更訂 H28.12.25



  自己を依りどころとすることについて



 仏陀の説く道は、自らで歩む道であるというのが理解できるところを紹介します。

 また、仏教とは、現在のニュースで出てくる新興宗教のような、個人崇拝(個人に対する狂熱的服従)ではない、
 というのも理解できると思います。


 涅槃〔完全な安らぎ〕を得るために 解脱する〔生まれ変わる迷いの生存という、苦しみから脱する〕のは、

 自分自身であるという事です。



 『アーナンダよ、誰かある比丘が、現在、もしくは私の亡きあとも、

  自己を依り所とし、自己に帰依して、他人に帰依することなく住し、また、

  真理を依り所とし、真理に帰依して、他のものに帰依することなく、住するならば、

  アーナンダよ、その者は私〔仏陀〕がいないという闇の世界を超えて学を求める者だということができるのだ』





  雨季の定住 最初の発病

こうしてアンバパーリーのマンゴー園での滞在を心ゆくまで楽しまれた世尊は、アーナンダ尊者に告げて言われた、
「さあ、アーナンダよ、われわれはこれからベールヴァ村へ行こう」

「承知しました、世尊よ」と、アーナンダ尊者は答えた。

 こうして世尊は多数の比丘の集いとともにベールヴァ村におもむかれた。ベールヴァ村に到着した世尊は村内に滞在された。

そこにおいて世尊は、比丘たちに告げて言われた、
「さあ、比丘らよ、汝らは友人・知人・知己を頼ってヴェーサーリーの各地に行くがよい。
 そしてそこで雨期を迎えるようにしなさい。
 私はこのベールヴァ村に残り、ここで雨期を迎えることにしよう」

「承知しました、世尊よ」と比丘たちは答えた。

 そしてそれぞれ友人・知人・知己を頼ってヴェーサーリーの各地に散らばり、そこで雨期を迎えた。
 しかし、世尊だけはひとりここベールヴァ村にとどまり、そこで雨期を迎えられた。
 さて、雨期に入って間もなく、世尊は重い病にかかられた。
 激しい苦痛に襲われ、死ぬほどの思いをされたが、世尊は正しく思念し、正しく意識を保って、心わずらわされることなくこの痛苦を耐え忍ばれた。

そのとき、世尊は次のように考えられたのである、
”私のそば近く仕える者たちに何も告げず、また比丘の集いに一顧も与えず涅槃に入ってしまうのは、私にふさわしい行為とはいえない。それゆえ、今は努力(精進)によってこの病を克服し、留寿行〔生命を留める行為〕を確立して住することにしよう”と。

 こうして世尊は努力によってその病を克服し、留寿行を確立して過ごされたのである。
 そうこうするうちに、世尊は病から回復された。

 こうしてさしもの病もようやく癒えると、程なく、病の床から立たれた世尊は、精舎の裏手に座を用意させ、そこに坐られた。 そこへアーナンダ尊者がやって来て世尊に挨拶し、一隅にすわった。

一隅に坐ったアーナンダ尊者は、世尊にこのように言った、
「世尊よ、世尊は今日は心安らかに見受けられます。
 世尊はもう病も癒え、あらゆることに耐えることができるように見受けられます。
 世尊のお身体はまだけだるそうにも見えますが、特に悪いところがあるようには見えません。
 世尊よ、世尊がご病気の間、私には妙な兆しはまったくありませんでした。

それで私は、一呼吸する程の時間すら、信じて疑うことはありませんでした、
”世尊は、比丘の集いについて、何か指示を与えない間は、決して涅槃に入られることはあるまい”と」


「アーナンダよ、比丘の集いはこの私に何を期待しているというのか。

 アーナンダよ、私は内外の別なく教えを説いてきた。
 アーナンダよ、如来の教えには、肝要なところは秘密にするという”師の握り拳”というものはない。

 また、アーナンダよ、もしある人が、『比丘の集いはこの私が指導していこう』とか、
 あるいはまた、『比丘の集いは私の指示を仰いでいる』と考えたならば、
 比丘の集いに対して何か指示を与えることもあるかもしれない。

 しかし、アーナンダよ、如来は、『比丘の集いはこの私が指導していこう』とか、
 あるいはまた、『比丘の集いは私の指示を仰いでいる』と考えたことはまったくない。

 したがって、アーナンダよ、如来に、比丘の集いに対して何か指示を与えるということがありえようか。

 しかし、アーナンダよ、今や私も老いた。年を取り、高齢となった。壮年期は過ぎ、晩年に達した。私ももう齢八十になった。 アーナンダよ、たとえば老朽化した車が革ひもで縛りつけてやっと動くことができるように、如来の身体も、革ひもで縛られてやっと何とか動いているようなものなのだ。

 アーナンダよ、如来が、あらゆるものの相を心に思い描かず、ある感受があったらそれを滅し、相・形のない心の平静(無相心定)をそなえて過ごすときに、アーナンダよ、如来の身体は安らかでいられるのだ。

 それゆえ、アーナンダよ、汝ら比丘も、自己を依り所とし、自己に帰依して過ごすがよい。

 他人に帰依することなかれ。また、真理を依り所として、真理に帰依して過ごすがよい。

 他のものに帰依することなかれ。

 アーナンダよ、比丘が自己を依り所とし自己に帰依して他人に帰依せずして過ごすとは、
 また、真理を依り所とし、真理に帰依して、他のものに帰依せずして過ごす、とはどういうことであるか。

 ここに、アーナンダよ、比丘が身体に対してこれをよく観察し、熱心にして正しく意識を保ち、正しく思念して、世間にあっても貪欲や愁いを超克して生きること、ないしは、身体だけでなく感受や心や諸々の存在物に対しても同じようにこれをよく観察し、熱心にして正しく意識を保ち、正しく思念して、世間にあっても貪欲や愁いを超克して生きること。

 アーナンダよ、これが比丘が自己を依り所とし自己に帰依して他人に帰依せずして過ごし、

 また、真理を依り所とし、真理に帰依して、他のものに帰依せずして過ごす、ということである。

 アーナンダよ、誰かある比丘が、
現在〔仏陀が存在していた当時〕、もしくは私の亡きあとも、

 自己を依り所とし、自己に帰依して、他人に帰依することなく住し、

 また、真理を依り所とし、真理に帰依して、他のものに帰依することなく、住するならば、

 アーナンダよ、その者は、私〔仏陀〕がいないという闇の世界を超えて、学を求める者だということができるのだ」

マハーパリニッバーナ・スッタンタ  二章





【わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。
 ただ、そなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう】


  彼岸に至る道の章より 学生ドータカの質問     〔掲示板より

ドータカさんがたずねた、
「先生!わたくしはあなたにおたずねします。
 このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのお言葉を頂きたいのです。
 あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニッヴァーナ)を学びましょう。」

師(仏陀)が答えた、
「ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。
 この(わたくしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。
 あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝します。シャカ族の方よ。
 わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」

「ドータカよ。
 わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。
 ただ、そなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」

「バラモンさま。
 慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。
 わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、
 この世において静まり、依りすがることなく行いましょう。」

師は答えた、
「ドータカよ。
 伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。
 それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り超えよ。」

「偉大な仙人さま。
 わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。
 それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り超えましょう。」

師は答えた、
「ドータカよ。
 上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──
 それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。

スッタニパータ





 比丘の集いへの指針

「アーナンダよ。私亡き後、汝らはこのように思うことがあるかもしれない、
”今は、先師のお言葉だけは残されているが、われわれの大師はもはやこの世にはおられない”と。

 しかし、アーナンダよ。汝らはそのように考えてはならない。

 私の亡き後は、私がこれまで汝らに説き示してきた法と律、これが汝らの師となるのである。

マハーパリニッバーナ・スッタンタ  六章





















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