猛り怒る人にたいして、どのような心でいるのかについて 『”彼は私を恐れて忍んでいるのだ”と思いたければ、そう思わせておけ。そう思いたくなければ、それでも良い。 善き利のうちでも最上の自利である、”耐え忍ぶこと”よりも勝れたものは、存在しない。 真に力のある人が、大力あるのに、無力・愚痴の力の者を耐え忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ』 『他人が怒ったのを知っても、自ら憶念して平静にしているならば、その人は、自分と他人と、両者のためになることを行っているのである』 『釋提桓因(帝釈天)は、三十三天において自在主となりて、常に忍辱を行じ、耐え忍びを讃嘆する。 汝ら比丘も、正信より非家出家し学道して、また、まさにこのような忍を行じて、耐え忍びを讃嘆し、学ぶが善い』 『怒った人に対して怒り返す人は、それによりて更に悪を為すことになるのである。 怒った人に対して怒りを返さないならば、勝ち難き戦にも勝つことになるのである』 「以前の訳でも、別に間違いではないから、罵詈雑言して邪行を重ねている者の言に騙され、悪しきに誘われて、自らも重き邪業を重ねないように気をつけるべし。 気になる人は、原文を読むべし。 罵詈雑言して邪行を重ねている者・邪見者には、正定は得られない」 善い言葉による勝利 このようにわたくしは聞きました。 あるとき尊師は、サーヴァッティー市のジェータ林・孤独な人々に食を給する長者の園に住まっておられた。 その時尊師は、修行僧たちに告げて言われた、 「修行僧たちよ。むかし神々と阿修羅とが対陣して戦闘を起こそうとしていた。 そこで、神々の主であるサッカ(帝釈天)は、阿修羅の主であるヴェーパチッティに次のように言った、 『各々が、共に殺し合ってはならない。まさに、論議し、理によりて調伏を為すがよい』 そこで、阿修羅の主であるヴェーパチッティは、神々の主であるサッカ(帝釈天)に次のように言った、 『たとえ共に論議するとも、誰れが理の勝劣を證知するのか』 神々の主であるサッカが言った、 『諸天衆の中に自ら智慧ありて、明かに記識する者がいる。阿修羅衆にもまた、自ら明かに記識する者はいるだろう』 (阿修羅の主である)ヴェーパチッティは言った、 『いいだろう』と。 〔時に、神々と阿修羅とは、仲間の者どもを並べて立たせて言った、 『これらの者どもが、われらの善い言葉と悪い言葉とを区別して判定するであろう』と。 そこで、(阿修羅の主である)ヴェーパチッティは、神々の主であるサッカに向かって次のように言った、 『神々の主よ。偈頌を詠ぜよ』〕 このように言われたので、神々の主であるサッカは言った、 『〔ヴェーパチッティよ。汝らは、ここでは昔からの神々である。〕 汝ら、先に立論を詠ぜよ。その後に私が立論せば、難義とならないだろう』と。 そこで、(阿修羅の主である)ヴェーパチッティは、立論して偈を唱えた、 『私が(ここで)忍を行じたならば、(闘争する)事において過失があるのを私は見る。愚癡の者は、まさに”彼は、恐れているが故に忍んでいる”と言うだろう』と。 〔阿修羅の主であるヴェーパチッティがこの詩を唱えたときに、阿修羅たちは随喜したが、神々は沈黙していた。 そこで、阿修羅の主であるヴェーパチッティは言った、 『神々の主よ。偈頌を詠ぜよ』〕 神々の主であるサッカは唱えて言った、 『たとえ、愚癡の者が「恐怖するが故に忍ぶ」と言い、また、そのように言わなくとも、理において何の傷つく所があろうか。 ただ自らその義を観じ、また、他の義を観じて、自らと他人とがことごとく安らぎを得ば、その忍を最上と為す』 〔神々の主であるサッカがこの詩を唱えたときに、神々は随喜したが、阿修羅たちは沈黙していた。 そこで、神々の主であるサッカは言った、 『ヴェーパチッティよ。偈頌を詠ぜよ』〕 (阿修羅の主である)ヴェーパチッティは偈を唱えた、 『もし愚癡を制止しなければ、愚癡(の者)の、人を傷つけることは、すなわち、凶悪な牛が狂い人に衝突するようなものである。 その故に、刀杖を持ちて強制して怖畏させ調伏し、また、堅く刀杖を持ちて彼の愚夫を折伏する』 〔阿修羅の主であるヴェーパチッティがこの詩を唱えたときに、阿修羅たちは随喜したが、神々は沈黙していた。 そこで、阿修羅の主であるヴェーパチッティは言った、 『神々の主よ。偈頌を詠ぜよ』〕 神々の主であるサッカは偈を唱えた、 『私が常に彼を観察するに彼の愚夫を制するに、愚者は瞋恚さかんなるも智慧ある者は、静黙を以て調伏する。 (そのような智慧ある調御者は、)怒らず、また、害せず、常に賢聖と供である。 悪罪は、石の山のように瞋恚を起こして堅く住する。 さかんなる瞋恚を持つ(者)を制するのは、逃げ暴れる馬車を制するようなものであるが、私の説く善き調御者は、(刀杖によりて制する者)を言うのではない』 〔神々の主であるサッカがこれらの詩を唱えたときに、神々は随喜したが、阿修羅たちは沈黙していた。〕 そこで、天衆の中の天の智慧者と、また、阿修羅衆の中の阿修羅の智慧者とによりて、これらの偈において、思惟し推量し観察してこの念をなした、 『〔阿修羅の主であるヴェーパチッティが詩を唱えたが、それらの詩は、暴力に関することに属し、刀剣に関することに属し、口論であり、不和であり、争いである。 神々の主であるサッカ(帝釈天)が詩を唱えたが、それらの詩は、暴力に関することに属せず、刀剣に関することに属せず、口論しないことであり、不和ならざることであり、争わないことである。〕 ヴェーパチッティの説く偈は、終いに長夜に闘争を起こす。 まさに知るがよい。阿修羅王ヴェーパチッティは、長夜に人が闘争を為す教説をする。 天帝釈の説く偈は長夜に終いに闘争を止む。 まさに知るがよい。神々の主である天帝釈は、長夜に人の闘争が止む教説をする。 まさに、天帝釈は善論をして勝利を得たる。 〔神々の主であるサッカの善き言葉によりて勝利あれ〕』と」 仏陀は、比丘たちに仰せられた、 「(このようにして)釋提桓因〔帝釈天〕は、善論を以て阿修羅を調伏した。 比丘たちよ、釋提桓因は三十三天において自在王となりて、善論を立て善論を賛嘆する。 汝ら比丘も、このように、正信より非家出家し学道して、まさに、このような善論を為して、善論を賛嘆し、学ぶが善い」と。 相応・雑 帝釈相応 得善勝経
相応・雑 帝釈相応
〖ことわりとは道理の事(この場合、他人に善い事柄をすれば、廻りまわって自らに善い事柄として返ってくるし、 悪い事柄も同じく。 善業も悪業も長い劫期(想像をできないほど永い期間)を経ても消えずに、いずれは自らの ところにもどってくるという道理・真理。) 『他人が怒ったのを知っても、自ら憶念して平静にしているならば、その人は、自分と他人と、両者のためになることを行っているのである』とはどういうことか。 それは、上記の場合、(阿修羅の主である)ヴェーパチッティが口汚く粗暴な言葉で罵り、誹謗するという行いによりて悪業を作しているのを、神々の主であるサッカは、自ら耐え忍ぶことにより、(阿修羅の主である)ヴェーパチッティ自身が、更に多くの悪行・悪業を造作することを制止して、(ヴェーパチッティにも、悪業の報いが実らないようにする。) 〔(悪行をなして)悪の報いが実らない間は、愚者はそれを(その悪業が返ってくると知らずに)当然と考える。 しかし、悪の報いの実ったときに、愚者は苦悩を受ける。 要するに、愚者の愚行・邪行を制止することによりて、その愚かな者自身も、更なる悪業の報い・苦悩を受ける、ということを止めることにもなる。〕 更に、神々の主であるサッカが自ら耐え忍ぶことにより、相手のためになる善業(徳)を積み、自らの悪業をも消滅する、ということになります。 このように、神々の主であるサッカは、理法・道理により、自らと他人との両者のためになる行いをしている、ということになるのです。 ことわり(理法・道理)に通じていない人々は、神々の主であるサッカが、このことわり(理法・道理)を知って、あえて耐え忍んでいるのに、 『恵み深きサッカさま。(阿修羅の主である)ヴェーパチッティが面と向かって粗暴な言葉を発するのを、だまって聞いて忍んでおられるのは、恐れているからですか。無力だからですか』と、このように表面だけを見てこのように思う。 『帝釈天曰く、 「私は、常に彼を観察して、彼の愚者を制する。 愚者の瞋り盛んなるを見て、智ある者は、静黙を以て(彼を)伏す。 非力であるのを、しかも力と為すのは、これ愚癡の力なり。 愚癡は法に違い、道にあること無し。 もし大力有る者をして、よく劣れる者に忍べば、これがすなわち上忍と為す。力無くしてどうして忍べるだろうか。 他の極な罵辱においても大力者はよく忍ぶ。これをすなわち上忍と為す。力無くしてどうして忍べるだろうか。 自らと他人とにおいて、善く大恐怖から護り、また、彼れは瞋恚なりと知らば、還りて自ら静黙を守り、二義において共に備えるならば、自らを利し、また、他をも利する。 いわゆる愚夫と言うのは、法を見ずを以ての故である。 愚夫は、(法に依りて)忍(べる人)に、(自らの方が)勝れりと思い重ねて、その悪口・悪行を増して、未だ彼の罵りを忍べるこそ、常に勝(義)を得るを知らず。 勝れる(者)において自ら忍を行ずる、これを恐怖忍びと名づく。 同等の者において忍びを行ずるを、これを忍諍忍と名づく。 劣れる者において忍を行ずる、これを上忍と為す」と。』 ことわり(道理・理法)を知らなければ、このような、善い言葉は出るものではないです。 上記の文章でもわかりますように、徳のある善なる神々は善行を成し、悪業を作さないようにしています。 悪い行い(悪業)というものを消滅する。これが道理(・善処へ赴く存在の法)です。 『仏陀は、諸々の比丘にこのように仰せられた、 「釋提桓因(帝釈天)は、三十三天において自在主となりて、常に忍辱を行じ、耐え忍びを讃嘆する。 汝ら比丘も、正信より非家出家し学道して、また、まさにこのような忍を行じて、耐え忍びを讃嘆し、学ぶが善い」と。』〗 【(むしろ、回り還りて阿修羅に殺されるべきも、軍衆を以て衆生を道に踏み殺してはならない。) これらの鳥どもが巣を失ったりするよりは、むしろ阿修羅の手にかかって生命を捨てたいものだ】 【(天帝釈は)そのように、常に慈心の功徳を讃嘆する。】 【汝ら比丘も、正信より非家出家し学道し、まさに慈心を修習するが善い。そしてまた、慈心の功徳を讃嘆するが善い。】 鳥の巣 このようにわたくしは聞きました。 〔あるとき尊師は〕サーヴァッティー市のジェータ林・孤独な人々に食を給する長者の園に住まっておられた。 その時尊師は、比丘たちにこのように仰せられた、 「比丘たちよ、過去世の時、天と阿修羅の戦いが激しかった。 比丘たちよ、その戦において、阿修羅が勝ちて、諸天は敗れた。 比丘たちよ、敗れた諸天は、(天宮への道を)北に向かって逃げ、阿修羅はこれを追いかけた。 (その須弥山の下の叢林道に、金翅鳥の巣があり、多くの金翅鳥の子がいた。 その時、帝釈は、馬車にて過ぎるのに、鳥の子を踏み殺してしまうことを恐れた。) 比丘たちよ、時に天帝釈は、御者マータリに偈にて語った、 『マータリよ、シンバリ林の金翅鳥の巣に、車の轅を向けるのを避けよ。(鳥の子を殺してはならない。)』 御者マータリは、王に言った、 『阿修羅の軍が後ろより追って来ています。 もし回りて還れば、彼らの為に困窮します』 天帝釈は告げて言った、 『(むしろ、回り還りて阿修羅に殺されるべきも、軍衆を以て衆生を道に踏み殺してはならない。) これらの鳥どもが巣を失ったりするよりは、むしろ阿修羅の手にかかって生命を捨てたいものだ』 『承れり、尊き方よ』と、 御者マータリは、天帝釈に答えて、千頭の駿馬を繋げる車を(南へと)返し馳れり。 比丘たちよ、時に阿修羅は、遥かに帝釈の転乗して還れるのを見て、このように言った、 『今、天帝釈の千頭の駿馬を繋げる車は返し馳らる。諸天は、再び阿修羅と戦おうとしている』と。 阿修羅衆は大いに恐怖し、陣を壊して流散し、阿修羅宮に帰れり。 比丘たちよ、このようにして、天帝釈の、法に依りての勝利があった」と。 仏陀は、諸々の比丘にこのように仰せられた、 「彼の天帝釈は、三十三天において自在王として威力あるが、(このように)慈心を以ての故に、阿修羅軍を破った。 そして、(天帝釈は)そのように、常に慈心の功徳を讃嘆する。 汝ら比丘も、正信より非家出家し学道し、まさに慈心を修習するが善い。そしてまた、慈心の功徳を讃嘆するが善い」と。 仏陀はこのように、教えを説きたもうた。比丘たちは、仏陀の説きたまうた教えを、歓喜し敬いて受けた。 相応・雑 帝釈相応 鳥巣経
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