更訂 H28.12.12



  善く説かれた言葉について



『最上の善い言葉を語りなさい。
 これが第一である。

 正しい理(法)を語りなさい、理(法)に反することを語ってはならない。
 これが第二である。

 好ましい(こころよい)言葉を語りなさい。好ましからぬ(不快な)言葉を語ってはならない。
 これが第三である。

 真実を語りなさい。偽りを語ってはならない。
 これが第四である』





  見事に説かれたこと

 わたくしはこのように聞きました。
 あるとき尊き師ブッダはサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。

そのとき師は諸々の道の人に「修行者たちよ」と、呼びかけられた。

「尊き師よ」と、道の人たちは師に答えた。

師は告げていわれた、
「修行僧たちよ。

 四つの特徴を具えた言葉は、みごとに説かれたのである。

 悪しく説かれたのではない。

 諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。


 その四つとは何であるか。

 道の人たちよ、ここで修行僧が、

 見事に説かれた(善い)言葉のみを語り、悪しく説かれた言葉を語らず、

 理法のみを語って、理にかなわぬことを語らず、

 好ましい(こころよい)言葉のみを語って、好ましからぬ(不快な)言葉を語らず、

 真実のみを語って、虚妄を語らない。

 この四つの特徴を具えている言葉は、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。

 諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである」と、尊き師はこのことを告げた。


そのあとでまた、幸ある人である師は、次のことを説いた、
「立派な人々は(このように)説いた。

 最上の善い言葉を語りなさい。
(これが第一である。)

 正しい理(法)を語りなさい、理(法)に反することを語ってはならない。
 これが第二である。

 好ましい(こころよい)言葉を語りなさい。好ましからぬ(不快な)言葉を語ってはならない。
 これが第三である。

 真実を語りなさい。偽りを語ってはならない。
 これが第四である」と。


 そのときヴァンギーサ長老は座から起ち上がって、上衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわして)、師(ブッダ)のおられる方に合掌敬礼して、師に告げていった、
「ふと思い出すことがあります。幸せな方よ」と。

「思い出しなさい、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。

そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、その場にふさわしい詩を以て師をほめ称えた。

「自分を苦しめず、また他人を害しない言葉のみを語りなさい。
 これこそ実に善く説かれた言葉なのである。

 相手に好ましい(こころよい)言葉のみを語りなさい。
 その言葉は人々に歓び迎えられる言葉である。

 感じの悪い言葉を避けて、他人の気に入る(心善い)言葉を語るのである。

 真実は実に不滅の言葉であり、これは永遠の理法である。

 立派な人々は、真実の上に、ためになる(有益な)ことの上に、また理法の上に安立しているといわれる。

 安らぎに達するために、苦しみを終滅させるために、仏の説きたもう安らかな言葉は、実に諸々の言葉のうちで最上のものである。」





  善説

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディカの園にましました。

その時、世尊は、「比丘たちよ」と、比丘たちに呼びかけたもうた。

「大徳よ」と、彼ら比丘たちは世尊に答えた。

世尊は、このように仰せられた、
「比丘たちよ、四つのことを具えた言葉は、善く説かれた言葉であって、悪しく説かれた言葉ではない。
 罪けがれもなく識者に非難せられることもない。

 その四つとは何であろうか。

 比丘たちよ、それは善き言葉を語ることであって、悪しき言葉を語ることではない。

 それは法によって語ることであって、法によらずして語ることではない。

 それは愛語を語ることであって、愛なき言葉を語ることではない。

 また、それは真実を語ることであって、虚偽を語ることではない。

 比丘たちよ、この四つのことを具えた言葉は善く説かれた言葉であって、悪しく説かれた言葉ではない。
 罪けがれもなく、識者に非難せられることもないのである」

 世尊はこのように仰せられた。


世尊は、そのように仰せられて、また、次のように説かれた、

「善き人々はいう、第一には美しく語れ

 第二には法のごとくに語り、法によらずして語るな

 第三にはうるわしく語り、荒々しく語るな

 第四には真実を語って、虚偽を語るな」


その時、長老ヴァンギーサは、その座をたち、大衣を一肩にかけて、世尊を合掌し、礼拝して、申しあげた、
「世尊よ、わたしに想が湧きました。世尊よ、わたしに想が湧きました」

「では、ヴァンギーサよ、それを誦するがよい」

そこで、長老ヴァンギーサは、世尊の前にすすみ、ふさわしい偈をもって世尊を讃えまつった、

「人その言葉を語りておのれを苦しめることなく、他をもそこなわざる言葉、これこそ善く語られし言葉なり。

 人のやさしく物言いて、その言葉耳にこころよく、他人を悪しざまにいわざる、これぞやさしく語られし言葉なり。

 真実こそはまこと甘露(不死、涅槃)の言葉、これ古より法とするところ。

 真と義と法とによりて、善き人々は確く立つという。

 仏陀の語りたもう言葉は、涅槃のやすらぎにいたらしめ、苦の終辺をなすものなり、これぞまことの最高の言葉なり」





〔この二の教えは、同じ場面のもの。

 このように、異なる翻訳を読むことにより、より理解が深まるときもあり、
 また、”一体どちらが正しいのか”と疑問が生じる事もある、と。

 そのように、仏教経典は、パーリ訳、漢訳、等々あり、同一の経典でありても、教えの言葉や内容が多少異なることが多々あり、両方を読むと、より理解が深まり、また、”一体どちらが正しいのか”と疑問が生じる事もある。

 原始仏典(小乗・正定・清浄仏典)は、大乗仏典のように、大きな間違いや、矛盾はほとんど見られず、道理も善く説かれているので、”一体どちらが正しいのか”と思うたとしても、他の教えをも読むことにより理解されることが多い。〕






















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