更訂中 H32.2.4


  三界〔欲界・色界・無色界〕の存在に関して



  三界の知識は、十念の天随念において用いられる。

 『この天随念を勤みたる比丘は、諸天に愛せられ、悦ばれ、益々信等の広大を證得し、喜悦多くして住す。また、上位に通達しない者も来世は善趣に至る』



 【欲界】は、最も下にあり、淫欲・食欲・の二つの欲を有する生きものの住む処である。

 【色界】は、欲界の上にあり、淫欲・食欲の欲を離れた清らかな世界。欲を離れ、絶妙な物質(色)より成るので、色界という。四禅を修めた者も生まれる。

 【無色界】は、最上の領域で、物質を超えた世界で、精神のみが存在する、高度な精神的世界。物質を厭い離れて、四無色定を修めた者が生まれる処である。





【欲界離善地・悪趣・悪処】

・欲界離善地という悪趣・悪処に、地獄、畜生界、餓鬼界、阿修羅衆がある。
・快楽と称せられる利得なきが故に地獄という。
・苦の趣、すなわち苦の依処なるが故に悪趣という。また、過悪あることにより、邪悪業によりて生ずる趣(苦の)依処なるが故に悪趣という。
・善から離れている地。善行は、わずかしか為すことができないが、悪行は十分なすことができる所であるから、離善地といい、
 悪事を為した者が、心ならずも、そこに堕ちるが故に堕処といい、また、滅亡する者が、四肢五体を引き離され、そこに堕ちるが故に堕処という。
・身に悪を行じ、口に悪を行じ、意に悪を念じて後、身体が壊れ命終し、そこにおいて識は滅し、悪趣・悪処(地獄・畜生界・餓鬼界・阿修羅衆)に初識が生じて、その識によりて、名色あり、名色によりて、六入がある。
・悪趣に行ける(者)を、不幸という。
・離善地(悪趣・悪処)に、聖者は得られない。

〔畜生は、覚とりを得ることができない。

 畜生等を崇拝し、生天を欲する、そのように、悪趣への生存を望むことを、邪見という。
 これら邪見の人は、必ず二処のどちらかに赴く、地獄に生じるか、または、畜生に堕するか、このどちらかとなる。〕



〚「善法を説いてはならない」という邪見者に関して〛

〔邪見ある者とは、転倒見のある者をいう。
 邪見業を取得する者とは、邪見によりて種々の悪業を取得する者、及び、他人をして邪見を原因とする身業等を取得させる者をいう。


仏陀は、このように仰せられた、
「もし人ありて、四沙門果(四聖者の果)を得る。

 そこに人ありて言うとする、『説法を為してはならない』と。

 このような言葉を用いている彼は、法を聞いて(聖者・善の)果を得るだろうか」

ローヒッチャ曰く、
「得ないのです」

「では、若し(聖者・善の)果を得ずして、生天することを得るだろうか、得ないだろうか」

ローヒッチャ曰く、
「得ないのです」

「他の説法を遮断し、果を得ずして、また、生天することを得させない、
 これは善心であるか、不善心であるか」

ローヒッチャ曰く、
「不善心です」

「不善心である者は、善趣に生じるだろうか、悪道に堕すだろうか」

ローヒッチャ曰く、
「悪道に堕すのです」と。〕


〔仏陀は、このように仰せられた、
「もし人ありて、このように言うとする、
『修行者あるいは、バラモンが、善法(真理)を知ることもあるかもしれないが、その證知する善法(真理)を、他人のために説いてはならない。何故ならば、人が他人のために何ができるものだろうか。そのような事は、あたかも古い結縛を壊して、更に他の新たな結縛を作るようなものである。そのような行いは、貪欲の悪法である、と私は説く。人が他人のために何を為し得るものか』と、このように言う者があるならば、彼は如来の教えである、法と律とに従って、預流果を證得し、一来果を證得し、不還果を證得し、阿羅迦果を證得し、勝れた地位に到達した良家の人々にとりて、また、生天の行を行じて、善処・天界に生じようとする人々にとりて障害者である。
(無知によりてとしても、善処へ赴くのを)障害する者は、利益や恩恵を持たない者であり、そのように、利益や恩恵を持たない者に、害する心が起こる。害する心の起こるのは邪見である。
ローヒッチャよ、これら邪見の人は、二処のどちらかに赴く、地獄に生じるか、または、畜生に堕するか、このどちらかの道があるのみ、と私は説く。〕



〚聖者誹謗は、重業にして無間業のように、生天の障りとなり、また、道を得るのに障りとなる、ことに関して〛

「諸君よ、これらの有情は、身悪行を具し、語悪行を具し、諸聖者を誹謗し、邪見あり、邪見業を取得する。彼らは身壊れ、死して後、苦界・悪趣・堕処・地獄に生じる。
 また、諸君よ、これらの有情は、身善業を具し、語善行を具し、意善行を具し、諸聖者を誹謗せず、正行あり、正見業を取得する。彼らは身壊れ、死して後、善趣・天界に生じる」

 諸聖者を誹謗する者とは、仏陀・辟支仏・弟子等の諸聖者、または、在家の預流(・一来・不還)を、不利に陥れようと欲し、極端なる(悪しき)事柄〔悪口・悪意〕を以て、(誹謗し譏呰し呵責する者)、または、(不利に陥れようと欲し、)彼らの徳の毀損を以て、彼らを誹謗し譏呰し呵責する者をいう。
 その中、(諸聖者、または、在家の預流等に)「これらの人々は沙門法あることなし、彼らは非沙門である」と言うのは、極端なる(悪しき)事柄〔悪口・悪意〕を以ての誹謗である。
 また、(諸聖者、または、在家の預流等に)「これらの人々に、禅も解脱も道も果もあることなし」等と言うのは、彼らの徳の毀損を以て誹謗するものと知るが善い。
 そして故意に誹謗する者も、あるいは知らずして誹謗する者も、両者とも聖者の誹謗となる。
 聖者の誹謗は重業にして無間業のように、生天の障り、道を得るのに障りとなる。

 見ある者とは、転倒見のある者をいい、邪見業を取得する者とは、邪見によりて種々の悪業を取得する者、及び、他人をして邪見を原因とする身業等を取得させる者をいう。
 語(言葉による)悪行の語によりて、聖者の誹謗(の悪行・悪業)を取り込み、意(心による)悪行の語によりて、邪見(の悪行・悪業)をも取り込んでいる、といえども、
 更に、これらの誹謗と、邪見との二を述べるのは、この二邪行が、極めて重い大罪である、ということを示すためである、と知るが善い。

 聖者の誹謗は、無間業に似た大罪である。(無間業に似た、重い悪業(大罪)ではあるが、懺悔し、または、許してもらうことにより、治すことのできるものである。)
すなわち、次のように説かれた、
「舎利弗よ、譬えば戒を具足し、定を具足し、慧を具足する比丘は、現世において一方(すなわち、阿羅漢果)に邁進するように、舎利弗よ、これと同様にその聖者誹謗の言を捨てず、その聖者誹謗の心を捨てず、その聖者誹謗の見を捨遺しなければ、獄卒により連れ来られて、地獄に投ぜられた者のように、かの比丘も必ず地獄に投じられる、と私は説く」と。

 また、邪見よりも大なる罪となるものは、他にあることなし。いわゆる
「比丘よ、この邪見のように大罪となるものを、私は他に一法をも見ず。
 諸比丘よ、邪見は最大の罪悪である」と。


〔邪見により、罵詈雑言・邪語、邪行を行い誹謗をしている人がいるので、そのような人のために記すけれども、私は仏陀の弟子として、理法を説いているけれども、その私も在家として、預流の流れにすでに入っている可能性がある。説法の内容によるけれども、預流の条件は満たしている。〕

〔聖者誹謗等の大罪の報いは、HPで、これから説こうと思っているが、例えば、聖者への布施は、

 『一輪の花を献じて、わたくしは八億年のあいだ天の諸々の世界をへめぐって、(さらにその)余福によって、安らぎに達しました。

  カンダスマナ長老』

 このように、たとえ一輪の花であっても、聖者への布施は大なる果報をもたらすように、聖者誹謗等の大罪の報いもまた、一つの小さな邪心・邪語・邪行であっても、大なる悪報をもたらす。たとえ、その邪行の大きな悪業の報いを知っていても、知らなくても、また、その人が聖者であるか、知っていても、知らなくても、聖者誹謗等の大罪の報いは、極めて大きい。

 例えば、このようなことでもあるので、私自身も、仏陀の弟子として、聖者誹謗等の悪業の大なる報いを知っていて、”私は、仏陀の弟子として”、”私は、聖者の弟子として”と語っていたのでもあるが、そのように、たとえ、悪業を作す者が、聖者の弟子を、聖者の弟子であることや、聖者の流れにいる人であると、知っていても、知らなくても、聖者の流れにある人に誹謗等をする、という最大の罪悪・邪行は、極めて大きな悪報をもたらす。〕



【地獄(苦界)】

・地獄は、快楽といわれる利得がなく、苦ばかり受ける世界をいう。八大地獄に分かれる。仏陀を見ず、仏法を聞くことができない境界。
・地獄は、天や解脱の因(縁)となる、福なるものから離れ去るが故に、また、諸楽の来ること無きが故に苦界という。
・地獄の衆生は、識を食とする。(識食というのは、認識という食。心によって身体を保持する食。)
・閻魔王(ヤマ王・エンマ王)が地獄の総司である。
・地獄の有情は、化生のみがある。(化生とは、現在の有より次の有に結生する場合、こつ然とそのの有情の姿をとる者のことをいう。)
・地獄から須弥山の頂上にある三十三天までの距離は、24万ヨージャナあり、順にそれぞれ1万5千ヨージャナずつに分かれて位置している。
・地獄に、八大(八熱)地獄があり、各々に十六の小地獄が付随している。また、金剛山の間に、十地獄等がある。
・八大(八熱)地獄は、等活(蘇生)、黒縄、圧縮(衆合)、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間(阿鼻)がある。


〈八大(八熱)地獄〉

[等活(蘇生)地獄]
・獄卒のために熱鉄上において切断されても、悪語によりて、何度も蘇生して同じ苦しみを受けるところから、等活(蘇生)地獄と称する。
・等活(蘇生)地獄の一日は、四天王天衆の寿量(人界の九百万年)とされ、等活(蘇生)地獄での五百年がこの地獄の有情の寿量である、とされる。

[黒縄地獄]
・大工が木材に黒縄を引いて、これを切り刻むように、獄卒も罪人を鉄縄で線を引いた後、切り刻むところから黒縄地獄と称する。
・黒縄地獄の一日は、三十三王天衆の寿量(人界の三千六百万年)とされ、黒縄地獄での千年がこの地獄の有情の寿量である、とされる。

[圧縮(衆合)地獄]
・圧縮地獄とは、獄卒に追われて二山の間に逃れると、前後に火災が生じ、更に両山が相い合して罪人を圧縮するところから、圧縮(衆合)地獄と称する。
・圧縮地獄の一日は、夜摩天衆の寿量(人界の一億四千四百万年)とされ、圧縮地獄での二千年がこの地獄の有情の寿量である、とされる。

[叫喚(号叫)地獄]
・多くの苦しみに迫られて、悲しみ叫び声を発するので、大叫喚地獄と称する。
・叫喚地獄の一日は、兜率天衆の寿量(人界の五億七千六百万年)とされ、叫喚地獄での四千年がこの地獄の有情の寿量である、とされる。

[大叫喚地獄]
・激しい苦しみに迫られて、大きな叫び声を発して、悲しみ叫ぶので、大叫喚地獄と称する。
・大叫喚地獄の一日は、化自在天衆の寿量(人界の二十三億一千六百万年)とされ、大叫喚地獄での八千年がこの地獄の有情の寿量である、とされる。

[焦熱地獄(炎熱地獄)]
・火が身についてまわり、炎に焼かれてその熱に耐え難い苦しみを受けるがゆえに、焦熱地獄と称する。
・焦熱地獄の一日は、他化自在天衆の寿量(人界の九十二億一千六百万年)とされ、焦熱地獄での一万六千年がこの地獄の有情の寿量である、とされる。

[大焦熱地獄(極熱地獄)]
・内外自他の身がともに猛火を出して互いに燃やし害するがゆえに、大焦熱地獄と称する。
・大焦熱地獄の有情の寿量は中劫の二分の一である、とされる。

[無間(阿鼻)地獄]
・他の七大地獄には、時には、苦しみが途切れることもあるが、この地獄は、指をはじく間ほどの短い時間すらも、苦を受けない時がなく、絶え間なく苦しみが続くところから、無間(阿鼻)地獄と称する。
・無間地獄の有情の寿量は中劫である、とされる。



〈十地獄〉

[パドゥマ地獄]
・パドゥマ地獄の有情の寿量は中劫である、とされる。


地獄に堕ちた者の出生と生存に関して



【畜生界】

・鳥・魚・虫・獣などのすべての動物をいう。

〔狐、犬、狸等や、龍、金翅鳥、その他、の畜生のたぐいとして”生まれたい・なりたい”として望めば、その生存として実際に生まれる得るので、注意。
 神社・(大乗)仏閣において、畜生の類を崇拝することも、注意。
 これら畜生等を崇拝し、生天を欲する、そのように、悪趣への生存を望むことを、邪見という。
 これらの邪見の人は、必ず二処のどちらかに赴く、地獄に生じるか、または、畜生に堕するか、このどちらかとなる。〕



【餓鬼界】

・悪臭を放ち、裸体で、色黒く痩せ衰え、血筋が現われ、唇が突き出た醜い姿をしていて、常に餓えと渇きに苦しめられている。
・吐き捨てられた汚物、唾、鼻汁、痰、流れ落ちた血などを食とする。
・森・山・川・墓地などを住所とする迷っている死霊であり、その餓鬼の仲間・社会を餓鬼界という。



【阿修羅衆】

〈堕処・悪趣の阿修羅〉
・阿修羅は、餓鬼の一種で、それよりも大きいものをいう。
・常に飢えと渇きに苦しみ、海辺や川辺に住んでいるが、喉が渇いても水を飲むことができない。水を飲もうとするとその水は消え去って熱砂と化すとされる。彼らの仲間を阿修羅衆という。



〔地獄の有情、餓鬼、阿修羅の寿命は過去の業によって決まっているので、その業が尽きない限り、悪処から出ることはできない。
しかし、譬えば、セイロンの或る優婆塞のように、生前に仏舎利に衣を供えた為、死んで地獄には堕ちたが、地獄の炎を見て衣を思い出し、すぐ地獄から出ることができたとされる話もある。〕




【欲界(善趣)地】

・欲界(善趣)地に、人間界、善趣地天衆の阿修羅、六欲天がある。
・諸天界は、五欲の楽しみが極まっている善地をいう。
・上位諸天に行くに従い、楽・善が大きいとされる。
・諸欲界地の各諸天の衆生の、それぞれの寿命は、目安として、その寿量より長い寿命の者は少なく、その寿命より少ない衆生は多い。(諸天衆の王は、寿命が長い)
・欲界善趣地は、聖者も、非聖者も得られる。

・他化自在天の身長は、十六由旬(176km<448km>、以上)という、現在の地球の人から見れば、すごく大きいけれども、おおよそその位の大きさであるということで、大きさはとりあえず、”がっつりと大きいんだな”、という認識を持てば良いだろうと思う。
 そのように、天衆の大きさ等、各天衆の様子が概観されると良いでしょう。
 
・大きさは、ナンダ龍王と、ウパナンダ龍王は、各々縦広六千由旬(おおよそ66,000km<168,000km>)、以上)なので、十六由旬よりもかなり大きいが、自らの身体を化作して、仏陀の面前にも現われている。そのようにして、化作することができる者は、小さくなることもできる。
 ナンダ龍王と、ウパナンダ龍王は、大モッガラーナ尊者が、自ら二大龍王より大きな龍に化作し、また、大金翅鳥にも化作して、二大龍王をこらしめて、その後、二大龍王は、仏陀に帰依している。

(1由旬〈ゆじゅん・ヨージャナ〉は、だいたい11~14キロ程、<南伝大蔵の説明では、1由旬は、7・8里(1里は、4km程)の28~32km程>とされるが、諸説によりて異なり、シナでは、1由旬を、30里や40里とする説もある。)

 他化自在天の身長で、十六由旬(176km<448km>、以上)は大きすぎる、と思うかもしれないが、喩えば、現在の宇宙で考えれば、VV Cephei(ケフェウス座)という惑星の直径:3,676,200,000km程・円周:11,543,268,000km程、(ちなみに、地球の円周:40,000km程、地球から月までの平均距離は、約380,000km程)で見れば、176km<448km>でも、かなり、ものすごく小さい。
 地球の、天の川銀河の直径は、約10万光年で、約100京km(1,000,000,000,000,000,000km)。



【人界】
・人間の寿命現在百年程。
・善も悪も一定しない自由な心を持っている有情が人間である。
・善行と悪行を為すことができて、善行を行なえば、成仏することもでき、悪行を行なえば、五無間業を為して地獄へも趣く。
・通常の食〔段食(摶食)〕パン、米、パスタ、みそ汁、スープ、水、ジュース、等々を食する。
・この世の最初の人々は、化生として結生する。
・愚癡・無聞の凡夫が、五趣〔天界・人界・餓鬼・畜生・地獄〕に漂流したならば、また再び人身を得ることは、盲目の亀が百年に一度、海面に浮く孔の開いた浮木から、頭を出すよりもはなはだ難しい。

( 悪しき者が人身を得ることは難しいということに関して 

 例えば、海の面積は、約3億6000万平方kmなので、(縦横50cm幅の)0.25平方mのクビキの孔とすれば、百年にたったの一度で、さらに、その時に盲目の亀がクビキの孔に頭を突き込むのは、約1440兆分の1(1/1,440,000,000,000,000)?の確立、で人身が得られるという確立。

 -世俗の話で言うと、ジャンボ宝くじ1等が当たる確率は、一年に数回あり、その度ごとに1000万分の1の確立(1/10,000,000)。
 -人間が落雷で死ぬ確率は200万分の1とされている
 -人間が生涯でガンになる確立2分の1。
 -人間が死ぬ確立100%。

 人身を捨てた後、畜生・動物に生まれたならば、畜生は他の動物に食べられないように、常に警戒をして、気の休まることも得難い生活をして日々・生涯を送っている畜生は多く、寿命も短い。自らが短命にて死にいたるという恐怖、死の恐怖という苦をも受けることだろう
 畜生・動物として生まれたならば、そのように、環境の良い土地の人間のような、警戒を必要としない生活も得難く、さらに、後の生存において、人として人身を受けることも、極めて得難い。(譬えば上記の、人身を得られるのは、百年に一度の、さらに、約1440兆分の1の確立よりも、はなはだ難しい。)

 悪業を重ね、悪処へと堕ち、悪処を輪廻する生存者が再び人身を得ることは、このようにして極めて難しい。

 仏陀の弟子・聖者の弟子にたいして為した悪業や、その他の悪業の報いとして、悪処に出生するという事柄が、どれほどに重いものであるのか理解もされるだろう。

 そのように、愚かな悪行者が、自らの悪業によりて悪処へ堕ち、悪処へ堕ちてから、その重き悪業を悔いても、もう遅いのである。と。)



『人間の寿命は、気候や食物などの種々の条件によりて、左右されるもので、過去の業がよければ気候の良い所に住み、栄養の高い食物に恵まれるため、寿命は長くなる。しかし、過去の業が悪ければ、それらに恵まれず、当然寿命も短くなるのである。
 この世の初めは、有情の性質が善かったので、善業が強く、その結果、気候や食物なども優れていたため、寿命は阿僧祇劫であった。
しかし、次第に減って、人間は本とは四万歳程で、それから寿命が減じて、現在は百歳位になっている、とされる。
 このように、人の寿命は、延びる次期もあり、縮む時期もある。減っていく劫では、阿僧祇劫(、または、四万歳程)の寿量が百年経過するごとに一歳ずつ減ってついに十歳程まで減り、増える劫では、十歳の寿命が世代ごとに倍加して、元の阿僧祇劫(、または、四万歳程)まで至るのである。』


(他の聖書・聖典でも記されているように、昔の人間の寿命は長かった時もある、とされるが、人間が無知で愚か・貪欲になっていくにしたがって、寿命は減っていった。
しかし、明知によりて、智慧を備え、賢明に、貪欲をなくするにしたがって、人間の寿命は延びるとされる。

 このことによりても、仏陀の(真理・善の)教えを、世に弘く伝えるのは、世の幸福のため、人の幸福のため、天の幸福のためともなり、また、後の世のため、後の人のため、後の天のためともなる。

(現在の問題の地球の人口に関しては、例えば、出産の時期を、遅くしたりして、出産の年齢を高く設定したり等で、ある程度、人数を抑制する等の、悪法によらない方法によりて解決をする、という、これは私の考えであるが、
 争い等により、解決しようとするのは、智慧がなく、賢明ではないので、世界の人々の秩序が、無知から明知へと転ずる障害となるだろう。)



【善趣地天衆の阿修羅(アスラ)】

・寿命千年、または、寿命は定まらないとされる。
・阿修羅(阿須倫)の身長は、一由旬(だいたい11Km<28km>、以上)。衣の長さは、二由旬。広さは、一由旬。衣の重さは、六銖(3.6g程)。(1両の重さは、14g程。1銖の重さは、両の24分の1、0.6g程)
・浄摶食を食し、段食とする。
・阿修羅の交合・陰陽(性的な交わり)は、身と身と相い近づき、気を以て交合(陰陽)をする。
 衣食住が十分でなく、あちこちに頼るところを求めてさ迷う天人が、この阿修羅である。地上にある山・森・樹・家などの守護神すべてを地神といい、堕処の阿修羅は、これらの守護神である地神を頼って生活する。二神とも四大王天の属する天衆である。
・非天、闘争を好む者であり、悪霊でもあるが、果報が天に次ぐとされる。インドラ神(帝釈天)とも闘うが、敗れて現在は海に住むとされる。日天や月天とも争い、更に、他の神々とも闘う。
・須弥山の北の大海水の底に、羅呵阿修羅王の城があり、その城は七重にして、縦広八万由旬、高さ三千由旬、広さ二千由旬、城門の高さ千由旬、広さ千由旬。金城に銀門、銀城に金門がある。
 阿修羅王の所治の小城は、大城の中にありて、リンユマバツタと名づく。縦広六万由旬、高さ三千由旬、広さ二千由旬、城門の高さ二千由旬、広さ千由旬。
 その城内に、別に議堂が立ち、シチシリシャと名づく。その柱梁は純ら七宝を用いている。堂中の柱の周りは千由旬、高さは一万由旬。この柱の下に正法座があり、縦広七百由旬である。彫刻された模様で飾られ、七宝でできている。他
 その堂の北に、阿修羅の宮殿があり、縦広万由旬である。
 議堂の東に四方に園林があり、東に沙羅、縦広万由旬。南に極妙、縦広万由旬。西にせん摩、縦広万由旬。北に楽林、縦広万由旬の、各々沙羅園林のような、園林がある。
 沙羅と、極妙の二園の中間に、昼度樹(忉利天の園の樹と同名)が生えている。下囲は七由旬。高さ百由旬、枝葉の四布すること五十由旬である。
 せん摩と、楽林の二園の中間に、バツナンダ池がある。その水は、清涼にしてに汚れることがない。

・ヴェパチッティ阿修羅王と、パハーラーダ阿修羅王と、サンバラ阿修羅王がいる。

・羅呵阿修羅王に五大阿須倫があり、常に左右に侍衛する、
 一 テイジ、二 ユウリキ、三 ブイ、四 ヅシュ、五 サイブク、と名づく。

羅呵阿修羅王の宮殿は、大海水の下に在り、海水は上にある。四風の持するところである。一住風、二持風、三不動、四堅固と名づく。
大海水を持して、浮雲のように虚空にある。阿修羅王の福徳、功徳、威神はこのようになっている。




【〔欲界(善趣)地〕六欲天】

・四大王天、三十三天(忉利天)、夜摩天、兜率天、楽変化天(化自在天)、他化自在天がある。
・身に善を行じ、口に善を行じ、意に善を念じて後、身体が壊れ命終し、そこにおいて識は滅し、善趣・善処(六欲天)に初識が生じて、その識によりて、名色あり、名色によりて、六入がある。
・欲界諸天の王は、念によりて知る。例えば、帝釈天が念ずれば、諸天王は『帝釈天は、我を念じている』と念言して、諸天は集う。阿修羅王と諸阿修羅王も同様とされる。
・欲界諸天地の衆生は、浄摶食を食し、段食とする。
・欲界地では、天も、阿修羅も、金翅鳥も、龍も、婚姻有りて、男はめとり、女は嫁ぐあり。
・欲界地では、人間でいう、男女の性的な交わり(交会)は、諸天でも、上位各諸天によりて異なる、男女の交わり(交合・陰陽)がある。
・六欲天は浄段食を食し、以て段食〔通常の食〕と為し、洗浴、衣服は触食〔喜楽を以て飢えを感じず身を長養するもの〕と為す。
・憤意の天人は、怒りが頂点に達すると、寿命が残っていても死んでしまう。また、悪戯の天人も、五欲に耽りすぎて、食事の時間を忘れると、たとえ後から食べても、間に合わずに死んでしまうとされる。
・卵性の衆生は触食である。  〔食に四食あり、段食、触触、念触、識触〕
・念食によりて、諸根増長し、寿命が絶えない衆生の食は、念食〔意志の所欲を以て諸根をたすけるもの〕である。
・夜摩天より上位の欲界天は、場所が須弥山よりも、更に上に位置していて、空中の空居天であるとされる。
 空居天にたいして、四大天王と三十三天を、地居天といい、地居天・空居天の内の各諸天の占める層の距離は、四万二千由旬(だいたい462,000Km<1,176,000km>、以上)とされる。




・海龍の王の、娑竭羅(サーガラ)龍王は、縦広八万由旬(おおよそ880,000km<2,240,000km程>以上)といわれる。(数字だけでいえば、地球22周分<56周分>、木星で2周分<5周分>、以上)
・ナンダ龍王と、ウパナンダ龍王(の兄弟龍)は、大きさ(各々、縦広六千由旬:おおよそ66,000km<168,000km程>以上)といわれる。(数字だけでいえば、地球1周半分<4.2周分>、以上)
 また、伊那婆羅(エラーパッタ)龍王、ダイズラタ(ダタラッタ)龍王、善見(スダッサナ)龍王、アル龍王、カクラ龍王、カビラ龍王、アハラ龍王、ガヌ龍王、クガヌ龍王、アノクダツ(アノタッタ)龍王、善住(スッパチティタ)龍王、ウセンガハズ龍王、トクシャカ(タッカカ)龍王、の諸々の大龍王がいる。これら龍王は、大金翅鳥にも食べられることはない。
・龍・龍王は、欲界(善趣)地にいるけれども、種別でいえば、畜生種。
・龍、金翅鳥の寿命は1劫である。〔寿命は、その寿量より長い寿命の者は少なく、その寿命より少ない衆生は多い。(他の境界地衆生の寿命も同様)〕

他、摩睺羅迦(マホーラガ)、非人、大腹行、蛇神。大蛇。下級の鬼神で、人身にして蛇の首とされる。(大腹龍王という龍王もいる)

他、寒雲天、熱雲天、風雲天、雨雲天、(晴天、焔電天、雷震天)などの雲天もある。


〔天の時間に関しては、例えば、その場処により、聖者・天神等は、物事を為すときに、人界と三十三天の時間のどちらを用いるか、と選択することもできる。〕

〔乾闥婆や、雲天等も、人間が”その生存に生まれたい・なりたい”として望めば、その生存として実際に生まれる得るので、注意。
 偶像崇拝としても注意。〕

〔仏教で用いる数字の、八万や、八万四千という数字は、諸説あるが、仏教では、清浄でも大乗でも、主に、単なる形容語として、”極めて大きな数字”として用いられており、辞書でも、”この数字は単なる形容にすぎない”と、このよう記しているものがある。

 これは、私が解釈するに、”八万”、”八万四千”というのは、実際の数字として用いることもあり、また、そのように”極めて大きな数字”として、形容語として用いることもあるが、
 地居天(この地上から須弥山・忉利天間の地上に属する諸事象・諸々の事柄)の八万四千由旬を、八万四千として表現をしていることもあるのだろうと思う。
 すなわち、欲界の地居天のように、未だ地上を離れることができていない忉利天衆や、四大王天衆や、更に、須弥山の周囲四大州のあらゆる衆生、また、それら地に属する諸事象・諸々の事柄を表わす表現として。
 また、まとめてそのように欲界地そのものを表現してもいることもあるのだろう、と思う。
 「句の中、日月は、四万二千由旬の上方を運行し、三州をも、刹那に光被する」〕




【四大王天】

・四天王と彼らに支配されている天衆が住んでいる処をいう。
・寿命五百年で、人界の九百万年に相当し、この天の一日は、人界の五十年に相当するとされる。
・四天王の身長は、半由旬(だいたい6km<14km>、以上)。衣の長さは、一由旬。広さは半由旬。衣の重さは、半両(7g程)。(1両の重さは、14g程)
・四大王天の交合は、身と身と相い近づき、気を以て交合(陰陽)をする。
・この天に初めて生じる衆生の容姿は、人間の一、二歳児のような容姿をしている。
・四天王は、四王天の主・帝釈天に仕えて、仏陀の教えの守護を念願とし、仏法に帰依する人々を守護する守護神。
・場所は、須弥山の中程から、ふもとまでであるとされる。
・北方のヴァッサバナ天王(多聞天)は、過去のヴィパッシ仏陀からゴータマ仏陀の、過去七仏陀に帰依をしている。
・東方のダタラッタ天王、南方のビルーラカ天王、西方のビルーパッカ天王も、ゴータマ仏陀に帰依をしている。

〔東方:持国天:ダタラッタ〕
 持国天の所領とされる、迦楼羅(かるら・ガンダッバ)金翅鳥(ガルダ鳥)のことで、金翅鳥は、龍を食う。日本では天狗の原型と言われるが、
 持国天の所領は、乾闥婆(けんだっば・ガンダルヴァ・ガンダッバ)・天上の音楽士である、とする説が多く見られる。

・金翅鳥は、化生・湿生・胎生・卵生の四種の出生があり、
 化生の金翅鳥は、化生・湿生・胎生・卵生の龍を食う。湿生金翅鳥は、湿生・胎生・卵生の龍を食う。胎生金翅鳥は、胎生・卵生の龍を食う。卵生金翅鳥は、卵生の龍を食う。
・金翅鳥の交合は、身と身と相い触れて、交合をする。

・須弥山王の東、千由旬に、ダタラッタ天王の賢上という城があり、その城は七重にして、縦広六千由旬であり、七宝を以て成る。


〔南方:増長天:ビルーラカ〕
 増長天の所領とされる、鳩槃荼・甕形夜叉(くはんだ・クンバンダ)、鬼神、瓶のごとき睾丸を持つとされる。人の精気を食らうと言われる。ヒンズー神話では、ルドラ神の配下とされる。

・須弥山王の南、千由旬に、ビルーラカ天王の善見という城があり、その城は七重にして、縦広六千由旬であり、七宝を以て成る。


〔西方:広目天:ビルーパッカ〕
 広目天の所領とされる、龍(ナーガ)、龍王、龍神。
・龍は、化生・湿生・胎生・卵生の四種の出生があり、化生が最も勝れていて、順に勝れた生まれとなる。
・龍の交合は、身と身と相い触れて、交合をする。

・須弥山王の西、千由旬に、ビルーパッカ天王の周羅善見という城があり、その城は七重にして、縦広六千由旬であり、七宝を以て成る。


〔北方:多聞天(毘沙門天):ヴェッサバナ(クヴェーラ)〕
 多聞天の所領とされる、夜叉、神霊、緊那羅(キンナラ)人非人・半人半獣。夜叉(ヤシャ・ヤクシャ)に、善神と悪神がいる。勇健、または、暴悪で、空中飛行もする者がいる鬼神。

・ヴァッサバナ天王(多聞天)は、過去のヴィパッシ仏陀からゴータマ仏陀の過去七仏陀に帰依をしている。
・須弥山王の北、千由旬に、ヴェッサバナ天王の城が三つあり、その各々の城は、七重にして、縦広六千由旬であり、七宝を以て成る。
 その内の衆帰城の北に園林があり、カピバンタと名づく。縦広四千由旬である。
 園と城の中間に池があり、ナリンニと名づく。縦広四十由旬である。その水は清涼にして、汚れることがない。
 池の中に蓮華が生えていて、青、黄、赤、白、雑色にして、光りは照らすこと半由旬である。
 その香りは、芬薫として、半由旬に聞こゆ。またその花と根は、車轂のように大きく、その汁は流出し、色は乳のように白く、味は蜜のように甘い。

 日月の宮殿を除き、諸々の四天王の宮殿は、縦広四十由旬である。
 他の諸々の宮殿は、四十由旬、二十由旬、小さいもので縦広五由旬である。

 衆帰城より、宝階道ありて賢上城に至る。また階道ありて善見城に至る。また、階道ありて周羅善見城に至る。その他の城・園・林へも階道にて至れる。
ヴェッサバナ天王がカピヴァナ園に詣りて遊観しようと欲する時は、四大天王を念ず。
四大天王はそれぞれ、ヴェッサバナ天王が自らを念ずるのを知りて、それぞれの所領の種生に囲まれて、ヴェッサバナの元に集う。

 ヴェッサバナ天王は、自ら荘厳し、宝飾衣をつけ、宝車に乗り、無数百千の天神とカピバンダ園に詣る。自然に風ありて花を吹き、自ら開く。自然に風ありて、地を吹き、浄らかならしむ。
自然に風ありて花を吹き、地を散らし、花は膝に至る。時に王は園にありて共に相い娯楽すること一日、二日、乃至七日。遊観しおわりて本宮に還る。

 ヴェッサバナ天王に常に、五大鬼神ありて左右に侍衛する、
 一 ハンジャル、二 ダンダラ、三 ケイマバツダ、四 ダイゲラ、五 シュウイツロマと名づく。
この五鬼神は常に随い、侍衛する。

ヴァッサバナ(毘沙門)天王の福法、功徳、威神はこのようにしてある。




【三十三天(忉利天)】

・寿命千年(これ以上の寿命の者は少なく、これ以下は多い。他の天の寿命も同様)で、人界の三千六百万年に相当し、この天の一日は、人界の百年に相当するとされる。四大王天の寿命で見れば、四倍の二千年。
・忉利天の身長は、一由旬(だいたい11km<28km>、以上)。衣の長さは、二由旬。広さは、一由旬。衣の重さは、六銖(3.6g程)。(銖は、両の24分の1:0.6g程)
・三十三天の交合は、身と身と相い近づき、気を以て交合(陰陽)をする。
・この天に初めて生じる衆生の容姿は、人間の二、三歳児のような容姿をしている。
・場所は、須弥山(スメール、スメル)の頂上に位置していて、須弥山の中程から上であるとされる。
・三十三天は帝釈天(インドラ神・サッカ・サクラ)が支配する、帝釈天は天帝として三十三神の主神である。
・天(デーヴァ)、超人的な鬼神等の意。
・帝釈天の宮廷(善見城)の内に、善法堂(善見堂)がある。
・帝釈天の宮廷にも仕える乾闥婆(けんだっば・ガンダルヴァ)は、半神で音楽を奏でる、天上の楽士。時に、上半身が人間で、下半身が鳥の姿であるとされ、多くの眷属がいる。通常の食物を食わず、香りを食す、食香。緊那羅とともに帝釈天に仕えて音楽を奏する。緊那羅は人語を為さない。



『須弥山の頂上に三十三天の城があり、縦広八万由旬、その城は七重にして、高さ百由旬、上広は六十由旬、城門の高さ六十由旬、広さ三十由旬。
そこから、五百由旬に一の門があり、その一つ一つに五百の鬼神ありて、三十三天を守侍し護衛する。金城に銀門、銀城に金門がある。
 その大城の中に小城ありて、その城は七重にして、縦広六万由旬、高さ百由旬、広さ六十由旬である。
 そこから、五百由旬に城門があり、高さ六十由旬、広さ三十由旬である。
 一つ一つの城門に五百の鬼神ありて、門側を侍衛し、三十三天を守護する。
 金城に銀門、銀城に金門があり、水精城に琉璃門、琉璃城に水精門、赤珠城に馬瑙門、馬瑙城に赤珠門、シャコ城に衆宝門がある。
 金樹があり、金枝、銀葉花実。銀樹があり、銀枝、金葉花実。水精樹があり、水精根枝、琉璃花実。琉璃樹があり、琉璃根枝、水精花実。赤珠樹があり、赤珠根枝、馬瑙花実。馬瑙樹があり、馬瑙根枝、赤珠花実。シャコ樹があり、シャコ根枝、馬瑙花実である。

 七重の城は、城に四門あり、城の上に皆、楼閣、台観あり、周囲に囲まれた園林浴池があり、諸々の色とりどりの宝花を生じている。宝樹は行列し、華果は繁茂する。香風は四たび起こりて人心を悦ばせる。様々な奇鳥は、無数千種、相い和して鳴く。

 小城の中間に、エラーパタ龍王の宮ありて、宮の塀は、七重にして、縦広六千由旬である。

 善見城の内に、善法堂があり、縦広百由旬である。その堂の下基は純ら真金を以て、上は琉璃に覆われている。堂の中の柱は、周り十由旬、高さ百由旬である。柱の下に、天帝の御座があり、縦広一由旬である。色とりどりにして、七宝を以て成る。その座は柔軟にして、天衣のようであり、座の両辺左右に十六座あり、堂に四門ある。無数の衆鳥が相い和して鳴いている。

 堂の階道は、縦広五百由旬であり、門の壁は七重である。

 善見堂の北に帝釈の宮殿あり。縦広千由旬である。宮の塀は七重である。無数の衆鳥が相い和して鳴いている。

 善見堂の東にパールサカーという園林あり。縦広千由旬である。園の塀は七重であり。無数の衆鳥が相い和して鳴いている。
 パールサカー園(粗渋園)の中に、石を積んだ腰掛があり、天金は飾られ、一は賢、二は善賢と名づく。各々縦広五十由旬である。その石は柔軟にして、天衣のようである。

 善見堂の南にチッタラタという園林あり。縦広千由旬である。園の塀は七重であり。無数の衆鳥が相い和して鳴いている。
 チッタラタ園(画楽園)の中に、石を積んだ腰掛があり、七宝によりて成り、一は昼、二は善昼と名づく。各々縦広五十由旬である。その石は柔軟にして、天衣のようである。

 善見堂の西にミッサカーという園林あり。縦広千由旬である。園の塀は七重であり。無数の衆鳥が相い和して鳴いている。
 ミッサカー園の中に、石を積んだ腰掛があり、七宝によりて成り、一は善見、二は順善見と名づく。各々縦広五十由旬である。その石は柔軟にして、天衣のようである。

 善見堂の北にナンダナという園林あり。縦広千由旬である。園の塀は七重であり。無数の衆鳥が相い和して鳴いている。
 ナンダナ園の中に、石を積んだ腰掛があり、七宝によりて成り、一は喜、二は大喜と名づく。各々縦広五十由旬である。その石は柔軟にして、天衣のようである。

 パールサカー園とチッタラタ園との中間に、ナンダナ池がり、縦広百由旬であり、その水は清涼にして、汚れることがない。
 池の四面に四の橋があり、池の中に四種の花が生じている。青、黄、赤、白、紅、水色、色とりどりにして、その一花葉は、一由旬を覆う。香気はふくいくとして一由旬に聞こゆ。
 根は、車轂のように大きく、その汁は流出し、色は乳のように白く、味は蜜のように甘い。

 また、ミッサカー園とナンダナ園の二園の中間に、昼度という樹がある。周り七百由旬、高さ百由旬、枝葉は四布すること五十由旬である。樹外の空亭は、縦広五百由旬である。宮の塀は七重であり、無数の衆鳥が相い和して鳴いている。

 その他の、忉利天の宮殿は、縦広千由旬であり、宮の塀は七重であり、無数の衆鳥が相い和して鳴いている。
 また、その他諸々の宮殿は、縦広九百由旬、八百由旬、最小で百由旬である。宮の塀は七重であり、無数の衆鳥が相い和して鳴いている。
 諸々の小天宮は、縦広百由旬、九十、八十由旬のものもあり、小さいもので十二由旬である。宮の塀は七重であり、無数の衆鳥が相い和して鳴いている。

 善見堂の北に、二の階道があり、帝釈の宮殿にいたる。
 善見堂の東に、二の階道があり、パールサカー園にいたる。また階道がありて、チッタラタ園にいたる。また、階道がありて、ミッサカー園にいたる。また階道があり、ナンダナ園にいたる。
 また、階道があり、ナンダナ池にいたる。また階道がありて、三十三天の宮にいたる。また、階道がありて、諸々の天の宮にいたる。また階道がありて、エーラパッタ龍王の宮にいたる。


 天帝釈がパールサカー園の中に遊観しようと欲する時は、三十三天を念ず。
 三十三天はそれぞれ、天帝釈が自らを念ずるのを知りて、自ら荘厳し、それぞれの諸天衆に囲まれて、天帝釈の元に集う。

 エラーパタ龍王もまた、天帝釈が自らを念ずるのを知りて、自ら身を変じて、三十三の頭を出す。各々頭に六の牙あり、各々牙に七の浴池があり、各々の浴池に七の蓮華があり、各々の蓮華に百の葉があり、各々の花葉に七の玉女があり、鼓を楽し、弦楽器に合わせて歌い、その上に手を打ちて舞っている。 時に龍王は、この化作をしおわりて帝釈の元に集まる。

 時に、天帝釈は、諸々の宝飾、瓔珞を見つけて、エラーパッタ龍王の第一の頂の上に坐す。両辺に、十六の天王も龍の頂にありて坐す。
 時に、天帝釈は、無数の諸天と眷属とともに、囲まれてパールサカー園に詣る。


 自然に風ありて門を吹き、自ずから開く。
自然に風ありて、地を吹き、浄らかならしむ。自然に風ありて花を吹き、地を散らし、多くの花は積もり、花は膝までに至る。
時に天帝釈は、賢と善賢の二の石の腰掛の上において、随意にして坐す。三十三天王も各々坐す。

 そこに、他の諸天があり、天王に侍従することを得られず、五欲の娯楽することを得られない者もいる。それは何故であるのか。
それは、過去に成した善行の功徳が同じではない、ことに由る。

 また、他の諸天があり、園林を見ることを得て、しかも入ることができず、五欲の娯楽することを得られない。それは何故であるのか。
それは、過去に成した善行の功徳が同じではない、ことに由る。

 また、他の諸天があり、園林を見ることを得、入ることができるが、しかし、五欲の娯楽することを得られない。それは何故であるのか。
それは、過去に成した善行の功徳が同じではない、ことに由る。

 また、他の諸天があり、園林を見ることを得、入ることができ、五欲の娯楽するを得る。それは何故であるのか。
それは、過去に成した善行の功徳が同じである、ことに由る。


 このように、園の中に遊戯し、五欲の自ら娯しむこと一日、二日、乃至七日に至る。相い娯楽しおわりて、各々自らの宮に還る。
彼の天帝釈の、チッタラタ園、ミッサカー園、ナンダナ園に遊観する時も、また同様である。


 何故に、パールサカー園(粗渋園)と名づくのであるか。この園に入るとき、身体は粗渋であるからである。

 何故に、チッタラタ園(画楽園)と名づくのであるか。この園に入るとき、身体に自然に種々の画色がありて、これを以て娯楽するからである。

 何故に、ミッサカー園(雑園)と名づくのであるか。常に月の八日、十四日、十五日を以て、阿修羅の女を除いて、諸々の婇女を放ち、諸々の天子とまじり遊戯する。この故に、雑という。

 何故に、ナンダナ園(大喜園)と名づくのであるか。この園に入るとき、娯楽し歓喜する、故に、大喜という。

 また、何故に 善法堂と名づくのであるか。この堂の上において、妙法を思惟し、清浄の楽を受く。故に善法堂と名づく。

 また、何故に、昼度樹と名づくのであるか。この樹に漫陀という名の神があり、常に伎楽を作し、以て自ら娯楽する故に、昼度と名づく。


 天帝釈の左右に、常に十大天子がありて、随従し、侍衛する。
 一 インダラ、二 クイ、三 ビル、四 ビルバダイ、五 ダラ、六 バラ、七 ギバ、八 レイケイカイ、九 モツラ、十 ナンズ、と名づく。

 天帝釈にこのような大神力があり、威徳はこのようにしてある。』



〚天の十法〛あり、

 一、飛び去ることに限数無し。
 二、飛び来るに限数無し。
 三、去るに無碍〔障害するものがなく、自由自在〕。
 四、来るに無碍。
 五、天身に皮膚、骨髄、筋、脈、血、肉あること無し。
 六、身に不浄の大小便無し。
 七、身に疲労無し。
 八、天女は出産せず。
 九、天人の目はまばたきせず。
 十、身に随意の色ありて、青を好めば青、黄を好めば黄、赤、白、諸々の色は、意に随い現ずる。

 これらが、諸天の十法である。

 人に七色あり、ある人は金色、ある人は火色、ある人は青色、ある人は黄色、ある人は赤色、ある人は黒色、ある人は白色、
このように、諸天、阿修羅に七色ある。



〚光明〛

 諸々の比丘よ、蛍火の明りは、燈火に及ばない。燈火の明りは、タイマツの明りに及ばない。タイマツの明りは、たき火の明りに及ばない。
たき火の明りは、四天王の宮殿、城郭、瓔珞、衣服、身色の光明に及ばない。四天王の宮殿、城郭、瓔珞、衣服、身色の光明は、三十三天の光明に及ばない。
三十三天の光明は、閻摩天の光明に及ばない。三十三天の光明は、閻摩天の光明に及ばない。閻摩天の光明は、兜率天の光明に及ばない。
兜率天の光明は、化自在天の光明に及ばない。化自在天の光明は、他化自在天の光明に及ばない。
他化自在天の光明は、梵カーイカ⌠梵界⌡天の宮殿、城郭、瓔珞、衣服、身色の光明に及ばない。
梵カーイカ天の宮殿、城郭、瓔珞、衣服、身色の光明は、光音天の光明に及ばない。光音天の光明は、遍浄天の光明に及ばない。
遍浄天の光明は、果実天の光明に及ばない。果実天の光明は、無想天の光明に及ばない。無想天の光明は、無造天の光明に及ばない。
無造天の光明は、無熱天の光明に及ばない。無熱天の光明は、善見天の光明に及ばない。善見天の光明は、大善見天の光明に及ばない。
大善見天の光明は、色究竟天の光明に及ばない。色究竟天の光明は、地自在天の光明に及ばない。地自在天の光明は、仏陀の光明に及ばない。

 蛍火の明りより、仏陀の光明に至るまで、その所の光明を合集しても、〔四聖諦の光明〕苦諦の光明、苦集諦の光明、苦滅諦の光明、苦滅道諦の光明、に及ばない。
 この故に、比丘たちよ。光明を求めて欲する者は、まさに、〔四聖諦〕苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦滅道諦、の光明を求めるが善い。
まさに、このように修行するが善い。



〚三斎〛






〚守護神(守護霊)〛

仏陀は、比丘にこのように告げられた、
「一切の人民の所居の住宅に、みな鬼神(ヤッカ・夜叉)が有り。空なる者有ること無し。
 すべての大通りと小道。四つ辻(十字路)の道の中、屠殺人の市場、及び、墳墓の間にも、みな鬼神が有り。空なる者あることなし。
 凡そ、諸々の鬼神は、みな依りつく所に随いて、以て名を為す。人に依る者は、人と名づけ、村に依る者は村と名づけ、城に依る者は城と名づけ、国に依る者は、国と名づけ、土に依る者は、土と名づけ、山に依る者は、山と名づけ、河に依る者は、河と名づく。」

仏陀は、比丘にこのように告げられた、
「すべて樹木の、極めて小さな車軸のようなものにも、みな鬼神ありて依止する。空なる者有ること無し。
 一切の男子、女人が初始に生ずる時、みな鬼神ありて、随逐〔付きまとい〕し、擁護する。もしその随逐している者が死する時は、その守護の鬼は、その精気を摂り、その人は死す」

仏陀は、比丘にこのように告げられた、
「もし仏教以外の修行者がありて、問うて言うに『諸賢よ。もし一切の男女が初始に生ずる時、みな鬼神ありて随逐し、守護し、その死のうとする時に、その守護の鬼神が、その人の精気を摂りて、その人が死ぬのであるならば、何故に今の人は、鬼神のために、まといついて悩まされる者あり、また、鬼神のために、まといついて悩まされない者がいるのですか』と。

 もしこの問いがあれば、汝らは、彼に答えて言うが善い、
『世の人は、非法の行を為し、邪見、転倒し、十悪業を作す。このような者は、百、もしくは千、もしくは一神護があるのみ。
 譬えば、百、千の群の、牛や、羊に、一人の守護の牧者がいるように、彼もまた、そのように、非法行を行い、邪見、転倒し、十悪業を作す。このような者は、百、もしくは千、もしくは一神護があるのみ。
 もし人ありて、善法を修行し、見正しく信行し、十善業を具せば、このような一人に、百千の神の守護がある。
 譬えば、国王、国王の大臣に百千人ありて、一人を衛護するように、彼もまたこのように、善法を修行し、十善業を具する、このような人に、百千の神の守護がある。
 この縁を以ての故に、世人は、鬼神のために、まといついて悩まされる者もあり、鬼神のために、まといついて悩まされない者もある』と。」



〔《説明 鬼神(夜叉・ヤッカ)は、夜叉という音訳の示すように鬼神の一種として、北方の神のヴェッサバナの配下に属する鬼神を夜叉・ヤッカと言うが、鬼神(夜叉・ヤッカ)とは、もとは神的存在、霊的存在の事柄を、まとめて、鬼神(夜叉・ヤッカ)とも言った。》

 要するに、譬えば、悪行者に対しては、その担当の守護霊が、百、もしくは千、または、見放してしまい守護より離れるので、大勢にたいして、担当の護神が一人だけつく、というような、そのような場合は、守護霊というか、単なる担当の霊のようなものでもあり、
 善行者にたいしては、その人の善心を見て、善へと導いてあげよう、という善神の善意も加われば、単なる担当の霊ではなくて、導きのための守護神としてあり、さらに他の大勢の善神もその守護に加わることによりて、大勢の守護神・守護霊の守護がある、というような事柄。

 また、譬えば、守護があるかどうかは、悪心によりて、悪行を繰り返し行なうようであれば、守護の霊ではなく、悪しき霊・悪しき導きに憑かれて、善念に応じる力がなくなり、善への導きも弱くなり、守護は少ない、と考えてみた方が善いがだろう。ゆえに、悪処・地獄へ堕ちる悪業を重ねもする。これは、善なる守護・善道への導きに薄い、または善なる守護・善道への導きにない状態。
 守護がなされていて、善なる神霊の守護や導きがあれば、善処・天へ赴く善業を重ねもするだろう。こちらは、善なる守護・善道への導きにある状態。
 そのように、善念であれば、善なる神霊の善念に同調し、終いに善行をも作す。悪念であれば、悪魔・悪霊の悪念に同調し、終いに邪行をも作す、と。〕


〔樹神は、世間の話で言えば、例えば、工事現場で樹を切り倒そうとしたならば、事故が起こり、また再び樹を切り倒そうとしたならば、事故が起こり、再三、再四繰り返し、人々がおびえ、ついにその樹は、切られずに残した。というような話は、日本中に、それほど多くはないかもしれないが、いくつか見られる話だろう。そのような話のように、樹に依る霊が、樹を切らすまいと怒るということもある、と。

 そのように鬼神はいたるところに存在する、と。

 また、譬えば、辺鄙なところに小さな社を住まいとしている鬼神がいるとしよう、
ある日の夜、肝試しと称して、若者数人が、その社にやって来て、突如として社を、壊して帰っていったとする。

 このような場合、そこに住んでいた鬼神は、果たして怒るだろうか。

 これは、譬えば、あなたの家に、肝試しと称して、若者が数人やってきて、突如として壁や床にイタズラ書きをして、さらに、壁や、しょうじに、孔をたくさん開けて騒いでいる、として考えたならば、
 さて、そのように、自分の家に、若者が勝手に入ってきて、イタズラ書きをして、さらに、壁や、しょうじに、孔をたくさん開けて騒いでいるならば、あなたは叱るだろうか。

 そのあなたの気持ちと同じように、鬼神・神霊・幽霊も、自らの依る所、また、依り代としているもの等に、イタズラしたり、壊したり、肝試ししたりするらなば、怒る鬼神は怒る、というのも理解できるだろう。

 霊的な存在は、種別や善悪にもよるけれども、人間とは全く異なる感情や考え方を持っている、というわけでもない。
それは、樹神も同様である。〕




【夜摩天】

・寿命二千年で、人界の一億四千四百万年に相当し、この天の一日は、人界の二百年に相当するとされる。三十三天の寿命で見れば、四倍の四千年。
・夜摩天の身長は、二由旬(だいたい22km<56km>、以上)。衣の長さは、四由旬。広さは、二由旬。衣の重さは三銖(1.8g程)。
・夜摩天の交合は、身と身と相い近づきて、交合(陰陽)をする。 夜摩天より上位の欲界天は、場所が須弥山よりも、更に上に位置していて、空中の空居天であるとされる。
 空居天にたいして、四大天王と三十三天を、地居天といい、地居天・空居天の各天の占める層の距離は、四万二千由旬とされる。

・この天に初めて生じる衆生の容姿は、人間の三、四歳児のような容姿をしている。
・夜摩天に須夜摩天(スヤーマ)という王がいる。スヤーマは、ヤマ夜摩天王(ヤーマ天王・ヤーマー天王)の子のことであるとも言われる。
 夜摩天はヤーマ天・ヤーマー天、夜摩天王はスヤーマ天王、ヤーマー天王・ヤーマ天王。(地獄の閻摩王はヤマ・ヤマ王・エンマ王)



【兜率天(兜術天)】

・寿命四千年で、人界の五億七千六百万年に相当し、この天の一日は、人界の四百年に相当するとされる。三十三天の寿命で見れば、四倍の八千年。
・兜率天の身長は、四由旬(だいたい44km<112km>、以上)。衣の長さは、八由旬。広さは、四由旬。衣の重さは一銖半(0.9g程)。
・兜率天は、手を執りて、交合(陰陽)をする。
・この天に初めて生じる衆生の容姿は、人間の四、五歳児のような容姿をしている。
・サンツシタ(サントゥシット)という王がいる。仏陀となるべき菩薩の住処とされ、現在、弥勒菩薩がここで説法しているとされる。



【楽変化天(化自在天)】

・自分の欲する”楽を化作する”という意味の名の天で、自らの欲するものを自由に化作して楽しむことができる。
・寿命八千年で、人界の二十三億一千六百万年に相当し、この天の一日は、人界の八百年に相当するとされる。兜率天の寿命で見れば、四倍の一万六千年。
・楽変化摩天の身長は、八由旬(だいたい88km<224km>、以上)。衣の長さは、十六由旬。広さは、八由旬。衣の重さは一銖(0.6g程)。
・楽変化天は、熱視して、交合(陰陽)をする。
・この天に初めて生じる衆生の容姿は、人間の五、六歳児のような容姿をしている。
 下の四天界では、配偶者が定まっているが、ここではこれをも自分の望み通りに化作して楽しむと言われる。
・スニミッタが統治しているとされる。



【他化自在天(他化自在天)】

・寿命一万六千年で、人界の九十二億一千六百万年に相当し、この天の一日は、人界の千六百年に相当するとされる。楽変化天の寿命で見れば、四倍の三万二千年。
・他化自在天の身長は、十六由旬(だいたい176km<448km>、以上)。衣の長さは、三十二由旬。広さは、十六由旬。衣の重さは半銖(0.3g程)。
・他化自在天は、しばらくの間視て、交合(陰陽)をする。


・”自分の思い通りに、他人に化作させる”という意味の名の天で、自らで化作しなくても、従者が化作したものを、思いのままに楽しむとされる。
・この天に初めて生じる衆生の容姿は、人間の六、七歳児のような容姿をしている。
・ヴァサワッティーが統治しているとされる。
・他化自在天(の衆生)と、魔天(の衆生)とは別。



[魔天]
・他化自在天の、欲界の魔王の住するところを魔天という。(他化自在天と、梵カーイカ天宮の中間の場所ともされる。)
・魔王は、魔(Ma-ra)波旬(pa-pima-、pa-piyas.)をさす。(魔王は、インドラに殺された悪魔Namuciを言うこともある。)
・魔王波旬は、前世の善業によりて、現在の地位にあるとされる。




〈天における享楽〉
『天の楽は、人間の楽よりあらゆる面で優れていて、それは、草の上の露と、大海の水のように大きな違いであるとされる。

 三十三天の善見という都は、須弥山の頂上にあって、直径千由旬と言われる。その都の東にあるナンダナ林という園は、死期の近づいた天神ですら、死を忘れて楽しむことができる園であり、青葉や花の咲き競っている木々の間を天子や天女が遊歩していることが、この園の瑞相の一つである。
 この園と都の間にマハーナンダ、チューラナンダという二つの美しい池があり、それを眺める天神の群れや、池辺にちりばめられている種々の宝石によりて、更にその池は荘厳されているのである。都の南にも、西にも大池がや園があり、彼らの善業によりて得られた天宮も、光り輝く金殿玉楼である。
 すべての天子は二十歳、天女は十六歳のまま、その美しさが衰えることはない。そして、これらの天宮と天人の美しさに差はあるが、それは、その天人の過去の善業の程度によるとされる。
 また、彼らの食物は天食であるから、体の中は、大便や小便などの、すべての不浄な物がなく、月経も生じない。
 六欲天では、男女の交わりは、人間と異ならないが、不浄な精液を排出せず、諸天によりて異なる。
 そして、天女に妊娠がなく、子は母親の膝や、寝台の上に出現するのである。
 また、使用人となっている天人は、自分の天宮はない。
 天は人間界のように恋愛・見合い結婚もあり、また、天宮は、あっても夫のいない淋しい天女もいるという。
 このように五欲の楽しみが極まっているので、五欲を厭う、阿那含向と阿羅迦向は、天界に長く留まらないで、阿那含果は色界の浄居天に往生し、阿羅迦果は涅槃するのである。』

 また、天界にいる諸菩薩は、波羅蜜を行ずる機会がほとんどないので、人間界に生まれ変わって波羅蜜を満たそうとする。しかし、善業を積む事ができる天界もあり、それは、三十三天にあるチェーラーマニという、仏舎利塔と、スダンマという公会堂である。
 この中の塔は、高さが一由旬の、エメラルド製の大塔である。その中に、仏陀が菩薩であった時の髪の毛と、仏陀の右の仏歯が安置されている。信仰の深い天人等は、他の天のように五欲を楽しむ代わりに、塔に参拝したり、花などを供養して波羅蜜を行じるのである。

 この公会堂(善法堂)のそばに、パーリッチャッタカという樹があり、その花の香りが、公会堂の中にまで漂ってくる。その公会堂の真ん中に説法の席が設けられていて、それに白傘がさしかけられ、周りに帝釈天、パジャーパティ王、ヴァルナ王、イーサナ王などの、三十三天衆の席が列なっている。

 四カ月に一度の説法の時が来ると、帝釈天自身が吹き鳴らす法螺貝の音が、善見の都中に鳴り渡り、天衆が公会堂(善法堂)に集まり、公会堂中が彼らの著けている宝石や花の光によりて輝く。
 そうして、その公会堂において、帝釈天自身が説法をしたり、説法に優れた天人が説法をする、また、梵天界から降りてきた”サナンクマーラ”という梵天が説法をしたこともある、とされる。』




【色界(善趣)地】

・色界に、初禅地、第二禅地、第三禅地、第四禅地がある。
・色界の諸天を総称して、梵世界ともいう。(また更に、無色界の諸天をも総称して、梵世界ともいう。)
・欲界地より上位の諸天は禅定喜楽を以て食とする。
・色界梵天の天宮や園などの種々の受用財は、欲界天より勝れていて、梵天衆もそれらを同じように楽しむ。
・色界天より上位は、前世において禅を修習し、五欲を厭離しているので、欲界天のように男女の交わりを楽しむことなく、淫欲無し。
・色界地の梵天は、異性・男女は無く、男の姿をとる。
・色界地の梵天は、食物を食べず、喜びを食とする。内の食素はあっても、外の食素と結合せず、食生聚を得ない。
・色界地の梵天は、眼・耳・基十集と命九集の四色聚のみが得られる。
・色界地の梵天は、欲貪の基となる、鼻・舌・身・性十集、等の色聚がない。
・色界地の梵天は、身体全体を形作る色は、人のように身十集、性十集ではなく、命九集である。
・他化自在天と初禅天との距離は、550万8千ヨージャナとされ、他の色界禅天間も同様である。
 色界梵天界と地上間の距離は、譬えれば、梵天上より巨大な石を投じれば、地上まで到達するのに十二年にして到る。<雑一>
・無想有情天に、聖者は得られない。
・浄居天を除いた色界善趣地は、聖者も、非聖者も得られる。
・浄居地(浄居天)は、凡夫、預流、一来は得られず、不還果、阿羅迦道、阿羅迦果の三種の聖者のみが得られる。
・梵天等は、たとえば、この色界(善趣)地を、梵天になる以前に、遍浄光天で六十大劫生存して、その後、小光天で二大劫生存して、その後、少浄光天、その後、梵天としての生存を受けるとする。そのように、長い期間、善趣を廻り、流転輪廻してすごした結果、昔のことを忘れてしまい、”常住である”というように思い込んでしまう、という梵天もいる。とされる。

・預流果(須陀洹果)は、多くとも(少なくとも)七度人間界と天界を往来した後、覚りに達するとされる。

 梵世界に生ずるのに限定はないとされる、と記していたが、
 限定に関しては、限定はない、のではなく、限定は定かではない、とする。




【初禅地】  

・〈梵身天〉、梵衆天(梵身天)、梵輔天、大梵天がある。
・大梵天は、梵衆天・梵輔天より勝れた梵天の住する天界であり、梵輔天は、大梵天を補佐する梵天の天界であり、梵衆天は、大梵天に従う衆が住している天界である。
・梵衆天:寿命阿僧祇劫の3分の1、梵輔天:寿命阿僧祇劫の2分の1、大梵天衆:寿命1阿僧祇劫とされる。
・禅・神通を得て、色界に生まれ、長寿・楽住などの徳によりて、人間や、六欲天よりも、更に勝れている天人が梵天である。

 これらの三天は、初禅を得た、色界の梵天の住む処であるから、初禅地という。
 ここに住む天衆は、上下の層に分かれることなく、初禅地という同層に入り雑じって住しているのである。
 この天から上位の天は、欲界の淫欲を離れて、寂静清浄である。



【第二禅地】

・〈光天〉、少光天、無量光天、光音天(発光天・極光浄天)、がある。
・少光天:寿命2大劫、無量光天:寿命4大劫、光音天(発光天・極光浄天):寿命8大劫〔又は、寿命2大劫〕。〔寿命は経によりて異なる。〕
〔大梵天衆は、住劫の次の壊劫によりて、寿が尽きるので、1阿僧祇劫となり、第二禅地より上位天衆からは、壊劫においても、寿は尽きず、大劫を住するので、第二禅地天からは、大劫となる。〕
・各天衆は、上下の層をなしているのではなく、同じ平面に住している。
・各天衆は、初禅地における関係と同じように、衆・輔・王と同様である。

・発光天は、体から発する光が雷雲から発するイナズマのような天衆が住する天界である。
 この天の衆生が光を発するのは、彼らの得ている第二禅である喜倶禅によりて、体全体に心起因色が生じ、それが光となって輝くのである。



【第三禅地】

・〈浄天〉、少浄天(少浄光天)、無量浄天(無量浄光天)、遍浄天(遍浄光天)、がある。
・少浄天(少浄光天):寿命16大劫、
 無量浄天(無量浄光天):寿命32大劫、
 遍浄天(遍浄光天):寿命64大劫〔又は、寿命3大劫〕とされる。



【第四禅地】

・〈嚴飾天〉,〈小嚴飾天〉,〈無量嚴飾天〉、広果天(果実天)、無想天(無想有情天)、〈無雲天(無造天)〉、と、
 ⦅浄居地:無煩天(不捨天)、無熱天、善見天、善現天(大善見天)、色究竟天(無劣天・有頂天・阿迦尼咤天)⦆がある。
・広果天(果実天):寿命500大劫〔又は、寿命4大劫〕、
 無想天(無想有情天):寿命500大劫、(この無想有情天の存在は、石の像のようにそのままの存在として長くあり、この天に聖者は得られない。)
〈無雲天(無造天):〔寿命1千大劫〕、福生天〉、

⦅浄居地
 無煩天(不捨天):寿命1千大劫、
 無熱天:寿命2千大劫、
 善見天:寿命4千大劫〔寿命3千大劫〕、
 善現天(大善見天):寿命8千大劫〔寿命4千大劫〕、
 色究竟天(無劣天・有頂天・阿迦尼咤天):寿命1万6千大劫〔寿命5千大劫〕とされる。

 浄居地は、不還果、阿羅迦道、阿羅迦果のみが得られて、仏陀は過去世においても、浄居地にだけは結生していない。⦆



〚劫に四種〛あり。(註釈により異なる)

 寿劫(小劫)〔人寿から阿僧祇劫の間〕、
 中劫〔人寿が阿僧祇歳から十歳に到るまでの期間(減劫<1小劫>) + 人寿が十歳から阿僧祇歳に到るまでの期間(増劫<1小劫>)、の<小劫> + <小劫>とを合わせて、中劫という〕、
 阿僧祇劫〔64中劫を、1阿僧祇劫といい、その阿僧祇劫に、成劫(生劫)、成住劫(堅劫)、壊劫、壊住劫(空劫)、の4種がある〕、
 大劫〔成劫(生劫) + 住劫(堅劫) + 壊劫 + 空劫、の4種の阿僧祇劫を合わせた、4阿僧祇劫を大劫という〕がある。

 また、大劫を80小劫として分け、その内の20小劫を、1中劫として、成劫(生劫)+住劫(堅劫)+壊劫+空劫、の4の中劫を合わせて、大劫とする説もある。
 また、大劫の4の中劫のうち、住するのが、住劫のみであるとして、住劫(賢劫)をもちて、(4中劫の)大劫と称することもあり。
 また、1阿僧祇劫、または、1中劫を、そのまま、大劫と称する説もあり、
 また、仏陀は、20中劫を1大劫としても説かれている。

(また、仏種姓経においては、ディーパンカラ(燃燈)仏陀は、四阿僧祇劫と十万劫の昔に出現したとされるので、阿僧祇劫に含まれる劫数もまた、他の説と異なりあり。)

(成劫・成住劫(賢劫)・壊劫・壊住劫、を四種の中劫として、四種中劫を大劫として、また、賢劫の64中劫での64大劫を1阿僧祇劫とするとどうか。
 というのは、劫に関しては、手元の仏教辞典にも、明確に記されてはいない。)



 成劫(生劫)は、世界が生じ増大していく時期をいう。
 住劫(成住劫・堅劫)は、成就したものがそのまま存続していく時期をいう。(住劫中に、多くの聖者・賢人が出現するので、賢劫ともいう。)現在は、仏陀の出現されたこの住劫(賢劫)期である。
 壊劫は、世界が破壊していく時期をいう
 空劫(壊住劫)は、破壊した後の空寂が続く時期をいう。


 壊劫は、火、水、風によりて壊れる壊劫があり、
 火災によりて破壊される火壊劫と、火壊劫が7回の後、水災(水壊劫)が1回。これを繰り返して、火壊劫と水壊劫とで63回の壊劫の後、64回目の壊劫は、風災(風壊劫)によりて世界が破壊する。

 火壊劫の時は、初禅地(光音天より下の境界地)まで破壊し尽くされ、水壊劫の時は、第二禅地(遍浄天より下の境界地)まで破壊し尽くされ、風壊劫の時は、第三禅地(果実天より下の境界地)まで破壊し尽くされる。

『壊劫が始まり、世界の破壊が始まる10万年前になると、ローカヴューハという欲界天衆が赤い衣を着て、髪の毛を乱し、涙を拭きながら、人界を回って世界の破壊が近づいたことを知らせるのである。「諸君、10万年後、この世界は大地から梵天界に至るまで、あらゆる物が滅びてしまう。そのために慈・悲・喜・捨の梵住を修め、両親によく仕え、年長者を敬うべきである」と、このように忠告するのである。水壊劫の時も、ローカヴューハ等が予め注意を促す。
 これを聞いた世界中の人々や地神は、怖れおののき、真剣に梵住を修めるから、死後欲界天などに生まれる。また、地獄の衆生の中、決定邪見者を除いたすべての者と畜生とは、過去の業によりて、自ずから人界や欲界天に生まれる。なお、無間地獄に堕ちた決定邪見者や地獄での寿量の残りを、破壊されない別の世界の地獄に移って過ごさねばならない。
 このようにして、欲界天に生まれた人々は、通常の場合のように、五欲を楽しむことはせず、懸命に修行に励むから、禅を得て死後に破壊の力の及ばない発光天などに生まれる。

 このように有情が梵天に生まれ終わって太陽が西に沈んだ時、東に元の太陽より熱い第2の太陽が現われる。この太陽の熱によりて、サラッワティーなどの500の小河川の水は涸れてしまう。このようにして二の太陽によって夜がなくなった後、第3の太陽が現われ、






〚宿住を随念する人〛に、六種あり、

 外学、普通の声聞、大声聞、第一声聞、辟支仏、仏陀である。

〔宿住随念とは、宿住を随念する所の念を宿住随念という。すなわち、一生をも、二生をも、三生をも、十生をも、百生をも、千生をも、百千生をも、多くの壊劫をも、多くの成劫をも、多くの壊成劫をも随念する。「私は、そこに於いて、このような名で、このような姓で、このような容貌で、このような食物を摂り、このような苦楽の享受者、このような寿量にてありき。その私は、それより死してそこに生じた。その処に於いても、私は、このような名で、このような姓で、このような容貌で、このような食物、このような苦楽の享受者、このような寿量にてありき。その私は、そこより死してここに生じた」と、多くの宿住の様相や、素性を随念する。〕

〔(仏教での)宿住随念は、主に、色界第四禅に属する安止心であり、この安止心と共に生起する所の宿住随念をいい、聲聞・辟支仏・仏陀の宿住随念を意味する。
 ゆえに、隋念するとは、五蘊を次第に辿りても、随念し、または、死と結生とに随い行きても憶念することをいう。
 現世の過去を遡って視る智は、遍作(準備)定智といい、これは、欲界(心)定であり、これを過去分智であるという人もいるが、その過去分智を色界定に関するものとして、過去分智と名づけるのであれば、遍作定智は欲界定であるが故に、それは不適当である。
 結生を過ぎて、(前世の)死の刹那に作用する名色を所縁として、かの比丘に意門転向(心)が生起し、それが滅した時、その同じ名色を所縁として、四、または五の速行(心)が速行する。
 その中の最初の三、または、四速行は、遍作(・近行・随順・種姓)等と名づく欲界(心)であり、その最後の一速行が色界第四禅に属する安止心であり、その時、この安止心と共に生起する所の智が、宿住随念智(三明の一)である。その智と相応する念によりて、種々の宿住を随念する。〕


《外学》は、四十劫を随念する。何故であるのか、慧の弱きが故、すなわち、彼らは、名色の優劣を見極めることなきが故に、慧が弱い。
 外学の宿住の智見は、ほたるの明りのように現起し、盲者が杖の端にて行くかのように宿住随念する。
 外学は、五蘊を次第に辿りてのみ憶念することができ、次第に辿らなければ、死と結生とによりては、憶念することはできない。彼らは盲者のように欲する場所に、(自由に)入ることがないからである。譬えば、盲者が杖を離さずしてのみ歩くように、彼らは、五蘊を辿ることを離れずしてのみ、宿住を憶念することができる。

《普通の声聞》〔在家でも出家でも、仏陀の教えを聞く人(仏陀の教えを聞いて修習する人々)〕は、千劫をも随念する。それは、慧が強きが故である。
 普通の聲聞の智見は、燈光のように現起し、丸木橋を渡るかのように宿住随念する。
 普通の聲聞は、五蘊を次第に辿りても、随念し、死と結生とによりても跳入し憶念する。

《(八十の)大声聞》は、十万大劫をも随念する。
 八十の大聲聞の智見は、タイマツの光のように現起し、一時に、四十五人渡れる橋を渡り行くかのように宿住随念する。
 八十の大聲聞も、普通の聲聞と同様に、五蘊を次第に辿りても随念し、死と結生とによりても跳入し憶念する。

《第一声聞》〔仏陀の二大弟子:サーリプッタ尊者と、モッガラーナ尊者〕は、一阿僧祇劫と十万劫をも随念する。
 第一声聞の智見は、明星の光のように現起し、車が通る橋を行くかのように宿住随念する。
 第一声聞は、五蘊を次第に辿ることなし。ある身体の死を見ては、その結生を知り、さらに他の身体の死を見ても、その結生を知るというように、死と結生のみによりて跳入し行きて宿住を随念する。

《辟支伽仏陀》は、二阿僧祇劫と十万劫をも随念する。
 辟支仏の智見は、月光ように現起し、大歩道を行くかのように宿住随念する。
 辟支仏も、二大聲聞と同様である。五蘊を次第に辿ることなし。

《仏陀》は、劫数を随念するのに、限界なるものは無し。
 諸々の仏陀の智見は、千光を荘厳する秋の日輪のように現起し、大車道を行くかのように宿住随念する。
 諸々の仏陀は、五蘊を次第に辿ることもなく、死と結生とによりて跳入することもなし。
 諸々の仏陀は、数千万劫中の、後の時代も、また、前の時代も、憶念しようと欲するその場所は、すべてみな明瞭となるからである。
その故に、数千万劫をも省略文のように省略し、憶念しようと欲するすべての所に跳入し、跳入によりて、(堂々とそこに)行き、憶念し給う。
 そのように憶念したまう諸々の仏陀の智は、譬えば、髪を射貫くのに熟練した(サラバンガ〔菩薩〕のような)射手の、放ちたる矢が、途中の樹や蔓などに、邪魔されることなくして、必ず標的に当たり、妨げられず、違はないように、途中の諸々の生に妨げられず、目的に違はず、妨げられず、違はずして、憶念しようと欲するそれぞれの場所のみを捕らえる。
 仏陀が随念する場合、他人である仏陀の識によりても識り、はっきりと見分けられる。諸々の仏陀の随念は、諸々の仏陀にのみ得られる。




【無色界地】

・空無辺処天(空処智天)、識無辺処天(識処智天)、無所有処天(無所有処智天)、非想非非想処天(有想無想処智天)がある。
・識食、識を食とする。

【空無辺処天(空処智天)】:寿命2万大劫〔又は、寿命1万大劫〕、

【識無辺処天(識処智天)】:寿命4万大劫〔寿命2万1千大劫〕、

【無所有処天(無所有処智天)】:寿命6万大劫〔寿命4万2千大劫〕、

【非想非非想処天(有想無想処智天)】:寿命8万4千大劫がある。








大三摩惹経






















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