更訂 H28.12.11



  猛り怒る人にたいして、どのような心でいるのかについて



『”彼は私を恐れて忍んでいるのだ”と思いたければ、そう思わせておけ。そう思いたくなければ、それでも良い。

 善き利のうちでも最上の自利である、”耐え忍ぶこと”よりも勝れたものは、存在しない。

 真に力のある人が、大力あるのに、無力・愚痴の力の者を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ』


『他人が怒ったのを知っても、自ら憶念して平静にしているならば、その人は、自分と他人と、両者のためになることを行っているのである』


『釋提桓因(帝釈天)は、三十三天において自在主となりて、常に忍辱を行じ、耐え忍びを讃嘆する。

 汝ら比丘も、正信より非家出家し学道して、また、まさにこのような忍を行じて、耐え忍びを讃嘆し、学ぶが善い』



『怒った人に対して怒り返す人は、それによりて更に悪を為すことになるのである。

 怒った人に対して怒りを返さないならば、勝ち難き戦にも勝つことになるのである』




「以前の訳でも、別に間違いではないから、罵詈雑言して邪行を重ねている者の言に騙され、悪しきに誘われて、自らも重き邪業を重ねないように気をつけるべし。

 気になる人は、原文を読むべし。


 罵詈雑言して邪行を重ねている者・邪見者には、正定は得られない」





  善い言葉による勝利

 このようにわたくしは聞きました。
 あるとき尊師は、サーヴァッティー市のジェータ林・孤独な人々に食を給する長者の園に住まっておられた。

その時尊師は、修行僧たちに告げて言われた、
「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅とが対陣して戦闘を起こそうとしていた。

そこで、神々の主であるサッカ(帝釈天)は、阿修羅の主であるヴェーパチッティに次のように言った、
『各々が、共に殺し合ってはならない。まさに、論議し、理によりて調伏を為すがよい』

そこで、阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカ(帝釈天)に次のように言った、
『たとえ共に論議するとも、誰れが理の勝劣を證知するのか』

神々の主であるサッカが言った、
『諸天衆の中に自ら智慧ありて、明かに記識する者がいる。阿修羅衆にもまた、自ら明かに記識する者はいるだろう』

(阿修羅の主である)ヴェーパチッティは言った、
『いいだろう』と。

〔時に、神々と阿修羅とは、仲間の者どもを並べて立たせて言った、
『これらの者どもが、われらの善い言葉と悪い言葉とを区別して判定するであろう』と。

そこで、(阿修羅の主である)ヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに向かって次のように言った、
『神々の主よ。偈頌を詠ぜよ』〕

このように言われたので、神々の主であるサッカは言った、
『〔ヴェーパチッティよ。汝らは、ここでは昔からの神々である。〕
 汝ら、先に立論を詠ぜよ。その後に私が立論せば、難義とならないだろう』と。

そこで、(阿修羅の主である)ヴェーパチッティは、立論して偈を唱えた、
『私が(ここで)忍を行じたならば、(闘争する)事において過失があるのを私は見る。愚癡の者は、まさに”彼は、恐れているが故に忍んでいる”と言うだろう』と。

〔阿修羅の主であるヴェーパチッティがこの詩を唱えたときに、阿修羅たちは随喜したが、神々は沈黙していた。

そこで、阿修羅の主であるヴェーパチッティは言った、
『神々の主よ。偈頌を詠ぜよ』〕

神々の主であるサッカは唱えて言った、
『たとえ、愚癡の者が「恐怖するが故に忍ぶ」と言い、また、そのように言わなくとも、理において何の傷つく所があろうか。
 ただ自らその義を観じ、また、他の義を観じて、自らと他人とがことごとく安らぎを得ば、その忍を最上と為す』

〔神々の主であるサッカがこの詩を唱えたときに、神々は随喜したが、阿修羅たちは沈黙していた。

そこで、神々の主であるサッカは言った、
『ヴェーパチッティよ。偈頌を詠ぜよ』〕

(阿修羅の主である)ヴェーパチッティは偈を唱えた、
『もし愚癡を制止しなければ、愚癡(の者)の、人を傷つけることは、すなわち、凶悪な牛が狂い人に衝突するようなものである。
 その故に、刀杖を持ちて強制して怖畏させ調伏し、また、堅く刀杖を持ちて彼の愚夫を折伏する』

〔阿修羅の主であるヴェーパチッティがこの詩を唱えたときに、阿修羅たちは随喜したが、神々は沈黙していた。

そこで、阿修羅の主であるヴェーパチッティは言った、
『神々の主よ。偈頌を詠ぜよ』〕

神々の主であるサッカは偈を唱えた、
『私が常に彼を観察するに彼の愚夫を制するに、愚者は瞋恚さかんなるも智慧ある者は、静黙を以て調伏する。
 (そのような智慧ある調御者は、)怒らず、また、害せず、常に賢聖と供である。
 悪罪は、石の山のように瞋恚を起こして堅く住する。
 さかんなる瞋恚を持つ(者)を制するのは、逃げ暴れる馬車を制するようなものであるが、私の説く善き調御者は、(刀杖によりて制する者)を言うのではない』

〔神々の主であるサッカがこれらの詩を唱えたときに、神々は随喜したが、阿修羅たちは沈黙していた。〕

そこで、天衆の中の天の智慧者と、また、阿修羅衆の中の阿修羅の智慧者とによりて、これらの偈において、思惟し推量し観察してこの念をなした、
『〔阿修羅の主であるヴェーパチッティが詩を唱えたが、それらの詩は、暴力に関することに属し、刀剣に関することに属し、口論であり、不和であり、争いである。
 神々の主であるサッカ(帝釈天)が詩を唱えたが、それらの詩は、暴力に関することに属せず、刀剣に関することに属せず、口論しないことであり、不和ならざることであり、争わないことである。〕

 ヴェーパチッティの説く偈は、終いに長夜に闘争を起こす。
 まさに知るがよい。阿修羅王ヴェーパチッティは、長夜に人が闘争を為す教説をする。

 天帝釈の説く偈は長夜に終いに闘争を止む。
 まさに知るがよい。神々の主である天帝釈は、長夜に人の闘争が止む教説をする。

 まさに、天帝釈は善論をして勝利を得たる。

〔神々の主であるサッカの善き言葉によりて勝利あれ〕』と」

仏陀は、比丘たちに仰せられた、
「(このようにして)釋提桓因〔帝釈天〕は、善論を以て阿修羅を調伏した。

 比丘たちよ、釋提桓因は三十三天において自在王となりて、善論を立て善論を賛嘆する。

 汝ら比丘も、このように、正信より非家出家し学道して、まさに、このような善論を為して、善論を賛嘆し、学ぶが善い」と。


相応・雑 帝釈相応 得善勝経





【怒った人に対して怒り返す人は、それによりて更に悪を為すことになるのである。

 怒った人に対して怒りを返さないならば、勝ち難き戦にも勝つことになるのである。



  ヴェーパチッティ(耐え忍ぶこと)

 このようにわたくしは聞きました。
 あるとき尊師は、サーヴァッティー市のジェータ林・孤独な人々に食を給する長者の園に住まっておられた。
 その時尊師は、修行者たちに「修行僧たちよ」と、呼びかけられた。

 修行僧たちは、「尊き師よ」と、尊師に答えられた。

尊師はこのように仰せられた、
「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅との戦闘が起こった。

そこで、阿修羅の主であるヴェーパチッティは阿修羅たちに呼びかけた、
『友よ、神々と阿修羅との戦闘がたけなわになったときに、もしも阿修羅が勝ち、神々が敗れたならば、神々の主であるサッカ(帝釈天)の頸を、五の紐で縛って、阿修羅城の私のもとへ連れて来い』と。

その時、神々の主であるサッカもまた、三十三天の神々に呼びかけた、
『友よ。神々と阿修羅との戦闘がたけなわになったときに、もしも神々が勝ち、阿修羅が敗れたならば、阿修羅の主であるヴェーパチッティの頸を、五の紐で縛り、善法堂の私のもとへ連れて来い』と。

 修行僧たちよ。その戦闘において、神々が勝ち、阿修羅は敗れた。

 そこで、三十三天の神々は、(阿修羅の主である)ヴェーパチッティの頸を、第五の紐で縛り、神々の主であるサッカのもとである善法堂に連れてきた。

 さて、(阿修羅の主である)ヴェーパチッティは、頸を第五の紐で縛られていたが、神々の主であるサッカが、善法堂に入ったり出たりするのを見て、口汚い粗暴な言葉で罵り、誹謗した。

その時、網をもつ御者であるマータリは、神々の主であるサッカに、詩を以て語りかけた、
『恵み深きサッカさま。(阿修羅の主である)ヴェーパチッティが面と向かって粗暴な言葉を発するのを、だまって聞いて忍んでおられるのは、恐れているからですか。無力だからですか』

〔神々の主であるサッカは、マータリに言った、〕
『私がヴェーパチッティの暴言を忍ぶのは、恐れているからではない。また無力だからでもない。善き智慧を持つ私が、どうして愚かな者と競い合うであろうか』

〔マータリは言った、〕
『もしも制止する人がいないならば、愚人はますます猛り怒るでしょう。
 その故に、厳しい罰を加えて、思慮ある人は愚者を制止すべきです』

〔神々の主であるサッカは言った、〕
『他が怒れるのを知りて、憶念して平静にしているならば、それこそが愚者を制する、と私は思う』

〔マータリは言った、〕
『ヴァーサヴァよ。耐え忍ぶことのうちには、この過失があるのを私は見ます。
”彼は、私を恐れて忍んでいるのだ”と、愚人が思うときに、愚者は増長する。
 逃げて行く人を見ると、牛がますます増長するように』

〔神々の主であるサッカは言った、〕
『”彼は私を恐れて忍んでいるのだ”と思いたければ、そう思わせておけ。そう思いたくなければ、それでも良い。

 善き利のうちでも最上の自利である、”耐え忍ぶこと”よりも勝れたものは、存在しない。

 真に力のある人が、大力あるのに、無力・愚痴の力の者を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。
しかし、力のない人が、(恐怖等の念いから)耐え忍んでいる、とされるのが常である。

 或る人が愚者の力を力としているならば、その(者の)力を、愚痴による力・無力・力無しと呼ぶ。

 力ありて、徳(法)に護られている人(・法を護る人)は、反論する要がない。

 怒った人に対して怒り返す人は、それによりて更に悪を為すことになるのである。
 怒った人に対して怒りを返さないならば、勝ち難き戦にも勝つことになるのである。

 他人が怒ったのを知っても、自ら憶念して平静にしているならば、その人は、自分と他人と、両者のためになることを行っているのである。

 自らと他人との、両者を癒す人を、愚者だ、と人々は考える。

 (それは、)ことわり〔理法〕に通じていないがためである』


 修行僧たちよ。

 神々の主であるサッカ(帝釈天)は、自らの功徳の果報に生きながら、耐え忍びと柔和とを称賛する者として、三十三天の神々を統理する。

 比丘たちよ、このように、善く説かれた教えと戒律とにおいて出家し、耐え忍ぶことと柔和とを身に修めたならば、光を放つであろう』

相応・雑 帝釈相応




〖ことわりとは道理の事(この場合、他人に善い事柄をすれば、廻りまわって自らに善い事柄として返ってくるし、 悪い事柄も同じく。
 善業も悪業も長い劫期(想像をできないほど永い期間)を経ても消えずに、いずれは自らの ところにもどってくるという道理・真理。)


 『他人が怒ったのを知っても、自ら憶念して平静にしているならば、その人は、自分と他人と、両者のためになることを行っているのである』とはどういうことか。

 それは、上記の場合、(阿修羅の主である)ヴェーパチッティが口汚く粗暴な言葉で罵り、誹謗するという行いによりて悪業を作しているのを、神々の主であるサッカは、自ら耐え忍ぶことにより、(阿修羅の主である)ヴェーパチッティ自身が、更に多くの悪行・悪業を造作することを制止して、(ヴェーパチッティにも、悪業の報いが実らないようにする。)

〔(悪行をなして)悪の報いが実らない間は、愚者はそれを(その悪業が返ってくると知らずに)当然と考える。
しかし、悪の報いの実ったときに、愚者は苦悩を受ける。
 要するに、愚者の愚行・邪行を制止することによりて、その愚かな者自身も、更なる悪業の報い・苦悩を受ける、ということを止めることにもなる。〕

 更に、神々の主であるサッカが自ら耐え忍ぶことにより、相手のためになる善業(徳)を積み、自らの悪業をも消滅する、ということになります。
 このように、神々の主であるサッカは、理法・道理により、自らと他人との両者のためになる行いをしている、ということになるのです。
 
 ことわり(理法・道理)に通じていない人々は、神々の主であるサッカが、このことわり(理法・道理)を知って、あえて耐え忍んでいるのに、
『恵み深きサッカさま。(阿修羅の主である)ヴェーパチッティが面と向かって粗暴な言葉を発するのを、だまって聞いて忍んでおられるのは、恐れているからですか。無力だからですか』と、このように表面だけを見てこのように思う。



『帝釈天曰く、
「私は、常に彼を観察して、彼の愚者を制する。

 愚者の瞋り盛んなるを見て、智ある者は、静黙を以て(彼を)伏す。

 非力であるのを、しかも力と為すのは、これ愚癡の力なり。

 愚癡は法に違い、道にあること無し。

 もし大力有る者をして、よく劣れる者に忍べば、これがすなわち上忍と為す。力無くしてどうして忍べるだろうか。

 他の極な罵辱においても大力者はよく忍ぶ。これをすなわち上忍と為す。力無くしてどうして忍べるだろうか。

 自らと他人とにおいて、善く大恐怖から護り、また、彼れは瞋恚なりと知らば、還りて自ら静黙を守り、二義において共に備えるならば、自らを利し、また、他をも利する。

 いわゆる愚夫と言うのは、法を見ずを以ての故である。

 愚夫は、(法に依りて)忍(べる人)に、(自らの方が)勝れりと思い重ねて、その悪口・悪行を増して、未だ彼の罵りを忍べるこそ、常に勝(義)を得るを知らず。

 勝れる(者)において自ら忍を行ずる、これを恐怖忍びと名づく。

 同等の者において忍びを行ずるを、これを忍諍忍と名づく。

 劣れる者において忍を行ずる、これを上忍と為す」と。』



 ことわり(道理・理法)を知らなければ、このような、善い言葉は出るものではないです。

 上記の文章でもわかりますように、徳のある善なる神々は善行を成し、悪業を作さないようにしています。

 悪い行い(悪業)というものを消滅する。これが道理(・善処へ赴く存在の法)です。



『仏陀は、諸々の比丘にこのように仰せられた、

「釋提桓因(帝釈天)は、三十三天において自在主となりて、常に忍辱を行じ、耐え忍びを讃嘆する。

 汝ら比丘も、正信より非家出家し学道して、また、まさにこのような忍を行じて、耐え忍びを讃嘆し、学ぶが善い」と。』〗





【(むしろ、回り還りて阿修羅に殺されるべきも、軍衆を以て衆生を道に踏み殺してはならない。)
 これらの鳥どもが巣を失ったりするよりは、むしろ阿修羅の手にかかって生命を捨てたいものだ】

【(天帝釈は)そのように、常に慈心の功徳を讃嘆する。】

【汝ら比丘も、正信より非家出家し学道し、まさに慈心を修習するが善い。そしてまた、慈心の功徳を讃嘆するが善い。】


  鳥の巣

 このようにわたくしは聞きました。
〔あるとき尊師は〕サーヴァッティー市のジェータ林・孤独な人々に食を給する長者の園に住まっておられた。

その時尊師は、比丘たちにこのように仰せられた、
「比丘たちよ、過去世の時、天と阿修羅の戦いが激しかった。

 比丘たちよ、その戦において、阿修羅が勝ちて、諸天は敗れた。

 比丘たちよ、敗れた諸天は、(天宮への道を)北に向かって逃げ、阿修羅はこれを追いかけた。

(その須弥山の下の叢林道に、金翅鳥の巣があり、多くの金翅鳥の子がいた。
 その時、帝釈は、馬車にて過ぎるのに、鳥の子を踏み殺してしまうことを恐れた。)

比丘たちよ、時に天帝釈は、御者マータリに偈にて語った、
『マータリよ、シンバリ林の金翅鳥の巣に、車の轅を向けるのを避けよ。(鳥の子を殺してはならない。)』

御者マータリは、王に言った、
『阿修羅の軍が後ろより追って来ています。
 もし回りて還れば、彼らの為に困窮します』

天帝釈は告げて言った、
『(むしろ、回り還りて阿修羅に殺されるべきも、軍衆を以て衆生を道に踏み殺してはならない。)
 これらの鳥どもが巣を失ったりするよりは、むしろ阿修羅の手にかかって生命を捨てたいものだ』

『承れり、尊き方よ』と、

 御者マータリは、天帝釈に答えて、千頭の駿馬を繋げる車を(南へと)返し馳れり。

比丘たちよ、時に阿修羅は、遥かに帝釈の転乗して還れるのを見て、このように言った、
『今、天帝釈の千頭の駿馬を繋げる車は返し馳らる。諸天は、再び阿修羅と戦おうとしている』と。

 阿修羅衆は大いに恐怖し、陣を壊して流散し、阿修羅宮に帰れり。

 比丘たちよ、このようにして、天帝釈の、法に依りての勝利があった」と。


仏陀は、諸々の比丘にこのように仰せられた、

「彼の天帝釈は、三十三天において自在王として威力あるが、(このように)慈心を以ての故に、阿修羅軍を破った。

 そして、(天帝釈は)そのように、常に慈心の功徳を讃嘆する。

 汝ら比丘も、正信より非家出家し学道し、まさに慈心を修習するが善い。そしてまた、慈心の功徳を讃嘆するが善い」と。

 仏陀はこのように、教えを説きたもうた。比丘たちは、仏陀の説きたまうた教えを、歓喜し敬いて受けた。


相応・雑 帝釈相応 鳥巣経





















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