仏陀の説かれた理法を、照らし合わせることについて 『仏陀の教えとして、真理として、道理として正しい、清浄な教えは、人を善処へと導く。 仏陀の教えとして、真理として、道理として誤った、邪まな教えは、人を善処へと導かない。 「修行僧らよ。それ故に、お前たちは、これ〔誤った教え〕を放棄すべきである」 後の年代において作られた、矛盾と間違いの多い(大乗仏教等の)経典に依っていた人でも、悪行をせずに、善行を行ってきた人は、 ここにおいて、正しい仏陀の教えを知り、正しい仏陀の教えを学び、 自らで、その仏陀の説く正しい理法を分別して、仏陀の説く正しい教えと、仏陀が説かれることのない誤った教えとを知り、 そして、自らで、その誤まった教え(と、その誤まった教えに対する執着)を捨て去って、 自らで、仏陀の説く正しい教えを受持するならば、その人が、善(処)へと進むことは難しくはないだろう。 あなたが悪行をしてこなかったのならば、安心して、正しい仏陀の教え〔法〕に依ると善い。』 四決定説 ある時、世尊は、ボーガ城市のアーナンダ霊樹のもとに留まっておられた。 そこにおいて、世尊は、比丘たちに言われた、 「比丘たちよ、私は四の大いなる教えを説く。汝らは、それを善く聴き、善く注意しなさい。では、私は説こう」と。 「かしこまりました」と、かの比丘たちは答えた、 世尊は、このように説かれた、 「比丘たちよ、ここに一人の比丘がありて、このように言うとする、 『友よ、私は(この教えを、)世尊より、直接、面前で聞き、直接、面前にて受けた。 これが理法である。これが戒めである。これが師の教えである』と。 比丘たちよ、その比丘の説くところ(の教え)は、喜んで受け取られるべきではなく、また、排斥されるべきでもない。 喜んで受け取ることもなく、また、排斥することもなく、その辞句をよく理解して、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照するがよい。 そして、もしそれらを、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照しても、経にも合致せず、(戒)律にも一致しないときは、この結論に達するべきである、 ”これは、確かに世尊の説かれた言葉〔教え〕ではなく、この比丘によりて、誤まり受けられたものである”と。 このようにして、比丘たちよ、これを捨て去るがよい。 だが、もしそれらを、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照して、経にも合致し、(戒)律にも一致するならば、この結論に達するべきである、 ”これは、確かに世尊の説かれた言葉〔教え〕であり、この比丘によりて、正しく受けられたものである”と。 比丘たちよ、この第一の教えの法を受持しなさい。 また、比丘たちよ、ここに一人の比丘がありて、このように言うとする、 『これこれの所に、長老や尊長の住する僧伽があり、私は(この教えを、)その僧伽より、直接、面前にて聞き、直接、面前で受けた。 これが理法である。これが戒めである。これが師の教えである』と。 比丘たちよ、その比丘の説くところ(の教え)は、喜んで受け取られるべきではなく、また、排斥されるべきでもない。 喜んで受け取ることもなく、また、排斥することもなく、その辞句をよく理解して、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照するがよい。 そして、もしそれらを、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照しても、経にも合致せず、(戒)律にも一致しないときは、この結論に達するべきである、 ”これは、確かに世尊の説かれた言葉〔教え〕ではなく、この比丘によりて、誤まり受けられたものである”と。 このようにして、比丘たちよ、これを捨て去るがよい。 だが、もしそれらを、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照して、経にも合致し、(戒)律にも一致するならば、この結論に達するべきである、 ”これは、確かに世尊の説かれた言葉〔教え〕であり、この比丘によりて、正しく受けられたものである”と。 比丘たちよ、この第二の教えの法を受持しなさい。 また、比丘たちよ、ここに一人の比丘がありて、このように言うとする、 『これこれの所に、多聞にして、阿含を伝承し、法を保持し、(戒)律を保持し、論を保持する、多くの長老比丘が住している。 そこにおいて、私は(この教えを、)それらの長老より、直接、面前で聞き、直接、面前にて受けた。 これが理法である。これが戒めである。これが師の教えである』と。 比丘たちよ、その比丘の説くところ(の教え)は、喜んで受け取られるべきではなく、また、排斥されるべきでもない。 喜んで受け取ることもなく、また、排斥することもなく、その辞句をよく理解して、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照するがよい。 そして、もしそれらを、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照しても、経にも合致せず、(戒)律にも一致しないときは、この結論に達するべきである、 ”これは、確かに世尊の説かれた言葉〔教え〕ではなく、この比丘によりて、誤まり受けられたものである”と。 このようにして、比丘たちよ、これを捨て去るがよい。 だが、もしそれらを、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照して、経にも合致し、(戒)律にも一致するならば、この結論に達するべきである、 ”これは、確かに世尊の説かれた言葉〔教え〕であり、この比丘によりて、正しく受けられたものである”と。 比丘たちよ、この第三の教えの法を受持しなさい。 また、比丘たちよ、ここに一人の比丘がありて、このように言うとする、 『これこれの所に、多聞にして、阿含を伝承し、法を保持し、(戒)律を保持し、論を保持する、一人の長老比丘が住している。 そこにおいて、私は(この教えを、)その長老より、直接、面前で聞き、直接、面前にて受けた。 これが理法である。これが戒めである。これが師の教えである』と。 比丘たちよ、その比丘の説くところ(の教え)は、喜んで受け取られるべきではなく、また、排斥されるべきでもない。 喜んで受け取ることもなく、また、排斥することもなく、その辞句をよく理解して、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照するがよい。 そして、もしそれらを、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照しても、経にも合致せず、(戒)律にも一致しないときは、この結論に達するべきである、 ”これは、確かに世尊の説かれた言葉〔教え〕ではなく、この比丘によりて、誤まり受けられたものである”と。 このようにして、比丘たちよ、これを捨て去るがよい。 だが、もしそれらを、(一つずつ)経に照合し、(戒)律に参照して、経にも合致し、(戒)律にも一致するならば、この結論に達するべきである、 ”これは、確かに世尊の説かれた言葉〔教え〕であり、この比丘によりて、正しく受けられたものである”と。 比丘たちよ、この第四の教えの法を受持しなさい。 比丘たちよ、これらの四の(大いなる)教えの法を受持しなさい」 さらに、世尊は、ボーガ城市のアーナンダ霊樹の地において、比丘たちのために、数多くの法話をなされた。 すなわち、 「これが戒めである。これが定である。これが慧である。 戒めとともに修せられた定は、その果は大にして、利益も多大である。 定とともに修せられた慧は、その果も大にして、利益も多大である。 慧とともに修せられた心は、欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから、完全に解脱する」と。 四大教法 大パリニッバーナ経
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