食事の際に適量を知ることについて 食事の際に適量を知り、諸感官を制御するならば、 身体の楽しみと心の楽しみとの両方の楽しみを身にうけるという事柄です。 (一般の人の感じでは、例えば腹八分目という事です。) 大食 (あるとき尊師は、)サーヴァッティー市に住しておられた。 そのときコーサラ国王パセーナディは、一ドーナの量の炊いたご飯を食べるのを常としていた。 さてコーサラ国王のパセーナディは、食べおわって、大きな息をついて、尊師のもとにおもむいた。 近づいてから尊師に挨拶敬礼して、傍らに坐した。 そこで、尊師は、かのコーサラ国王のパセーナディが食べ終わって大きな息をついたのを知って、そのとき次の詩を唱えた、 「常に心を落ち着けて、食物を得ても食事の量を(接することを)知っている人にとっては、諸々の(苦痛の)感覚は弱まってゆく。寿命をたもちながら、徐々に老いる。」 そのとき若き学生スダッサナは、コーサラ国王パセーナディの背後に立っていた。 そこでコーサラ国王パセーナディは、若き学生スダッサナに告げた、 「さあ、スダッサナよ。お前は尊師のもとでこの詩を習って暗記して、わたしの食事のときに唱えよ。 わたしはお前に、毎日の手当てとして、百銭ずつ常時の給与としてやるよ」と。 「王さまよ。かしこまりました」と、若き学生スダッサナは、コーサラ国王パセーナディに答えて、ついで尊師のもとでこの詩を習って暗記して、コーサラ国王パセーナディの食事のときに唱えた、 「常に心を落ち着けて、食物を得ても食事の量を(接することを)知っている人にとっては、諸々の(苦痛の)感覚は弱まってゆく。寿命は徐々に老い朽ちて、過ぎ去って行く」 そこでコーサラ国王パセーナディは、順次に食物の量を減らして、ついには一ナーリカの飯だけに制限するに至った。 さてコーサラ国王パセーナディは、のちの時期に身体が健やかになり、手で身体を撫でて、その時にこの感興の言葉を発した、 「尊師は二つの利を以て私をあわれんで下さった。 目のあたり見る現世の利と、来世の利と」と。 サンユッタ・ニカーヤ
カモシカの脛(すね) (神が問うていわく、) 「カモシカの脛のように、ほっそりしていて、しかも雄々しく、食物を摂ること少なく、貪り求めることなく、獅子や象のように独り歩み、諸々の欲望を顧みない人のことを、(尊師に)近づいて、われらはお尋ねします。 どのようにしたならば、苦しみから離脱できるのでしょうか」 (尊師が答えていわく、) 「世間には五つの愛欲の要素がある。 心は第六のものである、と説かれている。 ここで欲求を断ったならば、このように苦しみから解脱する。」 サンユッタ・ニカーヤ
(五つの愛欲の要素とは、五官の対象のことをいう。すなわち、眼・耳・鼻・舌・身の対象の事) 二つをそなえている比丘 (食事の際に適量を知らぬこと) たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている、 「比丘たちよ、二つのことをそなえている比丘は、現在の世の中で苦しんで暮らし、いらだちをもち、悩みをもち、煩悶を持って暮らす。それゆえに死後、身体が滅びたのちに、悪い境涯が予期されている。 二つのこととは何か。 諸感官の門を護らないことと、 食事の際に適量を知らないことである。 比丘たち、この二つのことをそなえている比丘は、現在の世の中で苦しんで暮らし、いらだちをもち、悩みをもち、煩悶をもって暮らす。 それゆえに死後、身体が滅びたのちに、悪い境涯が予期されている」 このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれている、 「眼と耳と鼻と、舌、身体そして意(こころ)とのこれら諸門を護らぬ比丘が、 食事の際に適量を知ることがなく、諸感官を制御することもなければ、 彼は身体の苦しみと心の苦しみとの両方の苦しみを身にうける。 煩悩の火に焼かれている身体と、焼かれている心とにより、 このような人は、昼でも夜でも苦しみの中で暮らす。」 このことをもまた世尊が説かれた、と私は聞いている。 二つをそなえている比丘 (食事の際に適量を知ること) たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている、 「比丘たち、二つのことをそなえている比丘は、現在の世の中で楽しく暮らし、いらだちがなく、悩みがなく、煩悶もなく暮らす。 それゆえに死後、身体が滅びたのちに、楽しい境涯が予期されている。 二つのこととは何か。 諸感官の門を護ることと、 食事の際に適量を知ることとである。 比丘たち、この二つのことをそなえている比丘は、現在の世の中で楽しく暮らし、いらだちがなく、悩みがなく、煩悶もなく暮らす。 それゆえに死後、身体が滅びたのちに、楽しい境涯が予期されている」 このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれている、 「眼と耳と鼻と、舌、身体そして意(こころ)とのこれら諸門を護る比丘が、 食事の際に適量を知り、諸感官を制御するならば、 彼は身体の楽しみと心の楽しみとの両方の楽しみを身にうける。 煩悩の火に焼かれていない身体と、焼かれていない心とにより、 このような人は、昼でも夜でも楽しみの中で暮らす。」 このことをもまた世尊が説かれた、と私は聞いている。 イティヴッタカ 二
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