更訂 H28.12.26



  仏陀の説かれた教えと説かれなかった教え



『私は何について明確な判断を示したか、というと、マールンキヤの子よ、

 これは苦であるということについて明確な判断を示し、
 これは苦の原因であるということについて明確な判断を示し、
 これは苦の滅であるということについて明確な判断を示し、
 これは苦の滅に至る実践であるということについて明確な判断を示したのである』


『なぜ、私がこれらの命題について明確な判断を示さなかったか、というと、マールンキヤの子よ、

 これは目的にかなわず、清らかな修行の基礎とならず、世俗を厭いはなれること、欲情を捨てること、
 煩悩を制止することに役立たず、心の平安、すぐれた智慧、

 正しい覚とり、
 涅槃の獲得に役立たないからである。

 それゆえ、私はこれらの命題について明確な判断を示さなかったのである』



 様々な疑問を抱き、その答えを探し、その答え・結果を知ることができたとしても、

 その答え・結果(好奇心、欲求、欲念)が、厭離・離欲・止滅・平安・正覚・安らぎのために役立たないのであれば、

 誕生はあり、老いもあり、死もある。また、憂い・悲しみ・苦痛・悩み・煩悶もあるのである。





  マールンキヤの子の質問

 このように私は聞いた。
 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)にあるジェータ林のなかのアナータピンディカの園(祇樹孤独園)におられた。

 そのとき、静かな場所で独り瞑想にふけっていた尊者マールンキヤの子に、ある考えが浮かんだ、
”世尊は次の命題について、明確な判断を下さず、放置し、見解を示すことを拒絶しておられる。

 つまり、世界は常住であるか、無常であるか、

 世界は有限であるか、無限であるか、

 生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか、別であるか、

 人格完成者は死後も存在するのか、死後は存在しないのか、

 また、存在しかつ存在しないのか、また、存在するのでも存在しないでもないのか、という命題である。

 これらの命題について、世尊は私に明確な判断を下していない。
 世尊が私にこれらの命題について、明確な判断を示さないことは、私にとりて不満であり、堪えがたい。
 私は世尊のもとに参上して、この意味をたずねることにしよう。

 そして、もし、世尊が私に、世界は常住であるか、世界は無常であるか、また、世界は有限であるか、世界は無限であるか、また、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか、生命〈霊魂〉と肉体は別であるか、また、人格完成者は死後も存在するか、死後は存在しないか、存在しかつ存在しないか、存在するのでも存在しないのでもないのか、
 これらの事柄について明確な判断を示してくださるなら、私は世尊のもとで清らかな修行をおさめることにしよう。

 しかし、もし、世尊が私に、世界は常住であるか、世界は無常であるか、〔また、世界は有限であるか、世界は無限であるか、また、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか、生命〈霊魂〉と肉体は別であるか、また、人格完成者は死後も存在するのか、死後は存在しないのか、存在しかつ存在しないのか〕、存在するのでも存在しないのでもないのか、
 これらの事柄について明確な判断を示してくださらないなら、私は修学を放棄して、世俗の生活に還ることにしよう」と。

 そこで、尊者マールンキヤの子は夕方、静思の坐より起ち、世尊のもとに参上した。

世尊に近づいて礼拝すると、尊者マールンキヤの子は世尊に向って下座にすわり、こう世尊に言った、
「世尊よ、この私が静かな場所で独り瞑想にふけっていたとき、次のような考えがおこりました、
”世尊は次の命題について、明確な判断を下さず、放置し、見解を示すことを拒絶しておられる。
 つまり、世界は常住であるか、無常であるか、世界は有限であるか、無限であるか、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか、別であるか、人格完成者は死後も存在するか、死後は存在しないか、また、存在しかつ存在しないのか、また、存在するのでも存在しないのでもないのか、という命題である。
 これらの命題について、世尊は私に明確な判断を下していない。
 世尊が私にこれらの命題について、明確な判断を示さないことは、私にとりて不満であり、堪えがたい。
 私は世尊のもとに参上して、この意味をたずねることにしよう。

 そして、もし、世尊が私に、世界は常住であるか、世界は無常であるか、また、世界は有限であるか、世界は無限であるか、また、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか、生命〈霊魂〉と肉体は別であるか、また、人格完成者は死後も存在するか、死後は存在しないか、存在しかつ存在しないか、存在するのでも存在しないのでもないのか、
 明確な判断を示してくださるなら、私は世尊のもとで清らかな修行をおさめることにしよう。

 しかし、もし、世尊が私に、世界は常住であるか、世界は無常であるか、〔また、世界は有限であるか、世界は無限であるか、また、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか、生命〈霊魂〉と肉体は別であるか、また、人格完成者は死後も存在するか、死後は存在しないか、存在しかつ存在しないか、存在するのでも存在しないのでもないのか、
 これらの事柄について明確な判断を示してくださらないなら、私は修学を放棄して、世俗の生活に還ることにしよう”と、
 このような考えがおこったのです。

 もし世尊が世界は常住であるとご存知なら、世界は常住であると私に明確に示してください。
 もし世界は無常であるとご存知なら、世界は無常であると私に明確に示してください。
 また、もし世尊が世界は常住なのか、無常なのかご存知ないのなら、知らないことは知らない、わからないことはわからないと正直に答えていただきたいのです。

 もし世尊が世界は有限であるとご存知なら、世界は有限であると私に明確に示してください。
 もし世界は無限であるとご存知なら、世界は無限であると私に明確に示してください。
 また、もし世尊が世界は有限なのか、無限なのかご存知ないのなら、知らないことは知らない、わからないことはわからないと正直に答えていただきたいのです。

 もし世尊が生命〈霊魂〉と肉体は同一であるとご存知なら、生命〈霊魂〉と肉体は同一であると私に明確に示してください。
 もし生命〈霊魂〉と肉体は別であるとご存知なら、生命〈霊魂〉と肉体は別であると私に明確に示してください。
 また、もし世尊が生命〈霊魂〉と肉体は同一なのか、生命〈霊魂〉と肉体は別なのかご存知ないのなら、知らないことは知らない、わからないことはわからないと正直に答えていただきたいのです。

 もし世尊が人格完成者は死後も存在するとご存知なら、人格完成者は死後も存在すると私に明確に示してください。
 もし人格完成者は死後存在しないとご存知なら、人格完成者は死後存在しないと私に明確に示してください。
 また、もし世尊が人格完成者は死後も存在するのか、人格完成者は死後存在しないのかご存知ないのなら、知らないことは知らない、わからないことはわからないと正直に答えていただきたいのです。

「マールンキヤの子よ、私はお前に言ったことがあるだろうか、
『マールンキヤの子よ、来なさい、私のところで清らかな修行を行うがよい。
 そうすれば私はお前に、世界は常住であるか、無常であるか、〔また、世界は有限であるか、無限であるか、また、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか、生命〈霊魂〉と肉体は別であるか、また、人格完成者は死後も存在するか、死後は存在しないのか、存在しかつ存在しないのか、〕存在するのでも存在しないのでもないのか、これらの事柄について明確な判断を示すであろう』と、
 このように、私はお前に言ったことがあるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「また、お前は私に言ったことがあるだろうか、
『世尊よ、私は世尊のもとで清らかな修行を行うつもりです。
 だから世尊は私に、世界は常住であるか、無常であるか、〔また、世界は有限であるか、無限であるか、また、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか、生命〈霊魂〉と肉体は別であるか、また、人格完成者は死後も存在するか、死後は存在しないのか、存在しかつ存在しないのか、〕存在するのでも存在しないのでもないのか、これらの事柄について明確な判断を示してください』と、
 このように、お前は私に言ったことがあるだろうか」

「世尊よ、そのようなことはありません」

「それゆえに、マールンキヤの子よ、私は今、お前に、
『マールンキヤの子よ、来なさい、私のところで清らかな修行を行うがよい。そうすれば私はお前に、世界は常住であるか、無常であるか、〔また、世界は有限であるか、無限であるか、また、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか、生命〈霊魂〉と肉体は別であるか、また、人格完成者は死後も存在するか、死後は存在しないのか、存在しかつ存在しないのか、〕存在するのでも存在しないのでもないのか、これらの事柄について明確な判断を示すであろう』ということを、決して宣言することはないのである。

 また、お前は私に、
『世尊よ、私は世尊のもとで清らかな修行を行うつもりです。
 だから世尊は私に、世界は常住であるか無常であるか、〔また、世界は有限であるか無限であるか、また、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか生命〈霊魂〉と肉体は別であるか、また、人格完成者は死後も存在するか死後は存在しないのか、存在しかつ存在しないのか、〕存在するのでも存在しないのでもないのか、これらの事柄について、明確な判断を示してください』と、
 言ったことがない。

 とするならば、愚かなる者よ、誰が何を拒もうとするのだ。


 〔毒矢の喩え〕

 マールンキヤの子よ、
『世界は常住であるか、無常であるか、
〔また、世界は有限であるか無限であるか、
 また、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか生命〈霊魂〉と肉体は別であるか、
 また、人格完成者は死後も存在するか死後は存在しないのか、
 存在しかつ存在しないのか、〕
 存在するのでも存在しないのでもないのか、
 これらの事柄について、明確な判断を示してくれなければ、私は世尊のもとで清らかな修行を行うまい』と、
 このように宣言する者がいたとしよう。

 その場合に、マールンキヤの子よ、如来はこれらの事柄について、明確な判断を示されないのであるから、それらが説かれないうちに彼は死んでしまうであろう。


 それはあたかも、毒を厚く塗りつけた矢で射られた男のようである。

 彼の友人や親族は、彼のために外科医を呼びよせるだろうが、
 そのとき、彼が、『この矢を射た人は王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷であるか、それがわからないうちは、この矢を抜き取るまい』と、このように宣言したとしよう。
 また、『この矢を射た人は何という名前で、何という部族の人かわからないうちは、この矢を抜き取るまい』と、このように宣言したとしよう。
 また、『この矢を射た人は背が高いか、低いか、それとも中位か、それがわからないうちは、この矢を抜き取るまい』と、このように宣言したとしよう。
 また、『この矢を射た人は肌が黒いか黄色か金色か、それがわからないうちは、この矢を抜き取るまい』と、このように宣言したとしよう。
 また、『この矢を射た人は、どの村、どの町、どの市に住んでいるのか、それがわからないうちは、この矢を抜き取るまい』と、このように宣言したとしよう。
 また、『この矢を射た弓は普通の弓であるか、石弓であるか、それがわからないうちは、この矢を抜き取るまい』と、このように宣言したとしよう。
 また、『この矢を放った弦はアッカ草でつくった弦であるか、葦でつくった弦であるか、動物の筋でつくった弦であるか、マルヴァー麻でつくった弦であるか、乳葉樹でつくった弦であるか、それがわからないうちは、この矢を抜き取るまい』と、このように宣言したとしよう。
 また、『この矢を射た矢柄はカッチャ葦であるか、ローピマ葦であるか、それがわからないうちは、この矢を抜き取るまい』とこのように宣言したとしよう。
 また、『この矢を射た矢柄につけられた羽根は鷲の羽根であるか、あおさぎの羽根であるか、孔雀の羽根であるか、シティラハヌ鳥の羽根であるか、それがわからないうちは、この矢を抜き取るまい』と、このように宣言したとしよう。
 また、『私を射た矢柄にまきつけられた筋は、牛の筋であるか、水牛の筋であるか、鹿の筋であるか、猿の筋であるか、それがわからないうちは、この矢を抜き取るまい』と、このように宣言したとしよう。
 また、『私を射た矢は普通の矢であるか、尖った矢であるか、鉤矢であるか、鉄矢であるか、子牛の歯でつくった矢であるか、夾竹桃の葉でつくった矢であるか、それがわからないうちは、この矢を抜き取るまい』と、このように宣言したとしよう。

 そのような場合に、マールンキヤの子よ、彼にそれらのことが判明しないのであるから、やがて死んでしまうであろう。


 マールンキヤの子よ、これとまったく同様に、
『世界は常住であるか、無常であるか、〔また、世界は有限であるか、無限であるか、また、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるか、生命〈霊魂〉と肉体は別であるか、また、人格完成者は死後も存在するか、死後は存在しないのか、存在しかつ存在しないのか、〕存在するのでも存在しないのでもないのか、
 これらの事柄について明確な判断を示してくれないなら、私は世尊のもとで清らかな修行を行うまい』と、このように宣言する者がいたとしよう。

 その場合に、マールンキヤの子よ、如来はこれらの事柄について、明確な判断をしめされないのであるから、それらが説かれないうちに彼は死んでしまうであろう。


 マールンキヤの子よ、世界は常住であるという見解があれば、清らかな修行が実習されるであろう、と考えるのは正しくない。
 マールンキヤの子よ、世界は無常であるという見解があれば、清らかな修行が実修されるであろう、と考えるのも正しくない。

 マールンキヤの子よ、世界は常住であるという見解があっても、世界は無常であるという見解があっても、
 しかもなお、誕生はあり、老いもあり、死もある。また、憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・煩悶もあるのである。

 その故に、私は、この現実のただ中において、どうすればそれを打破することができるか知らしめようとしているのである。


 マールンキヤの子よ、世界は有限であるという見解があれば、清らかな修行が実修されるであろう、と考えるのは正しくない。
 マールンキヤの子よ、世界は無限であるという見解があれば、清らかな修行が実修されるであろう、と考えるのも正しくない。

 マールンキヤの子よ、世界は有限であるという見解があっても、世界は無限であるという見解があっても、
 しかもなお、誕生はあり、老いもあり、死もある。また、憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・煩悶もあるのであるのである。

 その故に、私は、この現実のただ中において、どうすればそれを打破することができるかしらしめようとしているのである。


 マールンキヤの子よ、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるという見解があれば、清らかな修行が実修されるであろうと、考えるのは正しくない。
 マールンキヤの子よ、生命〈霊魂〉と肉体は別であるという見解があれば、清らかな修行が実修されるであろう、と考えるのも正しくない。

 マールンキヤの子よ、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるという見解があっても、生命〈霊魂〉と肉体は別であるという見解があっても、しかもなお、誕生はあり、老いもあり、死もある。また、憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・煩悶もあるのである。

 その故に、私は、この現実のただ中において、どうすればそれを打破することができるか知らしめようとしているのである。


 マールンキヤの子よ、人格完成者は死後も存在するという見解があれば、清らかな修行が実修されるであろう、と考えるのも正しくない。
 マールンキヤの子よ、人格完成者は死後存在しないという見解があれば、清らかな修行が実修されるであろう、と考えるのも正しくない。

 マールンキヤの子よ、人格完成者は死後も存在するという見解があっても、人格完成者は死後存在しないという見解があっても、しかもなお、誕生はあり、老いもあり、死もある。また、憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・煩悶もあるのである。

 その故に、私は、この現実のただ中において、どうすればそれを打破することができるか知らしめようとしているのである。


 マールンキヤの子よ、人格完成者は死後も存在しかつ存在しないという見解があれば、清らかな修行が実修されるであろう、と考えるのも正しくない。
 マールンキヤの子よ、人格完成者は死後も存在するのでも存在しないのでもないという見解があれば、清らかな修行が実修されるであろう、と考えるのも正しくない。

 マールンキヤの子よ、人格完成者は死後も存在しかつ存在しないという見解があっても、人格完成者は死後も存在するのでも存在しないのでもないという見解があっても、しかもなお、誕生はあり、老いもあり、死もある。また、憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・煩悶もあるのである。

 その故に、私は、この現実のただ中において、どうすればそれを打破することができるか知らしめようとしているのである。


 それゆえに、マールンキヤの子よ、私がここで明確な判断を示さなかったことについては、

 私が説かなかったこと(無記)として了解しなさい。

 また、私が明確な判断を示したことについては、明確な判断だと了解しなさい。

 マールンキヤの子よ、私は何について明確な判断を示さなかったかというと、

 マールンキヤの子よ、世界は常住であるという見解について、私は明確な判断を示さなかった。

 マールンキヤの子よ、世界は無常であるという見解について、私は明確な判断を示さなかった。

 マールンキヤの子よ、世界は有限であるという見解について、私は明確な判断を示さなかった。

 マールンキヤの子よ、世界は無限であるという見解について、私は明確な判断を示さなかった。

 マールンキヤの子よ、生命〈霊魂〉と肉体は同一であるという見解について、私は明確な判断を示さなかった。

 マールンキヤの子よ、生命〈霊魂〉と肉体は別であるという見解について、私は明確な判断を示さなかった。

 マールンキヤの子よ、人格完成者は死後も存在するという見解について、私は明確な判断を示さなかった。

 マールンキヤの子よ、人格完成者は死後存在しないという見解について、私は明確な判断を示さなかった。

 マールンキヤの子よ、人格完成者は死後存在しかつ存在しないという見解について、私は明確な判断を示さなかった。

 マールンキヤの子よ、人格完成者は死後存在するのでも存在しないのでもないという見解について、私は明確な判断を示さなかった。


 マールンキヤの子よ、それでは、なぜ、私がこれらの命題について明確な判断を示さなかったか、

 というと、マールンキヤの子よ、

 これは目的にかなわず、清らかな修行の基礎とならず、世俗を厭いはなれること、欲情を捨てること、
 煩悩を制止することに役立たず、心の平安、すぐれた智慧、
 正しい覚とり、涅槃の獲得に役立たないからである。

 それゆえ、私はこれらの命題について明確な判断を示さなかったのである。


 マールンキヤの子よ、それでは、私は何について明確な判断を示したか、

 というと、マールンキヤの子よ、

 これは苦であるということについて明確な判断を示し、

 これは苦の原因であるということについて明確な判断を示し、

 これは苦の滅であるということについて明確な判断を示し、

 これは苦の滅に至る実践であるということについて明確な判断を示したのである。


 マールンキヤの子よ、どうして私がこのことについて明確な判断を示したか、

 というと、マールンキヤの子よ、

 これは目的にかない、清らかな修行の基礎となり、世俗を厭いはなれること、欲情を捨てること、
 煩悩を制止することに役立ち、心の平安、すぐれた智慧、
 正しい覚とり、
 涅槃の獲得に役立つからである。

 私がこれらの命題について明確な判断を示したのはこのためである。


 それゆえに、マールンキヤの子よ、

 私がここで明確な判断を示さなかったことについては、私が説かなかったこと(無記)として了解しなさい。」


 以上のように世尊はお説きになった。尊者マールンキヤの子はよろこびに充ちあふれ、世尊の教えを喜んで受け入れた。

中阿含 箭喩経





  火のたとえによる表現


 このように私は聞いた。
 あるとき、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)にあるジェータ林のなかのアナータピンディカの園(祇樹孤独園)におられた。

そのとき、ヴァッチャ族の遍歴行者は、世尊に問うて言った、

「友ゴータマよ。友ゴータマは、”世界は永遠である、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”世界は永遠である、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、”世界は永遠でない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”世界は永遠でない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、”世界は有限である、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”世界は有限である、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、”世界は無限である、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”世界は無限である、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、”生命〈霊魂〉と身体は同一である、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”生命〈霊魂〉と身体は同一である、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、”生命〈霊魂〉と身体は別である、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”生命〈霊魂〉と身体は別である、れだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、”人格完成者(如来)は死後存在する、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”人格完成者(如来)は死後存在する、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、”人格完成者(如来)は死後存在しない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”人格完成者(如来)は死後存在しない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、”人格完成者(如来)は死後存在しかつ存在しない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”人格完成者(如来)は死後存在しかつ存在しない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、”人格完成者(如来)は死後存在するのでも存在しないのでもない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”人格完成者(如来)は死後存在するのでも存在しないのでもない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」

「では、友ゴータマよ、友ゴータマは、”人格完成者(如来)は死後存在するのでも存在しないのでもない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていますか」
「いいえ、ヴァッチャよ、私は、”人格完成者(如来)は死後存在するのでも存在しないのでもない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません」


「友ゴータマよ、『友ゴータマは、”世界は永遠である、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていますか』と問うと、
『いいえ、ヴァッチャよ、私は、”世界は永遠である、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていません』と説かれる。

 また、友ゴータマよ、『友ゴータマは、”世界は永遠でない、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていますか』と問うと、
『いいえ、ヴァッチャよ、私は、”世界は永遠でない、これだけが真理である、他は虚偽である””という見解をもっていません』と説かれる。

 友ゴータマよ、『友ゴータマは、”世界は有限である、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていますか』と問うと、
『いいえ、ヴァッチャよ、私は、”世界は有限である、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていません』と説かれる。

 また、友ゴータマよ、『友ゴータマは、”世界は無限である、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていますか』と問うと、
『いいえ、ヴァッチャよ、私は、”世界は無限である、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていません』と説かれる。

 友ゴータマよ、『友ゴータマは、”生命〈霊魂〉と身体は同一である、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていますか』と問うと、
『いいえ、ヴァッチャよ、私は、”生命〈霊魂〉と身体は同一である、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていません』と説かれる。

 また、友ゴータマよ、『友ゴータマは、”生命〈霊魂〉と身体は別である、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていますか』と問うと、
『いいえ、ヴァッチャよ、私は、”生命〈霊魂〉と身体は別である、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていません』と説かれる。

 友ゴータマよ、『友ゴータマは、”人格完成者(如来)は死後存在する、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていますか』と問うと、
『いいえ、ヴァッチャよ、私は、”人格完成者(如来)は死後存在する、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていません』と説かれる。

 また、友ゴータマよ、『友ゴータマは、”人格完成者(如来)は死後存在しない、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていますか』と問うと、
『いいえ、ヴァッチャよ、私は、”人格完成者(如来)は死後存在しない、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていません』と説かれる。

 友ゴータマよ、『友ゴータマは、”人格完成者(如来)は死後存在しかつ存在しない、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていますか』と問うと、
『いいえ、ヴァッチャよ、私は、”人格完成者(如来)は死後存在しかつ存在しない、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていません』と説かれる。

 また、友ゴータマよ、『友ゴータマは、”人格完成者(如来)は死後存在するのでも存在しないのでもない、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていますか』と問うと、
『いいえ、ヴァッチャよ、私は、”人格完成者(如来)は死後存在するのでも存在しないのでもない、これだけが真理である、他は虚偽である”という見解をもっていません』と説かれる。

 友ゴータマはどのような過失を洞察して、このようにすべての見解に依らないのですか」


「ヴァッチャよ、『世界は永遠である』というのは見解の捕らわれであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、悩みをともない、苦悩をともない、世俗的なものへの嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立たない。

 ヴァッチャよ、『世界は永遠でない』というのは見解の捕らわれであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、悩みをともない、苦悩をともない、世俗的なものへの嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立たない。

 ヴァッチャよ、『世界は有限である』というのは見解の捕らわれであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、悩みをともない、苦悩をともない、世俗的なものへの嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立たない。

 ヴァッチャよ、『世界は無限である』というのは見解の捕らわれであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、悩みをともない、苦悩をともない、世俗的なものへの嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立たない。

 ヴァッチャよ、『生命〈霊魂〉と身体は同一である。』というのは見解の捕らわれであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、悩みをともない、苦悩をともない、世俗的なものへの嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立たない。

 ヴァッチャよ、『生命〈霊魂〉と身体は別である。』というのは見解の捕らわれであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、悩みをともない、苦悩をともない、世俗的なものへの嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立たない。

 ヴァッチャよ、『人格完成者(如来)は死後存在する』というのは見解の捕らわれであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、悩みをともない、苦悩をともない、世俗的なものへの嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立たない。

 ヴァッチャよ、『人格完成者(如来)は死後存在しない』というのは見解の捕らわれであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、悩みをともない、苦悩をともない、世俗的なものへの嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立たない。

 ヴァッチャよ、『人格完成者(如来)は死後存在しかつ存在しない』というのは見解の捕らわれであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、悩みをともない、苦悩をともない、世俗的なものへの嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立たない。

 ヴァッチャよ、『人格完成者(如来)は死後存在するのでも存在しないのでもない』というのは見解の捕らわれであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、悩みをともない、苦悩をともない、世俗的なものへの嫌悪、欲情から離れること、煩悩の消滅、心の静けさ、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立たない。

 ヴァッチャよ、私はこのような過失を洞察して、このようにすべての見解に依らない」


「それでは、友ゴータマは見解に捕らわれることがありますか」

「ヴァッチャよ、如来は見解に捕らわれるということを脱却している。

 ヴァッチャよ、如来は『このように物質(色)がある。このように物質の原因がある。このように物質の消滅がある。このように感受がある。このように感受の原因がある。このように感受の消滅がある。このように表象(想)がある。このように表象の原因がある。このように表象の消滅がある。このように形成力(行)がある。このように形成力の原因がある。このように形成力の消滅がある。このように意識(識)がある。このように意識の原因がある。このように意識の消滅がある』と見る。

 それゆえ如来はあらゆる妄想、あらゆる道理に反する考え、あらゆる”自我がある”という見解(我見)、”自分のものである”という見解(我所見)、自己意識(慢)、潜在的煩悩(随眠)を消滅し尽し、離欲し、滅し、捨て去ったことにより、
 執著がなくなり、解脱した、と私は説く」


「友ゴータマよ、そのように心が解脱した比丘はどこに再生しますか」

「ヴァッチャよ、再生するということは適切ではない」

「友ゴータマよ、では再生しないのですか」

「ヴァッチャよ、再生しないというのも適切ではない」

「友ゴータマよ、では再生しかつ再生しないのですか」

「ヴァッチャよ、再生しかつ再生しないというのも適切ではない」

「友ゴータマよ、では再生するのでもなく、再生しないのでもないのですか」

「ヴァッチャよ、再生するのでもなく、再生しないのでもないというのも適切ではない」

「友ゴータマよ、『そのように心が解脱した比丘はどこに再生しますか』と問うと、
あなたは『再生するということは適切ではない』と仰います。

『では友ゴータマよ、では再生しないのですか』と問うと、
『再生しないというのも適切ではない』と仰います。

『では友ゴータマよ、では再生しかつ再生しないのですか』と問うと、
『再生しかつ再生しないというのも適切ではない』と仰います。

『では友ゴータマよ、では再生するのでもなく、再生しないのでもないのですか』と問うと、
あなたは『再生するのでもなく、再生しないのでもないというのも適切ではない』と仰います。

 友、ゴータマよ、ここに至って私は分からなくなり、迷ってしまいました。
 友ゴータマの先の対話で得た信頼はいまや消えてしまいました」


「ヴァッチャよ、あなたは分からなくなるに違いない。迷うに違いない。
 ヴァッチャよ、この教えは意味が深淵で、洞察し難く、覚とり難く、寂静で優れており、思慮の領域を超え、微妙であり、賢明な人によりて知られるものである。異なった信を持ち、異なった喜びを持ち、異なった修行をし、異なった行いをするあなたには知りがたいのである

 ヴァッチャよ、ここであなたにわたくしは訊ねよう。あなたの思うとおりに答えなさい。

 ヴァッチャよ、あなたはこれをどのように考えるか。

 もしあなたの前で火が燃えておれば、あなたは『私の前でこの火が燃えている』と知るであろうか」

「友ゴータマよ、もし私の前で火が燃えておれば『私の前でこの火が燃えている』と私は知るでしょう」

「では、ヴァッチャよ、もしあなたに『あなたの前で燃えているその火は、何に縁りて燃えているか』と訊ねる。

 このように訊ねられたあなたはどのように答えるか」

「友ゴータマよ、もし私が『あなたの前で燃えているその火は、何に縁りて燃えているか』と訊ねられたら、
 友ゴータマよ、このように訊ねられたら私はこう答えるでしょう、
『私の前で燃えているこの火は草や薪を取り込むことに縁りて燃えている』と」

「では、ヴァッチャよ、もしあなたの前のその火が消えたら、あなたは『私の前のこの火は消えた』と知るであろう」

「友ゴータマよ、もし私の前のその火が消えたら、私は『私の前のこの火は消えた』と知るでしょう」

「では、ヴァッチャよ、もしあなたに『あなたの前で燃えているその火は消えた、その火はここからどの方角へ行ったのか。東か西か北か南か』と訊ねたら、このように訊ねられたら、あなたはどのように答えるか」

「友ゴータマよ、それは適切ではありません。
 友ゴータマよ、その火は草や薪を取り込むことに縁りて燃えていました。
 それが尽き、他に供給されず、燃えるものがなくなって、それは消えたのです」


「ヴァッチャよ、それと同じように、身体及び物質(色)として如来を認知する者は、如来にとりて身体及び物質は捨てられており、根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。

 ヴァッチャよ、如来は物質という呼び名から解き放たれており、大海のように深淵で、無量であり、底が知られない。
 それゆえ再生するというのは適切ではなく、再生しないというのは適切ではなく、再生しかつ再生しないというのは適切ではなく、再生するのでもなく、再生しないのでもないというのも適切ではない。

 感受(受)として如来を認知する者は、如来にとりてその感受は捨てられており、根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
 ヴァッチャよ、如来は感受という呼名から解き放たれており、大海のように深淵で、無量であり、底が知られない。
 それゆえ再生するというのは適切ではなく、再生しないというのは適切ではなく、再生しかつ再生しないというのは適切ではなく、再生するのでもなく、再生しないのでもないというのも適切ではない。

 表象(想)として如来を認知する者は、如来にとりてその表象は捨てられており、根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
 ヴァッチャよ、如来は表象という呼名から解き放たれており、大海のように深淵で、無量であり、底が知られない。
 それゆえ再生するというのは適切ではなく、再生しないというのは適切ではなく、再生しかつ再生しないというのは適切ではなく、再生するのでもなく、再生しないのでもないというのも適切ではない。

 形成力(行)として如来を認知する者は、如来にとりてその形成力は捨てられており、根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
 ヴァッチャよ、如来は形成力という呼名から解き放たれており、大海のように深淵で、無量であり、底が知られない。
それゆえ再生するというのは適切ではなく、再生しないというのは適切ではなく、再生しかつ再生しないというのは適切ではなく、再生するのでもなく、再生しないのでもないというのも適切ではない。

 意識(識)として如来を認知する者は、如来にとりてその意識は捨てられており、根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
 ヴァッチャよ、如来は意識という呼名から解き放たれており、大海のように深淵で、無量であり、底が知られない。
 それゆえ再生するというのは適切ではなく、再生しないというのは適切ではなく、再生しかつ再生しないというのは適切ではなく、再生するのでもなく、再生しないのでもないというのも適切ではない。」

このように説かれたとき、ヴァッチャ族の遍歴行者は、世尊に言った、
「尊き方よ、あたかも村または町の近くに大きなサーラ樹があり、絶えることなく枝葉が落ち、大皮も薄皮も落ち、膚材が落ちます。その樹は他日、枝葉が落ち、大皮も薄皮も落ち、膚材が落ちて、純粋に心材だけで立っています。
 それと同様に、尊き方のこの言葉は枝葉が落ち、大皮も薄皮も落ち、膚材が落ちて、純粋に心材だけで立っています。

 尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。
 尊き方よ、たとえてみれば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、迷った者に道を教えるように、眼ある者は諸々のかたちを見るであろうと言って、闇のなかに燈火を持ってくるように、このように尊き方はさまざまな方法で教えを明らかにされました。故に、私は尊師に帰依いたします。教えと比丘の僧団とに帰依いたします。
 尊師よ、私たちを終生帰依をした在家の信者として受け入れてください」と。

雑阿含 火ヴァッチャ経





  バラモンの門弟、学生ウパシーヴァの質問

ウパシーヴァさんが訊ねた、
「シャカ族の方よ。わたくしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流を渡ることはできません。
 わたくしが、たよりてこの激流をわたり得る(よりどころ)をお説きください。あまねく見る方よ。」

師(仏陀)は言われた、
「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有(処定〔禅定〕)をめざしつつ、『何ものも存在しない』と思うことによりて、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

ウパシーヴァさんが言った、
「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のもの〔禅定の境界〕を捨て、最上の(想いからの解脱)において解脱した人、──彼は退きあともどりすることなく、そこに安住するでありましょうか」

師は答えた、
「ウパシーヴァよ、あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の(想いからの解脱)において解脱した人、──彼は退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」


「あまねく見る方よ。もしも彼がそこから退き後戻りしないで多年そこにとどまるならば、彼はそこで解脱して、清涼となるのでしょうか?またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」

師が答えた、
「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」

「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

師は答えた、
「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。
 彼を、ああだ、こうだと論ずるよすがが、彼に存在しない。
 あらゆる事柄がすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまっているのである。」


スッタニパータ





 要するに、

「たとえば、実に諸々の部分が集まったならば、「車」という名称が起こるように、
 それと同じく五つの構成要素(五蘊。色、受、想、行、識)が存在するのに対して、
 生存せる者という仮りの想いが起こるのである。」


「この身体は自分の作ったものではない。この身体は他人の作ったものではない。

 この個体は原因に依って生じ、原因が滅びたならば、個体も滅びる。」


「(あらゆる苦しみ。煩悩。識別作用が)滅びてしまった者は、それを測る(理論的規定の)基準が存在しない。
 彼を、ああだ、こうだと論ずるよすがが、彼に存在しない。

 あらゆる事柄〔法。原因に縁りて生じる事象、生存〕がすっかり絶やされたとき、あらゆる議論(や対象としての言語表現)の道はすっかり絶えてしまっているのである。」



 輪廻の主体


 感受の生起 〈縁りておこること〉





















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