輪廻とは



 原始仏教では、縁によりて認識等諸々があるとされます。
 倫理的実践的な意味においてアートマンなるものを認めたとはされておりますが、要するにアートマン(霊魂、我)とされるものは、それは縁があつまって仮に私たちがアートマンと呼ぶ、認識があるとされているわけです。

「これはアートマンである」、または「これはアートマンではない」とする認識もまた、縁によりて生まれるという事です。

縁りて起こることについて)


 仏陀はアートマン(霊魂、我)とされるものの有無を説いていたわけではなく、また、そのようなものがあって輪廻し流転するという事柄を説いたのではなく、

”縁によりて生じる認識等・その他諸々があり、縁がなければ認識等・その他諸々の生起はありえない”という事柄を説いたのです。

 要するに、霊魂云々というのではなく、縁によりて物事は生起する、という事柄を説いたのです。





  輪廻の主体

王は問うた、
「尊者ナーガセーナよ、次の世に生まれかわるものは何ものなのですか」

尊者ナーガセーナは答えた、
「大王よ、実に名称・形態が次の世に生まれかわるのです」

「この、(現在の)名称・形態が次の世に生まれかわるのですか」

「大王よ、この(現在の)名称・形態が次の世に生まれかわるのではありません。
 大王よ、この(現在の)名称・形態によりて、あるいは善、あるいは悪の行為(業)をなし、その行為によりて他の(新しい)名称・形態が次の世に生まれかわるのです」

「尊者よ、もしもこの(現在の)名称・形態が次の世に生まれかわるのでないならば、人は悪業から免れることになるのではありませんか」

「もしも、次の世にまた生まれることがないならば、人は悪業から免れるでありましょう。
 大王よ、しかしながら(実際には)次の世にまた生まれるが故に、悪業から免れないのです」

「譬えをのべてください」

「大王よ、或る人が他の或る人のマンゴー樹の果実を盗んだとしましょう。
 マンゴー樹の所有者が彼をとらえて、王の前につき出して、『王様、この男が私のマンゴーの実を盗んだのです』といった場合に、
 その男が『王様、私はこの人のマンゴーの実を盗みはしません。この人の植えたマンゴーの実と、私が盗んだマンゴーの実とは別のものなのです。私は罰を受けるはずはありません』と語るならば、

 大王よ、その男は罰を受けるべきでありましょうか」

「尊者よ、そのとおりです。彼は罰を受けるべきです」

「いかなる理由によりてですか」

「尊者よ、彼が、たといそのように言おうとも、最初のマンゴーの実を現に見てはいないけれども、最後のマンゴーの実に関して、その男は罰を受けるべきです」

「大王よ、それと同様に、人はこの(現在の)名称・形態によりて、善あるいは悪の行為をなし、その行為(業)によりて他の(新しい)名称・形態が次の世にまた生まれるのです。
 それ故に彼は悪業から免れないのです」

「さらに、譬えをのべてください」

「大王よ、たとえば、或る人が他の人の稲を盗んだとする、‥‥乃至‥‥サツマイモを盗んだとする、‥‥乃至‥‥(他の物の場合もマンゴー樹の実を盗んだ場合と同様に解する)‥‥乃至‥‥を盗んだとする」

「大王よ、たとえばある人が厳寒の時期に火を焚き、暖まってから後、火を消さないで立ち去ったので、その火が他人の畑を焼いたとしよう。
 畑の所有者が彼をとらえて、王の前につき出して『王族よ、この男が私の畑を焼いたのです」と言った場合に、
 彼が『王様よ、私はこの人の畑を焼きはいたしません。私が消さなかったあの火と、この人の畑を焼いた火とは別のものです。私は罰を受けるはずはありません』と語るならば、

 大王よ、その男は罰を受けるべきでしょうか」

「尊者よ、そのとおりです。彼は罰を受けるべきです」

「いかなる理由によりてですか」

「尊者よ、彼が、たといそのように言おうとも、(火事の要因になり始めた)最初の火を現にみてはいないけれども、(畑を焼いた)最後の火に関して彼は罰を受けるべきです」

「大王よ、それと同様に、人はこの(現在の)名称・形態によりて、善あるいは悪の行為をなし、その行為(業)によりて他の(新しい)名称・形態が次の世にまた生まれるのです。
 それ故に、彼は悪業から免れないのです」

「さらに、譬えをのべてください」

「大王よ、たとえば、ある人が灯火をもって円房(の屋根)に昇って食事をした、ところが、灯火が燃えて屋根の草を燃やし、草が燃えて家を燃やし、家が燃えて村をも燃やしたとしよう。
 そこで、村の人々がその男をとらえて『きみよ、きみは何故に村を焼いたのか』と問うた場合に、
 その男が『きみよ、私は村を焼きはしない。私が食事をするためにその光を使った灯火と、村を焼いた火とは別のものです』と答えて、彼らが口論しながらあなたのところへきたならば、

 大王よ、あなたはどちらの言が正しいとされますか」

「尊者よ、村の人々の言が正しい」

「いかなる理由によりてですか」

「たとい、彼がそのように主張したとしても、(村を焼いた)その火は、(彼が食事のために用いた)かの火から生じたからです」

「大王よ、それと同様に、実に死とともに終わる(現在の)名称・形態と、次の世にまた生まれる名称・形態とは、別のものではあるけれども、後者は前者から生じたのです。
 それ故に、彼はもろもろの悪業から免れないのです」

「さらに、譬えをのべてください」

「大王よ、或る男が幼い少女に求婚し、結納金を与えて立ち去ったとしよう。
 その少女はのちに、成熟し、妙齢に達した。
 そのとき他の男が結納金を与えて結婚した場合に、
 前の男が来て「おい君、きみは何故私の妻を連れて行くのか」と問うたところが、
 後の男が、「私はあなたの妻を連れ去りはしない。あなたが求婚して結納金を与えたかの幼く若かった少女と、私が求婚して結納金を与えたこの成熟して妙齢に達した婦人とは別の人である」と答えたとする。

 彼らが争いながらあなたのもとにきたならば、大王よ、あなたは、いずれを正しいとされますか」

「尊者よ、前のほうが正しい」

「いかなる理由によりてですか」

「たとい、彼がそのように言おうとも、成熟したこの婦人は、(幼く若かった)かの少女から成長したものであるからです」

「大王よ、それと同様に、実に死とともに終わる(現在の)名称・形態と、次の世においてもまた生まれる名称・形態とは、別のものではあるけれども、後者は前者から生じたのです。
 それ故に、彼はもろもろの悪業から完全に免れないのです」

「さらに、譬えをのべてください」

「大王よ、たとえば、或る人が牧牛者の手から一壺の乳を買って、その牧牛者の手に預けて『明日それをもって行こう』といって立ち去ったとしよう。
 その乳は翌日酪に変ずるであろう。
 そこで彼がやって来て『あの一壺の乳を私に渡してくれ』といったので、かの牧牛者が酪を示した。
 ところがその人は『私はあなたの手から酪を買ったのではない。あの一壺の乳を私に渡してくれ』と言った場合に、
 かの牧牛者は『あなたは知らないが、乳が酪になったのだ』と答えたとする。

 彼らが争いながらあなたのもとにきたならば、大王よ、あなたはいずれを正しいとされますか」

「尊者よ、牧牛者のほうが正しい」

「いかなる理由によりてですか」

「たとい、彼(購買者)がそのように言おうとも、その酪はかの乳から生じたものであるからです」

「大王よ、それと同様に、実に死とともに終わる(現在の)名称・形態と、次の世においてもまた生まれる名称・形態とは、別のものではあるけれども、後者は前者から生じたのです。
 それ故に、彼れはもろもろの悪業から完全に免れないのです」

「もっともです、尊者ナーガセーナよ」





  再び輪廻を問う

王は問うた、
「しからば、尊者ナーガセーナよ、あなたは次の世に生を結びますか」

「大王よ、おやめなさい。あなたはこの問いをしてどうなさるのですか。
 私はすでに『大王よ、もしも私が(生存に対する)執着をもっているならば、次の世に生を結ぶことでしょう。またもしも執着をもっていないならば、次の世に生を結ぶことはないでしょう』と言ったではありませんか」

「譬えをのべてください」

「大王よ、たとえば、或る人が王の政務を処理するとしよう。
 王は(彼に)満足し政務をゆだねるであろう。
 彼は王の政務に(従うことに)よりて五種の欲望の対象を賦与され(それらに)満足し耽けるであろうが、もしも彼が人々に向かって『わが王はなんらの政務もとらない』と告げた場合に、

 大王よ、実にその人は正しく行なう者でありましょうか」

「尊者よ、そうではありません」

「大王よ、それと同様に、あなたはこの問いをしてどうなさるのですか。
 私はすでに『もしも私が、(生存に対する)執着をもっているならば、次の世に生を結ぶことでしょう。またもしも執着をもっていないならば、次の世に生を結ぶことはないでしょう』と言ったではありませんか」

「もっともです、尊者ナーガセーナよ」





  名称と形態(精神と身体)

王は問うた、
「尊者ナーガセーナよ、あなたは『名称・形態』と言われましたが、そのうちで『名称』とは何のことであり、また『形態』とは何のことですか」

「大王よ、そのうちで、粗大なるもの(現に感覚できるもの)が形態であり、微細なる心と心作用との事象が名称なのです」

「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によりて、名称のみが次の世に再び生まれるということもなく、また形態のみが次の世に再び生まれるということもないのですか」

「大王よ、これらの諸事象(名称と形態)は相互に依存していて、実に一つのものとしてともに生ずるからです」

「譬えをのべてください」

「大王よ、たとえば、雌鶏に卵黄がないならば、卵もまた生まれないでしょう。
 そこでは卵黄と卵とは、両者ともに相互に依存していて、それらは実に一つのものとして共に生ずるのです。

 それと同様に、大王よ、もしもそこに名称が存在しないならば、形態もまた存在し得ないでしょう。
 そこにある名称と形態とは、両者ともに相互に依存していて、それらは実に一つのものとして共に生じるのです。

 このことは、長い時間、かくのごとくにあらしめられていたのでした」

「もっともです、尊者ナーガセーナよ」

ミリンダ王の問





















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