのように見解が生ずるのであろうか」

「大徳よ、世尊は、まことに、我らの法の根本にまします。願わくは、そのことを説きたまえ」

「比丘たちよ、それは、色(肉体)があるによりて、色を取するによりて、また、色に執着することによりて、
 ”これはわが所有である””これは我である””これは本体である”と、そのように見解が生ずるのである。


 
また、受(感受)があるによりて、‥‥(省略)‥‥、
 また、想(表象)が‥‥(省略)‥‥、
 また、行(意志)が‥‥(省略)‥‥、

 また、識(意識)があるによりて、識を取するによりて、また、識に固執するによりて、
 ”これはわが所有である””これは我である””これは本体である”と、そのような見解が生ずるのである。


 比丘たちよ、汝らはいかに思うであろうか。
 色は常住であろうか、無常であろうか」

「大徳よ、それは無常であります」

「無常あるならば、それは、苦であろうか、楽であろうか」

「大徳よ、それは苦であります」

「無常にして苦なる、移ろい変わるものに、取せず、執着せずとも、なお、”これはわが所有である””これは我である””これは本体である”と、そのような見解が生ずるであろうか」

「大徳よ、そうではございません」


「では、また、受(感受)は‥‥(省略)‥‥」

「では、また、想(表象)は‥‥(省略)‥‥」

「では、また、行(意志)は‥‥(省略)‥‥」


「では、また、識(識知)は常住であろうか、無常であろうか」

「大徳よ、それは無常であります」

「無常あるならば、それは、苦であろうか、楽であろうか」

「大徳よ、それは苦であります」

「無常にして苦なる、移ろい変わるものに、取せず、執着せずとも、なお、
 ”これはわが所有である””これは我である””これは本体である”と、そのような見解が生ずるであろうか」

「大徳よ、そうではございません」


「比丘たちよ、では、さらに、その見るところ、聞くところ、思うところ、知るところ、得るところ、求むるところ、あるいは、もう一度その心に思いめぐらすところは、常住であろうか、無常であろうか」

「大徳よ、それは無常であります」

「無常であるならば、それは、苦しみであります」

「無常にして苦なる、移ろい変わるものに、取せず、執着せずとも、なお、
 ”これはわが所有である””これは我である””これは本体である”と、そのような見解が生ずるであろうか」

「大徳よ、そうではございません」

「比丘たちよ、聖なる弟子たるものは、これらの六つの点(見るところ、聞くところ、思うところ、知るところ、得るところ、求むるところ)についても疑惑を断ち、

 苦についても疑惑を断ち、苦の生起についても疑惑を断ち、苦の滅尽についても疑惑を断ち、苦の滅尽にいたる道についても疑惑を断ずるならば、

 比丘たちよ、その時、この聖なる弟子は、”流れに入れるもの”と称せられ、”破滅に堕することなきもの”と称せられ、”すでに正覚に赴くことに決定せるもの”と称せられる」


相応部 二四、二、我所





















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