更訂、教えの内容を追加中 H29.4.15



  縁起の理法について



 縁起の理法とは、仏陀(ブッダ)によりて覚知せられた存在の法則そのものであり、
 生存の苦悩はいかにして生起して、どのように消滅するのかを諦らかにされ示された法(真理)です。


(わかりずらいかもしれませんが、虚無思想や、マイナス思考にならないでください。そのような人は勘違いをしています。
 苦しみを滅する道が八正道(善)である事をお忘れなく。
 下記の説明文は小学生や、中学生にはちょっと難しいかもしれません。ので注意。
 何度も善思して、自らで考えると善い。

 年配の人等が、難しすぎておっくうになる等も考慮して、なるべく簡素にまとめているつもりです。

 この仏陀の教えも、迷いの輪廻を繰り返す間は、私にもあなたにも、諸々の衆生にとりて、他の教えを奉ずる人でも、存在する者にとりて、重要な教えであり、善処への導きでもあるので、基本の〔十二支縁起〕は覚えるのが善い。)


『〔[無明]の自性は、不善心と相応する癡(愚癡:無知によりて煩悩に染まる愚かさ四聖諦についての無智)である。
 この無明は、異熟としては一向に不好なる果をもたらし、自性としては有罪である』と。

 無明によりて、この現在の生存は生起している。

 人は生まれながらにして、無明に覆われている。

 これこそが(無明の自性としての)有罪と言われる。

(仏陀の教えでは、主に罪という言葉を用いずに、業という言葉を用いる。)


 知る人は知る。

 このように、仏陀の教えは、仏教以外の聖者・聖人の言葉の意味するところをも解かれる。

 その故にも、仏教より他の教えを持つ人々でありても、仏陀の教え(真理)を知り学ぶのは、
 その人自身(存在)にとりても、とても善い。



 聖者・聖人が、あなたを真理へと導いているのであれば、

 邪見者・邪行者としてではなく、正見者・善行者として、この仏陀の教えへと辿り着くことだろう。

 また、正見者・善行者となるべくして、この仏陀の教えへと辿り着くことだろう。



  『真理を見る者は、仏陀を見る。

   仏陀を見る者は、真理を見る。』




 しかし、”私は導かれている”と思いつつ、邪見により、邪行を重ね続けている者は、
 聖者・聖人方にではなく、悪魔に導かれている。

 邪見者は、聖者・聖人方に導かれずして、悪魔に導かれて、真理を見つつも見えず、邪行を行じて悪趣(地獄)に堕す。



『仏陀も聖者方も、人々を邪見・邪道へと導くことはない』


 邪見者・邪行者に、勘違いが多いので、初学者は、常識であるこの事柄を、よく善思するべし。






 全ての苦悩は無明によりてあります。
 そのゆえに、無明を消滅することによりて、苦悩はなくなるという事です。

 全ての事柄は、それぞれ個々にあるのではなく、下記のように全て繋がっています。
 いずれかを滅すると、それにひきつづき他の事柄も滅する(滅している)のですが、
(四聖諦)を知ることにより、他の事柄につづく縁を滅することができます。

 この世のものはすべて諸行無常。
 常に同じ状態、不変という事はありえず、時の推移とともに移り変わってゆかざるをえないもので、喜怒哀楽、等の楽しさ、嬉しさ、幸福感等もいずれはなくなってしまう。
 神々や世の人々が一様に思い込んでいる、好ましく、いとおしく、心地よい一切の色形や、音声や、味や、香りや、感触や、思い等の、快いものだと思っているもの。
 それらのものも、いずれは無くなってしまうという事は、そのものが無くなる時には、やはり悲しみ(苦しみ)を受けるのです。

 要するに、そのような(老・病・死などの)諸々の苦・不快はもちろんですが、快を求める事自体に苦しみがあり、自ら苦しみに執着をしている(苦しみを求めている、)ということにもなるわけです。
 一切が皆苦であるのはこのためです。

 四聖諦での苦しみを知るとはこのように、あるがままの(真実の)苦しみを知ることです。

 そして、そのように無明(真理を知らないこと)に迷う衆生は、正しく自ら一切法(真理)を覚り、苦を消滅した覚者(の教え)から真実の苦しみを学知し、その苦を滅する方法を学知修習しなければ、老・死などの人として避けることのできない諸々の苦から脱することはできません。


 覚者(仏陀)によりて善く説かれたこの縁起の理法(真理)は、

 諸々の苦が縁によりて生じていること、また、諸々の苦の生じる原因である貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚癡(無智)もまた縁によりて生じているということを、

 諸々の苦を滅するために、智者がそれぞれ自らで知り、自覚しなければならない教えです。



仏陀のこのように仰せられた、

『アーナンダよ。この縁起は甚深であり、甚深なるものとして顕われる。
 アーナンダよ。この法を知らず、覚とらないが故に、このように人々は、糸のもつれたように、腫物の覆われたように、ムンヂャ草やパッバヂャ草(の組まれたヒモ)のようになりて、苦界・悪趣・堕処・輪廻を越え渡ることがない。

 その故に、自らと、また、他人の利益・安楽のために行道して、諸々の諸作用を捨断して、甚深なる種々の縁相において、
 ここに賢者は、その甚深を得るように、常に念ありて精進修習するが善い』







  縁りて起こること〔十二支縁起〕

 このように私は聞いた。
 あるとき、世尊はサーヴァッティー〔郊外のジェータ林にあるアナータピンディカの園〕におられた。

〔その時、世尊は、比丘たちに「比丘たちよ」と、呼びかけられた。

「尊師よ」と、彼ら比丘たちは、世尊にこたえられた。

世尊はこのように仰せられた、
「比丘たちよ、私はあなたたちに、縁りて起こることを分析し詳しく説こう。
 それを聞き、よく心にとどめて考えなさい。私は語ろう」

「師よ、かしこまりました」と、彼ら比丘たちは、世尊にこたえた。

世尊はこのように仰せられた、

「比丘たちよ、縁りて起こることとは何か。比丘たちよ、

[無明]無知・愚かさによりて、迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の善・不善の思 〕[行]がある。

[行]迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の善・不善の思 〕によりて、所縁を識別して知る心〔識別作用〕がある。

[識]所縁を識別して知る心〔識別作用〕によりて、精神的・物質的現象〔名称と形態〕がある。

[名色]精神的・物質的現象〔名称と形態〕によりて、六内処と六外処(と六識身)の領域[六処]がある。

[六処]六内処と六外処(と六識身)の領域〔六処〕によりて、六処による三和合の接触がある。

[接触]六処による三和合の接触によりて、対象の感受がある。

[受]対象の感受によりて、飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、喉が渇いて水を求めるような本能的な欲望・妄執〕[渇愛]がある。

[渇愛・愛]飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、本能的な欲望・妄執〕によりて、取著がある。

[取著]取著によりて、生存がある。

[有]生存によりて、出生がある。

[生]出生によりて、老死があり、

[老死苦]愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩み等の苦しみが生じてくる。

このようにして、このすべての苦しみの集まりが生起する。


[老死]

比丘たちよ、[老死]老死とは何か。

 [老]それぞれの生きもののそれぞれの種類において、老衰し、耄碌(もうろく)し、歯が欠け、白髪となり、皺(しわ)がより、寿命が縮み、感覚器官の麻痺がやってくる。これが老といわれる。

 [死]それぞれの生きもののそれぞれの種類において、死去、肉体の分解、生命の消失、死亡、臨終、諸要素〔蘊〕の消滅、遺骸の横たえがある。これが死といわれる。

 比丘たちよ、これが[老死]といわれるのである。


[生]

比丘たちよ、[生]出生とは何か。

 それぞれの生きもののそれぞれの種類において、誕生、出産、懐胎、発生、心身〔蘊〕のあつまりの出現、知覚の領域(処)の獲得がある。

 比丘たちよ、これが[出生]といわれるのである。


[有]

比丘たちよ、[有]生存とは何か。

 比丘たちよ、これら三つの生存(三有)がある。

 〔欲界有〕本能的欲望[五種欲]の強く盛んな世界における生存、
     (また、未だ五根を通じて善・悪の所縁を求める五種欲を受用する衆生の有〈の状態〉。)
 〔色界有〕物質的なものすべてが清浄なるものより成る世界における生存、
     (また、色禅に入る衆生の有〈の状態〉〔色界有〕。)
 〔無色界有〕物質的なものすべてを超えた精神的要素のみからなる世界における生存、
      (また、無色定に入る衆生の有〈の状態〉。)である。

 比丘たちよ、これが三つの生存[有]である。


[取著]

比丘たちよ、[取著]〔接近、取る、執著、固執、放さず〕とは何か。

 比丘たちよ、これら四つの取著〔四取〕がある。

 〔欲取〕欲情による執着〔欲する色、声、香、味、感触、に取著すること〕、
 〔見取〕間違った見解による執着〔様々な見、原理、意見、教義に取著すること〕、
 〔戒禁取〕間違った制戒や迷信による執着〔間違った戒めや儀法、戒禁を取する・護摩行等、儀式、行為の原理、実践項目、
                     伝統、規律、方法、慣習、迷信、盲信、不理解による盲信、に取著すること〕、
 〔我語取〕実体的な自我への執着〔識に我あり、また、識は我である等、自我論に取著すること〕、

 比丘たちよ、これらが四つの[取著]といわれるのである。


[渇愛]

比丘たちよ、[渇愛]飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、喉が渇いて水を求めるような本能的な欲望・妄執〕とは何か。

 比丘たちよ、これら六つの飽くことなき欲望〔六愛身〕がある。

 〔色愛〕視えるもの〔色〕に対する飽くことなき欲望・欲求、
 〔声愛〕聴こえるもの〔声〕に対する飽くことなき欲望・欲求、
 〔香愛〕匂うもの〔香〕に対する飽くことなき欲望・欲求、
 〔味愛〕味わい〔味〕に対する飽くことなき欲望・欲求、
 〔触愛〕触れられるもの〔触〕に対する飽くことなき欲望・欲求、
 〔法愛〕知られ思われるもの〔法〕に対する飽くことなき欲望・欲求である。

 比丘たちよ、これが飽くことなき欲望・欲求・歓喜[渇愛]といわれるのである。


[感受]

比丘たちよ、[感受]〔対象の感受〕とは何か。

 比丘たちよ、これら六つの感受〔六受身〕がある。

 〔眼触受〕眼に色〔形〕が視えることから生じる感受、
 〔耳触受〕耳に声〔音〕が聴こえることから生じる感受、
 〔鼻触受〕鼻に香〔匂い〕が嗅うことから生じる感受、
 〔舌触受〕舌に味〔味〕を味わうことから生じる感受、
 〔身触受〕身体に触れられるもの〔物〕が触れることから生じる感受、
 〔意触受〕意に法〔所縁〕が識られることから生じる感受である。

 比丘たちよ、これが対象の[感受]といわれるのである。


[接触]

比丘たちよ、[接触]〔接触すること。合集している状態。〕とは何か。

 比丘たちよ、これらの(六処の三和合による)接触〔六触身〕がある。

 〔眼触〕眼に形が視えるという三和合の接触、
 〔耳触〕耳に声が聴こえるという三和合の接触、
 〔鼻触〕鼻に香が匂うという三和合の接触、
 〔舌触〕舌に味を味わうという三和合の接触、
 〔身触〕身体に物が触れるという三和合の接触、
 〔意触〕意に法(所縁)が識られるという三和合の接触である。

 比丘たちよ、これが(六処の三和合による)[接触]といわれるのである。


[六処]

比丘たちよ、[六処]六内処と六外処(と六識身)の領域とは何か。

 〔眼処〕眼と形と眼識の領域、
 〔耳処〕耳と声と耳識の領域
 〔鼻処〕鼻と香と鼻識の領域、
 〔舌処〕舌と味と舌識の領域、
 〔身処〕身体と物と身識の領域、
 〔意処〕意と法〔所縁〕と意識の領域である。

 比丘たちよ、これが六内処と六外処(と六識身)の領域[六処]である。


[名色]

[名] 比丘たちよ、[名色]精神的・物質的現象〔名称と形態〕とは何か。

 〔受〕心による対象の感受、
 〔想〕心に感受されたものの表象、
 〔思〕心を動かすこと、
 〔触〕心と対象との接触、
 〔作意〕心が対象に向かって注意をむけることがある。

 これが精神的現象[名]といわれる。

[色] 〔四大種〕地・水・火・風の四元素と、
    〔四大種所造の色〕この四元素から作られたものとがある。

 これが物質的現象[色]〔壊れるもの〕といわれる。

 このように、これが精神的現象[名]であり、またこれが物質的現象[色]であり、
 これが精神的・物質的現象〔名称と形態〕[名色]といわれる。


[識]

比丘たちよ、[識]所縁を識別して知る心〔識別作用〕とは何か。

 比丘たちよ、これら六つの所縁を識別して知る心〔六識身〕がある。

 〔眼識〕眼で所縁を識別して知る心、
 〔耳識〕耳で所縁を識別して知る心、
 〔鼻識〕鼻で所縁を識別して知る心、
 〔舌識〕舌で所縁を識別して知る心。
 〔身識〕身体で所縁を識別して知る心、
 〔意識〕意で所縁を識別して知る心である。

 比丘たちよ、これが所縁を識別して知る心[識]といわれるのである。


[行]

比丘たちよ、[行]迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用。思の状態。識の思の結生の原因。〕とは何か。


 比丘たちよ、これら三つの迷える人の諸行作がある。

 〔身行・身思(業)〕身の行作・身の思、
 〔語行・語思(業)〕語の行作・語の思、
 〔意行・意思(業)〕意〔心〕の行作・意の思である。

 比丘たちよ、これらが迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用〕[行]といわれるのである。


[無明]

比丘たちよ、[無明]〔四聖諦・真理・物事の道理を知らない無智、また、無知によりて煩悩に染まる愚かさ(愚癡)〕とは何か。

 比丘たちよ、
 〔苦諦の無知〕苦しみについての無知、
 〔苦集諦の無知〕苦しみの生起することについての無知、
 〔苦滅諦の無知〕苦しみの滅についての無知、
 〔苦滅道諦(八聖道)の無知〕苦しみの滅に至る道についての無知である。

 比丘たちよ、これが無知・愚かさ(愚癡)・[無明]といわれる。

 比丘たちよ、このように[無明]無知・愚かさによりて、迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用〕がある。


比丘たちよ、このように

[無明]無知・愚かさによりて、迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の善(福)・不善(非福)の思 〕[行]がある。

[行]迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の善(福)・不善(非福)の思 〕によりて、所縁を識別して知る心〔識別作用〕がある。

[識]所縁を識別して知る心〔識別作用〕によりて、精神的・物質的現象〔名称と形態〕がある。

[名色]精神的・物質的現象〔名称と形態〕によりて、六内処と六外処(と六識身)の領域[六処]がある。

[六処]六内処と六外処(と六識身)の領域〔六処〕によりて、六処による三和合の接触がある。

[接触]六処による三和合の接触によりて、対象の感受がある。

[受]対象の感受によりて、飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、喉が渇いて水を求めるような本能的な欲望・妄執〕[渇愛]がある。

[渇愛・愛]飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、本能的な欲望・妄執〕によりて、取著がある。

[取著]取著によりて、生存がある。

[有]生存によりて、出生がある。

[生]出生によりて、老死があり、

[老死苦]愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩み等の苦しみが生じてくる。

このようにして、このすべての苦しみの集まりが生起する。


しかしながら、このように、

[無明]無知・愚かさが消滅することによりて、迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の善(福)・不善(非福)の思 〕[行]が消滅する。

[行]迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の世間の善(福)・不善(非福)の思 〕が消滅することによりて、所縁を識別して知る心〔識別作用〕が消滅する。

[識]所縁を識別して知る心〔識別作用〕が消滅することによりて、精神的・物質的現象〔名称と形態〕が消滅する。

[名色]精神的・物質的現象〔名称と形態〕が消滅することによりて、六内処と六外処(と六識身)の領域[六処]が消滅する。

[六処]六内処と六外処(と六識身)の領域〔六処〕が消滅することによりて、六処による三和合の接触が消滅する。

[接触]六処による三和合の接触が消滅することによりて、対象の感受が消滅する。

[受]対象の感受が消滅することによりて、飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、喉が渇いて水を求めるような本能的な欲望・妄執〕[渇愛]が消滅する。

[渇愛・愛]飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、本能的な欲望・妄執〕が消滅することによりて、取著が消滅する。

[取著]取著が消滅することによりて、生存が消滅する。

[有]生存が消滅することによりて、出生が消滅する。

[生]出生が消滅することによりて、老死が消滅する。

[老死苦]愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩み等の苦しみが消滅する。


 このようにして、このすべての苦しみの集まりが消滅する。

 努力して思念しているバラモンに、もろもろの理法が現われるならば、かれの疑惑はすべて消滅する。

 原因(との関係をはっきりさせた縁起)の理法をはっきりと知っているのであるから。





 掲示板より


  分別

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナー タピンディカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は、比丘たちに告げていった。
「比丘たちよ、わたしはいま汝らのために、縁起を分析して説こうと思う。汝らはよくそれを聞いて、考えてみるがよろしい」

 比丘たちは、「大徳よ、かしこまりました」と答えた。

世尊は説いていった、

「比丘たちよ、縁起とは何であろうか。 比丘たちよ、

 無明によりて、行がある。

 行によりて、識がある。

 識によりて、名色がある。

 名色によりて、六処がある。

 六処によりて、触がある。

 触によりて、受がある。

 受によりて、渇愛がある。

 渇愛によりて、取がある。

 取によりて、有がある。

 有によりて、生がある。

 生によりて、老死があり、

 愁・悲・苦・憂・悩等の苦がある。

 かくのごときがこの苦の集積の縁りてなれるところである。


では、比丘たちよ、老死とは何であろうか。

 生きとし生けるものが、 老い衰え、朽ちやぶれ、髪しろく、皺生じて、齢かたむき、諸根やつれたる、これを老いというのである。

 また、生きとし生けるものが、命おわり、 息絶え、身体やぶれて、死して遺骸となり、棄てらたる、これを死というのである。

 かくのごとく、この老いと、この死とを、 比丘たちよ、老死というのである。


また、比丘たちよ、生とは何であろうか。

 生きとし生けるものが、生まれて、身体の各部あらわれ、手足そのところをえたる、

 比丘たちよ、これを生というのである。


また、比丘たちよ、有〔生存〕とは何であろうか。

 比丘たちよ、それには三つの存在がある。
 欲界すなわち欲望の世界における存在 と、
 色界すなわち物質の世界における存在と、
 無色界すなわち抽象の世界における存在である。

 比丘たちよ、これを有というのである。


比丘たちよ、また、取〔取著〕とは何であろうか。

 比丘たちよ、それには四つの取著がある。

 欲にたいする取著、
 見(所見)にたいする取著、
 戒(戒禁)にたいする取著、
 我にたいする取著である。

 比丘たちよ、これを取というのである。


比丘たちよ、では、愛〔渇愛〕とは何であろうか。

 比丘たちよ、 それには六つの渇愛がある。

 物にたいする渇愛、
 声にたいする渇愛、
 香にたいする渇愛、
 味にたいする渇愛、
 感触にたいする渇愛、
 法にたいする渇愛である。

 比丘たちよ、それを愛というのである。


比丘たちよ、では、受〔感覚〕とは、何であろうか。

 それには六つの感覚がある。

 眼の接触によりて生ずる感覚、
 耳の接触によりて生ずる感覚、
 鼻の接触によりて生ずる感覚、
 舌の接触によりて生ずる感覚、
 身の接触によりて生ずる感覚、
 意の接触によりて生ずる感覚である。

 比丘たちよ、これを受というのである。


比丘たちよ、では、触〔接触〕とは何であろうか。

 比丘たちよ、それには六つの接触がある。

 眼による接触、
 耳による接触、
 鼻による接触、
 舌による接触、
 身による接触、
 意による接触である。

 比丘たちよ、これを触というのである。


比丘たちよ、では、六処〔六根六境と、それらの認識〕とは何であろうか。

 眼の認識と、
 耳の認識と、
 鼻の認識と、
 舌の認識と、
 身の認識と、
 意の認識とである。

 比丘たちよ、これを六処というのである。


比丘たちよ、では、名色とは何であろうか。

 受(感覚)と、
 想(表象)と、
 思(思惟)と、
 触(接触)と、
 作意(意思)とである。、

 これを名というのである。

 また、 四大種(地・水・火・風)およびそれによりて成れるもの、これを色というのである。
 そのような名と、そのような色とを、名色というのである。


比丘たちよ、では、識(識別する作用)とは何であろうか。

 比丘たちよ、そ れには六つの識がある。すなわち、

 眼識と
 耳識と
 鼻識と
 舌識と
 身識と
 意識とである。

 比丘たちよ、これを識というのである。


比丘たちよ、では、行〔意思のうごき〕とは何であろうか。

 比丘たちよ、それには三つの行がある。すなわち、

 身における行と、
 口における(語)行と、
 意(心)における行とがそれである。

 比丘たちよ、これを行というのである。


比丘たちよ、では、無明(無智)とは何であろうか。比丘たちよ、

 苦についての無智、
 苦の生起についての無智、
 苦の滅尽についての 無智、
 苦の滅尽にいたる道についての無智である。

 比丘たちよ、これを無明というのである。


比丘たちよ、かくのごとくにして、

 無明によりて、行がある。

 行によりて、識がある。

 識によりて、名色がある。

 名色によりて、六処がある。

 六処によりて、触がある。

 触によりて、受がある。

 受によりて、渇愛がある。

 愛によりて、取がある。

 取によりて、有がある。

 有によりて、生がある。

 生によりて、老死があり、

 愁・悲・苦・憂・悩等の苦がある。

 これがこのすべての苦の集積の縁りてなるところである。


また(しかしながら)、

 無明を あますところなく滅することによりて行は滅する。

 行を滅することによりて、識を滅することによりて

 識を滅することによりて、名色が滅する。

 名色を滅することによりて、六処が滅する。

 六処を滅することによりて、触が滅する。

 触を滅することによりて、受が滅する。

 受を滅することによりて、渇愛が滅する。

 愛を滅することによりて、取が滅する。

 取を滅することによりて、有が滅する。

 有を滅することによりて、生が滅する。

 生を滅することによりて、老死が滅して、

 愁・悲・苦・憂・悩等の苦しみが滅する。

 これがこのすべての苦の集積の縁りて滅するところである」







  縁りて起こること(説明)〔説明解説:對馬〕

 このように私は聞いた。
 あるとき、世尊はサーヴァッティー〔郊外のジェータ林にあるアナータピンディカの園〕におられた。
〔そこで、世尊は比丘たちに「比丘たちよ」と、呼びかけられた。

「尊師よ」と、彼ら比丘たちは、世尊にこたえられた。

世尊はこのようにお話しになった、〕
「比丘たちよ、私はあなたたちに、縁りて起こることを分析し詳しく説こう。それを聞きなさい。よく心にとどめて考えなさい。私は語ろう」

「師よ、かしこまりました」と、彼ら比丘たちは、世尊にこたえた。

世尊はこのようにお話しになった、

「比丘たちよ、縁りて起こることとは何か。比丘たちよ、

[無明]無知・愚かさによりて、迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の善・不善の思 〕[行]がある。

[行]迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の善・不善の思 〕によりて、所縁を識別して知る心〔識別作用〕がある。

[識]所縁を識別して知る心〔識別作用〕によりて、精神的・物質的現象〔名称と形態〕がある。

[名色]精神的・物質的現象〔名称と形態〕によりて、六内処と六外処(と六識身)の領域[六処]がある。

[六処]六内処と六外処(と六識身)の領域〔六処〕によりて、六処による三和合の接触がある。

[接触]六処による三和合の接触によりて、対象の感受がある。

[受]対象の感受によりて、飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、喉が渇いて水を求めるような本能的な欲望・妄執〕[渇愛]がある。

[渇愛・愛]飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、本能的な欲望・妄執〕によりて、取著がある。

[取著]取著によりて、生存がある。

[有]生存によりて、出生がある。

[生]出生によりて、老死があり、

[老(病)死苦]愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩み等の苦しみが生じてくる。

このようにして、このすべての苦しみの集まりが生起する。  


《縁起輪転の輪》



【有輪(輪廻の輪)】(苦の)縁起の、原因〔因〕と結果〔果〕の【十二支】の連結によりて転起する輪転を、有輪と言う。
〔この縁起の輪転(有輪)は、邪見の遮止・邪見の遮止のため、においても識られる。〕


【十二支】に、有輪を構成する十二支があり、
     無明・行・識・名色・六処・触(接触)・受(感受)・渇愛・取著・有・生(出生)・老死、が十二支である。


 苦の輪転は、無明と渇愛との【二根本】の滅により滅する。

 しかし、人が世間で生きていく過程で、必ず生じてしまう老・病・死・愁・悲・苦・憂・悩等の諸々の苦しみによりて、悩む人々には諸漏が生じる。そのゆえに無明も生じる。

 このように、絆としての無始である三界(欲界・色界・無色界)の輪転を、縁起である、と仏陀は説かれた。

 そのように、老・病・死・愁・悲・苦・憂・悩等の諸々の苦しみによりて、悩まされた人々には、諸漏などが随いており、この漏などに無明が含まれている。このように、漏を縁として無明が生じ、
 また、名色蘊を得ている限り、生・老・病・死などの不可避の苦を初め、財の損失、愛する者との別離、憎む者との出会い、求めても得られないなどの様々な苦を受けるが、渇愛を抱く人々は無明(真理を知らないこと)に妨げられて、その苦を見ることができず、善(福)行、不動行を為すのである。

 また、殺生などの不善行を為せば、現世では人に嫌われ、次有(次の生存)では離善地に堕ちるなどの結果を招く。
 不与取や邪欲行なども同様である。

 しかし、死を望む人が毒を怖れないように、無明のために、その結果を見ることができない人々は、殺生などの瞋恚(害する念・怒り・憎しみ等の)悪行を為して、邪欲行(・貪欲悪行)を為すのである。


【二根本】は、有輪の十二支の連結によりて転起する輪転を言い、[無明]と[渇愛]の、二種がある。

 無明は、愁・苦・憂・悩等、また、快楽・世俗の歓喜(欲)・楽(欲)等によりて、すでに生起されており、その故に、
 この有輪の初めは知られることがない。また、十二種の空性のゆえに空であり、また、無明等の原因によりて、
 行・識等の縁の転起があるが故に、作者なく、受者もなく、常に引続きて転起する。


 [無明]過去時の縁に依りて生起していて、現在時の渇愛に果を生起する原因。
    [無明]を根本として[受]を最後とする、前世(過去因)より現世(現在果)へと果を将来するもの。
     見行者にとりては、無明が輪廻の導引者となる。
     この有輪は、正見者が、因果の連結によりて相続の断絶しないことを覚知して、断見を捨断・根絶するた
     めにも説かれる。
     また、胎生者の順次の転起を説明するためにも説かれる。

 [渇愛]縁に依り現在時に生起して、未来時の老死に果が送られる。
    [渇愛]を根本として、[老死]を最後とする、現在因から来世(未来果)の相続に繋がるもの。
     この有輪は、渇愛行者にとりては、渇愛が輪廻の導引者となり、生起するものに老死があり、天子も不死で
     はなく、永い劫期の後にでも必ず死に至る。そのように常見の根絶のためにも説かれる。
     また、化生者の、一時の生起を説明するためにも説かれる。



また、その有輪の十二支を【作用の時】として、[過去時]、[現在時]、[未来時]に分けた三種がある。

【作用時】
 [過去時]に、無明・行があり、輪廻の過患を覆い隠してしまうというその無明のために、
      種々の善(福)・不善が為されるのものであるため、過去時である。
 [現在時]に、識・名色・六処・触・受・愛・取著・有があり、過去(世)になした善(福)・不善行により、
      現在(・現世)に生じるため、現在時である。
 [未来時]に、生・老・死、(愁・悲・憂等)があり、現世において善(福)・不善業をなしたために来世に生じるため、
      未来時である。〕



また、有輪の十二支は【四合集】として、[過去の因]・[現在の果]・[現在の因]・[未来の果]の集まりに分けられる。
【四合集】

 [過去因]は、無明・行である。
 [現在果]は、識・名色・六処・接触・受である。
 [現在因]は、渇愛・取著・有である。
 [未来果]は、生・老死



また、有輪の十二支は【三連結】として、[過去因と現在果]、[現在果と現在因]、[現在因と未来果]の三種の連結がある。

【三連結】

 [過去因と現在果の連結]として、<行によりて識がある>という縁起の、行により結生された識との間の連結がある。 [現在果と現在因の連結]として、<受によりて渇愛がある>という縁起の、受と渇愛の間の連結がある。
 [現在因と未来果の連結]として、<有によりて生がある>という縁起の、(業)有と出生の間の連結がある。



また、時を掛けた因果を【二十行相の輻】として、原因と果で分けたものに、
 [過去世の五因(支)]・[現在世の五果(支)]・[現在世の五因(支)]・[未来世の五果(支)]がある。

【二十行相】

 [過去五因]
  現在(世)の結生にたいする、過去における五因(支)は、無明・行・渇愛・取著・有である。
  前(世)の無明により作した業有において癡は[無明]である。その業を行なう者のあらゆる前思は[行]である。
  起有にたいするあらゆる欲求は[渇愛]である。あらゆる業有の縁となる接近は[取著]である。
  その業を行なう者のあらゆる後思の[有]である。
  前(世)の業有におけるこれらの五法は、現在(世)の結生にたいする過去(世)の因である。
  無明・行は過去時のものとされ、煩悩輪転の無明を取れば、煩悩輪転の渇愛・取著も無明に随いて来る。
  そして、業輪転の行を取ることによりて、業輪転の業有も、行につき随いてくるので、過去五因(支)は、
  無明・行・渇愛・取著・有である。

 [現在五果]
  現在(世)の起有による、現在(世)の五果(支)は、識・名色・六処・接触・受である。
 「現在(世)の結生は[識]である。入胎は[名色]である。浄(色)は〔眼等の五[処]〕である。所触は[触]である。
  所受は[受]である。これらの五法は、現在(世)の起有の宿作の業における、現在(世)の果である。」
  過去五因(支)によりて、現在五果(支)である識・名色・六処・接触・受が生じる。

 [現在五因]
  未来(世)にたいする、現在(世)の業有における五因(支)は、無明・行・渇愛・取著・有である。
  無明者の渇愛・取著に相応する無明、または、無明者が渇愛・取著によりて業を行なう無明・行・渇愛・取著・有
  の五因である。
   すなわち「現在(世)において六内処により業を作して生ぜる癡は[無明]である。
  その業を行なう者のあらゆる前思は[行]である。起有にたいするあらゆる欲求は[渇愛]である。
  あらゆる業有の縁となる接近は[取著]である。その業を行なう者のあらゆる後思は[有]である。
  これらの五法は、現在(世)の業有における、未来(世)の結生の因である。
   現在の因として直接取られるのは、渇愛・取著・業有だけだが、過去の五因と同じ理由で、無明・行がつき随っ
  てくるので、現在五因(支)は無明・行・渇愛・取著・有である。

  [未来五果]
   現在(世)において作せる業より生じる、未来(世)の五果(支)は、識・名色・六処・接触・受である。
  「未来(世)の結生は[識]である。入胎は[名色]である。浄(色)は眼・耳等の五[処]である。所触は[触]である。
   所受は[受]である。
   これらの五法は、現在(世)の起有のおいて作せる業より生じる、未来(世)の起有の果である。」
   未来の果として生・老死が取られるが、この生や老死に自性はなく、識・名色・六処・接触・受が生・老死に他
   ならない。ゆえに、未来五果(支)と言われる。



また、縁起の十二支を、[煩悩輪転]・[業輪転]・[異熟輪転]の三種の輪転循環で分けた【三輪転】がある。

【三輪転】

 [煩悩輪転]は、無明・渇愛・固執[取]とからなる煩悩の輪転循環。
 [業輪転]は、行・業有[有]からなる業の輪転循環。
 [異熟輪転]は、起有[有]・出生・老死等の形で現われる、識・名色・六処・接触・感受からなる異熟の輪転循環。

  無明を執するによりて煩悩輪転や業輪転は愚者を結縛する。
  あたかも、蛇の頭を捕らえることによりて、蛇の他の身体の部分が腕に巻きつくように。
  そして、無明の断絶がなされた時は、煩悩及び業等よりの解脱がある。
  あたかも、蛇の頭が断たれたならば、巻きつけられた腕が、蛇身より脱するようなものである。

  煩悩輪転が断絶しない間は、縁は断絶しないので、停止することなく繰り返し廻転するがゆえに巡る。
  無明・行は過去時のものとされ、無明を取すれば、必然的に 渇愛・固執も随いて来るのである。
  同様に、業輪転である行と業有の場合も、行を取ることに縁りて業有も随いてくるのである。


 業を生成(因)として、業より諸異熟が転起し、業より再有あり、そのようにして世間は転起する。
 諸賢者は、原因以外に作者を見ず、異熟の転起以外に異熟の受者を見ない。
 諸賢者が原因ある時に「作者あり」と、また、異熟の転起ある時に「受者あり」と為すのは、通称(世俗)のみによりて語る。
 業の作者のあることはなく、また、異熟の受者もあることなし。単に諸法のみが転起する。これは正見である。

 この義を了知せずして、諸外学は自在ならず。

 業は異熟の中に無く、異熟は業中に存在せず、両者は相互に空である。
 それでいて、業なくしては果のあることはない。

 譬えば、太陽に火は無く、木片にも、牛糞等にも火は無く、しかし、それらの資糧より火は生ずるように、そのように業の中に異熟は得られない。
 また、業の外にも得られず、業はその異熟の中に存在しない。
 その業中に果はあることなく、しかも、果は業によりて存在する。

 業を取りてそれより果は生起する。
 この業と果の中に、輪廻の作者とされる天・梵天はあることなく、因・資糧の単に諸法のみが転起する。

 また、過去において業縁より生じた諸蘊はすべてそこにおいて滅し、また、過去の業縁よりこの現在の有(生存)において他の諸蘊は生じる。
 そのように、過去の有よりこの現在の有に来たれるものは、(色・受・想・行・識等や他の事物・事柄等一切)一法もあることなし。
 また、この現在の有において業縁によりて生じる諸蘊は滅し、また、未来の再有においては他の諸蘊が生起する。
 この有より再有に行くもの(事象・事柄等一切)もまた、一法もあることなし。

 宿住隨念智によりて、前世が知られると言われるとも、この現在の有より、未来の再有に行くものは一法もあることなく、過去や現在の業縁によりてこの現在や未来における他の諸蘊が生起する。

〔生者は過去有より移行することなく、因が無ければそよこり生じることはない。
「無因(心)の死(の直後)に有因(心)の結生あり」等のように、縁を得た色・非色の法のみが生起しつつ、他の有に至る、という言われ方(表現)はされる。

 有情が至るに非ず、命が至るに非ず、またその生者が過去有より移行することなく、また因が無ければ、そこ(過去有)よりここに現前することもなし。〕

 譬えば、師匠の口より唱えられた護呪が、弟子の口に入るのでなしに、護呪は師匠の口から唱えられたという縁によりて、弟子の口から護呪が唱えられないということはないように。

 また、顔に化粧をした顔面は、鏡に至らないが、その縁によりて、鏡面に化粧が認められないということはないように。
 また、ローソクよりの火が、他のローソクに移るのではないが、その縁より、他のローソクに火が生じないということはないように。

 そのように、過去有より現在有へ、また、現在有より未来有へと、一法をも移行することはないが、過去有や現在有における蘊・処・界の縁より、現在や未来の再有における蘊・処・界が生じないのではない。

 そのように、結生ある時、心相続が起こり、前の心が破壊して、それより後の心が生じる。

 彼らに中間者はあることなく、彼らに間も存在しない。しかも、ここ(の死心)より何物も行かずして、結生が生じる。


 そのように、業輪転・異熟輪転による名色の縁の把握を為しおわりて、三世に対する疑惑を捨断する賢者(修行者)に、一切の過去・現在・未来の諸法は、死・結生によりて知られる。それは彼の知遍知である。



また、この縁起に、[同一の理]・[別異の理]・[不作為の理]・[如是法性の理]の【四義理】があり。
この四の義理によりても、有輪は適宜に識るが善い。

【四義理(理法の別)】

[同一の理]は、断見を遮断する。
「無明によりて行あり」、「行によりて識あり」というように、あたかも、種子が芽等の状態を経て、樹木の状態に達
 するように、相続の断絶しない事柄を、同一の理という。
  正見者は、因果の連結によりて相続が断絶しないことを覚知するが故に、断見を遮断する。
  転倒見者は、因果の連結によりて転起しつつある相続が、断絶しないのを同一であるとして解するが故に、常見を
  取する。
 (因果の連結によりて転起しつつある相続において、因から果へと相続している途中であるにもかかわらず、知らず
  見誤りて、”これは断絶しない”として、誤まりて解するが故に、常見に取著する。)

[別異の理]は、常見を捨断する。
 無明等の各支の相に差別・異なりあるのを別異の理という。
  正見者は、事物が常に新しく生起するのを見るが故に、常見を捨断する。
  転倒見者は、一の相続に在るものを、多くの相続におけるように解する。その故に、断見を取する。
 (各支の相は(原因に)差別・異なりがあり、一の相続(支)に他の相続(支)も生起している等と解して、その故に断見
  に取著する。)

[不作為の理]は、我見を捨断する。
 無明に「諸行は我によりて生起されるがよい」というような作為のあることはなく、また、行に「識は我によりて生
 起されるがよい」というように、作為のあることがない、ことを、不作為の理という。
  正見者は、作者無く、(諸法は自らでも自在天のような存在でありても、自在にならないことを覚知する)が故に、
 我見を捨断する。
  転倒見者は、無明等に、作為無しといえども、自性として決定成就している因性があることを解さず、(諸法の自在
 にならないことを覚知し)ないが故に、無作見を取する。
 (無明等に、作為はなく、自性として決定成就している原因があることを解せず、また、自らでも自在天のような存
  在でありても、諸法は自在にならないことを覚知しないが故に、因縁の造作のない見解等に取著する。)

[如是法性の理]は、無因見・無作為を捨断する。
 牛乳等よりは酪等のみの生成があるように、無明等の原因よりは、行等のみの生成ありて、他のものの生成はあるこ
 となし。これを如是法性の理という。
  正見者は、縁に随順して果のあることを覚知するが故に、無因見・無作為を捨断する。
  転倒見者は、縁に随順して果の起ることを解せずして、何ものより何ものも生成しないと解するが故に、無因見と
  決定論とを取する。
 (因がありて果はあり、さらに、縁に随順して果は起るということを解さないが故に、”原因は無い”という見解に
  取著し、また、その故に、”原因による結果は無い”という見解にも取著する。)



このように、

【無我相の明瞭】
 縁起よりの生起を観ることによりて、諸法が自力なき縁に関係して生起することを覚知するが故に、無我相が明瞭となる。

【無常相の明瞭】
また、刹那より生滅を観ることによりて、有り、そして、おわれば無きに至ること、また、そのように前際後歳の別(生・滅・変異)を覚知するが故に、無常相が明瞭となる。

【苦相の明瞭】
 刹那より生滅を観ることによりて、生滅によりての苦悩あることを覚知するが故に、苦相が明瞭となる。

【区別・自性相の明瞭】
 刹那より生滅を観ることによりて、生滅の区別を覚知するが故に、自性相も明瞭となる。

【暫時〔少時・定時限〕の明瞭】
 自性相が明瞭となる時、生起の刹那に滅があることなく、滅の刹那に生起のあることなきを覚知するが故に、有為相の暫時なる(少時・時限の定まりある)ことも明瞭となる。


 こうして、諦・縁起の種々なる理と相とが明瞭となるとき、彼(修学者)にこれらの諸法のいまだかつて生起していないものが生起し、すでに生起したものは滅するが故に、常に新しいものとなりて諸行は現起する。

 また、日出づる時の露滴のように、水泡のように、水に打ちたる棒の跡のように、キリ先上芥子粒のように、また、雷光のように、暫時〔少時〕とどまるものとしても現起し、

 また、幻術・陽炎・夢境・旋火輪・蜃気楼・泡沫・芭蕉等のように、堅実なく真髄なきものとしても現起する。

【生滅随観の證得】
 このようにして、修学者は、衰滅の法のみが生起して、生起したものは必ず衰滅に至る、というこの行相によりて正五十の相に通達して得られる生滅随観という初歩の観智を證得する。

その生滅随観知の證得の故に修学者は、観を始めた者と称せられる。






[老死]

比丘たちよ、[老死]とは何か。

 それぞれの生きもののそれぞれの種類において、老衰し、耄碌(もうろく)し、歯が欠け、白髪となり、皺(しわ)がより、寿命が縮み、感覚器官の麻痺がやってくる。これが[老]といわれる。

 それぞれの生きもののそれぞれの種類において、死去、肉体の分解、生命の消失、死亡、臨終、諸要素〔蘊〕の消滅、遺骸の横たえがある。これが[死]といわれる。

 比丘たちよ、これが[老死]といわれるのである。
〔 [老]は、世間異熟名蘊・(業生)色などの老いる状態である。
  [死]は、世間異熟名蘊・(業生)色などの死滅することである。


〔[老死]は、老熟と破壊とを司り、かつ愁い等の持処(原因)となるが故に、他の[有]の前の縁となる。〕

〔[有]と[生]とは、業とその異熟の関係である、現在因と未来果としての連結がある。
 この縁起にて、自我が老いる、また、自我が死すという邪見をも遮止する。〕

〔[愁・悲・痛・憂・悩]等の苦は、人間界に結生しても、間もなく死ぬ人等になく、また、諸天〔欲天・色天・無色天〕と天子の別においても、[愁・悲・痛・憂・悩]等の諸々の苦しみが有る、または、無い、という天界・天子によりても異なるので、出生による単なる等流果の[愁・悲・痛・憂・悩]等は、[老死]の十二支に付け加えなくてもよい。
 寿命100歳において亡くなる人等においては、諸々の苦しみは付随するので、付け加えられる。
[生]

比丘たちよ、[生]出生とは何か。

 それぞれの生きもののそれぞれの種類において、誕生、出産、懐胎、発生、心身〔蘊〕のあつまりの出現、知覚の領域(処)の獲得がある。

 比丘たちよ、これが[出生]といわれるのである。
〔仏陀曰く、「業が、いわゆる劣勝の性によりて諸有情を分つ」。
 [生]とは、三界の各有における結生の刹那に生じる世間異熟名蘊と(業生)色とである。〕

〔[生]は、諸蘊を生じさせて、かつ彼ら諸蘊が生じては転起するが故に、[老死]の前の縁となる。〕

〔[有]と[生]とは、業とその異熟の関係である、現在因と未来果としての連結がある。 この縁起にて、自我が渇愛するという邪見をも遮止する。〕

〔〈[有]によりて、[生]がある〉という縁起の[有]は、【業有】のみを意味し、【業有】が生の縁であり、【起有】ではない。
 [有]は[生]に対して、業縁と、親依縁(三種の所縁を生起させる強い原因)としての二種となる。〕

〔人界に結生する場合、結生心として大異熟第一心、それと相応する心所、及び業生聚三などの、その[有]における最初の名色蘊が[生]である。
 三界の他の地における場合も同様である。〕
[有]

比丘たちよ、[有]生存とは何か。


 比丘たちよ、これら三つの生存【三有】がある。

 【三有】
 〔欲界有〕本能的欲望[五種欲]の強く盛んな世界における生存、
     (また、未だ五根を通じて善・悪の所縁を求める五種欲を受用する衆生の有〈の状態〉)
 〔色界有〕物質的なものすべてが清浄なるものより成る世界における生存、
     (また、色禅に入る衆生の有〈の状態〉〔色界有〕)である。
 〔無色界有〕物質的なものすべてを超えた精神的要素のみからなる世界における生存
      (また、無色定に入る衆生の有〈の状態〉〔無色界有〕)である。


 比丘たちよ、これが三つの生存[有]である。

〔[有]は、種々の善趣や悪趣に散布して、かつ[生]の前の縁となる。〕

〔〈[有]によりて、[生]がある〉という縁起の、【業[有]】と[出生]の間に、現在因と未来果としての連結がある。  この縁起にて、自我が出生するという邪見をも遮止する。〕

また、

〔[有]に【業有】と【起有(生有)】の二種がある。

【業有】は、生起の因となる業はであり、
【起有(生有)】は、[有]・【業有】より生じた諸蘊(五蘊)をいう。

〔色有・無色有〕についてもこれと同様である。
 そのように、[有]は、他を存在させ、自ら存在するのを作用とする。〕

【業有】思と思相応の諸法、思と相応する一切の有に至る行作。
【業有】とは、これらは世間の善・不善・無記の思いである。
 すなわち、欲取(取著)の縁より(欲)有を生ぜしむる業を作すところのものが【業有】である。〕

〈福行〉欲界と色界とである善業を成す善の意思・行作。布施、戒を守る、修学、をして福徳を積む。十三思。
〈非福行〉一切の不善を為す欲界の悪の意思・行作。十二不善思。
〈不動行〉禅定により安定した専一の心の状態、〈色界・無色界に生ずる禅定を修すること。〉四無色界の不動の善思
     ・行作。四無色界善思。である。


【起有】衆生の生きる世、衆生の生きている状態、業・業果。
【起有】は、業より生じた所蘊であり、【九種の起有】がある。
 <欲有>、<色有>、<無色有>、<想有>、<無想有>、<非想非非想有>、<一蘊有>、<四蘊有>、<五蘊有>である。

<欲有> は、欲界における[有]である。
<色有> は、色界における[有]である。
<無色有> は、無色界における[有]である。
<想有> は、想にして、その想が[有]であり、また、想がこの[有]にあるがゆえ[有]である。
<無想有> は、無想にして、その無想が[有]であり、また、無想がこの[有]にあるがゆえの[有]である。
<非想非非想有> は、粗なる想い無く、微細なる想がある非想非非想の[有]であり、また、非想非非想がこの[有]にある
        がゆえ[有]である。
<一蘊有> は、一の蘊(要素)があるがゆえに[有]であり、<無想有>も一蘊有である。
<四蘊有> は、四の蘊(要素)があるがゆえに[有]であり、<無色有、想有、非想非非想有、取蘊に属する一蘊有>もまた、四蘊有である。
<五蘊有> は、五の蘊(要素)があるがゆえに[有]であり、<欲有、色有、想有、取蘊に属する一蘊有>もまた、五蘊有である。

 要するに、諸々の起有に至る業・思と思相応の貪欲等の諸法による業・次の出生の縁となる業(福・非福・不動
行)の業、のこれらの業をつくり上げる状態が【業有】である。
 そのように、欲取(取著)の縁より〔欲有〕を生じさせる業を作すところのものは【業有】である。
【業有】の結果の状態・業果は【起有】である。〕

〔【起有】とは、
 喩えば、現世の欲楽を得ようする者は、殺・盗などの(悪・非福の)業有をなして、離善地に【起有】を得る。
 また、ある者は、天人や人間の楽を求めて欲界善である布施などの善(福)の業[有]をなして、欲善趣地に【起有】を得る。
 また、ある者は、欲界より上の楽を求めて色界禅・無色界禅である善(福)の業[有]をなして、色界・無色界に【起有】を得るのである。〕

〔[行]と【業有】とは、共に世間善・不善心に相応する思であるが、[行]は現世に異熟をもたらすところの過去世に生じた思である。つまり、思としては同じであっても、その思が生じる時点が過去世であるか、現世であるかによりて[行]となり、【業有】となるのである。〕

〔[有]は喩えれば、原因の思([行]の思)に対する後段階。
 すなわち、「いかにして我は布施をなさん」との心を起して、一カ月も一カ年も施物を準備しつつある者の後思。
 そしてその布施物の受者に施物を置く者の、その思が【業有】であり、その【業有】の思と相応する一切の【起有】
 に至る行作も[有]である。〕

〔【業有】は、世間善心十七と不善心十二とに相応する思二十九である。
  すなわち、行の箇所でも述べた上記の三行(善行・不善行・不動行)のことである。
 【起有】は、業有より生じる世間異熟心、それと相応する心所、及び(業生)色である。
  すなわち、〔欲有・色有・無色有〕である。〕

[取著]

比丘たちよ、[取著]〔接近、取る、執著、固執、放さず〕とは何か。
〔[(欲)取]は、欲欲・欲貪・欲歓喜・欲渇愛・欲愛情・欲熱悩・欲昏迷・欲縛者、これらを欲取という。
 喩えば、盗賊が物品を取るように、すでに到達した境を取ることが(欲)取である。〕
 比丘たちよ、これら四つの取著【四取】がある。

 【欲取】欲情による執着〔欲する色、声、香、味、感触、に取著すること〕、
 【見取】間違った見解による執着〔様々な見、原理、意見、教義、十の転倒見に取著すること、
                 これが真実であると固執すること〕、
 【戒禁取】間違った制戒や迷信による執着〔間違った戒めや儀法、戒禁を取する・護摩行等、儀式、行為の原理、実践項目、
                     伝統、規律、方法、慣習、迷信、盲信、不理解による盲信、に取著すること〕、
 【我語取】実体的な自我への執着〔識に我あり、また、識は我である等、自我論に取著すること〕、

 比丘たちよ、これらが四取つの取著【四取】といわれるのである。
〔【四取】の固執中の欲の固執の自性とは、縁としての渇愛(欲求・願望)の自性と同じ貪りということになる。
 両者は自性は同じでありても、貪りの度合いが、渇愛が弱く、取著(の欲の固執)は強いのである。〕

〔【欲取】は、欲求・願望が苦の根本・守護の苦の根本であり、百八種の渇愛の激しいものが【欲取】である。〕

〔【見取】は、諸々の見から習性行と我見とを除いた、あらゆる見をいう。〕

〔【戒禁取】は、戒によりて浄あり、禁によりて浄あり、戒禁によりて浄ありとするような、これらの転倒執著。
        間違った戒めや儀法、戒禁を取する・仏教徒でありつつも、護摩行等に執著すること等。〕

〔【我語取】は、我を主張する説に固執することで、この我という見がある限り、名・色・法の無我であることが理解
 できない。
 我(を主張する説はおも)に最高我と霊魂我の二種があり、
 最高我とは、世界や有情を創造する主宰神であり(創造する主宰神に関しては他で説明)、霊魂我は、個人的な実体とする霊魂をいう。
 我見者は、体の中に霊魂が常住すると説き、また、五蘊の一々を我であると主張するが、五蘊と我とに執著するもの
 は、すべて有身見である。〕

〔[取著]とは、堅執(固執)である。欲取(取著)の諸法は少欲・知足の反対である。

〔[取著]は、取すべき諸法を取して、かつ[有]の前の縁となる。
 この縁起にて、自我が有るという邪見をも遮止する。〕

〔[取著]は、現在因である。〕

〔例えば、ある色所縁を見たとき、先ず、渇愛(欲求・願望)が生じ、渇愛が強くなり欲の固執(取著)が生起する。
 また、我説の固執は、五蘊にたいして我という霊魂があると固執する見(有身見)では、その不理解による盲信や、自分(我)にたいする渇愛により固執(取著)が生じる。
 また、習性行や、世間の善行(福行)の固執においても、それは次有に楽を得るためであるから、楽を得ようという渇愛から固執(取著)が生じているのである。
 そのように、自らの善いとする見解(伝統、儀式、儀法、習慣、迷信など)における固執(取著)もまた、渇愛から固執(取著)が生じている。〕

[渇愛]

比丘たちよ、[渇愛]飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、喉が渇いて水を求めるような本能的な欲望・妄執〕とは何か。
〔渇愛は、喉が渇いて水を求めるような、欲望・欲求・妄執。また、歓喜して、満ち足りずどこまでもやまない状態。
 喩えば、盗賊が暗闇で手を差し伸ばすように、未だ達していない境を希求することが渇愛である。〕
 比丘たちよ、これら六つの飽くことなき欲望〔六愛身〕がある。

 〔色愛〕視えるもの〔色〕に対する飽くことなき欲望・欲求、
 〔声愛〕聴こえるもの〔声〕に対する飽くことなき欲望・欲求、
 〔香愛〕匂うもの〔香〕に対する飽くことなき欲望・欲求、
 〔味愛〕味わい〔味〕に対する飽くことなき欲望・欲求、
 〔触愛〕触れられるもの〔触〕に対する飽くことなき欲望・欲求、
 〔法愛〕知られ思われるもの〔法〕に対する飽くことなき欲望・欲求である。
〔また、これらの〔六愛身〕に【三愛】があり、

【三愛】
[欲愛]欲の渇愛(五種欲に対する妄執)、
[有愛]有の渇愛(生存〈を欲する〉・存在に対する〈常見からなる〉妄執)、
[無有愛]無有の渇愛〔非生存・非存在(を欲する)という生存・存在の滅無に対する(断見からなる)妄執〕がある。〕
 比丘たちよ、これが飽くことなき欲望・欲求[渇愛]といわれるのである。

〔[渇愛]は、[取著]に対して、求める、願い、等が渇愛といわれる。
 また、
〈楽受に対する[渇愛]〉は、色愛の場合、色所縁を貪るのは、その色所縁が楽受を伴っているからである。
 この楽受にたいして渇愛が生じる。
〈苦受に対する[渇愛]〉は、苦しみの感受にたいしても、その苦しみの感受から逃れて楽になろうとして、その楽受を 得ようとする。この楽受にたいして渇愛が生じる。
〈不苦不楽受〔捨受〕に対する[渇愛]〉は、苦でもなく、楽でもない、その不苦不楽〔捨〕受にたいして渇愛が生じる。〕

〔[渇愛]は、染著すべき諸法に染著して、かつ[取著]の前の縁となる。
 この縁起にて、自我が取するという邪見をも遮止する。〕

〔[渇愛]は、現在因である。〕

〔〈[受]によりて、[渇愛]がある〉という縁起の、[受]と[渇愛]の間に、現在果と現在因としての連結がある。〕

〔[渇愛]は[受]を縁とするといえども、随眠(根本煩悩)が無ければ存せず。それゆえに、その[渇愛]は梵行已住のバラモンに存せず。〕

〔[渇愛]の自性は、貪根心八に相応する貪心所である。〕

〔[渇愛]は、病の原因であり、また、病の治癒にたいする原因(病原)のようなものである。〕

[感受]

比丘たちよ、[感受]〔対象の感受〕とは何か。

 比丘たちよ、これら六つの感受〔六受身〕がある。

 〔眼触受〕眼に色〔形〕が視えることから生じる感受、
 〔耳触受〕耳に声〔音〕が聴こえることから生じる感受、
 〔鼻触受〕鼻に香〔匂い〕が嗅うことから生じる感受、
 〔舌触受〕舌に味〔味〕を味わうことから生じる感受、
 〔身触受〕身体に触れられるもの〔物〕が触れることから生じる感受、
 〔意触受〕意に法〔所縁〕が識られることから生じる感受である。


 比丘たちよ、これが対象の[感受]といわれるのである。

〔また、この六受に【三受】があり、

 【三受】
  <苦受>〔憂〕
  <楽受>〔喜〕
  <不苦不楽受>〔捨〕がある。〕

〔【三受】は、
  苦者は楽を希求し、
  楽者は飽くことなく楽を欲する。
  捨は寂静であるがゆえに楽と説かれたり。
  ゆえに、三受ともの縁となる。〕

〔[受]は、所縁の味を受けて、かつ[渇愛]の前の縁となる。〕

〔[受]によりて、[渇愛]がある〉という縁起の、[受]と[渇愛]の間に、現在果と現在因としての連結がある。
 この縁起にて、自我が渇愛するという邪見をも遮止する。〕

〔[受]の自性は、世間異熟心三十二に相応する受心所である。〕

[接触]

比丘たちよ、[接触]〔接触すること。合集している状態。〕とは何か。

 比丘たちよ、これらの(六処の三和合による)接触〔六触身〕がある。

 〔眼触〕眼に形が視えるという三和合の接触、
 〔耳触〕耳に声が聴こえるという三和合の接触、
 〔鼻触〕鼻に香が匂うという三和合の接触、
 〔舌触〕舌に味を味わうという三和合の接触、
 〔身触〕身体に物が触れるという三和合の接触、
 〔意触〕意に法〔所縁〕が識られるという三和合の接触である。

 比丘たちよ、これが(六処の三和合による)[接触]といわれるのである。
〔[接触]は、所縁に触れて、かつ[感受]の前の縁となる。
 また、この縁起にて、自我が感受するというような邪見をも遮止する。
 この縁起にて、自我が感受するという邪見をも遮止する。〕

〔[接触]は、現在果である。〕

〔[接触]の自性は、世間異熟心三十二に相応する触心所である。
 前五識十を除いた世間異熟心二十二に相応する触を意触という。〕
[六処]

比丘たちよ、[六処]六内処と六外処(と六識身)の領域とは何か。


 〔眼処〕眼と形と眼識の領域、
 〔耳処〕耳と声と耳識の領域、
 〔鼻処〕鼻と香と鼻識の領域、
 〔舌処〕舌と味と舌識の領域、
 〔身処〕身体と物と身識の領域、
 〔意処〕意と法(所縁)と意識の領域である。


 比丘たちよ、これが六内処と六外処(と六識身)の領域[六処]である。
〔[六処]は、心・心所の発生・合流するところ。意志(努力)によりて、行作をする。認識の門。
 また、あらゆる心・意・意処・意根・識・識蘊等の意識界のこと。 〕

〔[六処]は、自境において転起して、かつ[接触]の前の縁となる。〕

〔[六処]は、現在果である。〕

〔〈[六処]の縁よりて[触]あり〉という説示によりて、”多くの処より一の触あり”と、世尊は説かれた。
 喩えば、眼触受は、眼処と色処と眼識と称せられる意処と、その他の相応の法処とより発生するように、他の場合も
 同様である。
 この縁起にて、自我が触るという邪見をも遮止する。〕

〔五蘊地においては、[名色]が[六処]を生じさせ、
 無色界地においては、名が意処のみを生じさせる。

 また、[六処]は、[有]によりて所縁が異なるので、六内処を[六処]とする、または、六内処と六外処を[六処]として説くものもある。〕

〔[六処]の自性は、世間異熟心と相応する心所としての[名と(業生)色]とを縁として、五色処(眼・耳等)と、三十二世間異熟心の意処とが生じる。
 前五識十を除いた二十二世間異熟心に相応する触を意触という。
 この意触も意処もなければ生じることができない。〕


[名色]

比丘たちよ、[名色]精神的・物質的現象〔名称と形態〕とは何か。


 [名]


 〔受〕心による対象の感受、
 〔想〕心に感受されたものの表象、
 〔思〕心を動かすこと、
 〔触〕心と対象との接触、
 〔作意〕心が対象に向かって注意をむけることがある。

  これが精神的現象[名]といわれる。


 [色]

  〔四大種〕地・水・火・風の四元素と、
  〔四大種所造の色〕この四元素から作られたものとがある。

  これが物質的現象[色]〔壊れるもの〕といわれる。

 このように、これが精神的現象[名]であり、またこれが物質的現象[色]であり、
 これが精神的・物質的現象〔名称と形態〕[名色]といわれる。

〔[名]の自性は異熟心と相応する心所であり、[色]の自性は(業生)色である。〕

〔[名色]は、相互に支持して、かつ[六処]の前の縁となる。〕

〔[名色]は、現在果である。〕

〔[名]は[識]と相応する。相応に生じる。〕

〔[名と色]とは、喩えば、二つの葦の束が相互に依止して立っている場合に、一つが他の支持をなし、一つが倒れるこ
 とによりて他も倒れるかのように、このように名色は、共に相互に依止していて、どちらかが破壊するときは両縁が
 破壊する。また、二つお互いに力なく、独力では用をなすことができないが、相互に依止することにより、用をなす
 ことが可能になるようなものである。〕

〔[名]は所縁に面して向かうものであるがゆえに、受蘊、想蘊、行蘊の三蘊である。[識]と相応する。〕

〔〈[名色]によりて[六処]が生じる〉の縁を言えば、
 「名色が存するときに、六処が存するが故に、名色は六処の縁となる。
  すわなち、それぞれの名や色の存する時、それぞれの処があり、その他によりて存するのではない故である。」   この縁起にて、自我が識るというような邪見をも遮止する。〕

〈[識]によりて[名色]が生じる〉のであるが、
  五蘊地の場合では、眼識などの前五識は、名のみを生じさ、心生色を生じさせない。他の識は、名・色を共に生じ
  させる。
  無想有情地は、その地に生まれる前の、過去性で修した禅業である業識が(業生)色となる。
  無色地は、色がないので名のみが縁となる。
  この縁起にて、自我であると遍計せられたる事柄の区分を見るが故に、厚想をも遮止する。〕

〔[名色]は、識の依止するが故に一種。業の縁なるが故に一種。有所縁・無所縁であるが故に二種。過去等の故に三種。四胎の故に四種。五趣の故に五種。〕

[識]

比丘たちよ、[識]所縁を識別して知る心〔識別作用〕とは何か。

 比丘たちよ、これら六つの所縁を識別して知る心〔六識身〕がある。

 〔眼識〕眼で所縁を識別して知る心、
 〔耳識〕耳で所縁を識別して知る心、
 〔鼻識〕鼻で所縁を識別して知る心、
 〔舌識〕舌で所縁を識別して知る心
 〔身識〕身体で所縁を識別して知る心、
 〔意識〕意で所縁を識別して知る心である。

 比丘たちよ、これが所縁を識別して知る心[識]といわれるのである。

〔[識]は、[行]で行作された業の異熟生起した識。〕

〔[識]は、あらゆる心・意・意処・意根・識・識蘊等の意識界のこと。
     眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六種も同じ。
 [名色]の前行として、名の受蘊、想蘊、行蘊に相応する。〕

〔[識]は、事物を分別して識知して、かつ[名色]の前の縁となる。〕

〔[行]によりて結生された[識]との間に、過去因と現在果としての連結がある。〕

〈[識]によりて、[名色]がある〉この縁起による[識]の自性は、
 過去の業による識、つまり思と称される業と相応する識、及び現在の異熟識である。


〔[識]と名と相応に生じるが、[識]が主となっているので、〈[識]によりて、名色が生じる〉というのである。
 生起時にも、眼識などに相応する心所が相応に生じる。〕

〔出世間の異熟識は、輪転に属さないものであるから[識]に入らない。〕

〔[識]は、世間(有漏)異熟等の性の故に一種。有因・無因の故に二種。三有の所摂なるが故に三種。三受相応であるが故に三種。無因・二因・三因であるが故に三種。四胎の故に四種。五趣の故に五種。〕

〔〈[行]によりて、[識]がある〉この縁起による[識]の自性は、結性時・生起時における三十二世間異熟心である。
 善(福)行を縁として八欲界無因異熟心、八大異熟心、五色界異熟心の二十一識。不善行を縁として七不善無因異熟識
。不動行を縁として四無色界異熟識、が生じる。〕



〔【欲界善趣にて悪業を為した者の結生】・欲界(善趣)地は、人間界、善趣地天衆の阿修羅、六欲天がある。

 欲界善趣に在りて、悪業を有する者には、「それらの悪業は、その時に彼にかかる」等の語の故に、臨終の床に臥した者の意門に、生前に積んだ悪業、または、悪業の相が現われ来る。
 そしてその悪業、または悪業の相を縁じて生起せる速行路の直後に、有分の境を所縁として死心が生起する。
 それが滅した時にその意門に現われる業または、業相を縁じて、いまだ断絶していない煩悩力によりて向はしめられる悪趣所攝の結生心が生起する。
 これは過去を所縁とする死心の直後に転起する過去を所縁とする結生心である。
 他の者には、臨終の時に、上述のたぐいの業によりて地獄等の火焔の色等の悪趣相が意門に現われ来る。
 それより有分が二回生起しては滅したる時、その悪趣相たる所縁を縁じて、一心刹那の転向心と、死の近きによりて速力の鈍れるが故に五心刹那の速行心と二心刹那の彼所縁心との三路心が生起する。
 それより有分の境を所縁となして一死心が生起する。ここに至るまで十一心刹那が経過し居れり。
 かくて彼に五心刹那の寿命が残り居る時に、同じくそれを所縁として結生心が生起する。これは過去を所縁とする死心の直後に転起する現在を所縁とする結生心である。
 また、他の者は、臨終の時に、五門の何れかに、貪等の因となれる劣れる所縁が現われ来る。彼に順次に生起せし確定作用の終りに、死の近きによりて速力の鈍れるが故に、五心刹那の速行心と、二心刹那の彼所縁心とが生起する。それより・・・云々。

 要するに、悪行をした人は、自らが為した悪業のゆえに、臨終時において、自らがこれから赴く地獄の火焔等の悪趣(地獄)の姿が意に現われる、等という事柄。そして、その後に、その悪趣(地獄)等に結生・出生する。



【欲界善趣にて善業を成した者の結生】・欲界(善趣)地は、人間界、善趣地天衆の阿修羅、六欲天がある。

 善趣に在りて無罪の業を積んだ者には、「それらの善業は、その時に彼にかかる」等の語の故に、臨終の床に臥した者の意門に、生前に積んだ無罪業、または、無罪業の相が現われ来る。
 その無罪業、または無罪業の相は、欲界の無罪業を積んだ者にのみ現われる。

 次に、生前に色界・無色界の禅定を積んだ者は、業相のみが現われ来る。
 それを縁じて生起する彼所縁を最後とする、または彼所縁作用のない単なる速行路の直後に、有分の境を所縁として死心が生起する。
 これが滅する時、臨終に現われ来るその同じ業、または、業相を縁じて、いまだ断絶していない煩悩力によりて向はしめれられる善趣所攝の結生心が生起する。
 これは過去を所縁とする死(心)の直後に転起する過去を所縁とし、または、不可説を所縁とする結生である。

 また、他の者は、臨終の時に欲界の無罪業によりて、人界における母胎の様相と称する善趣の相、または、天界における遊苑・宮殿・劫波(昼度)樹等の様相を称する善趣の相が意門に現われ来る。
 彼の死心の直後に、悪趣相の場合に示したと同じ順序で、結生心が生起する。これは過去を所縁とする死(心)の直後に転起する現在を所縁とする結生である。また、他の者に・・云々・・、省略。

 要するに、善行をした人は、自らが成した善業のゆえに、臨終時において、自らがこれから赴く天界の遊苑・宮殿・劫波(昼度)樹等の善趣(天界)の姿が意に現われる、等という事柄。そして、その後に、その善趣(天界)等に結生・出生する。


 現在のここの娑婆人間世界でですら、自らの生れるその前から、すでに悪行者に刑務所があり、一般人に娯楽施設がある。
 それと同じように、他の境界に、地獄という悪行者が苦を受ける境界があり、天界という善行者が楽を受ける境界がある。
 そして、他のその境界では、閻摩王ですら、時が至ったときに獄卒から苦を受けている。
 そのような意味で言えば、どうして、悪行者が苦を受けないことがあるだろうか、と。〕


〔さらに、人間の死・結生の次第によりて明瞭に説明する。
 すなわち、過去有において自然に、または手を加へて死に近づきたる者には、一切の四肢五体を連結する間接を切断するような瀕死の苦痛をあたえる耐え難き刀剣の落ち来るのに耐えずして、炎熱にさらされる多羅の青葉のように、次第に身体が憔悴しつつありて、眼等の諸根が滅し、心基のみに存立する身根・意根・命根がある時、その一刹那のみ残存する心基に依止する識が、重・数習・近(死)・宿作の諸業の何れかの、─残れる無明等の縁を得た行と称せられる─業、または、そこに現起される業相・趣相なる境を縁じて転起する。
 そのように転起しつつあるその識をば、渇愛・無明をいまだ捨断していないことによる無明によりて、その過患が隠蔽されたるかの悪趣等の境に、渇愛が向はしめ、倶生の諸行がこの識をかの境に投ずる。
 その識は輪廻相続中に渇愛によりて悪趣等の境に向はしめられつつ、また諸行によりて投ぜられつつ、此岸の樹に結びつけた網に懸りて水路を越えるように、前の依止を捨てて、業より等起せしめられた後の依止を味い、または、厭いつつ、所縁縁等の縁によりて転起する。
 この場合、前の死亡の故に死と言われ、後の他の有等への結生の故に結生と言われる。この識は前有よりここに来れるに非ず、また、これは業・行・向境等の因なくしてそこの前有より現前することなしと知るべし。〕

[行]

 比丘たちよ、[行]迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用。思の状態。識の思の結生の原因。〕とは何か。
 比丘たちよ、これら三つの迷える人の諸行作がある。

 〔身行・身思(業)〕身の行作・身の思、
 〔語行・語思(業)〕語の行作・語の思、
 〔意行・意思(業)〕意〔心〕の行作・意の思である。
〔また、これらの行為に繋がる【三行作】がある。

【三行作】
 <福行> 欲界と色界とである善業を成す善の意思・行作。布施、戒を守る、修学等をして福徳を積む。
     八欲界・五色界善思の十三善思。
 <非福行> 一切の不善を為す欲界の悪の意思・行作。十二不善思。
 <不動行> 禅定により安定した専一の心の状態、〈色界・無色界に生ずる禅定を修すること。〉
      四無色界の不動の善思・行作。四無色界善思。

 これら六行作は、世間の善または不善の思である。
 比丘たちよ、これらが迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用〕[行]といわれるのである。

 [行]は、現世のあらゆる身業・語業・意業、及び次の[有]に異熟をもたらすあらゆる業(思)である。
 すなわち、福行・非福行・不動行の三種であり、その自性は世間善心・不善心に相応する二十九の思である。

 身行(身思)・語行(語思)・心行(意思)は、業を造作する刹那に、福行等の三行作の門より転起する。〕

〔[行]は、有為を行作して、かつ[識]の前の縁となる。〕

〔[四行] 行の四種
 <有為行> 有為を行作するが故の、一切の因縁の和合により生じるもの・有縁の法は、有為行である。
 <行作せられた行> 業所生の(欲界・色界・無色界の)三地の色・非色法は、行作せられた行である。
 <行作する行> 三地の善・不善の思は、行作する行である。
 <加行の行作> 身心の精進。努力で為す行は、加行の行作である。

〔〈[行]によりて、[識]がある〉という縁起の[行]は、[行]によりて結生された[識]との間に、過去因と現在果としての連結がある。
 この縁起にて、自我が転生するとの邪見をも遮止する。〕

〔〈[無明]によりて、[行]がある〉という縁起では、因縁和合によりて生成せる現象を行作すること。
 また、次の識の縁となる業を行作すること・行作していること・行作し続けていることを[行]とする。
 思、故思、故思性。〕

〔[行]の自性は、世間善心・不善心に相応する二十九の思である。
 その中で、八欲界善思、五色界善心と相応する十三善思が福行であり、
 不善心と相応する十二不善思が不福行であり、
 無色界善心と相応する四無色界善思が不動行である。

 例えば、八欲界善思と十二不善思との正二十思が、身表を等起せしめて、身門より転起すれば<身行>と言い、語門より転起すれば<語行>と言う。

 神通の思は、神通を行なう場合の欲界善思にして、神通を起こす作用のみがあり、[行]によりて[識]という場合の結生識を異熟させることがないのでここに入らない。掉擧思もここに含まれない。〕

〔正道の思は、異熟をもたらす有為ではあっても、輪転に属さないので[行]に入らない。〕

〔[行]は、有漏にして異熟法をもたらす法等であるが故に一種。善・不善の故に二種。小・大、劣・中、邪(定)・正(定)の故に二種。福行等の性の故に三種。(湿性・卵生・胎生・化生の)四胎に転起するが故に四種。五趣に至るが故に五種である。〕

〔[行]は喩えば、結果の思([行]の思)に対する前段階。
 すなわち、「いかにして我は布施をなさん」との心を起して、一カ月も一カ年も施物を準備しつつある者の前思。
 そしてその布施物の受者に施物を置く者の、その思が業有である。その業有の思と相応する、行作の思が[行]である。〕

譬えば、

[無明]

比丘たちよ、[無明]〔四聖諦・真理・物事の道理を知らない無智、また、無知によりて煩悩に染まる愚かさ(愚癡)〕とは何か。

 〔苦諦の無知〕比丘たちよ、苦しみについての無知、
 〔苦集諦の無知〕苦しみの生起することについての無知、
 〔苦滅諦の無知〕苦しみの滅についての無知、
 〔苦滅道諦(八聖道)の無知〕苦しみの滅に至る道についての無知である。


 比丘たちよ、これが無知・愚かさ(愚癡)・[無明]といわれる。

 比丘たちよ、このように[無明]無知・愚かさによりて、迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用〕がある。

〔[無明]の自性は、不善心と相応する癡(愚癡:無知によりて煩悩に染まる愚かさ四聖諦についての無智)である。

 この無明は、異熟としては一向に不好なる果をもたらし、自性としては有罪である。
 一切の福・非福・不動行等に対して、適宜に場所・作用・自性の相違・不相違なる縁として、また、似同・不同なる縁としての縁となると知るが善い。〕

〔[無明]は、不可存が存すること。身悪行等は、遂行することは不当であり不可存と言われ、得てはならないものの義であり、その不可存が存する。〕

〔[無明]は、可存が存しないこと。身善行等は、可存と言われ、その可存が存しない。

〔[無明]は、蘊の集まりの義、処の努力の義、界の空の義、根の増上の義、諦の真実の義を知らないこと等々。

〔[無明]は、悪趣に至る業の特別の因となる。
 凡夫は、無明により煩悩の熱苦等の故に、楽味なしといえども、また、悪趣に堕して自己に不利をもたらすといえども、殺生等の悪趣に至る種々の業をも行なう。

〔[無明]は、人をして事物と有情とに対して智蒙にさせ、そして、[行]の前の縁となる。
 この縁起にて、作者ありとの邪見をも遮止する。〕

〔[無明]は、過去時のものである。〕

〔[無明]は、過去時においても、未来時においても、因となる。〕

〔[無明]は、[行]の福行に対して二種の縁となり、非福行に対して多種の縁となり、不動行に対して親依縁となる。

 [無明]を、善凡夫が「盡滅法であり、衰滅法である」と思惟するときは、欲界の諸福行に対して諸縁縁としての縁と
 なり、神通心(他心智)を以て有癡心を知るときは、色界の福行に対して所縁縁となる。
(所縁縁は、一切の心・心所法に対して所縁となる法〔所縁〕。)

 [無明]を超越するために布施等の欲界の福事業を完遂しつつある者と、[無明]を超越するために色界禅を生起せしめ
 つつある者との彼ら両者に、[無明]は親依縁としての縁なる。 (親依縁は強い原因として資助となる縁である。)

 また、[無明]に無知で迷うがゆえに、欲有・色有・無色有の幸福を願い求めて彼ら、〔欲界・色界〕の善福行を行ないつつある者にも、[無明]は親依縁としての縁となる。


〔[無明]は、無智・無見・癡等の性の故に一種。不行道・邪道行の故に二種。有行・無行の故に二種。苦・楽・不苦不楽の三受相応の故に三種。四聖諦の不通達の故に四種。天・人・餓鬼・畜生・地獄の五趣の過患の隠蔽の故に五種。六門・六所縁に転起するが故に六種(他の一切非色支に就いても同様にこの六種)。


〔喩えば、ここに問う者がある、
「無明の縁より行があるとは、いかにして知られるべきでしょうか」と。

 答えて曰く、
「無明がある時、行があるがゆえである。すなわち、
 無明と称せられる苦等に対する無智を、未だ捨断(離貪)していない者は、苦やその前段階等にたいする無智によりて、輪廻の苦を楽であると想い、その苦の原因となれる福・非福行などの三種の行に勤しむ。

 また、苦集に対する無智によりて、苦の原因となれる渇愛に伴う行を、楽の原因であるとして思惟しつつ、その行に勤しむ。

 また、苦滅・正道に対する無智によりて、苦の滅ではない梵天界などの勝れた生存世界を苦の滅であると想い、

 また、苦滅道(八聖道)にない祭祀・苦行等を滅の道(八聖道)であると想い、苦の滅を希求しつつ祭祀・苦行等の事柄によりて福行等の三種の行に勤しむ。

 また、彼(無智者)は四聖諦に対する無明を捨断していないために、特に生・老・病・死等の多くの過患を混ぜた福果と称せられる苦を、苦であると知らずに、その福果を得るため、身・語・心行等の福行に勤しむ。そのような行いは、あたかも天(女)を得ようと欲する者が、諸天(女)の居る絶壁の崖に飛び込むようなものである。

 その福果は楽であると考えられると言えども、その中に大熱悩を生じてしまう壊苦の性質、及び不楽味の性質があることを見ない者は、そのことに縁り、祭祀・苦行等の福行に勤しむ。そのような行いは、あたかも蛾が燈火に飛込むようなものであり、蜜の滴りを貪る者が、蜜を塗った刀の刃をなめるようなものである。

 また、その報いを受ける諸々の欲の受用に対する過患を見ない者は、楽想あることによりて、また、煩悩に打ち敗られたことによりて、身語心の三門に起こる非福行に勤しむ。そのような行いは、あたかも愚人が糞を持ち遊ぶように、死のうと欲する者が毒を服むようなものである。

 また、無色の報いある諸行に行(苦)・壊(苦)のあることを覚らない者は、常(永遠)等の転倒によりて、心行である不動行を勤しむ。あたかも方角に迷える者が、悪鬼の町に向かう道を行くようなものである。

 このように無明あることによりて行がある。無明がないことによりて行がない、ゆえに、これらの行は無明の縁より生じる、ということを知るが善い。」〕



〔仏陀曰く、
「諸比丘よ、無明に至れる無知者は、福行をも行作し、非福行をも行作し、不動行をも行作する。
 諸比丘よ、比丘に無明が断ぜられたならば、明知が生じるがゆえに、彼は無明から離れることと、明知の生じるが
 ゆえに、福行を行作することがない」と。〕


〔もし老死に襲われた愚人に、愁い等が発生すれば、いわゆる「諸比丘よ、無聞の凡夫は身苦受に触れつつ、愁い、
 疲れ、悲しみ、胸を打ちて泣き、蒙昧に陥る」と、説かれるように、その愁い等の転起のある限りは無明の転起がある。
 その故に、更にまた、無明の縁より行あり、行によりて識あり・・・、このように[有]の輪は連続する。

 このように、無明は十二縁起について正しい理解ができないように、智慧を妨げるものであり四聖諦を知る智慧の妨げとなる。〕


比丘たちよ、このように

[無明]無知・愚かさによりて、迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の善(福)・不善(非福)の思 〕[行]がある。

[行]迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の善(福)・不善(非福)の思 〕によりて、所縁を識別して知る心〔識別作用〕がある。

[識]所縁を識別して知る心〔識別作用〕によりて、精神的・物質的現象〔名称と形態〕がある。

[名色]精神的・物質的現象〔名称と形態〕によりて、六内処と六外処(と六識身)の領域[六処]がある。

[六処]六内処と六外処(と六識身)の領域〔六処〕によりて、六処による三和合の接触がある。

[接触]六処による三和合の接触によりて、対象の感受がある。

[受]対象の感受によりて、飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、喉が渇いて水を求めるような本能的な欲望・妄執〕[渇愛]がある。

[渇愛・愛]飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、本能的な欲望・妄執〕によりて、取著がある。

[取著]取著によりて、生存がある。

[有]生存によりて、出生がある。

[生]出生によりて、老死があり、

[老(病)死苦]愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩み等の苦しみが生じてくる。

 このようにして、このすべての苦しみの集まりが生起する。



しかしながら、このように、

[無明]無知・愚かさが消滅することによりて、迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の善(福)・不善(非福)の思 〕[行]が消滅する。

[行]迷える人の諸行作〔生活作用・(後有、業)の形成作用、世間の世間の善(福)・不善(非福)の思 〕が消滅することによりて、所縁を識別して知る心〔識別作用〕が消滅する。

[識]所縁を識別して知る心〔識別作用〕が消滅することによりて、精神的・物質的現象〔名称と形態〕が消滅する。

[名色]精神的・物質的現象〔名称と形態〕が消滅することによりて、六内処と六外処(と六識身)の領域[六処]が消滅する。

[六処]六内処と六外処(と六識身)の領域〔六処〕が消滅することによりて、六処による三和合の接触が消滅する。

[接触]六処による三和合の接触が消滅することによりて、対象の感受が消滅する。

[受]対象の感受が消滅することによりて、飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、喉が渇いて水を求めるような本能的な欲望・妄執〕[渇愛]が消滅する。

[渇愛・愛]飽くことなき欲望・欲求〔歓喜、本能的な欲望・妄執〕が消滅することによりて、取著が消滅する。

[取著]取著が消滅することによりて、生存が消滅する。

[有]生存が消滅することによりて、出生が消滅する。

[生]出生が消滅することによりて、老死が消滅する。

[老(病)死苦]愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩み等の苦しみが消滅する。

 このようにして、このすべての苦しみの集まりが消滅する。


 努力して思念しているバラモンに、もろもろの理法が現われるならば、かれの疑惑はすべて消滅する。

 原因(との関係をはっきりさせた縁起)の理法をはっきりと知っているのであるから。

〔欲悪・不善・無知・愚かさを、厭い離れることによりて、貪欲を無くし、貪欲をなくすことによりて、〔無明〕無知
 ・愚かさが消滅する。
 喩えば、生まれながらの盲人が、他に導かれなければ、時には正道を行き、時には邪道を行くように、輪廻を輪転し
 つつある愚者は、導かれなければ、時には福を行い、また、時には非福を行なう。

 しかし、彼が法を知り、四聖諦を現観したならば、その時、無明の寂滅のゆえに、寂静にして行ずるだろう。〕





感受の生起 〈縁りておこること〉


守護を条件として生じる、争い等の多くの悪しき不善の事柄に関して





















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