更訂 H28.12.8
行いによることについて 『賢者はこの行為を、あるがままに見る。 彼らは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。 世の中は行為によりて成り立ち、人々は行為によりて成り立つ。 生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。 進み行く車がくさびに結ばれているように。』 ヴァーセッタ わたくしこのように聞きました。 或るとき尊き師(仏陀)はイッチャーナンガラ〔村〕のイッチャーナンガラ林に住んでおられた。 そのとき、多くの著名な大富豪であるバラモンたちがイッチャーヤナ村に住んでいた。 すなわちチャンキンというバラモン、タールッカというバラモン、ポッカラサーチというバラモン、ジャーヌッソーニというバラモン、トーデーヤというバラモン及びその他の著名な大富豪であるバラモンたちであった。 そのときヴァーセッタとバーラドヴァージャという二人の青年が(久しく坐していたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばすためのそぞろ歩きをあちこちで行っていた。 彼らはたまたま次のような議論を始めた、 「きみよ。どうしたらバラモンとなれるのですか」 バーラドヴァージャ青年は次のように言った、 「きみよ、父かたについても母かたについても双方ともに生れ(素性)が良く、純潔な母体に宿り、七世の祖先に至るまで血統に関しては未だかつて爪弾きにされたことなく、かつて非難されたことがないならば、まさにこのことによりてバラモンなのである。」 ヴァーセッタ青年は次のように言った、 「きみよ。ひとが戒律をまもり徳行を身に具えているならば、まさにこのことによりてバラモンであるのである。」 ヴァーセッタ青年に次のように言った、 「きみよ、人が戒律をまもり徳行を身に具えているならば、まさにこのことによりてバラモンであるのである。」 (しかし、)バーラドヴァージャ青年はヴァーセッタ青年を説得することができず、 また、ヴァーセッタ青年もバーラドヴァージャ青年を説得することができなかった。 そこでヴァーセッタ青年は、バーラドヴァージャ青年に告げて言った、 「バーラドヴァージャよ。シャカ族の子である〈道の人〉ゴータマ(仏陀)は、シャカ族の家から出家して、ここにイッチャーナンガラ〔村〕のイッチャーナンガラ林のうちに住んでいる。 そのゴータマさまには次のように好い名声がおとずれている。 すなわち、かの尊師は、尊敬さるべき人・目ざめた人・明知と行いとを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(仏陀)・尊き師であるといわれる。 バーラドヴァージャさん。さあ行こうよ。〈道の人〉ゴータマのいるところに行こう。 そこへ行ったら、〈道の人〉ゴータマにこのことがらを尋ねよう。 そうして〈道の人〉ゴータマがわれわれに解答してくれたとおりに、われわれはそれを承認しよう。」 「そうしましょう」と、バーラドヴァージャ青年はヴァーセッタ青年に答えた。 そこでヴァーセッタ青年とバーラドヴァージャ青年とは、師のいますところに赴いた。 そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出についての挨拶のことばを交わしたのに、彼らは傍らに坐した。 そこでヴァーセッタ・バラモンは次の詩を以てよびかけた。 「われら両人は三ヴェーダ(圍陀)の学者であると、(師からも)認められ、みずからも称しています。 わたくしはポッカラサーティの弟子であり、この人はタールッカの弟子です。 三ヴェーダに説かれていることがらを、われわれは完全に知っています。 われわれはヴェーダの語句と文法とに精通し、ヴェーダの読誦については師に等しいのです。 ゴータマよ。そのわれわれが生れの如何を議論して、論争が起りました。 『生まれによりてバラモンなのである』とバーラドヴァージャは語りますが、わたくしは『行為によりてバラモンとなるのである』と言います。 眼ある方よ。こういうわけなのだと了解してください。 われら両人は互いに相手を説得することができないのです。 そこで、〈目ざめた人〉(仏陀)として広く知られているあなたさまにたずねるために、やって来ました。 人々が満月に向かって近づいて合掌し礼拝し敬うように、世人はゴータマを礼拝し敬います。 世間の眼として出現したもうたゴータマに、われらはおたずねします。 生れによりてバラモンであるのでしょうか。あるいは行為によりてバラモンなのでしょうか。 われわれには解りませんから、話してください。 われらがバラモンの何たるかを知りうるように。」 師は答えた、 「ヴェーセッタよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類)の区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。 それらの生れは、いろいろと異なっているからである。 草や木にも(種類の区別のあることを)知りなさい。 しかし彼らは(『われらは草である』)とか、『われらは木である』とか)言い張ることはない。 彼らの特徴は生れにもとづいている。彼らの生れはいろいろと異なっているからである。 次に蛆虫やこおろぎから蟻類に至るまでのものにも(種類の区別のあることを)知りなさい。 彼らの特徴は生れもとづいているのである。彼らの生れは、いろいろと異なっているからである。 小さなものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知りなさい。 彼らの特徴は生れにもとづいているのである。彼らの生れは、いろいろと異なっているからである。 腹を足としていて背の長いハウモノにも(種類の区別のあることを)知りなさい。彼らの特徴は生れにもとづいている。 彼らの生れは、いろいろと異なっているからである。 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知りなさい。彼らの特徴は生れにもとづいている。 彼らの生れは、いろいろと異なっているからである。 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知りなさい。彼らの特徴は生れにもとづいている。 彼らの生れは、いろいろと異なっているからである。 これらの生類には生れにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類にはそのように生れにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、首についても、肩についても、腹についても、背についても、尻についても、胸についても、陰所についても、交合についても、手についても、足についても、指についても、爪についても、脛についても、腿についても、容色〔単色〕についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生れにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。 身を受けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。 人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。 人間のうちで、牧牛によりて生活する人があれば、彼は農夫であって、バラモンではないと知りなさい。ヴァーセッタよ。 人間のうちで、種々の技能によりて生活する人があれば、彼は職人であって、バラモンではないと知りなさい。ヴァーセッタよ。 人間のうちで、売買によりて生活する人があれば、彼は商人であって、バラモンではないと知りなさい。ヴァーセッタよ。 人間のうちで、他人に使われて生活する者があれば、彼は傭人であって、バラモンではないと知りなさい。ヴァーセッタよ。 人間のうちで、盗みをして生活する者があれば、彼は盗賊であって、バラモンではないと知りなさい。ヴァーセッタよ。 人間のうちで、武術によりて生活する者があれば、彼は武士であって、バラモンではないと知りなさい。ヴァーセッタよ。 人間のうちで、司祭の職によりて生活する者があれば、彼は司祭者であって、バラモンではないと知りなさい。ヴァーセッタよ。 人間のうちで村や国を領有する者があれば、彼は王であって、バラモンではないと知りなさい。ヴァーセッタよ。 われは、(バラモン女の)胎から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ばない、 彼は「きみよ、といって呼びかける者」といわれる、 彼は、何らかの所有物の思いにとらわれている。 無一物であって執着のない人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、とらわれることのない人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 紐と革帯と綱とを、手綱ともども断ち切り、門をとざすカンヌキ(障礙)を滅して、目ざめた人(仏陀)、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 罪がないのに罵られ、なぐれら、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 怒ることなく、つつしみあり戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 蓮葉の上の露のように、錐のさきの芥子のように、諸々の欲情に汚されない人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれのない人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し、欲の少ない人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず、また殺させることのない人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執着する者どもの間にあって執しない人、彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによりて何人の感情をも害することのない人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えていない物を取らない人、彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りなく、歓楽の生活の尽きた人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 この障害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、疑惑なく、執著がなくて、心安らかな人、彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 〈快楽〉と〈不快〉とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健き人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 生きとし生ける者の死生をすべて知り、執著なく、幸せな人、覚った人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅し尽くした人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、すべて無一物で、何ものをも執著して取りおさえることのない人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅し尽くすに至った人、 彼をわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。 (人の生れた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによりてかりに設けられて伝えられているのである。 (姓名は、仮に付けられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。 知らない人々はわれらに告げていう、 『生まれによりてバラモンなのである』と。 生れによりて〈バラモン〉となるのではない。 生れによりて〈バラモンならざる者〉となるのでもない。 行為によりて〈バラモンならざる者〉なのである。 行為によりて農夫となるのである。 行為によりて職人となるのである。 行為によりて商人となるのである。 行為によりて王になるのである。 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。 彼らは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。 世の中は行為によりて成り立ち、人々は行為によりて成り立つ。 生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。 進み行く車がくさびに結ばれているように。 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制、これによりて〈バラモン〉となる。 これが最上のバラモンの境地である。 三つのヴェーダ(圍陀)〔明知〕を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈〔と見なされる〕のである。 ヴァーセッタよ。このとおりであると知りなさい。」 このように説かれたので、ヴァーセッタ青年とバーラドヴァージャ青年とは師に向かって言った、 「すばらしいことです、ゴータマ(仏陀)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。 譬えば、倒れた者を起すように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るように』といって暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。 いまわたくしはゴータマさまと真理と修行者のつどいとに帰依したてまつる。 ゴータマさまはわたくしたちを、在俗信者として受けいれてください。 わたくしたちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」 スッタニパータ 大いなる章
説明文 「心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈〔と見なされる〕のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知りなさい。」は、 帝釈を「識者のうちで最も能力ある人」という意味をも含めていたのであろう、という事です。[中村元氏] または、 「心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈〔と見なされる〕のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知りなさい。」は、 再び世に生れることのない人。もはや天界に生じて欲界に還らない聖者を不還(果)という。 不還の聖者は、もはや後戻りせず天界において悟りに到れるとされる。 梵天や帝釈〔と見なされる〕とは、梵天や帝釈天の如く、再び世に生まれることのない人(不還)としての意味をも含めていたのであろう、とも思われる。[對馬弘] テロの信者達が、氏をつけるからどうたらということで氏をぬき。テロのさえ信者とかニワ信者とか、他のテロの能力者者信者は、善なる道にみちびかれてはいない。 賤しい人に関して |