更訂 H28.3.25


  自殺をしりぞけることについて



 俗世間一般の人が、自己(身)を殺める、という行いをすることは、生存を否定するという欲であるので、
生存・出生によりて生じるあらゆる苦しみの、そのあらゆる苦を滅するという(輪廻からの解脱の)道、の事柄とは全く異なります。

 生存・出生から生じるあらゆる苦しみの、その(輪廻から解脱する)あらゆる苦を滅する道というのは、全き善の行いでなければ、その達成に到達できず、悪・邪行(悪・邪見)者では到達できません。
(覚とりを得ていない人が、)自己を殺めるという(自己の生存を否定する)行いは、善行ではないです。

 要するに、(一般の人に関して)仏陀の教えでは、自殺をしてはならないです。





  自殺を禁ずることについて

「尊者ナーガセーナよ、また尊き師は、このようにを説かれました、

『比丘たちよ、自殺〔投身〕してはならない。自殺〔投身〕する者は、法規にしたがって処置されるであろう』と、

 しかし、このように言われるのにあなた方は、
『尊き師が、弟子たちに法を説かれるときは、いかなる場合でも、種々の方法によりて、生・老・病・死(の苦しみ)を断ずるに至る法を教示され、
 生・老・病・死(の苦しみ)を超克する者を、最上の讃辞をもって讃められた』と言います。

 尊者ナーガセーナよ、もしも尊き師が、
『比丘たちよ、自殺〔投身〕してはならない。自殺〔投身〕する者は、法規にしたがって処置されるであろう』と言われたのであるならば、
『生・老・病・死(の苦しみ)を断ずるに至る法を教示された』というその言葉は誤りです。

 もし、『生・老・病・死を断ずるに至る法を教示された』というのであるならば、しからば、
『比丘たちよ、自殺〔投身〕してはならない。自殺〔投身〕する者は、法規にしたがって処置されるであろう』というその言葉もまた誤りです。

 この両刃性の難問をあなたに提出します。あなたは、どうぞこの難問を説いてください」

「大王よ、まさに、尊き師は次のことを説かれました、
『比丘たちよ、自殺〔投身〕してはならない。自殺〔投身〕する者は、法規にしたがって処置されるであろう』と、
 しかしまた、尊き師が、弟子たちに法を説かれるときは、いかなる場合でも、種々の方法によりて、
『生・老・病・死を断ずるに至る法を教示されました』。
 しかしながら、尊き師がしりぞき、あるいはまた、勧められたところの、理由があるのです」

「尊者ナーガセーナよ、しからば、ここで尊き師がしりぞき、あるいはまた勧められた、その理由とは何ですか」

「大王よ、戒行をたもつ者・戒行を具備した者は、アガダ薬(解毒剤)のように、生けるものたちの煩悩の毒を消し、薬草のように、生けるものたちの煩悩の病気を癒し、水のように、生けるものたちの煩悩の塵垢を除き、マニ宝珠のように、生けるものたちの一切の成就をかなえてやり、船のように、生けるものたちを四つの暴流の彼岸に渡し、隊商の主のように、生けるものたちをして(輪廻の)生存の荒野を越え渡らせ、風のように、生けるものたちの三種の熱火を吹き消し、(慈雨を降らす)大雲のように、生けるものたちの意を満たし、師のように、生けるものたちに善を教え、すぐれた案内者のように、生けるものたちに安穏の路を告げ示します。

 大王よ、このように、戒行をたもつ者は、多くの功徳、多種の功徳、無量の功徳を有し、功徳の集まりであり、功徳の積み重ねられた者であり、生きとし生けるものたちの利益を増長する者です。

 大王よ、尊き師は、生けるものたちへのあわれみにより、『比丘たちよ、身を滅ぼしてはならない』と言って、学ぶべき規律、すなわち
『比丘たちよ、自殺〔投身〕してはならない。自殺〔投身〕する者は、法規にしたがって処置されるであろう』ということを制定されました。
 大王よ、これが、尊き師の〔投身〕自殺(という断滅)をしりぞけられた理由です。

 大王よ、また、弁舌に巧みな 長老クマーラカッサパ が、パーヤーシ王に「他界」を説いた時に、こう言われました、
「王よ、戒行をたもつ有徳な(比丘・沙門・修行者・)遍歴者・バラモンたちは、長くこの人間界に生存し続けるにしたがい、ますます多くの人々の利益のため、多くの人々の安楽・幸福のため、また、世間へのあわれみのため、人天の利益のため、人天の利益を豊富にするため、人天の幸福・安楽のために道を行く」と。

 次に、尊き師は、いかなる理由によりて(後の断滅を)、勧められたのであるか。

 大王よ、生まれることも苦である、老いることも苦である、病気も苦である、死も苦である、愁いも苦である、悲しみも苦である、憂いも苦である、悩みも苦である、悶えも苦である、愛しくない者と会うのも苦である、愛しい者と別れるのも苦である、母の死も苦である、父の死も苦である、兄弟の死も苦である、姉妹の死も苦である、子供の死も苦である、夫の死も苦である、妻の死も苦である、親族の死も苦である、親族を失うのも苦である、健康を失うのも苦である、財を失うのも苦である、戒を失うのも苦である、<智慧の>見解を失うのも苦である、王による恐怖も苦である、盗賊の恐怖も苦である、敵の恐怖も苦である、飢饉の恐怖も苦である、火の恐怖も苦である、水の恐怖も苦である、波の恐怖も苦である、渦の恐怖も苦である、鰐の恐怖も苦である、鮫の恐怖も苦である、自己への非難の恐怖も苦である、他人への非難の恐怖も苦である、刀杖の恐怖も苦である、地獄(悪趣)への生存に赴くのも恐怖することも苦である、会衆の人々に馴染むのを恐怖することも苦である、生計の恐怖も苦である、死の恐怖も苦である、鞭にて打たれるのも苦である、籐にて打たれるのも苦である、半杖にて打たれるのも苦である、手を切られるのも苦である、足を切られるのも苦である、手足を切られるのも苦である、耳を切られるのも苦である、鼻を切られるのも苦である、耳鼻を切られるのも苦である、・・・・・・・・・・様々な刑を受けることも苦しみである、・・・・・・・・・・犬どもに喰われるのも苦しみである、生きているまま刺されるのも苦しみである、刀で首を切られるのも苦しみである。

 大王よ、輪廻〔の流れ〕に入った者は、このような多種多様の苦しみを受けるのです。

 大王よ、たとえば、雪山〔ヒマラヤ山〕に降った雨が、石・礫・砂利・渦巻・渦・波・曲流・奔流・樹根・樹枝の、障害や妨害の間をあまねく流れてガンジス川に入るように、
大王よ、そのように、輪廻〔の流れ〕に入った者は、このような多種多様の苦しみを受けるのです。

 大王よ、輪転〔種々なる生存を繰り返し、多種多様の苦を受けなければならない流転輪廻〕は苦しみであり、不輪転〔流転輪廻することなく、多種多様の苦が全く消滅した安楽、涅槃〕は楽しみであります。

 大王よ、尊き師は、不輪転の功徳と、輪転の恐怖とを明らかにし、不輪転(の苦の断滅)をさとるため、また、生・老・病・死(の苦)を超越するために、(後の、あらゆる苦の断滅)を勧められたのです。

 大王よ、これが尊き師の勧められた理由にほかなりません」

「もっともです。尊者ナーガセーナよ、問いはよく解き示され、理由はよく説かれました。(あなたの所論は、)まさにそのとおりであり、わたしはそのように認め受持します」
弥蘭王問経
〔ミリンダ王の問い(弥蘭王問経)とは、西北インドを支配したギリシアの王メナンドロス(インド名をミリンダ)と、仏教の経典に精通した、尊者ナーガセーナ〔那先〕との間に交わされた対論の書です。〕





 要するに、後の生・老・病・死を断滅すべしというのは、輪廻の流れにある多種多様のあらゆる苦しみの、その全てのあらゆる苦しみを断滅するということであって、
 自己を殺めて人生(生きること)を断つということではありません。

 当然ですが、一般の人が自己を殺めることで、輪廻の流れにある多種多様のあらゆる苦しみの、その全てのあらゆる苦しみの断滅(解脱)ができるという道理はないです。







 阿羅伽・聖者の方々の般涅槃というものについて、それはどのようであるのか。後学のために記す。



  阿羅伽の般涅槃について

『仏陀の教えにより、(特定の)業処の修行を修習して、阿羅伽果を得た比丘の寿命期間は、必ず定まり居られる。

 彼は”今や、我にこれだけの長さの寿命があり、それ以上はない”と、知りて、

(死期の近づくや、)自ら自然に(沐浴、剪髪、剪爪等の)身体の注意を為し、衣服をよくまとい着ける等の一切の所作を為しおわり、目を閉じる。

 例えば、コーティ山寺に住しているティッサ長老のように、マハーカランヂャ寺に住しているマハーティッサ長老のように、デーヴァプッタの乞食者ティッサ長老のように、チッタラ山寺に住している二人兄弟の長老のように。

 その中の一人の物語をなさん。


(チッタラ山に住していた)二人兄弟の長老の一人は、満月の布薩の日に、波羅提木叉を説きおわり、
 比丘衆を従えて、自己の住している処に行き、経行処に立ちて、月光を眺め、自己の寿命を察知して、比丘衆に言われた、

「汝らは、かつて、比丘が般涅槃するのを見たことがあるだろうか。
(彼ら比丘は)どのようにして、般涅槃したのか」

時に、ある人々は、
「我らは、座に坐して般涅槃するのを、かつて見ました」と言った。

ある人々は、
「我らは、空中に結跏趺坐して(般涅槃するのを、かつて見ました)」と言った。

長老は、
「我は今、汝らに経行しつつ、般涅槃するを見せしめん」と言われて、

 それより経行処に線を引き、

「我は、経行処の、この端より他の端に行きて、戻りつつ、この線の所に来たりて、必ず般涅槃するだろう」と言われて、

 経行処に上がり、彼方に行きて、戻りつつ、一方の足にて線を過ぎたる刹那に、即ち般涅槃された。』





















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