更訂 H32.2.29



  七覚支について



  七覚支

 わたくしはこのように聞きました。
 あるとき尊き師ブッダはサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。

 もし比丘その心を専一にし、かたわら正法を聞き、よく五法〔五蓋〕を断じ、七法を修習すれば、それをして、転進し満足する。

 何を、五法を断ずる、と為すのか。

 いわゆる、食欲蓋・瞋恚蓋・睡眠蓋・掉悔蓋・疑蓋である。

 これを五法断ずる名付ける。

 何を、七法を修習する、

 いわゆる、念覚支・擇法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

 この七法を修せば転進し満足する」と。

 このように世尊は説かれた。比丘たちは、世尊の説かれたことを聞いて、歓喜し敬いて受けた。





  説

 比丘たちよ、私は、汝らに七覚支を説こう、聞くが善い。

 比丘たちよ、何を、七覚支と為すのか。

 念覚支・擇法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

 比丘たちよ、これを七覚支と為す。




  魔

 比丘たちよ、私は、汝らに魔軍をくじき屈服させる道を説こう、聞くが善い。

 比丘たちよ、何を、魔軍をくじき屈服させる道と為すのか。

 それは、七覚支である。

 何を、七と為すのか。

 念覚支・擇法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

 比丘たちよ、これを魔軍をくじき屈服させる道と為す。




  不貪

 大徳よ、不貪、不貪と説くのは、大徳よ、どのような事柄を説いて、不貪と為すのですか。

 比丘よ、七覚支を修習し、多修するが故に、説いて、不貪と為す。

 何を、七と為すのか。

 念覚支・擇法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

 比丘たちよ、これを七覚支を修習し、多修するが故に、説いて、不貪と為す。




  日輪

 比丘たちよ、日輪上がるときに前駈となるのは、明相があることである。

 比丘たちよ、このように、比丘、七覚支を起こす時、前駈であり前相であるのは、善友あることである。

 比丘たちよ、善友ある比丘においては、七覚支を修習し、七覚支を多修することを期待すべきである。


 比丘たちよ、善友ある比丘は、どのようにして、七覚支を修習し、多修するのか。

 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する念覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する擇法覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する精進覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する喜覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する軽安覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する定覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する捨覚支を修習する。

 比丘たちよ、善友ある比丘は、このようにして、七覚支を修習し、七覚支を多修する。




  支分(如理作意)

 比丘たちよ、内の支分を言うのに、他に一支分として七覚支を起こすものがあるのを見ない。

 比丘たちよ、これが、すなわち如理作意である。

 比丘たちよ、如理作意を具足する比丘においては、七覚支を修習し、七覚支を多修することを期待するべきである。

 比丘たちよ、如理作意を具足する比丘においては、どのようにして、七覚支を修習し、七覚支を多修するのか。

 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する念覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する擇法覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する精進覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する喜覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する軽安覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する定覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する捨覚支を修習する。

 比丘たちよ、如理作意を具足する比丘は、このようにして、七覚支を修習し、七覚支を多修する。




  支分(善友)

 比丘たちよ、外の支分を言うのに、他に一支分として七覚支を起こすものがあるのを見ない。

 比丘たちよ、これが、すなわち善友あることである。

 比丘たちよ、善友ある比丘においては、七覚支を修習し、七覚支を多修することを期待するべきである。

 比丘たちよ、善友ある比丘においては、どのようにして、七覚支を修習し、七覚支を多修するのか。

 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する念覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する擇法覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する精進覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する喜覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する軽安覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する定覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する捨覚支を修習する。

 比丘たちよ、善友ある比丘は、このようにして、七覚支を修習し、七覚支を多修する。




  到彼岸

 比丘たちよ、七覚支を修習し、多修せば、到彼岸に資する。

 何を、七と為すのか、

 念覚支・擇法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

 比丘たちよ、この七覚支を修習し、多修せば、到彼岸に資する。

 世尊は、このように説き給うた。

 このように説いて、善逝・師は、更に説き給うた。

 人中にて、彼岸に到る者は、少ない。…乃至…

 光輝ある漏尽の者は、現世にありて般涅槃する。




  失

 比丘たちよ、もし七覚支を失することある者は、正しく苦滅に順ずる聖道を失くしているのである。

 比丘たちよ、もし七覚支をおこすことある者は、正しく苦滅に準ずる聖道をおこしているのである。

 何を、七と為すのか。

 念覚支・擇法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

 比丘たちよ、七覚支を失することある者は、正しく苦滅に順ずる聖道を失くしているのである。

 比丘たちよ、もしこの七覚支をおこすことある者は、正しく苦滅に順ずる聖道をおこしているのである。




  聖

 比丘たちよ、七覚支を修習し多修せば、聖・出離にしてこれを修する者をして、正しく苦を滅尽するに到る。

 何を、七と為すのか。

 念覚支・擇法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

 比丘たちよ、これ七覚支を修習し多修せば、これを修する者をして正しく苦を滅尽するに到る。




  厭患

 比丘たちよ、七覚支を修習し、多修せば、一向厭患・離貪・滅尽・寂止・證知・等覚・涅槃に資する。

 何を、七と為すのか。

 念覚支・擇法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

 比丘たちよ、これ七覚支を修習し、多修せば、一向厭患・離貪・滅尽・寂止・證知・等覚・涅槃に資する。




  一法

 比丘たちよ、私は、他に一法として、もしこの修習し、多修せば、諸々の結法を断ずるに資するものあるを見ない。

 比丘たちよ、これすなわち、七覚支である。

 何を、七と為すのか。

 念覚支・擇法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

 比丘たちよ、これ七覚支を修習し、多修せば、諸々の結法を断ずるに資する。

 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する念覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する擇法覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する精進覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する喜覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する軽安覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する定覚支を修習する。
 比丘たちよ、ここに比丘あり、遠離に依り、離貪に依り、滅尽に依り、捨に廻向する捨覚支を修習する。

 比丘たちよ、七覚支を、このように修習し、このように多修せば、諸々の結法を断ずるに資する。

 比丘たちよ、何を結法と為すのか。
 眼は、結法である。ここにおいて結繋の執著を生ずる。
 耳は、結法である。ここにおいて結繋の執著を生ずる。
 鼻は、結法である。ここにおいて結繋の執著を生ずる。
 舌は、結法である。ここにおいて結繋の執著を生ずる。
 意は、結法である。ここにおいて結繋の執著を生ずる。




  非如理

 比丘たちよ、非如理に作意せば、

 未生の貪欲を生じ、巳生の貪欲を倍増し、増大する。
 未生の瞋恚を生じ、巳生の瞋恚を倍増し、増大する。
 未生の惛眠を生じ、巳生の惛眠を倍増し、増大する。
 未生の掉擧を生じ、巳生の掉擧を倍増し、増大する。
 未生の疑惑を生じ、巳生の疑惑を倍増し、増大する。

 未生の念覚支を生ぜず、 巳生の念覚支滅する。
 未生の擇法覚支を生ぜず、巳生の擇法覚支滅する。
 未生の精進覚支を生ぜず、巳生の精進覚支滅する。
 未生の喜覚支を生ぜず、 巳生の喜覚支滅する。
 未生の軽安覚支を生ぜず、巳生の軽安覚支滅する。
 未生の定覚支を生ぜず、 巳生の定覚支滅する。
 未生の捨覚支を生ぜず、 巳生の捨覚支滅する。

 比丘たちよ、如理に作意せば、

 未生の貪欲を生ぜず、巳生の貪欲が断ぜられる。
 未生の瞋恚を生ぜず、巳生の瞋恚が断ぜられる。
 未生の惛眠を生ぜず、巳生の惛眠が断ぜられる。
 未生の掉擧を生ぜず、巳生の掉擧が断ぜられる。
 未生の疑惑を生ぜず、巳生の疑惑が断ぜられる。

 未生の念覚支を生じ、 巳生の念覚支を修習し円満する。
 未生の擇法覚支を生じ、巳生の擇法覚支を修習し円満する。
 未生の精進覚支を生じ、巳生の精進覚支を修習し円満する。
 未生の喜覚支を生じ、 巳生の喜覚支を修習し円満する。
 未生の軽安覚支を生じ、巳生の軽安覚支を修習し円満する。
 未生の定覚支を生じ、 巳生の定覚支を修習し円満する。
 未生の捨覚支を生じ、 巳生の捨覚支を修習し円満する。




  不損

 比丘たちよ、私は、汝らに七不損法を説こう、聞くが善い。

 比丘たちよ、何を、七不損法と為すのか。

 比丘たちよ、これすなわち、七覚支である。

 何を、七と為すのか。

 念覚支・擇法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支である。

 比丘たちよ、これを七不損法と為す。




  理趣

 その時、多くの比丘が、早朝に下衣を着け鉢衣を持ち、舎衛城に入りて、乞食しようとした。

 その時、彼ら比丘は、このように思念した、”舎衛城にて乞食に歩くのに早過ぎる。我らは、異学修行者の園に赴こう”と。

 その時、彼ら比丘は、異学修行者の園に赴いて、異学修行者とともに敬意を持ち、歓喜すべく感銘すべき談を交して一面に坐した。
 一面に坐したとき彼の比丘たちよ、異学修行者は、言うた、

「友らよ、沙門瞿曇は、弟子のためにこのように法を説き、「比丘たちよ、汝らは、心の随煩悩にして、慧を衰弱にする五蓋を断じて、七覚支を如実に修習せよ」と言う。

 友らよ、我らも、また弟子のためにこのように法を説き、「比丘たちよ、汝らは、心の随煩悩にして、慧を衰弱にする五蓋を断じて、七覚支を如実に修習せよ」と言う。

 友らよ、ここに沙門瞿曇と我らとの説法と説法、教戒と教戒とに何の差別、何の殊異あるのか。

 その時、彼ら比丘は、かの異学修行者の所説を歓喜せずに、呵責しなかった。歓喜せず、呵責せずして座より立ちて去った。
「我ら、世尊のみ許に於いて、この所説の義を知ろう」と。

 その時、彼ら比丘たちは、舎衛城にて、乞食に歩み、食後、乞食より還りて、世尊の存すところに詣り、詣りて世尊を敬礼して、一面に坐した。


 一面に坐して、かの比丘たちは世尊にもうして言うた、

「大徳よ、ここに我ら、早朝に下衣を着け鉢衣を持ち、舎衛城に入りて、乞食しようとしました。

 その時、我ら比丘は、このように思念した、”舎衛城にて乞食に歩るくのに早過ぎる。我らは、異学修行者の園に赴こう”と。

 その時、我ら比丘は、異学修行者の園に赴いて、異学修行者とともに敬意を持ち、歓喜すべく感銘すべき談をを交して一面に坐した。
 一面に坐したとき彼の比丘たちよ、異学修行者は、言うた、

「友らよ、沙門瞿曇は、弟子のためにこのように法を説き、「比丘たちよ、汝らは、心の随煩悩にして、慧を衰弱にする五蓋を断じて、七覚支を如実に修習せよ」と言う。

 友らよ、我らも、また弟子のためにこのように法を説き、「比丘たちよ、汝らは、心の随煩悩にして、慧を衰弱にする五蓋を断じて、七覚支を如実に修習せよ」と言う。

 友らよ、ここに沙門瞿曇と我らとの説法と説法、教戒と教戒とに何の差別、何の殊異あるのか。

 その時、彼ら比丘は、かの異学修行者の所説を歓喜せずに、呵責しなかった。歓喜せず、呵責せずして座より立ちて去った。

「我ら、世尊のみ許に於いて、この所説の義を知ろう」と。

 比丘たちよ、異学修行者のように説くのは、このように言うが善い、「友らよ、理趣あり、この理趣によりて、五蓋は十となり、七覚支は十四となる」と。
 比丘たちよ、このように、問うのに異学修行者は答えることができずに、困惑する。


 何を以ての故なのか。

 比丘たちよ、これは、その境界にないからである。
 比丘たちよ、我は、天・魔・梵世・沙門・婆羅門・天・人衆生中にこの問いに、答えられる心をおこす者ののあるのを見ない。ただし、如来と如来の弟子と、これより聞けるのとを除く。




  五蓋、十となる

 比丘たちよ、何の理趣ありて、その理趣によりて、五蓋、十となるのか。

 比丘たちよ、内の貪欲も蓋なり、外の貪欲も蓋なり。
 貪欲蓋とは、この説に依る。この理趣によりて、二なり。

 比丘たちよ、内の瞋恚も蓋なり、外の瞋恚も蓋なり。
 瞋恚蓋とは、この説に依る。この理趣によりて、二なり。

 比丘たちよ、惛沈も蓋なり、睡眠も蓋なり。
 惛眠蓋とは、この説に依る。この理趣によりて、二なり。

 比丘たちよ、掉擧も蓋なり、追悔も蓋なり。
 掉悔蓋とは、この説に依る。この理趣によりて、二なり。

 比丘たちよ、内法の疑惑も蓋なり、外法の疑惑も蓋なり。
 疑惑蓋とは、この説に依る。この理趣によりて、二なり。

 比丘たちよ、この理趣ありて、この理趣によりて、五蓋、十となるのか。




  七覚支、十四となる

 比丘たちよ、何の理趣ありて、その理趣に依りて、七覚支、十四であるのか。

 比丘たちよ、内法の念も念覚支なり、外法の念も念覚支である。
 念覚支とはこの説に依る。
 故に、この理趣によりて二なり。

 比丘たちよ、外法に於いて、慧を以て決擇し、伺察し思慮するも、擇法覚支である、内法に於いて、慧を以て決擇し、伺察し思慮するも、擇法覚支である。
 擇法覚支とは、この説に依る。
 故に、この理趣によりて二なり。

 比丘たちよ、身の精進も精進覚支である、心の精進も精進覚支である。
 精進覚支とは、この説に依る。
 故に、この理趣によりて二なり。

 比丘たちよ、有尋有伺の喜も、喜覚支である、無尋無伺の喜も、喜覚支である。
 喜覚支とは、この説に依る。
 故に、この理趣によりて二なり。

 比丘たちよ、身の軽安も、軽安覚支である、心の軽安も、軽安覚支である、
 軽安覚支とは、この説に依る。
 故に、この理趣によりて二なり。

 比丘たちよ、有尋有伺の定も、定覚支である、無尋無伺の定も、定覚支である。
 定覚支とは、この説に依る。
 故に、この理趣によりて二なり。

 比丘たちよ、内法の捨も捨覚支である、外法の捨も捨覚支である。
 捨覚支とはこの説に依る。
 故に、この理趣によりてに二なり。

 比丘たちよ、この理趣あり、この理趣によりて、七覚支十四となる。




  火

 その時、多くの比丘が、早朝に下衣を着け鉢衣を持ち、舎衛城に入りて、乞食しようとした。

 比丘たちよ、異学修行者のように説くのは、このように言うが善い、
「友らよ、心退縮する時は、何れの覚支を修習するに非時であるのか。何れの覚支を修習するに時なのか。
 友らよ、掉擧なる時は、何れの覚支を修習するに非時であるのか。何れの覚支を修習するに時なのか。友らよ、」と。
 比丘たちよ、このように問うのに異学修行者は答えることができずに、困惑する。

 比丘たちよ、このように問うのに異学修行者は答えることができずに、困惑する。

 何を以ての故なのか。

 比丘たちよ、これは、その境界にないからである。
 比丘たちよ、我、天・魔・梵世・沙門・婆羅門・天・人衆生中にこの問いに、答えられる心をおこす者ののあるのを見ない。ただし、如来と如来の弟子と、これより聞けるのとを除く。




  非時(退縮心)

 比丘たちよ、心退縮する時は、
 軽安覚支を修習するのに非時である。
 定覚支を修習するのに非時である。
 捨覚支を修習するのに非時である。

 何を以ての故であるのか。

 比丘たちよ、退縮心はこれらの諸法を以ては発起せしめ難いからである。

 比丘たちよ、譬えば、人ありて、小さな火をおこそうと欲する。
 彼は、湿った草を投じて、湿った牛糞を投じて、湿った薪を投じて、水・風を加えて、塵芥をまくのに、その人はよく小火を起こすことができるだろうか。

 大徳よ、できません。

 比丘たちよ、このように、心退縮する時は、
 軽安覚支を修習するのに非時である。
 定覚支を修習するのに非時である。
 捨覚支を修習するのに非時である。

 何を以ての故であるのか。

 比丘たちよ、退縮心は、これらの諸法を以ては発起せしめ難いからである。




  時(退縮心)

 比丘たちよ、心退縮する時は、
 軽安覚支を修習するのに非時である。
 定覚支を修習するのに非時である。
 捨覚支を修習するのに非時である。

 何を以ての故であるのか。

 比丘たちよ、退縮心はこれらの諸法を以ては発起せしめ難いからである。

 比丘たちよ、譬えば、人ありて、小さな火をおこそうと欲する。
 彼は、ここに湿った草を投じて、湿った牛糞を投じて、湿った薪を投じて、水・風を加えて、塵芥をまくのに、その人はよく小火を起こすことができるだろうか。

 大徳よ、できません。

 比丘たちよ、このように、心退縮する時は、
 軽安覚支を修習するのに非時である。
 定覚支を修習するのに非時である。
 捨覚支を修習するのに非時である。

 何を以ての故であるのか。

 比丘たちよ、退縮心は、これらの諸法を以ては発起せしめ難いからである。




  非時(掉擧心)

 比丘たちよ、心掉擧する時は、
 擇法覚支を修習するのに非時である。
 精進覚支を修習するのに非時である。
 喜覚支を修習するのに非時である。

 何を以ての故であるのか。

 比丘たちよ、掉擧心はこれらの諸法を以ては寂静させ難いからである。

 比丘たちよ、譬えば、人ありて、大きな火をおこそうと欲する。
 彼は、ここに乾いた草を投じて、乾いた牛糞を投じて、乾いた薪を投じて、吹気を加えて、塵芥をまかなければ、その人はよく大火を消すことができるだろうか。

 大徳よ、できません。

 比丘たちよ、このように、心掉擧する時は、
 擇法覚支を修習するのに非時である。
 精進覚支を修習するのに非時である。
 喜覚支を修習するのに非時である。

 何を以ての故であるのか。

 比丘たちよ、掉擧心は、これらの諸法を以ては発起せしめ難いからである。




  時(掉擧心)

 比丘たちよ、心掉擧する時は、
 軽安覚支を修習するのに時である。
 定覚支を修習するのに時である。
 捨覚支を修習するのに時である。

 何を以ての故であるのか。

 比丘たちよ、掉擧心はこれらの諸法を以ては寂静ならしめ易いからである。

 比丘たちよ、譬えば、人ありて、大きな火をおこそうと欲する。
 彼は、ここに湿った草を投じて、湿った牛糞を投じて、湿った薪を投じて、水・風を加えて、塵芥をまけば、その人はよく大火を消すことができるだろうか。

 大徳よ、できません。

 比丘たちよ、このように、心掉擧する時は、
 軽安覚支を修習するのに時である。
 定覚支を修習するのに時である。
 捨覚支を修習するのに時である。

 何を以ての故であるのか。

 比丘たちよ、掉擧心は、これらの諸法を以ては寂静ならしめ易いからである。

 比丘たちよ、念は、常にあり、と説くのである。




  覚支の食

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の念覚支を生じ、巳生の念覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、念覚支処の法あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の念覚支を生じ、已生の念覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の擇法覚支を生じ、巳生の擇法覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、善不善法、有呵責無呵責法・劣勝法・黒白俱分法あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の擇法覚支を生じ、已生の擇法覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の精進覚支を生じ、巳生の精進覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、発勤界・精勤界・勤勇界あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の精進覚支を生じ、已生の精進覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の喜覚支を生じ、巳生の喜覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、喜覚支処あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の喜覚支を生じ、已生の喜覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の軽安覚支を生じ、巳生の軽安覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、身軽安・心軽安あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の軽安覚支を生じ、已生の軽安覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の定覚支を生じ、巳生の定覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、寂止相・不乱相あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の定覚支を生じ、已生の定覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の捨覚支を生じ、巳生の捨覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、捨覚支処の法あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の捨覚支を生じ、已生の捨覚支を修習し円満する。




  涅槃の不食

 比丘たちよ、何が不食となりて、未生の貪欲を生ぜず、、巳生の貪欲を倍増し、増大させないのか。
 比丘たちよ、不浄相あり、この如理作意多修は、不食となりて、未生の貪欲を生ぜず、已生の貪欲を倍増し増大させない。

 比丘たちよ、何が不食となりて、未生の瞋恚を生ぜず、、巳生の瞋恚を倍増し、増大させないのか。
 比丘たちよ、慈心解脱あり、この如理作意多修は、不食となりて、未生の瞋恚を生ぜず、已生の瞋恚を倍増し増大させない。

 比丘たちよ、何が不食となりて、未生の惛眠を生ぜず、、巳生の惛眠を倍増し、増大させないのか。
 比丘たちよ、発勤界・精勤界・勤勇界あり、この如理作意多修は、不食となりて、未生の惛眠を生ぜず、已生の貪欲を倍増し増大させない。

 比丘たちよ、何が不食となりて、未生の掉悔を生ぜず、、巳生の掉悔を倍増し、増大させないのか。
 比丘たちよ、心の寂止あり、この如理作意多修は、不食となりて、未生の掉悔を生ぜず、已生の貪欲を倍増し増大させない。

 比丘たちよ、何が不食となりて、未生の疑惑を生ぜず、、巳生の疑惑を倍増し、増大させないのか。
 比丘たちよ、善不善法、有呵責無呵責法・劣勝法・黒白俱分法あり、この如理作意多修は、不食となりて、未生の疑惑を生ぜず、已生の疑惑を倍増し増大させない。




  身

 比丘たちよ、譬えば、この身は、食に依りて住す、食に縁りて住し、不食にては住せず。

 比丘たちよ、このように五蓋は、食に依りて住す、食に縁りて住し、不食にては住せず。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の貪欲を生じ、巳生の貪欲を倍増し、増大するのか。
 比丘たちよ、浄相あり、この非如理作意多修は、食となりて、未生の貪欲を生じ、已生の貪欲を倍増し増大する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の瞋恚を生じ、巳生の瞋恚を倍増し、増大するのか。
 比丘たちよ、瞋恚あり、この非如理作意多修は、食となりて、未生の瞋恚を生じ、已生の瞋恚を倍増し増大する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の惛眠を生じ、巳生の惛眠を倍増し、増大するのか。
 比丘たちよ、不励喜・倦怠欠呟飽食・心退縮あり、この非如理作意多修は、食となりて、未生の惛眠を生じ、已生の貪欲を倍増し増大する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の掉悔を生じ、巳生の掉悔を倍増し、増大するのか。
 比丘たちよ、心の非寂止あり、この非如理作意多修は、食となりて、未生の掉悔を生じ、已生の貪欲を倍増し増大する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の疑惑を生じ、巳生の疑惑を倍増し、増大するのか。
 比丘たちよ、疑惑処の法あり、この非如理作意多修は、食となりて、未生の疑惑を生じ、已生の疑惑を倍増し増大する。

 比丘たちよ、譬えば、この身は、食に依りて住す、食に縁りて住し、不食にては住せず。
 比丘たちよ、このように、五蓋は、食に依りて住す、食に縁りて住し、不食にては住せず。

 比丘たちよ、譬えば、この身は、食に依りて住す、食に縁りて住し、不食にては住せず。
 比丘たちよ、このように、七覚支は、食に依りて住す、食に縁りて住し、不食にては住せず。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の念覚支を生じ、巳生の念覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、念覚支処の法あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の念覚支を生じ、已生の念覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の擇法覚支を生じ、巳生の擇法覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、善不善法、有呵責無呵責法・劣勝法・黒白俱分法あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の擇法覚支を生じ、已生の擇法覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の精進覚支を生じ、巳生の精進覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、発勤界・精勤界・勤勇界あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の精進覚支を生じ、已生の精進覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の喜覚支を生じ、巳生の喜覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、喜覚支処あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の喜覚支を生じ、已生の喜覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の軽安覚支を生じ、巳生の軽安覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、身軽安・心軽安あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の軽安覚支を生じ、已生の軽安覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の定覚支を生じ、巳生の定覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、寂止相・不乱相あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の定覚支を生じ、已生の念覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、何が食となりて、未生の捨覚支を生じ、巳生の捨覚支を修習し、円満するのか。
 比丘たちよ、捨覚支処の法あり、この如理作意多修は、食となりて、未生の捨覚支を生じ、已生の捨覚支を修習し円満する。

 比丘たちよ、譬えば、この身は、食に依りて住す、食に縁りて住し、不食にては住せず。

 比丘たちよ、このように、七覚支は、食に依りて住す、食に縁りて住し、不食にては住せず。




  戒

 比丘たちよ、諸々の比丘たちが、もし戒具足し、定具足し、慧具足し、解脱具足し、解脱智見具足せば、諸比丘よ、その比丘の見に所作多しと説く。
 比丘たちよ、諸々の比丘たちが、もし戒具足し、定具足し、慧具足し、解脱具足し、解脱智見具足せば、諸比丘よ、その比丘の聴聞に所作多しと説く。
 比丘たちよ、諸々の比丘たちが、もし戒具足し、定具足し、慧具足し、解脱具足し、解脱智見具足せば、諸比丘よ、その比丘の詣至に所作多しと説く。
 比丘たちよ、諸々の比丘たちが、もし戒具足し、定具足し、慧具足し、解脱具足し、解脱智見具足せば、諸比丘よ、その比丘の承事に所作多しと説く。
 比丘たちよ、諸々の比丘たちが、もし戒具足し、定具足し、慧具足し、解脱具足し、解脱智見具足せば、諸比丘よ、その比丘の隨念に所作多しと説く。
 比丘たちよ、諸々の比丘たちが、もし戒具足し、定具足し、慧具足し、解脱具足し、解脱智見具足せば、諸比丘よ、その比丘の隨出家に所作多しと説く。

 何を以ての故なのか、
 比丘たちよ、このように比丘は、法を聞き已りて、身遠離と心遠離との二遠離によりて遠離して住し、このように遠離して住して彼法を隨念し隨尋する。
 比丘たちよ、このように遠離して住し、彼法を隨念し隨尋する時は、彼比丘に念覚支起こる。

 比丘たちよ、念覚支を修習する時は、比丘に於いて念覚支修習する時は、比丘に於いて念覚支修習円満し、このように正念にして住し、慧を以て彼法を決擇し伺察し観察する時は、彼比丘に念覚支おこる。
 比丘、念覚支を修習する時は、比丘に於いて念支修習円満し、このように正念にして住し慧を以て彼法を決擇し伺察し観察する。

 比丘たちよ、比丘、このように正念にして住し、慧を以て彼法を決擇し伺察し観察する時は、彼比丘に擇法覚支おこる。
 比丘、擇法覚支を修習する時は、比丘に於いて擇法覚支修習円満し、慧を以て彼法を決擇し伺察し観察せば不退の精進おこる。

 比丘たちよ、比丘、慧を以て彼法を決擇し伺察し観察する時は、不退の精進おこる時は、彼比丘に精進覚支おこる。
 比丘、精進覚支を修習する時は、比丘に於いて精進覚支修習円満し、精進をおこしたれば離財の喜を得る。

 比丘たちよ、比丘、精進をおこして離財の喜を得る時は、彼比丘に喜覚支おこる。
 比丘、喜覚支を修習する時は、比丘に於いて喜覚支修習円満し、意喜なれば身軽安にして心軽安なり。

 比丘たちよ、比丘、意喜にして身軽安にして、心軽安なる時は、比丘に軽安覚支おこる。
 比丘、軽安覚支を修習する時は、比丘に於いて軽安覚支修習円満し、身軽安なれば楽を得る、楽を得たならば、心定を得る。

 比丘たちよ、比丘、身軽安にして、楽を得て、心定を得る時は、比丘たちよ、比丘に定覚支おこる。
 比丘、定覚支を修習する時は、比丘において、定覚支修習円満し、定を得、善く観察者である。

 比丘たちよ、比丘、心定を得て、善く観察者である時は、比丘に捨覚支おこる。
 比丘、捨覚支を修習する時は、比丘において、捨覚支修習円満する。

 比丘たちよ、七覚支をこのように修習して、このように、多作すれば、七果・七功徳あるのが期待される。
 何をか、七果・七功徳と為すのか。

 現法に於いて、已に開悟を得る。もし、現法中に於いて已に、開悟を得なければ命終時に開悟を得る。

 もし、現法に於いても、已に開悟を得ず、命終わる時にも、開悟を得ずば、五下分結尽きることによりて、中般涅槃を得る。

 もし、現法に於いても、已に開悟を得ず、命終わる時にも、開悟を得ずば、五下分結尽きることによりて、損害般涅槃を得る。

 もし、現法に於いても、已に開悟を得ず、命終わる時にも、開悟を得ずば、五下分結尽きることによりて、中般涅槃をも得ず、五下分結尽きることによりて、損害般涅槃をも得ずば、五下分結尽きることによりて、無行般涅槃を得る。

 もし、現法に於いても、已に開悟を得ず、命終わる時にも、開悟を得ずば、五下分結尽きることによりて、中般涅槃をも得ず、五下分結尽きることによりて、損害般涅槃を得ずば、五下分結尽きることによりて、無行般涅槃を得ず、五下分結尽きることによりて、有行般涅槃を得る。

 もし、現法に於いても、已に開悟を得ず、命終わる時にも、開悟を得ずば、五下分結尽きることによりて、中般涅槃をも得ず、五下分結尽きることによりて、損害般涅槃を得ずば、五下分結尽きることによりて、無行般涅槃を得ず、五下分結尽きることによりて、有行般涅槃を得ずば、五下分結尽きることによりて、上流となり色究竟天に至る。

 比丘たちよ、七覚支をこのように修習して、このように、多修すれば、此七果・七功徳あるのが期待される。




  食経

 わたくしはこのように聞きました。
 あるとき尊き師ブッダはサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。

 そのとき世尊は、比丘たちにこのように仰せられた、
「五蓋、七覚分の有食、無食あり。
 私は今、これを説くこととしよう。
 あきらかに聴き善く思うが善い、まさに汝のために説く。

 譬えば、身は、食に依りて立ち、食べないのではないように、このように、五蓋は食に依りて立ち、食べないのではない。


 食欲蓋は、何を以て食と為すのか。

 いわゆる、触相である。
 彼において、正思惟しなければ、いまだ起こらない貪欲を起こして、すでに起こりし貪欲は能く増広させる。
 これを貪欲蓋の食と名付ける。


 瞋恚蓋、何を以て食と為すのか。

 いわゆる、障礙相である。
 彼において正思惟しなければ、いまだ起こらない瞋恚蓋を起こして、すでに起こりし瞋恚がいや能く増広させる。
 これを瞋恚蓋の食と名付ける。


 睡眠蓋、何を以て食と為すのか。

 五法あり。
 何を五法と為すのか。
 微弱・不楽・缼呿・多食・懈怠である。
 彼において、正思惟しなければ、いまだ起こらない睡眠蓋を起こして、すでに起こりし睡眠蓋は能く増広させる。
 これを睡眠蓋の食と名付ける。


 掉悔蓋は、何を以て食と為すのか。

 四法あり。
 何を四と為すのか。
 いわゆる、親族覚・人衆覚・天覚・本経し所の娯楽覚である。
 自ら憶念し、他人に憶念させて覚を生ずる。
 彼において、不正思惟を起こせば、いまだ起こらない掉悔を起こして、すでに起こりし掉悔は能く増広させる。
 これを掉悔蓋の食と名付ける。


 疑蓋は、何を以て食と為すのか。

 三世あり。
 何を三と為すのか。
 いわゆる、過去世・現在世・未来世である。
 過去世の猶豫。現在世の猶豫。未来世の猶豫において、不正思惟を起こせば、いまだ起こらない疑蓋を起こして、すでに起こりし疑蓋は能く増広させる。

 これを疑蓋の食と名付ける。

 譬えば、身の食に依りて長養することを得て、食さないのではないように、
 このように七覚分は食に依りて住し、食に依りて長養し、食さないのではない。


 何を、念覚分不食と為すのか。

 いわゆる、四念処を思惟しなければ、いまだ起こらない念覚分を起こらず、すでに起こりし念覚分は退せしむ。
 これを、念覚分不食と名付ける。


 何を、擇法覚分不食と為すのか。

 いわゆる、善法において選択し〔擇善法〕、善法において選択〔擇不善法〕する。
 彼において思惟しなければ、いまだ起こらない擇法覚分を起こらず、すでに起こりし擇法覚分は退せしむ。
 これを、擇法覚分不食と名付ける。


 何を、精進覚分不食と為すのか。

 いわゆる、四正断である。
 彼において思惟しなければ、いまだ起こらない精進覚分を起こらず、すでに起こりし精進覚分は退せしむ。
 これを、精進覚分不食と名付ける。


 何を、喜覚分不食と為すのか。

 いわゆる、喜あり、喜処あり、
 彼において思惟しなければ、いまだ起こらない喜覚分を起こらず、すでに起こりし喜覚分は退せしむ。
 これを、喜覚分不食と名付ける。


 何を、軽安覚分(猗覚分)不食と為すのか。

 いわゆる、身軽安(身猗息)、および、心軽安(心猗息)あり、
 彼において思惟しなければ、いまだ起こらない猗覚分を起こらず、すでに起こりし猗覚分は退せしむ。
 これを、軽安覚分不食と名付ける。


 何を、定覚分不食と為すのか。

 いわゆる、四禅あり。
 彼において思惟しなければ、いまだ起こらない定覚分を起こらず、すでに起こりし定覚分は退せしむ。
 これを、定覚分不食と名付ける。


 何を、捨覚分不食と為すのか。

 三界あり、
 いわゆる、断界・無欲界・滅界である。
 彼において思惟しなければ、いまだ起こらない捨覚分を起こらず、すでに起こりし捨覚分は退せしむ。
 これを、捨覚分不食と名付ける。



 何を、貪欲蓋不食と為すのか。

 いわゆる、不浄観である。
 彼において思惟すれば、いまだ起こらない貪欲蓋を起こらず、すでに起こりし貪欲蓋は断ずる。
 これを、貪欲蓋不食と名付ける。


 何を、瞋恚蓋不食と為すのか。

 彼の慈心の思惟は、いまだ生じない瞋恚蓋を起こらず、すでに生じている瞋恚蓋は滅する。
 これを、瞋恚蓋不食と名付ける。



 何を、睡眠蓋不食と為すのか。

 彼の明照の思惟は、いまだ生じない睡眠蓋を起こらず、すでに生じている睡眠蓋は滅する。
 これを、睡眠蓋不食と名付ける。



 何を、掉悔蓋不食と為すのか。

 彼の寂止思惟は、いまだ生じない掉悔蓋を起こらず、すでに生じている掉悔蓋は滅する。
 これを、掉悔蓋不食と名付ける。



 何を、疑蓋不食と為すのか。

 彼の縁起法の思惟は、いまだ生じない疑蓋を起こらず、すでに生じている疑蓋は滅する。
 これを、疑蓋不食と名付ける。


 譬えば、身の食に依りて長養することを得て、食さないのではないように、
 このように七覚分は食に依りて住し、食に依りて長養し、食さないのではない。


 何を、念覚分食と為すのか。

 いわゆる、四念処を思惟しおわれば、いまだ生じない念覚分を起こして、すでに生じている念覚分は転生して増広する。
 これを、念覚分食と名付ける。


 何を、擇法覚分食と為すのか。

 いわゆる、善法において選択し〔擇善法〕、善法において選択〔擇不善法〕する。
 彼れを思惟しおわれば、いまだ生じない擇法覚分を起こして、すでに生じている擇法覚分は増広する。
 これを、擇法覚分食と名付ける。


 何を、精進覚分食と為すのか。

 いわゆる、四正断である。
 彼に四正断を思惟すれば、いまだ生じない精進覚分を起こして、すでに生じている精進覚分は増広する。
 これを、精進覚分食と名付ける。


 何を、喜覚分食と為すのか。

 いわゆる、喜あり、喜処あり、
 彼れを思惟すれば、いまだ生じない喜覚分を起こして、すでに生じている喜覚分は増広する。
 これを、喜覚分食と名付ける。


 何を、軽安覚分(猗覚分)食と為すのか。

 いわゆる、身軽安(身猗息)、および、心軽安(心猗息)の思惟あり、いまだ生じない猗覚分を起こして、すでに生じている猗覚分は増広する。
 これを、猗覚分食と名付ける。


 何を、定覚分食と為すのか。

 いわゆる、四禅の思惟あり、いまだ生じない定覚分を起こして、すでに生じている定覚分は増広する。
 これを、定覚分食と名付ける。


 何を、捨覚分食と為すのか。

 三界あり、
 いわゆる、断界・無欲界・滅界である。
 彼において思惟しおわれば、いまだ生じない捨覚分を起こして、すでに生じている捨覚分は増広する。
 これを、捨覚分食と名付ける。



 このように世尊は説かれた。諸の比丘たちは、世尊の説かれたことを歓喜し敬って受けた。



 説経

 このように私は聞いた。

 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林にあるアナータピンディカの園(祗樹給孤独=祗園)に滞在しておられた。

 そのとき、比丘たちにこのように仰せられた、
「七覚分あり、

 何を七と為すのか。

 いわゆる、念覚分、乃至、捨覚分である」と。

 このように世尊は説かれた。比丘たちは、世尊の説かれたことを聞いて、歓喜し敬って受けた。


 
 滅経

 このように私は聞いた。

 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林にあるアナータピンディカの園(祗樹給孤独=祗園)に滞在しておられた。

 そのとき、比丘たちにこのように仰せられた、
「正に、七覚分を修すが善い。

 何を七覚分を修すると為すのか。

 いわゆる、念覚分、乃至、捨覚分である。

 もし比丘が、念覚分を修せば、遠離に依り、無欲に依り、滅に依りて、捨に向う。

 このように、擇法・精進・喜・猗・定・捨覚分を修せば、遠離に依り、無欲に依り、滅に依りて、捨に向う」と。

 このように世尊は説かれた。比丘たちは、世尊の説かれたことを聞いて、歓喜し敬って受けた。



  分経

 このように私は聞いた。

 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林にあるアナータピンディカの園(祗樹給孤独=祗園)に滞在しておられた。

 そのとき、比丘たちにこのように仰せられた、
「上に説いているように、差別すれば、比丘たちよ過去にすでにこのように、七覚分を修する。

 未来にもまた、正にこのように七覚分を修するが善い」と。

 このように世尊は説かれた。比丘たちは、世尊の説かれたことを聞いて、歓喜し敬って受けた。



  支節経

 このように私は聞いた。

 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林にあるアナータピンディカの園(祗樹給孤独=祗園)に滞在しておられた。

 そのとき、比丘たちにこのように仰せられた、
「もし比丘が、念覚分、清浄鮮白ならば、支節有ること無く、諸々の煩悩を離れ、未だ起らざるは起らず、仏陀の調伏し、教授されたものを除く。
 乃至、捨覚分もまた、このように説く。
 比丘たちよ、念覚分、清浄鮮白ならば、支節あることな有ること無く、諸々の煩悩を離れ、未だ起らざるは、しかも起こる。
 仏陀の調伏し教授された所にしてあまりに非ず。
 乃至捨覚分もまたこのように説く」と。

 このように世尊は説かれた。比丘たちは、世尊の説かれたことを聞いて、歓喜し敬って受けた。



  起経

 このように私は聞いた。

 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林にあるアナータピンディカの園(祗樹給孤独=祗園)に滞在しておられた。

 そのとき、比丘たちにこのように仰せられた、
「上に説いているように、差別すれば、未だ起らざるは、起らず。
 善逝の調伏し教授されたものを除く。
 未だ起らざるは、しかも起こる。
 これはすなわち善逝の調伏し、教授されたものである。あまりに非ず」と。

 このように世尊は説かれた。比丘たちは、世尊の説かれたことを聞いて、歓喜し敬って受けた。



  七道品経

 このように私は聞いた。

 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林にあるアナータピンディカの園(祗樹給孤独=祗園)に滞在しておられた。

 そのとき、異比丘あり、仏陀のところにきて、稽首して、足に礼したてまつり退きて、一面に坐し、仏陀にもうしていわく、
「世尊の言う覚分とは、世尊、何を覚分と為すのですか」と。

 世尊、比丘に告げて言うた、
「覚分とは、いわゆる七道品の法である。
 しかも、比丘たちよ、七覚分は漸次にしかも起こり、修習し満足するのか」と。

 仏陀、比丘につげて仰せられた、
「もし比丘、内身の身観に住せば、彼れ内身の身観に住する時、心を摂し、念を繋げて忘れない。
 彼れその時にあたって、念覚分を方便して修習する。
 方便して念覚分を修習しおわれば、修習満足する。
 念覚分を満足しおわれば、法に於いて選択し、分別し思量する。

 その時に、あたって擇法覚分の方便を修する。
 方便を修しおわれば、修習満足する。
 このように乃至捨覚分の修習満足する。
 内身の身観念に住するように、このように外身・内外身・受・心・法の法観念に住せば、その時にあたって、専心に念を繋げて忘れず。
 乃至捨覚分もまたこのように説く。
 このように住すれば、漸次に、覚分起る。
 漸次に起りおわれば修習満足する」と。

 このように世尊は説かれた。比丘たちは、世尊の説かれたことを聞いて、歓喜し敬って受けた。



  七道品経

 このように私は聞いた。

 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)のジェータ林にあるアナータピンディカの園(祗樹給孤独=祗園)に滞在しておられた。

 そのとき、世尊は、彼の比丘に告げて言うた、
「上に説いているように、差別すれば、このように七覚分を修習しおわれば、正に二種の果を得る。現法に漏尽きて、無余涅槃を得る、あるいは、阿那含果を得る」と。

 このように世尊は説かれた。比丘たちは、世尊の説かれたことを聞いて、歓喜し敬って受けた。


















                                                  相應部 覚支相応






















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