更訂 H28.12.9



  両極端について



 極端にならないようにという教えです。

 極端に執著しないように、執著しすぎる心を戒めている教えです。



ついて学ぶ者が疲れているのに最もきびしい修練を行う人々、堅く禁戒を守る生き方、(極端に誤った)禁欲生活、最も厳重に奉仕行をなす人々、これは一つの極端である。

『愛欲の中に過失なし』というようなことを説く人々、これは第二の極端である。

 両極端は渇愛と無明という墓場の増広である。

 その墓場が、この二つの悪しき考え方を増広せしめる。』





  両極端

 このように私は聞きました。
 あるとき、世尊はラージャガハの竹林の中のカランダカ・ニヴァーバ園においてであった。

 そのとき、ラージャガハは二組みの人の集まりがあって、ある一人の遊女に恋慕し恋着していた。

 彼らは口論をなし、論戦をなし、論難をこととし、互いに手で打ち合い、土くれで打ち合い、棒で打ち合い、彼らは苦痛を受けたりしていました。

 ときに、多くの比丘が、午前のうちに、衣を着け、鉢と上衣とを手にとって、食を乞うためにラージャガハに入って来た。
 ラージャガハ市内を托鉢しおわって、食事をとったのち、托鉢から帰ってきた彼らは、世尊の方へ近づいた。
 近づいて世尊に挨拶して片隅に坐った。

片隅に坐った彼ら比丘たちは世尊に申し上げた、
「師よ、いま、ラージャガハには二組みの人の集まりがあって、ある一人の遊女に恋慕し恋着していました。
 彼らは口論をなし、論戦をなし、論難をこととし、互いに手で打ち合い、土くれで打ち合い、棒で打ち合い、彼らは苦痛を受けたりしていました。

ときに、世尊はそのことを知って、そのときこのウダーナを唱えられた、
「すでに得られたものも、やがて得らるべきものも、これらは両つながら塵にまみれている。

 ついて学ぶ者が疲れているのに最もきびしい修練を行う人々、堅く禁戒を守る生き方、(極端
に誤った)禁欲生活、最も厳重に奉仕行をなす人々、これは一つの極端である。

『愛欲の中に過失なし』というようなことを説く人々、これは第二の極端である。

 これらの両極端は渇愛と無明という墓場の増広である。
 その墓場が、この二つの悪しき考え方を増広せしめる。

 ある人々はよく知らないで、それらの両極端に執著するし、ある人々はそれらに触れずに通り過ぎる。

 それらをよく知って、そこ(極端な事柄)にとどまらなかった人々、そこ(極端な事柄)に期待をかけなかった人々に、知らしめるための輪廻はない」と。
ウダーナ 第六章





 要するに、聖者はそれらの極端な事柄よく知って、それらを知ったうえで、
(極端な事柄)にとどまらず、(極端な事柄)に期待をかけず、(極端な事柄)に執著することもないという事です。

 例えば、(極端
に誤った)禁欲生活というので説明すると、(極端に誤った)禁欲生活に対して(こうでなければならない)とする、その心の執著をも戒めているのである、と。

 諸々の欲望に対する貪りを制すること、を戒めているという事柄ではないです。

 (諸々の感官の門を護り、)諸々の欲望と、諸々の欲望に対する貪りは制するべきものです。





教えの 筏のたとえ をあわせて読むと、さらに理解が深まるでしょう。





















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