未 更訂 H31.2.2


  仏陀と法と僧伽に帰依することについて



 仏陀と仏陀の教えと仏陀の弟子の集いの三宝への帰依



 真理は一つであって、第二のものは存在しない。

 仏陀の教えである真理が一つであれば他の聖人の教え(真理)であったとしても、その教えが同じその一つ(真理)を語っているのであれば、道は同じく一つとなるだろう。
 同じ一の真理を説いているのであれば、道は結びつく、と。


 「不死(涅槃)を得るための門はひらかれた。耳をもつ者は、聞いておのれの盲信をすてよ」


 人間として生まれ、悟りを開いた聖者である仏陀の教えを知ることができるということは幸福です。

 仏陀の教えを見聞する人に幸せ〔師あわせ〕と真の福〔不苦〕がありますように。





『仏陀の弟子・仏教徒となる人は、

 釈迦族に出生されたゴータマ仏陀・世尊と、仏陀の教え(法)と、比丘の集い(僧伽)の、三宝に帰依・依りどころとする事によりて、仏陀の弟子・仏教徒となる。

 このように、仏陀の弟子となる人は、身・合掌、口・聖語、三宝への帰依を唱える、意・三宝への信仰、を行ない、三宝に帰依する。』

 仏陀の弟子として、毎日の勤行で、三宝への帰依を唱えるのも善い。

(三宝を隨念して、毎日仏壇で帰依を唱えても善い、と、私は思う。)





阿弥陀仏の場合は、”アミターバ仏陀”という”諸々の仏陀”の内の、釈迦族に出生したゴータマ仏陀・世尊を隨念しての帰依を唱えるのが、仏教徒として正しい。

 大日如来の場合は、本尊大日如来としていくのであるならば、天台宗のようにゴータマ仏陀を顕したものが大日如来であるとして、釈迦族に出生したゴータマ仏陀・世尊を隨念しての帰依を唱えるのが、ゴータマ仏陀の仏教徒として可なるものと成りえるでありましょう。
 瓔珞等は、仏陀・覚者としてはありえないので、不可となります。

 本当の仏陀であるゴータマ仏陀ではなく、阿弥陀仏や大日如来というゴータマ仏陀・世尊とは別の存在であるとする仏・如来に帰依しても、本当の仏教徒・ゴータマ仏陀の弟子とは言えない。

 
大乗経典という後世に作られた経典の阿弥陀経では、阿弥陀経の中において、ゴータマ仏陀・世尊ご自身がこの阿弥陀経を説いていることになっているが、その中において、ゴータマ仏陀・世尊が、應供であるご自身と、また、覚られている應供・阿羅迦の比丘聖者の集いという、現におられる世の無上の福田に對する信仰を別として、他の世界の阿弥陀仏に信仰を起こさせるというのは、疑問が生じるところである。

 私が言うのは、阿弥陀仏というのは、昔、諸々の仏陀を供養するためにアミターバ・仏陀(像)は造作せられたのであるが
その派生によりて、後代において阿弥陀仏として登場し、その阿弥陀物の物語が大乗経典として造作し語られた、のではなかろうか、と。

 要するに、本来、アミターバ仏陀・阿弥陀仏とは諸々の仏陀を供養するための象徴であり、本来、阿弥陀如来という存在その者を現わしてはいるのではない、と。

 また、その故に、阿弥陀仏・アミターバ仏陀という”諸々の仏陀”を、一人の存在として阿弥陀仏とするのも正しくない。

 ”諸々の仏陀”として供養するのでれば、その中、仏陀の教えにより、一世界は一仏陀のみ出現されるので、私たちのこの世において出現された一の仏陀であるゴータマ仏陀・世尊こそが、その阿弥陀仏陀・諸々の仏陀として供養をされるべき主とする仏陀である、と。

 要するに、ゴータマ仏陀・世尊こそが、その(主となる)阿弥陀仏陀である、と。

 また、そのように、阿弥陀仏の正否から述べて正道へ導こうとする事柄とは別としても、大乗経典の阿弥陀経の中でその阿弥陀如来(経)の事柄を説いているのが、ゴータマ仏陀・世尊であるので、いままで阿弥陀仏という一人の存在としての仏に帰依していた人でも、その教えを説いた方であるゴータマ仏陀・世尊に帰依しなおすという事柄は、問題とはならないだろう。
 かえって早めにゴータマ仏陀に帰依するのが、仏陀の弟子、仏教徒として善いでしょう。


 そして次に、真言宗に関して、

 真言宗で言えば、理趣経の他化自在天の王宮の中にいる大日如来(ビルシャナ如来)に帰依するのも、本当の仏教徒・ゴータマ仏陀の弟子とは言えない。

 理趣教は、覚りに至る前である菩薩の境地を説いているとされが、解釈が難しく、一般人が読むならば、ほぼ”淫欲や貪欲を可としているのだろか”、と迷うので、その大乗経典である理趣教は、読まなくても良いでしょう。例えば、読んで迷った人達は、エロ密教へと派生してしまった、というように、仏教の僧侶でありても、別段あえて触れる必要はない経でしょう。

 そして、大日如来に関しては、大日如来は宇宙の実相を体現する根本仏である、とも伝えられているが、例えば、そのように大梵天のような存在を大日如来として、信仰供養または、信仰修習するにしても、ゴータマ仏陀・世尊を信仰供養する功徳または、信仰修習するのにとうてい及びはしないのである。

 それは、何故であるのか。

 娑婆世界の主であるその大梵天もまた、ゴータマ仏陀を尊敬供養する存在なのであるから。

 また、マハーヴィロチャーナという、古くは、阿修羅の事柄をマハーヴィロチャーナと云った、というようなところから派生している阿修羅としての偽如来であれば、なおのこと、本来のゴータマ仏陀に帰依するのが、仏教徒して当然の事柄であります。

 どのようにあるにせよ、本当の正自覚者である、ゴータマ仏陀・世尊の三宝を信仰供養する功徳、または、信仰修習することにとうてい及びはしないのである。

 このように、大乗仏教は、仏陀という存在はどのような存在であるのか、というところからしても迷いの状態にあるが、

 そのような迷いの状態にあるのは何故なのか。

 それは、後に造作された大乗経典への執著である。

 自ら禅定をして、自らで仏陀の理法を見ることがないために、正しく理法の分別ができないことによる、また、道理に對する無知、無明による迷走である。


 しかし、大乗仏教で教えを学んでいた人でも、本当に真理・道を求めていた準備の出来ている人は、すぐに気づくであろう。

 また、すでに気づいているであろう。


 人によりては、善行は成し難い行いである。

 此処において、仏陀の教え(仏教)を理解できたという人が、同じように迷いにある人を、ゴータマ仏陀のもとへ正しく導いてあげるのは、自らの大きな善行と成る。

〔善行を成そうとする人は、迷いにある人を、正しくゴータマ仏陀のもとへ導くべし。〕


 また、

 これら、浄土教の阿弥陀仏や大日如来の事柄を、ここに説くのは何故であるのか。

 それは、諸々の迷いにある大乗仏教の仏教徒を、ゴータマ仏陀・世尊のもとへ正しく導くためである。
H28.11.11)








○仏陀の弟子となる、三宝(仏陀と法と僧伽)への帰依



○三宝(仏陀と法と僧伽)の諸々の徳を隨念して、信仰心を持つ)】


○仏陀の隨念〔仏陀の十徳〕  


 仏陀を隨念する。

『仏陀(世尊)は、阿羅迦〔応供〕であり、

 正自覚者〔正等覚者〕、

 明行具足、

 善逝、

 世間解、

 無上士、

 調御丈夫、

 天人師、

 仏陀、

 世尊にまします』



 このように、仏陀の諸徳を隨念する修行者にとりて、その時、貪に関して執著する心なく、瞋(怒・憎等)に関して執著する心なく、癡(愚かさ)に関して執著する心なく、その時、彼の心は如来を所縁として端正となる。

 諸々の貪瞋癡に関する愚かな心がないことによりて五蓋を鎮伏し、業処に面することによりて心が端正となり、彼に仏陀の徳に傾ける尋と伺とが起きる。

 諸の仏陀の徳を隨尋し、隨伺せば喜が生じる。

 喜の意があれば、喜を原因とする軽安によりて身心の不安は安息する。

 不安が安息すれば身心の楽が生じる。

 楽となれば心が定まる。

 そのように、仏陀の徳を隨念することにより、次第に、また、一刹那(瞬時)に五禅支が生じ、心が定まる。

 このようにして、仏陀の隨念に精励する比丘は、仏陀を尊敬し、順敬し、信心・念・智慧・福の広大に至り、喜悦多く、怖畏恐怖を征服し、苦においても安住を得、師である仏陀と共住する想を獲得し、
 また、そのように、仏陀の(十徳の)隨念が身中に存せる彼の身体は、塔廟のように供養を受けるに値する。

 彼の心は、仏地へ向い、犯罪の起こるべき事物(対象)に接しては、面前に師をみるように彼に慚愧が現起する。
また、上位に通達できない者も来世は善趣に至る。

「故に、実に善慧者は、このように大威力ある仏陀の隨念によりて、常に不放逸を行うが善い」



【煩悩の敵(賊)を殺したこと・輪廻の輪の輻を破壊したこと・供養を受けるに値すること・悪を為さず隠さないことによりて阿羅迦〔阿羅漢 arahat〕】である

【正しく自ら一切法を覚ったことによりて正自覚者〔正等覚者・等正覚者・三摩三仏陀 samma-sambuddh〕】である。

【三明・八明・十五行を具えることによりて明行具足】である。

【涅槃に到達したこと・善く修行してきたこと・善い話を正しく語ることによりて善逝〔修伽陀 sugata〕】である。

【現象の世間・有情の世間・空間の世間を知ることによりて世間解】である。

【戒などが無上であることによりて無上士(無上者)】である。

【制御されるべき丈夫を、制御・調伏することによりて調御丈夫】である。

【神々や人間を教誡することによりて天人師】である。

【四の真理を自ら覚り・自らの覚った道を世間に覚らせることによりて仏陀】である。

【自在・道・果・涅槃の出世間法・名声・吉祥・意志・努力精進の福運あることによりて世尊〔薄伽梵渡 bhagavat〕】である。




【煩悩の敵(賊)を殺したこと・輪廻の輪の輻を破壊したこと・供養を受けるに値すること・悪を為さず隠さないことによりて阿羅迦〔阿羅漢 arahat〕】である。

・一切煩悩より極めて遠い所に立ち、道によりて諸煩悩を諸習氣と共に鎮伏するが故に、また、諸過失を具せず、一切の煩悩を遠離するが故に、主は阿羅迦(阿羅漢)と言われる。

・主は道によりて、貪り・煩悩等と称せられる一切の賊を殺した、その故に阿羅迦と言われる。

・世主は智剣を以て、輪廻の車輪の輻を、破壊したまへるが故に、阿羅迦(阿羅漢)と言われる。

・諸資具と共に勝れた供養を、世主は受けるに値する(応供)。故に勝者(仏陀)は世間にて、義に相応する阿羅迦なるこの名に値する。

・世間にて、自ら賢者であると思へるすべての愚者が、不名誉を怖れて密かに悪を行なうが、この方は決して悪を行なうことなく、この方に諸の悪業の秘密なるものはあることなし。
故に密かなる悪を為さないことによりて、阿羅迦と称せられる。



【正しく自ら一切法を覚ったことによりて正自覚者〔正等覚者・等正覚者・三摩三仏陀 samma-sambuddh〕】である。

・知通すべき諸法を、知通すべきものとして覚り、遍く知るべき諸(苦)法を遍く知るべきものとして覚り、捨断すべき諸(集)法を捨断すべきものとして覚り、證(証明して自ら体得)すべき諸(滅)法を證すべきものとして、修習すべき諸(道)法を修習すべきものとして覚られた。

「知通すべきを知通した、
 修習すべきを修習した、
 捨断すべきを我は捨断した、
 故に婆羅門よ、我は覚者である」と。

・また、「眼は苦諦である。その根本原因としてそれを起こさしむる過去の愛は集諦である。苦と集との両者の起らないのは滅諦である。滅を知り理解する行道は道諦である」と、このように一々の句をあげて一切法を正しく自ら覚りたまへり。
 耳・鼻・舌・身・意の内の六処についても同様である。
 これと同じ方法によりて、色等の外の六処、眼識等の六識身、眼触等の六触、眼触所生受等の六受、色想等の六想、色思等の六思、色愛等の六愛身、色尋等の六尋、色伺等の六伺、色蘊等の五蘊、十遍、十隨念、膨張想等による十不浄想、髪等の三十二行相、十二処、十八界、欲有等の九有、初禅等の四禅、慈修習等の四無量、四無色定、逆観による生老死等の縁起支、順観による無明等の縁起支が説明せらるべし。

 このように四聖諦によりて、一々の句をあげて一切法を正しく自ら覚り、順に覚り、逆に覚られた。故に、正しくまた、自ら一切法を覚れるが故に等正覚者である、と言う。



【三明・八明・十五行を具えることによりて明行具足】である。

・三明(三智)は、宿住髄念智、死生智(天眼智)、漏尽智を言う。

・八明は、観智、意所成神変と、六神通とを言う。

・十五行とは、戒律儀、諸根の門を護ること、食物の量をしること、眠らないように努めること、信、慚、愧、多聞、精進、念、慧の七妙法、四色界禅、の十五行法であると知るべし。
 これらの十五行法は、聖弟子がこれらを行じて不死の国土たる涅槃に行くが故に、行と言われる。

「マハーナーマよ、ここに聖弟子は具戒者である」

・明の具足は、世尊の一切知性を完成せしめ、行の具足は大悲性を完成せしめたり。
 かの世尊は、他の過去の明行具足者と同じく、一切知性により、一切有情の利と不利とを知り、大悲性によりて、一切有情をして不利なるを避け、利なるに進ましめたまう。故にかの諸弟子は善く行道する。
 明と行とに欠如した者の諸弟子が苦行等を為すような、そのような(無明にて)悪く行道するのではない。

 世尊は、これらの明と行とを具足したまう。故に明行具足者と言われる。



【涅槃に到達したこと・善く修行してきたこと・善い話を正しく語ることによりて善逝〔修伽陀 sugata〕】である。

・世尊の行くは善浄である。遍く清浄であり、無罪である。
 世尊は聖道によりて、安穏土に執著なくして行く、そのように善浄に行くが故に善逝である。

・また、善妙なる処・不死なる涅槃に行かれた、そのように善妙なる処に行かれたが故に善逝である。

・また、それぞれの道によりて、煩悩をすでに捨断して、更に還ることなく、正しく行く。
 すなわち、預流道、一来道、不還道、阿羅迦道の諸々の聖道によりてすでに捨断せる諸煩悩は、更に来たらず、返らず、還らざる。故に善逝である。

・また、燃燈佛(過去二十四仏陀の第一の仏陀)の足下にて成佛の豫言を得てより以来、菩提座における正覚に至るまで、三十波羅蜜を完成せしむる正しき行道によりて、一切世間に利益と安楽とのみをあたえ、常(見)、断(見)、欲楽・苦行のこれらの極端に従い行かずして正しく行く。そのように正しく行けるが故に善逝である。

・また、世尊は正しく語る、妥当なる場合に妥当なる語のみを語る。故に善逝である。

「如来はある言葉を、不実である。不真である。(安楽・涅槃・八正道に)不利を伴う、と知りたまい、かつそれが他人に好ましからず意にかなわなければ、これを如来は語りたまはず。
また、如来はある語を、実である。真である。(安楽・涅槃・八正道に)不利を伴う、と知りたまい、かつそれが他人に好ましからず意にかなわなければ、これを如来は語りたまはず。
しかし、如来はある語を、実である。真である。(安楽・涅槃・八正道の)利を伴う、と知りたまい、かつそれが他人に好ましからず意にかなわなくても、それに関して如来はその語を説くべき時を知りたまう。

また、如来はある言葉を、不実である。不真である。(安楽・涅槃・八正道の)利を伴はず、と知りたまい、かつそれが他人に好ましく意にかなうても、如来はこれを語りたまはず。
また、如来はある言葉を、実である。真である。(安楽・涅槃・八正道の)利を伴はず、と知りたまい、かつそれが他人に好ましく意にかなうても、如来はこれを語りたまはず。
しかし、如来はある語を、実である。真である。(安楽・涅槃・八正道の)利を伴うと、知りたまい、かつそれが他人に好ましく意にかなうならば、それに関して如来はその語を説くべき時を知りたまう。」と

 このように、世尊は正しく語る。その故に善逝である。



【現象の世間・有情の世間・空間の世間を知ることによりて世間解】である。

・かの世尊は、自性より、集(原因)より、滅より、滅の方便より、あまねく世間を知り了知し、通達したまへり。

「友よ、生れず、老いず、死せず、滅びず、生起しない処あり、我は世間のはてまで歩き行くことによりて、その生死なき処を知らしめ見せしめ得させようとは言わず。
 友よ、しかし、我は世間のはてまで至らずして、苦の終尽を説くことなし。
 友よ、しかも我は有想有意なる一尋ほどのこの身体において、世間と世間の集(原因)と、世間の滅と、世間の滅に至る道とを認める。

 歩行によりて、世間のはてに決して達すべきことなし、しかし、世間のはてに達せずしては、苦より解脱することなし。
 故に、実に善慧なる世間解は、梵行に住して世間のはてに行き、世間のはてを知りおわり、寂静となり、この世と他の世とを希求することなし」


・三世間あり、行世間、有情世間、空間世間(器世間)あり。

・行世間に、一世間あり、一切有情は食によりて住す。二世間あり、名と色とである。三世間あり、三受である。四世間あり、四食である。五世間あり、五取蘊である。六世間あり、六内処である。七世間あり、七識住である。八世間あり、八世間法である。九世間あり、九有情居である。十世間あり、十処である。十二世間あり、十二処である。十八世間あり、十八界である」と、世尊はこの行世間をもあまねく知りたまへり。


・有情世間は、五蘊(色受想行識)の身をもち、互いに同じではない生存を為す世間をいう。
 「世間は常である」または、「世間は常に非ず」と述べられた場合は有情世間である。
 一切有情の意楽(気持ち)を知り、随眠を知り、性行を知り、勝解(傾向)を知りたまい、一切有情が塵垢少なきか、塵垢多きか、利根なるか、鈍根なるか、善行相なるか、悪行相なるか、教化し易きか、教化し難きか、有能なるか、業障・煩悩障・異熟障にさえぎられて、無能なるかをも、了知したまう。

 このように世尊は、有情世間をもあまねく知りたまへる。


・空間世間は、一輪圍世界は縦横が各百二十萬三千四百五十由旬あり。また周廻は、一切周圍三百六十萬と、一萬三百五十由旬あり。
 その中に、この大地はその厚さが二十萬と四萬由旬と言われる。
 その大地を支持する水は、四十八萬由旬の厚さにて、風中に存立する。
 その水を支持する風は、水雲を出づること九十萬と六萬由旬である。これが世間の存立である。
 そのように存立するこの世界にて、山の最上である須弥山は八萬四千由旬であり、大海に深入し、それと同じくそびえ立つ。
 それより各半分までの高さにて次第に、種々の天の宝で飾られている、ユガンダラ山・イーサーダラ山・カライ”ーカ山・スダッサナ山・ネーミンダラ山、イ”ナタカ山・アッサカンナ山の諸高山が大海に深入しそびえ立つ。

 須弥山の周辺にあるこれらの七大山は、諸大王の住所にして天や夜叉も棲む。雪山は高さ五百由旬あり、縦と横とは三千由旬あり、八萬四千の峰を以て厳飾せられている。
 ナガと称せられるヂャンブ樹は、幹の周囲が十五由旬、幹と枝との長さは中心より周辺まで五十由旬、直径も高さも百由旬である。その樹の故に閻浮州と説かれたり。
 また、諸阿修羅のチトラパータリー樹や諸カララのシンバリ樹やアパラゴーヤーナ(州)のカダンバ樹やウッタラクル(州)のカッパ樹やプッバイ”デーハ(州)のシリーサ樹や三十三天(忉利天)のパーリチャッタカ樹も閻浮州と同じ大きさである。

故に古人は言う、
「パータリー樹、シンバリ樹、閻浮樹、諸天の晝度樹、カダンバ樹、カッパ樹、それにシリーサ樹を以て第七とする」と。

 輪圍山脈は八万二千由旬、大海に深入し、同じくそびえたち、かの一切世間を囲みてあり。
 その中、月輪は四十九由旬、日輪は五十由旬である。三十三天は一萬由旬である。阿修羅天も、阿鼻大地獄も、閻浮州も同様である。
 アパラゴーヤーナ(州)は七千由旬であり、プッバイ”デーハ(州)も同様である。ウッタラクル(州)は八千由旬である。
 また、この中、一々の大州は各五百の小島に囲まれており、その一切が一輪圍世界にして一世界である。その世界と世界の間に諸々の世界中間の地獄があり。
 このように無限の輪圍世界、無限の世界を、世尊は無限の仏智をもちて知り了知し通達したまへり。

 このように世尊は、空間世間をもあまねく知りたまうが故に、世間解である。



【戒などが無上であることによりて無上士(無上者)】である。

・世尊は戒の徳によりても一切世間に(おいて)勝れ、定・慧・解脱・解脱知見の徳によりても一切世間に(おいて)勝れたまう。

・また、戒の徳によりても、〔定・慧・解脱・解脱知見の徳によりても、〕無等・無等等・無比・無對・無比肩者である。

「我はまた実に天を含めたる世界において、魔を含めた世界において、梵を含めたる世界において、天と人とを含めたる衆において、我よりもよく戒を具足せる者を見ず」と。

 このように、最上信楽経等、および、「我に師あることなし」等の諸偈が詳説せられるように、世尊は戒の徳によりても一切世間に勝れ、定・慧・解脱・解脱知見の徳によりても一切世間に勝れたまうが故に、無上士である。



【制御されるべき丈夫を、制御・調伏することによりて調御丈夫】である。

・その中、調御せらるべき丈夫とは、いまだ調御せられずして調御するに適する畜生の丈夫(牡)をも、人の丈夫(男)をも、非人の丈夫をも言う。

 世尊は、アパラーラ龍王、チューローダラ龍王、マホーダラ龍王、アッギシカ龍王、ドゥーマシカ龍王、アーラバーラ龍王、ダナーパーラカ象等のごとき畜生の丈夫をも調御して無毒と為し、帰依と戒とに住立せしめたまへり。人の丈夫をもサッチャカニガンタプッタ・アンバッタ学童、ポッカラサーティ・ソーナダンダ婆羅門、クータダンタ等、非人の丈夫、アーラヴァカ夜叉、スーチローマ夜叉、カラローマ夜叉、また、帝釈天王等を種々の調伏方便もて調御し調伏したまへり。

「ケーシよ、我は実に調伏せらるべき諸丈夫を、柔を以ても調伏し、剛を以ても調伏し、柔と剛とを以ても調伏する」と。

 また、世尊は戒清浄者等に初禅等を語り、預流等に上道への行道を語りて、すでに調御せる者をも更に調御したまう。


・また、無上士調御丈夫という一義句となす。

「諸比丘よ、調御せらるべき象は、調象師によりて御せられて、一方のみに走る」と。

 世尊は、調御せらるべき諸丈夫をば、彼らが一結跏趺坐によりて、八方に執著なくして走るように御したまへばなり。その故に無上士調御丈夫と言われる。



【神々や人間を教誡することによりて天人師】である。

・世俗諦たる現世と来世と、第一義諦とをへて、適度に教誡をしたまうが故に師である。また、隊商主の如きが故に師である。

「世尊は、隊商主である。譬えば、隊商主が諸隊商をして難所たる沙漠を渡らしめ、盗賊難所を渡らしめ、猛獣難所を渡らしめ、飢饉難所を渡らしめ、無水難所を渡らしめ、上渡させ、下渡させ、過渡せしめ、安穏地に達せしめたまうが如く、世尊は師であり隊商主であり、諸有情をして難所を渡らしめ、生の難所を渡らしめたまう」

・天人とは、諸天と諸人とのであり、これは勝れたる者(すなわち諸天)と有能なる者(諸人)とを限りて説くものである。
 更に、世尊は諸々の畜生にも教誡をあたえたまうが故に師である。

・もしも、畜生も世尊より法を聞きて近依(道果を證得すべき強い因)の成就を得たならば、その近依の成就によりて、二回目、または三回目に生まれかわりて、聖道や聖果を得るに至ることができる。

 蛙天子(マンドゥーカ)等がこの場合の適例である。

『伝え言う、世尊がガッガラー池の畔においてチャンパー市の住民に法を説きたまへる時、一匹の蛙が世尊の声の相を法想によりて把取した。時に杖にもたれかかりて立つ一人の牧牛者あり、知らずしてその蛙の頭に杖をおさえつけて立った。かの蛙はただちに命終して、法を聞いた功徳によりて三十三天の十二由旬ある黄金宮に生まれたり。蛙は眠りより醒めたる者のようにそこにて天女衆に囲まれている自己を見て「ああ、我はここに生れたり。いったい、いかなる業を作したのだろう」と、思慮したところ、世尊の声の相を把取したる以外に何らをも見られなかった。

 彼はただちに天宮と共に来たりて世尊の足下に礼拝した。


世尊は知りつつも(蛙天子に)問いたまへり、

「神変と名声とによりて輝きつつ、優れたる容色を以て、一切諸法を照らしつつ、我が両足を礼拝するのは誰か」と。

「我は前生にて水中の水棲者の蛙でした。尊師より法を聞きつつありましたが、牧牛者に殺されました」

 世尊は、彼に法を説きたまへり。
 八萬四千の生物は法現観(須陀洹)を得たり。
 天子もまた、須陀洹果に達し、微笑をなして去った。


〔仏陀はその者を解脱へと導く天人師である。

 この蛙天子の場合は、法想によりて、という仏陀からの直接の聲聞であり、仏陀であるから可能である、という程の事柄でもあるだろう。
 阿羅迦の聖者方の聲聞も同様にして。

 例えば、仏陀はその者の思念を誘導するというような神通を用いることもあるが、仏陀は知りて天と人とを最上の安楽へと導くために用いる。

 魔術を使う悪しき能力者が、人を誘導するのに、その者の粗い思念を捕らえて動かすというような魔術を用いて悪行に利用している者がいるが、聖者方の導きはそのような悪業とはまったく異なる。


 また、『世尊は知りつつも(蛙天子に)問いたまへり』というように、”世尊は知りつつも問う”というのは、この教えの時だけではなく、全知者である世尊や阿羅迦の聖者方が、知りつつもあえて問うという行いを為すのは、世の人々のため、また、後の世の人々のために問われているのである。

 例えば、数千年後の現在、このHPでこの天子の事柄の教えを記して、この教えを知る人が、”仏陀の理法を聞いて受けたことにより、畜生でも天へと生じる因を得た”。”仏陀の教えを知り学び、修習している私にとりても、善業・利は生じているだろう。どうして善業・利が生じないことがあるだろうか”と、そのように、全知者である世尊や阿羅迦の聖者方は、世の多くの人々が修習・正道・善業の利を生ずるようにと、また、後の世の人々のためにも問われているのである。〕



【四の真理を自ら覚り・自らの覚った道を世間に覚らせることによりて仏陀】である。

・知るべきものがあれば、その一切を解脱究竟智をもて覚れるが故に仏陀(覚者)である。

・また、四聖諦を自ら覚れるが故に、また、他有情をして覚らしめたまうが故に、仏陀である。



【自在・道・果・涅槃の出世間法・名声・吉祥・意志・努力精進の福運あることによりて世尊〔薄伽梵渡 bhagavat〕】である。

・世尊とは、最勝の意味であり、
・世尊とは、最上の意味であり、
・徳の勝れ一切有情の最上なる師を尊重する”仏陀”の同義語である。

 故に世尊と言われる。


法将(舎利弗・サーリプッタ尊者)によりてもこのように説かれたり、
「世尊というこの名は、母(マーヤー夫人)によりて作られたるに非ず、父(浄飯大王)によりて作られたるに非ず、八萬の親戚によりても、帝釈天や都卒天等の勝れたる諸天によりても作られない。この世尊という名は、解脱の後に得らるるものにして、諸仏陀世尊が菩提樹下にて一切智の獲得と共に證したまへる施設(名)である」と。

・諸瑞祥(お目出諦しるし・吉相)を具し、目的に適う住所を受用し、諸徳を有し、分別をできるが故に、諸煩悩・諸悪を破壊するが故に、尊重者にして吉瑞あるが故に、多くの修習法もて善く受習・修習するが故に、有の終極に至り、諸有中の迷い徘徊を棄捨するが故に、世尊と称せられる。

・世間出世間の楽を生ぜしめ、施・戒等の極みに達せる瑞祥(善の証・吉相)があるが故に、瑞祥を具せる者と言うべきを世尊と言へると知るべし。

・また、貪・瞋・癡・顚倒作意・無慚・無愧・忿・恨・覆・悩・嫉・慳・諂・誑・強情・激情・慢・過慢・驕・愛・無明・三不善根・三悪業・愛等の三雑染・貪等の三垢・貪等の三不平等・欲等の三想・欲等の三尋・愛等の三戯論・四種の顚倒・漏・繋・暴流・軛・悪趣・四資具への愛取・五の心栽・縛・蓋・色等の五歓喜、六の諍根・愛身、七隨眠、八邪性、九愛根、十不善業道、六十二見、百八愛行類、一切の不安・熱悩・煩悩の百千を、あるいは、略言せば、煩悩・蘊・行・天魔(天子)・死の五魔を破られた。故にこれらの諸危険を破壊するが故に、破壊する者と言うべきを世尊と言へるのである。

 そのように、貪を破り、瞋を破り、癡を破りて無漏となり、諸の悪法を破壊する。故に世尊と言われる。

・また、瑞祥(お目出諦しるし・吉相)を具することによりて、百福の特相を有するかの世尊の色身の成就が説明せられ、過悪を破壊したことによりて法身の成就が説明せられたる。

・また、瑞祥を具すること、過悪を破壊することによりて、それぞれ世人と巧智人とに多く敬われること、在家と出家とによりて親近せらるること、親近せる彼らの身と心との苦を除くのに堪能なこと、財施と法施との利を増す者たること、世間と出世間との楽をあたえるのを得ていることが説明せられたり。

・世間にては、自在・法・名声・吉瑞・欲・勤の六法に對して瑞徳の語を用いる。そして自心に對するかの仏陀の自在は最勝にして、微小変または軽挙変等の世間にて八自在と称せられる一切行相を完具したまう。
 また、出世間法あり、三界に通達し、如実徳を證得し極めて遍く清浄なる名声あり、仏陀の色身を見ることに熱心なる人々の眼をよろこばしむることを得る一切相好を完具せる四肢五體の吉瑞あり、かの仏陀が欲し希求する自利利他を、ことごとくその求めの如くに完成したまへるが故に、所欲の完成と称する欲あり、一切世間の尊敬を得る原因たる正精進と称する勤あり。
 故にこれら諸随徳と相応するが故に、かの仏陀に諸瑞徳ありとて、この義によりて世尊(具瑞徳者)と言われる。

・善等の別によりて一切法を分別し、または、蘊・処・界・諦・根・縁起等によりて善等の処諸法を分別し、
 または、逼悩・有為・熱悩・変易の義によりて苦聖諦によりて分別し、増益・因縁・結縛・障礙の義によりて集(聖諦)を分別し、出離・遠離・無為・不死の義によりて滅(聖諦)を分別し、
出・因・見・増上の義によりて道(聖諦)を分別する者である。分別する者とは、分別し開顕して説示する者をいう義である。
 故に分別する者というべきを世尊と言へるである。

・また、かの仏陀は天(住)、梵(住)、聖住、身心の執著の遠離、空・無願・無相の三解脱、および他の世間・出世間の諸上人法を受習し、習行し、多作したまへり、故に受習する者と言うべきを世尊と言うのである。

・三有における愛と称する迷い徘徊(者)が仏陀によりて棄捨せられたり、故に諸有中の迷い徘徊(者)を棄捨する者と言うべきを、有〔バヴァ〕の語よりバの字を、迷い徘徊〔ガマナ〕の語よりガの字を、棄捨する者〔ヴァンタ〕の語より、ヴァの字を長音にして取りて世尊〔バガヴァー、(バガヴァト・薄伽梵渡)〕と言へるなり。〕





○法の隨念〔法の六徳〕


 法を隨念する。

『法は、世尊によりて善く説かれた。

 法は、自らで見るべきもの・現に自らで証せられるものであり、

 時をへだてずして果報あるものであり、

 真に善であるから”来たりて見よ”と招くべきものであり、

 法は、実践した者を涅槃に導くものであり、

 智者がそれぞれ自らで知り、自覚するべきものである』



 このように、法の諸徳を隨念する修行者にとりて、その時、貪に関して執著する心なく、瞋(怒・憎等)に関して執著する心なく、癡(愚かさ)に関して執著する心なく、その時、彼の心は如来を所縁として端正となる。

 このように仏陀の隨念に於いて説けるのと同じ方法により、諸々の貪瞋癡に関する愚かな心のないことによりて五蓋を鎮伏し、業処に面することによりて心が端正となり、彼に法の徳に傾ける尋と伺とが起きる。

 諸の法の徳を隨尋し、隨伺せば喜が生じる。

 喜の意があれば、喜を原因とする軽安によりて身心の不安は安息する。

 不安が安息すれば身心の楽が生じる。

 楽となれば心が定まる。

 そのように、法の徳を隨念することにより、次第に、また、一刹那(瞬時)に諸禅支が生じ、心が定まる。

 このように、法隨念に精励する比丘は、尊敬し、順敬し、信心・念・智慧・福の広大に至り、喜悦多く、怖畏恐怖を征服し、苦においても安住を得、法と共住する想を獲得し、
 また、法隨念が身中に存せる彼の比丘の身体は、塔廟のように供養を受けるに値する。

 彼の心は、無上法の證得に向い、犯罪の起こるべき事物に接しては法に善法性あることをよく隨念して彼に慚愧が現起する。
また、上位に通達できない者も来世は善趣に至る。

「故に、実に善慧者は、このように大威力ある法隨念によりて、常に不放逸を行うが善い」




【(教え・正道・果・涅槃の)法は、世尊によりて善く説かれたもの】である。

 教えは、初善・中善・後善の故に、また、有義有文にして全く円満遍浄である梵行を説き明かすが故に、善く説かれたるものである。

・世尊が一偈をも説きたまうのは、法のあまねく賢善なるものであるが故に、第一句によりて初善であり、第二句と第三句によりて中善であり、第四句によりて後善である。
・一連結の経は、因縁(分)によりて初善であり、結語(流通分)によりて後善、余り(正宗分)によりて中善である。
・多連結の経は、第一の連結によりて初善であり、最後の連結によりて後善であり、余りによりて中善である。
・また、因縁あり生起(叙述)あるが故に初善であり、諸弟子に適順し、義が顚倒せず、因と喩とが相応するが故に中善であり、聴衆に信を得させ、結語なることによりて後善である。
・全教法も自己の利となる戒によりて初善であり、止と観と道と果とによりて中善であり、涅槃によりて後善である。
・または、戒と定とによりて初善であり、観と道とによりて中善であり、果と涅槃とによりて後善である。
・また、教法は仏法僧の三宝を説き、仏陀に善覚性あるが故に初善であり、法に善法性があるが故に中善であり、僧伽に善行道性があるが故に後善である。
・また、その教法を聞きて如法に行道する者によりて證得せらるべき等正菩提の故に初善であり、辟支菩提の故に中善であり、聲聞菩提の故に後善である。
・また、この教法をそれを聞きつつある人が五蓋を鎮伏するが故に、聞によりて善をもたらすものであるので初善であり、教法はそれを行道しつつある人に止観の楽をもたらすが故に行道によりて善をもたらすものであるので中善であり、如法に行道せられたる教法は、行道の果が得られた時、好悪等に対して一如の状態をもたらすが故に、行道の果によりて善をもたらすものであるので後善である。
 このように教法は、初中後善の故に、善く説かれたるものである。

・世尊が法を示すに教梵行と道梵行とを説明し、種々の方法を以て説きたまう所の教法は、適順にして義を成就するが故に有義であり、文を成就するが故に有文である。
 略説・説明・開顕・分別・開明・施設せられたる教法は、その義と句とが合致するが故に有義である。
 教法はその字・句・文・文相・詞(語原)・解釈が成就するが故に有文である。
・教法はその義の容易に計り知ることができないことと、さらにその通達も容易に計り知ることができないことによりて有義であり、
 教法の容易に計り知ることができないことと、その説示の容易に計り知ることができないことによりて有文である。
・義(無礙解・無礙弁)と辞無礙解との境であるが故に有義であり、法(無礙解)と詞無礙解との境であるが故に有文である。
・賢者によりて知られるべきが故に、また、専門家をよろこばしむるが故に有義であり、信じられるべきが故に、また、世間人をよろこばしむるが故に有文である。
・教法は、容易に計り知ることができないという意味の故に有義であり、顕明なる句の故に有文である。

・加上すべきものなきが故にすべて円満するによりて全く円満となるのである。
・除去すべきものが無く、過失無きによりて遍浄である。

・また、教法は戒清浄等の行道によりて證得あることを明らかにするが故に有義であり、教法に熟達することによりて、それが真理の教えであることを明らかにするが故に有文である。
・教法は戒・定・慧・解脱・解脱知見等の五法蘊相応の故に全く円満となるのである。
・教法は、見・慢等の隨煩悩なきが故に、輪廻の苦を度脱させるために転起するが故に、渇愛等の世間の財味に依止することがないが故に遍浄である。

 このように、教法は有義有文にして全く円満遍浄である梵行を説明するが故に善く説かれているのである。

・また、譬えば他の諸外学にありては法の義は顚倒に堕す、彼等によりて障礙であると説かれている諸法は、実に障礙となるものに非ず、
また、出要であると説かれている諸法は実に出要となるものに非ず、その故に彼等の所説は悪く説かれた諸法のみである。

 世尊の説く法の義は、そのように顚倒に堕すことなく、「これらの諸法は障礙であり、これらの諸法は出要である」と、このように説かれた諸法がそのようにならないことがない故に、このように教法は義の顚倒なきが故に善く説かれているので、善く説かれているという。

・出世間法は涅槃に隨適する行道と、行道に隨適する涅槃とが説かれるが故に善く説かれているのである。

「実にかの世尊によりて諸聲聞のために涅槃に至る行道が善く施設された。そして、涅槃と行道とは合流する。譬えば河の水はヤムナー河の水と合流し合会するように。
 また、実にかの世尊によりて諸聲聞のために涅槃に至る行道が善く施設され、涅槃と行道とは合流する」

・また、この中、聖道は二極端に従わずして中道たるものにして転倒することなく、仏教に於いて中道であると説かているが故に善く説かれているのである。

・諸沙門果は諸煩悩の安息するものにして、正確に諸煩悩の安息であると説かれているが故に善く説かれているのである。

・涅槃は常恒・不死・護所・依所等の自性あるものにして、常恒等の自性によりて説かれているが故に善く説かれているのである。

 このように出世間法も善く説かれているのである。



【(正道・果・涅槃の)法は、自らで見るべきもの・現に自らで証せられるもの】である。

・自ら見るべきものとは、聖道は自己の相続において貪等を無くする聖者によりて、自ら見られるべきものであるが故に、自ら見るべきものである。

「婆羅門よ、貪に染められ打ち勝たれて心を奪われた者は、自らを悩害することをも思い、他を悩害することをも思い、両者を悩害することをも思う、また、心の苦憂をも受ける。
 貪を捨断する時は、自らを悩害することを思わず、他を悩害することを思わず、両者を悩害することをも思わず、心の苦憂をも受けない。
 婆羅門よ、このように法は自らで見るべきものである」

・また、四向四果、および、涅槃の九種の出世間法もそれを證得する者は、各々他を信じて行くべきことを止めて、観察智によりて自ら見るべきものなるが故に自ら見るべきものである。

・また、賞讃される見が善き見であり、善き見によりて諸煩悩を征服するが故に善き見あるものである。
 すなわちこの中、聖道はそれと相応する善き見によりて、聖果はそれの原因たる善き見によりて、涅槃はそれを境とする善き見によりて諸煩悩を征服する。
 故に、譬えば、車によりて敵を征服するが故に車のある者(車兵)であるように、九種の出世間法も善き見によりて諸煩悩を征服するが故に善き見あるものである。

・また、見とは見ることを言う。見がすなわち善き見にしてよく見ることの義である。よく見るに値するが故によく見るべきものである。
 すなわち出世間法は修習現観と證現観とによりて見られつつ、輪廻の怖畏を撃退する。
 故に、譬えば著物に値するが故に著るべきものとなるように、よく見るに値するが故によく見るべきものである。



【時をへだてずして果報あるもの】である。

・出世間法である聖道が自己の沙門果を学人にあたえるに関して、その時なきが故に無時である。無時がすなわち無時的である。
 五日、七日等のように時を過ごして聖道が聖果をあたえるのではなく、自己發動の直後に果をあたえるものと言われるのである。

・また、自己の果をあたえるに際して長時がそれに要せられるが故に時的である。それは何なのか。世間の善法である。
 しかしこの出世間の善法たる聖道はその直後に果をあたえるが故に時的とはならず無時的である。
 この無時的の語は聖果と涅槃とに相応せず、たんに聖道のみに関して言われるのである。



【真に善であるから”来たりて見よ”と招くべきもの】である。

・何故に、この出世間法は「来たりて見よ」と語る語の法に値するのか。それは、実存の故に、また、遍浄の故である。

・カラの拳の中に金または、黄金ありと言うても、「来たりてこれを見よ」と見せることはできない。何故であるのか。実存しないが故である。
 また実存するといえども汚物は、意に適うものであるとして人の心を喜悦させるために「来たりてこれを見よ」と言うに値しない。何故であるのか。遍浄ではないが故である。

 しかし、この九種の出世間法は本来実存し、雨雲なき虚空にある円満なる月輪のように、また、橙色の石にちりばめた宝玉のように遍浄である。
故に実存するが故に、また、遍浄であるが故に、「来たりて見よ」と語る法に値するので、「来たりて見よ」と説くのである。



【(正道・果・涅槃の)法は、実践した者を涅槃に導くもの】である。

・導引・導くが故に導引(的)である。そしてここに次の決択説がある、

 導引することが導引であり、譬えば、火の付いた自己の衣や頭を放置してでも、修習によりて出世間法を自己の心に導引するに値するという導引である。
 これは有為の出世間法、すなわち四向四果に妥当する。
 しかし、無為なる涅槃は自己の心をそれに導引するに値する。證するによりてそれに接触するに値するとの義であるが故に導引的である。

 また、聖者を涅槃に導引するが故に聖道は導引者である。證せられる状態にて導引せられるが故に、果と涅槃との法は被導引者である。導引者、すなわち・導引(的)・導きである。



【智者がそれぞれ自らで知り、自覚するべきもの】である。

・出世間法は一切の俊敏な智等によりて諸識者が銘々に「我は道を修習した、果を證得した、滅を證した」と知るべきものである。

 弟子は和尚の修習する道(和尚自らが修習すること)によりて諸煩悩を捨断することなく、また、弟子は和尚の果定によりて楽住できるのではない。
 弟子が和尚の證した涅槃を證得するのではないからである。

 故に、この出世間法は、他人の頭上の飾りのように、外部にありと見てはならない。 必ず自己の心中にあると見なさい。

 故に、諸識者が自ら実現すべきものと言われるのである。

 そして、これは諸愚者の境に非ず。〕





○僧伽の隨念〔僧伽の九徳〕


 僧伽を隨念する。

『世尊の僧伽(聲聞衆・比丘の集い)は、善く法に従いて修行する。

 聲聞衆は、正しく質直に修行し、

 真理・涅槃のために修行し、

 和敬して信者の尊敬にふさわしく修行する。

 これらの聲聞衆が四向四果の弟子である。

 これらの世尊の四向四果の比丘は、世間から供養を受けるに値し、

 尊重進奉を受けるに値し、

 奉施(業・業果を信じて供えた)布施を受けるに値し、

 合掌を受けるに値する。

 世の無上の福田である、』と。


 世尊の教訓教誡を恭敬して聞くが故に聲聞である。戒と見とが等しい故に集合の生活を為す者を衆と言い、比丘僧伽(比丘の集い)は聲聞衆の義である。

 かの正しき道は、端正・不曲・不彎・不歪にして聖・真理とも言われ、また、順当であるが故に正当とも称せられる。
故に、その道を行道する聖衆(聲聞衆)は、正しく行道する。真理に向かいて行道する。正当に行道すると言われるのである。

 このように、僧の諸徳を隨念する修行者にとりて、その時、貪に関して執著する心なく、瞋(怒・憎等)に関して執著する心なく、癡(愚かさ)に関して執著する心なく、その時、彼の心は如来を所縁として端正となる。

 このように仏陀の隨念に於いて説けるのと同じ方法により、諸々の
貪瞋癡に関する愚かな心のないことによりて五蓋を鎮伏し、業処に面することによりて心が端正となり、彼に僧の徳に傾ける尋と伺とが起きる。

 諸の僧の徳を隨尋し、隨伺せば喜が生じる。

 喜の意があれば、喜を原因とする軽安によりて身心の不安は安息する。

 不安が安息すれば身心の楽が生じる。

 楽となれば心が定まる。

 そのように、僧の徳を隨念することにより、次第に、また、一刹那(瞬時)に諸禅支が生じ、心が定まる。

 このように、僧隨念に精励する比丘は、尊敬し、順敬し、信心・念・智慧・福の広大に至り、喜悦多く、怖畏恐怖を征服し、苦においても安住を得、僧と同住する想を獲得し、
 また、僧隨念が身中に存せる彼の比丘の身体は、僧伽が集合する布薩堂のように供養を受けるに値する。

 彼の心は、僧徳の證得に向い、犯罪の起こるべき事物に接しては面前に僧伽を見るように、彼に慚愧が現起する。
また、上位に通達できない者も来世は善趣に至る。

「故に、実に善慧者は、このように大威力ある僧隨念によりて、常に不放逸を行うが善い」





【世尊の僧伽(比丘の集い・聲聞衆)は、善く法に従いて修行する】

 善く行道するとは、正しい道、不退の道、随順の道、無敵の道、法随法の道を行道するが故に、善く行道すると言われるのである。

 聖道にある人々は、正しき行道を具するが故に善く行道する。
 聖果にある人々は、正しき行道によりて證得すべきを證得するが故に、過去の行道に関して善く行道すると知るが善い。
 また、善く説かれた法と律とを教えられたる通りに行道するが故に、また、純粋なる道を行道するが故に善く行道すると言うのである。



【(聲聞衆は)正しく質直に修行する】

 中道によりて二極端に従わずして行道するが故に、また、身・語・意の曲、彎・歪の過失を捨断するために行道するが故に、正しく行道すると言うのである。



【真理・涅槃のために修行する】

 真理とは涅槃を言う。涅槃のために行道するが故に、真理に向いて行道すると言うのである。



【和敬して信者の尊敬にふさわしくする】

 正当なる行道者に値するように行道するが故に、正当に行道すると言うのである。



【これらの聲聞衆が四向四果の弟子である】

 四向とは須陀洹道、斯陀含道、阿那含道、阿羅迦道にある者と、四果は須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅迦果にある聖者とである。
また、それぞれ順に、預流、一来、不還、阿羅迦(無学)とも言い、これらの聖者・大聖者の集いが、世尊の聲聞衆である。



【世間から尊敬供養を受けるに値する】

 供物とは、供養せらるべき等において、持ち来たりて献ずべき物なるが故に供物である。
また、遠くより持ち来たりて諸具戒者に布施すべき物との義によりて供物である。
 供物としての、飲食・衣服・臥具・医薬の四資具は、供物の同義語である。

 僧衆が供物を受ければ、かの施者に大果をもたらすが故に、僧衆はその奉献供物を受取るに相応しき者であるので、僧衆は尊敬供養せらるべき者という。

 また、遠くよりも来たりて、一切所有物をもここにて献供せらるべき値ある人であるが故に、僧衆は尊敬供養せらるべき人である。
 また、帝釈等の神々による尊敬供養にも値するが故に、尊敬供養せらるべき人である。
 また、諸婆羅門にとりてはこの奉献せらるべきものとは火である。その火中に献ずれば大果ありというのが彼等の説である。
もし献じた者が施者に大果あるが故に、供養せらるべき者がいるならば、僧伽こそが供養せらるべき者なのである。僧伽を尊敬供養せば大果があるからである。

「人あり、百年間林中にて火を拝するとも、一の自己修習者をわずかの間でも奉献供養したならば、この供養は百年間、火を献拝するよりも優れている」



【尊重進奉を受けるに値する】

 進奉せらるべきとは、この中、進奉物とは四方八方より来る親愛なる親戚友人のために敬意を表して準備する親戚友人等の来客への施物をいう。
 その進奉物も親戚友人のような進奉の受者を差し置いてでも僧伽に布施することこそは相応しい。

 僧伽は一仏の期間が過ぎたる時にも存してあり、かつ純一無雑であり、親愛適意を致す戒等の諸法を具備するが故に(そのような真の聖者を尊重し進奉供養する施者に大果がある)。

 このように進奉物は、かの僧伽に献供するに相応しく、なおかつ僧伽は、その進奉物を受け取るに相応しければ、僧伽は進奉せらるべき(者)である。
 また、「(尊重)進奉せらるべき」と説かれている聖典を有する説一切有部の人々は、僧伽は先に進奉を為すのに値するが故に、最初に持ち来たりて僧伽に献供するべしとて進奉せらるべきと言われる。
 また、あらゆる点より考えて(尊重崇拝され、優先されて)献供を受けるに値するとて、尊重進奉せらるべきと言われる。



【奉施供養(業・業果を信じて供えた布施)を受けるに値する者】である。

 奉施とは未来世を信じて献供供養する布施を言う。伽は布施を清浄ならしむるが故に奉施供養に値し、また、奉施をした施主に大果をもたらすことによりて奉施供養せらるべきと言われる。



【合掌を受けるにする】

両手を頭上に置きて、一切世人が行う合掌を受けるに値するとて、合掌せらるべきである。



【世の無上の福田】である、と。

 一切世間の無類の福が増長する処である。譬えば、王または、大臣の米や麦が成長する処は、王の米田、王の麦田と言われるように、僧伽は一切世間の諸福が増長する処である。
 僧伽に依りて、世間の種々類の利益安楽を起こさせる諸福が増長するからである。故に僧伽は世間の無上の福田である。〕







〇三宝への帰依


【○合掌をする】



【○礼拝】


【○敬礼の句を唱える】〔この敬礼の句は釈尊が在世中に人・天・梵天が釈尊に對して唱えたものとされる。
            (上座部の仏教徒たちは、各々の仕事に取りかかる前に、この句を唱える。)〕

『 私は、阿羅迦〔阿羅漢〕であり、正自覚者〔正等覚者〕である、世尊を礼拝いたします 』



【○三宝〔仏陀、法、僧伽〕に對する帰依を唱える】


『 私は仏陀に帰依いたします

  私は法に帰依いたします

  私は僧伽〔比丘の集い〕に帰依いたします

  再び、私は仏陀に帰依いたします

  再び、私は法に帰依いたします

  再び、私は僧伽〔比丘の集い〕に帰依いたします

  三たび、私は仏陀に帰依いたします

  三たび、私は法に帰依いたします

  三たび、私は僧伽〔比丘の集い〕に帰依いたします 』




〔この三宝への帰依によりて仏陀の弟子・仏教徒となる。〕






 そして、

【○五戒を護る人は、続けて唱える】


 ○五戒

『 私は、「生き物を殺さない」という戒めを護ります。

  私は、「与えられていないものを取らない」という戒めを護ります。

  私は、「淫らな行為をしない」という戒めを護ります。

  私は、「嘘を言わない」という戒めを護ります。

  私は、「放逸の原因となり、人を酔わせる酒類を飲まない」という戒めを護ります 』




【○〔仏陀の十徳〕】、上述の仏陀の隨念を唱える。


【○〔法の六徳〕】、 上述の法の隨念を唱える。


【○〔僧伽の九徳〕】、上述の僧伽の隨念を唱える。


【○〔慈しみの修習〕】、










【三宝への信仰は、最上の信仰である。

 最上のものを信じる者に最上の(善い)報いがある。】


  信仰

 たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべき方が説かれた、と私は聞いている。

「比丘たちよ、これら三の最上の信仰がある。三つとは何か。
 比丘たちよ、無足のものにせよ、二足のものにせよ、四足のものにせよ、多足のものにせよ、姿のあるものにせよ、姿をもたないものにせよ、心のはたらきをもつものにせよ、心のはたらきのなくなったものにせよ、あるいは、心のはたらきがあるのでもなく、ないのでもないものにせよ、およそ世界のあらん限りのものの中で、真理の体現者、すなわち、尊敬される資格の者、正しく目覚めた仏陀は、最上のものと名づけられる。
 比丘たちよ、目覚めた仏陀を信じる人々は、最上のものを信じる者である。
さらに、最上のものを信じる者に最上の報いがある。

 比丘たちよ、因縁によりて作られているものにせよ、あるいは因縁をこえているものにせよ、およそあらん限りのものの中で、貪りを離れることは最上のものと名づけられる。
すなわち、それは、驕りの心が砕かれること、渇望がおさえられること、執著が除かれること、迷いの生死が絶たれること、愛着が尽きること、貪りを離れること、消滅すること、涅槃である。

 比丘たちよ、あらゆる僧団、あるいは集まりの中で真理の体現者の弟子僧団、すなわち聖者の四の位を目標とし、それに達している人々は、最上の者と名づけられる。
この世尊の弟子僧団は尊敬され、崇拝され、供養され、合掌されるべきであり、世間の最高の功徳をもたらすところである。

 比丘たちよ、僧団を信じる人々は、最上のものを信じる者である。
さらに、最上のものを信じる者に最上の報いがある。

 比丘たちよ、これらは、まことに、三の最上の信仰である」

 このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた。

 最上の者を信じて最上の教えを知り、
 無上の供養されるべき者である最上の仏陀を信じ、
 貪りを離れた安らぎ、安楽なる最上の教えを信じ、
 最上の功徳をもたらすところである最上の僧団を信じて、
 最上の者に供養を施す人々に、最上の功徳が増大し、最上の寿命と美貌と名声と称讃と幸福と力とが増す。
 賢者は最上の者に供養を行い、最上の教えに心がさだまり、天神となったものも、人も、最上のものを得て喜ぶ。

 このことをもまた世尊は説かれた、と私は聞いている。


如是語経





【三宝に帰依することによりて、仏陀の弟子(在家者)である】


  優婆塞(男性在家者)

 このようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サキャ(釈迦)族の国を訪れ、カピラヴァッツのニグローダ園にましました。
 その時、サキャ族のマハーナーマは、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに坐した。

傍らに坐したサキャ族のマハーナーマは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、いかなるをか優婆塞というのでございましょうか」

「マハーナーマよ、【[三宝帰依]仏陀に帰依し、教法に帰依し、僧伽に帰依する】がゆえに、マハーナーマよ、それによりて優婆塞であるというのである」

「では、大徳よ、いかなるをか、優婆塞が戒を具足するというのでございましょうか」

「マハーナーマよ、優婆塞は、【[五戒]殺生を離れ、与えられざるを盗らず、邪淫を離れ、妄語を語らず、また、酒に酔いて怠慢にいたらざる】がゆえに、マハーナーマよ、これをもって、優婆塞が戒を具足するというのである。」

「では、大徳よ、いかなるをか、優婆塞が信を具足するというのでございましょうか」

「マハーナーマよ、ここに優婆塞があって、【仏陀・如来(修行を完成した人の智慧)を信ずる。】
 いわく、かの世尊は応供〔阿羅漢〕(尊敬されるべき人・供養されるべき人)・正等覚者〔正遍知〕(正しい悟りを開いた人)・明行具足(明知と行いを完全に具えている人)・善逝(善く行ける人・幸福な人)・世間解(世間をよく知った人)・無上士(この上なき人)・調御丈夫(人間の善き調御者)・天人師(神々と人間たちの師)・仏陀(覚った人)・世尊(世にも尊い師、尊敬されるべき人、至福なる人)であると。
 マハーナーマよ、これによりて、優婆塞が信を具足するというのである」

「では、大徳よ、いかなるをか、優婆塞が施を具足するというのでございましょうか」

「マハーナーマよ、ここに優婆塞があり、【[離貪・喜捨・布施]強欲のけがれを離れた心をもって家に住し、気前がよく、清らかな手で施捨を喜び、乞われるに応じて、布施することを喜びとする。】これによりて、優婆塞が施を具足するというのである」

「大徳よ、では、いかなるをか優婆塞が智慧を具足するというのでございましょうか」

「マハーナーマよ、ここに優婆塞があり、【[四聖諦・法]智慧ありて、事物の生滅を見抜く智慧をそなえ、聖にしてよく透徹したる苦の滅尽にいたる智慧を具足する。】マハーナーマよ、これによりて、優婆塞が智慧を具足するというのである」


相応部経典 摩訶男





【『比丘たちよ、わたしはこの三帰依によりて出家し、受戒することを許可する』】


  出家者の受戒


 その頃、比丘たちは、様々な地方、様々な国から、出家することを希望し、受戒を得ることを希望する者たちを「世尊はこれらの者たちを出家させるであろう、受戒させるであろう」と思って、連れて来た。
 そのために、比丘たちは疲れ、出家することを希望し、受戒を得ることを希望する者たちも疲れていた。

 さて世尊は独り坐って黙想に入っていられたとき、心に次のような思いが生じた。
「最近、比丘たちが、様々の地方、様々の国から出家することを希望し、受戒を得ることを希望する者たちを『世尊はこれらの者たちを出家させるであろう、受戒させるであろう』と思って、連れて来る。
そのために比丘たちは疲れ、出家することを希望し、受戒を得ることを希望する者たちも疲れている。
それでは、比丘たちに『比丘たちよ、今や汝ら自身が、それぞれの地方、それぞれの国において出家させ受戒させよ』と言ってわたしは許可することにしよう」と。

 そして、世尊は夕方に黙想より出て、このことに関して、比丘たちを集め、教えの話をされた後で、比丘たちに告げられた。
「比丘たちよ、ここでわたしが独りで坐って黙想に入っていたとき、心に次のような思いが生じた。
『最近、比丘たちが、様々な地方、様々な国から出家することを希望し、受戒を得ることを希望する者たちを「世尊はこれらの者たちを出家させるであろう、受戒させるであろう」と思って、連れて来る。
そのために比丘たちは疲れ、出家することを希望し、受戒を得ることを希望する者たちも疲れている。
それでは、比丘たちに「比丘たちよ、今や汝ら自身が、それぞれの地方、それぞれの国において出家させ、受戒させよ」と言ってわたしは許可することにしよう』と。

 比丘たちよ、汝ら自身が、それぞれの地方、それぞれの国において出家させ、受戒させることをわたしは許可する。
そして、比丘たちよ、(出家を希望する者は)次のように出家させ、受戒させねばならない。
最初に髪と鬚を剃りおろして、袈裟衣をまとい、一肩に上衣をおき、比丘たちの足に頭面をつけて礼拝し、うずくまり、合掌させて『次のように述べよ』と言わねばなならない。

「私は仏陀に帰依いたします。
 私は法(仏陀の説いた真理・理法)に帰依いたします。
 私は比丘たちの集いに帰依いたします。

 再び、私は仏陀に帰依いたします。
 再び、私は法(仏陀の説いた真理・理法)に帰依いたします。
 再び、私は僧伽(比丘の集い)に帰依いたします。

 三たび、私は仏陀に帰依いたします。
 三たび、私は法(仏陀の説いた真理・理法)に帰依いたします。
 三たび、私は僧伽(比丘の集い)に帰依いたします」と。

 比丘たちよ、わたしはこの三帰依によりて出家し、受戒することを許可する。


律蔵・大品





【これら三人の天神と人との師(仏陀・仏陀の比丘聖者・仏陀の弟子の修学者)は、燈光をもたらし、教えを説く者であり、不死の戸を開き、多くの人を束縛から自由にさせる


  世間

「比丘たちよ、世間に生まれているこれら三種の人々は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のため、に生まれている。

 三種(の人々)とは何か。

 比丘たちよ、ここに阿羅迦〔応供〕であり、正自覚者〔正等覚者〕であり、明行具足であり、善逝であり、世間解であり、無上士であり、調御丈夫であり、天人師であり、仏陀である、世尊が、世に生まれている。
 目覚めた仏陀は、初めに善く、中間に善く、終わりに善い教えを説き、内容もあり、文句も備わった教えを説き、純粋で完全な、浄らかな修行を明らかにする。
 これが、比丘たちよ、世間に生まれた第一の人である。
 彼は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている。

 また、比丘たちよ、師の弟子である聖者がいる。
 彼は心の汚れを消滅し、すでに完成し、なすべきことを為し終わり、心の重荷をおろし、自己の目的の到達し、迷いの生存の束縛を滅して、正しい完全智によりて完全な精神的自由を得ている。
 彼は、初めに善く、中間に善く、終わりに善い教えを説き、内容もあり、文句も備わった教えを説き、純粋で完全な、浄らかな修行を明らかにする。
 比丘たちよ、これが世間に生まれた第二の人である。
 彼は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、多くの人の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている。

 さらにまた、比丘たちよ、その師の弟子である修学者がいる。
 彼は道を修め、多くを学び、戒めを護ることを身につけている。
 彼もまた、初めに善く、中間に善く、終わりに善い教えを説き、内容もあり、文句も備わった教えを説き、純粋で完全な、浄らかな修行を明らかにする。
 比丘たちよ、これが世間に生まれた第三の人である。
 彼は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、多くの人の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている。

 まことに比丘たちよ、世間に生まれているこれら三種の人々は、多くの人の利のため、多くの人の幸福のため、世の人々の憐れみのため、天神と人との利益のため、利のため、幸福のために生まれている」

 師(仏陀)こそが世における第一の偉大な聖者(世尊)である。

 師に従う弟子は自ら道を修める者である。

 また、(師に従う)修学者も道を修め、多くを学び、戒めを護ることを身につけている。

 これら三人の天神と人との師は、燈光をもたらし、教えを説く者であり、不死の戸を開き、多くの人を束縛から自由にさせる。

 最高の指導者によりて善く説かれた道をたどり、善くさとりに到った仏陀の教えに精励する者たちは、まさにこの世で苦しみを消滅する。


イティヴッタカ





【汝らの説くところを喜んで聞こうとする親友、友人、親戚、同族のものがあったならば、彼らを誘導し、参入して、四の預流・善法に住せしめるが善い】


   友

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なるアナータピンディカの園にましました。
 その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。
「比丘たちよ、汝らが、たがいに慈しみある者にして、もし汝らの所説を喜んで聞こうとする親友、友人、親戚、同族があったならば、比丘たちよ、汝らは、彼らを誘導し、参入して、四の預流(聖者の流れに入ること)に住せしめるがよい。

 その四つとは何であろうか。

 【仏陀にたいする絶対の浄信】に誘導し、参入して住せしめるのである。
いわく、かの世尊は応供・正等覚者・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏陀・世尊にましますと。

 また、【法にたいする絶対の浄信】に誘導し、参入して住せしめるのである。
いわく、法は世尊によりて善く説かれた。それは、現に証せられるもの、時をへだてずして果報あるもの、〈来たりて見よ〉というべきもの、善く涅槃に導くものにして、智者のそれぞれみずから知るべきものであると。

 また、【僧伽にたいする絶対の浄信】に誘導し、参入して住せしめるのである。
いわく、世尊の弟子衆は正しく行ずる者である、世尊の弟子衆はうやうやしく行ずるものである。すなわち、四双八輩がそれであって、それは、尊敬に値し、尊重に値し、供養に値し、合掌に値し、世間無上の福田であると。

 また、【聖者の愛楽するもろもろの戒】へ誘導し、参入して住せしめるのである。
いわく、それは、完全にして、混りものがなく、純潔にして、曇りがなく、自由を与え、智者の讃えるところ、もはや執するところなくして、よく三昧にいたらしめる。

 比丘たちよ、汝らが、たがいに慈しみあう者にして、もし汝らの説くところを喜んで聞こうとする親友、友人、親戚、同族のものがあったならば、比丘たちよ、彼らを誘導し、参入して、四の預流に住せしめるがよい。

相応部経典 朋友





仏陀と法と僧伽を憶念することについて































inserted by FC2 system