更訂 H28.12.10



  真理の言葉を唱えることについて





  聖典の暗誦

 或るとき一人の修行僧が、コーサラ国のうちの或る林の荒地に住んでいた。

 そのときの修行僧は、以前には非常に長いあいだ聖典の暗誦に大いにつとめていたが、後になっては、つとめること少なく、沈黙して、控えていた。

 さてその林の荒地に住みついている神は、その修行僧が聖典の教えを唱えるのを聞かなくなったので、その修行僧のところに近づいた。

(荒地に住する神は、修行僧に言った、)
「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理の言葉を唱えないのか。

 真理の言葉が唱えられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞賛を博する」

〔修行僧いわく、〕
「昔は、私は離欲を達成するまでは真理の言葉を学びたいという願望がありました。

 今や私は、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました」


サンユッタ・ニカーヤ





説明文

〔”離欲”という目標を達成するまでは、聖典の教えを、心にかけて学ばねばならない。
 しかし今やその目標を達成したのであるから、聖典を学ぶことにくよくよする必要はない。
 聖典を、または経文を、声をあげて読誦しないからとて、決して怠けているのではない、というのである。
 教えとは筏のようなもので、目的を達成したならば捨て去らねばならぬということは、原始仏教から『金剛経』に至るまで一貫して説かれていることである。いわば、仏教の一つの特徴である。(
中村元氏)〕



 要するに、それぞれの教えに対する執著する心をも、最終的には捨てなければならない。という事です。〔對馬弘〕



多くの訳には「神呪を語り」となっているが、(神呪は)原始仏教の修行生活にはそぐわない。

 原始仏教一般では神呪を唱えることを排斥している。
(中村氏)〕という事です。


〔護呪〔真理の言葉〕については、神呪は祭司の方であるとして、護呪〔真理の言葉〕と、神呪を別けて考えると理解しやすいでしょう。(對馬)〕






















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