聖者方の道を求める心・善趣の存在の心構えについて



『私は、苦を受けたくはない、だから、表では悪く言い、裏では善いと言う。また、表では善いと言い、裏では悪く言う。
 仏陀や、聖者方は、そのような悪行を為さらないのです。

 仏陀や、聖者方、善なる神々の行いは、一般の凡人にとりては、為し難い事柄ではあるけれども、
しかし、善趣に赴く人々・存在にとりては、基本的な心構えなのである、と』


 このように、聖者の心構えを修学して、何度も善思するのは、私たち自らが、善趣に赴くのに利益する。





  百槍

仏陀はこのように仰せられた、

「比丘たちよ、譬えば、男子あり、寿百歳・命百歳あり、彼に言う者あり、

『男子よ、汝を早朝に百たび槍にて突き、日中時に百たび槍にて突き、夕時に百たび槍にて突く。

 男子よ、汝、日々に三百たび槍にて突かれ、寿百歳・命百歳を保ち、百歳の後に、未だ現観されない四聖諦を現證する』と。


(ならば、)比丘たちよ、義趣を知れる善男子は、宜しく受くべきである。


 何故であるのか。

 比丘たちよ、輪廻は無始よりありて、槍にて突かれ、剣にて突かれ、斧にて突かれることの、その始まり・際限を知らず(、知られない)。

 比丘たちよ、もしこのようであるならば、比丘たちよ、私は、苦あり憂ある四聖諦の現観を説かない。

 比丘たちよ、私は、楽あり喜ある四聖諦の現観を説く。

 苦の聖諦、苦の集の聖諦、苦の滅の聖諦、苦滅の道の聖諦である。

 このゆえに比丘たちよ、

 これは苦である、と修学精進するがよい。

 これは苦の生起である、と修学精進するがよい。

 これは苦の滅尽である、と修学精進するがよい。

 これは苦の滅尽にいたる道である、と修学精進するが善い。」


相応部 諦相応





















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