法への執著と誤った法への執著を捨てることについて



 真理のことばを唱えることについてで、紹介しましたところの、

「教えとは筏のようなもので、目的を達成したならば捨て去らねばならない」というところを紹介します。


修行僧いわく、
「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
 いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、
 すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」

 要するに、〔解脱を得るために〕それぞれの教え(の対象のもの)に対しても、執著してはならならない。という事です。




『修行僧らよ、このように、救い渡されんがために、執着せざらんがために、この筏の譬喩の法をわたくしは説いたのである。

 修行僧らよ、実に筏の譬喩を知っている汝らによって、法(教えの対象のもの)もまた捨てらるべきである。

 ましてや誤った法はなおさらである。』





  筏のたとえ

「修行僧らよ、実にかくのごとくここに或る善男子らは法を完全に体得する。

 すなわち、経・応頌・授記・諷誦・感興語・如是語・本性・未曾有法・法広を完全に体得する。

 彼らはその法を完全に体得して、それらの法の意義を智慧もて究明する。
 それらの法は、それらの意義を智慧もて究明しつつある人々を歓喜せしめる。

 彼らは論結の快を貪るために、饒舌にふける快を貪るために法を学ぶのではない。
 彼らが法を学ぶ真の目的を体験しようとするのである。

 それらの法がよく解せられたならば、彼らに永く利益・安楽をもたらすことになる。

 そのゆえはいかん。
 もろもろの法が良く理解されたからである。

 それ故に、ここにわたくしの説いたことの意義を理解しそのままに受持せよ。
 また、もしもわたくしの説いたことの意義を理解しないならば、それについてわたくしに問い返すべきである。
 あるいはまた賢明なる修行僧らがあれば、彼らに問うべきである。

 修行僧らよ、汝らが救い渡されんがために、執着せざらんがために、筏の譬喩の法をわたくしは説くであろう。
それを聞き、よく思念せよ。今からわたくしは説こう」

「かしこまりました」と修行僧らは尊師に答えた。

そこで尊師は次のことを説きたもうた、
「修行僧らよ、たとえば街道を歩み行く人があって、途中に大水流を見たとしよう。

 そうしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。

 しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。

 そのときかれが思うに”これは実に大水流である。そうしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくない。 しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡し舟もなく、また橋もない。
 さあ、われは草・木・枝・葉をあつめて筏を組み、その筏に依って手足もて努力して安全にかなたの岸に渡ろう”と。

 そこでその人は草・木・枝・葉をあつめて筏を組み、その筏によって手足で努めて安全にかなたの岸に渡ったとしよう。

 かれが渡しおわってかなたの岸に達したときに、次の思いが起ったとしよう。
”この筏は実にわれに益することが多かった。われはこの筏によって手足で努めて安全にかなたの岸に渡り終えた。
 さあ、われはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう”と。

 修行僧らよ、汝らはそれをどう思うか。
 かの人はこのようにしたならば、その筏にたいしてなすべきことをなしたものであろうか。」

〔修行僧らいわく〕
「そうではありません、尊師よ。」

〔尊師いわく〕
「しからば、修行僧らよ、その人はどうしたならば、その筏に対してなすべきことをなしたものとなるであろうか。

 ここにかの人が渡り終わってかなたの岸に達したとき、次のように思ったとしよう、
”この筏は実にわたくしに益することが多かった。わたくしはこの筏によって手足で努めて安全にかなたの岸に渡った。
 さあ、わたくしはこの筏を岸に引き上げ、あるいは水上に浮べて、しかるのち欲するがままに進もう”と。

 修行僧らよ、かの人がこのようにしたらならば、その筏に対してなすべきことをなしたものであろう。


 修行僧らよ、このように、救い渡されんがために、執着せざらんがために、この筏の譬喩の法をわたくしは説いたのである。

 修行僧らよ、実に筏の譬喩を知っている汝らによって、法(教えの対象のもの)もまた捨てらるべきである。

 ましてや誤った法はなおさらである。」





















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