更訂 H28.1.5



  足ることを知る、ということについて (阿羅伽という最上の聖者の方々の清浄心)



  サーリプッタ尊者

『その力に随いて、正しく行い、正念を失わずによく気をつけていて、正し思惟によりて行い、怠らず、内に禅定を楽しみ、
 自らよく心の安定を得て、ただ独りでいて、満足している者、彼を人々は修行者と呼ぶ。

 水分ある食物も、乾いた食物も、食べる時は、過度に飽食してはならない。
 修行者は腹を満腹にすること無くして、適量を食べ、正念ありよく気をつけて、遍歴遊行せよ。

 四、五握りの食物を得ることができなかったなら、水を飲むがよい。
(修行に)専心して励む修行者にとりては、(これだけで)安楽に住するに足る。

 この目的に適い、着るにふさわしい衣服を受けたならば、
(修行に)専心して励む修行者にとりては、(これだけで)安楽に住するに足る。

 結跏趺坐しているときに、膝まで雨が降らなければ、
(修行に)専心して励む修行者にとりては、(これだけで)安楽に住するに足る。

 楽しみを苦しみと見て、苦しみを矢と見て、両者の中間に自ら住することがないならば、彼はこの世において、そもそも、誰に、また、何事に関わろうと欲するであろうか。

 我に邪まな欲望なく、怠惰でなく、精進の乏しきことなく、聞き学ぶこと少ないこともなく、勝れた人を尊敬し自ら思いあがることもないならば、この世において、そもそも、誰に、また、何事に関わろうと欲するであろうか。

 ひろい学識があり、智慧があり、諸々の戒行によく専心し、心の止息に専念する者は、頭上にも立て。

 ひろがる妄想・戯論にふけり、妄想・戯論を喜びとする獣(のごとき者)。
 彼は無上の安らぎ・安穏、涅槃を獲得するに至らない。

 妄想・戯論を捨てて、妄想・戯論のない道を楽しむ者、彼は無上の安らぎ・安穏、涅槃を体得するに至る』



  マハーカッサパ尊者

『私は、坐臥所から離れて、托鉢のために都城に入った。
 そして、食事をしているひとりの癩病者に近づいて、彼の側にうやうやしく立った。

 彼は、腐った手で、私に一握りの飯を捧げてくれた。
 彼が一握りの飯を鉢に投げ入れてくれるときに、彼の指もまたち切れて、そこに落ちた。

 塀の下のところで、私はその一握りの飯を食べた。
 それを食べているときにも、食べ終わったときにも、私に嫌悪の念は存在しなかった』


『智慧あり、真実を語り、諸々の戒行のうちによく心が安定し、心の安息を具現している人、
 彼を、実に識見ある人々はほめたたえる。

 ともに清らかな行い〔梵行〕を修行している人々に対する尊敬が認められない人は、正しい教えから遠く離れている。
 あたかも、天と地が遠く離れているように。

 しかし、清らかな行い〔梵行〕を増長し、つねに正しく慚愧の念を確立している人々。
 彼らの、迷いの生存を再び繰り返すことは、滅ぼし尽くされている。

 軽薄で、心の定まらない修行者は、たとい、ボロ布でつづった衣を着ていても、そうだからとて、彼は立派な修行者として見えない。猿が獅子の毛皮をまとっているようなものである。

 軽薄でなく、心定まり、賢明で、諸々の感官をよくととのえた者は、ボロ布でつづった衣を着ていても、立派な修行者として見える。山窟に住む獅子のように』





  満足

 ある時、世尊はサーヴァッティーに住しておられました。

その時、世尊は比丘たちにこのように仰せられた、
「比丘たちよ、このカッサパ〔迦葉〕は、(自らが得た)どのような衣服にも満足する。

 また、(彼は自らが得た)どのような衣服にも満足することを称讃し、
 衣服を原因として、不正や不当なことを犯すようなことはない。

 彼は、もし衣服が得られなくても、(心)動揺することなく、
 また、衣服が得られても、取著せず、惑わず、耽溺することなく、過ちを犯さず、
 衣服によりて起こる過ちを見て、出離の智慧を享受する。


 比丘たちよ、このカッサパ〔迦葉〕は、(自らが得た)どのような施食にも満足する。

 また、(彼は自らが得た)どのような施食にも満足することを称讃し、
 施食を原因として、不正や不当なことを犯すようなことはない。

 彼は、もし施食が得られなくても、(心)動揺することなく、
 また、施食が得られても、取著せず、惑わず、耽溺することなく、過ちを犯さず、
 施食によりて起こる過ちを見て、出離の智慧を享受する。


 比丘たちよ、このカッサパ〔迦葉〕は、(自らが得た)どのような牀座にも満足する。

 また、(彼は自らが得た)どのような牀座にも満足することを称讃し、
 牀座を原因として、不正や不当なことを犯すようなことはない。

 彼は、もし牀座が得られなくても、(心)動揺することなく、
 また、牀座が得られても、取著せず、惑わず、耽溺することなく、過ちを犯さず、
 牀座によりて起こる過ちを見て、出離の智慧を享受する。


 比丘たちよ、このカッサパ〔迦葉〕は、(自らが得た)どのような病に必要なる薬・資具にも満足する。

 また、彼は自らが得たどのような病に必要なる薬・資具にも満足することを称讃し、
 病に必要なる薬・資具を原因として、不正や不当におちいることはない。

 彼は、もし病に必要なる薬・資具が得られなくても、(心)動揺することなく、
 また、病に必要なる薬・資具が得られても、取著せず、惑わず、耽溺することなく、過ちを犯さず、
 病に必要なる薬・資具によりて起こる過ちを見て、出離の智慧を享受する。



それゆえに、比丘たちよ、ここでこのように学ばねばならない。すなわち、

「我らは、(自らが得た)どのような衣服にも満足し、
 また、(自らが得た)どのような衣服にも満足することを称讃する者となろう。

 衣服を原因として、不正や不当なことを犯すようなことはなく、
 衣服が得られなくても、(心)動揺することなく、
 また、衣服が得られても、取著せず、惑わず、耽溺することなく、過ちを犯さず、
 衣服によりて起こる過ちを見て、出離の智慧を享受しよう。


 我らは、(自らが得た)どのような施食にも満足し、
 また、(自らが得た)どのような施食にも満足することを称讃する者となろう。

 施食を原因として、不正や不当なことを犯すようなことはなく、
 施食が得られなくても、(心)動揺することなく、
 また、施食が得られても、取著せず、惑わず、耽溺することなく、過ちを犯さず、
 施食によりて起こる過ちを見て、出離の智慧を享受しよう。


 我らは、(自らが得た)どのような牀座にも満足し、
 また、(自らが得た)どのような牀座にも満足することを称讃する者となろう。

 牀座を原因として、不正や不当なことを犯すようなことはなく、
 牀座が得られなくても、(心)動揺することなく、
 また、牀座が得られても、取著せず、惑わず、耽溺することなく、過ちを犯さず、
 牀座によりて起こる過ちを見て、出離の智慧を享受しよう。」


 我らは、(自らが得た)どのような病に必要なる薬・資具にも満足し、
 また、(自らが得た)どのような病に必要なる薬・資具にも満足することを称讃する者となろう。

 病に必要なる薬・資具を原因として、不正や不当なことを犯すようなことはなく、
 病に必要なる薬・資具が得られなくても、(心)動揺することなく、
 また、病に必要なる薬・資具が得られても、取著せず、惑わず、耽溺することなく、過ちを犯さず、
 病に必要なる薬・資具によりて起こる過ちを見て、出離の智慧を享受しよう。」と

 比丘たちよ、汝らはこのように学ばなければならない。

 比丘たちよ、私はカッサパによりて、あるいは、カッサパのような人物によりて、汝らに教え(を示す)。

 汝らはその教え(示された、彼らのような境地)に達するようでなければならない」と。





  在家に入る

 ある時、世尊は、サーヴァッティーに住しておられました。

その時、世尊はこのように仰せられた、
「比丘たちよ、これを汝らはどのように考えるか。どのようにしたならば、比丘は、在家に到るに相応しいであろうか。

 また、どのようにしたならば、比丘は、在家に入るに相応しからぬであろうか」

「大徳よ、世尊は我らの法の根本にましまし、我らの法の導師にましまし、我らの法の依処にまします。
 善いかな大徳よ、願わくは、世尊のその義を説きたまわんことを。

 我らは、世尊の説き給うところを聞きて受持いたします」

(世尊はこのように仰せられた、)
「比丘たちよ、いかなる比丘であろうとも、もし彼が、

”私にだけは、施して、施さないようなことのないように。
 私にだけは、多く施して、少ないことのないように。
 私にだけは、勝れたものを施して、粗末な物をくれないように。
 私にだけは、速やかに施して、ぐずぐずすることのないように。
 私にだけは、丁重に施して、粗雑なことのないように”と、
 そのような心持ちを持ちて、在家に到る者があったならば、どうであろうか。

 比丘たちよ、もしその比丘がそのような心を以て在家に近づいて、施与を受けることができなかったならば、彼はその事によりて怒り、そのために苦・憂いを経験するであろう。

 また、もし彼が、少しの施与を受けて、多くなかったならば、彼はその事によりて怒り、そのために苦・憂いを経験するであろう。
 また、もし彼が、粗末な施与を受けて、勝れてなかったならば、彼はその事によりて怒り、そのために苦・憂いを経験するであろう。
 また、もし彼が、遅い施与を受けて、速やかでなかったならば、彼はその事によりて怒り、そのために苦・憂いを経験するであろう。
 また、もし彼が、粗雑に施与を受けて、丁重でなかったならば、彼はその事によりて怒り、そのために苦・憂いを経験するであろう。

 比丘たちよ、このような比丘は、在家に入るに適はしくない。


 比丘たちよ、比丘がこのような心を以て在家に近づくとする、
”どうして他家においてこのようなことを考えることがあるだろうか”と、すなわち、

”私にだけは、施して、施さないようなことのないように。
 私にだけは、多く施して、少ないことのないように。
 私にだけは、勝れたものを施して、粗末な物をくれないように。
 私にだけは、速やかに施して、ぐずぐずすることのないように。
 私にだけは、丁重に施して、粗雑なことのないように”と、
 そのような心持ちを持ちて、在家に到る者があったならば、どうであろうか。

 比丘たちよ、もしその比丘がそのような心を持ちて在家に近づいて、施与を受けることができなかったならば、彼はその事によりて怒ることなく、そのために苦・憂いを経験することはない。

 また、もし彼が、少しの施与を受けて、多くなかったならば、彼はその事によりて怒ることなく、そのために苦・憂いを経験することはない。
 また、もし彼が、粗末な施与を受けて、勝れてなかったならば、彼はその事によりて怒ることなく、そのために苦・憂いを経験することはない。
 また、もし彼が、遅い施与を受けて、速やかでなかったならば、彼はその事によりて怒ることなく、そのために苦・憂いを経験することはない。
 また、もし彼が、粗雑に施与を受けて、丁重でなかったならば、彼はその事によりて怒ることなく、そのために苦・憂いを経験することはない。

 比丘たちよ、このような比丘は、在家に入るに適はしい。


 比丘たちよ、カッサパはこのような心を以て在家に入る。
”どうして他家においてこのようなことを考えることがあるだろうか”と、すなわち、

 私にだけは、施して、施さないようなことのないように。
 私にだけは、多く施して、少ないことのないように。
 私にだけは、勝れたものを施して、粗末な物をくれないように。
 私にだけは、速やかに施して、ぐずぐずすることのないように。
 私にだけは、丁重に施して、粗雑なことのないように”と、

 比丘たちよ、カッサパは、このような心を以て在家に近づき、施与を受けることができなくとも、カッサパはそのことによりて、怒ることはなく、そのために苦・憂いを経験することはない。

 また、もし彼が、少しの施与を受けて、多くなかったとしても、カッサパはそれによりて怒ることなく、そのために苦・憂いを経験することはない。
 また、もし彼が、粗末な施与を受けて、勝れてなかったとしても、カッサパはそれによりて怒ることなく、そのために苦・憂いを経験することはない。
 また、もし彼が、遅い施与を受けて、速やかでなかったとしても、カッサパはそれによりて怒ることなく、そのために苦・憂いを経験することはない。
 また、もし彼が、粗雑に施与を受けて、丁重でなかったとしても、カッサパはそれによりて怒ることなく、そのために苦・憂いを経験することはない。

 比丘たちよ、私はカッサパによりて、あるいは、カッサパのような人物によりて、汝らに教え(を示す)。

 汝らはその教え(示された、彼ら)の(心の)ように行じるようでなければならない」と。

相応 迦葉相応





  舎利弗(サーリプッタ)長老

 その力に随いて、正しく行い、正念を失わずによく気をつけていて、正し思惟によりて行い、怠らず、内に禅定を楽しみ、自らよく心の安定を得て、ただ独りでいて、満足している者、彼を人々は修行者と呼ぶ。

 水分ある食物も、乾いた食物も、食べる時は、過度に飽食してはならない。
 修行者は腹を満腹にすること無くして、適量を食べ、正念ありよく気をつけて、遍歴遊行せよ。

 四、五握りの食物を得ることができなかったなら、水を飲むがよい。
(修行に)専心して励む修行者にとりては、(これだけで)安楽に住するに足る。

 この目的に適い、着るにふさわしい衣服を受けたならば、
(修行に)専心して励む修行者にとりては、(これだけで)安楽に住するに足る。

 結跏趺坐しているときに、膝まで雨が降らなければ、
(修行に)専心して励む修行者にとりては、(これだけで)安楽に住するに足る。

 楽しみを苦しみと見て、苦しみを矢と見て、両者の中間に自ら住することがないならば、彼はこの世において、そもそも、誰に、また、何事に関わろうと欲するであろうか。

 我に邪まな欲望なく、怠惰でなく、精進の乏しきことなく、聞き学ぶこと少ないこともなく、勝れた人を尊敬し自ら思いあがることもないならば、この世において、そもそも、誰に、また、何事に関わろうと欲するであろうか。

 ひろい学識があり、智慧があり、諸々の戒行によく専心し、心の止息に専念する者は、頭上にも立て。

 ひろがる妄想・戯論にふけり、妄想・戯論を喜びとする獣(のごとき者)。
 彼は無上の安らぎ・安穏、涅槃を獲得するに至らない。

 妄想・戯論を捨てて、妄想・戯論のない道を楽しむ者、彼は無上の安らぎ・安穏、涅槃を体得するに至る。

 村でも、林でも、低地でも、平地でも、聖者たちの住する土地は、楽しい。

(人のいない)森は楽しい。凡夫はここに楽しむことはないけれども、貪欲を離れた人々は、楽しむであろう。
 彼らは、快楽・欲望を求める者ではないからである。

(己が)罪過を指摘し、過ちを叱責する智者。そのような智者を見たならば、その智者につき従え。
 隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、是ありて、非あることなし。

(他人を)訓戒せよ。教えさとせ。不善から(他人を)遠ざけよ。
 そうすれば、その人は悪しき人に憎まれるといえども、善なる人に愛される。


(真理を見る)眼ある尊き師・仏陀は、ある人のために、真理の教えを説かれていた。
 その教えが説かれている間、(道を)求める私は耳をそばだてた。

 私が聞いたことは、虚しくなかった。私は、束縛をのがれ(解脱を得て)、煩悩の汚れのない(無漏の)者となった。
 実に、過去世の生活を知る(通力)や、勝れた透視(通力)、他人の心を読み取る(通力)、死と生を知る(通力)、聴力を浄める(通力)は、これらは私の誓願ではなかった。

 頭を剃り、重衣を着て、智慧第一の長老ウパティッサ〔サーリプッタ〕は、樹の根元において禅定する。

 思考をなさない境地に到達した、正しく覚とられた最上の尊ぶべき人(仏陀)の弟子は、つねに、尊き沈黙を具現している。

 岩山がそびえ立ちて不動であるように、そのように、修行者は迷妄を滅ぼしているが故に、山のごとく、動揺することがない。

 汚点なく、(執着なく)つねに清浄を求める人にとりては、毛先ほどの(小さな)悪業も、虚空の大きさに見える。

 我は、死を喜ばず。我は生を(も)喜ばず。正知あり、正念ありてよく気をつけて心がけながら、この身を捨てよう。

 我は、死を喜ばず。我は生を(も)喜ばず。正知あり、正念ありてよく気をつけて心がけながら、この身を捨てよう。
 務めを終えた雇われ人の(賃金をもらうのを待つ)ように、時の至るを待つ。

 二つの極端のどちらによりても、これは死のみである。(この生涯の)先にも後にも、不死は無い。
 道を実践せよ。滅びることのないようにせよ。瞬時も虚しく過ごすな。

 辺境にある城壁に囲まれた都市が、内も外も防護せられているように、そのように、自己を防護して瞬時も虚しく過ごすな。
 時を虚しく過ごした人々は、地獄に堕ちて、憂い悩むが故である。

 心寂静にして、安まり、真理の言葉を誦し、心が浮つくことなく、諸々の悪しき法を払うことは、風が樹の葉を払うように為す。
 心寂静にして、安まり、真理の言葉を誦し、心が浮つくことなく、諸々の悪しき法を抜き(除く)ことは、風が樹の葉を払うように為す。
 心寂静にして、煩労なく、心は清く澄んで、汚点なく、戒行善く、智慧ありて、苦しみを滅ぼす者であれ。


 在家の人においても、出家者においても、信頼すべきではない者がいる。

 もとは善良でありても、のちに不良となる者どもがいる。また、もとは不良でありても、のちに善良となる人々がいる。

 官能的欲望(・貪欲)と、害心(瞋恚)と、ものうさ(惛沈睡眠)と、ざわつき(掉擧)と、疑惑、これらの五つは修行者の心を汚すものである。

 尊敬を受けていても、また尊敬されていなくても、どちらでもあろうとも、つとめ励んで生活する者は、心の安定がゆらぐことがない。

 禅定あり、堪忍あり、諸々の見解の微細な観察あり、執着を滅ぼすのを喜びとする人、その人を善なる人と呼ぶ。

 大海、大地、山、さらに風も、師(仏陀)の勝れた解説を説くのに、譬えとするに足らず。

 大いなる智慧あり、心の安らぎに達し、(仏陀に)従って(真理の教えの法)輪を廻す長老〔サーリプッタ〕は、地と水と火に等しい心を持ちて、染まらず、汚されない。

 智慧の完成に達した偉大な智者・偉大な聖者は、愚者のようでありて愚者ではない。つねに清涼にして安らぎを得て歩く。

 私は、師(仏陀)に仕えました。仏陀の教えを実行しました。重い荷をおろしました。
 迷いの生存に導くものを根絶やしにしました。

 怠ることなく、つとめ励みて(道を)成ぜよ、これが、私の教誡である。
 さあ、私は、まどかな安らぎに入ろう。私は、あらゆる事柄から解脱している。

テーラガーター 三十の詩句集





  大迦葉(マハーカッサパ)長老

 群集に尊敬された長者となりて遍歴遊行するべきではない。(もしも、そうするならば、)心は乱れ、定は得難いであろう。
 さまざまな人々から受け容れられるのは苦しみであると見て、群集(と交わること)を喜んではならない。

 聖者は、良家の家に入るべきではない。(もしも、そうするならば、)心は乱れ、定は得難いであろう。
 かの諸々の味を貪り(求める)者は、覚とりの安楽をもたらす利得を捨てる。

 けだし、これらの聖者は、良家の人々からつねに受ける礼拝と供養とは、汚泥のようなものであると知っているからである。
 細かな(鋭い)矢は抜き難く、凡人(や悪しき人)は他人から受ける尊敬を捨てることは難しい。

 私は、坐臥所から離れて、托鉢のために都城に入った。
 そして、食事をしているひとりの癩病者に近づいて、彼の側にうやうやしく立った。

 彼は、腐った手で、私に一握りの飯を捧げてくれた。
 彼が一握りの飯を鉢に投げ入れてくれるときに、彼の指もまたち切れて、そこに落ちた。

 塀の下のところで、私はその一握りの飯を食べた。
 それを食べているときにも、食べ終わったときにも、私に嫌悪の念は存在しなかった。

〔戸口に〕立ちて托鉢によりて得たものを食物として、(牛などの)臭気ある尿からつくられたものを薬とし、樹の下を坐臥所とし、ボロ布を衣服として、これだけで満足している人、彼こそは、四方の人である。

 そびえ立つ岩山に登ろうとして、生命を失う人々がいるのに、かの仏陀の相続者であるカッサパは、正知あり正念あり、神通力を以て、毅然としてそこへ登り行く。

 カッサパは、托鉢から戻ってから、岩山に登って、取著なく、怖畏を捨てて、禅定をする。

 カッサパは、托鉢から戻ってから、岩山に登って、取著なく、焼かれ(悩んで)いる者どもの中にいながら清涼にして、禅定をする。

 カッサパは、托鉢から戻ってから、岩山に登って、取著なく、為すべきを為し終り、無漏にして、禅思する。

 カレーリの蔓草に覆われた地域は愛すべく、象の鳴き声が響きわたる処、これらの岩山は、私を楽しませる。

 碧き雲の色を帯び、麗しく、冷たい清き水の流れあり、インダゴーパカ虫に覆われたこれらの岩山は、私を楽しませる。

 碧き雲の峰にも似た、優れた高き殿堂のごとく、象の鳴き声が(響き渡る)これらの岩山は、私を楽しませる。

 うるわしい台地に雨が降り注ぐ。山々に仙人がしばしば訪れ、岩山では、孔雀が甲高く鳴いている。それらの岩山は、私を楽しませる。

 専念して静慮・禅定しようと欲している私にとりて、〔この場所で〕充分である。

 専念して目的を達成しようと欲している修行者である私にとりて〔この場所で充分である。〕

 安楽を求め専念している修行者である私にとりて、〔この場所で〕充分である。

 観行を求め専念している私にとりて〔この場所で〕充分である。

 雲に覆われた空のように、ウンマー花の衣をまとい、種々の鳥が群がる。それらの岩山は、私を楽しませる。

 世俗の(在家の人)たちがざわめかず、鹿の群れが往来し、種々の鳥の群がる。それらの岩山は、私を楽しませる。

 清く澄んだ水あり、ひろびろとした大きな岩があり、黒面の猿と鹿がいて、水と苔で覆われている。それらの岩山は、私を楽しませる。

 五種の楽器を以てしては、心を一境にして、正しく道理を観ずる人が得るような喜楽はあることなし。

 多くの(世俗の)業を作してはならない。人々を遠ざけるが善い。他人と競うために努め励んではならない。
 かの諸々の味を貪り(求める)者は、覚とりの安楽をもたらす利得を捨てる。

 多くの(世俗の)業を作してはならない。非利を与えるものを遠ざけるが善い。
(もしも、そうしなければ、)身体は悩み、疲労する。彼は苦しみ悩みて安息を得ることはできない。

 人は、唇を動かすのみにては、自己を(知り、かつ)観ることはない。
(ところが)彼は、首を硬直させて歩き廻り、”自分は他の者よりすぐれている”と思う。

 愚者は、他人よりもすぐれてはいないのに、自分をすぐれた者だと考える。
 しかしながら、識見ある人々は、この心の硬直した者を称讃しない。

「私はすぐれている」とか、また「私はすぐれていない」とか、「わたしは劣っている。あるいは同等である」と、慢心の中にありても動揺することなく、

 智慧あり、真実を語り、諸々の戒行のうちによく心が安定し、心の安息を具現している人、彼を、実に識見ある人々はほめたたえる。

 ともに清らかな行い〔梵行〕を修行している人々に対する尊敬が認められない人は、正しい教えから遠く離れている。
 あたかも、天と地が遠く離れているように。

 しかし、清らかな行い〔梵行〕を増長し、つねに正しく慚愧の念を確立している人々。
 彼らの、迷いの生存を再び繰り返すことは、滅ぼし尽くされている。

 軽薄で、心の定まらない修行者は、たとい、ボロ布でつづった衣を着ていても、そうだからとて、彼は立派な修行者としては見えない。猿が獅子の毛皮をまとっているようなものである。

 軽薄でなく、心定まり、賢明で、諸々の感官をよくととのえた者は、ボロ布でつづった衣を着ていても、立派な修行者として見える。山窟に住む獅子のように。

 これら多くの天子、神通力を具え、名声ある数万の天子、これらはすべて、梵天の眷属である。

賢明にして偉大な禅定者であり、心の安定している真理の将軍サーリプッタにたいして、彼らは、礼拝・合掌して、立つ、

「人間中の生まれ良き人よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。
 あなたの禅思する処は、わたくしたちは、それを知りません。

 ああ、素晴らしいことです。真理を覚とった諸々の仏陀方の行処は、深遠にして、わたくしたちの思量し得られるところではありません。たとい、わたくしたちが、毛髪の先を射る者のように、極めて微細なことを突きとめ得る者の集まりであったとしても、知り得えないでしょう」

 そのとき、尊敬を受けるにふさわしいそのサーリプッタが、そのように天子の群れから尊敬されているのを見て、カッピナはほほえんだ。

(福徳を生ずる)仏陀の田に関する限り、偉大な聖者〔仏陀〕を除いて、私は(悪を払いのける)という徳において傑出している。
 私に等しい者は存在しない。

 私は師(仏陀)に仕え、仏陀の教え(の実行)を成しとげた。重い荷をおろし、迷いの生存に導くものを、根こそぎにした。

 測り知れない(徳を具えた)ゴータマ仏陀は、衣服にも、臥床にも、飲食にも執著していない。
 水のために汚されない蓮華のように、心は出離に傾注し、三界を離れている。

 かの偉大な聖者・偉大な智者は、(四種の)念住を頸とし、信仰を手とし、智慧を頭として、つねに寂滅・寂静・安らぎを得て日を送られている。 

テーラガーター 四十の詩句集





  サンキッチャ長老

 君よ、そなたは、ウッジュハーナ鳥のように、雨季の森の中に住んで、そなたに何の益があるであろうか。
 季節風は、そなたにとりて楽しい。そなたも禅定をする人として遠離しているが故に。

 季節風が、雨季に雲を払うように、私の遠離に繋がれる想いは弘くひろがる。

 葬場を住居としてうろついている黒い鳥(カラス)は、諸要素から合成されている身体について、欲情を離れる正しい念いを私に起こさせた。

 他に護られることなく、また、他を護ることもない修行僧は、諸々の欲望に期待することなくして、安楽に臥す。

 清く澄んだ水あり、ひろびろとした大きな岩があり、黒面の猿と鹿がいて、セーバーラ水草に覆われている。それらの岩山は、私を楽しませる。

 森に、渓谷に、山窟に、辺鄙な坐臥所に、猛獣の出没するところに、私は住んだ。

”これらの生きものが殺されるように””害されるように””苦しみに遭うように”というような、憎悪にとり憑かれた卑しい過ちの思惟を起したということを、私は知らない。

 私は、師(仏陀)に仕えました。仏陀の教え(の実行)を成しとげた。重い荷をおろし、迷いの生存に導くものを根絶やしにした。

 私が出家して家無き状態に入ったその目的を、私は達成した。それは、すべての束縛を滅ぼしつくすことであった。

 我は、死を喜ばず。我は生を(も)喜ばず。務めを終えた雇われ人の(賃金をもらうのを待つ)ように、時の至るのを待つ。

 我は、死を喜ばず。我は生を(も)喜ばず。正知あり、正念ありてよく気をつけて心がけながら、時の至るのを待つ

テーラガーター 十一の詩句集



〔サンキッチャ長老 母が死んで自分の生まれたことを知り、七歳で出家し、その年に覚とりを得て、阿羅伽の聖者と成った。〕





  マハーカッサパ尊者

 このように私は聞きました。
 ある時、世尊は、王舎城の竹林カランダカ・ニヴァーバ園に住しておられた。

 その時、マハーカッサパ尊者は、ビッパリ窟に住していて、病苦に悩み苦しんでいたが、その後、病は癒えた。

病が癒えると、マハーカッサパ尊者は、このような思いを為した、
”托鉢のために王舎城に入ろう”と。

 時に、五百の諸天衆は、強く望んで、マハーカッサパ尊者のために、力を尽して食を得させようとした。

 しかし、マハーカッサパ尊者は、その五百ほどの諸天衆をしりぞけて、朝時に内衣を着て鉢と外衣を携へて、托鉢のために王舎城の貧民や機織業者の住む通りに入って行った。

 世尊はマハーカッサパ尊者が、托鉢のために王舎城の貧民や機織業者の住む通りを往来するのを見たまへり。

その時、世尊はその事柄を知りて、この言葉を説きたまへり、

「他の供養を受けず、他に知られず、自心を制し、真実に依りて立ち、

 諸々の惑い・煩悩を尽して、

 憎しみ〔瞋恚〕を除き捨てた者こそ『バラモン』と、私は呼ぶ」と。

ウダーナ



〔マハーカッサパ尊者は、衆生を思う慈悲によりて、あえて、貧民等のもとで托鉢をする。

 それは、布施を成させて、その人に功徳を得させるためである。


 また、『マハーカッサパ尊者は、その五百ほどの諸天衆をしりぞけて、托鉢のために王舎城に入って行った』というのは、

 天帝インドラ〔帝釈〕が、マハーカッサパ尊者に布施供養を成したときにも同様にして、
 天帝インドラは、マハーカッサパ尊者から、「もうこのようなことはしないように」との注意を受けた。

 しかし、マハーカッサパ尊者に布施供養を成すことができた天帝インドラは、大喜びであった。

 が、何故、マハーカッサパ尊者が注意をし、天帝インドラは、布施供養を成して、大喜びをしたのか。


 それは、仏陀の弟子の阿羅伽の聖者に成す布施・供養の善い果報は、とても、ものすごく大きい。故である。

 例えば、多くの聖者が、過去の仏陀に成した小さな布施の果報によりて、悠々と劫期の輪廻をまたぎ、善い果報を受け続けた。と語るのと同様に。

 天の衆生から見ても、そのように”すごい”と、尊敬を受けているという仏陀の弟子の聖者の方々。

 そのような、阿羅伽の聖者に布施を成すことができた人は、まさに、幸運の人である。


 また、マハーカッサパ尊者が、マガヴァー〔帝釈〕の供養をしりぞけたことについては、マガヴァーは、すでに仏陀や聖者方に多くの善業を積んでいるので、それ以上に善業を重ねる必要もないだろう、等の故。


 そのような事柄の故にしても、マハーカッサパ尊者は、他の幸の少ない衆生をあわれむが故に、

 知りてあえて貧民等のもとで托鉢をする、大慈悲の方である。〕






















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