罪悪に気づくことについて



 禅定をしている人に対しては、内観ですでに普通だろうとは思われますが、

 一般の人に対しては、『単純なのですが、こういう事柄が意外と深いのかもしれません。』

 とても大事であると思います。





  教説

 たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている。

「比丘たちよ、尊むべき人であり、正しくさとられた人である真理の体現者に、二の教説が続いて生じる。

 その二つとは何か。

『罪悪を、罪悪として見よ』という、これが第一の教説である。

『罪悪を、罪悪として認め、それを厭離せよ、離貪せよ、離脱せよ』という、これが第二の教説である。

 比丘たちよ、尊むべき人であり、正しく覚とられた人である真理の体現者に、この二の教説が生じる」


このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた、

「すべての存在に對して憐みある仏陀・真理の体現者が説く二の教説を続けて知り学ぶが善い。

 すなわち、罪悪をはっきりと見よ。

 そしてまた、それを離貪せよ。

 罪悪より離貪した人々の心には、苦の終末がもたらされよう」

 このことをもまた世尊が説かれた、と私は聞いている。

イティヴッタカ





 畜生霊系統の者達の行いを見ている限りでは、ほぼ全く内観もできていない、と思われる。

 普通に考えてもすぐわかるのだけれども、禅定の意味がおそらくわからないのだろう。

 霊能力っていうのばかりに魅せられている感じなのか。

 え〜と、要するに、聖者方は内観、内に真を観る。(心霊、神通も全て含まれる)。

 スピリチュアルとかそっち系、心霊現象の能力者関係は、外観、宇宙に神秘を求めているっていうのがわかりやすいだろうか。

 喩えで表現すると、神の創造の結晶、真理は宇宙のどこかにあるとかいうのではなくて、その広大な宇宙の凝縮された結晶、神の創造の結晶、それがあなたである。と。

   「この個体は自分の作ったものではない。この個体は他人の作ったものではない。

    この個体は原因に依って生じ、原因が滅びたならば、個体も滅びる。」


 昔からの伝統や格式のある霊的な団体であっても、他者の意見でころころと選択肢が変わっているような霊的な団体、狐を選んでいるような宗教団体には、自らで真理を見られるという目は道理としてないです。

 あなたが見たところ、他者の意見でころころと選択肢を変えていた霊的な団体や、神社・寺等はありましたでしょうか。

 そこの団体はなぜ、ころころと変えていたのか。いままで何を信仰としてきたのか。

 一般的に言うならば、間違いは誰にでもある。ということでしょうが、伝統と格式があっても、(知っていながら)畜生を選んでいたのであれば、そこの伝統と格式がすでに人用ではないのか、何なのか。

 とりあえず、このHPを見ていろいろと、聖者方の教えを知った方々はお気をつけください。


 清浄を目指しているのに、「しまった!うちのとこ間違ってたよ〜」と、気づいた霊的な団体は、早めに直した方が信をよせている方々のためになると思われます。

 間違いは誰にでもある、と。



 ○、×もそうですが、様々な地方のお祭り等を見てみると、真理がそこかしこに盛り込まれているものも見受けられる。

 目の善い方々が、あとから気づけるようにと、いろいろな呼名や、形として残してくれているようですね。



 目のある霊的な団体で言うならば、

 真理を伝えるということ、

 それが伝統ということでもあり。





















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