更訂 H28.12.10
祭祀を行うことについて 仏陀が祭祀について説かれているところです。 祭祀を行う者が祭祀を行うならば、このような祭祀は大いなる果報をもたらす。 『正しい道を行く大仙人たちは、その大規模な生けにえの場所におもむかない。 しかるに、労することなくして、常に順調に行われ、山羊や羊や牛が種々に殺されることのない祭祀。 正しい道を行く大仙人たちは、その祭祀におもむく』 生けにえ あるとき尊師は、サーヴッティー市のジェータ林〈孤独な人々に食を給する長者〉の園に住しておられた。 そのときコーサラ国王パセーナディは、大規模な犠牲の準備をしていた。 五百の牡牛、五百の仔牛、五百の牝の仔牛、五百の山羊、五百の羊が、生けにえとされるために、祭柱に縛りつけられていた。 また王の奴僕、召使い、下男たちもまた、刑罰に処せられるのを恐れ、恐怖におびえて、顔に涙を流して泣きながら、準備をしていた。 さて多くの修行僧たちは、朝早く衣をつけ、衣と鉢とを手に取って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。 サーヴァッティー市の中を托鉢して、食後に、鉢を置いて、尊師のましますところにおもむいた。 近づいてから尊師に挨拶して、傍らに坐した。 傍らに坐したかれら修行僧たちは、尊師に向かって次のように言った、 「尊いお方。ここでコーサラ国王パセーナディは、大規模な犠牲を準備しています。 五百の牡牛、五百の仔牛、五百の牝の仔牛、五百の羊が、生けにえにされるために、祭柱に縛りつけられています。 また王の奴僕、召使い、下男たちもまた、刑罰に処せられるのを恐れ、恐怖におびえて、顔に涙を流して泣きながら、準備をしています」と。 そこで、尊師は、このことを知って、そのとき次の詩を唱えた、 「馬の祀り、人の祀り、棒を投げる祀り、精力を飲む祀り、閂を取り去る祀り、これらの祀りは、労することを多くして、大いなる果報をもたらさない。 山羊と羊と牛とが種々に殺されるが、正しい道を行く大仙人たちは、その大規模な生けにえの場所におもむかない。 しかるに、労することなくして、常に順調に行われ、山羊や羊や牛が種々に殺されることのない祭祀。 正しい道を行く大仙人たちは、その祭祀におもむく。 聡明な人は、この祭祀を行え。 この祭祀は大いなる果報をもたらす。 実にこの祭祀を行うならば、その人には、善いことがあり、悪いことは起こらない。 その祭祀は広大なものとなる。 そうして神々もそれを喜ぶ」 サンユッタ・ニカーヤ、第三篇、一章
山羊や羊や牛等が種々に殺されることなく、 正しい道を行く大仙人たちの赴く真の祭祀について 火への祀りや沐浴をするという事柄に関して (真の祭祀について) |