更訂 H28.12.25



  人生(生存)とは何か、ということについて  (○原始仏教 ○仏陀の教えです。)





○礼拝

 『 私は、阿羅伽であり、正自覚者である、世尊を礼拝いたします 』



○開経偈

 『 ゴータマ仏陀の説かれた無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭うこと難し、我れ今見聞し受持することを得たり、

   願わくは、ゴータマ仏陀の説く真理の言葉を、(更に)理解することができますように 』





〔このホームページ(HP)の仏教は、主に原始仏教〔小乗仏教(清浄・正定仏教)経典の(日本でお釈迦様と言われている)ゴータマ仏陀が語られた本当の言葉・教え〕を紹介しています。

 大乗仏教経典は、仏陀が涅槃に入られた後に作られた経典であり、仏陀の言葉ではなく、後の仏教徒なりが作り、如是我聞として、仏陀が語られたものとしてしまったものが多く、その事柄が原因として、大乗仏教経典を学ぶ仏教徒の多くが本来の仏陀の教えから遠いところで迷ってしまっており、そのような大乗仏教僧侶も多い。

 また、昔、高僧とされる僧侶が経典の高低・上下・時期の選別をして、本来の仏陀の言葉にもっとも近いとされる阿含経という原始経典を低く選別してしまい、多くの人が、後に作られたその(大日如来のように金銀宝石等に身を纏われた)キラキラした如来等を信仰対象としたその高尚とされる教えの経典を、おもにこれこそが仏教の経典である、として読むようになってしまい、現在の大乗の仏教が広まっている、というのが、おおよそ現在の日本の仏教の流れだとされています。

 しかし、それでも大乗経典は仏陀の説かれた教えと全く180°異なっているということはないので、その中にも善の教えは伝えられており、その迷いや矛盾が含まれている善の教え(大乗仏教)は伝えられていきました。
 そして、その後、後世において、大乗仏教の修学者・僧侶等が、仏陀の本当の言葉〔正しい教え・正しい法〕を修学していないために、無明によるその結果として、護魔行等の密教呪術等もとり入れてしまい、だんたんと正しい仏陀の理法(仏教)から遠ざかることとなります。

 そのように、大乗仏教の僧侶は、無明によりて、禅定よりも呪術の方を重視する者もおり、そして、理法を見ることもなく、また、禅定のないことによりて、理法を見ても理解ができず、また、理法の分別もできないことによりて、その結果として、現在の大乗仏教があり、その大乗仏教に多くの迷い・矛盾・無明が生じているのです。





仏陀が覚ったこの法(真理)は、

『深遠で、見難く、難解にして、静寂であり、卓越していて、思考の領域を超える。
 微妙であり、ただ賢者のみよくそれを知ることができる。
 ところがこの世間の人々は執着のこだわり(五つの感覚器官の対象、眼に色形、耳に音声、鼻に香、舌に味、身に触)を楽しみとし、執着のこだわりを悦び、それらの執着を嬉しがっている。
 それらの執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、それらの執着を嬉しがっている人には、〈これを条件としてそれがあるという(全てのものには原因があって、結果があるという)〉縁起という道理は見難い。

 またすべての形成作用(存在)のしずまること、すべての執着を捨て去ること、渇愛(渇欲)の消滅すること、貪欲を離れること、煩悩の消滅すること、止滅、それは完全なやすらぎ(涅槃・ニッバーナ)であるというこの道理も理解しがたい』



 願わくは、多くの人も仏陀の説かれた(本当の)真理の言葉を理解できますように。〕






  自己(自分)という存在は要するに何か


 仏教では、現在の自分という存在があるのは、苦しみ(の原因)を知らない事・その無知〔無明〕によりてあり、そして、現在ここに自分が出生し生存していること(また、次の世に再び、出生・生まれて、生存すること)があります。

 無明〔無知〕とは、(自らの)苦しみと、その苦しみの原因と、その苦しみの滅することと、そして、その苦しみを滅する道〔方法〕という四の聖諦〔真理の教え〕を知らない事・気付けない事です。

 世間の人が、その真理に気づくことは究めて難しい。

 その世間の人知を超えた理法〔真理〕を覚り、あらゆる苦しみから解脱した聖者が、ゴータマ仏陀です。






  迷いの生存を受けるのは何故か


〔仏陀の教え 原始仏典より 四聖諦相應・如實知〕


  コーティ村にて 

その時、尊師(仏陀)は、若き人アーナンダに告げて言った、
「さあ、アーナンダよ。コーティ村へ行こう」と。

「かしこまりました」と、若き人アーナンダは尊師に答えた。

 そこで尊師は多くの修行僧の群れとともに、コーティ村におもむいた。

 そうしてコーティ村に尊師は住していた。

そこで尊師は修行僧たちに告げて言った、
「修行僧たちよ。私も汝じらも、四のすぐれた真理をさとらず、通達しないが故に、
 この長い時間にわたって、このように流転し、輪廻してきたのである。


 その四つとは何か。

 修行僧たちよ。

 苦しみ という尊い真理をさとらず、通達しないが故に、この長い時間にわたって、
私も汝じらも、このように流転し輪廻してきたのである。

 修行僧たちよ。
 苦しみの起る原因 という尊い真理をさとらず、通達しないが故に、この長い時間にわたって、
私も汝じらも、このように流転し輪廻してきたのである。

 修行僧たちよ。
 苦しみの止滅 という尊い真理をさとらず、通達しないが故に、
この長い時間にわたって、私も汝じらも、このように流転し輪廻してきたのである。

 修行僧たちよ。
 苦しみの止滅に導く道(方法) という尊い真理をさとらず、通達しないが故に、
この長い時間にわたって、私も汝じらも、このように流転し輪廻してきたのである。

 しかし、修行僧たちよ、いまや

 苦しみ というすぐれた真理はさとられ、通達された。

 苦しみの起るもと という尊い真理はさとられ、通達された。

 苦しみの止滅 という尊い真理はさとられ、通達された。

 苦しみの止滅に導く道 という尊い真理はさとれら、通達されたのである。

 生存に対する渇愛(妄執)は断たれ、生存にみちびく素因(妄執)は滅びてしまい、

再び迷いの生存(後有)を受けるということはないのである」と。

 尊師はこのように仰せられた。

幸いな人(善逝)はこのように仰せられて、師(仏陀)はさらにこのように仰せられた、

「四の尊い真理(四聖諦)を如実に見ないが故に、長いあいだ幾多の生涯にわたって、(迷いの生に)執らわれこだわっていたのである。

 それらの(尊い)真理はすでに見られた。生存にみちびく(妄執)はすでに根絶され、苦しみの根が断たれたならば、もはや再び迷いの生存を受けることはない」と。


ついで尊師はそのコーティ村にとどまって、多くの修行僧たちにこのように数多くの(法に関する講話)をなされた、

「戒律とはこのようなものである。精神統一(定)とはこのようなものである。智慧とはこのようなものである。

 戒律とともに修養された精神統一は、偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。

 精神統一とともに修養された智慧は、偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。

 智慧とともに修養された心は、諸々の汚れ、すなわち欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから完全に解脱するのである」と。

相應阿含、ヴァッジ、マハーパリニッバーナ、



 このように、四聖諦という法〔真理〕を知らず、覚らず、その苦しみから脱すること〔解脱〕ができなかったために、

永劫の長きにわたり、私たちは、このように流転し輪廻してきたのである。

 そのように迷いの生存(苦)から脱することができないために、現在、この世に、人として出生し、
 そして、出生したことによりて、老、病、死の苦しみがあり、また、生存における諸々の苦を受けなければならない、と説かれます。





 では、その四の真理とは何なのか。


  四聖諦について
〔諦とは、真実(真理)の意味であり、ここに説かれる苦諦、苦集諦(苦因諦)、苦滅諦、苦滅道諦が
          全て真実であり、聖者の覚とられているところであるから、四聖諦と称される。〕


  蘊

 このように私は聞いた。
 ある時、世尊は、バーラーナシー(波羅捺)のイシパタナ・ミガダーヤ(仙人住所・鹿野苑)にましました。

その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた、
「比丘たちよ、四の聖諦がある。

 その四つとは何々であろうか。

 それは、苦についての聖諦、

 苦の生起についての聖諦、

 苦の滅尽についての聖諦、

 苦の滅尽にいたる道についての聖諦である。


 比丘たちよ、では、苦についての聖諦とは何であろうか。

[苦諦]

 それは、五つの執着を起こすもと〔五取蘊〕(人間の生活・生存を構成する要素)である、ということができる。曰く、

 物質的現象(色)という執著を起こす要素 〔物質・感覚器官を備えた身体〕、
 感受(受)という執著を起こす要素 〔苦・楽・非苦非楽の三種の感覚・感受〕、
 表象(想)という執著を起こす要素 〔認識対象から、その姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用〕、
 意思(行)という執著を起こす要素 〔能動的に意志するはたらき・色受想行識を形成する行作〕、
 認識(識)という執著を起こす要素 〔認識あるいは判断のこと・識別〕、

 比丘たちよ、これを名づけて苦についての聖諦というのである。


[苦集諦]

 比丘たちよ、では、苦の生起についての聖諦とは何であろうか。

 それは、迷いの生存を引き起し、喜びと貪りとを伴い、あれへこれへと絡まりつく渇愛(喉が渇いて水を求めるような、本能的な欲求・欲望・執着・固執)である。すなわち、

 欲の渇愛(欲望に対する妄執)、
 有の渇愛(生存に対する妄執)、
 無有の渇愛(生存を否定する欲に対する妄執〔生存の滅無に対する欲の妄執〕、[生存からの離脱を非生存とする妄執])である。

 比丘たちよ、これを名づけて苦の生起についての聖諦というのである。


[苦滅諦]

 比丘たちよ、では、苦の滅尽についての聖諦とは何であろうか。それは、

 その渇愛をあますところなく離れ滅して、捨て去り、振り切り、解脱して、執着無きにいたるのである。
〔愁い・悲しみ・痛み・憂い等の小さな苦しみから大きな苦しみまで、あらゆる苦しみの消滅・全き安らぎ・涅槃である。〕

 比丘たちよ、これを名づけて苦の滅尽についての聖諦というのである。


[苦滅道諦]

 比丘たちよ、では、苦の滅尽にいたる道についての聖諦とは何であろうか。

 それは、清浄なる八支の道(八聖道)である。すなわち、

 正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、これを称して苦の滅尽にいたる道についての聖諦というのである。


 比丘たちよ、これが四の聖諦(四聖諦)である。


 このように、比丘たちよ、

 これは苦である、と修習するがよい。

 これは苦の生起である、と修習するがよい。

 これは苦の滅尽である、と修習するがよい。また、

 これは苦の滅尽にいたる道である、と修習するがよいのである。」


相應阿含




 
生まれが苦しみであるという事柄が理解しずらいかもしれませんが、
 それは(生まれた事によりてある)老いは苦しみであり、病いは苦しみであり、死は苦しみであります。
 要するに、生まれた事によりてあるこの苦しみの全ての原因は、出生にあります。
 であるので、生まれることも苦しみとなるのです。
 また、生まれたこと(人生)で、愛する人と別れる苦しみがあり、憎い人に会う苦しみがあり、欲するものを得る事ができない苦しみもあります。

 このように、人間の身を形成する五つの執着の要素(色、受、想、行、識)、及び、六入処(眼、耳、鼻、舌、身、意)から生起する生・老・病・死・苦痛・不満・不安・恐怖等は苦しみです。

 この世の全てのものは、常に同じ状態、不変という事はありえず、時の推移とともに移り変わってゆかざるをえないもの(諸行無常)であるので、
楽しい事柄も、いずれはその楽しい事柄がなくなることが苦しみであり、喜びもまた、いずれはその喜びがなくなることが苦しみです。


 楽しい事柄を感受するあなたの身体(眼、耳、鼻、舌、身、意)は、常に同じ状態でいることはありえず、老もあり、病気をもあり、無常です。

 その身体(眼、耳、鼻、舌、身、意)は無常であり、老いにより、病によりてもまた、いつかは滅するものであり、捨て去らなければならないときが来る、
 そのように、楽しみを感受するあなたの身体(眼、耳、鼻、舌、身、意)は、無常です。

 一切は無常であり、楽しい事柄・事象も、また、いつかは滅し離れなければならないときが来るのです。


 それらの楽しい事柄・事象が滅したとき、身体(眼、耳、鼻、舌、身、意)における楽しみを感受することはできない。

 喜びも楽しみも喜楽の事柄・事象も永遠に続くということはない。

 喜びも楽しみも、一切は無常である。

 そのように、楽しみに関する事象・事物もまた、無常であり、

 また、そのように、自らの身体(眼、耳、鼻、舌、身、意)における感受も、永遠に感受し続けるということはできず、

 世の一切に對しても、自らの身体(眼、耳、鼻、舌、身、意)も、いつかは滅するものであり、離れ捨て去らなければならないときが来る。

 そのように、一切は
無常である。



 それ故に、無常であるのは、苦しみです。


 愛する人も、いずれは死別しなければならないというのも、当然苦しみです。

 執着する対象のものは、それに執着すればするほど、その対象のものがなくなるときの苦しみは大きくもあります。


 大・小・粗大・微細にかかわらず、
 あなたが苦しいと思う事柄。

 その全ても苦しみです。



 そこで、その苦しみの究極の原因のひとつである出生するという苦を無くする方法はあるのだろうか。
(この場合の出生とは、神々の世界などへの出生もすべてを含みます。ちなみに、世界の主である梵天も長い劫期の末に死があるとされています。このように、神々の世界にも死という苦しみがあります。)

 その出生するという苦を無くする方法はあります。

〔法は、非生存のための法ではなく、苦を滅する法〕

 まさに、その究極的な苦しみを滅する法〔真理〕こそが、仏陀の説いた教え〔真理(八聖道)〕なのです。


 なぜ、梵天が仏陀に法を説いてくださいと懇請したかというのが、これで理解できたでしょうか。

 法〔真理〕を知らなければ、神々も輪廻の輪〔苦しみ〕から抜けることはできません。



 この法〔真理〕こそが、仏陀の教え〔真理〕であり、仏教〔真理〕である。





  如来の説法(初転法輪)

 このようにわたくしは聞いた。
 ある時、世尊は、バーラーナシー(波羅捺)のイシパタナ・ミガダーヤ(仙人住所・鹿野苑)にましました。

そのとき、世尊は五人の比丘の集いに仰せられた、
「比丘たちよ、出家者はこれらの二つの極端に近づいてはならない。

 その二つとは何であるか。

 それは、種々の欲望において欲楽に耽ることであり、それは下劣で、卑しく、凡夫の所行であり、(安らぎの)ためにならないものである。
 そして、自ら苦行をなすこと(自らを苦しめることに専念すること)であり、それは、ただ苦しいのみであって、(安らぎの)ためにならないものである。

 比丘たちよ、如来はこの両極端に近づかないで中道をさとったのである。

 それは、目を開き、智を生じ、寂静・証智・等覚・涅槃に導くものである。


 比丘たちよ、では、如来が目を開き、智を生じ、寂静・証智・等覚・涅槃に導くものである中道とは何であるか。

 実にそれは、[八つの清浄なる道(八聖道)]である。


 すなわち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、これが如来のさとり得た中道であり、目を開き、智を生じ、寂静・証智・等覚・涅槃に導くものである。


 比丘たちよ、[苦]というものはこれである。

 いわく、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。
 歎き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは苦である。怨憎するものに遇うのも苦である。
 愛するものと別離するのも苦である。求めて得られないのも苦である。


 そして、比丘たちよ、[苦の生起]とはこれである。

 それは、再生をもたらし、喜びと貪りとをともなって、あれへこれへと対象に絡まりつき愛着する渇愛(欲望)である。
 それは、すなわち、欲の渇愛と、有の渇愛と、無有の渇愛である。


 比丘たちよ、その[苦の滅尽]とはこれである。

 その渇愛をあますところなく離れ滅して、捨て去り、振り切り、解脱して、執著なきにいたるのである。


 そして、比丘たちよ、その[苦の滅尽]に導く道がこれである。

 すなわち八つの清浄なる道である。

 正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定がこれである。


 比丘たちよ、私に、<苦とはこれである>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦とはこれである>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)

 比丘たちよ、私に、<苦とはこれであると知るべきである>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦とはこれであると知るべきである>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)


 比丘たちよ、私に、<苦とはこれであると知った>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦とはこれであると知った>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)


 比丘たちよ、私に、<苦の生起とはこれである>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦の生起とはこれである>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)


 比丘たちよ、私に、<苦の生起を断ずるべきである>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦の生起を断ずるべきである>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)


 比丘たちよ、私に、<苦の生起は断ぜられた>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦の生起は断ぜられた>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)


 比丘たちよ、私に、<苦の滅とはこれである>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦の滅とはこれである>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)


 比丘たちよ、私に、<苦の滅を証するべきである>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦の滅を証するべきである>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)


 比丘たちよ、私に、<苦の滅は証せられた>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦の滅は証せられた>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)



 比丘たちよ、私に、<苦の滅にいたる道とはこれである>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦の滅にいたる道とはこれである>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)


 比丘たちよ、私に、<苦の滅にいたる道を修するべきである>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦の滅にいたる道を修するべきである>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)


 比丘たちよ、私に、<苦の滅にいたる道は修せられた>と、かつて聞いたことのない法に對しての目が開け、智が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

(汝らもまた、)<苦の滅にいたる道は修せられた>と正しく思惟しなさい。
 そのようにすれば、目が開け、智が生じ、明知が生じ、直観が生じる。)



 比丘たちよ、私はこれら四の真理(四聖諦)に對して、このように三転十二行を修さず、浄らかな如実知見に至らなかった間は、 比丘たちよ、私は、天神・悪魔・梵天・沙門・婆羅門・人天とあらゆる生物を含むこの世界において、最高の正等覚を成じえなかった。

 しかし、比丘たちよ、私はこれら四の真理(四聖諦)に對して、このように三転十二行を修して、浄らかな如実知見に至り、天神・悪魔・梵天・沙門・婆羅門・人天とあらゆる生物を含むこの世界において、最高の正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)を成じたのである。
 そして、私に明知が生じた。

 すなわち、私の心の解脱は不動である。これが私の最後の生存であり、もはや再び迷いの生存を繰り返すことはない」と。

 世尊はこのように説かれた。

 五人の比丘の集いは、歓喜し世尊の説きたまえるところを受領した。

 そして、この教えが説かれたとき尊者コーンダンニャ(憍陳如)は、清浄にして汚れ無き法眼を生じた。
 すなわち、「およそ生起する全てのものは、滅びゆくものである」と。

このように世尊が法輪を転ぜられたとき、地に居る神々は声をあげて唱えて言った、
「世尊はバーラーナシー(波羅捺)のイシパタナ・ミガダーヤ(鹿野苑)において、無上の法輪を転ぜられた。

 沙門・婆羅門・天神・悪魔・梵天あるいは、この世の何れの者であってもそれを逆転させることはできない。

 益するところ多く、安楽にするところが多い、世間を哀愍し、義を以て益し、天人を利安し、諸天衆を増益して、阿修羅衆は減損する」と。

 地神が唱えたその声は、虚空の神々・四天王天・三十三天・焔摩天・兜率天・化楽天・他化自在天にも聞こえ、展転して伝え唱え、その刹那、瞬時に、声は梵天界にまで達した。

そして、梵天界の神々も唱えて言った、
「世尊はバーラーナシー(波羅捺)のイシパタナ・ミガダーヤ(鹿野苑)において、無上の法輪を転ぜられた。

 沙門・婆羅門・天神・悪魔・梵天あるいは、この世の何れの者であってもそれを逆転させることはできない。

 益するところ多く、安楽にするところ多く、義を以て諸天世人を益し、諸天衆を増益し、阿修羅衆は減損する」と。

 そして、この三千世界は、震え、ゆらいだ。また、無量広大なる光明がこの世に現れた。
 それは神々の威光をも超えたものであった。

そのとき、世尊は歓びの言葉を仰せられた、
「コーンダンニャは理解した。コーンダンニャは理解した」と。
 そして、尊者コーンダンニャはアニャータ・コーンダンニャと呼ばれることとなった。


 世尊はバーラーナシー(波羅捺)のイシパタナ・ミガダーヤ(鹿野苑)の中において、法輪を転じたまえり。

 是の故にこの教えを転法輪の教えと名づける。


原始仏典 相應阿含 転法輪





  四聖諦について(大念処経)

     〔四聖諦は、・不違如のゆえに一種である、
           ・または通達せらるべきがゆえに一種である。
           ・世間・出世間のゆえに二種である。
           ・有為・無為のゆえに二種である。
           ・見と修と捨断とのゆえに三種である。
           ・見と修と不可捨断のゆえに三種である。
           ・遍知(・捨断・証得・修習)せらるべき等の別のゆえに四種である。〕

○【苦という清浄なる真理】(苦聖諦は、苦を明らかにし、苦を理解し、苦を遍く知ること。)

     〔苦聖諦は、・一切の苦は転起の性のゆえに一種である。
           ・名・色によりて二種である。
           ・欲・色・無色界に生起することの別のゆえに三種である。
           ・四食のゆえに四種である。
           ・五取蘊の別のゆえに五種である。〕

 比丘たちよ、苦の清浄なる真理とは何か。
 生も苦である。老も苦である。心配、悲泣、苦しみ、憂い、苦悩も苦である。嫌いな者と結ばれるのも苦である。愛する者と結ばれないのも苦である。求めて得られないのも苦である。要するに、五つの固執される集まり〔五取蘊〕は苦である。

 比丘たちよ、生とは何か。
 それぞれの有情の、それぞれの有情の仲間における生、生起、入胎、転生、(五つの)集まりの出現、(十二)処の獲得、比丘たちよ、これが生と言われる。

 比丘たちよ、老とは何か。
 それぞれの有情の、それぞれの有情の仲間における老、老衰、歯が抜けること、白髪が生えること、皮膚にシワが出ること、寿命の損減、諸器官の老朽、比丘たちよ、これらが老と言われる。

 比丘たちよ、死とは何か。
 それぞれの有情の、それぞれの有情の仲間から変異し、死没し、壊れ、消え失せ、死亡し、命終し、(五つの)集まりが壊れ、身体を放棄し、息の根が止まること、比丘たちよ、これが死と言われる。

 比丘たちよ、心配〔愁〕とは何か。
 比丘たちよ、何らかの災厄によりて、不幸を受け、何らかの苦法に触発されている人の心配、心配の状態、内にある心配、比丘たちよ、これが心配と言われる。
〔悲の弱い状態。心の熱苦、心を燃焼させる。親戚を失う等、事件等や、障害や、加害等の不幸を受けている人の心配苦等。憂愁の状態。〕

 比丘たちよ、悲泣〔悲〕とは何か。
 比丘たちよ、何らかの災厄によりて、不幸を受け、何らかの苦法に触発されている人の嘆き、嘆く状態、ひどく嘆く状態、比丘たちよ、これが悲泣と言われる。
〔愁が強くなった状態、自失の状態。泣き、功徳と過失とを述べたり等して嘆く行苦の状態。〕

 比丘たちよ、苦〔苦・痛〕とは何か。
 比丘たちよ、身の苦、身の不快、身に触れることによりて生じる苦、不快の感受、比丘たちよ、これが苦と言われる。
〔身の苦、痛み、病気患い等、智慧なき人々に憂(意の苦)を起さしむる。〕

 比丘たちよ、憂いとは何か。
 比丘たちよ、心の苦、心苦して、髪を振り乱して泣き、胸を打ち、心に触れることによりて生じる苦、不快の感受の状態、これが憂いと言われる。
〔意を悩害する。意の病気患いの状態。自害して自らの身の苦をもたらす等の苦を受ける意の病患。〕

 比丘たちよ、苦悩とは何か。
 比丘たちよ、何らかの災厄によりて、打撃を受け、何らかの苦法によりて触発された人の悩み、深い悩み、悩む状態、深く悩む状態、比丘たちよ、これが苦悩と言われる。
〔心の燃焼と身の憔悴による苦。憔悴している状態。愁のように燃焼し、しかし、悲泣のように外に出ずに、悩み続けている状態。〕

 比丘たちよ、嫌いな者と結ばれるとは何か。
 ここに彼の望まず、欲さず、喜ばない色・声・香・味・接触・法、あるいはまた、彼の利益を欲さず、繁栄を欲さず、安楽を欲さず、安穏を欲さない人々、これらと一緒に集合し、会合し、結合し、交際すること、比丘たちよ、これらが嫌いな者と結ばれる苦と言われる。

 比丘たちよ、愛する者と結ばれない苦とは何か。
 ここに彼の望み、欲し、喜ぶ色・声・香・味・接触・法、あるいはまた、彼の利益を欲し、繁栄を欲し、安楽を欲し、安穏を欲する父、母、兄弟、姉妹、友、同僚、親類、血族、これらと一緒に集合できず、会合できず、結合できず、交際できないこと、比丘たちよ、これらが愛する者と結ばれない苦と言われる。

 比丘たちよ、求めても得られない苦とは何か。
 比丘たちよ、生まれるものである有情にこのような欲求が生じる、
「ああ、私たちは生まれるものでなければよいのに、私たちは生まれることがなければよいのに」と。
 しかし、この欲求は達せられない。これもまた求めて得られない苦である。

 比丘たちよ、老いるものである有情にこのような欲求が生じる、
「ああ、私たちは老いるものでなければよいのに、私たちは老いることがなければよいのに」と。
 しかし、この欲求は達せられない。これもまた求めて得られない苦である。

 比丘たちよ、病むものである有情にこのような欲求が生じる、
「ああ、私たちは病むものでなければよいのに、私たちは病むことがなければよいのに」と。
 しかし、この欲求は達せられない。これもまた求めて得られない苦である。

 比丘たちよ、死ぬものである有情にこのような欲求が生じる、
「ああ、私たちは死ぬものでなければよいのに、私たちは死ぬことがなければよいのに」と。
 しかし、この欲求は達せられない。これもまた求めて得られない苦である。

 比丘たちよ、心配・悲泣・苦しみ・憂い・苦悩するものである有情にこのような欲求が生じる、
「ああ、私たちは心配したり、悲泣したり、苦しんだり、憂いたり、苦悩したりするものでなければよいのに、私たちは心配したり、悲泣したり、苦しんだり、憂いたり、苦悩したりすることがなければよいのに」と。
 しかし、この欲求は達せられない。これもまた求めて得られない苦である。

 比丘たちよ、要するに五つの固執〔執着〕される集まり〔五取蘊〕の苦とは何か。
 すなわち、色という固執される集まり、感受という固執される集まり、想という固執される集まり、行という固執される集まり、識という固執される集まり、比丘たちよ、これらが五つの固執される集まりと言われる。

 比丘たちよ、これが苦の清浄なる真理と言われる。



○【苦の原因という清浄なる真理】(苦集聖諦は、苦を捨断〔離貪〕するため、苦の集まりが生じる原因を分析・分別して知ること。そして、その苦の原因を厭離すること)

     〔苦集聖諦は、・転起の性のゆえに一種である。
            ・見と相応・不相応のゆえに二種である。
            ・欲愛・有愛・無有愛の別のゆえに三種である。
            ・四聖道によりて断ぜられるべきがゆえに四種である。
            ・六境〔色・受等〕を歓喜する等の別のゆえに五種である。
            ・六愛身の別のゆえに六種である。〕

 比丘たちよ、苦の原因の清浄なる真理とは何か。

 これは再生[有]を起こし、歓楽〔喜〕と愛着〔貪〕をともなう、ここかしこで歓楽〔歓喜〕する渇愛である。

 この渇愛とは何か。

 すなわち、欲望〔五種欲〕への渇愛、常見をともなう生存への渇愛、(断見をともなう)虚無への渇愛である。


 では比丘たちよ、その渇愛が生じる場合どこに生じ、留まる場合どこに留まるのか。

 世の中における愛しきもの、喜ばしきものという、この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。

 世の中における愛しきもの、喜ばしきものとは何か。

 眼は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 耳は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 鼻は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 舌は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 身は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 意は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。

 色は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 声は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 香は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 味は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 法は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。

 眼による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 耳による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 鼻による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 舌による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 身による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 意による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。

 眼の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 耳の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 鼻の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 舌の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 身の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 意の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。

 眼の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 耳の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 鼻の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 舌の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 身の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 意の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。

 色への想(表象)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 声への想(表象)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 香への想(表象)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 味への想(表象)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 触への想(表象)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 法への想(表象)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。

 色への思(意思)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 声への思(意思)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 香への思(意思)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 味への思(意思)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 触への思(意思)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 法への思(意思)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 
 色への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 声への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 香への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 味への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 触への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 法への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。

 色への尋(粗大な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 声への尋(粗大な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 香への尋(粗大な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 味への尋(粗大な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 触への尋(粗大な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 法への尋(粗大な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。

 色への伺(微細な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 声への伺(微細な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 香への伺(微細な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 味への伺(微細な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 触への伺(微細な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。
 法への伺(微細な省察)は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が生じる場合はここに生じ、留まる場合はここに留まるのである。

比丘たちよ、これが苦の原因の清浄なる真理と言われる。




○【苦の滅という清浄なる真理】(苦滅聖諦は、苦の原因が捨断〔離貪〕されれば、苦の滅尽の達成・成就がある、ということを知ること。そして、その苦の滅尽の達成・成就して知ること。)

    〔苦滅聖諦は、・無為なるがゆえに一種である。
           ・経説によりて有餘依・無餘依の別のゆえに二種である。
           ・三有の寂滅のゆえに三種である。
           ・四聖道によりて証得せられるべきがゆえに四種である。
           ・五歓喜(五種欲)の寂滅のゆえに五種である。
           ・六愛身の滅尽の別のゆえに六種である。〕

 比丘たちよ、苦の滅という清浄なる真理とは何か。
〔『これは再生[有]を起こし、歓楽〔喜〕と愛着〔貪〕をともなう、ここかしこで歓楽〔歓喜〕する渇愛の滅である。

 すなわち、欲望〔五種欲〕への渇愛の滅、常見をともなう生存への渇愛の滅、(断見をともなう)虚無への渇愛の滅である』〕

 それは、この渇愛の完全な離欲・滅尽・捨棄・捨離・解放・無執着である。


 では比丘たちよ、その渇愛が捨断される場合どこで捨断され、滅する場合はどこで滅するのか。

 世の中における愛しきもの、喜ばしきものという、この渇愛が捨断される場合ここで捨断され、滅する場合ここで滅するのである。

 眼は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 耳は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 鼻は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 舌は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 身は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 意は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。

 色は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 声は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 香は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 味は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 法は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。

 眼による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 耳による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 鼻による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 舌による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 身による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 意による認識は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。

 眼の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 耳の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 鼻の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 舌の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 身の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 意の感触は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。

 眼の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 耳の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 鼻の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 舌の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 身の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 意の感触より生じる感受は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。

 色への想は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 声への想は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 香への想は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 味への想は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 触への想は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 法への想は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。

 色への思は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 声への思は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 香への思は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 味への思は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 触への思は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 法への思は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 
 色への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 声への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 香への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 味への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 触への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 法への愛執は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。

 色への尋は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 声への尋は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 香への尋は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 味への尋は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 触への尋は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 法への尋は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。

 色への伺は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 声への伺は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 香への伺は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 味への伺は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 触への伺は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。
 法への伺は、世の中における愛しきもの、喜ばしきものである。この渇愛が捨断される場合はここで捨断され、滅する場合はここで滅するのである。

比丘たちよ、これが苦の滅の清浄なる真理と言われる。



○【苦の滅に到る八支の道という清浄な真理】(苦滅道聖諦は、苦の滅尽の成就のために実践・修行するべき方法〈苦の滅に到る八聖道〉を知ること。そして、修習・実践すること。)

    〔苦滅聖諦は、・修習せらるべきものなるがゆえに一種である。
           ・止・観の別のゆえに二種である。
           ・戒・定・慧の三蘊の別のゆえに三種である(道は三蘊によりて包摂せられる)。〕

 比丘たちよ、苦の滅に到る八支の道という清浄なる真理とは何か。

 それは清浄なる八聖道である。

 清浄なる八聖道とは何か。

 すなわち、
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。


 比丘たちよ、正見とは何か。比丘たちよ、実に

 苦に対する智慧〔苦なるものを知ること〕、
 苦の原因に対する智慧〔苦の生起を知ること〕、
 苦の滅に対する智慧〔苦を滅することを知ること〕、
 苦の滅に到る道に対する智慧〔苦の滅尽にいたる道を知ること〕、

比丘たちよ、これが正見と言われる。


 比丘たちよ、正思惟と何か。比丘たちよ、

 悟りへの思惟〔迷いの世間を離れたいと思うこと〕、
 怒りのない思惟〔悪意(瞋恚)を抱くことから免れたいと思うこと〕、
 害のない思惟〔他者を害することなからんと思うこと〕、

比丘たちよ、これが正思惟と言われる。


 比丘たちよ、正語とは何か。比丘たちよ、

 偽りのことば〔妄語〕を離れること、
 中傷する言葉〔(両舌・離間語)陰口、相互の和合を破る二枚舌〕を離れること、
 粗悪な言葉〔(粗暴語・悪口)罵って人を悩ます言葉、あらあらしい言葉〕を離れること、
 綺語を〔真実(道理)に背く巧みに飾った言葉(卑猥な冗談、悪い意味の冗談、汚れた心から発せられた言葉、不要の無駄話〈に耽ること〉〕を離れることがそれである。

比丘たちよ、これが正語と言われる。


 比丘たちよ、正業とは何か。比丘たちよ、

 生き物を殺すことから離れること、、
 与えられないものを取ることから離れること、
 邪淫から離れること、

比丘たちよ、これが正業と言われる。


 比丘たちよ、正命とは何か。比丘たちよ、

 ここに清浄なる弟子が邪悪な生活を捨て、正しい生活をして生きて行くこと、

比丘たちよ、これが正命と言われる。


 比丘たちよ、正精進とは何か。比丘たちよ、

 ここに比丘が
 未だ生じない罪悪・悪・不善の法を、生じないように意欲を起こし、努力し、精進に励み、心を策励し、決意する。
 すでに生じた罪悪・悪・不善の法を、捨断するように意欲を起こし、努力し、精進に励み、心を策励し、決意する。
 未だ生じていない善法を、生じるように意欲を起こし、努力し、精進に励み、心を策励し、決意する。
 すでに生じた善法を存続し、失わず、増大し、拡大し、修行が成就するように意欲を起こし、努力し、精進に励み、心を策励し、決意する。

比丘たちよ、これが正精進と言われる。


 比丘たちよ、正念とは何か。比丘たちよ、

 ここに比丘が
 努力し、正しく知り、正念をもって、身に関する世間の貪りや憂いを調伏し、身において身を随観し続ける。
 努力し、正しく知り、正念をもって、受に関する世間の貪りや憂いを調伏し、受において受を随観し続ける。
 努力し、正しく知り、正念をもって、心に関する世間の貪りや憂いを調伏し、心において心を随観し続ける。
 努力し、正しく知り、正念をもって、法に関する世間の貪りや憂いを調伏し、法において法を随観し続ける。

比丘たちよ、これが正念と言われる。


 比丘たちよ、正定とは何か。比丘たちよ、

 比丘が、欲望〔五種欲〕を離れ、不善の法を離れ、尋〔粗大な省察〕があり、伺〔微細な省察〕があり、障害の離より起こる喜楽の初禅に達して住する。
 尋、伺が静止して内心が清まり、定が増大し、尋の無い、伺の無い定より起こる喜楽の第二禅に達して住する。
 喜を離れて、捨があり、正念があり、正知があって住し、身によりて楽を感受する。聖者たちが「捨があり、念があって楽に住する」と説く第三禅に達して住する。
 楽を捨て、苦を離れ、喜と憂とがすでに滅したために、苦がなく、楽もなく、捨によりて念が浄まっている第四禅に達して住する。

 比丘たちよ、これが正定と言われる。

 比丘たちよ、これが苦の滅に到る道の清浄なる真理と言われる。


 このように、自己の法において法を随観して住し、あるいは、他の法において法を随観して住し、あるいは、自他の法において法を随観して住する。
 また、法において(法を)生法なりと随観して住し、あるいは、法において滅法なりと随観して住し、あるいは、法において生滅の法なりと随観して住する。
 そこで「法のみあり」との念が彼に起こる。
 それこそは智慧の(増大の)ため、念の(増大の)ためになる。

 彼は、(愛着・誤った考えに)よることなく(随観して)住し、世の何ものにも執着しない。

 比丘たちよ、比丘はこのように四の清浄なる真理の法において、法を随観して住するのである。

長部 大念処経





八正道について





















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