更訂 H28.12.8



  憎しみがなく、害意のない心について



  ノコギリの喩え

『比丘たちよ、この鋸の喩えの教えについて繰り返しよく考えてみるべきである。

 それは長きにわたって、あなたたちに幸福と安楽をもたらすものとなるであろう』



  プンナへの教え

『「では、もし彼らが、そなたを鋭利な剣で殺すとすれば、どのようにするのか」

 「尊者よ、そのようなときは、”世尊のお弟子たちの中には、身体や生命を厭い嫌って、殺してくれる者を求める人すらいる。
  私は、求めることもなく、殺してくれる人を得ることができた”と考えるでしょう」』





  モーリヤ・パッグナへの教諭

 このように私は聞きました。
 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林にあるアナータピンディカの園に滞在された。

 さて、そのころ、尊者モーリヤ・パッグナは比丘尼たちと過度に親しくしていた。

 そこで、尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちとこのように親しくしていた。
 もし比丘の誰かが尊者モーリヤ・パッグナの面前で、その比丘尼たちを非難すれば、尊者モーリヤ・パッグナは立腹し、不満に感じて、争いを起こす。
 もし比丘の誰かがその比丘尼たちの面前で尊者モーリヤ・パッグナを非難すれば、その比丘尼たちは立腹し、不満に感じて、争いを起こす。
 尊者モーリヤ・パッグナは比丘尼たちとこのように親しくしていた。

 さて、一人の比丘が世尊のおられるところに近づいた。
 近づいて、世尊に敬礼し、一方に坐った。

一方に坐ったその比丘は、世尊にこのように言った、
「尊師よ、尊者モーリヤ・パッグナは比丘尼たちとこのように親しく付き合っています。
 もし比丘の誰かが〔尊者モーリヤ・パッグナの面前でその比丘たちを非難すれば、尊者モーリヤ・パッグナは立腹し、不満に感じて、〕争いを起こします。
 もし比丘の誰かがその比丘尼たちの面前で尊者モーリヤ・パッグナを非難すれば、その比丘尼たちは立腹し、不満に感じて、争いを起こします。
 尊師よ、尊者モーリヤ・パッグナはこのように比丘尼たちと親しくしています」

そこで、世尊は一人の比丘に告げられた、
「さあ、比丘よ、あなたは私に代わって、比丘モーリヤ・パッグナに『友パッグナよ、師があなたを呼んでいる』と告げなさい」

「かしこまりました、尊師よ」とその比丘は世尊に答えて、尊者モーリヤ・パッグナのいるところに近づいた。

近づいて、尊者モーリヤ・パッグナにこのように言った、
「友パッグナよ、師があなたを呼んでおられる」

「わかりました、友よ」と尊者モーリヤ・パッグナはその比丘に答えて、世尊のおられるところに近づいた。

 近づいて、世尊に敬礼し、一方に坐った。

一方に坐った尊者モーリヤ・パッグナに、世尊はこのように言われた、
「パッグナよ、あなたが比丘尼たちと過度に親しくしているというのは本当か。
 パッグナよ、あなたは比丘尼たちとこのように親しくしているということではないか。
 もし比丘の誰かがあなたの面前でその比丘尼たちを非難すれば、あなたは立腹し、不満に感じて、争いを起こす。
 もし比丘の誰かがその比丘尼たちの面前であなたを非難すれば、その比丘尼たちは立腹し、不満に感じて、争いを起こす。
 パッグナよ、あなたはこのように比丘尼たちと親しくしているというではないか」

「そのとおりです、尊師よ」

「パッグナよ、あなたは良家の子息であり、信をもって家を出て家なき生活に入ったのではないのか」

「そのとおりです、尊師よ」

「パッグナよ、良家の子息であり、信をもって家を出て家なき生活に入ったあなたにとって、比丘尼たちと過度に親しくすることは、ふさわしいことではない。
 だから、ここで、パッグナよ、もし誰かがあなたの面前でその比丘尼たちを非難することがあれば、そこで、パッグナよ、あなたは世俗的な欲求や世俗的な思考はみな捨てなければならない。

 そこで、パッグナよ、あなたはこのように修養するべきである、
『私のこころがゆがむことがないようにしよう。悪い言葉を放つことがないようにしよう。
 親愛と憐みにあふれ、慈しみのこころを持ち、怒りをいだかずに過ごそう』と。
 パッグナよ、あなたはこのように修養するべきである。

 だから、ここで、パッグナよ、もし誰かがあなたの面前でその比丘たちを手で打ち、土くれ打ち、棒で打ち、剣で打つことがあれば、そこで、パッグナよ、あなたは〔世俗的な欲求や世俗的な思考はみな捨てなければならない。

 そこで、パッグナよ、あなたはこのように修養するべきである。
『私のこころがゆがむことがないようにしよう。悪い言葉を放つことがないようにしよう。
 親愛と憐みにあふれ、慈しみの心をもち、怒りをいだかずに過ごそう』と。
パッグナよ、あなたはこのように〕修養するべきである。

 だから、ここで、パッグナよ、もし誰かがあなたに面と向って非難することがあれば、そこで、パッグナよ、あなたは世俗的な欲求や世俗的な思考はみな捨てなければならない。

 そこで、パッグナよ、あなたはこのように修養するべきである。
『私のこころがゆがむことがないようにしよう。悪い言葉を放つことがないようにしよう。
 親愛と憐みにあふれ、慈しみのこころを持ち、怒りをいだかずに過ごそう』と。
 パッグナよ、あなたはこのように修養するべきである。

 だから、ここでパッグナよ、もし誰かがあなたを手で打ち、土くれで打ち、棒で打ち、剣で打つことがあれば、そこで、パッグナよ、あなたは世俗的な欲求や世俗的な思考はみな捨てなければならない。

 そこで、パッグナよ、あなたはこのように修養するべきである。
『私のこころがゆがむことがないようにしよう。悪い言葉を放つことがないようにしよう。
 親愛と憐みにあふれ、慈しみのこころを持ち、怒りをいだかずに過ごそう』と。
パッグナよ、あなたはこのように修養するべきである。

さて、世尊は比丘たちに告げられた、
「比丘たちよ、あるとき、比丘たちが私のこころを喜ばせた。

ここで、比丘たちよ、私は比丘たちに告げた、
『比丘たちよ、私は午前に日に一度の食事をする。
 比丘たちよ、私は午前に一度の食事をするとき、そこに少病と健康と軽やかさと力と安らぎの暮らしがあることを知るのである。
 さあ、比丘たちよ、あなたたちも午前に日に一度の食事をするようにしなさい。
 比丘たちよ、あなたたちも午前に日に一度の食事をするとき、そこに少病と健康と軽やかさと力と安らぎの暮らしがあることを知るであろう』

 比丘たちよ、その比丘たちにはことさら私が教える必要はなかった。
 比丘たちよ、その比丘たちには私が記憶を喚起すればよいだけであった。
 たとえば、比丘たちよ、足場のしっかりした十字路に、駿馬につながれ、突き棒が下げられた車が置かれてあるとしよう。
 それに熟練した調教師である御者が乗り込んで、左手に手綱を持ち、右手に突き棒を持って、思いの方向へ思いのままに、進ませもし戻らせもするとしよう。
 そのように、比丘たちよ、その比丘たちにはことさら私が教える必要はなかった。
 比丘たちよ、その比丘たちには私が記憶を喚起すればよいだけであった。
 だから、ここで、比丘たちよ、あなたたちは不善なるものを捨て、もろもろの善なるものに専心するべきである。
 そうすれば、あなたたちも、この教えときまりのなかで生長し、増大し、発展するに至るであろう。

 たとえば、比丘たちよ、村や町の近くに大きなサーラ樹の森があり、それがつる草に覆われており、そこへ、その利益を願い、福利を願い、安穏を願う人が誰か現れるとしよう。
 その人が折れ曲がり力なえたサーラ樹の若木はみな切除して外に運び出し、森のなかをすっかりきれいに片づけ、真っ直ぐに育ったサーラ樹の若木は充分に保護する。
 そうすれば、比丘たちよ、このサーラ樹の森は、後日、生長し、増大し、発展するに至るであろう。
 そのように、比丘たちよ、あなたたちも不善なるものを捨て、諸々の善なるものに専心するべきである。
 そうすれば、あなたたちもこの教えときまりのなかで生長し、増大し、発展するに至るであろう。

〈ヴェーデーとカーリー〉
 むかし、比丘たちよ、このサーヴァッティーにヴェーデーヒカーという名前の女性資産家がいた。
 比丘たちよ、女性資産家のヴェーデーヒカーに、このようにすばらしい評判がたった。
『女性資産家のヴェーデーヒカーは優しい。女性資産家のヴェーデーヒカーは慎ましい。女性資産家のヴェーデーヒカーは穏やかだ』と。

 ところで、比丘たちよ、女性資産家のヴェーデーヒカーには利口で活発でよく仕事の案配をするカーリーという名前の下女がいた。

さて比丘たちよ、下女のカーリーは、このように思った、
”私の女主人には、このようなすばらしい評判がたっている、
『女性資産家のヴェーデーヒカーは優しい。女性資産家のヴェーデーヒカーは慎ましい。女性資産家のヴェーデーヒカーは穏やかだ〉と。
 私の女主人は、怒りが心の内にあるのに、表に出さないのだろうか。それとも、ないのだろうか。
 私に対しては、このようによく仕事を案配するというので、私の女主人は、怒りが心の内にあるのに、表に出さないのだろうか。ないわけはないだろう。
 私は女主人を試してみることにしよう”と。

 そこで、比丘たちよ、下女のカーリーは昼になって起き出した。

比丘たちよ、女性資産家のヴェーデーヒカーは下女のカーリーにこのように言った、
『おや、また、カーリーや』

『なんでございましょう、ご主人さま』

『まあ、昼になって起きたりして、どうかしたのかい』

『なんでもありません、ご主人さま』

『なんでもないだって、性悪な下女め、昼になって起きたりして』と、立腹し、機嫌を損ね、眉をひそめた。

比丘たちよ、下女のカーリーはこのように思った、
”私の女主人は、怒りが心の内にあるのに、表に出さないのだ。ないわけではない。
 私に対しては、このようによく仕事を案配するというので、私の女主人は、怒りが心の内にあるのに、表に出さないのだ。
 ないわけではない。私はもっと女主人を試してみよう”と。

 そこで、比丘たちよ、下女のカーリーはもっと昼遅くに起き出した。

比丘たちよ、女性資産家のヴェーデーヒカーは下女のカーリーにこのように言った、
『おや、また、カーリーや』

『なんでございましょう、ご主人さま』

『まあ、昼になって起きたりして、どうかしたのかい』

『なんでもありません、ご主人さま』

『なんでもないだって、性悪な下女め、昼になって起きたりして』と、立腹し、機嫌を損ね、眉をひそめた。

比丘たちよ、下女のカーリーはこのように思った、
”私の女主人は、怒りが心の内にあるのに、表に出さないのだ。ないわけではない。
 私に対しては、このようによく仕事を案配するというので、私の女主人は、怒りが心の内にあるのに、表に出さないのだ。
 ないわけではない。私はもっと女主人を試してみよう”と。

 そこで、比丘たちよ、下女のカーリーはもっと昼遅くに起き出した。

比丘たちよ、女性資産家のヴェーデーヒカーは下女のカーリーにこのように言った、
『おや、また、カーリーや』

『なんでございましょう、ご主人さま』

『まあ、昼になって起きたりして、どうかしたのかい』

『なんでもありません、ご主人さま』

『なんでもないだって、性悪な下女め、昼になって起きたりして』と、立腹し、機嫌を損ね、かんぬきの留め金をとって頭を叩き、頭を裂いた。

そして、比丘たちよ、下女のカーリーは頭を裂かれ血を流しながら、
『みなさん、優しい女の人の行いを見て下さい。
 みなさん、つつましい女の人の行いを見てください。
 みなさん、穏やかな女の人の行いを見て下さい。
 いったい、どうして、たった一人の下女に〈昼になって起きた〉と、立腹し、機嫌を損ね、かんぬきの留め金をとって頭を叩き、頭を裂こうとするのでしょうか』と、近隣を騒がせた。

比丘たちよ、女性資産家のヴェーデーヒカーには、後日このような悪い評判がたった、
『女性資産家のヴェーデーヒカーは狂暴だ。女性資産家のヴェーデーヒカーはつつましくない。女性資産家のヴェーデーヒカーは穏やかではない』と。


 このように、比丘たちよ、ここにいる比丘の一人は、不快な話し方に接しないあいだは、きわめて優しく、きわめてつつましく、きわめて穏やかである。

 しかし、比丘たちよ、比丘が不快な話し方に接するとき、そのときこそ、比丘は『優しい』と知られるようでなければならない。
 『つつましい』と知られるようでなければならない。
 『穏やかだ』と知られるようでなければならない。

 比丘たちよ、衣や鉢や座臥具や医薬などの必需品のために柔和になり温厚になる、そのような比丘を、私は『柔和である』と言わない。

 それは何故であるか。

 それは、比丘たちよ、そのような比丘は、衣や鉢や座臥具や医薬などの必需品が手に入らないときは、柔和にならず温厚にならないからである。
 比丘たちよ、教えを敬い、教えを重んじ、教えを崇めて、柔和であり温厚になっているような比丘を、私は『柔和である』というのである。

 だから、ここで、比丘たちよ、『教えを敬い、教えを重んじ、教えを崇めて、柔和になろう、温厚になろう』と、比丘たちよ、あなたたちはこのように修養するべきである。


 比丘たちよ、他の人々があなたたちに話すときは、時に合った仕方であるいは時に合わない仕方で、事実にもとづいてあるいは事実にもとづかないで、温和にあるいは粗暴に、利益をともなった仕方であるいは利益をともなわない仕方で、慈しみの心をもってあるいは怒りをいだいて、このような五つの話し方で話すであろう。

 比丘たちよ、他の人々が話すときは、時に合った仕方であるいは時に合わない仕方で、話すであろう。比丘たちよ、他の人々が話すときは、事実にもとづいてあるいは事実にもとづかないで、話すであろう。

 比丘たちよ、他の人々が話すときは、温和にあるいは粗暴に話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、利益をともなった仕方であるいは利益をともなわない仕方で、話すであろう。あるい慈しみの心をもってあるいは怒りをいだいて、話すであろう。

そこで、また、比丘たちよ、このように修養するべきである、
『私たちの心がゆがむことがないようにしよう。
 悪い言葉を放つことがないようにしよう。
 親愛と憐みにあふれ、慈しみのこころを持ち、怒りをいだかずに過ごそう。
 その人を慈しみをそなえた心で覆って過ごそう。
 その人を中心とするすべての世界を、広く、大きく、限りがなく、憎しみがなく、害意のない、大地のような心で覆って過ごそう』と、比丘たちよ、あなたたちはこのように修養するべきである。


 たとえば、比丘たちよ、人が鋤と籠を持ってくるとしよう。

彼はこのように言う、
『私はこの大地を地にあらざるものにしよう』と。

彼は『おまえは地にあらざるものになるのだ。あまえは地にあらざるものになるのだ』と、あちこちを掘り返し、あちこちをかき混ぜ、あちこちに唾を吐き、あちこちに放尿する。

 比丘たちよ、あなたたちは、その人がこの大地を地にあらざるものにすることができると思うだろうか」

「そのようなことはありません、尊師よ。
 それは何故かといえば、尊師よ、この大地は深く限りがないからであります。
 それは、地にあらざるものにするには、容易なものではありません。
 その人は消耗し、破滅するに至るだけでありましょう」

「このように、比丘たちよ、他の人々があなたたちに話すときは、時に合った仕方で〔あるいは時に合わない仕方で、事実にもとづいてあるいは事実にもとづかないで、温和にあるいは粗暴に、利益をともなった仕方であるいは利益をともなわない仕方で、慈しみの心をもって〕あるいは怒りをいだいて、このような五つの話し方で話すであろう。

 比丘たちよ、他の人々が話すときは、時に合った仕方であるいは時に合わない仕方で、話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、事実にもとづいてあるいは事実にもとづかないで、話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、温和にあるいは粗暴に話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、利益をともなった仕方であるいは利益をともなわない仕方で、話すであろう。
 慈しみの心をもってあるいは怒りをいだいて、話すであろう。

そこで、また、比丘たちよ、このように修養するべきである、
『私たちの心がゆがむことがないようにしよう。悪い言葉を放つことがないようにしよう。
 親愛と憐みにあふれ、慈しみのこころを持ち、怒りをいだかずに過ごそう。
 その人を慈しみをそなえた心で覆って過ごそう。
 その人を中心とするすべての世界を、広く、大きく、限りがなく、憎しみがなく、害意のない、慈しみをそなえた心で覆って過ごそう』と、
 比丘たちよ、あなたたちはこのように修養するべきである。


 たとえば、比丘たちよ、人が赤や黄や青や深紅の染料を持ってくるとしよう。

彼はこのように言う、
『私はこの虚空に形を描こう。形を現出させよう』と。

比丘たちよ、あなたたちは、その人が虚空に形を描き、形を現出させることができると思うだろうか」

「そのようなことはありません、尊師よ。
 それは何故かといえば、尊師よ、この虚空は形のないものであり、見ることができないものだからであります。
 そこに形を描き、形を現出させることは容易なことではありません。その人は消耗し破滅するに至るだけでありましょう。」

「このように、比丘たちよ、他の人々があなたたちに話すときは、時に合った仕方であるいは時に合わない仕方で、〔事実にもとづいてあるいは事実にもとづかないで、温和にあるいは粗暴に、利益をともなった仕方であるいは利益をともなわない仕方で、慈しみの心をもって〕あるいは怒りをいだいて、このような五つの話し方で話すであろう。

 比丘たちよ、他の人々が話すときは、時に合った仕方であるいは時に合わない仕方で、話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、事実にもとづいてあるいは事実にもとづかないで、話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、温和にあるいは粗暴に話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、利益をともなった仕方であるいは利益をともなわない仕方で、話すであろう。
 慈しみの心をもってあるいは怒りをいだいて、話すであろう。

そこで、また、比丘たちよ、このように修養するべきである、
『私たちの心がゆがむことがないようにしよう。
 悪い言葉を放つことがないようにしよう。
 親愛と憐みにあふれ、慈しみのこころを持ち、怒りをいだかずに過ごそう。その人を慈しみをそなえた心で覆って過ごそう。
 その人を中心とするすべての世界を、広く、大きく、限りがなく、憎しみがなく、害意のない、虚空のような心で覆って過ごそう』と、
 比丘たちよ、あなたたちはこのように修養するべきである。


 たとえば、比丘たちよ、人が燃えさかる乾草のたいまつを持って来るとしよう。

彼はこのように言う、
『私はこの燃えさかる乾草のたいまつでガンジス川を熱し、焦がしてみよう』と。

 比丘たちよ、あなたたちは、その人が燃えさかる乾草のたいまつでガンジス川を熱し、焦がすことができると思だろうか」

「そのようなことはありません、尊師よ。
 それは何故かといえば、尊師よ、ガンジス川は深く、限りがないからであります。
 それは、点火した乾草のたいまつで熱し、焦がすには、容易なものではありません。
 その人は消耗し、破滅するに至るだけでありましょう」

「このように、比丘たちよ、他の人々があなたたちに話すときは、時に合った仕方であるいは時に合わない仕方で、〔事実にもとづいてあるいは事実にもとづかないで、温和にあるいは粗暴に、利益をともなった仕方であるいは利益をともなわない仕方で、慈しみの心をもって〕あるいは怒りをいだいて、このような五つの話し方で話すであろう。

 比丘たちよ、他の人々が話すときは、時に合った仕方であるいは時に合わない仕方で、話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、事実にもとづいてあるいは事実にもとづかないで、話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、温和にあるいは粗暴に話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、利益をともなった仕方であるいは利益をともなわない仕方で、話すであろう。
 慈しみの心をもってあるいは怒りをいだいて、話すであろう。

そこで、また、比丘たちよ、このように修養するべきである、
『私たちの心がゆがむことがないようにしよう。悪い言葉を放つことがないようにしよう。
 親愛と憐みにあふれ、慈しみのこころを持ち、怒りをいだかずに過ごそう。
 その人を慈しみをそなえた心で覆って過ごそう。
 その人を中心とするすべての世界を、広く、大きく、限りがなく、憎しみがなく、害意のない、ガンジス川のような心で覆って過ごそう』と、
 比丘たちよ、あなたたちはこのように修養するべきである。


 たとえば、比丘たちよ、揉まれた、よく揉まれた、充分によく揉まれた、柔らかい、絹綿のような、サラサラという音もたてず、バラバラという音もたてない猫の皮があり、そこへ人が木片や小石を持ってくるとしよう。

彼はこのように言う、
『私は、揉まれた、よく揉まれた、充分によく揉まれた、柔らかい、絹綿のような、サラサラという音もたてず、バラバラという音もたてないこの猫の皮に、木片や小石でサラサラという音をたてさせ、バラバラという音をたてさせてみよう』

 比丘たちよ、あなたたちは、揉まれた、よく揉まれた、充分によく揉まれた、柔らかい、絹綿のような、サラサラという音もたてず、バラバラという音もたてないこの猫の皮に、木片や小石でサラサラという音をたてさせ、バラバラという音をたてさせることができると思うだろうか」

「そのようなことはありません、尊師よ。
 それは何故かといえば、尊師よ、この猫の皮は揉まれた、よく揉まれた、充分によく揉まれた、柔らかい、絹綿のような、サラサラという音もたてず、バラバラという音もたてないものだからであります。
 それは、木片や小石でサラサラという音をたてさせ、バラバラという音をたてさせるには、容易なものではありません。
 その人は消耗し破滅するに至るだけでありましょう」

「このように、比丘たちよ、他の人々があなたたちに話すときは、時に合った仕方であるいは時に合わない仕方で、〔事実にもとづいてあるいは事実にもとづかないで、温和にあるいは粗暴に、利益をともなった仕方であるいは利益をともなわない仕方で、慈しみの心をもって〕あるいは怒りをいだいて、このような五つの話し方で話すであろう。

 比丘たちよ、他の人々が話すときは、時に合った仕方であるいは時に合わない仕方で、話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、事実にもとづいてあるいは事実にもとづかないで、話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、温和にあるいは粗暴に話すであろう。
 比丘たちよ、他の人々が話すときは、利益をともなった仕方であるいは利益をともなわない仕方で、話すであろう。
 慈しみの心をもってあるいは怒りをいだいて、話すであろう。

そこで、また、比丘たちよ、このように修養するべきである、
『私たちの心がゆがむことがないようにしよう。悪い言葉を放つことがないようにしよう。親愛と憐みにあふれ、慈しみのこころを持ち、怒りをいだかずに過ごそう。その人を慈しみをそなえた心で覆って過ごそう。
 その人を中心とするすべての世界を、広く、大きく、限りがなく、憎しみがなく、害意のない、猫の皮のような心で覆って過ごそう』と、
 比丘たちよ、あなたたちはこのように修養するべきである。


 もし、比丘たちよ、たちの悪い盗賊たちが両側に取っ手のついた鋸で四肢を切断することがあるとしても、そこで敵意をいだくようであれば、そのときその人は私の教えに従っていないのである。

そこで、また、比丘たちよ、このように修養するべきである、
『私たちの心がゆがむことがないようにしよう。悪い言葉を放つことがないようにしよう。親愛と憐みにあふれ、慈しみのこころを持ち、怒りをいだかずに過ごそう。その人を慈しみをそなえた心で覆って過ごそう。
 その人を中心とするすべての世界を、広く、大きく、限りがなく、憎しみがなく、害意のない、慈しみをそなえた心で覆って過ごそう』と、
 比丘たちよ、あなたたちはこのように修養するべきである。

 比丘たちよ、あなたたちはこの鋸の喩えの教えについて繰り返しよく考えてみなければならない。

 比丘たちよ、あなたたちは、細かなものであれ大まかなものであれ、あなたたちが耐えられないよう話し方がある、と見るであろうか」

「そのようなことはありません、尊師よ」

「だから、ここで、比丘たちよ、この鋸の喩えの教えについて繰り返しよく考えてみるべきである。

 それは長きにわたって、あなたたちに幸福と安楽をもたらすものとなるであろう」

 世尊はこのように言われた。その比丘たちは満足し、世尊の説かれたことを喜んで受けた。

鋸喩経





  プンナへの教え


 このように私は聞きました。
 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)にあるジェータ林のアナータピンディカの園におられた。

 さて、尊者プンナ(富樓那弥多羅尼子)は、夕刻に黙想から立ち上がって、世尊がおられるところへ行き、親愛と敬意に満ちた挨拶のことばをかわして、かたわらに坐った。

かたわらに坐った尊者プンナは、世尊に言った、
「尊者、世尊よ、どうか簡略に私を教えさとして下さい。
 そうすれば、世尊の教えを聞いて、私は、一人離れて暮らし、怠惰になることなく努め励んで生活できるでしょう」

「では、プンナよ、よく聞いて考えるがよい。説き明かそう」

「かしこまりました」

「プンナよ、眼によって知覚されるいろかたちは、好ましく愛らしく快く喜ばしく快楽的で、欲望をあおる。
 もし比丘が、それを歓喜し、迎え入れ、固執するならば、その比丘には、喜びが生ずる。
 喜びが生ずれば、苦しみが生ずる、と私は説く。

 プンナよ、耳によって知覚される音声、鼻によって知覚される香り、舌によって知覚される味、身体によって知覚される触れられるもの、心によって知覚される考えられるものは、好ましく愛らしく快く喜ばしく快楽的で、欲望をあおる。
 もし比丘が、これらを歓喜し、迎え入れ、固執するならば、その比丘には、喜びが生ずる。
 喜びが生ずれば、苦しみが生ずる、と私は説く。

 プンナよ、眼によって知覚されるいろかたちは、好ましく愛らしく快く喜ばしく快楽的で、欲望をあおる。
 もし比丘が、それを歓喜せず、迎え入れず、固執しないならば、その比丘にとって、喜びは消える。
 喜びが消えれば、苦しみが消える、と私は説く。

 プンナよ、耳によって知覚される音声、鼻によって知覚される香り、舌によって知覚される味、身体によって知覚される触れられるもの、心によって知覚される考えられるものは、好ましく愛らしく快く喜ばしく快楽的で、欲望をあおる。
 もし比丘が、これらを歓喜せず、迎え入れず、固執しないならば、その比丘にとって、喜びは消える。
 喜びが消えれば、苦しみが消える、と私は説く。


 さて、プンナよ、こうして簡略に教えさとされて、そなたは、どの地方に住もうというのか」

「尊者よ、こうして世尊によって簡略に教えさとされて、私は、スナーパランタという地方がありますが、そこに住もうと思っております」

「プンナよ、スナーパランタの人々は、粗暴であるぞ。その地方の人々は、凶暴であるぞ。
 もしそこの人々が、そなたをののしり、そしったとしたら、そのとき、そなたはどのようにするのか」

「尊者よ、もしスナーパランタの人々が、私をののしり、そしったとすれば、そのとき、私は、
”このスナーパランタの人々は、実によい人たちだ。この地方の人々は、実によい人たちだ。この人たちは私を手で打ったりしない”と考えるでしょう。
 世尊よ、そのようなときは、こう考えるでしょう。幸ある人よ、そのようなときは、こう考えるでしょう」

「では、プンナよ、もしスナーパランタの人々が、そなたを手で打ったとしたら、そのとき、そなたはどのようにするのか」

「尊者よ、もしスナーパランタの人々が、私を手で打ったとしたら、そのとき、私は、
”このスナーパランタの人々は、実によい人たちだ。この人たちは私を土塊で打ったりしない”と考えるでしょう。」

「では、プンナよ、もしスナーパランタの人々が、そなたを土塊で打ったとしたら、そのとき、そなたはどのようにするのか」

「尊者よ、もしスナーパランタの人々が、私を土塊で打ったとしたら、そのとき、私は、
”このスナーパランタの人々は、実によい人たちだ。この人たちは私を棒で打ったりしない”と考えるでしょう。」

「では、もし彼らが、そなたを棒で打ったとしたら、どのようにするのか」

「尊者よ、そのようなときは、
”この人々は、実によい人たちだ。この人たちは私を剣で打ったりしない”と考えるでしょう。」

「では、もし彼らが、そなたを剣で打ったとしたら、どのようにするのか」

「尊者よ、そのようなときは、
”この人々は、実によい人たちだ。この人たちは私を鋭利な剣で殺したりしない”と考えるでしょう。」

「では、もし彼らが、そなたを鋭利な剣で殺すとすれば、どのようにするのか」

「尊者よ、そのようなときは、
”世尊のお弟子たちの中には、身体や生命を厭い嫌って、殺してくれる者を求める人すらいる。私は、求めることもなく、殺してくれる人を得ることができた”と考えるでしょう。」

「善いぞ、善いぞ、プンナ。
 そなたは、克己と安らぎをそなえて、スナーパランタ地方に住むことができるであろう。
 さあ、別れる時が来たのであれば、行くがよい」


 そこで、尊者プンナは、世尊によって説かれたことを大いに喜び、座から立ち上がって世尊を礼拝し、右まわりにめぐる礼をして、坐具をたたみ、鉢と衣をたずさえてスナーパランタ地方めざし、遊行に出かけた。
 順に遊行していって、やがてその地方に入り、そこに住んだ。

 そして、その年の雨期の修行期間(雨安居)のあいだに、男女の在家信者を五百人ずつ、仏道に導き入れ、自らは、三つの超人的な能力(三明)をさとった。

 その後、尊者プンナは涅槃に入った。


 さて、多くの比丘たちが、世尊のおられるところへ来て世尊を礼拝し、かたわらに坐った。

かたわらに坐った比丘たちは、世尊に言った、
「尊者よ、世尊が簡略に教えさとされたプンナという良家の子がなくなりました。
 彼の境涯はどのようであり、未来の運命はどのようなものでありましょうか」

「比丘らよ、良家の子プンナは、賢者であった。
 教えを教えどおりに実践し、私を教えに関する議論で煩わせることがなかった。
 比丘らよ、良家の子プンナは、涅槃に入った」と世尊は言われた。

 比丘たちは、世尊が説かれたことを大いに喜んで受けた。

教誡富樓那経





















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