悪しき者が人身を得ることは難しいということに関して
『比丘たちよ、その盲目の亀が、百年に一度だけ海面に浮かんできて、ついにそのクビキの孔に首を突きこむというのは、
比丘たちよ、それは、煉獄に堕ちたる愚かなる者が、ふたたび人身を得るのに比ぶれば、まだ速やかである、と私は言う』
孔 〔盲目の亀・盲亀浮木の譬え〕
このように私は聞いた。
ある時、世尊はヴェーサーリーのマッカタ・ダハのほとりなる重閣講堂にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた、
「比丘たちよ、たとえば、人があって、大海に、一の孔のあるクビキを投じたとする。
それを東風が西へ運び、西風が東へ運び、北風が南へ運び、南風が北へ運ぶとする。
そこに一匹の盲目の亀がいて、百年に一度だけ海面に浮かんで来るとする。
比丘たちよ、そこで、汝らはいかに思うか。
かの盲目の亀は、百年に一度だけ海面に浮かんできて、そのクビキの一つの孔に首を突きこむことがあるだろうか」
「大徳よ、もしそのようなことがあるとしても、それは、とても永い時を経てからのことでありましょう」
「比丘たちよ、その盲目の亀が、百年に一度だけ海面に浮かんできて、ついに、そのクビキの孔に首を突きこむというのは、
比丘たちよ、それは、煉獄に堕ちたる愚かなる者が、ふたたび人身を得るのに比ぶれば、まだ速やかである、と私は言う。
それは、何のゆえであろうか。
比丘たちよ、彼処には、(法に適う)正しい行いもなく、安静な行いもなく、善行もなく、福業もないからであり、
そこには、ただ共食いがあり、弱肉強食があるばかりだからである。
では、それは、何のゆえであろうか。
比丘たちよ、それは、四つの聖諦を見ないがゆえである。
その四つとは何であるか。
いわく、苦の聖諦、苦の生起の聖諦、苦の滅尽の聖諦、および、苦の滅尽にいたる道の聖諦である。
そのように、比丘たちよ、
これは苦なり、と勉励するが善い。
これは苦の生起なり、と勉励する善い。
これは苦の滅尽なり、と勉励するが善い。
これは苦の滅尽にいたる道なり、と勉励するが善いのである」
雑阿含 諦相応
盲亀経 (阿難尊者)
このように私は聞いた。
ある時、世尊はヴェーサーリーのマッカタ・ダハのほとりなる重閣講堂に住していました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた、
「比丘たちよ、たとえば、大池がことごとく大海と成り、そこに一匹の亀が有り、寿命は無量劫にして、百年に一度、その頭を(海面に)出すとする。
また、その海の中に孔の開いた浮木があり、海の浪に漂流し風にしたがいて、東や西に漂い流されるとする。
その盲目の亀が百年に一度、(海面に)その頭を出すのに、まさにその(浮木に開いた)孔から頭を出すということがあるだろうか」と。
阿難尊者は、世尊に申し上げた、
「そのようなことはございません。
世尊よ、それは何故かと言えば、その盲目の亀が、もし海の東に至れば、その浮木は風にしたがいて、あるいは、海の西に至り、また、そのように南や北の四方向をも巡るからであります。
必ず遭い得ないでしょう」
世尊は、阿難尊者に告げて仰せられた、
「盲目の亀の浮木は、また、交差するといえども、あるいはまた、遭い得ないであろう。
愚癡・無聞の凡夫が、五趣〔天界・人界・餓鬼・畜生・地獄〕に漂流せば、再び人身を得ることは、これよりもはなはだ難しい。
それは何故であるのか。
かの諸々の衆生は、その義を行なわず、法を行ぜず、善を行ぜず、真実を行ぜず、
巡り移りして殺害し、強きは弱きをしのぎて、無量の悪を造るが故である。
この故に、比丘よ、四聖諦に於いて、未だ現前に明瞭な真理の観察を得ていなければ、まさに勤めて修習に努力精進して、
増上欲を起こして、現前に真理の観察を得るために学ぶが善い」と。
このように世尊は説かれた。諸の比丘たちは、世尊の説かれたことを歓喜し敬って受けた。
盲亀経 四聖諦相応 雑阿含
欲を享受する天神の生存
生まれ
「比丘たちよ、これら三つの、欲を享受するための生まれがある。
三つとは何か。
現在の欲を楽しむ者、
自ら楽しみの境地をつくり出して楽しむ天神、
他の天神がつくり出した欲の対象を自由に楽しむ天神である。
まことに、比丘たちよ、これらが、三つの欲を享受するための生まれである」
現在の欲を楽しむ者と、自らつくり出して楽しむ天神、他の欲を受用して自由に楽しむ天神と、とがいる。
彼らはここの生存と、別の生存とを繰り返し、迷いの世界を越えることがない。
智者は、欲楽における天神と人とのすべての欲を断つであろう。
喜びとうれしさに結ばれた越え難い流れを切り、残りなく完全な悟りに入り、残りなく苦を越えている。
聖なる智識をもつ、すぐれた智慧の者、智者は正しい智慧をもって、生ずるものの滅することをよく知り、迷いの生存に赴くことがない。
イティヴッタカ
天神が人身を得ようとすることについて
死歿
「比丘たちよ、天神は天神の身をはなれて死歿しようとするとき、次の五つの前兆があらわれる。
すなわち、花輪はしぼみ、衣服は汚れ、腋から汗が出て、体は醜くなり、天神は自分の天神の座を喜ばなくなる、と。
比丘たちよ、ただちに他の諸天神は、この天神は死のうとしていると知って、三種の言い方で励ます、
『君よ、ここから去って、善い境涯へ往きなさい。善い境涯へ行って、善い所得を得よ。
善い所得を得て、きちんと安定した者となりなさい』と」
このように聞いて、ある比丘が、世尊にこのように申し上げた、
「尊き師よ、諸天神にとってよい境涯へ往く、と言われるのは、一体いかなることでしょうか。
また、尊き師よ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるのはいかなることなのでしょうか。
さらに、尊き師よ、諸天神にとって、きちんと安定した、と言われるのは、どのようなことでしょうか」
「比丘たちよ、人間の状態こそが、諸天神にとって善い境涯へ行く、と言われるものである。
また、人間となって、真理の体現者が説いた教えと僧団の規定とに信仰を得るならば、これが、比丘たちよ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるものである。
しかもその信仰は安立し、根を生じて確立し、堅固である。世間における沙門、バラモン、天神、魔、梵天、あるいはいかなる者によっても、その信仰は揺らぐことがない。
これが、比丘たちよ、諸天神にとってきちんと安定した、と言われるものである
天神が、寿命の滅尽によって、天神の身をはなれて死歿するとき、彼を励ます諸天神の三つの声があらわれる、
『君よ、ここより去って行きなさい、人とともに住む、善い境涯へ。
人身をもったら、正しい教えに最高の信仰を得よ。
その、きちんと定まった君の信仰は根を生じて確立し、正しい教えをよく知るとき、命ある限り、それが動ずることはない』と。
それによって、かの天神は、身の悪行と、口の悪行と、心の悪行を捨て、さらに他の悪と言われるものを捨て、
身によって善を行い、口によって善を行い、心によって善を限りなく行って、執着のもととなるこの心身を離れる。
施しにより、功徳を多くなして、また、他の人々をも、正しい教え、浄らかな修行に導くべきである。
諸天神は、天神が死のうとするのを知ったとき、同情して、再三再四励ます、
『天神よ、行きなさい』と。」
イティブッダカ
迷いの生存とは
ヴェープッラ山
たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている、
「比丘たちよ、一人の人間でも、一劫の間、迷いの生存を重ね、さまよい流転したら、その間に潰した骸骨・骨の積み重ね、骨の集まりは、かのヴェープッラ山(広普山、ラージャガハをとりまく五つの山の一つ)のように大きくなるであろう。
かりにこれらの骨を集める者があっても、蓄積された骨が失われることはないであろう」
このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた、
「一人の人間が、一劫の間に潰す骨を積みあげれば、山のような量になるだろう、と偉大な聖仙(仏陀)は説かれた。
また、その骨の山は、マガダ国のラージャガハ(王舎城)にあるギッジャクータ(霊山)よりもなお高く、ヴェープッラ山のように大きい、と語られた。
真聖なる真実を、すなわち苦と苦の生起と、苦の滅尽と、苦の滅尽にいたる道とを、正しい智慧で見るゆえに、
かの人は、最高でも七回まで迷いの生存を重ねてさ迷うのみで、その後すべての束縛を消滅して、苦しみの終極にいたる。
このことをもまた世尊が説かれた、と私は聞いている。
イティブッダカ
過去無量劫数の長夜に受けた苦
このように私は聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッテー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、諸の比丘たちに告げて言われた、
「衆生は無始の生死、長夜に輪転して、苦の本際を知らない」と。
その時、一人の比丘が坐より起ち、衣服を整へ、世尊に礼をして右膝を地に著し、合掌して世尊に言った、
「世尊よ、過去に幾つの劫があるのでしょうか」と。
世尊は比丘にこのように告げられた、
「私が悉く説くとも、汝がそれを知ることは甚だ難しい」
比丘は世尊に告げて言った、
「それでは譬へで説いていただくことはできるでしょうか」
世尊はこのように言われた、
「それはできるのです。
譬へば比丘よ、それは寿命が百歳の士夫が有って、早朝に三百千劫を憶念し、日中に三百千劫を憶念し、日暮れに三百千劫を憶念する、このようにして日々劫数を憶念して百年で命終するも劫数の辺際(最終)を憶念することはできない。
比丘よ、このように過去の劫数は無量である。
比丘よ、このように過去の無量劫数の長夜に苦を受け、骨を積んで山をなし、髓血流をなし、
また、地獄、餓鬼、畜生、悪処と、無始の生死、長夜に輪転しても、(衆生は)苦の本際を知らない。
だから、比丘たちよ、諸有〔諸々の生存〕を断除して増長させてはならない、とこのように学ぶが善い」と。
このように世尊は説かれた。諸の比丘たちは、世尊の説かれたことを歓喜し敬って受けた。
雑阿含 過去経
永い歳月にわたり受けた苦しみ
涙
このようにに私は聞きました。
ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディカの園にましました。
その時、世尊は、かように仰せられた、
「比丘たちよ、輪廻はその始めもなきものであって、生きとし生けるものが、無智におおわれ、貪欲に縛せられて、流転し、輪廻したるその始源は知ることをえない。
比丘たちよ、これを汝らは、どのように考えるか。
四つの大海の水と、汝らが、怨憎する者と会い、愛する者と別離して、永い永い歳月にわたり、流転し、輪廻して、悲しみ歎いた時に流し注いだ涙と、いずれが多いであろうか」
「大徳よ、われらが世尊の教えをいただいて承知いたしておるがごとくんば、大徳よ、われらが、怨憎する者と会い、愛する者と別離して、永い永い歳月にわたり、流転し、輪廻して、悲しみ歎いた時に流した涙ははなはだ多くして、四つの大海の水といえどもその比ではございません。」
「善いかな、善いかな、比丘たちよ。汝らが、わたしの説いた法をそのように受領していることは善い。
比丘たちよ、汝らが、怨憎する者と会い、愛する者と別離して、永い永い歳月にわたり、流転し、輪廻して、悲しみ歎いた時に流し注いだ涙ははなはだ多くして、四つの大海の水といえどもその比ではないのである。
比丘たちよ、汝らは、永い永い歳月にわたって、母の死に逢ったのである。
比丘たちよ、汝らは、永い永い歳月にわたって、息子の死に逢ったのである。
比丘たちよ、汝らは、また、永い永い歳月にわたって、娘の死に逢ったのである。
比丘たちよ、汝らは、また、永い永い歳月にわたって、眷属の死に逢ってきたのである。
比丘たちよ、汝らは、また、永い永い歳月にわたって、財宝を失う悲しみに逢ってきたのである。
比丘たちよ、汝らは、また、永い永い歳月にわたって、病気の苦しみに逢ってきたのである。
比丘たちよ、そのようにして、汝らが、怨憎する者と会い、愛する者と別離して、永い永い歳月にわたり、流転し、輪廻して、
悲しみ歎いたときに流し注いだ涙ははなはだ多くして、四つの大海の水といえどもその比ではないのである。
それは、何故であろうか。
比丘たちよ、この輪廻はその始めも知られざるものであって、生きとし生けるものが、無智におおわれ、貪欲に縛せられて、
流転し、輪廻したるその始源は知ることをえないからである。
だから、比丘たちよ、この世における諸々のいとなみは厭うがよく、厭い離れるがよく、したがって、そこより解脱するが善いというのである」
無始相応
仏陀の弟子の残りの苦
爪先
かように私は聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディカの園にましました。
その時、世尊は、ひと摘みほどの土をとって爪の先に乗せ、比丘たちに仰せられた、
「比丘たちよ、汝らはいかに思うか。
この爪の先の一摘みほどの土と、この大地のそれと、どっちが多いであろうか」
「大徳よ、大地の土のほうが多くして、世尊の爪のさきの一摘みほどの土はすくのうございます。
世尊が爪の先に乗せられた一摘みほどの土を、大地のそれに比ぶれば、それを百倍しても及ばず、千倍しても及ばず、百千倍しても及ぶものではございません」
「比丘たちよ、それと同じように、すでに正しい考え方のそなわっている聖なる弟子たちや、このことをはっきりと理解するにいたった人々が、よく滅しつくして、もはやなくなってしまった苦はより多くして、なお残っている苦はごく僅かである。
それらのこれまでによく滅しくつして、もはやなくなってしまった苦を、極七返生、残りの苦と比べるならば、これを百倍しても及ばず、千倍しても及ばず、さらに百千倍しても及ぶものではないのである。
比丘たちよ、そのように、法をまのあたりにはっきりと理解するということは、まさしく大利のあることである。
その大利というのは他でもない、法眼、すなわち法をみる眼を得ることなのである」
諦相応 現観相応
〔極七返生とは、預流果の聖者が欲界の人と天とに七返往来して生を受ける中に、必ず仏道を成就して阿羅漢果を得ること。〕
諸々の有情の天(善処)へ赴く難しさ
比丘たちよ、譬えば、この人間の世に於いて、美しき園、美しき林、美しき地、美しき池は少なく、これに反して高地、低地、渡り難い河、突き出た株やイバラのあるところや、険しい山は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、陸生の(一切の)生けるもの〔有情(天・人・餓鬼・畜生・地獄の者・悪魔等)〕は少なく、これに反して、水生の(一切の)生けるもの〔有情〕は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、人として生れる有情は少なく、これに反して、人ではないものとして生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、国や町に生れる有情は少なく、これに反して、人里から離れた地や、無智で野蛮な者の中に生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、智慧をそなえ、道理を理解し、言葉も話すことができて、善説と悪説との意義を分別する能力がある有情は少なく、これに反して、智慧がなく、愚かで道理を理解せず、言葉を話せず、善説と悪説との意義を分別する能力の無い有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、真理を見る智慧の眼を持てる有情は少なく、これに比べて、真理を知らずに迷う(無明)の有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、如来を見ることができる有情は少なく、これに反して、如来を見ることができない有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、如来の説かれる教えを聞くことができる有情は少なく、これに反して、如来の説かれる教えを聞くことができない有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、理法を聞いて自らで善く保持する有情は少なく、これに反して、理法を聞いて自らで善く保持しない有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、善く保持している法の意義を観察する有情は少なく、これに反して、善く保持している法の意義を観察しない有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、意義を理解して知り、理法を理解して知り、理法にしたがって(正しく)修習する有情は少なく、これに反して、意義を理解せず、理法を理解せず、理法にしたがって修習しない有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、厭い離れるべきものを厭う有情は少なく、これに反して、厭い離れるべきものを厭うことのない有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、厭い離れ、真理に適える理法に精進する有情は少なく、これに反して、厭い離れ、真理に適える理法に精進しない有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、捨離を縁じて定を得て、心一境性を得る有情は少なく、これに反して、捨離を縁じて定を得ず、心一境性を得ない有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、最上の食、最上の味を得る有情は少なく、これに反して、最上の食、最上の味を得ず、拾い集めた食物や、乞うて得られる食物にて活ける有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、義の味、法の味、解脱の味を得る有情は少なく、これに反して、義の味、法の味、解脱の味を得ない有情は更に多い。
比丘たちよ、この故に、今、汝らは、まさにこのように学ぶが善い。
私たちは、義の味、法の味、解脱の味を得よう、と。
比丘たちよ、汝らは、まさにこのように学ぶが善い。
比丘たちよ、譬えば、この人間の世に於いて、美しき園、美しき林、美しき地、美しき池は少なく、これに反して高地、低地、渡り難い河、突き出た株や、イバラのあるところや、険しい山は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、人として死んでから、人に生れる有情は少なく、これに反して、人として死んでから、地獄に生れ、畜生に生れ、餓鬼界に生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、人として死んでから、天(善処)に生れる有情は少なく、これに反して、人として死んでから、地獄に生れ、畜生に生れ、餓鬼界に生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、天より没して、天(善処)に生れる有情は少なく、これに反して、天より没して、地獄に生れ、畜生に生れ、餓鬼界に生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、天より没して、人に生れる有情は少なく、これに反して、天より没して、地獄に生れ、畜生に生れ、餓鬼界に生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、地獄より没して、人に生れる有情は少なく、これに反して、天より没して、地獄に生れ、畜生に生れ、餓鬼界に生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、地獄より没して、天(善処)に生れる有情は少なく、これに反して、天より没して、地獄に生れ、畜生に生れ、餓鬼界に生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、畜生として死んで、人に生れる有情は少なく、これに反して、天より没して、地獄に生れ、畜生に生れ、餓鬼界に生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、畜生として死んで、天(善処)に生れる有情は少なく、これに反して、天より没して、地獄に生れ、畜生に生れ、餓鬼界に生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、餓鬼界より没して、人に生れる有情は少なく、これに反して、天より没して、地獄に生れ、畜生に生れ、餓鬼界に生れる有情は更に多い。
比丘たちよ、正にそのように、餓鬼界より没して、天(善処)に生れる有情は少なく、これに反して、天より没して、地獄に生れ、畜生に生れ、餓鬼界に生れる有情は更に多い。
不放逸品 増支部
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