更訂 H28.12.8



  感受の生起(縁りて起こること)



 何かに縁りて、諸々の妄想というもの、(戯論の想い、等)というものの生起活動がある、
 という事柄(感受のしくみ)の詳細が説かれている教えです。


『感官・対境・識別知の(これら三者の和合による)対境への接触があり、

 接触に縁りて感受があり、

 感受することに縁りて、

 知覚があり、

 知覚することに縁りて思惟があり、

 思惟に縁りて妄執がある』





  感受と妄想

ある比丘が世尊にこう申し上げた、
「世尊は神と共なる、魔と共なる、梵天と共なる、沙門・バラモンの人々と共なる、神と人間と共なる世間において、世間の誰とも論争しないでいて、それで一体、何を論ずるのですか。

 さらにまた、世尊、
 もろもろの欲望を離れて住し、疑惑がなく、不行儀を断ち、種々の生存において渇愛を離れている、そのバラモンである世尊に、どうしてもろもろの想念が潜在しないのですか」と。

『比丘よ、およそ何であれ、それに由因して諸々の妄想(戯論の想い)というものが人に生起して活動するのだが、
 もしこのところに大歓喜し、おおいに語り、取著することがなければ、

 これこそが、諸々の貪欲(染)の潜在の終焉であり、

 これこそが、諸々の瞋恚(いかり)の潜在の終焉であり、

 これこそが、諸々の邪見の潜在の終焉であり、

 これこそが、諸々の疑惑の終焉であり、

 これこそが、諸々の自意識(慢)の潜在の終焉であり、

 これこそが、諸々の生存欲の潜在の終焉であり、

 これこそが、諸々の無明の潜在の終焉であり、

 これこそが、杖を執り、剣を執り、論争し、異執し、異をとなえ、相違を論じ、中傷し、嘘をつくことの終焉である。

 ここで、これらの悪い不善のものどもは残らず亡びるのだ』と。

 このように世尊は述べた。
 これを述べてから善逝は坐を立って僧房に入った。

すると、なるほど、世尊が退出してからほどなくして、彼ら比丘たちにこのような考えが生じた、
「いかにも、友よ。世尊はわれわれに対して簡略にこの説示をして、詳しく意味を解説しないで、坐を立って僧房にお入りになった。」


〈そして、比丘たちは、世尊が簡略に説示した、この世尊の説示の詳しい意味の解説をたずねるために、尊者大カッチャーナのもとに赴いた。〉


そして、尊者大カッチャーナはこのように説いた、
「いかにも、友よ。
『世尊はわれわれに対して簡略にこの説示をして、詳しく意味を解説しないで、坐を立って僧房にお入りになった』という、

〔すなわち、〕
「比丘よ、およそ何であれ、それに由因して諸々の妄想(戯論の想い)というものが人に生起して活動するのだが、
 もしこのところに大歓喜し、おおいに語り、取著することがなければ、
 これこそが、諸々の貪欲(染)の潜在の終焉であり、
 これこそが、諸々の瞋恚(いかり)の潜在の終焉があり、
 これこそが、諸々の邪見の潜在の終焉であり、
 これこそが、諸々の疑惑の終焉であり、
 これこそが、諸々の自意識(慢)の潜在の終焉であり、
 これこそが、諸々の生存欲の潜在の終焉であり、
 これこそが、諸々の無明の潜在の終焉であり、
 これこそが、杖を執り、剣を執り、論争し、異執し、異をとなえ、相違を論じ、中傷し、嘘をつくことの終焉である。
 ここでこれらの悪い不善のものどもは残らず亡びるのだ」と。

 たしかに、友よ。
 わたしは世尊が簡略に説示をしたこの意味を詳しく、まだ解説されていない意味をこのように詳しく知っている。

 友よ、
 眼に縁りて、色形あるもの(色)に対して、眼で識知すること(眼識)が生ずる。
 三者の和合(結合)が〔対境への〕接触(触)である。
 接触に縁りて感受(受)がある。
 何であれ感受するものを知覚する。
 何であれ知覚するものを思惟する。
 何であれ思惟するものに妄執する。
 何であれ妄執するものを縁として、人に妄想というものが、過去・未来・現在の眼によって識知する色形あるものどもに対して生起し活動する。

 また、友よ、
 耳に縁りて、音声に対して、耳で識知すること(耳識)が生ずる。
 三者の結合が対境への接触(触)である。
 接触に縁りて感受がある。
 何であれ感受するものを知覚する。
 何であれ知覚するものを思惟する。
 何であれ思惟するものに妄執する。
 何であれ妄執するものを縁として、人に妄想というものが、過去・未来・現在の耳によって識知する音声に対して生起し活動する。

 また、友よ、
 鼻に縁りて、香臭に対して、鼻で識知すること(鼻識)が生ずる。
 三者の結合が対境への接触(触)である。
 接触に縁りて感受がある。
 何であれ感受するものを知覚する。
 何であれ知覚するものを思惟する。
 何であれ思惟するものに妄執する。
 何であれ妄執するものを縁として、人に妄想というものが、過去・未来・現在の鼻によって識知する香臭に対して生起し活動する。

 また、友よ、
 舌に縁りて、味に対して、舌で識知すること(舌識)が生ずる。
 三者の結合が対境への接触(触)である。
 接触に縁りて感受がある。
 何であれ感受するものを知覚する。
 何であれ知覚するものを思惟する。
 何であれ思惟するものに妄執する。
 何であれ妄執するものを縁として、人に妄想というものが、過去・未来・現在の舌によって識知する味に対して生起し活動する。

 また、友よ、
 身体に縁りて、接触られるものに対して、身体で識知すること(身識)が生ずる。
 三者の結合が対境への接触(触)である。
 接触に縁りて感受がある。
 何であれ感受するものを知覚する。
 何であれ知覚するものを思惟する。
 何であれ思惟するものに妄執する。
 何であれ妄執するものを縁として、人に妄想というものが、過去・未来・現在の身体によって接触られるものに対して生起し活動する。

 また、友よ、
 意に縁りて、ものごとに対して、意で識知すること(意識)が生ずる。
 三者の結合が対境への接触(触)である。
 接触に縁りて感受がある。
 何であれ感受するものを知覚する。
 何であれ知覚するものを思惟する。
 何であれ思惟するものに妄執する。
 何であれ妄執するものを縁として、人に妄想というものが、過去・未来・現在の意によって識知する諸々のものごと(諸法)に対して生起し活動する。


 たしかに友よ、
 眼があり、色形あるものがあり、眼で識知することがあるとき、〔三者結合して〕接触の発生(設置)がある、というこの道理はある。
 接触が発生するとき、感受の発生がある、というこの道理はある。
 感受が発生するとき、知覚の発生がある、というこの道理はある。
 知覚が発生するとき、思惟の発生がある、というこの道理はある。
 思惟が発生するとき、妄想というものの生起・活動の発生がある、というこの道理はある。

 たしかに友よ、
 耳があり、音声があり、耳で識知することがあるとき、三者結合して接触の発生(設置)がある、というこの道理はある。
 鼻があり、香臭があり、鼻で識知することがあるとき、三者結合して接触の発生(設置)がある、というこの道理はある。
 舌があり、味があり、舌で識知することがあるとき、三者結合して接触の発生(設置)がある、というこの道理はある。
 身体があり、接触られるものがあり、身体で識知することがあるとき、三者結合して接触の発生(設置)がある、というこの道理はある。
 意があり、諸々のものごとがあり、意で識知することがあるとき、〔三者の〕接触の発生がある、というこの道理はある。

〔三者の〕接触が発生するとき、感受の発生がある、というこの道理はある。
 感受が発生するとき、知覚の発生がある、というこの道理はある。
 知覚が発生するとき、思惟の発生がある、というこの道理はある。
 思惟が発生するとき、妄想というものの生起・活動の発生がある、というこの道理はあるのである。


 実際、友よ、
 眼がなく、色形あるものがなく、眼で識知することがないとき、〔三者の〕接触の発生がある、というこの道理はない。
〔三者の〕接触の発生がないとき、感受の発生がある、というこの道理はない。
 感受の発生がないとき、知覚の発生がある、というこの道理はない。
 知覚の発生がないとき、思惟の発生がある、というこの道理はない。
 思惟の発生がないとき、妄想というものの生起・活動の発生がある、というこの道理はないのである。

 実際、友よ。
 耳がなく、音声がなく、耳で識知することがないとき、〔三者の〕接触の発生がある、というこの道理はないのである。
 鼻がなく、香臭がなく、鼻で識知することがないとき、〔三者の〕接触の発生がある、というこの道理はないのである。
 舌がなく、味がなく、舌で識知することがないとき、〔三者の〕接触の発生がある、というこの道理はないのである。
 身体がなく、接触られるものがなく、身体で識知することがないとき、〔三者の〕接触の発生がある、というこの道理はないのである。
 意がなく、諸々のものごとがなく、意で識知することがないとき、〔三者の〕接触の発生がある、というこの道理はないのである。

 三者の接触の発生がないとき、感受の発生がある、というこの道理はない。
 感受が発生がないとき、知覚の発生がある、というこの道理はない。
 知覚が発生がないとき、思惟の発生がある、というこの道理はない。
 思惟が発生がないとき、妄想というものの生起・活動の発生がある、というこの道理はないのである。



 たしかに、友よ、『世尊はわれわれに対して簡略に説示して、詳しく意味を解説することなく、坐を立って僧房に入られた』という、
〔すなわち、〕
『比丘よ、およそ何であれ、それに由因して諸々の妄想というものが人に生起して活動するのだが、ここでもし、それに対して大歓喜し、おおいに語り、取著することがなければ、
 これこそが、諸々の貪欲の潜在の終焉であり、
 これこそが、諸々の瞋恚(いかり)の潜在の終焉があり、
 これこそが、諸々の邪見の潜在の終焉であり、
 これこそが、諸々の疑惑の終焉であり、
 これこそが、諸々の自意識(慢)の潜在の終焉であり、
 これこそが、諸々の生存欲の潜在の終焉であり、
 これこそが、諸々の無明の潜在の終焉であり、
 これこそが、杖を執り、剣を執り、論争し、異執し、異をとなえ、相違を論じ、中傷し、嘘をつくことの終焉である。

 ここでこれらの悪い不善のものどもは残らず亡びるのだ』と。

 たしかに、友よ。
 私は世尊が簡略に説示をして解説しなかったこの意味をこのように詳しく知っている。

 しかし、さらに望むのであれば、君たち、尊者たちは世尊のもとにだけ赴いて、この意味を質ねなさい。
 世尊がわれわれに解答する通りに、その通りにそれを受持しなさい」


〔すると、いかにも、彼ら比丘たちは尊者大カッチャーナが説いたことに大歓喜し、随喜して、席を立って世尊のもとに赴いた。
赴いて、世尊に礼拝して一方に坐った。

一方に坐った彼ら比丘たちは、尊者大カッチャーナが説いたことを世尊に解説してこう申し上げた、〕
「世尊、私たちは、尊者大カッチャーナにこの意味を質ねました、
 世尊、そのわれわれに対して、尊者カッチャーナはこのような表現をもって、このような語句をもって、このように言葉をもって意味を解説しました」

『比丘たちよ、大カッチャーナは賢者だ。
 比丘たちよ、大カッチャーナは大智者である。
 比丘たちよ、もしも君たちがわたしにこの意味を質ねたとしても、私もまた大カッチャーナが解答した通りに、まさにその通りにそれに解答するだろう。
 そして、まさにこれがその意味であり、また君たちはそのようにそれを受持しなさい』
蜜丸経 (省略)





〔妄想〕とは、真実でないものを真実として意識する(見誤る)ことです。

 要するに、自分自身の眼、耳、鼻、舌、身体、意から生じる諸々の妄想、というものに対して、
大歓喜したり、おおいに語ったり、取著することがなければ、諸々の貪欲、瞋恚(いかり)、邪見、疑惑、自意識(慢)、生存欲、無明の潜在の終焉がある。
 これこそが、悪い不善のものども(争いし、論争し、異執し、異をとなえ、相違を論じ、中傷し、嘘をつくこと、等)の終焉であり、このようにしてこれらの悪い不善のものどもは残らず亡びる、ということです。

〔一般的にいうならば、何事も(眼、耳、鼻、舌、身体、意から生じる諸々の妄想というもの)に対して、極端に執著を強くしてしまうと、諸々の貪欲、瞋恚(いかり)、邪見、疑惑、自意識(慢)、生存欲、無明の潜在、等の諸々の不善に関する事柄が強くなるので、ほどほどにという感じです。〕






 縁起の理法について


 守護を条件として生じる、争い等の多くの悪しき不善の事柄に関して





















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