更訂 H28.12.24



  善なる人と不善なる人の、善と不善に関する理解について



 不善なる人は、誰が善なる人であり、誰が不善なる人であるかを理解しない。

 善なる人は、誰が善なる人であり、誰が不善なる人であるかを理解する。





  満月の晩の小さな教え

 わたくしはこのように聞きました。
 あるとき、尊師はサーヴァッティー(舎衛城)の東園にあるミガーラマートゥ堂(鹿子母講堂)にいらっしゃった。

 ウポーサタのその日、十五日に欠けるところのない満月の晩に、尊師は、一団の修行僧に囲まれて屋外に座っていらした。

そのとき、尊師は、比丘たちが沈黙を守っているのを見渡して、比丘たちに語りかけられた、
「比丘たちよ、不善なる人は、不善なる人のことを、”この者は不善なる人である”と知り得るだろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「善いかな、比丘たちよ。

 比丘たちよ、不善なる人が不善なる人のことを、”この者は不善なる人である”と知り得るようなことは、道理としてもなければ、可能性としてもないのです。

 それでは、比丘たちよ、不善なる人は、善なる人のことを、”この者は善なる人である”と知り得るだろうか」

「尊師よ、そのようなことはありません」

「善いかな、比丘たちよ。
 比丘たちよ、不善なる人が善なる人のことを、”この者は善なる人である”と知り得るようなことは、道理としてもなければ、可能性もないのです。


「比丘たちよ、不善なる人は、
 不善なる属性を具え、不善なる人に睦び仕え、不善なる人の持つ考えをもち、不善なる人の持つ思念をもち、不善なる人の語る言葉を語り、不善なる人のする行為をし、不善なる人の抱く見解を抱き、不善なる人の行う布施を行なう。


 比丘たちよ、不善なる人は、不善の属性を具えている、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、不善なる人は信仰心がありません。恥の意識に欠けています。罪の意識に欠けています。ほとんど無学です。怠惰です。注意力が乱れています。智慧が劣っています。
 比丘たちよ、このように、不善なる人は、不善なる属性を具えているのです。


 比丘たちよ、不善なる人は、不善なる人に睦び仕える、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、この世において、信仰心なく、恥の意識に欠け、罪の意識に欠け、ほとんど無学で、怠惰であり、注意力が乱れ、智慧の劣っている、そのような道の人(沙門)・バラモンならだれでも、不善なる人の友達となり、仲間となります。
 比丘たちよ、このように、不善なる人は、不善なる人に睦び仕えるのです。


 比丘たちよ、不善なる人は、不善なる人の持つ考えをもつ、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、不善なる人はおのれを悩まし苦しめることを考え、他人を悩まし苦しめることを考え、両者を悩まし苦しめることを考えます。
 比丘たちよ、このように、不善なる人は、不善なる人の持つ考えをもつのです。


 比丘たちよ、不善なる人は、不善なる人の持つ思念をもつ、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、不善なる人はおのれを悩まし苦しめることを思念し、他人を悩まし苦しめることを思念し、両者を悩まし苦しめることを思念行なう。
 比丘たちよ、このように、不善なる人は、不善なる人の持つ思念をもつのです。


 比丘たちよ、不善なる人は、不善なる人の語る言葉を語る、とはどういうことだろうか。

比丘たちよ、世間において、不善なる人は嘘をつきます。陰口をたたきます。きつい言葉を吐きます。下らないおしゃべりをしています。
 比丘たちよ、このように、不善なる人は、不善なる人の語る言葉を語るのです。


 比丘たちよ、不善なる人は、不善なる人のする行為をする、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、不善なる人は生き物を殺し、盗みをし、性愛において不義を働いています。
 比丘たちよ、このように、不善なる人は、不善なる人のする行為をするのです。


 比丘たちよ、不善なる人は、不善なる人の抱く見解を抱く、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、不善なる人は次のような見解を抱いています。
 すなわち、『布施は無意味である』『供儀(祭祀)は無意味である』『献供は無意味である』『善くなされたものであれ、悪しくなされたものであれ、もろもろの行為にはその果報、報いというものがない』『この世は存在しない』『来世は存在しない』『母というものは存在しない』『父というものは存在しない』『化生の生き物というものは存在しない』『この世と来世とを、みずから身をもって知り、直接的に知って、(それを)説くような、正しく歩み、正しく行っている道の人・バラモンはこの世には存在しない』というものです。
 比丘たちよ、このように、不善なる人は、不善なる人の抱く見解を抱くのです。


 比丘たちよ、不善なる人は、不善なる人の行う布施をする、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、不善なる人は敬意を欠いた布施を行なう。
 みずから手を下さずして、(他人を使用して)布施を行なう。真心を込めないで布施を行なう。投げ捨てられたような布施を行なう。将来の果報を考慮しない布施を行なう。比丘たちよ、このように、不善なる人は、不善なる人の行う布施をするのです。


 比丘たちよ、不善なる人というものは、

 このように不善なる人に睦び仕え、
 このように不善なる人の持つ考えをもち、
 このように不善なる人の持つ思念をもち、
 このように不善なる人の語る言葉を語り、
 このように不善なる人のする行為をし、
 このように不善なる人の抱く見解を抱き、
 このように不善なる人の行う布施をして、

 肉体の滅びた後、死後に、不善なる人たちの赴く所へ生まれ変わるのです。

 比丘たちよ、不善なる人たちの赴くところとは何処だろうか。
 地獄、または畜生なのです」



「比丘たちよ、善なる人は、善なる人のことを、”この者は善なる人である”と知りうるだろうか」

「尊師よ、おっしゃる通りです」

「善いかな、比丘たちよ。
 比丘たちよ、善なる人が善なる人のことを、”この者は善なる人である”と知り得るようなことは、道理としてあり得るのです。

 それでは、比丘たちよ、善なる人は不善なる人のことを、”この者は不善なる人である”と知りえるのだろうか」

「尊師よ、おっしゃる通りです」

「善いかな、比丘たちよ。
 比丘たちよ、善なる人が不善なる人のことを、”この者は不善なる人である”と知り得るようなことは、道理としてあり得るのです」


「比丘たちよ、善なる人は、
 善なる属性を具え、善なる人に睦び仕え、善なる人の持つ考えをもち、善なる人の持つ思念をもち、善なる人の語る言葉を語り、善なる人のする行為をし、善なる人の抱く見解を抱き、善なる人の行う布施を行なう。


 比丘たちよ、善なる人は、善なる属性を具えている、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、善なる人は信仰心があります。恥の意識をもっています。罪の意識をもっています。多くのことを学んでいます。勤勉です。注意力をめぐらしています。智慧を具えています。
 比丘たちよ、このように、善なる人は、善なる属性を具えているのです。


 比丘たちよ、善なる人は、善なる人に睦び仕える、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、この世において、信仰心があり、恥の意識をもち、罪の意識をもち、多くのことを学び、勤勉であり、注意力をめぐらし、智慧を具えている、そのような道の人・バラモンならだれでも、善なる人の友達となり、仲間となります。
 比丘たちよ、このように、善なる人は、善なる人に睦び仕えているのです。


 比丘たちよ、善なる人は、善なる人の持つ考えをもつ、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、善なる人は、決して、おのれを悩まし苦しめることを考えず、他人を悩まし苦しめることを考えず、両者を悩まし苦しめることを考えません。
 比丘たちよ、このように、善なる人は、善なる人の持つ考えをもつのです。


 比丘たちよ、善なる人は、善なる人の持つ思念をもつ、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、善なる人は、決して、おのれを悩まし苦しめることを思念せず、他人を悩まし苦しめることを思念せず、両者を悩まし苦しめることを思念しません。
 比丘たちよ、このように、善なる人は、善なる人の持つ思念をもつのです。


 比丘たちよ、善なる人は、善なる人の語る言葉を語る、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、善なる人は嘘をつくことをしません。陰口をたたきません。きつい言葉を吐くことをしません。下らないおしゃべりをしません。
 比丘たちよ、このように、善なる人は、善なる人の語る言葉を語るのです。


 比丘たちよ、善なる人は、善なる人の行為をする、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、善なる人は生き物を殺すことをせず、盗むことをせず、性愛において不義を働くことをしません。
 比丘たちよ、このように、善なる人は、善なる人のする行為をするのです。


 比丘たちよ、善なる人は、善なる人の抱く見解を抱く、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、善なる人は次のような見解を抱いています。
 すわなち、『布施は意味がある』『供儀(祭祀)は意味がある』『献供は意味がある』『善くなされたものであれ、悪しくなされたものであれ、もろもろの行為にはその果報、報いというものが存在する』『この世は存在する』『来世は存在する』『母というものは存在する』『父というものは存在する』『化生の生き物というものは存在する』『この世と来世とを、みずから身をもって知り、直接的に知って、(それを)説くような、正しく歩み、正しく行っている道の人・バラモンが、この世には存在する』というものです。
 比丘たちよ、このように、善なる人は、善なる人の抱く見解を抱くのです。


 比丘たちよ、善なる人は、善なる人の行う布施をする、とはどういうことだろうか。

 比丘たちよ、世間において、善なる人は敬意のこもった布施を行なう。みずから手を下して布施を行なう。真心を込めて布施を行なう。完璧に清らかな布施を行なう。将来の果報を考慮した布施を行なう。
 比丘たちよ、このように、善なる人は、善なる人の行う布施をするのです。


「比丘たちよ、善なる人というものは、

 このように善なる属性を具え、
 このように善なる人に睦び仕え、
 このように善なる人の持つ考えをもち、
 このように善なる人の持つ思念をもち、
 このように善なる人の語る言葉を語り、
 このように善なる人のする行為をし、
 このように善なる人の抱く見解を抱き、
 このように善なる人の行う布施をして、

 肉体の滅びた後、死後に、善なる人たちの赴く所へ、生まれ変わるのです。 

 比丘たちよ、善なる人たちの赴く所とは何処だろうか。
 (<善趣の>偉大な)神、あるいは(偉大な)人間です。」と。

 このように、尊師は語られた。彼ら比丘たちは満足し、尊師の語られたことを歓喜して受けた。
 

































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